こちらの世界に来てから、少なくない時間が流れた。 その間に少し分かったことがあるのだが、俺のように地球からやって来たと思われる人間は、他にもいたらしい。 地球からやって来た人間と直接出会ったというわけではないのだけど、幾つかの文献を読み解いていくと明らかに俺に似た人間についての記述が存在しているのだ。 それはとある英雄譚の一説。 ――その者、誰にも傷つけ得ぬ鋼のような肉体を持ち、一度駆ければ風すらも切り裂いて疾走する。 ――その心はまさに残虐非道であり、大地に生きる者達に等しく絶望を与えた。 ――長い長い戦いと多くの犠牲の果て、竜騎兵十二士によって彼の者は業火の渦の中へと消えた。 破壊と略奪の魔王ザームエル。 多くの人々を殺し、奪い、犯し、絶望を呼び込んだ暴虐の魔王は、最終的に多くの村々とさらには国二つを滅ぼした。 その名は、この世界で比較的よく知られている英雄譚の中で最大の敵役として登場する。 おそらく四、五歳の幼い子供であっても知っている有名な名前だろう。 その魔王を表す言葉の中にある、鋼のような肉体と、風すらも切り裂いて走るという単語は俺にも当てはまる。 また魔王は人の身に化けていたが、邪悪であるために人語を解することができず、意味不明な唸り声しか上げることができなかったと言われている。この魔王が存在していた時代は友情の指輪が発明されるよりも以前の話であるので、その点についても俺に共通する。 そして魔王を打ち倒した方法が、物理攻撃の効かない魔王を破るために、火竜に騎乗した十二人の騎士達が爆炎の海へと沈めることでようやく勝利したと書かれていることにも類似している点がある。 英雄譚の中の魔王と同じように、俺もまた物理攻撃には耐性があるが、炎や雷といったものには耐性が薄い。 俺と同じ弱点で魔王が葬り去られたと言う事実は、かなり興味深い事柄だ。 唯一今の俺とは異なる表現として、魔王の容貌については悪鬼羅刹さえ幼子に見えるような醜悪な姿だったとある。が、これは時代を重ねるに連れて徐々に誇張されていったものか、或いは行いが蛮行であるだけに当時の人間にとってはそのような姿に見えざるを得なかったということだろう。 そう判断してみれば、今でも最悪の魔王として語り継がれるザームエルと俺の間には共通点しか浮かばない。 つまり、この世界で俺は望みさえすれば、歴史に傷跡を刻むような魔王になることができるということだ。 「……元からこいつが悪人だったのか、それともこの世界でそうなったってことなのか」 子供向けの装飾が為されている本を眺めながら、俺は小さくため息を吐いた。 この共通点に気づいてしまったのは、日本に帰る手段が無いかを探している時だったのだが、その時は本当に落ち込んでしまったものだった。自分が魔王と呼ばれる可能性。 そして、その可能性を否定しきれない自分。 分を超えた力を持つということは、自らを自らで律しなければならなくなるということだ。 それは本当に難しい。 これまでは何か悪事を働けば、法や警察という抑止力によって罰を与えられると言う事実があった。だから自分は法を犯してこなかったという可能性を否定できない。内なる善に従って、自分は慈愛に満ちた生活を送ってきたなどとは口が裂けても言えない。 何か衝動的に小さな犯罪をしたいと考えたことは今までもあったし、これからもあるだろう。 そして問題なのは、これからは何かの悪事を働こうとしても、俺を止められる相手などそうはいないということだ。 そうなればいつの日か小さな悪事を積み重ねを見逃していった末に、やがて倫理観が狂ってしまったとしてもおかしくはない。 この話の中で語り継がれるような魔王となったとしても、おかしくはない。 その証拠として、俺は既に人を殺すことに違和感を覚えなくなってしまっている。 人が適応するのは一瞬ですむ。それまで禁忌だと考えていたことも、手を染めてしまえばやがて日常に様変わりする。 そして、そうなったなら以前の価値観は取り戻せない。 「……怖い、な」 魔法具だけが周囲を照らす自室の中で、衝動的にそんな言葉が出た。 こんな風に前触れも無く、自分の将来が怖くなることは良くある。たった一人、家の中で考え事をしていると、特に。 そして、それは怖いことだけれども、それを感じることが自分を押し留めているという奇妙な確信もまた、俺の中にはあった。 4 「んー、良い感じに晴れてるとそれだけで気分が良いな」 「そうかい? 俺からすると少し暑すぎるんだけどな」 「それはほら、お前って体毛濃いからじゃないのか?」 時刻も場所も変わって、街から遠く離れた開けた平原。 心地よい風も吹き、ピクニックにも最適そうな場所を俺はゲインと連れ立って歩いていた。もちろんその理由は二人でこんな場所まで遊びに来たというわけではない。ギルドからの、緊急の依頼だ。 何でも狩人たちがよく訪れるこの平原付近で、強力な幻獣が現れたために掃討して欲しいとのこと。 これはリムザの街から二つ隣のラムザの街にある冒険者ギルドからの依頼なのだが、依頼を受けた人間が次から次へと帰らなくなってしまったので、気がつけばこの一帯では名の知れたゲインのところまでお鉢が回ってきたわけだ。 そして俺は正直やることがなくて手持ち無沙汰で、 「家の中で考え事ばかりしてると体に毒ですよ」というラクシャのありがたいお言葉を受け賜ったために、勝手についてきている。 ゲインはそんな俺の気紛れには慣れているので、いきなりついていくと言い出しても直ぐに了承した。 しかも報酬まで分けてくれるらしい。普段はあれだが、非常に好青年である。 「いや、先生たちが毛が無いだけだって。――ああ、それと話が変わるけど、先生また変なこと考えてただろ?」 などと、そんなことを考えていたら突拍子もなくゲインがそんなことを口にした。 少しドキリとする。 「あ、何で?」 「いや、顔が普段より情けなくなってるから。そうじゃないかって思ったんだけどよ」 「……普段より情けないってどういう意味だ。せめて普段と違ってと言え」 「ははは、否定しないってことは、変なこと考えてたのは図星らしいな」 自分の予想が当たっていたことが嬉しいのか、豪快にゲインが笑う。 色々な雑念を吹き払うようなその笑い声を聞くと、たびたび悩む自分が馬鹿みたいに思えるから不思議だ。 「まあ、それはそうだけど。……そんなに俺って分かり易いかな。ここに来る前に、ラクシャにも言われたよ」 「自分じゃ気づいてないのかもしれないが、先生はかなり分かりやすいぜ。普段ならぼーっとしてて、悩み事があったら泣きそうな顔して空を見上げることが多くなって、ぶち切れると顔から表情が完璧に消えるからな。慣れれば誰でも分かるようになるさ」 「そっか。――ちょっとポーカーフェイスを保つための練習でもしてみようかな、今度から」 「ちっとやそっと練習しても無駄だと思うがな。特にラクシャなんて、あれで人のこと良く見てるから、あいつに感情を隠し通すのは至難の技だ。それが先生にもなれば尚更だな」 摩訶不思議な昆虫たちが飛び交う平原を歩きながら、ゲインは楽しそうだ。 そして、その言葉に反比例して俺は自分の単純さに向き合わされることになる。 ……確かに、よく妹に考えを読まれていた記憶はある。 「……ところで話は変わるけど、変な化け物がここにいるって話だけど何だか見当はついてるの?」 「あ? ああ。そういや言ってなかったな。普通だったらまずそこから確認するのに、先生と一緒だとそのあたりが疎かになるからいけねえな」 そう言うと、ゲインはがりがりと後頭部をかいた。 「ちらっとここでその化け物を見たって言う狩人の話だと、そこらを飛んでいる虫みたいなのの大群らしい」 「虫の大群? それって、今この平原を飛んでるような奴なのか?」 「いや、こんなのじゃなくて向こう側も見えなくなるぐらいに密集した虫の大群らしい。しかもその狩人が見た限りだと、肉を好んで食うみたいだな。あっという間にコボルトが一匹骨まで残らずに食い尽くされたってよ」 「へえ、食肉虫か。この前のキラーアントに続いてまた別の虫か。つくづく最近は縁がある」 それにしても虫が大群で大型の動物を食うなんて、やはりこの世界はファンタジーだと言わざるを得ない。 まあおそらく、虫程度じゃ俺の皮膚は傷つけられないだろうけど。 「ああ。それで肉を食う虫なら幾つか心当たりがあるが、その中でもこれだけ傭兵が掃討できないぐらいのやばい奴と言ったら、多分ウイッグルの幼生と見て間違いないだろうな」 「ウイッグルの幼生?」 「ああ。成虫になると本当に無害な虫なんだがな、幼生の間は栄養を蓄えるために何でも食う傾向がある。滅多に肉なんて食おうとしなくて、石をかじったり土を食ったり木を食ったりしているのが普通なんだがな。どういうわけか時々肉を好む集団が出てくるんだよ」 「そいつら危ないのか? やっぱり」 「ああ。俺も一人じゃやり合いたくないね。今回は先生もいるからこうして気を抜いていられるけどよ」 「ふーん。――うん?」 と、そこでこれから相手するだろう化け物の情報を聞いている時に、変なものが目に付いた。 俺とほぼ同時にゲインもそれに気づいたようで、じっとそれを凝視している。 「食い破られた兜に胸当てか……。先生、多分ここいらウイッグルのテリトリーと見て間違いないぜ。あいつらは基本的に捕食するとき以外は移動しないからな」 「なら注意しておかないといけないわけか。それにしても、――凄いな。本当に骨一つ残ってない」 俺の眼前の草むらには、所々食い破られた金属製の鎧や兜が数人分ほど転がっていた。 鎧を着込まない魔法使いなどの面々まで考えれば、五、六人ぐらいはやられてしまったということなのだろう。 金属の食い破られ方を見るに、楽に死ねたとは思えない。 虫に食われて穴が開いた鎧を手に取って、握りつぶしてみれば、結構な力が必要だった。 「――まずいな。ゲイン。この鎧、鉄だぞ。それをここまで簡単に食い破るってことは、噛まれたら俺は凌げても、お前は肉を持ってかれるかもしれない」 地球の鉄と、友情の指輪を通して鉄と翻訳された金属は厳密には組成が違う別の金属となる。 そのために全力で握ればこの世界の鉄を俺は握りつぶすことが出来る。 だがそれは容易にできるというわけではない。 かなりの力を入れなければ、俺でも鉄を潰すことは難しいだろう。 そして、そんな鉄をウイッグルは噛みちぎっているということは――。面倒なことだ。 「だろうな。だからウイッグルの幼生は俺も苦手なんだ。……まあ、けどよ、噛まれる前に潰せば問題ないだろうさ。あいつらは咬合力は化け物じみていても、移動速度は大したこと無いから、囲まれなければ問題ねえ」 俺の言葉に、ゲインは飄々と言葉を続けた。 案外、突然ついていくと言い出した俺を簡単にこいつが受け入れたのは、それだけヤバイ仕事だったということなのかもしれない。少し、この依頼に関して気が引き締まった。 そんな俺の変化をゲインは感じ取ったのか、真面目な口調で言葉を続けた。 「それに本当は、今日は様子見のつもりだったんだよ。ここで巣を作ってるのがウイッグルだったらギルドに戻ってから王都と連絡を取るつもりだった。ウイッグルの幼生は国から第二類危険幻獣に指定されてるからな。――辺境騎士団の要請条件に合致するし、ギルドへの補助金もかなり出る」 「第二類指定か。予想以上に厄介な相手みたいだな。早くソレを先に言っておけ」 基本的にこの世界の人々は、戦闘訓練を受けていない人間では倒せない獣を幻獣と総称している。 虫であろうと、魚であろうと、一般人に害を及ぼすことができる存在であるならば幻獣となる。 そしてその中でも特に厄介な相手は国から指定を受けており、危険度の低い第五類から、危険度の高い第一類の指定幻獣が存在している。第五類は以前に俺達が巣を壊滅させたキラーアントのようなものであり、そこまで危険は無い。また、第一類はドラゴンのような巨大で強力で知能も高い幻獣となるために、そんな幻獣と遭遇することは稀だ。 そしてここに居ついていると思われているウイッグルの幼生が第二類であるということは、中々、面倒な事態であるらしい。 かくいう俺も今までに第二類以上の幻獣と戦ったことはない。 「いや、俺も言おうかどうか迷ったんだけどな。どう控えめに考えても第一類指定級の先生にそんなこと言っても意味が無いような気がしてよ」 「人を勝手にドラゴンと同列に扱うな。あと心構えする必要だってあるんだから、次から指定幻獣と相手する時は予め伝えろ」 そう俺が言うと、ゲインは楽しそうに口元を緩めた。 「次から、とはやっぱり先生は剛毅だな。二類指定の幻獣を前にして、死ぬことを考えないような奴は、この地方だと俺を除けば先生ぐらいだぜ」 楽しそうに笑うその言葉を聞いて、俺もまた気がついた。確かに俺は自分が死ぬとは考えていなかった。 初めてこの世界で幻獣を見た時は恐怖に怯えていたものだけれど、今ではまるで幻獣を恐れる事は無い。 これはもしかすると、傲慢なのかもしれない。 ――そんなことを考えている時だった。 どこか遠くから、耳障りな虫の羽音らしきモノが聞こえてきた。音源のする方角へと目を向けると、そこには黒い霧のようなものが広がっていた。じっと目を凝らして観察してみれば、それが霧ではないことは直ぐに理解できた。 「ゲイン」 「ああ、あれだよ。人の頭ほどの大きさに、紺色の体。間違いない、あいつらウイッグルの幼生だ。しかも不味いな。考えていたよりも断然数が多い。あの大群とやり合ったら俺は八割近い確率で死ぬな」 東の空から怒涛のように押し寄せてくる虫の大群は、目視しただけで百数十匹はいるだろう。 そしてゲインの声の緊張具合からも厄介な相手であることは間違いなさそうだ。 バスケットボールほどの大きさの虫が百数十匹、こちらへと迫ってくる光景はスリリングなものがある。 「どうする?」 「――当然、撤退だよ。先生なら生き残れるかもしれないが、俺には相性が悪い!」 言い終えた瞬間に、ゲインは咆哮を上げた。全身の筋肉が、みしみしと軋みながら膨張する。 そして二の句を告げずに、虫の大群が迫ってくるのとは反対方向へと疾走した。 俺も同様にこの場所を離れて、ゲインについて行く。 ただし、何もしないのではここに来た意味がないので、地面に落ちていた拳大の石を拾ってから虫の大群へと投げつけた。 二、三個投げたうちの一つが一体のウイッグルに直撃して、大群から落ちる。だが数が多いだけに余り影響は無さそうだ。 しかもこちらの投擲を警戒するだけの知能はあったのか、ウイッグルの群れは密集を緩めてから、こちらの攻撃に当たりにくくなるように構えた。第二類幻獣の名は伊達ではないらしい。 「先生。やめとけ。あいつら応用力もあるから、ああなったら似たような攻撃はもう当たらねえよ。接近でもしない限りはな」 「ふーん。そう。確かに面倒だ。取り敢えず、ギルドに帰る?」 「ああ。ああいう数に任せて襲い掛かってく虫は、辺境騎士団の“炎の魔女”に任せたほうがいい。俺たちみたいな戦士だと、一匹一匹潰すのには時間がかかる」 「そっか」 追いすがろうとしているが、どんどん距離が離れていく虫の大群を眺めながら、俺はそう返答した。 確かに二人で相手をするには危険が高いかもしれない。皮膚は無事でも目なんかを狙われたら、俺も危なさそうだ。 「なら、このまま街まで全力で飛ばすか。ああいうのを駆除するのは早いほうがいいだろう」 「情報よりも数が増えてるのを考えるに、まだ卵がそこらに埋まってる可能性もあるはずだからな。騎士団に連絡すれば、奴らも大急ぎで来るはずだ」 「そっか。それは僥倖だ。やばそうだから、俺も手伝うよ」 「それはありがてぇ」 そう会話をしながら俺達が地面を蹴ったときには、もう虫の大群は視認するのも難しいほどの彼方にあった。 |