そして戦いが始まった。数に任せて黙々と進軍してくる袁紹軍を、備えに備えをした公孫賛軍が迎え撃つ。 頑固にただひたすらに数の暴力で圧倒しようとする袁紹軍には鬼気迫るものがあった。 この戦に勝とうとも負けようとも、先がないことを袁紹以外の誰もが理解しているのだろう。 そんな攻撃を受ける公孫賛軍はたまったものではないが。 だが受け切らなければ敗退は決定である。 応じ撃退するより他に選択肢はない。 がっちりと防御を重ねた公孫賛軍はまず騎馬隊をこれみよがしに袁紹の眼前へと差し向けた。当然、雨あられと矢が射られ、騎馬隊は袁紹軍に近付くことはできない。 騎馬隊は即座に引き返して本陣へと戻る。一度も攻撃を仕掛けられない。 しかし、それだけで効果は十分だった。 憎い怨敵、先の夜襲で散々に活躍してくれた白馬隊を目にした袁紹は激高した。 激しく怒りながら、その首をすべて刎ねてしまえと命令する。 山のような大軍が命令に従って、一斉に駆け出した。 それは大地を揺るがす轟音を伴う出撃であった。 兵数において、やはり袁紹軍のほうが勝っている証拠であった。 とは言っても、最初から兵数で劣ることなど公孫賛軍は知っていた。 知っていて尚、決戦を挑んだのだから、対策を考えてないはずがない。 白馬隊は後方に矢を射ながら駆け続けた。逃走する。歩兵よりも格段に進軍速度の速い、訓練された騎馬隊であるからこそできる芸当だ。 つかず離れずの距離を維持して、食いついてくる敵兵を次々と射殺していく。 だが敵もすでに死ぬ気だ。元より止まるつもりなどなかった。 何せ逃げれば本隊から殺されるかもしれないのだ。そうなれば敵へと突撃を繰り返すしかない。 そして騎馬隊とて延々と逃げ続けられるわけがない。 逃げ場はいつか失われる。これは防衛戦であるのだから、譲ってはいけない場所がある。そこを守るためには足を止めなければならない。 袁紹軍は白馬隊が動きを止めたと見るや、さらに士気を向上させて突撃してきた。 その様や既に狂信者のそれである。 白馬隊はそれを迎え撃つように攻撃態勢を構えた。ように思われたが、突如として突進する袁紹軍の横っ腹に伏兵が襲撃を開始した。 それは華雄が率いる奇襲部隊であった。絶妙のタイミングで、白馬隊を追い回すために縦に伸びた陣形の弱点を突き、一気に敵の前衛をたいらげてしまおうと目論む。 はたしてその算段は成功して、袁紹お前衛部隊は壊滅的な被害を受けて逃走を開始する。 九峪が最も得意とする釣り野伏せであった。 初手においては公孫賛軍が取ったことになる。 だがしかし、どれほど策にはまろうとも馬鹿みたいに進軍してくるのが袁紹軍の怖さである。 前の部隊が壊滅させられたとて、止まらない。 むしろ最早、奇襲はないと踏んで、次こそはと雄たけびを上げながら公孫賛軍と激突した。 こうなれば九峪にも奇襲策などない。正面からぶつかって、相手を打ち破るしかないというものだ。 地の利や兵の性質を利用しながらも、攻撃を開始していく。 対する袁紹軍も数頼みの力任せで攻撃を開始した。 これが両軍の半数以上の兵力を失わせる、泥沼の混戦の開始を告げる鐘の音となった。 戦場はすぐに酷い有様になった。 数で押そうとする袁紹軍と、用兵で圧倒しようとする公孫賛軍。 ともに中央でせめぎ合い、一進一退の攻防を繰り広げる。 明らかに兵の運用では勝っているにも関わらず、数という暴力だけに公孫賛軍は苦戦していた。 突破口が見当たらない。 すでにこれは総力戦である。負けるわけにはいかないのだが、九峪には解決の糸口が見つからなかった。 戦場を駆け回りながら、相手の急所を探すが見つからない。 焦りは募っていった。 そして時間がたつほどに劣勢へと追いやられていく。 用兵には限りがあるが、数の暴力にはそれがない。 ただ純粋な兵力差として、戦場に圧し掛かる。 むしろここまで公孫賛軍が耐えていたことの方が奇跡的であった。 「――左翼、第三混成部隊、壊滅しました!」 「――同じく左翼、重装歩兵隊持ちません!」 次々と上がってくるのは、嫌な報告ばかりだ。 特に真正面からぶつかり合う中で、趙雲が控える右翼側ではなく逆の左翼側が敵に圧倒されている模様だった。 遠くから観察すれば、敵の先頭には二人の武将が見える。 「……どうする? 九峪」 「顔良に、文醜。あいつら止めないと、あちらの勢いは止まりそうにないですね」 「だろうな。けど、こちらに余力なんてほとんどないぞ。予備部隊も、あと三つだけだ。これを使い切るわけにはいかない」 「ですね。……じり貧ってわけだ」 九峪は公孫賛と話をしながら、対応策を考えた。 このままでは左翼が崩壊して、守りを食い破られる。そうなれば立て直しは不可能だろう。 九峪は公孫賛をじっと見据えた。 「一個。思いつきました。姉御、護衛を少数だけ連れてここから下がってください」 「お前まさか……ッ!?」 「敵の狙いは俺でしょう。前の奇襲で散々に追い回してやりましたからね。狙われるのも納得ってものだ」 「あの数が相手じゃ、お前が出ても一気に狙われて死ぬぞ!」 「でしょうね」 九峪は静かに呟いた。頭の中には小さな漣すら生まれず、落ち着いている。 それしかないと思えた。 「――左翼の部隊に連絡を入れろ。俺の所までの、道を開けってな。それで顔良と文醜が穴に入ってきたらまた防いで守備に徹しろ」 主の回答も聞かずに九峪は命令を出した。 「お前らの中で数人だな。姉御連れて下がってろ。予備の第四隊のところが一番安全だから、そこにいろ」 そして控える護衛の面々にも命令を下す。 九峪の傍に控える面々は、その言葉に従った。さっと目線だけを合わせて、数人が公孫賛の横に並ぶ。 九峪は静かに告げた。 「残りの奴らは悪いけど、俺と一緒に戦ってもらう。何、敵の武将を討つだけだ。すぐに終わる」 兵士達はさっと九峪を囲むように陣形を入れ替えた。 公孫賛が堪らずに叫ぶ。 「九峪、お前!」 「……最初は戦になったら逃げようと、当面の飯さえ食えりゃいいと思ってたんですけどね。今でも不思議だ。何でいつも俺はこんなことしてるのか」 「お前、何言って――」 公孫賛の言葉は途中で止められた。 九峪が振り返って笑う。 「大丈夫。死ぬ気はないんで、また昨日の続きに酒でも飲みましょう」 それだけ言って、九峪は公孫賛に背を向けた。 声にもならぬ雄たけびを上げると、そのまま前線へと馬を走らせる。九峪が振り返ることはもうなかった。 九峪が左翼前方にたどり着けば、敵も味方もにわかに殺気立った。 それほどに九峪という男は、この戦の鍵となっていたのだ。 当然、その姿を見つけた顔良に文醜は狙いを九峪一本へと絞った。他の雑兵には目もくれないで、その命を奪うとする。 すると丁度、九峪まで辿りつけるような小さな包囲の乱れが生まれた。 それを好機と捉えて、文醜と顔良の部隊は突撃を敢行した。 包囲を突き破って、九峪の目前にまで迫る。 「お前が公孫賛軍の軍師だな!」 文醜は、周囲の兵士を蹴散らすと、一息に九峪のもとまでやってきた。やはりただの馬鹿ではないらしい。 こと戦闘においては、無名の兵士などでは相手にすらならない。 九峪は馬上で長剣を抜いて答えた。 おしゃべりに付き合う趣味はない。 抑えられる者がいない以上、それを倒すのは自分の役目だ。軍師として働いていた思考を停止させて、武人のそれへと戻る。 吐く息が自然と熱くなった。 体は異様に熱いのに、頭は何物も見渡せるかのように冷めていた。 これが決戦であることを悟る。 ここで九峪が負ければ、公孫賛軍は瓦解するだろう。 しかし、九峪がここで勝てればあちらも攻撃の機会を失う。 こと戦闘においては袁紹軍の実質的な柱は目の前の文醜と、周囲から九峪を隙あらば殺そうと探っている顔良だ。 つまり、お互いに急所を握っている状況になる。 九峪は笑った。 ――ならばこの勝負は公孫賛軍の勝ちである。 九峪に負けるつもりは毛頭ないのだから! 突撃を仕掛けてきた文醜の攻撃を、九峪は長剣で眉さえ動かさずに受け止めた。 金属が激しくぶつかり合って、火花が飛び散る。 それは周囲の雑兵の介入を許さない別次元の戦闘だった。下手な援護を行えば邪魔になりかねない戦い。 刃と刃が互いの首をはねよう、心臓を刺し貫こうと、応酬を重ねる。ぎゃりぎゃりと、刃と刃がしのぎを削る、気持ちの悪い音が周囲に響いた。 九峪の顔からも汗が流れ始める。 文醜だけならば、切って捨てられる実力を九峪はもっているのだが、厄介なのは顔良のほうであった。 戦場で身を隠して、どこかから九峪の命を狙っている。 九峪が文醜の首をはねようとする瞬間に生まれる、最大の隙を。 警戒を怠れば死ぬだろう。 そして、警戒に労力を割かねばならないために、文醜相手にも手こずる。有態にいえば押されていた。 まずい、と頬を冷汗が伝う。 「あははは、何だ軍師だけあってその程度か!」 自らが有利であると悟った文醜は烈火のごとき猛攻で九峪を攻め立てた。 瞬間、無理をすれば相手の息を止められるような隙を九峪はいくつか見つけたが、動かない。いや、動けない。 顔良の位置取りを把握することの方が先だった。 その直後。文醜の攻撃が頭をかすめ、脳を揺らされた。左目が血で覆われて見えなくなる。 袁紹軍の兵士は一様に、勝利を予期して震えあがった。 だが、それを九峪は許さない。衝撃を歯噛みしながら耐える。 続いて見えない視界から迫る攻撃を、見える文醜の体の形だけから把握して防いだ。 見えない視界の中。そこから金属と金属がぶつかり合う音だけは響く。 それは普段の九峪ではできない、死を目前とした驚異的な集中力が生み出した反応であった。 「しぶといッ!」 額の痛みを無視して、九峪は戦いを続行した。再び盛り返す。 そして焦燥心を抑える戦いの中で、ついに九峪は顔良のいる場所を見つけ出した。 九峪と顔良の直線上に、文醜を誘導する。 その瞬間に九峪は勝ちを意識した。 「逃げ回ってばかりいるんじゃ――」 「ダメ! 逃げて!」 「え……」 直後。長剣が文醜の右肩を貫いた。ぞぷりと、刃が肉に潜る。 これまで防戦一方だった相手の反撃に驚いたのか、刺された瞬間に文醜は随分と間の抜けた声を上げた。 血が、とめどなく噴き出る。 「撤退します! 文ちゃんを守りながら、総員撤退!」 顔良の判断は早かった。 続けて文醜の命を断とうとする九峪に牽制の攻撃を仕掛けると、一息に撤退を決めた。 ここで迷っているようなら討ち取れる時間はあったのだが、ここまで素早く対応されると捕らえきれない。 九峪達を攻撃してきた顔良、文醜の部隊は来る時と同じような勢いで撤退を始めた。 だが、そこを公孫賛軍が逃がすわけにはいかない。 ここが正念場とばかりに、逆に追撃を開始した。こうなると袁紹軍の陣形は一気に崩れていく。 決して止まらぬ死兵と化していた袁紹軍の兵士達が、将の敗北と撤退を契機に、我も我もと戦いから離脱を始めた。 その勢いは全軍へと伝播していく。 もともと半死半生の状態で戦いを続けていたのだ。そこでトップが敗れれば混乱も大きい。 そして一旦敵の右翼が崩れてしまえば、こちらの右翼で耐えに耐えていた趙雲がそれを見逃すはずもない。 何も伝令せずとも九峪の意図をくみ取って、撤退する敵兵を散々に追い回した。 それにてこの場所での戦闘の命運が決定づけられた。 公孫賛軍は敵の第一波を防ぎ切ったのだ。 そして、そこまで確認を終えて、周囲の警戒を指示したところで九峪は馬上から倒れ落ちた。 脳を揺らした衝撃と、流れ出た血。それに積み重なった疲労が生んだ結果であった。 |