この世に生を受けた時より、彼は強者だった。
 親から受け継いだ強靭な肉体。何物も捕らえられぬ速さ。立塞がるものを砕き去る膂力。
 その全てが他を圧倒していた。
 齢九つで戦士として認められ、十三になる頃、既に集落の中でも強者として認められる。
 同年代の者で、彼に並び立つ存在など、なかった。
 彼は自らが強者であることを天命として理解し、死ぬまでそれは変わらないと信じていた。
 それは慢心であったのかもしれない。
 十八になった時。集落の誰もが認める指折りの戦士となった彼は、当然のように族長の候補として選ばれた。
 何故ならば、族長とは集落で最も強い者から選ばれるしきたりがあったためだ。
 彼は自分以外に相応しい者などいないと信じていた。
 だが、しかし。その族長選抜の儀式。
 族長候補同士が武技を競い合う模擬試合。模擬とは言っても、ほとんど殺し合いのような戦いにおいて、彼は敗れた。
 それは凄まじい衝撃であった。体中を覆う痛みなど、まるで気にならないほどの衝撃。
 子供の頃より、一度も後れを取ったことがなかった相手に、彼は初めて敗れた。
 その事実は途方もなく重たいものだった。
 強者として生まれた自分がなぜ敗れたのか。
 自分には何が足りなかったのか。彼は生れて初めて突き当たった壁に困惑した。
 まさか一対一で自分が敗れるなどとは、――その事実に頷くことができない。
 敗北を受け入れられない。
 彼は困惑と結果を呑み込めないままに、集落を去ることを決意した。
 表向きは別の理由をつけていたが、本心では敗者である自分が留まることを恥じていたためだ。集落にいたくなかった。
 自分が負けた理由を悟るまでは、決して戻るまい。そう決意して故郷を発った。
 彼はそこから世界を旅した。
 彼を破った戦士は、子供のころはただのでくのぼうであった。それが三年間の旅路を終えて帰ってくればあれほどの力を身につけていた。
 それならば自分も外に出れば鍛えられるかもしれない。そんな希望的観測もあって、旅をした。
 旅をする最中で、腕を磨くことができそうな相手とは進んで戦った。
 賊、幻獣、軍、傭兵。理由などなくとも、機会さえあれば切り結んだ。
 だが彼は自分が強くなる実感を得られずにいた。
 外の世界の生物はことごとく弱かったためだ。これならば集落にいた方が、まだ相手には恵まれている。
 そう思い、外の世界に見切りをつけ、故郷へと帰ろうか迷ったころ。
 何の因果か、近隣の火山に竜が舞い降りたという話を耳にした。それも真竜。
 人語を理解し、神に匹敵する力を持つという古き生き物。今はもう、世界の中心。竜極の頂に存在するだけだと信じられている幻獣。
 それが二百年ぶりに大陸に姿を現した。
 己の力を磨くことを求めていた彼は、吸い込まれるように真竜の下へと向かった。そこに何かあるような気がしたのだ。
 竜が降り立った火山はすでに幻獣達の巣窟となっていた。
 古き生き物であり、神ごとき力を持つ真竜は、理由は不明であるが幻獣達により守られる。
 真竜は幻獣の王であるとも伝えられているし、あるいは幻獣を作り出したのは真竜であるという話さえあるが、真偽は誰にも分からない。
 だが歴史書を紐解いてみれば、真竜が降臨した場所は、深淵の森然り、帰らずの砂漠然り、以降何百年に渡って人が足を踏み入れられない領域となる。
 火山は山の麓であっても既に幻獣で溢れていた。近隣の国から派遣された軍隊も、その拡散を防ぐのが精一杯で真竜の元まで辿りつけずにいる。
 姿を現した真竜は何も伝えることなく、ただじっと誰かを待つかのように火山に留まっていた。
 時折、山の周囲を旋回する真竜の姿はひたすら偉大だった。
 彼は気がつけば山の頂上を目指していた。
 真竜を倒すことを目指す者などいない。それは不遜でしかないからだ。
 だが世界が始まった頃より生きてきたと言われる存在と顔を合わせる機会があるのだ。
 知識を求める者。栄誉を求める者。種の限界を超える力を求める者。
 多くの有象無象達が、ただ真竜と言葉をかわすためだけに、頂上を求めた。
 彼もまた他の腕の立つ人間達と組んで頂上を目指した。
 山道はこれまで見たこともない強力な幻獣で溢れていた。いや、それだけではなく真竜の強大な魔力に惹かれた妖精達もまた、あたり構わず混乱を助長していた。
 それは力なきものが、一瞬で命を奪われる地獄であった。
 進む先に遭遇する者達全てが、真竜までの道のりを阻む。
 お前達に用はないと、選別をするかのように。
 彼は竜に拒まれているような気がした。だが、ここまで来れば引き返すなどという選択肢はない。
 過酷な道のりを、ただただ真っすぐに踏破していった。
 しかし頂上を目指す中で、一人、また一人と命を落としていく。
 気がつけば火山山脈の中腹まで辿りついた時、彼を含めて三人しか息をする者はいなかった。
 そして彼を除いた残りの二人は、顔を落とした。無理だ。そう告げる。
 絶望的な状況に諦めたのだ。引き返すべきだ。二人は彼に進言した。
 だが、彼は今さら引けなかった。
 幼少の頃より、彼という存在を支えてきた背骨は、ただ強いという事実であったのだ。
 そして無様にも敗れ、今の彼には自らを証明するモノがない。それは戦士にとっては耐えようがない屈辱であった。
 真竜に、真竜に会いさえすれば、何かが変わるような気がする。
 熱に浮かされたその思いだけが、彼を動かしていた。
 そして二人とは決別する。
 彼は一人で山頂を目指した。そこは苛烈な幻獣の巣であったが、彼は何とか生き残ることを許された。
 そして山頂に半死半生の状態で辿りつく。
 せっかく近くで見ることができた真竜の姿は、出血のためか霞んで見えた。
 そして山頂で首をもたげていた竜は、彼を見ようともしていなかった。
 彼以外の誰かを見ていた。
 誰だ? 自分が死に物狂いで辿りついた場所に、他の誰かがいることを最初、彼は信じられなかった。
 だが確かに彼の目の前には男がいた。真竜と一人で向かい合う男がいた。
 細く華奢な体格。背丈だけは彼と同じぐらいだが、その全てが頼りない。戦士には見えない。だというのに、その男は目立った傷すらなかった。
 その事実に背骨が震える。
 彼の前で竜と会話を交わしている男は何かを叫んでいた。
「――としたら、俺はっ―――毒で――――言うのか!」
「……然り」
「――――ッ!」
 悠然とたたずむ真竜に、食ってかかるように男は叫ぶ。
 だが真竜は、その男の姿を静かに眺めていた。いや、哀れんでいたのかもしれない。
 彼は判断できぬまま、真竜と男の会話を眺めていたが、やがて意識が飛びそうになる。
 それをどうにか耐えるが、また視界が薄れていく。
 音が聞こえなくなる。
 真竜と男はやはり何かを話していた。
「……ゆらめく場所、それは……である。…………ゆえに、……」
「――っている! だから俺は、――――と言っているんだ!」
 聞こえてくる言葉の意味が分からない。
 分からないが、彼は自分が意識を保てるのがあと少しだと自覚した。恐ろしいほどに眠い。
 だからせめて、意識を失う前に、せめて目の前の男の姿だけは覚えておく。
 そのことに意味があるような気がした。
「…………」
「――それなら、俺は帰ることを望んではいけないのか!」
 最後に聞こえた男の言葉。
 それは悲鳴にも似た絶叫であった。彼はその時の記憶だけは覚えている。
 そして山頂の記憶はそこで途切れる。
 気がつけば彼は火山山脈麓の村のベッドに横たわっていた。
 聞けば見慣れない男が傷ついている彼を連れてきたため、介抱したとのこと。
 彼が男の名前を尋ねれば、分からないと首をふられる。ならば様相はと尋ねれば、頼りなさげなひょろっとした若者だったとのこと。
 若者は彼を預けると、いつの間にか姿を消していたらしい。
 そして真竜もまた、彼が倒れた直後に大陸から飛び立ち、竜極へと戻ったという。
 彼は自分を連れてきた若者というのが、山頂で見かけた男だということを半ば直感で確信した。
 そしてベッドの横に置いてある硬い岩盤のようなモノを目にして、首をかしげる。
「これは?」
 彼が尋ねると、介抱してくれた男は笑った。
「何をおっしゃっているのです。これは貴方が真竜より譲り受けた真竜の鱗なのでしょう。貴方をつれてきた若者が、そう仰っていましたよ」
 彼自身にはそんな記憶はなかった。にも関わらず、真竜と言葉もかわせぬままに倒れた彼には、いつの間にか真竜の鱗が与えられたようだった。
 おそらく山頂にいた若者が与えてくれたのだろう。何のためかは解らないが。
 そして、他人の手によってもたらされた結果が、彼の名を爆発的に高めることになる。
 以前より大陸の南方で狂ったように武者修行の旅を続け、ついには真竜の下にまで辿りついた蛮勇の戦士。
 人々はその無謀さと、何よりも強さを讃えて彼をこう呼ぶようになった。
『南の狂戦士』
 それは現在よりも、一年半ほど前の話になる。



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