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 彼方の光景を頭に浮かべて念じる。それだけで、望む場所へと跳ぶことができる。
 ジャックは旅ブタを使うことで、エルフ地方へと訪れていた。
 聞こえてくる水のせせらぎ、木の葉の擦れ合う音、鼻をくすぐる野生の花々の匂いは、確か
に過去に感じたことのあるものだった。ジャックのすぐ近くでは、花の都へと通じる道を隠す
滝の瀑布が、水面へと落ちて飛沫を周囲へと振りまいていた。微かに肌にかかる冷たい飛沫は
心地よいもので、ジャックは過去にこの場所で妖精達と言葉を交わしたことを懐かしむように
思い出した。だが、それも僅か一瞬。
 続いて思い出したのは、この地が戦場に変わってしまった当時の事。清らかだったこの地は
血で汚れ、種族間の憎悪に塗れた。ジャックとて、何人もの妖精を切り捨てた。
 挑まれたから、斬った。――その考えに間違いがないことをジャックは理解している。そう
しなければ次の瞬間に殺されていたのは自分だったのだから。だが、後悔を感じていないと言
えば嘘になる。戦いが終わってから、ジャックはずっと居心地の悪さを感じていた。
 人であろうが、妖精であろうが、竜であろうが、その肌を切り裂き、肉に鋼鉄を食い込ませ
る感覚を、ジャックは好きになれなかった。あの当時も、今も。それどころか、時間が経つに
つれて、何ともいえない後味の悪さを感じていく。まるで絡みつく蛇のように心を縛るソレに
よって、ジャックは誰かの命を奪うと言うことの重さに気づいた。リドリーを助けたかったと
いう言葉は免罪符にはならない。そのことにも気がついた。ただ命が重いという純然たる事実
を、歯噛みしながらジャックは知ったのだ。
 だからラジアータを離れ、人から離れて旅をした。真実を欲した。何故争いが起こったのか、
何故あのような結末が訪れたのか、その理由を探すために。
「――結局、どういう星のめぐり合わせかは分からないけど、それで今こんな場所にいるんだ
から、俺のあの日々も無駄じゃなかったってことかな」
 呟いて、武装を確認する。数日の内に、この場所から緑森京へと向かうライトエルフが、ブ
ラッドオークに殺されることが戦争の引き金の一つとなった。だから、まずはそれを防がなけ
れば、あの血塗られた惨劇が繰り返される。
 ジャックは目を瞑って、一度大きく息を吸って呼吸を整えた。
 誰も傷つかない未来を、明確にイメージする。そして目を開いた。
「きっと、できる。――できるはずだよな」
 確認するような声に応える者はなく、その言葉は大気に溶けて消えた。


   /


 ほうほうと鳥が鳴く。遠くから聞こえるその声は梟だろうか。
 ジャックは一人でずっと、花の都から使者が派遣されるその瞬間を待っていた。街道から外
れて、森の中で気配を消して、その一瞬を待つ。浅く、長く、呼吸を周囲に同化させて、目的
の存在が姿を現す時を待ち続ける。
 既にダークエルフからの使者であるハイアンが花の都に入ったことは確認している。だから、
後はハップとハイアンが一緒に滝の入り口から姿を現すのを待つだけだった。
 長時間の監視からくる疲労により眠りについてしまわないように、意識を半覚醒状態に保っ
て、じっと花の都への入り口を注視する。
 そして――
「……やっと、来たか」
 待ち続けていた光景。滝の入り口から、ライトエルフとダークエルフの二人が姿を現す。
 その瞬間にジャックは休息させていた体を叩き起こした。そして、次の行動へと移るために
立ち上がった。


「……待って。誰かいるよ」
 ライトエルフのハップは、ザインからの伝令を受けて緑森京へと向かう途中、道の真ん中に
立ち尽くす怪しい影を見つけた。背丈から見て、恐らくは人間。ブラッドオークほど大きくも
なければ、ゴブリンのように小さくもない。
 隣を歩いていたハイアンも、その声を聞いて動きを止める。
「ホントだ。誰だろう?」
 その声からも、影がダークエルフではないことは容易に知れた。ハップは目の前に立ってい
る相手が人間である事を確信した。背中に何か細長い棒状の物を背負っていて、体を黒色に近
い茶色の外套で覆った人間。どこと無く、穏やかそうな雰囲気を持っている人間だった。
 と、そこまで相手を観察したところで、ハップは人影と目が合った。澄んだ鳶色の瞳が、ハ
ップ達の姿を捉える。
 人影は声を発した。
「珍しいな。こんな所でライトエルフの姿が見れるなんて」
 最初に抱いた第一印象と同じで、人影から発せられた声は少し子供っぽさを残していたが穏
やかなものだった。隣にいたハイアンも、別に身構えた様子も無く、きょとんとしている。
「君は誰?」
「俺か? 俺はアルフレッド。何処にでもいる、ただの人間だよ。――良かったら、どうして
ライトエルフとダークエルフが二人で、こんな場所を移動してるのか教えてくれないか?」
 語りかけながらアルフレッドと名乗った人間は、ハップ達に近づいてくる。人嫌いのライト
エルフの中では珍しく、人間に敵意を抱かないハップはその様子をゆっくりと眺めていた。
 まるで友人と話をしているような違和感を感じて、少しだけ困惑する。
「ちょっと緑森京に用事があるだけさ」
「緑森京? 二人は、緑森京へ行くのか?」
「そうだけど?」
「そうか、緑森京へ行くのか」
 頷きながら答えて見せると、そこでアルフレッドは少しだけ大げさに驚いて見せた。そして、
少しだけ悩んだような素振りを見せた後、続いて言葉を発した。
「実は、俺の目的地もそこなんだ。緑森京には特別に美味いワインがあるって聞いたから、向
かおうと思っていたんだよ。良かったら、俺もそこまで連れて行ってくれないか?」


   /


「……どうしようか」
「別にいいんじゃない?」
 ハップが尋ねると、ハイアンは軽くそう答えた。元々ダークエルフはライトエルフほど人間
に敵意を抱いていない。そのことを思い出した後、ザインからの伝令の内容を頭の中で反芻し
たハップは、逡巡した末に首を縦に振った。
「なら、僕もいいよ」
「そうか。ありがとう。感謝する」
 そう言ってアルフレッドは、自然な態度でハイアンとハップの横に並んだ。妖精種を初めて
見た人間は、興味深そうにじろじろと観察してくるものなのに、そんな様子もない。
(……妖精を見るのには慣れてるのかな?)
 内心でそう考えながらハップは、再び緑森京へと向かうために移動を開始した。
「少し急ぎの用事だから、早く移動するけど、それで良いよね?」
「分かった。体力には自信があるから、ペースはそっちで決めてくれ」


「さて、コインはどっちにあるか分かるか?」
 そう言ってアルフレッドはダコル硬貨を取り出して、軽く上へと放り投げた。そして落ちて
くる瞬間に両手を素早く動かして、どちらかの手でコインを握り締める。腕の動きが速すぎて、
ハップはどちらの拳にコインが隠されているのか分からなかった。
 隣を見ると、楽しそうな表情で悩みながら、ハイアンが唸っていた。
「右かな。……いや、あのコインの消え方を見るとやっぱり違う。左だ。左に間違いないね」
「そうかな? これが間違ってたら、お前の四連敗になるからな、ハイアン。よく考えた方が
良いんじゃないか?」
「そうやって確認するところが怪しいんだよ。これはもう、絶対に当たってるね。左だ!」
 ハイアンが自信満々にそう言って断言すると、アルフレッドはにやりと笑った。顔のパーツ
は大人びているのに、まるで悪戯っ子のような表情だった。
「残念。実は右だったんだ。――これでハイアンの四連敗が決定。五連敗すると、めでたく俺
にエルヴンワインをプレゼントする約束、忘れていないよな?」
「……分かってるよ。次は勝つから良いんだ!」
 移動を開始してから、まだそれほどの時間が経っていない。それなのに、いつの間にかアル
フレッドという人間は、違和感なく二人の間に溶け込んでいた。ハップはそれが不思議だった。
「ははっ、そうか。ならラストチャンスだ。外すなよ。――ほらっ」
 友達に語りかけるかのように、アルフレッドはハイアンに笑いかける。実に不思議で不可解
で、興味が尽きない。
「さて、今度も右手かもしれないな」
 そう言って、アルフレッドは歩きながらも両手をハイアンに突き出し――
「いや……賭けは一時中断だな」
 冷めた声。そこで急にアルフレッドは笑顔を消して、腰に手を伸ばした。自然な動作で、片
手剣を抜刀する。その刀身は陽光を受けて暗く煌く。
「ど、どうしたのさ?」
 状況を飲み込めなかった二人の内、ハイアンが怯えながらも尋ねた。今のアルフレッドから
は、先ほどまでのような親しみやすさが感じられず、その代わりに近寄りがたい拒絶感のよう
なものが溢れている。
「来るぞ。すぐ近くまで来てる。――そこから絶対に動くなよ」
「何が……」
 そうハップが尋ねようとした瞬間に、森の繁みの奥底から回答が与えられた。鼓膜を震わせ
るような咆哮。木々の向こう側から、獣の鳴き声などではない、そんな生易しいものではない
雄叫びが聞こえてきた。
 そして一瞬遅れて、凶悪な意思と赤い巨体を兼ね合せた生物が、事態を飲み込めていないハ
ップ達の前へと飛び出してきた。
「ブラッドオーク……ッ!」
 ハップは、死を覚悟した。
 まず最初に聞こえたのはブラッドオークの野太い咆哮。まるで空気を凍りつかせるようなそ
の雄叫びは、ハップとハイアンの動きを硬直させるには充分なものだった。事実、二人は混乱
のために逃げる事を忘れていた。そのままだったならば、確実に二人のどちらかが死ぬ。そん
な状況だった。
 ――だがそれも、実際に起きることは無かった。
 続いて発せられた、迎え撃つかのようなアルフレッドの裂帛の叫びが、ハップ達の硬直を解
き、そして襲い掛かろうとするブラッドオークの動きを止めた。巨体から放たれる押し潰すよ
うな強烈なプレッシャーが、ただ一人の剣士が喉元から発した声によって微塵に切り裂かれた。
 ハップ達二人の前に飛び出してきたアルフレッドは、壁になるかのようにブラッドオークの
前に立ち塞がった。そのぼろぼろになった茶色の外套を纏った背中を見つめながら、ハップは
アルフレッドが自分達を守ろうとしている事に気付いた。そして無茶だと思った。
 逃げて。そう言おうとして口を開いたときには、鈍い音がしていた。鈍器で肉が叩き潰され
たような音が、耳に染み付く。それが瞬きをする暇もないほどの間に二度、三度と繰り返され
る。ハップ達の目の前にはアルフレッドの体があるために、何が起こっているのかは見えない。
だが、ハップは間違いなくアルフレッドが死んだと確信した。そして、その予想を裏付けるか
のように、巨体が倒れこむような音がした。
 ……巨体が、倒れこむような音?
「無事か?」
 そして聞こえてきたのは、親しみの感じられる声だった。振り返ることなく背中を見せたま
ま、アルフレッドが尋ねてきていた。その声に、緊張は見えない。先ほどまでの冷酷な雰囲気
もない。アルフレッドは既にまったくの自然体になっていた。ブラッドオークの前に立ち塞が
った人間が、無傷で生きていたのだ。
「アルフレッド、……君は」
 ハップは恐る恐る少しだけ上空に飛び上がり、アルフレッドの前に存在している生物を観察
した。それは赤い巨体の、凶悪そうな生き物だった。ブラッドオーク。ライトエルフの中でも
何人がこの生き物を打倒できるかは分からない。そんな地上最強と考えられている生物が、だ
らりと全身を弛緩させて地面に倒れこんでいた。
 考えられる答えは一つだけ。たった一瞬、ほんの僅かな時間でこの生き物は倒された。目の
前で優しそうに笑っている人間によって。その解答にたどり着いた時、ハップは身震いするよ
うな恐ろしさを感じた。――目の前にいる人間は、途方もなく強い。
「どうした。具合でも悪くなったのか?」
 そしてかけられた声にも困惑する。あんなにも迅速に敵を倒しえる力を持っているのに、ア
ルフレッドは親しげだ。嘘や虚飾に塗り固められている言葉ではなく、本心から異種族である
ハップの心配をしていた。それはハップにも理解できた。――目の前にいる人間は、優しい。
「ううん。いや、何でもないよ」
 恐ろしさと、親しみやすさが混在する存在。それが人間。ハップはそのことを強く理解し、
戸惑い、そして惹かれた。
「――ただ少し、驚いてるだけだから」
「そうか。なら良いんだけどな」
 アルフレッドは大したことないように笑う。
 隣では、ようやく事態を飲み込み始めたハイアンが、地面に倒れてピクリとも動かないブラ
ッドオークを眺めて、凄い凄いといって騒ぎ始めていた。


   /


 緑森京。その場所でリドリーは一人、壁に体重を預けて、目の前を行きかうダークエルフの
姿を観察していた。肌の色、そして瞳の色を除けば、妖精種の中ではこのダークエルフが最も
人に近い。そういった意味では、ライトエルフとの講和のためにこの種族に仲介を頼んだのは
賢い手だ。そう考える。
「お、リドリー。何してんだ?」
 そこで思考を止める声が聞こえた。ジャック・ラッセル。新設されたばかりの桃色豚闘士団
の団員の一人で、音に聞こえた竜殺しの息子。その性格は極めて奔放で、でたらめで、無闇に
明るい。礼儀を知らず、まるで騎士に相応しいとは思えないが、その戦闘センスは時折目を見
張るべきものがある。幼少の頃から騎士となるために鍛えられてきたリドリーと、現時点で戦
闘における能力に差が無いという時点で、その生まれ持った才が伺える。
 それがリドリーが現在、ジャックに抱いている印象だった。
「ライトエルフ側から応答があるまで、何もすることがないからな。ここで時間を潰している」
「へえ。ってことは今、リドリー暇なのか?」
 ジャックは頭の後ろで手を組み、いかにも暇だと全身で主張しながら尋ねた。
「ああ。――それでお前は何をしているんだ?」
「リドリーと一緒。やることなくて暇だから、適当にうろついてて、そこでリドリーの姿を見
かけたから話しかけたんだ。――何か良い暇つぶしにならないかなって思ってさ」
「残念だが、やることがないのは私も同じだ。ここにいても、何も変わらないぞ」
「確かに。そうみたいだな。何も面白くない」
 ジャックは、リドリーと同じような体勢で行きかうダークエルフの姿を眺めていたが、どう
やら飽きたらしい。直ぐに観察を断念して、天井を見上げる。
「あーあ。何かやることないかな。――って、そうだリドリー。今暇あるよなっ?」
「……何だ。いきなり騒ぎ出して」
 突然の話題転換に、少し戸惑う。
 それまで気の抜けたような顔をしていたかと思えば、次の瞬間には悪戯を思いついたような
笑みを浮かべてこちらを見つめる。そんなジャックが、リドリーは少し苦手だった。
「なあ、ちょっとこの近くで一緒に訓練しないか? この近くだったらポインチュラとかマダ
ラムシとかいたはずだからさ」
「訓練、だと? そんなものはお前一人でやればいいだろう」
 その提案に惹かれなかったリドリーは、ジャックを適当にいなそうと考えた。が、それより
も早くジャックは次の手を打ってきた。
「ははーん。リドリーは怖いのか。団長がいないと戦えませーんってことだろ?」
 直球の皮肉。侮ったような表情を浮かべて放たれたその言葉は、リドリーの自尊心を奮い立
たせるには充分なものだった。
「何だと?」
「あの時会ったアルフレッドも言ってたよな。リドリーはまだ素人に毛が生えた程度の実力し
かないって。それが自分でも分かってるから、一人では怖くて戦えないんだろ?」
 ジャックは調子に乗って挑発を続ける。その様子は、端的に言ってしまえばむかついた。
 言われたのはお前も同じじゃないか。そう言い返したい衝動をグッと堪えて、リドリーは相
手と同じ知能レベルに落ちないように、貴族然とした態度を心がけながら返答した。
「良いだろう。――ティンバーレイクの家名が虚仮でないことを見せてやる」


   /


 お互いに背中合わせで、死角を消すように移動しながら、敵と応戦する。ジャックは片手剣
を、リドリーは斧を振るって、襲い掛かってきた敵を両断する。
「スパイダーネットと毒霧に気をつけろ。それさえ避ければただの蜘蛛だ」
「分かってるって! ――そらっ!」
 最後の攻撃。ジャックが渾身の袈裟斬りを放つと、ポインチュラは力を失って息絶えた。
「結構このあたりの敵にも慣れてきたよな」
「そうだな。何度も繰り返して戦っていけば、対応策ぐらいは嫌でも覚える。――もう見える
限り、敵の姿はないようだから帰るぞ」
 ジャックとリドリーの二人は緑森京付近の敵と、あらかた戦い終えていた。騎士団の任務も
あるために、緑森京の入り口付近から離れることも出来ず、割とあっさりと訓練は終了した。
 ――はずだったのだが。
「えー。もう少し続けないか? だって今帰っても何もすることないし」
 暇なことが嫌いなのか、ジャックは露骨に嫌がる姿勢を見せた。その様子を見て、リドリー
は内心だけでなく、ため息をついた。
「お前は子供か。私たちは設立されたばかりとはいっても騎士団の一員なんだ。これ以上、こ
の場所から離れたら不測の事態に対応できなくなる」
「……それは、そうだけどさ」
 リドリーの言葉に理があると認めるくらいはできるのか、渋りながらもジャックは肯定した。
 このままいけば、二人は緑森京の中へと戻り、再びライトエルフ側からの使者の到着を待つ
ことになるはずだった。だが。
 それを、一つの野太い咆哮が阻んだ。
「……今の声、何だ?」
 ジャック達の身動きを止めてしまうかのような、恐怖感を伝播する叫び。それは、今までに
ジャックもリドリーも耳にしたことがないような種類の代物だった。
「分からない。分からないが……」
 首を振りながら、リドリーは口ごもる。
 ――すると、彼方からもう一度、尋常ではない咆哮が、もう一度二人の耳を打った。びくり
っと二人の体が硬直する。
「……緊急事態かもしれない。急いで団長に報告しに行くぞ」


 旗騎士と呼ばれる存在になるためには、様々な要素が求められる。地位、品格、判断力、忠
誠、身分、――そして他者から認められうるだけの群を抜いた実力。
 確かに、稀にではあるが、実力が伴わなくても他に適正者が存在しない場合は勤続年数の多
さだけで旗騎士となれる者もいる。――だが、ナツメ・ナギは明らかにソレとは違った。
 女の身でありがら剣技を修め、その実力は誰もが認めるほどに高い。舞うような剣技は苛烈
であり流麗。その攻撃の美しさの余り、敵は息を飲んでいる間に絶命するとまで言われる。
 だからこそ、彼女は紫色山猫剣士団と呼ばれる団を持つことができているのだ。
「……面倒な。レナードさえ動ければ、どうとでもなるものというのに」
 だから彼女が、ブラッドオークを相手に手間取っていることも仕方がないことなのだ。
 突然の背後からの強襲。そして部下の気絶。スピードと技の鋭さを軸として戦う彼女にとっ
て、身動き出来ない部下の盾となって戦うというスタイルは相性が悪い。そのような役目は、
本当ならば気絶しているレナードこそが負うべきなのだから。
「……時間がかかりそうですね」
 振り下ろされた棍棒の一撃を、剣でいなしながらナツメは誰に聞かせるわけでもなく呟いた。


   /


 桃色豚闘士団の面々は、滞在していた緑森京を出発し、謎の咆哮の原因を探るために、周囲
の探索を行っていた。
「この辺りですか。リドリーさん、ジャックさん」
 仮にも咆哮の原因が強力な敵であった場合、ライトエルフからの使者が襲われる可能性もあ
り、そうなればライトエルフとの講和への道が閉ざされてしまう。よって騎士団である桃色豚
闘士団は原因の究明、並びにその排除を行わなければいけないと、ガンツが判断したためだ。
「はい。方角に間違いはありません。この付近に、あの声の原因があるはずです」
 ガンツの問いかけに対して、リドリーは斧を握り締めたまま、深刻な面持ちで頷いた。
 そして常に明るい表情のジャックの顔もまた強張っていた。
「……何だったんだろうな、あの声。まるで化け物みたいな声だったけど」
「分からない。だが、余り歓迎したいものではないことは確かだろうな。正直、聞いていて体
が震えた。――ジャック、お前もそうだろう?」
「違うって答えたいんだけどな。確かに、あれは声だけ聞いていても怖かったよ」
 ぎりっと悔しそうに歯噛みしながらも、ジャックはリドリーの言葉を肯定した。その様子を
見ていたガンツは眼を見開いた。
「ジャックさんがそこまで言うほどなのですか。……これは、もし我々で対処が難しそうだっ
た場合には、撤退してダークエルフの皆さんに注意を呼びかけることも考えておいたほうが良
いかもしれませんね。必要ならば王都への援軍要請も」
 三人は周囲の様子や物音を注意深く探りながらも、隊列を組んで前進していく。
 じりじりと短い距離を稼ぐだけでも、精神がすり減らされる。このような不測の事態での行
軍は、どう考えても新米騎士団には荷が重い。事実、ただ進むだけであるのに、三人の額には
緊張による汗が浮かんでいる。
 ――と、そこで不意にジャックが声を発した。
「……団長、今、あっちのほうから鉄が硬い物にぶつかったような音がしませんでした?」
 ジャックは、片手剣をぎゅっと握り締めながら、先頭を進んでいたガンツに尋ねた。
「あちらからですか? 私の耳には何とも。――リドリーさんはどうです?」
「いえ、私にもそんな音は……いや、聞こえました。今、確かにあちらの方から」
 ガンツの問いかけに否定するように首を振ろうとしていたリドリーは、途中で動きを止めた。
そして聴覚を集中させるためか目を瞑り、森の一方に耳を向ける。
 少しの静寂の後、頷くようにリドリーはもう一度、首を縦に振った。
「間違いありません。あちらから、剣戟のようなものが聞こえます。ジャック、お前が聞いた
のはあれだろう?」
「ああ、あれで間違いない。今聞いた音で分かったけど、誰かが、戦ってるみたいだ」
 顔を向かい合わせた二人は頷きあった。そしてガンツを見る。
 ガンツは思案のためにか少しだけ動きを止めた後、大きく頷いた。
「とりあえず、音の聞こえた場所まで向かいましょう。――もしかしたらライトエルフの使者
が何者かに襲われているという可能性もありますし、旅人が野盗に襲われているのかもしれま
せん。まずは状況を判断して、それからどう動くかを決めます」
 ガンツの言葉に、リドリーとジャックの二人は、緊張した面持ちのまま頷いた。


   /


「騒いでないで、急ごう。もしまたブラッドオークが現れたら、相手をするのは疲れるからな」
 アルフレッドと名乗っているジャックは、抜いていた片手剣を鞘に戻しながらも、それぞれ
ブラッドオークに注意を向けているハイアンとハップの二人に言った。その声を聞いてようや
く二人は現実に思考が戻ってきたのか、はっとしたような表情をした。
「ねえ、アルフレッド。もしかしてブラッドオークって人間から見たらそこまで強くないの?」
 最初に声を発したのはハップだった。恐れているような、興味があるような、感情の入り混
じった表情を浮かべてジャックを見る。
「いや、人間から見てもブラッドオークは怖い存在だと思う。自慢するわけじゃないけど、俺
以外に何人が、一人でこいつらを相手できるかっていったら、十五人は下回るはずだ」
「へえ、じゃあアルフレッドが強いんだ」
 話を聞いていたハイアンが、横から口を挟む。
 ジャックはその言葉に、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、俺は強いってわけじゃない。ただ昔から何も考えずに戦ってきたから、戦うことに慣
れてるだけだ。……こんなものは、強いってこととは違うんだ」
 どこか後悔の見えるジャックの言葉に、ハイアンとハップは続く言葉を失ったようだった。
会話が止まる。
 その様子を見て取ったジャックは、少しだけ苦笑して口を開いた。
「悪い。愚痴になった。――それよりも急ごう。早く緑森京まで行かないといけないような、
そんな気がするんだ」


「……あれは、ナツメ殿。それに戦っているのはブラッドオーク」
 ガンツは背中を伝う恐怖心を懸命になって抑えながらも、眼前で繰り広げられている光景を
見た。赤い巨体の化け物と、同僚である旗騎士が一対一で死闘を繰り広げている。純粋な暴力
で構成された攻撃を、ただ磨き上げた己の技術で防ぐナツメの剣技に、少しの間ガンツは目を
奪われた。
 だが、それも隣から上げられた声に中断される。
「団長! あそこで一人倒れてますよ! ――って、あれレナードのおっさんだ!」
「確かに。ナツメ殿の背後に一人、倒れていますね」
 ガンツは視界にレナードの姿を捉えて、思考した。ナツメ・ナギがブラッドオークに後れを
取るような人物だとは思えない。だが、それでも戦闘の状況は拮抗している。それは何故か。
 そう考えてからナツメの動きを目で追うと、彼女らしからぬ戦いぶりが目に付いた。相手を
嘲笑うかのような動きで攻撃を回避しているのに、途中で何故かその剣で敢えて、ブラッドオ
ークの攻撃を受けている場面がある。女性の身では辛いはずなのに、彼女は避けることではな
く防ぐ事を選択している。
 それは何故か。――瞬間的に答えは出た。後ろに倒れる部下を守るため、ナツメは部下に危
害が及びそうな場面では敢えて敵の鈍重な一撃を受け止めているのだ。
 そう理解した瞬間に、ガンツは行動を決めた。
「お二人は、ここにいてください。私は今から倒れている彼を、戦闘範囲外まで運び出します」
「ええっ? 何言ってるんですか団長! 俺だって手伝います!」
 驚いたような声をジャックが上げる。だがガンツは首を振った。
「いえ、申し出はありがたいのですが、この場面では複数の人間が飛び出していっても、ナツ
メ殿の邪魔になるだけです。だから一番力がある私が、彼を運び出します」
 そして続いて、装備していた剣をジャックに手渡した。
「――少しの間、持っていてください。移動には、これも邪魔になるだけですから」


   /


 斬る。薙ぎ払う。突き刺す。――そして受ける。
 ナツメは定着し始めた感のある現状に苛立ちながらも、それでも眼前の敵を倒すために着々
と攻撃を与え続けていた。それは莫大な体力を持つブラッドオークにとっては小さな傷でしか
ない。だが同時に、積み重なっていけばそれは、堤防に空けられた小さな穴のように、一気に
その巨体を崩れ落とさせることができるだろう。
 唯一、時間がかかることが難点ではあるのだが、背に守る部下を抱えているナツメに取れる
作戦は、それが限界だった。
 後方に倒れたレナードと、前方から襲い掛かってくるブラッドオークに意識を集中させて、
剣を走らせる。
(まったく。――リドリー様の護衛に早く戻らなければいけないというのに)
 ブラッドオークの鋼鉄すら容易に破壊する攻撃が眼前を通過しながらも、ナツメは他の事を
考えていた。彼女にとってこの程度の状況は、追い詰められているというほどのものでもない。
 ただ、時間がかかるだけ。ナツメにとってはそれだけの作業でしかなかった。次に仕事に移
る前に、こなさなければならない煩雑な作業。
 だからこそ次第にナツメの集中は途切れていく。ブラッドオークに一すじの傷を刻むたびに、
一滴の血を流させるたびに勝利が近づき、その度にナツメは少しずつ気を緩ませていった。
 そして、そんな時に彼女に声がかけられた。
「ナツメ殿!」
 後方から突拍子も無くかけられたその声は、緩みかけていたナツメの意識を動揺させた。勝
利がすぐ近くまで着ていると楽観視していたために、予想外の事態が起きた場合に、意識が大
きくぶれる。
「ガンツ殿、どうしてここにっ?」
 見知った声。その声から相手は直ぐに知れた。ガンツ・ロートシルト。桃色豚闘士団の団長。
「ここの彼を守りながらでは、貴方にも分が悪いだろうと思い、手助けに来ました。彼は私が
安全な場所まで連れて行きます!」
 ガンツはそう言って、一息に大柄なレナードの体を持ち上げた。丸い顔に丸い体。団の名前
にもあるように、豚と揶揄されやすいガンツの筋力は、父親の血を継いだためか群を抜いてい
た。人一人の体を苦にも思わず、容易く背負う。
「それでは、私たちでは足手まといに成りかねませんから、ここで失礼させてもらいます!」
 ガンツはそう言って、そのまま戦闘区域を離脱した。
 しかし、ナツメにはまだ動揺が残っていた。ガンツがいるということは、リドリーもこの危
険な場所にいることを意味する。ナツメは顔から血の気が引いていくような悪寒を覚えた。
 そのため反射的に、周囲にリドリーの姿がないかどうかを調べる。そして、どうやらガンツ
一人だったということに気がつき、安堵した。
 ――それが隙になった。
 ナツメが意識を分散させた瞬間に、それまで力押し一辺倒だったブラッドオークが、突然、
その動きを変えた。標的をナツメからレナードを背負ったガンツへと変更したのか、背中を見
せているガンツに向かって走り出す。 
 その光景を見たナツメは、自らの失策を悟った。既にブラッドオークは回り込むように、ナ
ツメの脇を通り抜けて、ガンツへと突進している。その行動を阻むには、全てが遅すぎた。
「ガンツ殿っ、逃げてください!」
 声を上げる。するとガンツは事態に気がついたのか、振り返って驚いたような、焦ったよう
な表情を見せた。そして即座に顔を前方へと戻し、それまでよりも速度を上げて、全力で走り
始めた。
 だが、それもブラッドオークの前では大差ない。レナードを背負ったガンツは徐々に距離を
詰められていく。
(……これは、私の失態ッ)
 自らの認識の甘さが招いた事態に、ナツメは強く歯噛みした。ナツメが全力で走れば、ブラ
ッドオークに追いつけないことはない。だが、その時には既にガンツ達はブラッドオークに殺
されているだろう。それでは意味がない。
 だからナツメは愚策だとは解っていても、己の失策の責任を負うための行動に出た。
「――せやぁっ!」
 握り締めていた片手剣を振りかぶって、勢い良く投擲する。ナツメは己の武器を捨てて、敵
の攻撃を防ぐことを選択した。剣はまるで投げナイフのように飛び、そしてブラッドオークの
左肩に突き刺さった。
 直後に痛みからか、ブラッドオークが悲鳴を上げる。
 その声を聞きながらもナツメは、内心では自分が悲鳴を上げたい気分だった。
 剣があれば、勝てる。女の非力な体であっても手傷さえ負わせることができるのならば、負
けるはずはない。ナツメはそう確信している。だが、手傷を負わせることさえできなかったな
らば、どうなるか。
(素手で、あんな化け物と。……どう考えても不可能)
 剣がなければ、勝てない。怒りのためか血走った目で自分を見つめるブラッドオークを観察
しながら、ナツメは早くも後悔し始めていた。もはや、防戦に回る以外の手は無い。
 かろうじて、ガンツ達の姿が視界から消えたことが救いといえば救いだった。――本当に小
さすぎるものだったが。
「……さて、どうしますか」
 獲物に逃げられ、さらに手傷を負わされ逆上したブラッドオークが、ナツメの剣を引き抜い
て、彼方へと投げ捨てる様を眺めながらも、ナツメはそう呟いた。
 その瞬間にも、ブラッドオークは再び突進を開始している。
 どうするべきか。答えが得られないままに事態が進んでいき――
「――ちょっと待った!」
 そこで突然、ナツメのいた直ぐ傍の繁みから、二つの人影が飛び出してきた。一人は元気そ
うな栗色の髪をした少年で、もう一人は金色の髪を二つに結わえた少女。
「ここは我々が時間を稼ぎます。――その間に早く撤退を」
 それはナツメが良く知った相手で、だからこそナツメは悲鳴にも似た声を上げてしまった。
「リドリー様!」
 リドリーとジャック。その二人では自分のように防戦に回るどころか、ブラッドオークを前
にして生き延びることさえも出来ないのは、間違いが無かった。状況が更に悪化した事をナツ
メは理解した。
「何故、出てきたのですかっ!?」
 それが正義感から生まれた行動だろうことは分かっていても、ナツメはそう叫ばずにはいら
れなかった。それが全く無意味な行動だとしか考えられなかったから。
 そしてその時には、三人の眼前まで肉薄していたブラッドオークが棍棒を掲げ、振り下ろそ
うとしていた。ナツメは咄嗟の判断で前へと飛び出し、リドリーを庇うように立って両腕を広
げた。その攻撃を己の体だけで受け止めようとする。
 ――直後。ナツメの体は衝撃に吹き飛ばされた。


   /


 緑森京へと進む道程の途中、ジャックは遠くから聞きたくなかった叫び声を聞いた。
 そして、その瞬間に体中の血液が沸騰するかのように、激しく燃えた。
「――ハップ、俺の肩に乗ってくれ。ハイアンは少し力を抜いてくれ」
 最悪の事態を頭の中でシュミレートしながらも、ジャックは迅速に行動に移った。自分の肩
に小柄なライトエルフであるハップを座らせた後、隣を歩いていたハイアンの体を一気に抱き
かかえる。
「わ、何っ? 何どうしたの?」
 いきなり抱きかかえられたハイアンは混乱のためか騒ぎ出した。だが、そんなことに気を取
られている余裕は、今のジャックには無かった。
「遠くから、ブラッドオークの叫び声が聞こえた。あいつらが雄叫びを上げるってことは、誰
かと戦闘してる可能性が高い。――助けに行くから、少し本気で走る」
 言い終えるや否や、ジャックの体は弾丸のように森の中を駆け始めた。障害物のように立ち
並ぶ木々の間を、速度を落とすことなくすり抜けていく。目まぐるしく視界に映る光景が変わ
っていく中であっても、ジャックは二人を振り落とすことも無く、声の聞こえた方角へと向か
って走った。
 ハイアンとハップの二人は、ブラッドオークという言葉を聞いて状況を理解したのか、突然
の行動に驚きながらも黙り込んでいた。
「止まるまで、喋らないでくれよ。きっと舌を噛む」
 ジャックは足を止めない。エルフ二人に、完全武装の装備が一式。大の大人でも身動き一つ
できなくなってしまいそうな総重量を抱えても、走り続ける。しかもそのスピードは落ちるど
ころか、徐々に上がっていく。
 まるで暖気されたエンジンのギアが一つ一つ上がっていくように、段階的に速度が上昇する。
 だが、それでもジャックは満足していなかった。もっと走らなければいけない。速くたどり
着かなければいけないと、焦燥感が胸の中に満ちていく。
(……あの叫び声。まさか桃色豚闘士団が戦闘しているのか? だけどブラッドオークは俺が
倒したはずだ。……くそっ、分からない。あの時の記憶が強すぎて、ブラッドオークがもう一
匹いたかどうかなんて覚えてないッ)
 思考は迷走し、答えが出ない。今ジャックにできることといえば、原因を探るために、声の
聞こえた場所へと走ることだけだった。そう結論を下して、さらに限界ギリギリまで両足を酷
使して疾走する。
 そして幾らかの時間が経った後、木々の繁みを強引に進んだ先で、ジャックは開けた場所へ
と到着していた。そして見た。過去の自分、ナツメ・ナギ、リドリー・ティンバーレイク。そ
の三人に向かって、棍棒を振り上げるブラッドオークの姿を。
(あれは――あの光景はッ!)
 脳裏を瞬間的に、リドリーがブラッドオークに吹き飛ばされた時の記憶がよぎる。フラッシ
ュバックしたソレは、赤い血の色をしていた。
 たぎり続けていた、ジャックの全身の血液が、その瞬間に爆発した。
「二人共、俺から離れてろ!」
 ハイアンとハップの二人を放り投げて、ジャックは背中の両手剣を抜いた。刀身が異様に長
いその剣は、まるで持ち主の意識に沿うかのように迅速に鞘から抜き出された。
(この距離だと間に合わない。ここから攻撃を仕掛けるべきか。けど駄目だ。そんなことをす
れば、三人も巻き添えを喰らう。……だったらどうすれば――いや、それで良いのか!)
 地面を強く蹴りつけて、ジャックは剣を構えたまま跳んだ。同時に内面で闘気を限界まで高
め、己の分身を作り上げる。
 そして剣を掲げて、あの場所を破壊しろというイメージを抱きながら、刃を振り下ろした。
「――心応飛影斬ッ!」
 直後、閃光のように速く飛び出した幻影が、リドリー達とブラッドオークの立ち位置の中央
に割り込むように着弾し、その場所を徹底的に破壊した。


   /


 恐怖心はあったが、それでもブラッドオークの前に立つことはできた。隣にいた同僚が一緒
に飛び出してくれたことも大きいのだろうが、それでも逃げ出すことなく自ら戦うことを選択
することができた。リドリーは、逃げ出したいという衝動を必死になって抑えながらも、それ
は間違った行動ではなかったはずだと自分に言い聞かせた。
 だが、震える膝は止まらない。
 どれだけ力の差があろうとも精神さえ折れなければ戦える。リドリーはそう信じていた。信
じていたのだ。――しかし、その信念もブラッドオークが攻撃の構えを見せるにつれて薄れる。
 ただ振り上げて、振りおろす。それだけの動作であるのに、ブラッドオークのそれはどこま
でも絶望的だった。避けられる気がしない。防げる気がしない。逃げられる気がしない。
 ――生き延びられる気がしない。
 そう考えてしまった瞬間に、リドリーの前にはナツメの姿があった。父の庇護の手から離れ
て、己の手で己の道を切り開く騎士という道を目指したはずの自分が、加勢しようとした相手
に守られる現実。両手を広げて自分の盾になろうとしているナツメの姿を見たリドリーは、暗
い感情に陥った。
(……私は、いつも守られてばかりだ)
 現実と理想の距離が遠い。リドリー・ティンバーレイクという個人として認められたいと努
力しても、その努力はいつもどこか足りない。いつも幼い頃から守られてきたからこそ、守る
側になりたいと考えているのに、それでも一歩及ばない。
(強く、なりたいのに――)
 ナツメの背中越しに、ブラッドオークの攻撃が迫っている様子が見える。だがリドリーは、
明確な対抗策を持ちえていなかった。ナツメよりも速く動くことも、打開策を考えることも出
来ない。何一つ。何も出来ないままに、死のイメージだけが高まっていく。
 単純で強大な暴力が、ナツメもろともリドリーを打ち据えようとして振り下ろされ――
(私は何もできないのかっ!)
 リドリーはただ現実に屈しないために、ブラッドオークを睨みつけることしかできなかった。
 そして。
「――心応飛影斬ッ!」
 直後。ブラッドオークとリドリー達の中間地点の地面が、まるで爆発したかのように破壊さ
れた。ナツメとリドリーは衝撃から、体を後方へと吹き飛ばされる。ブラッドオークは、吹き
飛ばされはしなかったものの、飛び散った石飛礫から身を守るためか、攻撃を中断していた。
(……何が、起こったんだ!?)
 ごろごろと地面を転がりながら、リドリーは爆発が起こったと思われる場所を見た。そこに
は破壊された地面と、もうもうと充満する土煙しか見えなかった。だが、その光景にも即座に
変化が現れた。土煙を切り裂くようにして、黒い影がリドリー達の前に現れる。
 それは見知った男だった。擦り切れてぼろぼろになった外套を纏い、手入れのされていない
髪を適当に紐で結わえ、異様に鋭い両手剣を構えた男。前に会った男、アルフレッド。
 みすぼらしさを極めたように見えるその立ち姿は、何故か力強い。粗末に映るはずのその背
中は、何故か頼もしい。リドリーは、アルフレッドが自分が持っていない何か特別なモノを持
っているように見えた。
「――無事か?」
 そして、その声を聞いた瞬間に、リドリーは何故か安心してしまったのだ。


   /


 土煙を切り裂くようにして現れたアルフレッドの行動は、全てが速かった。
 地面に転がる二人が無事かどうかを確認すると、その瞬間に意識を眼前で戸惑っているブラ
ッドオークへと向けて、剣を構えた。そして、続いた交錯は一瞬。
 ――アルフレッドが両手剣を振るうと、その瞬間に赤い巨体が弾き飛ばされた。
 質量にしておよそアルフレッドの七倍はありそうなブラッドオークの体は、ただの剣一振り
でゴム鞠のように地面をごろごろと転がっていった。余りにも非常識な光景に、その瞬間を目
にしていたナツメは、しばらく視覚から入手した情報を頭の中で処理できなかった。
 だが、そのようなことは待つことなく、アルフレッドは前進する。重武装に身を包んでいな
がらも、軽い足取りで走り出し、ブラッドオークへと迫る。対するブラッドオークはよろよろ
としながらも立ち上がり、防御のために棍棒を体の前に構えた。
 ――だが、それさえも意味は無い
 アルフレッドが剣を振るう。防御など気にしないとばかりに、棍棒ごと薙ぎ倒すかのように、
横に構えていた両手剣を走らせる。稲妻のような一撃が、空気を巻き込みながら赤い巨体を打
ち据える。ミシリッという音が鳴った。
 剣先の軌跡がブラッドオークの棍棒へと着弾した瞬間、ブラッドオークは再び吹き飛ばされ
ていた。そして同時に棍棒は破壊され、大小入り混じった木片となって周囲に飛び散る。
 それは驚異的な光景だった。まるで人の限界まで鍛え上げられたかのような膂力。
(これは、私より格上っ……)
 戦闘とも呼べない、圧倒的な蹂躙を後ろから観察しながら、ナツメは全身が総毛立つことを
止められなかった。自分が剣を持っていても、万全の状態であっても適わない相手が目の前に
いる。それがたまらなく怖い。
 アルフレッドという男の戦い方は、ナツメの目から見れば恐怖に値するものだった。殺すこ
とに、叩き潰すことに、捻じ伏せることに特化した戦闘スタイル。一体どれだけのモノの命を
奪えば、その境地に辿り着けるか分からないほど彼方の極限。
 ブラッドオークのように強大であっても垂れ流しでしかない殺気ではなく、研ぎ澄まされて
一点に集中された冷たいナイフのような殺気が周囲に充満している。動けば斬る、抗えば斬る、
呼吸をすれば斬るとでも主張するような殺意は後ろにいるはずの、ナツメにさえも届いた。
(なら、それを真正面から受けているブラッドオークは……)
 漠然と同情心に似た感情がナツメの心にわいた。自分は決してこんな死に方をしたくないと
いう感情が、今から確実に死ぬ事になる生物に対して哀れみを与える。
 そして、その直感を裏付けるかのように事態は動いた。
 アルフレッドの殺気に押し潰されかけていたブラッドオークが、突如として雄叫びを上げな
がら素手のままアルフレッドを殴り殺そうと走り出した。その姿は、まるで恐怖に後押しされ
ているように見えた。どちらにしても死ぬのなら、せめて相討ちに持ち込もうとする、悲壮な
形相。――だが、それも意味を成さなかった。
 薄っすらと太陽の光を刀身に受けて、淡い光を帯びていた剣が、宙を閃いた。振るったアル
フレッドの腕さえ残像となってしまうような神速の一撃が、前方を切り裂いた。
 その瞬間に、戦いは終わった。
 追い詰められた獣は、狩人に一矢報いることさえできずに、地面に転がり息絶えていた。


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