今回の戦いはこれで終わった。董卓軍を打ち破った各勢力は、それぞれ本拠地へと帰っていく。 そして、ここから泥沼の乱戦が開始されるのだ。取りあえず急ぐべきは幽州における防衛の準備だ。 遼西群を拠点として活動している公孫賛は、まだ九峪の目からすれば脇が甘かった。 何せトップがお人好しである。 至急、九峪は防衛のための政策を提案することに務めた。南の北郷軍との境界への警戒は最大限軽いものとして、残る方面へと多くの諜報要員を向ける。 簡単な砦ぐらいも幾つか作らせるように指示しなければならない。 行わなければならないことは山のようにあった。 公孫賛は先の戦いで九峪のことを信用しているのか、自分が納得できる提案はすぐに実行した。 先の戦いで栄華を極めていたはずの董卓軍が、あっさりと過去の存在になってしまったことが彼女の心を動かしたのかもしれない。 この時代。気を抜かずとも食われるのだ。 できることは迅速に行わなければならない。 二か月ほど経過し、腕の怪我が治った九峪は体を鍛え上げる暇も与えられず雑務に忙殺されていた。 次から次へと仕事がやってくる。 というか気がつけば文官的ポジションに落ち着いていた。 これまで九峪が指揮していた部隊については新たに公孫賛軍に加入した華雄へと丸投げである。 ちなみに華雄については、九峪が拝み倒して何とか引き入れた。三時間ほどかかったが、それも今の仕事量と比べれば大したことはない。 「……これとこれとこれと、それにこれも決済お願いします。あとさっき渡したの早く下に流してやってくださいよ。けつ叩かれるの俺なんですから」 「……お前、私の今の状況を見てそれ言うか?」 「言いたくないけど、俺のが寝てない自信があります」 「そうだな。ごめん……」 目の下に隈を作って、どんよりとした視線で見下ろしてくる九峪に、公孫賛は怯むように顔をそむけた。 ここ最近、仕事量が増えたせいでトップである公孫賛は爆発的にデスクワークが増えた。 その様は正しく死の行軍。軍師と二人仲良く、日々死にかけていく姿に、部下たちは死神の影を見つけるともっぱらの噂だ。 「がんばりましょう。俺の計算が正しければ、今夜は太陽が出てくる前に寝れます」 「えー……。月じゃなくて太陽かよ。私もう駄目かも」 「姉御倒れたら俺も道連れ決定なんで耐えてくださいね」 顔には生気がなくとも、口調だけははっきりと九峪。 何度か九洲でこのような状況に陥った九峪は慣れていた。だからまだ耐性がある。 公孫賛は初めてだからきついのだろう。 初めてはきついだろうけど、直に慣れると九峪は気がつけば眠りに落ちそうな思考の中で考えた。 「なあ九峪。思ったんだけど」 「何ですか? 早く押印してくださいよ」 「うう。あのさ、お前が頭になった方が早いんじゃないか? 私の能力じゃ無理だって。替わろう。お前ならきっと、良い方向に私達を導いてくれると思うんだ」 「――んなこと言って逃げようとしたら、キャン言わせますよ?」 顔色が悪い九峪は恐ろしく奇麗な笑顔を浮かべた。 公孫賛は死を覚悟した。 「わ、悪かったよ。がんばる。がんばるって。……ああもう、ちくしょー! こうなったら自棄だぁッ!」 何であれ普段は切れない人間の、ここぞという場面での笑顔は怖いという話である。 九峪は生命力をすり減らす上司の姿を眺めながら、今後の予定を頭の中で組み立てていった。 (これ終わってすぐに、各地に放ってた間者の報告を受けて、合間にもう一つ新築している砦の決済。華雄の指揮下に入る部隊の最終決定が終わった後に、姉御に渡した書き物を受け取ってから手ぐすね引いている文官連中に回す前の最終確認。で、今日は終わりか。何だ十分いけるじゃないか) 九峪の頭はすでにラリっていた。正常な判断を行うことができない。 どう考えても余裕で終わるはずがなかったのだ。つまりは寝れないということである。 そして残念なことに予定なんてものは、すぐに緊急事態によって壊されるものなのだ。 「――報告します! 城下にて、再び我らが宿敵、華蝶仮面が!」 華蝶仮面とは城下にて様々な事件を力づくで解決しては去っていく謎のヒーローである。 名探偵バーローの正体が工藤真一でありえないのと同様に、その正体が趙雲であることはありえないらしい。 その正体は誰にも知られておらず、軍の追跡すら振り切っている力の持ち主である。 基本的には悪事に手を染めないのだが、行動の結果、周囲に被害がいくことが多々あった。というかいつも被害は甚大だった。 「何だと? 今度は何をしてくれたんだ……」 「人買いにさらわれた子供達を助け出すため、民家を四棟壊滅させた模様です!」 「くそっ、あのアマぁ……。趙雲をすぐに俺の部屋へと呼び出せ。対応させる」 「了解しました!」 ばたばたばたと慌ただしく兵士達は走っていく。 だが今日はそれだけでは終わらなかった。 「報告します!」 「今度は何だッ!」 報告を受ける前に、響く九峪の怒声。兵士は涙目になった。 後ろで聞いていた公孫賛は驚いて、決済の印を押す部分を間違えてしまい涙目になった。 「あ、あの。報告してもよろしいでしょうか?」 「……怒鳴って悪かった。言ってくれ」 「あのぅ、今度は華蝶仮面の偽物が現れました。被害はありませんが、本家との戦いを望んでいる模様です」 「ほほー……。華雄をすぐに呼べ。この忙しい時期に仕事を増やす奴は無視できないからな」 くけけけけ、と口から牙を出して鬼モードの九峪は邪悪に笑った。 ちなみに兵士達はなぜ、趙雲と華雄が呼び出されるのかは分かっていない。目元を隠せば分からないというヒーロー物のお約束があるためだ。 そしてメタ発言をすれば、華雄は小説版において華蝶仮面になった趙雲と同様に華蝶仮面の偽物に変身している。つまりは、そういうことだ。 「りょ、了解しました!」 一刻も早く場を離れようと兵士は駆け足で遠ざかっている。 場に残されたのは九峪に公孫賛、それと文官に護衛の兵士が数人のみだ。 ちなみに九峪の近くにいる人間は全員がびびっていた。九峪がふしゅーと口から蒸気を出していたためだ。 「ああっ、くそ。俺は上で何もせずにふんぞり返っているのが趣味だって言うのに」 「なあ九峪。お前ちょっと休んだほうがいいんじゃないのか?」 「あと二日したら休みますよ。お気になさらず」 「……ていうか怖いんだって。お前本当に大丈夫か?」 公孫賛の言葉に、周りの兵士や文官はこくこくと頷いた。が九峪に睨まれてぴたりと動きを止める。 まるで九峪はかつての亜衣のようになっていた。怒鳴ってばかりのわが身が悲しいが、こうしないと上手く物事が進まないのだから仕方ない。 (ああ、亜衣。俺ここにきて改めてお前がどれだけ優秀だったのかが分かるよ) 胸の中で九峪は盛大に涙を流すのだった。 だが、そんなことしている余裕なんてやっぱりない。 「そんなことは良いですから、早くそれ終わらせてくださいね?」 「う、うお。うん」 笑顔一発で公孫賛は行動不能。仕事に再び取りかかった。 九峪も遅れて自分の仕事をこなしていく。ちなみに元は公孫賛だけの執務室には今では九峪専用の机も置かれていた。純粋にそのほうが都合がいいのだ。 最近では仮眠用の寝台まで設置しようか迷っているぐらいだ。 がりがりがりと半端ない速度で九峪と公孫賛は積み上がった嘆願状やら何やらの書物を処理していく。 その様は締切一日前の漫画家すら凌ぐやもしれない。 すると、そこに呑気な声が聞こえてきた。 「入らせてもらうぞ。それで九峪。用というのは何だ? 城下を賑わす、超絶美少女仮面についての話だそうだが」 「ふむ、それはおかしいな。確か新しく現れた絶世の美人仮面について話があると聞いたが」 やってきたのは趙雲に華雄である。 二人は部屋の中に満ちた緊張感に気づかず、へらへらと会話をしている。 「む、偽物はしょせん偽物だろう。本物の放つ可憐さには及ばん」 「そうかな? 本家など過去の遺物。城下の人間は新しく現れた華蝶仮面に興味津津だという話だが」 「はは、そのようなことあるまいよ。この前も子供たちが華蝶仮面を大声で呼んでいたからな」 「だが最近はその華蝶仮面に反感を持つ者も多いと聞くが?」 と、仲良く雑談していた二人であったが、それが止められる。 「――おい」 それは、地獄の底から這い出た鬼が、憎悪だけを凝り固めて作ったような声だった。 趙雲と華雄以外の面々はさっとわけも分からぬままに顔をそむけた。 「何だ九峪? 相変わらず顔色が悪くなっているな」 「まったくだ。きちんと休むことも肝要と心得るべきだ」 ちなみに純粋な武将は、トップが行政のほうにかかりっきりであるため最近は暇している。 「ほう? 今お前ら何て言った?」 ぎしりっと、公孫賛は空間がきしむ音を聞いた。幻聴でもなく、実際に。 「な、なな何だ九峪どうした? まるで親の敵にあったような顔をして」 「そ、そうだぞ。なんだその殺気は。仲間にそんなものを向けるものでは、待て! なぜ笑いながら近づいてくる」 「……城下で何とか仮面が暴れてくれたらしいな」 「そ、その通りだ。子供達を見事救いだしたらしい」 「もう一人のほうは、何も悪いことはしていない! ただ目立つことをしただけだ! うわぁあ腕を攫むなぁ!」 ついこの前まで折れていたとは思えないほど強く、右腕で趙雲の首に、左腕で華雄の首に腕を回す九峪。 これが笑顔で行われていたならただのスキンシップなのだが、間違いなくそんな甘いものではなかった。 「……ちょっと人のいないところで話をしようか。何とか仮面を捕まえる良い方法を思いついたんだよ俺」 「そうか。だ、だが華蝶仮面の素性は誰も知らないと聞くが?」 「そうだそうだ。まさしく」 「俺、一度見た人間の顔の輪郭を滅多に忘れないんだよ。毎日顔を合わせてる相手なら尚更な?」 「まさか九峪っ、お前はお約束を――」 「よせっ、これは誘導尋問だ!」 「まあとにかく。お話しようぜ。この前、捕虜尋問用の隠し部屋作ったからさあ、ついでに見に行こう」 一騎当千の武将二人をずるずるとひきずって、そのまま闇へと消えていく軍師。 その姿に領主である公孫賛は冷や汗をかかずにはいられなかった。 「これは、……仕事が滞ると同じ目にあうかもしれないな」 呟かれたその言葉に、一同はうんうんと頷いたのだった。 |