誰も踏み込むことの無い、深閑とした山々の奥深く。ひっそりと存在する開けた平原に、突如として光の柱が出現した。神々しさを感じさせるその光景を常人が目にしたならば、きっとそこに神の幻想を見ることだろう。
 光は力に溢れており、周囲の草花や木々を揺さぶる強風を生み出していた。光が膨れ上がり、砂塵が舞う。神秘的な光景がそこにはあった。まるで、――神の遣いが降臨するかのような。
 そして幾ばくかの時間が流れた後、空の彼方から地面へと流れる光の奔流はやがて収束して人の形を取った。
 青い衣服を纏った、左腕の肘先からが欠けてしまっている青年。九峪が、記憶の中の地へと、再び舞い戻ってきたのだ。

「帰って、きたんだな……。ここに」

 見渡す限り、四方は山々に囲まれ、人里の姿などは見えない。だが、過去の記憶がおぼろげながらも現在地がどこであるのかを教えてくれる。既に日は沈みかけていた。辺り一体が赤く染まっている中、まだ戦乱の波に飲まれていない九洲の大地を、感慨深く九峪は眺めた。
 万感の思いを込めて、呟く。

「やっぱり、左手は無いか」

 九峪は右手に精霊の存在しない天魔鏡を持ちつつ、自らの左手が在った部分を見つめた。
 蛇蝎との戦いで失われた左腕は肘先から存在せず、通す腕なき服の袖が風になびいていた。強い風が吹き、ばさばさとはためく。

「七支刀も無いな」

 七支刀を持っていたはずの九峪の手には天魔鏡が在り、七支刀の姿は見えなかった。また、三年間の戦いでボロボロになっていたはずの九峪のブレザーも新しくなっている。それは初めて九洲に呼ばれた時の格好と、寸分の違いも無い。
 左腕の喪失という重たい現実さえ無ければ、今までのことは夢でないかと錯覚してしまいそうなほどに、何もかもが昔のままだった。九峪が、日魅子の代わりに、九洲へとやって来た時のまま。
 暫く思案していた九峪は、鏡の 「存在を上書きする」という言葉を思い出した。恐らく、今この瞬間の、三年前という時間軸に戻ってきたのは九峪雅比古と天魔鏡だけなのだろうと推測する。 
 それならば持っていたはずの七支刀が無い事や、ブレザーが新しくなっている事に納得がいく。

「さて、行きますか」

 軽い言葉で、だが表情を引き締めて九峪は呟いた。現状を手短に確認したからには、後はやることは決まっている。脳裏に守れなかった仲間たちの姿が色鮮やかに浮かんだ。怒りと、それ以上の決意が胸に満ちる。気がつけば体は歩き始めていた。
 そうして、九峪は行動を開始した。
 次こそは仲間を守るために。


   /


 その頃。九峪が降り立った森のすぐ近くに存在する険しい森の中。行く手を阻む植物が群生する山道を、尋常ではない速度で疾走する影が二つ存在していた。
 壮年の男と、若い女。
 二人とも一般的な狩人の服装をしているが、道なき道を軽々と走り抜ける速度が常人ではない事を雄弁に物語っている。

「伊雅様、こちらの方角で間違いないのでしょうか?」

 走り続けながらも、全く息を切らせずに若い女――清瑞は尋ねた。ハスキーなその声はどれだけの悪路を走ろうとも乱れる事は無い。そして鋭い視線は彼方のある一点をただ見据えていた。

「うむ。こちらの方角に神器が存在しておる。現に蒼龍玉の反応も次第に強くなっている。――間違いあるまい」

 そう言って壮年の男――伊雅は腰に下げていた袋から紅く輝く宝玉を取り出した。二人が走るたびに、その宝玉の輝きは徐々に強くなっていく。まるで炎のような紅色。
 伊雅と清瑞。彼らは十数年前に滅びた耶麻台国の関係者、特に伊雅は耶麻台国の元副王であり、亡国の復興のために旅をしている最中だった。そして、その旅の途中、まさしく数刻前に伊雅の所持している神器、蒼龍玉に突如として反応が生じた。
 耶麻台国が滅びてより、今の今までまるで変化する兆しを見せなかった宝玉に、赤々とした光が灯り始めたのだ。間違いなくそれは、緊急事態である事を表している。
 神器は耶麻台国復興のために欠かすことができない、重要極まる祭事器である。その突然の変化とあって、二人は急遽、予定を変更して神器の捜索を行うことに決めた。
 蒼龍玉には少しながら他の神器に反応する性質があり、宝玉の色の変化は近くに別の神器が存在することを意味している。その色の変化の強弱を頼りに、二人は目的の神器が在ると思われる地域まで来ることはできた。だが、完全な場所の特定は難しく、そこから先は一向に捜索は進まなかった。
 ゆえに付近一帯をしらみつぶしに探していたのだが、先ほど蒼龍玉が反応している神器がある正確な方角がわかったため、二人はその場所に向けて走っているのだ。

「誰かが神器を所持している様ですね」
「間違いなく、そうであろうな」

 二人が神器の場所を特定できなかった理由の一つに、神器の反応の場所が常に移動していたことが挙げられる。
 二人は並の人間ではなく、常人の足取りを追うことは容易い。
 しかし、そんな二人でさえも反応について行くいくことしかできない程の速度で、神器は移動し続けていた。
 そのため捜索は難航していたのだが、つい先ほど理由は不明であるが神器の反応が移動を止めた。それにより、ようやく彼らは神器の場所を特定できているというわけである。
 しかし、この事実はすでに神器が誰かの手に渡っていることを示していた。
 それも二人ほどの手練と同等、あるいはそれ以上の移動速度を持つ人物の手の中に。
 仮に邪馬台国の人間であったのならば何も問題はないが、敵国である狗根国の人間であった場合は事情が変わってくる。どのような手段を用いてでも二人は神器を取り戻さなければならない。
 自然と二人の間には緊張がよぎっていた。

「問題は誰が神器を所持しているか、ということですね」
「そうだな。我々の側ならば良し、狗根国側ならば……」
「奇襲でもかけますか?」
「それしかあるまいな。神器を奴らの手に渡すわけにはいかん。――だが、まずは現場に行くのが先決だ。急ぐぞ、清瑞」

 お互いに視線を交わらせて方針を決めると、そこで口を閉じて更に速度を跳ね上げる。道なき道を疾走していた二人は、およそ可能な限りの全力で神器の反応する場所へと向かった。


  /


 神器を持つ者と、神器を追う者たちが集いつつある方角。街道を離れた山道には、列を成して進む数十人の姿があった。
 集団の大半はぼろ布の様な服を着ており、両手を後ろに縛られていた。そして彼らを囲むかのように、鎧を着込んだ兵士達が存在している。客観的に見れば罪人の集団が連行されているように見える光景である。

「……これからどうする?」

 そんな集団を見下ろすことのできる小高い丘の上。その場所で集団の進行状況を確認しながら切れ長の目が印象的な若い女性、伊万里が小さな声で尋ねた。傍らに佇んでいる、どこか生真面目な印象を受ける伊万里とは対照的に、明るい雰囲気を纏ったもう一人の女性、上乃と、その横に無言で立つ少年、仁清へと向けて。
 伊万里の形の良い柳眉は、眼前の光景を見たためか歪んでいる。そして程度の差はあれど、残りの二人もまたこの光景に嫌悪感を覚えているようだった。
 三人は同じ山人の里の出身であり、狩りを行う場合は常に一緒に行動している仲間でもある。
 そんな三人は全員が、かつて耶麻台国を占領した狗根国に対して良い感情を持っていない。そしてこのまま狗根国の支配を受け入れようとも思っていない。三人はいつか決起する心積もりだった。そのため、蜂起する時期を読むために、たびたび周辺の街の情報を得るために里から離れて情報収集を行うことがあった。
 そして今回も、常のように周辺の情報を一通り得てから帰路についていたのだが、その際に山道を移動するこの集団を見つけた。見た限りではただ事ではない様子の集団を見捨てておけず、三人は集団の後をつけてきたのだ。

「行くしかないんじゃない? きっとあの人たち征西都督府に連れてかれて強制労働とかさせられるんだよ」
「……そうだね。助けられるなら助けたほうがいいと思う」

 伊万里の問いかけに、二人は救出を主張する。それは伊万里の心情とも合致した返答だった。
 やはり気が合う。そんなことを考えながら伊万里は、これからの行動を決定した。連行されていく人々の姿を眺めて、口を開く。

「よし、確かこの先に崖があったはずだ。そこまで回り込んで奇襲をかけよう」
「は〜い。狗根国の奴らに一泡吹かせてやろ〜」

 上乃が軽い調子で相槌を打つ。顔に笑顔を浮かべているが、手には既に剣を握っている。素早い。上乃は伊万里の子供の頃からの親友であり義理の姉妹でもあったが、常に軽口を叩きながらも、やると決めたならば即座に行動に移る。伊万里が走り出すのと同時に、上乃もまた地面を蹴っていた。後方からも、無言ながら仁清がついてきていることもまた分かる。
 一定の速度で駆けながら、三人はあっという間に目的の崖まで到達した。息を殺して、集団が近くに来るのを待つ。
 そして少しばかりの時間が流れた後、予想通りに、崖の前を集団が通り過ぎていった。
 丸裸の背中が見える。

「――行くぞ!」

 その瞬間に、相手に気づかれないように小さくかけ声あげて、伊万里は崖を駆け下りていった。腰まで伸びた伊万里の長髪がはらりと風に揺れた。上乃、仁清――残りの二人も後から続く。
 彼らは事態に対応できずにいる狗根国兵たちを一瞬の内に屠った。まるで素人のように無防備な背中へと鉄の一撃を喰らわせる。
 迅速に、狗根国兵の姿をした者達は淘汰された。

「大丈夫だった〜?」

 そのまま上乃は、ぼろ布を着た人々に近づいていく。連行されていた人々の両手を縛る縄を解いていく。
 まずは一人の縄を解く。そして次に横の男の縄を解こうとして、
 ごつっという鈍い音が鳴った。
 上乃は、――後頭部を強打されて、糸の切れた人形のように、地面へと倒れた。

「何をするんだ!」

 助けようとした相手に攻撃を受けた、理解しがたい現状。伊万里は怒りから、上乃を昏倒させた男に向かって叫んだ。後方では仁清も矢をつがえ、男に向かって弓を構える。
 だが上乃を打ち倒した男は、二人の視線を軽く受け流すと上乃の喉に隠し持っていた小太刀を押し当てた。
 それと共に、両手を縛られていたはずの集団は次々とその拘束を自ら解いていく。
 伊万里はその行動を見て悟った。――はめられたのだと。

「私たちは誘い出されたわけか……」

 唇を噛み締めながら呟く。だが、それももう遅い。既に相手には人質をとられてしまっている。

「くくっ、そういう事だ。取り合えず武器を捨ててもらおうか」

 上乃に小太刀を押し当てながら男が告げる。圧倒的優位に立った事を理解している声だった。
 そして事実、伊万里と仁清には打つ手が無い。人質がいるために手を出すことも、逃げることもできない。その言葉に従い、伊万里と仁清は結局、武器を捨てた。
 無手となった二人は、上乃と同じく周りに居た男達に拘束される。

「……私たちをどうするつもりだ?」
「本来ならば俺達、狩人部隊が捕まえた者はその場で斬り捨てるのだが、お前達は運がいい。魔人召喚の際の生贄が足りないらしくてな、活きがいいのを捕まえたら左道士に回せって命令がでている。喜べよ、あと数日お前達が生きていられる時間が延びたんだからな」

 狩人部隊。それは元来、各地に存在する野生化してしまった魔獣を狩り出す事を目的に組織された狗根国の部隊である。だが、九洲においては名が持つ意味が違ってくる。九洲では魔獣ではなく、耶麻台国の残党を殲滅する事にその重きを置いている。人に害をなす魔獣よりも、まずは国に仇なす反乱分子から粛清をというわけだ。
 そんな狩人部隊の隊長らしき男から語られた言葉は重かった。
 魔人の生贄となった場合にはこの世のものとは思えない程の激痛を味わうと言われている。いかに精神が強いと言われている伊万里であっても、楽に死ぬことなどはできないだろう。
 後ろでは、生贄という言葉に仁清が顔を青くしていた。
 そして伊万里はこの時になってようやく自分の短慮に気付いた。囚人護送をわざわざ街道から離れた山道で行う必要などなかったのだ。既にこの大地の支配権は狗根国に移っているのだから。
 狗根国に対する敵意から冷静な判断ができなかった自分を、伊万里は深く悔やんだ。

「連れて行け」

 隊長格の男は周囲に命令する。
 伊万里、仁清、そして起こされた上乃は狗根国兵に周囲を固められながら歩き始めた。
 生贄という言葉が衝撃的だったのか、未だ仁清の顔は青いままだ。
 自らが人質となった所為で、三人とも捕まってしまったために上乃は顔をうつむかせている。そして最終的な判断を下した事を伊万里もまた悔やんでいる。
 三人は誰一人、話をしようとはしなかった。


   /


「休憩だ。お前達は周囲の状況を見て来い」

 隊長格の男が周囲の兵士に命令すると、その言葉に従い、十数名の兵士達はその場所を離れていった。
 そして兵士達が見回りに行くのを見送った後、下卑た笑いを浮かべながら隊長格の男は伊万里に近づいていく。
 その視線の中に籠もった欲望が何であるのかを理解しながら、伊万里はその男を強く睨みつけた。

「何の用だ?」
「くくっ、そう睨むな。せっかくの綺麗な顔が台無しだ」

 男は、口元に笑みを浮かべたまま伊万里の細いあごを掴む。
 伊万里は露骨な嫌悪感を表すが、両手を木の幹に縛りつけられているので抵抗することができなかった。為されるがまま、男の顔を真正面から覗き込まされることになる。

「――私に触れるな、屑が」
「ひゃっはっは! 気の強いお嬢ちゃんだなぁ、おい!」

 その言葉が男にとっては面白おかしいものだったのだろう。伊万里の罵倒に怒るどころか、喜びながら男は笑った。
 周りに残っていた兵士達も、にたにたした笑みを浮かべてそのやり取りを聞いている。

「折角、お嬢ちゃんみたいな上玉を捕まえたんだ。このまま生贄に回すのはもったいないだろう。当麻の街に着く前に少し俺の相手をしてもらおうかと思ってな」

 そこで男は生暖かい息を、伊万里の首筋へと吹きかけた。この状況で、その言葉が何を意味しているのかは明白だ。
 反射的に、伊万里の眉根が嫌悪感のために寄る。
 だが、その姿を見ても男は更に笑い声を強めるだけだ。
 絶対的優位にある者の笑い声は、酷く癪に聞こえる。その癇に障る笑い声により、伊万里の柳眉は限界まで吊りあがった。

「豚の相手などしない。せめて人間らしい外見になってから来い」

 圧倒的に不利な状況であっても伊万里は恐れずそう言って男の顔に唾を吐きかけた。
 男は命を握られている状況で、伊万里がそのような応対をするとは予想もしていなかったのだろう。唾が顔面にかかった瞬間には呆然として、何が起こったのか計りかねているようだった。大方、伊万里が懇願してくるだろうと安易に予想していたに違いない。
 だが、それでも少しばかりの時間が経ってから、自分が何をされたのか悟ったらしい。顔面に唾を吐きかけられた男は、無言のまま顔に青筋を立てて伊万里の頬を殴りつけた。
 鈍い音が、響く。近くに転がされていた上乃は、反射的に目を瞑った。
 だが、殴られて唇から血を流しながらも、伊万里の眼光が衰える事はなかった。
 ただ男を、強く睨みつけている。殴られたことなど、伊万里は歯牙にもかけていなかった。
 そんな伊万里の態度に、男は舌打ちをするしかない。

「……ちっ、おもしろくない女だな。おい、お前ら少しこの場所から離れてろ。こいつに礼儀ってもんを教えてやる」

 男の命令に、兵士達は全員その場所を離れていく。
 それを確認した後、男は小太刀を取り出して伊万里の頬にあてた。サディスティックな笑みを浮かべて、刃先をほんの少しだけ伊万里の顔の皮膚の下へと潜り込ませる。それは言外に顔の皮を剥ぐことなどいつでもできるという主張だ。

「泣いて謝るなら今の内だ。とは言っても、並大抵の謝罪なんか、今の俺が受け付けるはずもないがな」

 そのまま男は小太刀を頬から首筋、首筋から鎖骨へと移動させていく。
 皮一枚分の肌を切り裂かれて、薄らと伊万里の白い肌に血がにじんでいく。
 だが伊万里はそれでも眼光を緩めなかった。変わらずに男を睨み続ける。恐怖に怯えるどころか、時間が経つたびにその瞳の力強さは増していく。
 その眼光に気圧されて男は一瞬、動きを止めた。
 しかし自分の優位性を思い出し、再び小太刀を動かす。胸骨から伊万里の上着へと小太刀を動かし、そして切り裂き始めた。
 こうすれば女は全て泣き喚く。そう男の経験が判断していたからこそ、笑みを取り戻して浮かべることができる。

「へへっ、まだ強がっていられるのか?」

 小太刀は既に伊万里のへその部分まで到達していた。
 その時点で男は確信していた。
 目の前の女は、かつて同じ事をしてきた女達と同じように泣いて許しを請うはずだと。力こそが正しいという男の考えから導き出された当然の解答。男は伊万里が泣き叫ぶのを待ち望んでいた。
 伊万里が許しを請うその時にこそ男の醜い征服欲が満たされるからだ。
 そして、しばしの静寂の後で伊万里が口を開きかけた。
 男は下卑た笑みを浮かべながらその声を聞こうとした。ようやくこの女も屈服するという達成感が男の胸の中にはあった。
 しかし男の醜い欲望が満たされる事は無かった。

「強がるも何も、――いい加減、その醜悪な面をどうにかしろ。目が穢れる」

 伊万里の鋭い眼光は変わらない。言葉にも力が満ちている。その瞳には、怯えの色は見えない。
 それが男には信じられないことだった。
 男は最初、伊万里に何を言われたのか理解できず、だが次第に言葉の内容を飲み込んでいった。怒りから顔が赤くなる。男にとっては当然にも等しい、懇願の言葉が紡がれる事がなかったためだ。逆に聞こえてきたのは侮蔑の言葉で。
 衝動的に男は、右手の小太刀を振り上げていた。
 目の前の女はいるだけで不愉快だと、そのまま右腕を振り下ろす。

「代わりならあと一人いる! そんなに死にたいなら死ね!」

 白刃が、伊万里の胸元へと迫った。
 伊万里はやけに時間がゆっくりと流れるのを感じながら、その光景を見ていた。自分はここで死ぬのか、と思いながらも後悔はしていなかった。下卑た男の玩具になるくらいならば意思を貫いた方が百倍ましだと思っていたからだ。
 例え死ぬことになろうとも、譲れないものが伊万里にはあった。
 異様にゆっくりと流れる時間の中、ふと視線を外すと、遠くの木に縛られている上乃が何か叫んでいるのが目に入った。
 伊万里はその瞬間に、上乃より先に死ぬ事を少し申し訳なく思った。
 そしてまた視線を男に戻す。
 目の前にいる下種に自分が殺される事が悔しくてならなかったが、伊万里は決して表情には出さなかった。
 例え自身の肉体が敗北しても、精神までは敗北したくない。その感情だけが伊万里の目から光を失わせなった。
 その瞬間にも振り下ろされた小太刀はゆっくりと伊万里に近づいてくる。
 時間が止まるなどという奇跡は起きない。刃と心臓の距離は刻一刻と縮まっていく。
 そして瞬きするほどの短い時間が経過した後。鮮血が、飛び散った。
 飛び散った血液が周囲を紅く染め上げる。
 木が、草が、地面が、――そして伊万里が血に染まった。

 伊万里に、男の血がかかったのだ。

 そしてどさりっと、目の前で小太刀を握っていたはずの男の体が倒れる仰向けになって倒れ、そのまま動かなくなる。
 死を覚悟していた伊万里はただ呆然と男が倒れていく様を見ていた。
 何が起こったのか、どうして死ぬはずだった自分が生きているのか。
 それが何故なのかを、伊万里は理解することができないでいた。
 混乱したままに、それまで男が立っていたはずの場所を見つめる。
 そこには、今まで見たことも無かったような奇妙な服を着た男が、月の光を遮って立っていた。

「――大丈夫か?」

 月光を背に受けているために、顔の輪郭しか分からない男は、そう伊万里に尋ねてきた。



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