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「衣緒ッ――!」

 常に冷静なはずだった亜衣の、悲痛さを嫌というほどに感じさせる声が聞こえた。その表情は、自らが魔人の牙の前に散ろうとしているかのように、沈痛なものだった。衣緒は、動かなかった。星華は、声を出すこともできなかった。

(――間違いなく、目の前の衣緒は死ぬ)

 星華は来たる未来を星詠みのような正確さで知覚した。倒れた衣緒。衣緒を救い出せる位置には、誰もいない。この短時間で星華が方術を放とうとも、そんな小手先の技では魔人の勢いなど衰えないだろう。そして、それは亜衣も同様。しかも亜衣に至っては、最早指一本動かせそうには見えない。最悪すぎる現実に思考を止められている。

(――倒れた衣緒は殺される)

 誰も、誰も魔人を止めることはできない。亜衣も星華も、この場所にいる誰一人が衣緒の前にまで届かない。魔人のほうが確実に速い。そして仮に魔人の前に立つことができたとしても、進行を防ぐ手立てなどはない。手段は無かった。

(――衣緒は死ぬ)

 星華は衣緒を見た。すると、その瞬間に衣緒もまたうずくまった体勢から星華を見ていた。視線がかち合う。――口元から血を流したままに、衣緒は一心に何かを叫んでいた。逃げろ、逃げろと叫んでいた。自らが死にそうな状況であるにも関わらず、星華に向かって逃げろと叫んでいたのだ。

(――衣緒が、死ぬ)

 それは、きっとこの場所にいる誰一人変えることができない未来であり、否定することは適わない現実でもあり、甘受することしか認められない事実であり、

(――衣緒が、死ぬ?)

「――ふざけないで」

 思考が、爆発した。


    /


 九峪は、空中で重力に引かれて落下していきながら、自らに飛び掛かろうとしている魔人の形相をゆっくりと観察していた。獰猛な牙。凶悪な爪。強靭な肉体。――そのどれもが確実に九峪の命を奪う得る必殺の凶器だった。
 達人たりえない九峪は、紅玉のように空中で体勢をかえることなどはできない。
 それだけが、全て。
 九峪は後悔と共に全てを思い出していた。仲間達の顔が脳裏に浮かんでは消える。楽しかったことや、愛しかったこと、悲しかったことや、辛かったこと、憎かったことが、時系列に従って断片化した映像として思い浮かんでくる。
 知らず、懐かしさと悔しさから九峪は涙を流した。

(……守れなかった、のか。――いや、俺はまだ、せめて最後までは諦めれない)

 だが、後悔と絶望が一身に押し寄せてくる中で、希望が無くても九峪は諦念に身を委ねるわけにはいかなかった。
 高すぎる洞察力が、自身の終わりを知らせている。――しかし、その程度では止まれない。
 生の終着を向かえようとする者だけにしか理解出来ない恐怖が、心臓を握り潰そうとする。――しかし、それでも九峪は生きている。

(せめて、この魔人だけでもを道連れに――)

 九峪は空中の不安定な体勢のまま、それでも最後まで戦い続けると決意し、片方だけしかない腕を振りかぶった。魔人の腕の半分ほどの太ささえもない人の腕は頼りなかったが、九峪に頼れるものはそれだけしかなかった。
 大地を蹴った魔人が、紫電のような速さで九峪に迫る。
 九峪は、己が積み重ねてきたもの全てを代償にする覚悟で、拳を魔人に向かって振り下ろそうとした。
 だが、直後。
 空中で、肉塊が金槌にでも叩かれたような、鈍い音がした。
 ――結局。その拳は何一つ捉えることができずに、九峪の体は地面に転がった。
 そして。


「――随分と、らしくない戦い方をしますね」


 突如。
 血生臭いはずの戦場に、典雅な涼風が凪いだ。
 五体を四散させた九峪が転がっているはずだった場所には、一人の妙齢の女性が佇んでいた。魔人の姿さえも、そこにはない。
 九峪は、地面に強かに体を打ち据えられ、強い痛みを感じながらも、その姿を見た。――紅く、細い背中。だが、その姿を見るだけで感極まって泣き出してしまいそうな安堵感を覚える。紅玉という心技体強い武人。それは、九峪が思い描く最強の人の姿だった。
 紅玉は、九峪を守るように立っていた。彼女の視線の先には、地面に伸びたように転がる魔人の姿がある。
 何ごとが起きたのかは理解できなかったが、九峪は紅玉に己の命を助けられたのだと理解した。――その行為に九峪は途方もないほどの感謝の念を覚えるが、それと同時に助けられることしかできない自身が、本当に口惜しく思えた。
 先ほどから流れ始めた涙が止まらないままに、ぎしりっと強く歯噛みする。
 そして痛みを無視して立ち上がり、紅玉に向けて言った。その姿は、泣きながら駄々をこねる子供に似ていた。

「……そこを退いて、くれませんか? あれは、俺の、獲物だ」

 九峪は、もう誰の力も借りたくないと考えている。守られた分、それだけ自分は皆を守らなければならないのだと信じていた。だから、九峪は紅玉を守ろうと足を踏み出す。
 だが。その声を聞いて、紅玉は顔だけを振り返らせた。その表情は、今までに見たこともないほどに厳しいものだった。
 
「あなたは少し、――黙りなさい」

 遥か高みから睨み付ける、猛禽のような視線。含まれた重圧と強烈な意思が、見る者の動きを止めた。
 守れなかったという九峪の後悔も、狂気を孕んで燃え上がる九峪の殺意も黙らせるほどに、紅玉の見下ろすような視線には、圧倒的な強制力が籠められていた。
 九峪の体は、半ば反射的に動きを止めた。

「今はそれよりも、確認しなければならないことがあるでしょう」

 一歩、先ほど自らが弾き飛ばした魔人へと向けて歩きながら、紅玉は冷静な声色で言った。言葉は九峪に向いていても、最早その視線は九峪に向いていない。
 ちらりと一瞥して九峪の動きを止めた後、紅玉は一貫して魔人を注視していた。空中で紅玉に何らかの攻撃を受けた結果なのか、魔人の周囲では土煙がもうもうと舞っていた。だが、それほどの強い衝撃を受けたにも関わらず、魔人の黒色の体はほぼ無傷だった。いつ動き出すとも限らない。

「どうせ大して効果はないのでしょう? ――立ちなさい。二、三聞きたいことがあります」
「……グ、ガガッ、オ前ハ誰ヨリモ、苦シメナガラ殺シテヤル」

 倒れた姿勢のまま、動きもしなかった魔人が、紅玉の声に応えて俊敏な動作で立ち上がった。九峪によって潰された三眼の一つから、血を流してはいるが、意にも介していないようだった。そして、既に九峪も見ていない。
 魔人が見ているのは、目の前で艶然と佇む紅玉だった。殺戮という至高の楽しみを奪われたためか、その瞳は危険なまでに血走っている。
 だが、それらの視線を受けても、紅玉は表情を変えることなどはなかった。風を受ける柳のように、魔人の殺気を受け流している。

「一つ。あなたは狗根国に命令されてここに来たのですね?」
「誰ガ、アノ程度ノ者達ノ走狗トナルモノカッ――! 我等ハ請ワレタカラ手ヲ貸シテイルダケダ!」

 叫び声をあげた魔人は、純粋な暴力から構成された弾丸となる。地面をひび割るほどに強く蹴りつけ、跳躍する。
 それは、九峪でさえも正確には姿を目で追うことができないほどの速度だった。
 だが。

「二つ。今、“我ら”と言いましたね? あなたの他にも魔人がこの地に召喚されているのですか?」

 紅玉はその攻撃を軽く避けた。ぎりぎりまで魔人の攻撃をひきつけ、己の体に魔人の拳が触れる瞬間にさっと身を翻す。武道における型のように、傍から見れば造作なく、予定調和のように魔人の暴力をすり抜けていく。
 ただ、魔人の攻撃は空気を切り裂いただけだった。
 紅玉は傷一つなく魔人の真横に立っている。そして、――続いた衝撃。紅玉はがら空きの魔人の横腹を蹴りつけた。人の細い蹴り足から放たれた力が、魔人という超質量を吹き飛ばす。

「手を出すよりも前に、質問に答えてもらえませんか?」
「――貴様アアッ!」

 蹴鞠のように吹き飛ばされた魔人は、紅玉の平静とした言葉に叫び声を上げた。だが、今になってようやく警戒を始めたのか、そのまま紅玉に向かって突進する様子はない。九峪相手には力押し一辺倒だった魔人が、初めて相手の様子を窺い始めたのだ。

「どうやら、これ以上の会話は不可能なようですね。――ですが雅比古さん、今の会話から一つ大事なことが解ったでしょう?」

 魔人にさえも攻撃を躊躇わせる達人、紅玉は前方を深く注意したままに口を開いた。後方で無様に片膝をついた九峪に向けて諭すように告げる。
 九峪は、その言葉を聞いてようやく自分が過ちを犯していたことに気がついた。目の前に釣られた魔人という餌に注意と理性を奪われ、戦場で全体を見渡す視野を失っていたという事実に。
 魔人は、紅玉の問いかけにはっきりと“我ら”と言った。それが何よりも揺るがない証拠となる。

「……本隊にも、魔人が来ている可能性があるということですね」
「そうです。あちらがこれほどにも簡単に暴露してくれるとは予想外でしたが、もはやこれは確実だと言えるでしょう。間違いなく、あちらにも最低一体以上の魔人がいるはず」

 紅玉は語りながらも魔人に対して構えを取る。ただの人を余所に置いて、魔人と紅玉という二つの存在が一触即発の空気を発し始めた。じりじりと空気が熱気を帯びていく。いつ、再び壮絶な戦いが始まってもおかしくはない。
 九峪は立ち上がり、援護のために紅玉に近づこうとした。だが、その行動は紅玉自身に止められた。

「――助けなら、不要です。それよりも貴方は早く、行かなければならない場所へ行きなさい」
「紅玉さん、あなたは目の前にいる生物が、どんな化け物か解っているんですか?」

 拒絶され、近寄ることができずにいる九峪は、立ち尽くしたまま尋ねた。

「相対してみれば、これがどのような存在かは解ります。解っていて言っているのです。――ここには私以外に必要ありません。あなたは本隊へと向かってください。最悪、あちらでは戦闘が始まっているかもしれません」

 そして紅玉は魔人に注意を向けたままに答えた。その表情に焦りの色は見えないが、それが虚勢であるのか、もしくは自信の表れであるのか、どちらかは解らない。
 ただ九峪に解ったことは、その言葉がきっと今の自分よりも正しいのだろうということだけだった。

「……解りました。俺は行きます」
「そうしてください。街を挟んで部隊を展開しているとは言っても、決して短い距離ではありません。急がなければ手遅れになる可能性もあります」

 その瞬間も、紅玉はじりじりと魔人との距離を詰めている。これ以上、戦いの邪魔をするべきではないと考えた九峪は、気配を消して身を引こうとした。だが、その九峪に対して、紅玉が呼びかけた。

「雅比古さん」
「……何ですか?」
「あちらへ到着するまでに、あなたは良く考えるべきです。今の自分が、自分を偽っていないのかどうかを。過去に何があったのかは知りませんが、それでもどのようなことがあったのか程度なら、見ていれば解ります。だから、言っておきます。――あなたは本当に、良く考えるべきです」

 見透かしたかのような言葉で、紅玉は告げた。普段の精神状態ならば反発を覚えてしまいそうな、思考しろという言葉は、不思議なことに今の九峪の心には、砂地に染み入る水のように吸い込まれていった。乾燥して、ひからびてしまっていた心の中に少なくはあったが、確かにその瞬間に潤いは与えられた。

「……覚えておきますよ」
「今は、それで限界なのでしょう。ですから何も言いません。――ただ、戦いが終わったなら、もう一度会いましょう」
「そうですね。……また会いましょう」

 その言葉を別れの挨拶として、九峪はその場を離脱した。
 そしてそのまま藤那から馬を借り受けて、伊雅達の展開している部隊の下へと向かった。


    /


「――ふざけないで」

 罵倒が、出た。逃げの思考に出ていた自分を、揺さぶり起こす。
 許容してはならない現実を認めようとしていた自分を、星華は気がつけば叱咤していた。何故か脳裏に羽江の泣き顔が浮かぶ。そして言い終えた瞬間に、目が覚めたような感覚に陥った。
 ――目の前に倒れているのは私の部下で、そして何より、私の家族だ。助けられる位置には、まだ私がいる。
 衝動的に浮かび上がった思考は、単純で尊いものだった。
 途端に複雑に絡み合ってしまっていた思考が、一本に再構築されていく。織り交ざっていた恐怖や責任や逃避の感情が一斉に消えて、新しく生まれた感情が声高く叫び始める。心の中にかかっていた霧を払い除けて、衣緒を助けろ。お前が動け、と主張した。感情の名は、愛情だった。死のふちに追い詰められ、無力感に打ちひしがれ、絶望を舐めさせられて、それでも最後まで星華の胸には、幼少から育まれた家族愛が残っていた。

「――待ちなさい」

 星華は、自らの胸の内に湧いた声に答えて、脳神経が焼ききれそうなほどに早く、方術を唱えるために思考を巡らせた。賭けられているのは自分の命ではなく、姉妹の命。それを焦げ付くほど強烈に自覚しながら、前へと走った。
 恐怖に硬直していた体は、一歩目を踏み出せば羽のように軽く動いた。今まで何もしてこなかったのだから、当然だ。せめてこの一度だけは働いてみせろ。星華は、凶悪な容貌の魔人に屈してしまわないように、その双眸で睨みつけながら思った。

「なっ、星華様――!?」

 後方から亜衣の声。困惑していた。だが、思考から即座に切り捨てる。
 星華の胸の中では、燃え盛る紅蓮のような感情が渦を巻いて沸き立っていた。どこから湧き出たのかは解らない。だが、その感情は苛烈な溶鉱炉のように、逃げに出ようとしている不要な感情を全て、消し炭すら遺さずに燃やしつくしていった。それは一片の不純物すら含まれていない純粋な怒りだった。自らに対してであり、魔人に対してであり、死んででも自分を守ろうとした衣緒に対してである激情。もはや鎮火することが適わない大炎となっていく。
 思考を焼く激情の熱波が、自分を中心に放射状に広がっていき、周囲一帯を燃やし尽くすイメージが、勝手に胸の中に浮かび上がってくる。
 血が沸騰してしまうような衝動。同時にどこまでも無限大に広がっていく思考。頭の中で数十の思考が並列して組み立てられ、高速で処理されていく。まばたきする暇すらない僅かな時間の中で、どこまでもどこまでも星華の意思だけが昇華されていく。
 自らの意識が体の内より外へと飛び出て、根を伸ばし、周囲全ての空間を支配下に置くような、超越的な感覚が生まれる。
 腕を振るえばそれこそ最早、初代姫巫女のように炎を従えられるような――

「天の、火矛」

 白い炎が、星華の右腕より、伸びた。
 口から紡がれた言霊が、非自然的に生まれた炎を屈服させ、従えさせる。
 恐ろしいまでに速く、生じた炎は星華の腕から離れていった。極限まで絞られた弓から放たれた矢のように、空気すら吹き飛ばしながら、一直線に飛ぶ。進む先には魔人。その時、初めて、魔人の表情から嘲笑が消えた。
 そして起こる爆発。火球は、魔人の腹部へと着弾した。――轟音。爆風の余波だけで、周囲の草が刈り取られていく。
 ただの一度も倒れなかった魔人の体が、その瞬間に初めて、地面へと崩れた。巨大な質量から構成された魔人の体が、音を立てて横に倒れる。星華の後ろで、驚きのためか誰かが息を飲んだ。見えなくとも、星華にはそれが理解できた。
 だが、例え倒れた魔人を前にしても、星華は動きを止めなかった。

「天の、火矛ッ!」

 脳髄が焼ける感触。星華の視界の中に黒い点が混じり始める。足元からは力が抜けていき、倒れこみたくなる衝動に抱かれる。だが、それらを無視して星華は連続して術を放った。失神寸前の意識は、何故か異様なほどに冴え渡っていて、方術を失敗する気がしなかった。
 そして事実、術は成った。それも、今までに成功したことがないほどの正確さと強大さで、炎が星華の意思の下に生み出されていた。
 空中に静止していた炎は、術者の意思に応じて加速し、即座に地面に倒れていた魔人を打ち据えた。炸裂した火球は帯電して、プラズマすら生み出すほどに、激音を響かせる。地面が小刻みに揺れた。
 魔人の体は枯れ枝のように、方術による衝撃でもう一度大きく後方へと吹き飛んだ。

「くっ――」

 その瞬間にぐらり、と体が揺れる。
 星華は術を放ち終わった瞬間に片膝をついていた。だが、視線は燃え盛る炎の先、魔人に向けてある。いつあの凶悪な生物が飛び出してきても、一瞬で反応できるように精神だけは研ぎ澄ませていた。そして同時に強く叫ぶ。

「衣緒、逃げなさい!」
「は、はいっ!」

 言葉の効果は絶大だった。何が起こっているのか、最初は分からないようにしていた衣緒も、叱りつける様な星華の言葉に身を飛び跳ねるようにして起こして、即座に魔人と距離を取った。それから直ぐに駆け出すと星華の傍まで走り寄って来る。
 徐々に手が届く距離まで衣緒の姿が近づくと、星華は心底から安堵した。
 涙を流してしまいそうなほどに、心が安らかになっていく。

「せ、星華様、今のは?」

 だから、近寄ってきた衣緒の困惑したような言葉も星華は耳に入らなかった。
 ただ、視界の中で大きくなっていく衣緒の姿だけを眺めることで精一杯だった。そして、姉妹の無事な姿を見た瞬間に張り詰められていた緊張の糸は途切れ、怒涛のように疲労が一身に押しかかってくる。
 
「星華様――ッ!?」

 そして星華は姉妹の絶叫のような叫びを聞きながら、そのまま意識を喪失した。過度の力を振るった代償のためか、真っ黒くなっていく視界の中で最後に星華が見たのは衣緒の顔だった。



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