そして、それから五日の時間が流れた。
 ウイッグルの幼生の発生はゲインの予想通りに、辺境騎士団の派遣要請事項として認められたらしい。
 王都からの連絡によれば今日の夜にでも、この近辺で最も大きいリムザの街に来て、対策本部を設置すると言うことだ。
 おそらく辺境騎士団が逗留することになるのは、傭兵ギルドと見て間違い無いだろう。
 辺境騎士団は二小隊、合計三十名程度の編成で来ると連絡があった。この街の中で、それだけ多数の部外者を抱え込めるような施設などギルドだけなのだから。そして更に言えば、ウイッグルの掃討作戦のために傭兵ギルドでも別に人員を召集しているために、さらに倍近い傭兵達がギルド付近に集まることは想像するに難くない。
 騒がしくなりそうだ。――おそらく起こる騒動だって、一つや二つでは収まらないだろう。

「だからいいか、お前ら。絶対に今日から明日にかけてはギルドに近づくなよ」
「はーい」

 暇つぶしに孤児院にやってきていた俺は、この近辺で最も騒動に巻き込まれそうな腕白な子供たちを見つけたので注意しておく。
 サイラスやらハーヴィーやらユーノやらは元気良く返事をしてくれた。が、その真意は怪しいものだ。
 特にハーヴィーなどは理解して無くても元気に頷く傾向があるので、分かっているのかは微妙なラインだ。
 しつこく注意したら無駄に反発して、逆にそれを実行しようとした前科をあるし。
 ……一応、念を押しておくべきだろうな。

「よし、良い返事だ。もし約束を破ったら、俺はマツバラ家に伝わる躾けの封印を解かなきゃならないからな、絶対に良い子にしてるんだぞ」
「……あ、あれかッ!?」

 目の前にいる約二人ほどがガクガクブルブルと震えだすのを見てから、俺は口元をつり上げるようにして笑みを浮かべた。
 そして、二人以外には聞こえないように小さな声で、ハーヴィーとサイラスの耳元で 「……まあ、俺は別に何度やってあげてもいいんだけど」と付け加えた。
 直後。二人が凍りついたように固まる。
 隣にいた、孤児院年長のユーノなどは何を言ったのかが分からなかったのだろう、眉をひそめた。

「シュウジお兄ちゃん、二人に何言ったの?」
「さあね。俺には分からないけど」
「もう、とぼけないでよ。何か二人を怖がらせるようなこと言ったんでしょ?」
「いいや違うさ。これは脅迫じゃない。純粋なお願いだ」

 そんな風に軽く会話をしてみれば、震える二人を守るように立ち塞がって、ユーノが俺を睨んでくる。
 この前エリザさんに聞いたところによれば、この勝気な女の子にも遅まきながら春が来たらしいが、どうやら目当ての相手ではない俺の前では普段のままのようだ。
 腰に手をあてて、俺に気負いなく視線を突き刺してくる姿は、孤児院史上最大の問題児と呼ばれた過去を持つユーノに相応しい。今はようやく落ち着いてみんなのお姉さん的ポジションに収まりつつあるユーノであるが、こうして大の男にも物怖じしない胆力を見ると、伝え聞いた過去の武勇伝が嘘で無いことが理解できる。

「――それ、本当?」

 なおも疑わしそうに、こちらを見つめてくるユーノ。本人は怒っているつもりなのかもしれないが、俺から見ればこの年頃の子供の表情など、皆微笑ましい。少し悪戯をしたくなってしまうぐらいには。
 なかば自然と、口から言葉が発せられた。

「そう、本当だよ。ユーノに好きな人ができたのと同じように」

 今度も先ほどと同じように、他の人間には聞こえないように、ユーノの耳元に口を寄せて囁くように告げる。
 するとユーノはそれまで怒っていたことを一瞬で豹変させて、顔を真っ赤にした。
 あ、うう、なんで? などと口ごもること数秒後。頬の朱色は取れないままに、ユーノは近くにあった掃除用具入れから最もつかみやすい箒を手にとって構えた。
 ただでさえ吊り目がちなユーノの目が、さらに鋭くなる。

「そ、それ誰から聞いたのー!」
「あっはっは。誰だろうなあ」
「待ちなさい! シュウジお兄ちゃん!」
「あーっはっはっは、待てと言われて止まる馬鹿はいないことを教えてあげよう」

 そして始まった一対一の追いかけっこ。
 箒を振り回してこちらを追いかけてくるユーノの姿を眺めて楽しみながら、俺はつかず離れずの距離を保って、孤児院の中を駆け回った。ちらちらと後ろを見て、頬が真っ赤な鬼の形相になっているユーノを観察するのが、このイベント最大の楽しみであり、俺の性格の悪さを露骨に表している。
 もちろん、あんまり逃げ続けていると本気で泣かしてしまう可能性があるために、落とし所も考えなければならない。
 うわっと情けない声を出してから、俺はわざと孤児院の廊下でこけた。
 途端に追いついてきたユーノが、ごすごす! と箒の先端部分で俺に殴りかかってくる。
 しかも俺の変態的防御能力を知っているためか、目やら口の周辺やらを集中的に狙ってくるあたり、ユーノは将来良い戦士になるはずだ。――などとワケの分からないことまで考えてしまう。

「シュウジお兄ちゃん! 言いなさい! 誰から聞いたの!」
「はっはっは」
「もーっ! 笑ってないで白状しないと酷いからね!」
「いや、実は適当に言ってみたらユーノが勝手に動揺しただけなんだけどね」

 ふるぼっこにされている最中にも笑いながら、そう答えてみると、ぴたりとユーノの動きが止まった。
 かあっとまた顔に朱色が戻ってくる。どうやら恥ずかしがっているらしい。
 何ともまあ、可愛らしいことだ。

「う、うそ。私そんなばれるようなことしてないし」
「この前、行商人の持ってきた服ずーっと眺めてただろう?」
「それだけでわかるはずないよ!」
「ふふ、大人の観察力を侮っちゃいけないな」

 実際はエリザさんに聞いただけなのだけど、そこをさも自分で気がついたように言ってみる俺。
 我がことながら、なんとも器の小さい男だと思わずにはいられない。

「う、うう、うあーッ――!」

 そしてユーノは恥ずかしさのリミットを越えてしまったのか、また俺をぼこぼこにする作業に専念しはじめた。
 正直、箒で殴られたぐらいではまるで痛くないので、にやにやしながらユーノを観察する。
 すると反骨精神からか、ユーノがさらに俺をぼこる手に力を入れはじめた。しかもそれだけでは飽き足らず、倒れた俺の上に乗ってから飛び上がる始末である。
 叩かれているのが俺じゃなくて、普通の人ならすでに死人が出てもおかしくない連続攻撃だ。
 まあ、本気で俺には痛く無いから無意味なんだけど。

「あはは、痛い痛い――うん?」

 などと俺がユーノと楽しく遊んでいたわけだが、途中で視界に変な影が映った。
 具体的に表現すると毛むくじゃらで、体つきはがっしりしていて、今ごろは辺境騎士団とギルドの橋渡し役として、てんてこ舞いになっているはずの獣人だ。もちろん、語る必要も無くゲインである。

「こんなところにどうしたんだ?」
「ああ、先生。やっと見つけたよ。――頼む、後生だと思って手伝ってくれねえか?」

 孤児院に入ってくるなり、俺を拝んでくるゲイン。その表情は普段快活なゲインにしては珍しく、いくらかの疲労の色が窺える。
 俺は一先ず、この見た目純度百パーセントの乱暴者が怖いのか、慌てて俺にしがみついてきたユーノを抱き寄せた。
 それからゆっくりと質問を返す。

「嫌な予感がするけど、何か問題でも起きたのか? 最初の話だと、俺の出番は掃討作戦当日だけだって話だったはずだけど」
「ああ、正直、ギルドの人手が足りねえ。騎士やら傭兵やら、人が集まりすぎて、俺一人じゃ食い止められそうにない」
「あー、大体流れが読めたんだけど……一応、最後まで聞かせてもらっていいかな」
「話が早くて助かる。俺が騎士団の方と話をつけてる間に、ギルドで余所から流れてきた奴らが無茶しないか監視しててくれ。実は、厄介な奴らまでこの街に来るらしいんだよ」
「厄介な奴ら?」

 ユーノの髪を撫で付けながら尋ねると、ゲインは頷きながらため息をついた。

「ああ。俺の妹と、腐れ縁の知り合いなんだが、そいつら二人共傭兵やっててな。今回の騒ぎを稼ぎ時だと思ったのか、遠くからわざわざやって来るらしいんだよ」
「……あー、お前の妹と知り合いか。ちなみに二人とも獣人なんだよな?」
「ああ。しかも悪いことに、妹のほうはまだしも、腐れ縁のほうは脱落した俺と違って、いまだに里の族長候補に残ってる野郎だ。もしそいつが暴れ出したら、この街では俺か先生ぐらいしか止められねえだろうな」

 その言葉を聞いてから、俺もため息をつかざるをえなくなった。
 ゲイン級の獣人が街にやって来るとなれば、確かに放ってはおけない。しかもゲインは今日、傭兵ギルドの代表の一人として、騎士団のほうと詰めの話に出る予定がある。そうなれば、俺にお鉢が回ってくるのも道理だ。
 今日はこのまま孤児院に泊り込もうかと、思っていたんだが――。
 どうやら楽は出来そうに無い。

「分かったよ。できるなら、今日はまだこの子達で遊んでいたかったんだけどな。仕方ないか」
「……先生、この子達でって、本音漏れてるぞ」
「訂正する。この子達と一緒に遊んでいたかったんだけどな」

 そ知らぬ顔でそう言い直せば、傍に寄せていたユーノが 「シュウジお兄ちゃん、もう遅いよ」と呟いた。
 松原修治、かくも簡単に本音をばらしてしまうとは、中々の不覚である。

「はは、聞かなかったことにしてくれ」
「俺はいいけどよ。そこの嬢ちゃんはどうだか知らねえからな」
「そういうわけで聞かなかったことにしてくれよ、ユーノ」

 そう言って平和的に解決を図ると、ユーノは無言で、まだ持っていた箒で俺を殴りつけてきた。
 その様子を見て、はっとゲインが笑い声を漏らす。
 俺の口元からは苦笑いが漏れた。痛くは無いけど、ユーノの無言の視線が腰あたりに突き刺さる。

「……まあ、ギルドの方で仕事ができたから、今日のところは帰るってエリザさん達に伝えておいてくれよ。ユーノ」

 話題をすりかえようと思ってそう言ってみたけれど、ユーノは 「分かった」と短く答えてから、俺の頭をぽかりと叩いた。



「……何で俺は目ぇキラキラさせた子供じゃなくて、酒に顔赤らめた酔っ払いの相手してるんだろ」
「別にいいじゃない。貴方、飲めないわけじゃないんでしょう?」
「まあ、そうだけど。ただ、ここに来ると心に汚れが溜まって行く気がするから。心の洗濯ができる孤児院とは雲泥の差だ」

 そしてゲインに押し切られるままに、俺は傭兵ギルドの建物内で周囲を監視するというつまらない作業に没頭することになったのだった。入り口に近い、建物の中を全て見渡せる位置にあるテーブルを陣取って、ちびちびと酒を飲みながら暴れ出す馬鹿が出てこないか、目を光らせている。
 今は辺境騎士団の連中と、ゲインを含むギルドのメンバーが数人、それと街の上役からも何人かが集まって話をしているところらしい。今日のところは話も早く終わるとのことだが、それでもあと数時間は足止めを喰らうことは間違い無さそうだ。
 かろうじてこの作業に潤いを与えてくれているのは、たまたまギルドの中にいたシェリルとベアトリスが合席してくれていることだろうか。正直、一人だったなら加速度的に機嫌が悪くなっていたところだろう。

「相変わらず、戦いとは無縁そうな考えをしているわね」
「これが俺の性分だからな。変えようと思っても、変わらない」
「そう。まあ貴方の場合は、それでも強いことには違わないからいいんでしょうけど」

 そこまでシェリルが口にしたところで、手持ちのグラスの中身が空になった。
 やることが無かったので、注ぎ足そうと思ってテーブルの上のボトルを手に取ろうかとした。が、それよりも早くベアトリスが察して、空になったグラスに酌をしてくれた。これまでまるで会話に参加してこなかったベアトリスであるが、こういったことには気が利くらしい。

「どうも。悪いね」
「いえ、これぐらいしかできませんから」
「ああ、いや、十分助かってるから」

 そのまま何か話そうかと悩んだのだけれど、合コンで初めて会って、お互いに様子見をするような会話しかできなかった。
 どうやらシェリルと違って、ベアトリスは打ち解けるには時間が必要のようだ。
 そんなことを考えていれば、酒場の片隅で瓶が割れるような音が響いた。
 どうやら待ち望んでいた喧嘩らしい。街中に騎士団が来てるというのに、剛毅なことだ。
 面倒になったので俺は、手近においてあった椅子を、暴れようとしている連中が居る方向へと投げつけた。
 放物線を描いて連中が居る場所に落ちた椅子はがたんっ! と音を立てた。
 そして視線がこちらへと集中する。
 何人かは俺の姿に気がつくと、露骨に気まずそうな顔をした。俺はそいつらに向けてしっしっと追い払うように手を払う。
 それだけで、蜘蛛の子を散らすように酒に酔っていた連中は散っていった。

「酔いより殴り合いより、マツバラが怖いってことらしいわね」
「らしいな。俺みたいな好青年をつかまえて、酷い奴らだ」
「……もしかして、結構酔ってる?」
「まさか。ただ少し、建前を維持できなくなっているだけで」

 酒を理由に乱暴になれるというのは、酔っ払いにのみ許された特権である。
 例え本当は酔っていなかったとしても、少しばかり暴れ易くなったとしても問題は無いだろう。
 というよりも、この荒くれ者が集うギルドに併設された酒場では、少々俺がぶち切れやすくなっていることをアピールしておいたほうが得策だろうという打算もある。どうせ俺がこの酒場で睨みを利かせる機会は、人の出入りが多くなる今回みたいなケースしかないのだから、せめてその期間ぐらいは暴れるなという願望もある。
 ただでさえ、ゲインをして面倒な奴らと言わしめる獣人が二人ほど今夜の内にやって来るというのだから。
 熊族の戦士グスタフに虎族の女戦士ゲイル。
 ゲインいわく歴戦の戦士であるらしいそれぞれが、互いの傭兵集団を引き連れてやって来るというのだから、今夜の本番はそれからだと考えて間違いないだろう。
 できるならば二人共、ゲインがここに戻ってくるまでには姿を現さないで欲しいと言うのが正直なところだが、そろそろ日も暮れて人の出入りも増える頃合だ。今日の内に来るとすれば、まず間違いなく俺がいる間に二人は来るだろうという予測を、俺の理性が告げている。
 非常に面倒なことだ。

「どうしたの? いきなり黙り込んで」
「いや、少し気が重くなって。さっきも言ったけど、今日、ゲインの知り合いの獣人がこの街に来るから。そんな奴らが騒ぎ出して、相手をすることになったらだるいなあと」
「ああ、さっきの話ね。頑張ってよ、マツバラ。多分そんな相手を止められそうな相手なんて、確かに貴方以外にいそうにないんだから。――それに、そもそも来たからといって、必ず何かが起きるっていうわけじゃないんでしょう?」
「そうだけどね。何となく、ゲインの知り合いってところに、嫌な予感がするんだよ」

 理屈では説明できないが、本能でなら説明できそうな、そんな直感が俺の後頭部あたりで渦巻いているのだ。
 俺の説明不足な言葉に、何か感じ取ったのかシェリルは 「何となく理解できそうな気がするわ」と頷いた。
 そう。こういったことはシックスセンスでのみ理解できるのである。
 ……まあ、酒飲みの勘違いである可能性も否めないが。
 そんなことを考えながら、酒のつまみに手を伸ばそうとすれば、こちらも無くなっていた。
 ウエイターを呼んで適当に何か注文しようと思ったのだけど、それよりも早くベアトリスが手を上げて、忙しく酒場内を行きかうウエイターの一人を呼びつけていた。――常に俺の先手を取って行動を取る辺り、彼女は相当気が配れるらしい。
 まあそちらにばかり集中しているから、会話に参加できないのかもしれないが。

「悪いね。本当に」
「いえ、何を頼みますか?」
「そうだな。まあ取り敢えず、コペル肉の唐揚げに、黒キノコのチーズ焼き。あとサラダ一つぐらいかな。――そういうベアトリスは何もいらないの? 誘った手前、ここは俺が奢るから、好きに頼んでくれていいんだけど」
「いえ、私は特には。あまり食べ過ぎると、明日つらくなりそうですから。ここは飲むだけで」
「そっか。確かに、こんな時間から酒のつまみばかり食べていたら胃がもたれそうだ」

 俺の言葉に同意するように頷くと、ベアトリスは寄って来たウエイターに先ほどの注文を伝えた。
 そして料理が届くのを待ちながら、また三人でとりとめのない話を再開する。
 実際に料理が届いてからも、雑談は続いた。
 特に実のある話をしたというわけではなく、九割方がお互いの近況や愚痴、もしくは噂話といったものだ。
 ただそれだけの話であっても、酒の力を借りればそこそこに話は弾んだ。
 途中でまた外から流れてきた傭兵と、地元の勢力がぶつかって小競り合いが生じたために話が中断することもあったが、それさえも酔いが回ってきた俺たちにとってみれば話の種に変わった。
 アルコールが頭に回りすぎれば、何が起こっても面白く感じてしまうことがあるが、まさにその状態になっていたようだ。普段は苛立たしい喧嘩も、その時だけは笑って仲裁できるような気がした。……まあ面倒だったので力づくで解決したが。
 ともかく、そんなふざけた調子で時間は過ぎていった。
 空けた酒瓶の数も片手の指の数では足りなくなってきた頃になると、まずシェリルが潰れた。
 酒にはそこまで強くないらしい。
 そうなると俺と、意外に強いベアトリスの一対一の形式になるわけだが、まだ互いに慣れていない俺たちだ。
 それまで散々飲んできたくせに、シェリルという潤滑剤を失ってしまえば 「あー、……そういえば調子はどう?」などと、気まずい合コンでの決まり文句なども使わざるをえなくなった。が、どうにか酒の力で口が軽くなったベアトリスから普段は聞けないような情報を仕入れていく。
 出身はどうだ、とか。趣味は何だ、とか。
 やったことはないが、見合いの席というやつはこんなものなのかもしれないな、などと考えた。

「あの……、聞いてもいいですか?」
「ん、何?」

 そんな中で、ようやくベアトリスの方からこちらにアクションを起こしてくる。
 会話のキャッチボールを望んでいた俺としては、待っていた展開だ。

「マツバラさんは、どうして傭兵をしているんですか? もっと貴方は、他の職業の方が合っていると思います」

 先ほど注ぎ足した酒が並々と入ったグラスを両手で握り締めながら、ベアトリスはそんなことを尋ねてきた。
 聞いた本人には自覚はないのかもしれないが、聞かれた瞬間に一瞬だけ動きが止まってしまうほど、それは俺にとって鋭い質問だった。――何故こんな仕事をしているのか。
 そこには色々と、理由がある。

「なかなか、突っ込んだ質問だね」
「……あ、いえ、答えたくないのなら、それでいいんですけど」
「いや、別に質問を嫌がってるってわけじゃないから。ただ少し、驚いただけで。ベアトリス、意外と良いところ突いてくるよ」

 恐縮しそうになったベアトリスに、ゆるく笑いかけてから、俺はグラスをあおった。

「そうだな。確かに自分でもこの職業は合ってないと思うよ。まだこんなものより、修道院で雑用でもしているほうが俺は好きだ。それにこれまで事務仕事をした経験もあるし、店の売り子もやったことがあるから、やろうと思えばやれないことはない」

 話し始めた俺の言葉を、ベアトリスは黙って聞いていた。

「ただ、何と言うかそういう職に就くのは危ないって思うんだよ、最近」
「……危ない、ですか?」
「そう。危ないんだ。そういった地域に密着した仕事をしていると、必要以上に愛着が生まれてしまうから。――ベアトリスは、俺が記憶を失ってここにいるって話を知っているだろう?」
「あ、はい」

 俺の言葉に、ベアトリスはこくりと頷いた。
 一応、別の世界からやってきたなどと吹聴しても頭がおかしいと思われるのがオチであるために、俺は周囲に記憶を失っていると説明している。そのことは前に一度、ベアトリスにも教えた記憶がある。
 
「だから、俺はいつか帰りたいと思っている。故郷が何処にあるのか、どうやれば帰ることができるのか、方法はまるで分からないけど、とにかく帰りたいとは思っているんだ。最近は少し、もう無理かもしれないと諦めもでてきたけど、それでも未だに帰りたいっていう思いは強い」
「……そうなんですか」
「ああ。だから、それだけに、これ以上街に定着したくないっていう気持ちがある。この街のことは本当に好きなんだけど、それでも完全に街の住人になってしまうことには、心の中のどこかで拒否感が出る。だからだろうな、この街を形作るコミュニティに属するような仕事をすることは危ないと思えるんだ。――その点、傭兵ならいつでも止めれる自信がある」
「嫌いだけど、だから敢えてやっているんですね」
「そういうことかな。ただし、実入りが良いからやっている点は否定しないけど。何故か、俺、強いから危険もないし。そのおかげで毎日、だらだらしながら暮らしてもいける」

 少しシリアスになった雰囲気を振り払うために、茶化してからそう告げる。
 すると俺の意図を理解したためか、ベアトリスはふわりと笑った。そしてグラスに口をつけて 「これ、美味しいですね」と呟いた。それによって、少しだけ真面目な話が終了する。
 また静かに、俺たちはつまらない話をしながら酒を飲み始めた。
 テーブルに頬を当てて眠り続けるシェリルは一向に起きる気配がなかったために、相変わらずぎこちない会話だったが、それでも最初よりは随分と気軽に話をすることができるようになった気がした。
 そして、そこからどれだけ時間が経っただろうか。
 俺もほろ酔いではすまないような状態になってきた頃合。ふと、騒がしかった室内に静寂が訪れたような気がした。
 静かな俺好みの空間が生まれた理由は何だろうかと思い、室内の人間の視線が集まる先を見てみれば、そこは建物の入り口だった。その場所に、大きな熊のような獣人が顔を出している。
 
「マツバラさん、あの人が――」
「そうだろうな。多分、聞かなくても分かるよ。あれは確かに半端ない」

 その獣人は百八十センチメートルの俺よりも、頭二つ分は背が高い。そして黒い獣毛に覆われた体もがっしりとした、戦士の骨格をしている。太い腕などは比喩ではなく丸太のようだ。この場所に集う腕に覚えがある者達であっても、その体格だけで一歩後ずさってしまうような、異様な凄みがその獣人には備わっていた。
 ゲインが厄介だと言った理由も頷ける。
 あの体格なら力に任せて暴れるだけで、大抵の人間は抵抗する手段を失うだろう。
 熊族の戦士グスタフとか言ったか。できるなら、ゲインが戻ってくるまで来てもらいたくはなかった。

「何してんだよ。あんたみたいなのが入り口を塞いでいたら、後が入れないじゃないか」

 そして、そんな誰もが初見で息を呑んでしまうような熊族の戦士を押しのけて、後ろから赤い毛並みをした女の獣人が姿を現した。ぐいぐいとグスタフだろう獣人を横に押しのけると、建物の中にいる面子をぐるりと見渡した。
 途中、視線が会いそうになったので、そ知らぬ顔で俺は手元のグラスに視線を移した。
 獣人はどういうわけか男女で容姿に露骨な違いがあるから、外見では判断できないが、ゲインから聞いた情報によれば、あの赤い髪の獣人が噂の妹であるのだろう。

「何だ、兄さんいないのか」

 そして、俺の予想を裏付けるように、そんな台詞を女の獣人は口走った。
 ならばこの少し力が有り余っていそうな獣人がゲインの妹であるゲイルと見て間違いない。
 約束は約束である以上、この二人が来てしまったのなら、俺が応待しなければならないだろう。

「悪い、ベアトリス。少し外すよ。どうやらお目当ての二人が一緒に来てしまったらしいから」
「はい。無理をしないでくださいね」

 いまだ眠り続けるシェリルの赤ら顔を見て呑気なものだと思いながらも、俺はグラスの残りを一気に飲み干した。
 そして空になったグラスをテーブルに置いてから、ぞろぞろと室内に入ってきている獣人の集団へと向かっていった。



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