1−1/


 俺が復興軍を辞めるとかいうアレ。話を切り出すと皆は、想像していた通り亜衣の時の比では無いほどに反対したが、根気良く説き伏せることで最終的には理解してくれた。若干名、まだ納得していないような奴もいるにはいるけど、総合的に見れば納得してもらったに決まっているのだ。
 多分。……ちょっと自信ないけど。
 そういうことで今、俺は名を変え衣服も変えて、新たに生まれた火魅子が統べる城下町で暮らしている。




     耶麻台復興期 / 九峪の視点




「よしっ、今日の授業は終了だ」

 そう言って本(←超貴重品!)を閉じると返ってきたのは元気の良い「はーい!」という声。にこにことした生徒達の表情を見ていると、どうやら俺の授業は余り好かれているわけではない様だと感じた。恐らく、小さな子供であっても力仕事ばかり強いられる生活が長く続いてきたために、頭を使う勉強はひどく疲れるものになってしまっているのだろう。それはきっと悲しいことだ。
 もちろん、俺の授業がつまらないからという理由もあるんだろうけど。

「雅比古せんせー、さようなら!」
「ああ、また明日。宿題はちゃんとやってきてくれよ」
「えへへ。頑張ってみる」

 子供は風の子だとか誰かが言っていたけれど、本当にその通りだ。つむじ風のように颯爽と俺の脇を走り抜けて家の外へと出て行く。それも一人ではなく半分くらいの生徒達が、だ。
 何か一緒になって遊ぶ約束でもしているのだろうか。
 どうせなら暇だから俺も混ぜてもらうべきだろか。なかなか迷うところだ。

「よし、ここは生徒との連帯感を高めるためにも一緒に――」
「……それは止めてください」

 と、教室を出て行った生徒達と入れ替わるかのように一人の人物が入ってきた。

「おお。お隣さんの伊万里じゃないか。どう? 狩りは順調?」
「……それは順調ですけど。というよりも本当に馴染んでいますね。実際にこの目で何度見ても信じられそうにないんですが」

 退職金代わりに貰った、俺が住んでいる質素だけどたくさんの子供が入ってこれる広さを持った自室兼教室の隣に住んでいるのは、何を隠そう、山人出身の伊万里だった。
 万難辛苦を排して九洲の統一を果たした後に彼女は、何が原因であったのか 「色々と考えたのだけれど、自分はやっぱり王族としては向いていない」と言い出して継承権を早々に破棄し、「いや俺、復興した後に居座っても邪魔なだけだろうし。ていうかむしろ街中で教師とかやってみたいなあ」とか言い出した俺と一緒に復興軍を抜け出してきた経緯がある。
 あのまま復興軍に残っていれば、最低でも将軍職、最高なら火魅子になり得ていたかもしれないのに、それを放り投げて一市民に戻ろうとあっさり決意できるのは伊万里の凄いところだと思う。

「あっはは。やっぱり俺はこっちの方が地の状態なんだろうな。朝起きて、子供構って、それで疲れたら眠るって生活のほうが格段に楽だよ」
「そうなんですか? 私の目からすれば、あの時の九峪様のほうが――」
「待った。伊万里。忘れてるぞ」

 と、どこか愚痴るような調子で相槌を打ってきた伊万里の言葉を止める。今、伊万里は言ってはならないことを言ってしまったからだ。具体的に言うと、俺の名字とかだ。

「あ、すみません。どうにも、癖が抜けないもので。あの、その、ええっと、ま、ま、雅比古さん」
「そう。それでいいんだよ、伊万里」

 自分が決まりごとを忘れていたのが恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にしている伊万里の言葉に頷いてみせる。
 何を隠そう俺の九峪という名前は、九洲を取り戻した偉いえらーい神のお遣い様の名前と言うことで知れ渡っている。そんな名前を一教師にすぎない俺が名乗ったら不敬罪にでもかけられかねない。だから今はあんまり知られていないマイナーな下の名前の雅比古を名乗って俺はこの街で生活しているのだ。
 名前に反して俺の素顔は全然知られていないらしく(警備上の問題から余り俺は顔を一般の人達には見せなかったからだろう。下知とかそういうのは全部顔見せの意味も兼ねて火魅子候補にやらせていた)こんな質素な小屋で教師をやっていてもばれる様子は無い。
 堅苦しいのは本当に嫌いなので、俺にとっては実に嬉しいことだ。

「それで、わざわざ家まで来てくれたみたいだけど、どうかしたの?」
「あ、いえ。今日は狩りで中々の大物を仕留めることができたので、鍋にでもしようと思いまして。もし、あのその……もしですが、よろしければご一緒にどうかと」
「へえ、大物かあ。伊万里が大物っていうんだから、そりゃあ世間一般で言う超大物なんだろうな。で、仕留めたのは何?」
「猪です。超がつくほどの大物かは解りませんけど、滅多にお目にかかれない型の良い奴でした」
「なら牡丹鍋か。――よし、絶対行く。間違いなくお呼ばれさせてもらうな。で、何時ぐらいからやるの?」
「私はいつからでも構わないのですが、上乃が用事があるとか言ってますので、夜からにする予定ですけど大丈夫ですか?」
「うん夜か。大丈夫。今日は何もすることがなくて、一人で寂しく夜を過ごす予定だったから、ありがたいお誘いだよ」

 真面目な話、俺は純粋な九洲の人間ではなくて、復興軍の最中枢にいたために一般人との交流が無かったので、全くといっていいほどこの付近には友達がいない。最近は勉強を教えている子供の親御さんと少しずつ交流を深めているが、それも教師と保護者みたいな関係でしかなくて、言ってしまえば俺には遊び相手がいない。
 そんな俺を優しいことに色々と誘ってくれるのはお隣さんの伊万里や上乃だったり、少し離れた場所に診療所を開いて遂に九洲に住み着こうという構えを見せ始めた忌瀬ぐらいだったりで最近は実に暇していたのだ。だからこのお誘いは渡りに船、鴨がネギしょってやってきてくれたような(?)ものだ。間違いなく手離すわけにはいかない。
 何にしても、このお誘いを手離せば子供に混じって遊ぶとかいう、ちょっと冷静になってみれば寂しさの余り枕を濡らしかねない選択肢ぐらいしか残っていないのだからなっ。

「そ、そうですか。でしたら、夜にまた。準備ができたらまた来させてもらいますから」
「そっか。悪いね。で、伊万里はそれまで何するの?」
「一応、鍋に入れる他の食材を市場まで行って手に入れてくるつもりです。流石に肉だけでは寂しいですからね」
「へえ、買い物? なんだか楽しそうだな。それ、俺もついていっていい?」

 やることもない、ただ待つだけの身にとっては買い物という言葉はなかなかに魅力的だ。
 実はこう見えて、昔から日魅子の買い物に付き合わされてきたためか、悲しいことには俺は男の癖して買い物が嫌いで無いという特徴があったりもするしな。
 そんな俺の突然の提案に伊万里は最初、驚いたようにちょっとだけ目を大きく開いたが、すぐに普段の表情に戻って頷いた。

「ええ、いいですよ。ですけど、付いてくるのなら細々とした軽い物ぐらいは持ってくださいね」

 そう言って軽く微笑む。
 最近の伊万里はこんな普段の動作もキレイになってきていて、ドキッとさせられることが多い。女は恋をしたら美人になるなんて言うけれど、伊万里もそうなのだろうか? 
 ……だとしたら、ちょっとだけ男として悔しいかな。いるのかさえ分からない、顔も知らない相手に何故か敵意が浮かんでくる。
 ここは一つ、ちょっと俺も頼りになるという厳然たる事実を知らしめてやらなければなるまいか。

「いやいや、伊万里みたいな女の子に重い物を持たせるわけにはいかないだろ。俺がどーんと重たいものを持ってやるよ」
「いえ、嬉しい言葉ですけど、いいです。どうせ持てませんから」

 しかし何故かさらりと流される。
 うん? というか、どうにも伊万里の中で俺は非力キャラに分類されているような気がするのは気のせいだろうか。……だったらいいな。そんなことを思う。
 そして何故そこで俺は 「いやいや俺が重たいものぐらい持ってあげるよ、伊万里」なんて言葉を口にできないのだろうか。
 実に謎だ。


 生物としての力の差を肌で感じ取っているからなんて情け無い事は、きっとない。――はずだ。


   1−2/


 買い物はあっという間に終わってしまった。日魅子とは違い、伊万里は全然他の物に目移りしたりするようなことがない。あらかじめ買うと決めていたものを、ただ粛々と買うだけ。何とも素朴で質素で真面目なものだ。
 仮にこれが日魅子であったなら、鍋に入れる野菜を買い終えたら何故か次に装飾品の物色を始め、続いて香水やら化粧水やらごちゃごちゃしたものを購入して、あまつさえ荷物を俺に持たせてなおかつ、帰り道に感覚的にぴんときた喫茶店でも見つけようものならそこに突入して 「もち九峪の奢りね」などとふざけたことを抜かしながらコーヒーやらデザートやらを口にして、いざ家に帰ってから鍋を作ってみれば 「おなか一杯。私はお肉だけ食べるから、野菜とかそーいうの九峪にあげる」なんてほざくに決まってるのだ。
 そう考えてみると、なんて伊万里は健気な子なのだろうか。
 相手に奢らせようとか、甘える振りして搾り取ってやろうとかいう薄汚い心根がまるでない。これはもう天使なのだろうか。ちょっと無愛想だけど、それはそれでチャームポイントだと考えれば、これはもう、伊万里は地上に舞い降りた最後の天使だとしてもおかしくはない。間違いない。
 まあ、というよりも日魅子のばかが性根が曲がってるだけなのかもしれないけどな。
 そんなことを考えながら、伊万里と一緒に帰路へとつく。
 すると、それまで口を開いてこなかった伊万里がふいに口を開いた。

「すみません。雅比古さん。つまらなかったですよね」

 どことなく寂しそうな表情で笑う。伊万里にしては珍しい姿に、少しだけ驚いてしまう。
 俺が暇つぶしよろしくご一緒させてもらってるだけなのに、何をかしこまってるのだろうか。別にもう、俺は神の遣いだとかそんな存在に見られる必要性も、そんな意思も無いのに。
 周りの人間も、隣の美人さんをしゅんとさせてる若造が気に入らないらしく、すっごい刺すような視線をびしばし感じる。

「いきなり、どうしてそんなことを言い出したんだ? もしかして、まだ俺が昔偉かったとかそんなことを気にしてる?」

 もう俺はただの一般人だ。そうアピールするために両手に軽い野菜を持ったまま、おどけて肩をすくめて見せる。まあいつもの九峪的軽い冗談だ。普段なら、そこで伊万里もちょっとだけでも笑ってくれる。はずだった。
 だけど、今回は違ったらしい。
 そっと伊万里は首を横に振った。

「いえ、そうじゃなくて。どうにも私の話がつまらなかったようでしたから。すみません。私、どうにも口が下手なもので」
「……んんっ? どうしてそんなこと言うの?」
「いえ、あの。……何と言っていいか。私は上乃のように上手く喋れないので。どう言えばいいのかな」

 悩んだように、ためらうように、伊万里がそこで言葉を止めた。途中で区切られたせいで、伊万里が何を言いたいのか余計に気になってくる。何かちょっと言いにくいことでも考えているのだろうか。

「何でも言っていいよ。別に怒ったりしないし、それに伊万里が何を考えてるのか知りたいからさ」
「……本当ですか?」
「うん、本当」

 見つめ返してきた伊万里に、にこりと頷いてみせる。伊万里は少しだけ判断にためらったようだったが、やがて口を開いた。

「それなら、言わせてもらいますけれど、……どうにも雅比古さんが上の空だったようでしたので。やっぱり私の話題は、どうしても味気ないから。すみません」
「……んんー。そんなに俺、上の空だったかな?」

 そう言われて内心で激しくギクリとした。とぼけた口調で尋ね返してみたけれど、これじゃあ弱すぎる。焦っていることがばればれだろう。ふっと頭の中を、してやったりという風に邪悪に笑う日魅子の顔が横切った。
 ……確かに。言われるまで気づかなかった俺は最低だが、買い物の最中は結構昔の事を思い返していたような気がした。懐かしかったんだろうか。駅ビルやデパート、スーパーとか、そのあたりのことを。そして、日魅子とかのことを。

「はい。……あ、けど、それで雅比古さんを非難してるとかそういうわけではなくて。上乃と一緒の時だと、少しは喋れていたから、私も少しは会話を持たせられるようになってきたのかなって思っていたんですが。どうも、それもただの勘違いだったらしくて。……それが申し訳なくて」

 俺が口ごもったのを、自分のせいだと思っているのか、伊万里がますますかしこまる。
 どうしたものか。凄まじく罪悪感が湧き上がってくる。確かに、伊万里はいつもより買い物の最中に自分から話しかけてきていたし、受け答えにも色々と柔らかさがあったような気がする。それに気が付かずに、昔を回想して、あまつさえ伊万里と日魅子を比較していた俺は何て馬鹿なんだろうか。相変わらず、昔からこういうところで他人をむやみに傷つける自分の悪癖が直っていないのだと気が付くと非情に情けない。
 どうしようもなくなって、意味もなく反射的に頭をかいてみて、――その動作を見てますます表情を暗くした伊万里に気が付いて、慌てて手を引っ込める。
 うむ、どうしよう。せっかく人と打ち解けようとしている伊万里の努力を水泡に帰してしまうのはかなり不味い気がする。どうにかうまいフォローは無いものか。頭を必死に回転させて考えてみるけれど、回答は出ない。顔に笑顔を浮かべてみても言葉を出せないなんてシュール極まる。……これから楽しい鍋なのに。下手をすればお流れになりかねない雰囲気だ。
 気まずい。
 お互いに史上類を見ないほどに気まずすぎる。
 そんなことを考えながら二人して黙々と道を歩く。まさしく袋小路一直線である。
 何か良い手はないものか。そんなことを考えた時だった。――ソレに気が付いたのは。

「ま、この話は家に帰ってからゆっくりしような、伊万里」

 そう言いながら強引に伊万里の肩を抱く。そして耳元に口を近づける。突発的な行動に狼狽したのか、びっくりしたように体を小さく跳ね上がらせた伊万里は 「え、え、ええっ、あ、う?」などと急激にどもり始めた。男に触られるのは余り好きそうじゃないから、きっと湧き上がる怒りを自制しているのだろう。
 だけど、今は我慢してもらわないといけない。

「――静かに。後ろ、付いてきている」

 口が触れるほど、吐息が感じられるほどに近い位置から、伊万里の耳元でそう呟く。伊万里はビクッとまた体を硬直させかけたが、途中で俺の言いたい事に気が付いたらしい。体から力を抜いて、後方の気配を探り始めた。
 そう、気配。俺たちの後ろをつけている誰かが確実にいた。
 俺は結局、耶麻台国を復興させるまで貧弱なままだったけれど、一つだけ胸を張って成長したと言える特技がある。
 それは生存能力と言うか生き汚さと呼べる種類のものだ。命だけは掃いて捨てるほどに多く狙われたから、危険を感知する、もしくは危険から逃げ回るだけの能力が凄まじく上昇したのだ。下手な乱波なら、遠くから眺められているだけで違和感を感じることができる。小動物的直感、とでも言ったらいいのか。

「確かに。いますね。すみません。気づけませんでした」

 伊万里の切れ長の瞳が、瞬間的に細まった。怒っている、のだろうか。いつ見ても美人なだけにこの表情は怖い。

「いいよ。俺だって気づけたのはマグレみたいなものなんだから。さて、これからどうしようか」
「――撒きますか?」
「うーん。この人込みだと、どうやっても追いつかれそうな気がするから却下、かな」
「なら、討ちますか」
「いけそう?」
「はい。最初は気配を感じれなかったので、そこそこの者なのかもしれませんが、今は酷い。どんどんと敵意が漏れてきている。恐らくは小物よりはやや勝るぐらいの者でしかないのでしょう」

 まるで悩む様子がない短い単語だけの会話が続く。こんな状況にあっても、俺が恐怖を感じないのは間違いなく隣にいる伊万里のおかげなのだろう。先ほどまでの沈み込んだ表情と違って、今の伊万里にはまるで迷いがない。実力に裏打ちされた自信がしっかりと感じ取れる。
 こうなった伊万里はとてつもなく強い。
 これが俺一人だったなら、どうしようもなかっただろうに、実に可哀想なのは追跡者か。
 この九洲で、単体で伊万里を下せる生き物など、五本指でも余るぐらいだからな。そして、そのほとんどが俺の命を狙う理由などはもたない。つまりは自然と、追跡者は敗北するという未来予想図が疑いもなく生じてくる。

「じゃあ、頼んだよ」
「はい、任せてください」
「うん、安心できる良い返事だ。――そうと決まったら俺は邪魔にならないように遠くから観察しているから。いや、それとも近くで観戦しててもいい?」
「それはどちらでも。……あの、九峪様、その前にお願いがあるのですが」

 既に俺の中ではこの問題は終了した事になっていたので、からからと笑いながら提案すると、伊万里は困ったように眉根を寄せた。気が付けば、先ほどまでの戦いを前にした狩人のような雰囲気がいつの間にか霧散しかけていた。

「うん、何?」
「できれば、こ、腰の手を離して……。あ、あと、嫌だと言うわけではないんですけど、本当ですよ? 余り慣れていないので、そこまで近くから話されると緊張すると言うか……」

 もじもじと伊万里が顔を俯けながら言葉を口にして、ようやく俺は現状に気づいた。俺の右手はしっかりと伊万里の腰骨を、撫でるように抱き寄せているし、そうなるとやっぱり会話する距離も恋人同士のように近くなる。つまりはそういうことなのだろう。――伊万里は奥手である、と。
 それにしても恥ずかしそうに顔を真っ赤にしている辺りが実に可愛らしい。
 基本的に俺はいじられるタイプ、つまりはマゾだと思っていたけれど、こんな初心な反応を見せてくれる美人を見つけるとどうしてもサディスティックな欲求が湧き上がってくる。つまりは不謹慎だが、いじりたくなってきた。何だか凄く良い匂いもするし、どうしようか。……背後からやってくる追跡者さえいなければ心行くまで楽しめそうなものなんだけれど。
 ただ逃すのは惜しい状況でもある。こんな美味しい状況には年内にはもう二度と巡りあえないかもしれない。
 
「……うーん、何で?」
「な、な、なんでって。やっぱりこういうのは」
「こういうのってどういうこと?」
「そ、それはあの、密着しないと言いますか、息がかかるぐらいに近い距離というのは……」

 俺の怒涛のいじり攻撃に、遂に伊万里は人指し指をつんつんと突きながら弁解を試み始めた。
 どうやらかなり追い詰められているようで、普段も口下手の気がある伊万里は完全なしどろもどろになってしまった。可哀想なんだけど非常にこれはこれで可愛いなあ。額か何かに飾っておきたいぐらいの光景だ。
 最早その姿を目にした瞬間に俺の心は決まり、このまま追跡者のことなど無視して伊万里をいじくって遊ぶことに決めた。時々、上乃が伊万里を玩具にして遊んでいる微笑ましい光景をみることがあったけれど、今ならば上乃の気持ちが心底理解できる。これは良いものだ。
 幸いにも今、俺達が歩いているのは街中の大通りにあたる。人の数も少なくない。もしも仮に襲い掛かられるなら、ここと比べれば人気の少ない家の前あたりであることは確実だろう。俺達に自らの存在がばれていると気づけるだけの腕を追跡者が持っていれば別の手を打ってくることも考慮に入れるべきなんだろうけど、そこまであちらも考えているとは思えない。その証拠に、さっきよりも更に追跡者側から漏れてくる敵意は大きくなってきている。うなじのあたりがチリチリと焼かれるような違和感といったらいいだろうか。こんなものを相手に感じ取られるようじゃあ、未熟もいいところだ。
 こんなレベルの相手なら、俺にめためたにいじめ倒された伊万里でも楽に対処できるだろう。
 というわけで続行決定。

「ふーん。――それってこんな風に?」

 にやにやと悪代官のような笑顔を浮かべながら更に伊万里の体を抱き寄せてみる。なおかつ、隙を突いて伊万里の前髪も払ってみる。驚いた伊万里は背をのけぞらせようとしたが、ぐっと体を抱きつけているのでそれもできない。
 おろおろとこちらを上目遣いに見る表情が格段に可愛くて――

「……って、空気読めよな、まったく」

 ため息を一つ。更なるいじり攻撃を加えようとしたところで、俺は伊万里を開放した。
 理由は簡単。後方からの敵意が、殺意にも似て膨れ上がってきていた。
 そろそろ追跡者が行動に移すだろうことは容易に想像できた。
 だから、これ以上、遊ぶのは拙い。だから、伊万里の行動を自由にしておく。
 体を絡め取る腕の拘束から逃れた伊万里は、はあと息をついた後にこちらを恨めしそうに見据えて、――それから表情を引き締めた。伊万里も追跡者の変化には気づいているということなのだろう。

「面倒だから、場所変えよっか」
 
 くいっと親指で表通りでない、家と家の間の小さな路地を指し示す。敵が襲撃を仕掛け易い位置にこちらから動いた方が、事態は早いことは明白だ。

「はい、そうですね」

 俺の意図を察知したのか伊万里も自然と頷く。そして俺が裏路地へと進むと、伊万里もまた後ろからついてきた。
 刺客からすれば間違いなく絶好の襲撃ポイント。ここで襲わないはずがない。
 斜め後ろの伊万里に目配せすると、伊万里は力強く頷きを返した。

「まあ、ほどほどに」
「分かっています。情報を吐かせないといけませんから、殺しはしません。――邪魔をされたのは、酷く癪でしたけど」
「うん? 最後のほう何か言った?」
「いえ、それよりも離れてください。――来ましたっ!」

 伊万里はそう鋭く叫んだ瞬間、後方へと体を反転させた、そして背後から音も無く接近してきていた追跡者に遠慮の欠片もない回し蹴りを叩き込もうとする。スピードも、重さも外見からは信じられないほどに一級品のそれを、凡百の暗殺者が避けられるとは思えない。
 それにしても伊万里の奴、殺さないとか言ってたのに、間違いなく俺が喰らったら即死決定な一撃だ。追跡者もかわいそうに。
 蹴りが出た瞬間に終わったと俺は理解していた。
 だけど、それは間違いだった。

「嘘だろっ、かわした――!?」

 早すぎて視認することさえも困難な回し蹴りを追跡者は、体にかすらせることも無くよけていた。空中に高く飛び上がって伊万里の全力の攻撃をいなす。
 そして空中で体勢を変えると、そのまま蛇のように伊万里の首へと手を伸ばした。
 瞬間、背筋が凍ったように寒くなる。――まさか首を折る気かッ!? まだ俺の知らない場所に、伊万里と競り合えるだけの暗殺者がいたなんて!

「逃げろっ、伊万里!」

 叫びに応じるように伊万里は動いた。伸びてきた手を不安定な体勢のままくぐってかわすと、次こそはと左の拳を追跡者へと叩きつけようとする。焦っているのか、ちっという伊万里には珍しい舌打ちが聞こえた。
 だが、しかし、その一撃もまた追跡者には当たらない。追跡者は、大きく後方へと距離を取って、またも伊万里の素手の攻撃を回避してみせたのだ。九洲復興の間に、魔人さえ退けるほどに成長した伊万里と渡り合うなんて、――恐らくこの追跡者は並の腕ではない。耶麻台国でも一対一で渡り合える人間は数人といったところだろう。
 距離を取った追跡者の姿を見てみると、女だった。
 顔はフードのようなものを被っているのでよく見えないが、服を押し上げる胸の隆起や体つきからでもそれは分かる。
 気がつけば俺は背中に冷や汗をかいていた。

「……伊万里、勝てそうか?」
「正直、分かりません。九峪様は先に逃げてください。そして可能なら、人を」
「分かった――」

 そう呟いた瞬間に、相手が動いた。右手をこちらに向けて突き出してくる。
 ――この動作、左道かっ! 
 反射的に俺は右手へと全力で飛んでいた。そして、空中を飛んでいる最中に、追跡者の口から言葉が紡がれた。

「ま、待ってください!」

 しかし聞こえてきたのは、左道の詠唱などではなくて、酷く間抜けな声だった。しかも聞き覚えのある。

「……はあ?」
「違います誤解です! わ、私ですよほら九峪様!」

 そして追跡者はぺろんとフードみたいな布切れを頭から取った。すぐに顔が見えてくる。
 実はハスキーなその声を聞いた時点で丸分かりだったのだけれど、追跡者の正体は、かつて俺直属の乱波として働いていた清瑞であったらしい。何か意味不明な展開に少しだけ頭が混乱する。

「は、清瑞? 何それ? 何でお前がここにいるの? お前、仮にも今は副王の娘やってるだろう」

 現在、清瑞は無事に伊雅と親子関係であったことも知らされ、一気に身分がうなぎ上りに上昇し王族として城の中で生活をしているはずだった。そんなやんごとなくなってしまった清瑞が何故ここにいるのだろうか? しかも殺気まで放ってきて。
 急にわけがわからなくなった。伊万里も呆然としているのか固まっている。

「……いえ、あのその実は、理由があって城下まで来てたんです」
「いや、だとしても俺達を露骨に狙ってなかった? てっきりまた暗殺者か何かだと思ってたんだけど」
「それは、その羨ましい――と、いうわけではなくてですね。あの、その、ええっと何て言ったらいいのかな」
「いや、さっぱり分からないから。なあ、伊万里」

 同意を求めて伊万里に顔を向けると、伊万里は何故か事態が分かったのかははあんと頷いていた。

「そうか。そういうわけだったのか」
「い、いえ、別に邪魔をしようとしたわけではなくてですね。伊万里様、本当ですよ? ただ後ろから近づいて話しかけようとしたら攻撃を受けたので、防戦をしようと」
「分かってる。清瑞、全部分かった。――だからこのことは後で話をしよう。二人で。誰の邪魔も入らない場所で」
「え、ええっと、……誰の邪魔も入らない場所ですか? ……あ、いえ、嫌というわけではなくて。はい。分かりました。そういうことで」

 しかも何故か二人には全てが以心伝心で伝わっているらしく事態が手打ちとなってしまった。俺が何も分からないままに。
 傍目から見ると、何か伊万里が怒ってるっぽくて、清瑞が畏まってるぐらいのことしかわからない。何だか取り残された気分で悲しい。

「九峪様。どうやらお互いの勘違いだったようです」
「え? 俺まだ流れ理解できてないんだけど?」
「気にするようなことではありません。――いいですね?」

 これ以上、追求するなと言わんばかりの伊万里の台詞に俺は 「俺も混ぜて欲しいなあ」という声を飲み込んだ。何かこれ以上突っ込んだら危ないような第六感がガンガンに頭の中で鳴り響いていたからだ。藪に手を突っ込んだら蛇に噛まれるみたいな。
 ちらりと清瑞のほうに目を向けてみると、清瑞もこくこくと頷いていた。触れないほうがいいらしい。

「あ、うん。分かったよ。了解。勘違い? ってことで」

 取り敢えず事態が終息したと言う事で軽い笑い声を上げながら宣言してみる。
 けれど、場の雰囲気は微妙に冷たい。具体的に言うと伊万里から清瑞方面へ流れている視線とかその辺りが極寒なのだ。
 正直、なんか怖い。
 いてもたってもいられなくなったので、俺は場の雰囲気を軽くするために会話をすることにしてみた。

「いやー、驚きだったなあ。あ、そういえば清瑞はどうしてこんな所にいるんだ? お前、伊雅の娘なんだからこんな庶民じみた場所にいるべきじゃないだろう」

 これは深く考えもせずに何気なく口にした言葉だった。が、それがどうやら核心をついたらしく清瑞は一気に表情を悲壮な顔へと変えた。そして訴えかけるように、こちらへと言葉を発してきた。

「そのことなんです! 九峪様、助けてください!」



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