目を覚ますと、そこは天幕の中だった。
 立ち上がろうとすれば、ずきりと全身を痛みが襲った。額と、右足首が特に痛みを発している。
 高熱を伴う傷のうずき。それは起きたばかりの九峪にはいささか辛いものだった。
 ぼやけた意識の中で、脂汗がびっしりと浮かび上がる。
 九峪が目を覚ましたことに気が付くと、傍に控えていた兵士が駆け寄ってきた。
「無理をしてはいけませぬ。すぐに医者を呼んでまいりますので」
 ぐったりとした様子ながらも、立ち上がろうとする九峪を簡易寝台に寝かせて兵士は天幕の外へと出て行った。
 すぐさま、軍に随伴していた医者が九峪のもとへと現れた。
 軽い診察を終えた後に、九峪に頭部の裂傷と右足首の捻挫を告げた。
 裂傷は文醜との戦いで、右足首のねん挫は気絶して落馬した時にできたものらしい。
 そして大小無数の打撲ができていたが、そのどれもが骨には達していないとのこと。当面は安静にしなければならないが、命に別条はないとのことだった。
「――九峪!」
 慌ただしく、公孫賛が駆け込んできた。
 息を切らして、寝そべったままの九峪に駆け寄る。その姿を見て九峪は安心した。
 ひとまず戦に負けたということはなさそうだ。
「すいません。気ぃ抜いちゃったみたいで」
「馬鹿。お前はやることやったんだから謝らなくていいって。この戦、間違いなく私達の勝ちだ」
「と、いいますと?」
「ついさっき、北郷軍が到着したところなんだ。これで袁紹の奴は詰みだ」
 痛いところないか、大丈夫なのか、と九峪の病状を気に掛けながらも公孫賛は問いかけに答えた。
「へえ、てことは俺はどれぐらい寝てたんですかね」
「丸一日だ。敵を追い払ったと思ったら、頭を血で染めたお前が意識なくして運び込まれたから、ほんとびっくりしたんだからな。驚かせるな」
「はは、そいつは面目ない」
 九峪はそこでざっくりと切られた額に触れた。
 今は包帯でぐるぐる巻きにされているが、その上からそっと触れただけでも痛い。今晩はきっと熱にうなされることだろう。
 気分が憂鬱になった。
「傷痕、多分残るって」
「まあここ三年、戦い続けてましたからね。いつかは顔に傷ができるだろうと思ってましたよ。別にどうってことは」
「そっか。お前、男だからな」
 近くの地べたに座り込んで、公孫賛はほっと息を吐いた。
「とにかく、良かった」
 安心したように呟く。
「あの後、戦いは?」
「警戒しておいたけど、無かったよ。完璧にあちらの緊張の糸は切れたみたいだ。文醜に顔良も逃がしたけど袁紹と合流はさせなかったから、指揮系統が混乱してるんだろう。うろたえたあげくに近くの城に逃げ込もうとしたところで、北郷軍が現れたからそれもままならなくなってさ」
「あらら。それは泣きっ面に蜂で」
「しかも強引に占拠されようとした城の太守代理が怒ってさ、中立を破棄して北郷軍の味方についてくれた。これが弓の名手らしくて、なかなかの武将らしい」
「名前は?」
「黄忠。知ってるのか?」
「まあ一応。いつか機会があれば、こっちに誘おうと思ってました」
「へー。お前がそういうなら、中々の奴なんだろう。惜しかったな」
「……まあ、けどいいですよ。多分、黄忠って人は孔明ちゃんのほうが相性がよさそうですからね。俺じゃ扱いきれないと思って、声をかけなかったところもありますから」
 関羽に張飛に諸葛亮、馬超に趙雲、黄忠の五虎将に名軍師がこれでそろったわけだ。
 趙雲だけは何の因果か、九峪達に手を貸してくれているが、そろそろ北郷軍に行かせるべき時期だろうか。
 九峪は熱でぼやける意識の中で、そんなことを考えた。
「どうした? 眠いのか?」
「そうですね。まだ体が」
「そうか。なら休め。今は取りあえず、眠って疲れを取った方がいいよ」
 公孫賛は九峪の怪我をしていないほうの頭を撫でた。
 柔らかい指先の感触に包まれながら、九峪は眠りにつくことにした。
 絶えず襲いかかってくる熱い痛みが、この瞬間だけは薄れていくような気がした。


 そして次の日。
 何とか杖をついて立ち上がれるようになった九峪は、北郷軍との会談に参加していた。
 体のことを何人にも心配されたが、この話し合いに軍師が怪我を理由に出ないわけにもいかない。
 北郷を始めとする一同と、久しぶりに顔を合わせる。
「久し振り」
「先輩、傷だらけじゃないですか。大丈夫なんですか?」
「おう。格好いいだろ?」
「……はあ。やっぱ二回目となると貫録出てますよ」
 快活に笑う九峪と会話した北郷は、珍しく呆れたような表情を作った。
 その顔を見て九峪はさらに笑う。
「ははっ。そうだろう」
「あんまり無理しないでくださいよ。先輩いなくなると、俺だって困るんですから」
「はははっ、そうか寂しいんだな。この甘えん坊」
 そんな風に隅っこで会話をしていたら、すぐに関羽がやってくる。
 北郷と九峪の間に、体を割り込ませる。
「九峪殿。傷は浅くないと聞きました。あまり無理をせずに動き回らないほうがいいのでは。ご主人さまも、怪我人をひっぱりまわしてはなりません」
 見事なまでの、ツンデレであった。
 九峪は眼前で揺れるおっぱいに大いに癒された。北郷が九峪の視線の向う先に気づいて、顔をしかめた。
「何、見てるんですか?」
「お気になさらず北郷殿。男には、引いてはならぬ時があるのです」
「気持ちは分かるけど、俺のですから」
「何だ何だ、手が早い奴だなあ」
 関羽が中央にいることなど気にせずに、熱いトークに集中する男二人。
 頭上で繰り広げられる要領を得ない言葉に、関羽は初め困惑したが、すぐに気分を害し始めた。
「ともかく、公孫賛殿との会談を始めなければならないのですから、早く席に着いてください」
 関羽はそういうと北郷の腕を引っ張って、九峪から引き離してしまった。
 すぐにいなくなってしまう。相変わらずの独占欲。それがちょっぴり九峪は羨ましい。
「俺もあんな子と知り合いたかったなー」
 ぼへーとした間抜け顔でそんなことを呟く九峪。
 その顔には先の戦いで見せた精悍さの片鱗すらない。世が世なら、ニートと呼ばれる人種だけが持ちえる、ふぬけた空気であった。
 そんな九峪に後ろから声がかかる。
「そうか。お前の趣味は関羽殿のような相手か」
「華雄か、久しぶり。ただ俺の好みに関してはちょっと違うかな」
「ではどのような? 黄忠殿のような人か?」
「ああ、あれか。……久々に俺のスカウターを破壊するような相手だったから。正直、心臓が止まるかと思った」
 ちなみに黄忠はこれまで出会ってきた三国志武将の中で、もっとも大きなおっぱいを持っていた。
 びっぐおっぱいである。その存在感は、むっつりの九峪をしてルパンダイブを行いかけたほどだ。
「……あの質量。あの張りを前にすれば日魅子などAカップ」
「……まだ具合が悪いのか? 今日のお前は少しおかしくないか?」
 変なことを呟き始めた九峪に疑念を覚えたのか、華雄は冷や汗をかきはじめた。
 九峪は遠い目でどこかを見つめていた。
 帰ってくる様子は見られなかった。華雄はわたわたと慌て始めた。
「あ、頭を打ったと聞いていたが、これは深刻そうだな」
「どうした、華雄殿。珍しく困惑したような顔をして」
「いや、それが九峪がおかしいのだ。先ほどから変なことばかり」
「ふむ、九峪がおかしいと? どれ、試してみよう」
 趙雲は目を細めて空の彼方を眺めている九峪に近付いて行った。
「おい九峪。具合がまだ悪いのか?」
「何だ星か。悪いけど、後にしてくれないか。俺は男として難問に挑もうとしているんだ。Dカップに用はない」
「そうか」
 意味は分からなかったが、とぼされているような気がしたために、趙雲はためらわずに九峪の右足首を踏み抜いた。
 絶叫が、響きわたる。九峪はごろごろと地面をなりふり構わず転がりまわった。
 その痛がりようは武将である華雄が、ひいてしまうほどだった。
「どうやら普段の九峪と大差ないようだ。良かった良かった」
 一件落着、とばかりに言い渡す趙雲。
 そのまま九峪を放って、会談の席へと向かってしまう。すたすたすた、と趙雲が歩き去る間、九峪は足首を押えて悶えていた。
「ちくしょッ……、あのアマぁ」
 その瞳には憎悪すらこもっていた。
 意外なところで公孫賛軍内に亀裂が走った瞬間であった。
「まて、今のはお前が悪いだろう」
「ああ? 何だって?」
「お前が悪いと、言ったのだ。奴は昨日、武将として忙しい中、空いている時間はほとんど熱にうなされるお前の傍にいたのだぞ。それを、まともに会話ができるようになれば、あのように無視するなど」
 たしなめられて、九峪の顔から険が抜ける。
「本当か? そんな素振りも見えなかったけど」
「事実だ。それが原因で私の仕事が増えたのだからな。そのことを口にしなかったのは、特別に口にするほどのことでもないと奴が思ったからなのだろうが。それでも今のお前の態度はいただけない」
「……そっか。ならまあ近いうちに謝っておくか」
「そうした方がいい」
 華雄はそう口にすると、倒れる九峪に手を伸ばした。
「ほら。一人では起き上がれないだろう」
「どーも。感謝します」
「意外とお前、重いな」
「男の子なもので」
 九峪はそのまま華雄に付き添われて、会談の席へと、向かったのだった。
次へ