音の決して届くことのない静寂が辺りを支配している。 そこには上下の感覚すらも存在しない。重力の楔から体は解き放たれ、ただ宙を漂う。光すらも見当たらない、混沌とした常闇。熱くも無く寒くも無く、暗くも無く明るくも無い空間。そんな場所を九峪は漂っていた。 気がつけば、既に九峪の意識はそこにあった。 「……ここは地獄なのか」 九峪の口から発せられた言葉は周囲に伝わる事なく霧散していく。飲み込まれているのだ、周囲の混沌に。 「そもそも俺は死んだんじゃないのか?」 蛇蝎を滅ぼした後、意識を失った九峪は気が付くとこの場所にいた。 それから彼はこの場所をずっと漂い続けていたのだが、一向に状況は変化する兆しを見せない。時間の感覚も存在しないために、どれだけ常闇の中を流離ったのかさえもわからない。 九峪は最初はこれが死後の世界かと推測してみたものだが、何も目新しいことは起きはしない。どうやら状況は違うということが直感的に理解できた。次第につぶやく言葉も増えてくる。 「まあ、どちらにしてもあいつ等にはもう会えないみたいだな」 そう言って九峪はかつての仲間達のことを思い浮かべた。九峪が九洲に来てから出会った、彼の大切な仲間達。皆、彼と共に戦い、皆、彼を残して逝ってしまった。大切な、本当に大切だった仲間達。 「……仇は討った。このまま消えていくのが俺には似合うのかもしれないな」 状況は分からない。だけれども、右腕には蛇渇を捉えた神剣の感触が確かに残っている。一人残されてしまった九峪には、それだけで満足だった。やがてこの場所が何処であってもいいという結論に落ち着く。 どうせ皆には会うことができない。それならば、訳も分からない場所で朽ち果てていくことも一興かもしれない。 自嘲的に笑いながら九峪は目を閉じて、全ての思考を放棄しようとした。 その心の中には未練など何一つ無かったからだ。 愛する者達のいない世界など無価値であり、――苦痛でしかない。だから九峪は眠ろうとした。 しかし、その逃避の思考を止める声が突如として響いた。 「駄目だよ、九峪。君はまだこんな所で死ぬべきじゃない」 どこからか、聞こえてくる幼い子供の様な声。九峪はこの声の持ち主を知っていた。 永遠の眠りにつこうとしていた九峪を揺り起こした声。その持ち主と何度、九峪はつまらなくとも楽しかった言い争いをしたことだろうか。 「……その声、鏡か?」 「うん、僕だよ。天魔鏡の精霊の鏡」 鏡。天魔鏡の精霊にして九峪を九洲に連れて来た存在。滅び行く耶麻台国の中で唯一残った九峪の友。 鏡は九峪が蛇渇と相討ちとなってしまったことで、一人残されてしまったはずだった。 「鏡か……お前はどうしてここにいるんだ?」 「君に聞きたい事があるからだよ」 「どういうことだ。お前はここが何処だか知っているのか?」 要領を得ない鏡の返答に九峪は更に質問を返す。 一向に辺りの不安定な混沌とした空間は変わらない中、やはり姿を見せない鏡の声だけが聞こえてくる。 「ここは宇宙の裏側。全ての始まりであり終わりの場所。全ての次元と世界の雛形にして到達点」 「……何を言っているのかさっぱりなんだけど」 「そうだね、君に分かる様に言うなら【時の御柱】の中になるかな」 「――何だとっ!?」 時の御柱、その言葉に九峪は目を見開かせた。時の御柱とは、時空間を移動する事ができる耶麻台国の秘術であり、九峪を九洲に連れて来た術の名称でもある。ゆえに、それは“過去に帰る”ことが可能である術という意味を持つ。 そんな術の中にいるという、鏡の説明は九峪を混乱させた。 「時の御柱は、ただ一度だけしか起動させる事ができないんじゃなかったのか?」 かつて九峪が九洲にたどり着いた時に鏡は言った。もう一度、時の御柱を起動させる事はできない。それだけの力はもう鏡には残っていないから、と。 「確かにそうだった。けどね、たった一つだけ方法が存在したんだ」 「方法?」 「時の御柱を起動させるには莫大な神通力が必要となる。けれど、僕はそれだけの力を持っていなかった。人が食事をしなければ活動できない様に、術もまた力が無ければ起動しない」 核心を告げるのを避けるかのような鏡は語る。遠回しに。 その態度に、九峪は少し苛立ち始めた。 「……それで?」 「最後まで聞いていてよ、九峪。話の続きだけど、僕は術の起動に必要な力が足りないのなら代償を払えばいい事に気付いたんだ」 「代償を払う、だと。そんな物がどこにある?」 「君の目の前にあるじゃないか」 鏡の言葉に九峪は周囲を見回した。存在するのはただ闇だけで、この空間には九峪以外の何者も見つけることができなかった。 だが、そんな九峪に諭すような声が告げられる。 その声と共に、九峪の目の前には見知ったはずの精霊の姿がすうっと浮かび上がってきた。 「ほら、よく見てごらんよ。君の目の前にあるだろう?」 その瞬間、電撃のような衝撃と共に、九峪の頭の中に全ての答えが浮かび上がった。代償とは何か。その答えが目の前に存在しているという事実に。 九峪は鏡を見据えた。 「まさか、代償は……」 「うん、その通りだよ。代償は僕自身。精霊という存在は力の塊みたいな存在だからね。時の御柱を起動させる力の材料としては申し分ないんだ」 「……お前はどうなるんだ?」 「僕かい? 多分、もう活動する事は出来なくなるだろうね。力を失った精霊は何も見ず、動かず、語らない。ただの道端の石ころと変わらない存在になるのかな」 鏡は己の存在が終わることを恐れるような素振りも見せない。ただ淡々と自らの終わりの予測を口にして、軽く笑う。逆の立場にいるはずの九峪のほうが、余程狼狽している。 九峪は鏡の言葉に耐え切れなかったのか声を荒げた。語気を強めて、叫ぶ。 「ふざけるなよ、鏡! 俺がそんな事を認めるとでも思ってるのかッ?」 九峪は結局、仲間を守れなかった。だからこそ本当に、誰かを失う事を恐れている。目の前でまたかつての友人が消えていくという現実を見せられて黙っていられるほどに、強くもないし、冷徹でもない。 しかし、そんな九峪の心情を長い付き合いの中で知っているはずの鏡は話を続ける。 「君に認めてもらおうなんて思っていないよ、九峪。僕は言っただろう、ここは時の御柱の中だって。もう術はね、起動しているんだよ、――僕を代償にして」 「なら今すぐ止めろ! 消える前に早く!」 「一度始まった術を止める事はできないよ。後はただ待つだけ。だけど僕は、君に聞いておきたい事があるんだ。僕が動かなくなる前に」 「……本当に止める事はできないのか?」 「うん。だから質問してもいいかな?」 自身の存在が消えてしまうかもしれない中で、鏡は淡々と話を進めていく。そこに恐れは見えない。事実、恐れを感じていないのか、それとも胸の内に生じた恐れを隠しているのかは定かではないが。 決して動揺することなく鏡は言葉を続けた。 だからこそ、堅い意思が九峪へも伝わる。もう決して引き返すことはできないのだという現実を理解させる。 九峪は、逡巡の後に、疲れた声で答えた。 「……聞きたいことってのは何だ?」 「君を連れてきてからずっと考えてきたんだけど、君は僕を恨んでいるかい? 君から平穏な日常を奪い、代わりに戦場での生活を押し付けた僕を」 それまで感情の揺らぎを見せることの無かった鏡の顔が、その瞬間にだけ小さく歪んだ。まるで後悔しているような表情。 「俺がお前を恨んでいるかだって?」 「うん」 鏡の表情は優れない。まるでこれから罵倒される事を待つかのように。 だが、その表情を見て取った九峪は軽く首を横に振っただけだった。そして笑う。 「確かに、……初めてこっちの世界に連れて来られた時には驚いたし、怒りもしたさ。けどな、俺はここで大切な仲間と出会う事が出来た。復興軍の人間、九洲の民、そしてお前も。俺は九洲に来た事を後悔してないし、お前を恨んでいない」 九峪の口から語られた言葉に鏡は目を丸くした。散々に自分が非難されると、やはり思っていたのだろう。しかし、そんな言葉は九峪の口から一欠けらさえも漏れることは無かった。 鏡の驚いたような顔を見て、九峪は続ける。 「恨み言でも言われると思っていたのか? 俺を誰だと思ってるんだ? 神の遣い様だぜ」 にやり、と九峪は笑う。まるで悪戯が成功した子供のような邪気の無い笑み。 そんな九峪を様子を見て鏡は初め、理解出来ないものをみるように九峪を凝視していた。だが、やがて何かに頷くことがあったのか、大きく笑い始めた。 「あははっ、君はやっぱりいい人だね。今この時も僕の心配をしている。そんな君だからこそ、安心して僕は術を使える。いいかい九峪、今の君を初めて九洲に来た時の君の存在に上書きする。つまりもう一度あの場所から君はやり直す事が出来るんだ」 「ああ、今度こそは狗根国の奴らを追い出してやるさ」 もう一度やり直すという言葉に九峪は意気込む。 しかし、そんな九峪に対して鏡は首を振った。 「違うんだ。九峪、君は耶麻台国の事は忘れて、戦いのない生活を送ってくれないか?」 「どういう意味だ?」 「僕は後悔しているんだよ。君は本来戦える程に強くない。むしろ優しすぎる。今だって君は傷つき、左腕を失ってしまった。君は戦い続ければきっと壊れてしまう。だから君は――」 悲しそうに眉根を寄せて鏡は言葉を続けた。だが、その言葉を途中で九峪が遮る。静かだが、有無を言わさせない声で。 「――鏡、それ以上は言うな」 九峪の視線は、言葉以上に己の意思を十分に語っていた。 すなわち、逃げることなどはできないと。 「お前が何を後悔しているのかは知らないし、知りたくも無い。だがな俺はもう一度戦うぞ、今度こそは守り抜くために」 「けどね、九峪……」 「心配するなよ、鏡。俺は死なないよ。今度こそは俺はあいつらと生きてみたいからな」 心配そうな顔を見せた鏡に、九峪はそこで引き締めていた表情を緩めて笑いかけた。安心させるように言葉を紡ぐ。 九峪の瞳には強い意思が秘められていた。 それを見た鏡はため息をつきながらも、頷くことしかできなかった。 「……君は一度言い出したら聞かないからね。けど、約束してね。絶対に死なないって」 「ああ、俺は死なないよ。それどころか、お前も死なせはしないさ」 「まさか、僕まで助けるつもりなのかい? 君は意外と欲張りだね。けど、こればかりはどうしようもないよ。活動を停止した精霊を再起動させる程の力の持ち主はもう存在しないんだ」 「だから、どうにかするって言ってるだろう。不可能だろうがどうだろうが知った事か」 過去へ帰れるという希望を得たためか、九峪の言動も明るくなっているように見える。勿論、己の存在をかけた鏡の前で、不安を見せないようにしているだけという可能性もあるが、それでも先ほどまでの九峪と比べればましなものだろう。 「ふふっ、それじゃあ一応期待してるよ」 「任せてろ」 りぃぃぃぃいん そんな時だった。また鈴の音に似た音が響き始める。 「あっ、もう時間がないみたいだ。話はここまでだね」 鏡が名残を惜しむかのように告げた。その体は徐々に薄れ始めている。 りいぃぃぃぃぃぃぃぃん 「そうか……。待っていよ、必ずお前も助けるからな」 消えかけていく鏡に九峪は力強く語りかける。 「うん、信じてるよ。九峪も無茶ばっかりしてちゃ駄目だよ」 「わかった。それじゃあ行ってくる」 存在が希薄になっていく鏡に対して、九峪の体は淡く発光し始める。次第に強くなっていく光はやがて九峪の体を覆いつくす程の光を放ち始めた。音の強さに応じて、激しく輝きを増していく。 九峪は最後まで消えいく鏡の姿から目を離すことは無かった。 りいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいん そして最後。一際激しい鈴の音が鳴り響いた瞬間、混沌の空間を覆いつくすほどの閃光と共に九峪の姿は消えていった。 光が収まった後、残された鏡はその体の大半を消失させながら祈るようにつぶやいた。 「後は任せたよ……。く、たに……」 そうして精霊は永き眠りに付いた。 次へ |