昼間の騒ぎの疲れか、気がつけば俺は眠っていたらしく、うつらうつらと椅子の上で舟を漕いでいた。
 よだれも垂れていたので、慌てて服の袖でぬぐう。誰にも見られていなくて助かった。

「深く考えるのは性に合わないのかな。気がついたら寝てる」

 そう言えば妹も頭を使うのは俺に似合わないとかそんなことを言っていた気がする。そんな過去の記憶を思い出しながら、窓を開いてみた。月が山の上に浮かんで見える。なだらかな風が部屋の中へと入ってきて、やんわりと俺の肌を撫でた。

「よし、寝るか。明日になれば色々と違うことも考え付くだろう。――うん?」

 そんな時だった。視界の端に変なものを見つけたのは。俺がいる家の四階の窓に向かって、小さな小石が投げつけられていた。反射的に手で取って、それを握りつぶす。石は直ぐに砂粒へと変わった。
 石を投げたのは誰か。そう思って目を凝らしてみると、俺の家の玄関の前には女がいた。どこかで見たような顔だが、思い出せない。女は俺のほうをじっと見ていた。言葉は何も発しない。
 時間は真夜中だったので、俺は窓から声をかけるのも躊躇われて、考えた末に一階へと下りてドアを開くことにした。
 悪戯などではなかったらしく、女は俺がドアを開くとやはり俺の家の前に立っていた。



   2



「こんな時間に、人に向かって石を投げるなんて、何か理由でもあるのか?」

 少し睨みつけながら女に言うと、女は大して気にした様子も見せずに腕を組んで強気に言い返してきた。

「だって、子供だってまだベッドに潜り込んでないこんな時間に、貴方が寝てたんだからしょうがないじゃない。叫んだら近所迷惑だろうし、家をノックしても返事も何も無い。だから明かりのついている四階に石を投げてみたのよ。まさか五回も窓にぶつけないとあなたが顔を出さないなんて、予想もできなかったけどね、マツバラ」
「それはすまないことをしたみたいだ。で、俺の名前を知っている君は誰? 悪いけど、記憶にないんだ」
「シェリル。シェリル・オークライトよ、マツバラ。昼間は助けに来てもらったようで世話になったわね。こう言えば分かるかしら?」

 その名前にはまるで覚えが無かったけれど、昼間という言葉を聞いて女の顔を覗き込んでみて合点がいった。
 盗賊たちに攫われた女の中で、唯一意識を保っていた女が、目の前にいるシェリルであるらしい。確かに、こうしてみれば少しだけ記憶に残っている顔と合致して見える。ただ一つ、目の前の彼女からは正気しか見えないという点で、昼間とは大きく異なるのだけれど。

「その顔は思い当たったっていう顔ね?」
「ああ、思い出したよ。それで何をしにこの場所へ?」
「勿論、礼を言いによ。こういうのは直接言わないと気がすまない性質なのよね、私って。助けてくれて感謝しているわ、マツバラ。貴方がいなかったら私はきっと、今ごろ飽きられて殺されているか、そろそろ忍耐の限界に来て頭がおかしくなっていたかもしれないから」

 人差し指を頭に向けてくるくると回し、そしてぱあっと手を開く。明け透けな動作に影は無くて、昼間とは違ってこの女と話をしていてもそこまで気分が沈むことは無かった。

「それで、少し話がしたいんだけど、今は大丈夫かしら?」

 シェリルはもう一度腕を組みなおして、勝気そうな瞳で問いかけてきた。こちらの方は素の彼女の仕草であるのか、どこか似合っている。物怖じしない性格であるらしい。
 本当は眠ってしまっても良かったのだけれど、興味を惹かれて、結局家の中に招き入れることにした。それに、少しだけ昼間は壊れていた彼女が復調しているのかも、気になる。

「ああ。どうせ暇だったんだ。付き合うよ。――入るといい」

 ドアを開けたまま一階の居間へと戻り、テーブルの俺が普段使わないほうの椅子を引いておくと、シェリルはまるで主の如く悠々とそこに座った。変にかしこまられるよりも、よっぽどそちらのほうが扱い易い。
 傭兵なんていう体を動かす職業についているためか、その足取りはしっかりしている。体の軸がまるでぶれていない。ただし、ゲインなどの超本職と比較してしまうとやや劣るのは否めないのだけれど、それは酷というものだろうか。
 台所に向かい、ティーポットを出しながらそんなことを考える。

「何か飲みたいものはある?」
「そうね、貴方は普段は何を飲んでいるの?」
「俺? シアリスの葉から作った茶が基本かな。この辺りに生えている茶葉の中で、一番故郷のものに似ているんだ」
「そうなの。ならそれをお願い」

 きっと家主が好きなものなら、外れはないはずだからねとシェリルは続けた。そして軽く笑ってみせる。
 俺は頷いて、緑茶に似た風味を持つこの世界では割かし高価な葉から茶を作り始めた。湯を沸かして、少しだけ待つ。例え客が来ていても焦って早めに作り終えてしまうなんてことはしない。そうすれば茶の味が死んでしまうからだ。
 そんなことになるぐらいなら、俺は客を帰してでもまた一から完璧な茶を作るだろう。
 だから最初からきっちりと、満足のいくように茶を作るほうがお互いにとっていいのだ。例え客のもてなしが少しの間できなくなったとしても。それが俺のポリシーになる。
 まあ、堂々とそんなことをゲインに向かって語ってみたら、それはただの屁理屈だとか笑い飛ばされてしまったのだけれども。

「手馴れているわね。好きなの? そういったことが」
「好きか嫌いかで言ったら、間違いなく好きかな。美味しい茶ができた時はやっぱり満足感が得られるから」
「そうなの。それは傭兵として戦っている時よりも、良いものかしら?」
「そりゃあね。むしろあっちは嫌いだよ。何かを殴りつけたり、切り捨てたりするのは俺の趣味じゃない。あれはただの仕事だ。割り切らないとやりたくもない種類のものだよ」

 本心からそう言うと、へえと気の抜けた声でシェリルは相槌を打ってきた。興味が無いのか、信じられないのか、どちらなのかは分からない。まあ、どちらであっても構わないのだけれども。
 そんなことを話していたら、湯も沸いてきたので早速、注意を重ねながら茶葉を入れたポットの中に湯をそそいでいく。少しして懐かしい、日本を思い出される香りが鼻腔をくすぐってきた。肩の力が抜けてリラックスしたような気分になれる。

「ん、これぐらいでいいかな」

 二、三回ティーポットを揺すって、香りが均等に混ざった事を確認してから、別のティーポットへと一先ず茶を移す。
 そこで初めてこれ以上、茶の味に濃度の違いが生まれなくなるので、改めてティーカップへと茶を入れる。並べておいたカップに青色がかった茶を満たすと、どこか畳のある和室に帰ったような気持ちになった。なんて感じるのは自画自賛かもしれないが、どうやら今回もできは悪くない。自信を持って、テーブルに座るシェリルへと差し出してみせる。

「……変わった香りね。嗅いだことが無いわよ、こんなの」

 だけど反応は悪いらしい。仕方が無いか。わびさびの籠もったこの味を理解できるのは、緑茶民族である日本人ぐらいだろうからな。どうにもこの世界は紅茶系やハーブ系の味が好まれるようで困る。
 凄い疑わしい表情でシェリルなど茶を眺めているが、失礼極まりないんじゃなかろうか。

「まあ、そうだろうね。このあたりじゃ手に入れるのに結構手間がかかるらしいから、普通の人はこの茶をかいだことなんてないだろうさ。ただ、味はどうなのかな? 今まで飲ませた奴らの反応から見ると、五分五分だと思うよ」
「五分って言うのはどういう意味で?」
「それは勿論、飲み込むか、吐き出すか」
「……悪いけど、残したとしても怒らないでちょうだいね。少し、飲む自信がなくなってきたわ」
「まあ、それは構わないよ。俺だって、誰もが飲めるなんて思ってないから。これ元々はマナ回復系の薬葉だからね、良薬口に苦しっていうけど、嫌がる人だって出てきたとしてもおかしくない」

 ふふんと薀蓄を語ってみると、そこで露骨にシェリルははあとため息を吐き出した。この家に入ってから、初めて彼女の眉が釣り下がる。躊躇っているようだけれど、――あ、鼻つまんで飲み始めた。そこまで匂いがきついかと突っ込みたかったけど、吐き出さなかったから許す。
 シェリルはそのまま一気飲みの要領でごくごくとシアリスの茶を飲み干してしまった。

「ぷはっ、――あら、これ飲んでみたら悪くないじゃない。ていうか美味しいわね」
「うん、これまでの俺の特製茶に対する態度が無礼だったけど、その言葉で水に流しておくよ。その通り、この茶は美味しいんだ。まったく一般人はこの味わい深さを理解出来ない奴が多いから困る。そう思わないか?」

 特にこりゃあ雑巾汁かい、先生とか言ってた獣人とかは間違いなく処罰する必要があると密かに俺は考えている。
 カストール一家などは皆、普段飲んでいるお茶とこのお茶をすり替えていても、平然とした様子で食事を進める胆力を持っているというのに。

「いやまあ、それはねえ。人それぞれ好みがあるから仕方がないんじゃないの? ――というか、何か貴方は変わってるわね、マツバラ。ギルドでは“南の狂戦士”にも劣らない凄腕って話を聞いたのに、こうやって話してみるとお茶の話ばかり。あなた確かに本物なの?」

 どうやらシェリルは茶の話にはそこまで興味は無かったらしく、話を切り替えてくる。というか、昼間の俺と印象が違いすぎて驚いているのだろうか。よく考えれば、それは有り得る。
 人殺しが、茶を語るなんて、確かにおかしい話だ。少し気分が悪くなる。

「……うーん、ギルドでどういった話を聞いたのかは知らないけれど、これが俺だよ。ちょっと噂とかは誇張されてる面もあるかもしれないな。少しぐらいは嘘が入ってるかもしれない」
「そうなの。なら、紫の月に大量発生したキラーアントの巣を叩き潰したって言う話は眉唾ものになるのかしら?」
「それは嘘じゃないな。ただ、一人じゃ手間がかかるからゲインと組んで巣は潰したはずだけど」
「だったら、先々月の岬の廃城を住処にしていたイグニス・ファトゥスの殲滅作戦と、今月の苔妖精に攫われた子供達の奪還作戦に関わっていたっていうのは?」
「それも確かに、俺がやった。ことになるのかな? 何だかそこまで活躍した記憶も無いけど、勝手に終わってたような気がするな。少しばかり苔妖精からかけられた謎かけを解くのには役立ったような気がするけれど」
「なら今日。騎士崩れの山賊を殺して回ったのも貴方なのよね?」
「……ああ。まあ、そういうことになるのかな。全部、覚えているよ」

 最後だけ、少し頷く際に苦々しい気持ちが甦った。あれほどたくさんの人間を殺したのは、こちらの世界にやってきてから初めてだった。恐らく確実に俺の倫理観はあれで歪んでしまっただろう。そんな確信が胸にある。

「そうなの――。ならやっぱり貴方がリムザの街のジョーカー、マツバラで間違いが無いのね」
「ジョーカー、ね。そういう風に呼ばれてるのは知ってるけど、正直どうなのかなっては思うよ。俺みたいなのは、必要な時にはジョーカーから一気にブタに成り下がったとしてもおかしくないから」
「そうなの?」

 問い返してきたシェリルの言葉に、そうだと頷こうとして、反射的に右手を前に出した。

「――何のつもり?」

 飛んできた物体を掴み取る。ばきりっと、一拍遅れて手の中で木材が壊れたような音がした。手を開いてみてみれば、何と言うことのない、木でできた小さな人形のようなものが、俺の手の中で無残な姿を曝していた。咄嗟の判断になると、力の制御が出来ないので掴んだものは壊してしまうことが多い。
 投げつけたのは間違いなく目の前のシェリルだろう。

「完璧に間合いは外したつもりだったのに、通じないのね。改めて確信できたわ、やっぱり貴方がこの街で最強の傭兵だって」

 シェリルは何やら満足げにこちらを見据えながら頷いている。
 何のためにやったのかは知らないけれど、少しその礼儀とかを知らない態度に、俺にしては珍しく怒りを感じた。睨む。強く、本気で。刺すように。

「……悪いけど、日に二度も物を投げつけられる趣味はないんだけど?」

 びくりと、その瞬間にシェリルの体が電撃を打たれたかのように硬直した。ゆっくりと、口を開く。

「……ごめんなさい。悪かったわ。ただ、少し信じられなかったのよ。貴方みたいな穏やかで虫を殺すのも嫌がりそうな男が、私達が束になっても叶わなかった盗賊団を壊滅させたのかと思うと」

 結局、視線の圧力なんてものは生物としての力の差に比例するらしく、俺が本気で睨めばシェリルは重圧を感じざるを得なかったのだろう。向かい合ったテーブルの先に、生物としての基本性能が格段に違う俺がいることを認識したのか、口を詰まらせながら弁解の言葉を口にし始めた。
 こういった脅すようなことは嫌いなのだけれども、舐められ続けるわけにもいかないのでしょうがない。今日は少し気が立っているのも原因だろう。精神が不安定になっていて、一言で言えばキレやすくなっているみたいだ。

「少なくとも、……私が所属していた傭兵団の人間はみんな、毎日強くなるために体を鍛えたり、魔法の腕を磨いていたのよ。それなのに、ギルドでは強いくせに人と戦うのが嫌いな臆病者だとか言われていたり、実際にこうして会ってみればお茶が好きな、戦いが嫌いだとか言う男一人に壊滅させられた盗賊団にすら、私達が勝てなかったなんて悔しいじゃない。だから、貴方には失礼なことになったかもしれないけれど、せめて貴方が強いってことだけは確認したかったのよ。……そうしないと、何だか惨めすぎて」

 言い終えてシェリルは顔を少しだけ俯かせる。視線は手元のティーカップのあたりを彷徨っていた。
 まあ、分からない話じゃない。俺の力なんて、この世界に迷い込んだ時に得られた偶発的なものだ。別に日々のたゆまぬ努力だとか研鑽があって手に入れたものではなくて、ただの運でしかない。
 確かにシェリルが努力を続けてきたのなら、この結果は納得出来ないものなんだろう。俺みたいな強さなんてまるで求めていない人間に、自分たちを打ち負かした存在が散々に殺されつくしたという結果は。
 ただ、だからといってどうすることもできない。これはもう虎が生まれながらに虎であり、そして鼠が生まれながら鼠であるという種類の事実でしかない。変えることなんてできない話だ。
 少しだけ同情はする。彼女にも、俺のようにふざけた力が備わっていたなら、あんなことにはならずにすんだのにと。ただし、それだけだ。

「そういうことなら、最初から言ってくれれば応じたのに。……まあ、いいや。取りあえず、今日、物を投げつけられたことは忘れておくよ」
「そう? ありがとう。今日は迷惑をかけてばかりで御免なさい」
「いや、いいよ。――それでこれは捨てちゃっても良いの? 人形、みたいだけど」

 かつては人型だった、右手の中の木片を見せてみると、少しだけシェリルは寂しそうな表情になった。うっすらと笑う。

「ええ、処分して。こちらからお願いしておくわ。もう、持っていても意味が無いもの。――それを贈ってくれた人は、今日死んじゃったから」
「……そっか」

 吹っ切れたような言葉を聞いても、気持ちが沈むのはしかたがないことだろう。反射的に握りつぶしてしまって、悪い事をしたかな、とも思ったけれどシェリルの言葉に嘘があるとも思えなかった。
 それに投げつけてきたということは、よく考えてみれば、もう手元には持っていたくなかったということなのかもしれないと考え直す。少し悩んで着ていた麻布のベストのポケットの中に壊れた人形を入れた。

「それで、話っていうのはそれだけ?」
「ええ。本当に悪かったわね。今日はもう、これで帰らせてもらうわ」
「そう。――送っていこうか?」

 疲れた表情で椅子から立ち上がったシェリルの横顔に危うさを感じて、そう提案してみる。
 だが、シェリルはゆっくりと首を横に振る。

「ありがたい申し出だけど、結構よ。あなたや南の狂戦士が住んでいるこの町で、馬鹿をする人間なんていないでしょう。それに今はまだ、一人のほうが気が楽だから」
「そっか。――また何か尋ねたいことがあったら来るといい。俺は大抵暇してるから、ここにいる」
「分かったわ。ありがとう。夜分に押しかけたのに、色々としてもらって悪かったわね。――おやすみなさい」

 そう言って、シェリルは俺の家から出て行った。
 決して振り返ることもなく、ギルドの支部がある方向へと歩いていく。
 俺はその姿を見て、また少しだけ気持ちが沈んだ。

「……なんだかな」

 ただの勘だが、シェリルはこの先、二度と俺の前には現れないだろうと言う予感がした。



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