走る、走る。馬蹄が地面を蹴る音が鳴る。
 藤那より借り受けた駿馬を全力で駆けさせながら、九峪はじっと力を溜め込んでいた。
 思い出すのは先ほどの言葉。
 あの時。紅玉により叱咤されて、九峪は少しだけ気づくことが出来た。
 今までは復讐のためだけに戦ってきた。
 目を閉じても、瞼の裏側にまで浮かんでくる過去の惨劇。
 それを引き起こしてしまったことが悔しくて、それを引き起こした者達全てが憎かったから、九峪は立ち塞がる敵全てを仇と見て薙ぎ払ってきた。過去に仲間を殺した敵を殺せなかった代わりに、目の前の敵を倒すことで憂さを晴らしてきた。
 そうして敵を殺しつくしていけば、現在の自分を知らない仲間達を守れるだろうと考えていた。
 狗根国さえ掃討してしまえば、九洲はきっと大丈夫だろうと。
 そうなるはずだと思っていた。

(……だけど、それは違うんだ)

 しかし、現実は違っていた。
 復讐に逸る気持ちを抑えきれずに、怨敵である魔人と向かい合った九峪に訪れたのは敗北だった。
 紅玉の助けがなければ、そのまま命を落としていたとしてもおかしくはない。
 目の前の敵を倒し続ければいい。
 そんな風に簡単に考えていた自分は落とし穴に嵌まっていたことに気づくことが出来た。
 戦うことだけに、憂さを晴らすことだけに集中することは逃避でしかない。
 何があろうと目の前の敵を倒す、それだけの考えに囚われていてはいけないのだ。
 それでは過去の、誰も彼もを失わせてしまった自分と何も変わらない。
 復讐心の甘い囁きに負けて、考える事を放棄してしまえば、訪れる結果は今回もまた同じになるだろう。
 だから、変わらなければならない。
 今回こそは、守らなければならない。
 確固とした意思で守る事を選択しなければならないのだ。
 それは時には、自らの復讐をも抑えなければいけないことを意味している。
 苛烈な感情に囚われることなく、例え目の前に敵があったとしても、それを見逃すことが全体の利益になるのならば見逃し、最善を目指さなければならない。今までの自分にはそれが足りなかった。
 だからこそ、あのような目を覆いたくなる結果しか待っていなかったのだと、九峪は激しく揺れる馬上にて認めた。
 歯噛みをしながらも、まずは何もかもを捨てることを決意する。

(やっと分かった。必要なものはたった一つだ。……それだけあればいい。例え仇を討てなかったとしても、それさえあればいいんだ)

 それこそ長い悪夢のような日々の中で、九峪が正気を保つためには強い憎悪が必要だった。
 だからそれを今まで持ち続けてきたことは当然だと言える。
 だが、それにだけ引きずられていれば、先ほどのように手痛い敗北を喫することになる。また、逸る気持ちに判断力を失い、友軍の危機の可能性を察することもできなくなる。
 それでは、以前の二の舞だ。
 そのことを理解した九峪は、手綱を持つ拳をぎりぎりと血が出るほど強く握り締めながらも、この馬上にてこれまで積み重ねてきた憎しみを一時だけ忘れる決意をした。心を乱すほどに強い感情は、最早要らない。
 それがあるだけで思考が、体が鈍ってしまうのならば、持っていてはいけないのだ。
 伊万里達のいる、街を挟んだ反対側の陣までの距離はあと僅か。
 その場所に近づくたびに、心の中の怒りや憎しみを路上に捨てていくことをイメージする。
 藤那から借り受けた駿馬は一心不乱に友軍の元を目指す。
 九峪はゆっくりと、ゆっくりとだが心に根ざした憎悪を捨て去っていくための努力をした。
 長い間染み付いたそれを捨て去ることは不可能なのかもしれない。
 だが、ならばせめて表に出てきてそれが感情を乱すことの無いように蓋をしなければならない。
 そのために過去の凄惨な記憶を思い出さないように努力した。せめて戦場に立つ間だけは、現在の仲間の事だけを考えなければならないのだと。憎む暇が在るのならば、その時間を友軍のために使わなければならないのだと。
 気がつけば、いつの間にか九峪はまた涙を流していた。
 守らなければならない。そのためには怒りを表面上は捨て去らなければならない。
 そうすることが苦しくて、九峪の心が泣き出したのだ。
 それほどまに九峪の心の中に巣食った激情は深く根を張っていた。
 だが辛いからと言って、投げ出すわけにもいかない。
 まずは守らなければならないのだ。
 そのためには捨てられるものは捨てなければならない。
 不利益しか生み出さない感情などは封印してしまわなければならない。
 気がつけば、九峪は悲鳴を上げていた。
 憎しみ続けることで、過去の凄惨な出来事によりもたらされる悲しみから逃れようとしていた九峪は、この時初めて正面からその悲しみと向き合わされることになったのだ。
 悲しい。悲しい。――悲しい。
 胸の内の憎しみなどどうでもよくなってしまうほどに重たい感情。
 憎むことを放棄した九峪はそれを直視しなければならない。
 気を紛らわせることもできない。
 九峪は揺れる馬上で、前さえ見えなくなるほどの涙を流すしかなかった。
 だが、やがてその涙を止める。
 この悲しみの感情にもまた、今は蓋をしてしまわなければならない。
 泣いて悲鳴を上げて、それでも止まらず涙を流した九峪は、そこで歯を食いしばった。
 流れる涙を塞き止めた。
 胸の奥底から湧き上がってくる激情を今だけは忘れた。
 頭より下される冷たい理性だけを体中に満たしていく。
 そうしていつしか感情を制御しようと努め続けた結果、九峪の表情からは感情が消えた。
 昔のような暖かな笑みも、これまでのような軽薄な笑みも、全てが無い。
 流した涙はいつしか完全に止まっていた。
 嗚咽と悲鳴も喉元から聞こえなくなった。
 赤くはれ上がった目蓋以外の全てが、どんな感情も窺わせることはない。


   /


 状況は、お世辞にも良いとは言いがたかった。
 人と魔人の体力差は、大人と子供のそれよりも遥かに大きい。だから、最初は拮抗していたように見えた伊万里達と魔人との戦闘も、時間が長引くにつれて劣勢が明らかになっていく。
 まだ誰一人死んではいないが、それだけだ。
 体力の限界に近づきつつある者がいる。
 もはや方術を唱えることもできずに倒れこんでしまった者がいる。
 そもそも魔人の相手をすることが出来る人間の絶対数が少ないことが、致命的であった。
 勝ち目は、殆ど無い。
 もし復興軍が魔人を倒そうとするのならば、あの時、星華が魔人を吹き飛ばすほどの方術をぶつけた直後に、最大戦力を一気にぶつけてしまわなければならなかったのだ。それならば勝ち目は薄い博打ではあるものの、勝機はあった。
 だが、もちろんそんなことは今さら分かっても無駄でしかない。
 亜衣は遠のきそうになる意識を何とか保って、方術を援護のために放ちながら、そんなことを考えた。
 口元には、彼女には似つかわしくない自嘲的な笑みが浮かんでいる。

(……これは間違いなく私の失態だな。狗根国より魔人の襲撃があることなど、予め想定して、対策を練っていなければならなかった。同じ火魅子候補の香蘭様の陣営に頭を下げてでも、対魔人用の戦力は分散させておくべきだったというのに)

 なまじ聡明な亜衣は、このまま自軍の体力が削られ、敗北してしまうであろう未来が見えてしまう。
 それだけにやるせなかった。
 いや、最早この状況に至っては、多くの者達が勝算の少なさに気がついている。
 かろうじて兵士たちが戦場に留まっていられるのは、伊万里を初めとしてまだ魔人と戦えている者がいるからだ。
 誰か一人でもやられてしまえば、それこそ復興軍の兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまうだろう。
 それは復興軍が死ぬのと同義だ。
 亜衣はまた歯噛みして、倒れこみそうになる体を、強引に地面に立たせた。

(この状態は、かろうじて私達が戦っていることで維持されている。ここで私が倒れるわけにはいかないし、そもそも魔人を倒した後にも、街に残存している勢力を叩くために指揮を取らなければならない)

 復興軍にとって、最悪なことは目の前の魔人を倒せたとしても、それだけでは終わらないと言うことだった。
 魔人の襲撃などは想定外の事項であって、本来の敵は街の中に立て篭もっている狗根国残存兵力だ。
 その相手が、魔人に襲われている復興軍という絶好の餌に喰らいつかないとは考えられない。
 やがて時間が経てば、浮き足立った復興軍の首級を取らんと押し寄せてくることは明白だろう。
 その相手の対処も考えなければならないというのが、亜衣にとっては辛いところだった。
 現状でも手立てが無いのに、更に迫り来る困難にどう対応しろと言うのか。
 いかに若年にして智謀の冴えを見せ付ける亜衣であっても、そんなものどうすることもできない。
 考え浮かぶのは対応策ではなく、誰にでもない愚痴だけだ。

(……ふん、絶体絶命というわけか。たまらないな。――だが、こんなもので絶望などしてやるわけにもいかない。こんな逆境、いつだって私たちは打ち破ってきたからこそ、ここにいるんだ)

 亜衣は理性が告げる敗北の予感を、強引に思考から排除して、眼前の魔人を強く睨みつけた。
 冷静沈着に物事を進めようとする彼女は、常に理論に従って戦術を立てる。
 だが、その理論が通用しない場面ではもう一つの顔が出る。
 それは亜衣が持つ極度に負けず嫌いな性格だ。これが出れば、例え殺されたとて退くことは無い。
 どう転ぼうとも、勝ち目の見えない状況で、亜衣は死を覚悟した。
 決死。死を賭してでも何ごとかを成し遂げようと、決めたのだ。
 
(確かに、このままいけば我々は魔人に敗北する。だが、こちらが、――それこそ死ぬ気でかかれば目が無いわけではない。生き残る事を考慮にいれなければ、まだ打てる手はあるはずだ)

 そこで一度、亜衣は倒れていまだ意識の戻らない星華を眺めた。
 自分が仕えると誓ったただ一人の主君。いまだ若年であるため、理想の上司などとはお世辞にも言えたものではないが、それでも亜衣は星華の中に女王としての器量を見つけていた。
 精神的に幼い面が多いために、よく考えを乱されるが、基本的には統治者としての素質を備えている。
 成長することで、その欠点を埋めることが出来れば、理想的な治世が可能となるだろう。
 現在は疲労により意識を失っているが、それでも今までの戦闘経験の少なさを考えればよくもったほうだ。
 普段から評価が辛口になりがちな亜衣であっても、今日の星華の働きは認めていた。
 軍全体を考えて、最善と思われる選択肢を素早く選んで実行する。
 それは存外にも難しいものだ。
 そのことを理解している亜衣にとって、今日の星華の成長振りを見れたことは、価値があった。
 ここで失わせるには、惜しいだけの未来がある。
 だからこそ、亜衣は口を開いた。

「衣緒ッ――! 私が時間を稼ぐから、今すぐに星華様を紅玉様達の部隊までお連れしろ! 何があっても、何があってもだ!」

 叫びながら、そう告げて亜衣は疲れた体に鞭打って、足を前へと進めた。
 何度も方術を使用したために削り取られたなけなしの精神力をかき集めて、もう一度術を練るための準備をする。
 後ろは振り返らなかった。
 答を聞かずとも、妹ならば自分の考えを理解し、その意を汲んでくれるだろうという信頼があったためだ。

(……その代わり、盛大に恨まれるだろうがな)
 
 亜衣はそう自嘲的に考えてから、一度全ての思考をシャットアウトして、目の前の魔人へと向かった。
 分が悪いなどと言う表現が生ぬるいぐらいの、勝ち目が薄い特攻だが、それでもやらなければ亜衣の気がすまない。
 伊万里達が包囲して必死に動きを止めようとしている魔人の下へと亜衣は駆けた。
 そして相討ち覚悟の攻撃を仕掛けようとして――。


 直後。風が亜衣の真横を通り過ぎた。


   /


 亜衣の動きの変化に最初に気がついたのは伊万里だった。
 疲れがピークを迎えたのか、それまで続いていた方術での援護が途絶えた。
 前線で魔人としのぎを削っていた伊万里にとっては、とてつもない痛手だ。
 そのため、声を上げて魔人への牽制を頼もうと横目でその姿を見てみれば、普段とはまるで違う表情を浮かべている。
 何かを決意したような目で、魔人を見据えるその姿に、伊万里は半ば直感で理解した。
 何をする気なのかは分からないが、亜衣は死ぬ気なのだろうと。
 それは伊万里にとって容易く認められる事柄ではなかった。
 だが、伊万里とて亜衣にばかりかかりきりになれるわけではない。そんな余裕目の前の魔人相手に見せてしまえば死ぬだけだ。
 だからうかつなことはできないし、勿論、亜衣を説得するようなことだってできない。
 ただ出来たのは、横目に亜衣がこちらへと駆け寄ってくる姿を眺めることぐらいだった。

(まさか、特攻でも仕掛けるつもりか? ――十中八九死ぬぞッ!?)

 捨て身の攻撃などを仕掛けて、勝てる確率などあってないようなものだ。まして相手が魔人であれば尚更。
 至近距離まで接近して、急所に方術でも放てれば戦況はひっくり返るかもしれないが、残念ながら身内の伊万里から見ても、亜衣にそれだけの戦闘能力を期待するのは酷なように思えた。
 そんなことができる人物などは、武芸の達人である紅玉、香蘭親子であるか、もしくはあの日出会った、青い衣服に身を包んだ、不思議な男ぐらいしか――。
 そんなことを、考えた時だった。
 伊万里の視界の端。そこに思い描いた男が姿が現したような気がしたのは。
 
(軟弱だ――。こんな時にも他人を頼ろうとするなんて)

 最初、伊万里はそれを危機に陥った自らが見せた幻覚だと判断した。
 今はそれよりも早く、亜衣のことをどうにかしてしまわないといけない。
 伊万里にも最早、死ぬ気で抵抗するしか手段がないことは理解できていたが、実際に捨て身となることは違うように思えた。
 例え勝ち目が無い戦いであろうとも、死ぬ瞬間まで抗うのが彼女の気性だ。
 このあたりは守るべき主君があるのかないのかという差異が影響しているのかもしれない。
 とにかく伊万里は、術士の身であって魔人に接近しようとする亜衣の援護のために動こうとした。
 そして、直後。
 伊万里は見ることになった。
 亜衣の後方から飛来した風の方術が、それまで伊万里達が押さえ込んでいた魔人を弾き飛ばした光景を。

「……雅比古、さん」
「上手く相手をしてくれていたみたいだな」

 戦況を覆しうるただ一人の援軍は、馬に乗ってやってきた。
 遠方から方術を放ち、魔人を打ち据えたその男は、普段のように軽薄な笑みを浮かべることも無く、仲間の無事を確認するかのように周囲を見渡した。
 その表情は伊万里が初めて出会った時に見た顔によく似ていた。

「兵士の損害も少ない。皆も、死んだり重傷を負ったりはしていない。――亜衣さん」
「……何だ」
「ここに来る途中で、留守達が攻めてきている姿を見ました。できるだけ早く立て直してください。あれは俺が引き受けますから」
「出来るのか?」
「やりますよ。あっちに来た魔人は紅玉さんに取られましたからね。あれぐらいはどうにかしておかないと、俺の活躍する場面が無い」

 最初は状況を理解できないのか呆然とした表情を浮かべていた亜衣だったが、九峪に名前を呼ばれた瞬間にそれまで纏っていた危うい雰囲気は消えうせた。普段の怜悧な表情が浮かび上がる。
 その反応に馬上の九峪は満足したように笑った、ように伊万里には思えた。
 それは、この場所のほとんどの人間に分からないだろう小さな変化ではあったが。

「聞こえただろう。伊万里、あんたも早く狗根国の部隊への対処を始めろ」

 片腕と両膝だけで絶妙に馬を操りながら、九峪は伊万里へとそう呼びかけた。
 その視線は既に起き上がろうとしている魔人へと向いている。
 
「……勝てるのですか?」
「勝つさ。そうしないといけないし、――何より少し前に目が覚めたばかりだからな。同じ轍を二度踏むわけにはいかない」
「目が、覚めた?」
「それについては、この戦いが終わったら話してやるよ。だから今は、一刻も早く兵士をまとめ上げるんだ。それができるのは、――伊万里、お前だけしかいないんだから」

 そう告げてから九峪は伊万里の傍から離れた。
 魔人に怯えそうになる馬を宥めながら、先ほどまで伊万里達が総がかりでも敗北しかけた相手へと向かっていく。
 その背中は、初めて見た時から何を考えているのか読めないものであったが、この時は何よりも力強いもののように思えた。
 そして九峪が声をかけることもできない場所へと離れていった時に伊万里は別の事に気がついた。

(そういえば、初めてまともに名前を呼ばれたような気がするな)

 不思議と、九峪が負けるなどという考えは、浮かばなかった。


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