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 そして九峪は現在、伊雅の手配により耶麻台国の隠れ里に逗留することになっていた。
 過去に神の遣いをやっていた時の名である九峪ではなく、雅比古と名乗って。
 これには彼なりの理由がある。単純な理由ではあるが、かつての仲間に同じ名前で呼ばれたくなかったのだ。九峪は彼らのことを知っているが、彼らは九峪のことを知らない。それなのに昔と同じ名前で呼ばれれば、衝動的にぼろを出してしまう可能性がある。
 そのための楔としての、雅比古なのだ。

「さて、これからどうするかが問題だな」

 誰も居ない部屋、ため息と共に九峪は呟いた。勿論、清瑞が天井裏に隠れていたりしてはいないことは確認している。
 ――九峪は現在、この里では客人という立場になっている。
 神器を伊雅に渡した後、戦闘のあった場所を離れるために伊雅の住む耶麻台国の隠れ里に向かっている途中、九峪は自分のことを友人の頼みで天魔鏡を耶麻台国の人間に届けに来た旅人と説明した。どうやらこの説明に伊雅が感動したらしく、九峪を隠れ里に客人として招いたのである。
 そもそも耶麻台国が滅んでから十数年。
 未だに九洲の各地では耶麻台国の関係者の捜索は続いており、さらにその中でも神器の捜索には莫大な人員が投入されている。もしも狗根国の捜索を妨害したり、協力しなかった場合は命を奪われる可能性もある。九洲の民ならば耶麻台国に対する忠義から神器を守ることもあり得るが、普通は無関係である旅人が狗根国に敵対してまで神器を守りはしない。
 しかし九峪は九洲の支配者である狗根国に敵対してまで神器を守った。
 ゆえに、その恩には報いなければならないと義理堅い伊雅は考えたのである。
 そのため彼の里での扱いは極めてよい。神器を守り抜いてくれた客人と伊雅に紹介されたため、里の人の殆どが九峪に対して好意的であるし、隻腕である九峪を思ってか様々な雑用を代わりにやってくれようとしてくれる。
 また一室を与えられており、最低限の衣食住は確保されている。九峪はその点においてはかなり満足していた。
 しかし、現在九峪はある問題に悩んでいた。

「伊万里に出生の秘密を教えるべきなのか……」

 伊万里は火魅子の資質を持つ、直系の耶麻台国の王族であるが彼女はその事実を知らない。
 彼女は狗根国の目から逃れるために山人の子供として育てられてきたため、自らを山人として認識しているのだ。九峪の知る過去の伊万里は、山人として育った自分が王族であることにコンプレックスを抱き悩んでいた。
 生真面目で弱みを見せることを良しとしない性格から、ほとんどの人間が気づけなかったのだが、凄まじい精神的重圧に伊万里はずっと耐え続けていた。
 もちろん、その事実に気付いた九峪は伊万里の重圧を取り除こうと努力はしていた。
 他愛ない話をしてみたり、一緒に訓練をしてみたり、色々な方法で彼女の支えになろうとしていた。――しかし、それが本当に伊万里の助けになったかは解らなかった。伊万里の本心を聞く前に彼女は散ってしまったからだ。
 そのため、九峪は伊万里を失ってから悩んだ。
 伊万里にその出生の秘密を教えなければ彼女は苦しまずに済んだのではないか、という後悔の念がたびたび浮かぶのだ。
 だから九峪はどうしても、伊万里に真実を告げることに躊躇ってしまう。

(せっかく過去に戻ってきたのに行動一つ決められないなんて情けないな……)

 九峪は髪をかきあげて天井を見つめたが、そんなことをしても答えが浮かぶなどということはない。その眉間に、深いしわが寄るだけだ。
 問題が問題であるだけに生半可な決断を下すわけにはいかず、九峪はそのままの姿勢で暫く思案していた。
 が、そこに九峪の思考を中断させる音がした。いや、正確には九峪の部屋に一人分の足音が近づいてきた。
 基本的に九峪があてがわれた部屋の周辺は人通りは多くない。だから、何ごとかと聴覚がその足音を捉えた瞬間に、九峪は思考を保留することにした。

「雅比古さん、いますか?」

 よく通る暖かな声が廊下から聞こえてきた。母性的な印象を持つその声の持ち主は音羽である。過去、九峪の親衛隊隊長を務めていた彼女は何の因果か、今回もまた伊雅に九峪の世話を命じられていた。
 九峪はわざわざ世話などされなくても大丈夫だと言ったのだが、客人を放っておくなど耶麻台国の沽券に関わるとの伊雅の主張に言い負かされたのだ。客人である以上、ある程度の歓待を受けるのは礼儀でもある。
 九峪としても無碍にすることはできなかった。

「ええ、どうかしたんですか音羽さん?」
「いえ、特に何もないのですが、少し雅比古さんと話をしたいと思いまして。今、お時間大丈夫ですか?」

 与えられた任務に忠実な音羽は、九峪に不便が無いか調べるために何度か部屋を訪れて九峪と会話をしていた。彼女自身、優しい人格者であるために隻腕である九峪を気にかけてもいたのだろう。
 そのため、彼女は今のところ九峪と一番親しい里の人間になっていた。
 そんな彼女の来訪に、九峪は沈んでいた表情を一瞬で切り替えて笑みの形を作る。

「音羽さんと話ができるならいつでも時間は空いていますよ」
「ふふ、ありがとうございます。それでは入らせてもらいますね」

 部屋に入ってきた音羽は九峪の近くまで来ると、そのすぐ前でに正座した。
 律儀なことだと、部屋の中で足を崩している九峪は思わずにはいられない。

「別に足崩してもいいんですよ。この部屋には他に誰もいないんですから」
「いえいえ、これは好きでやっているので気にしないで下さい」
「好きでですか。――まあ、それならいいんですけど」

 そう言った後に、九峪はだらしなく更に足を崩した。そして軽く唇の端をつり上げる。
 その様子を見て、音羽は口元に手の平を当てた。ふふっと少しだけ笑う。そして母性的な優しさの含まれた視線で九峪を眺めた。

「雅比古さんは本当に変わった人ですね」
「まあ、九洲の人間じゃありませんからね。考え方とか違うところがあるんでしょう」
「――そういえば雅比古さんは旅をしていたんですよね。よろしければ旅の話を聞かせてくれませんか」
「いいですよ、例えば日本って国があるんですが……」

 音羽の頼みに、九峪は彼自身のことはぼかしながらも、喜んで故郷のことを語った。九峪は過去に何度も、様々な人に自分の生まれ故郷について語っている。何を話せば面白いのか、何を話せば逆に不審に思われるのかを理解している九峪の話は、十分に聞き手を惹きつけた。
 過去に珠洲の毒舌で九峪の故郷についての話が荒唐無稽すぎて理解出来ないと散々に突っ込まれていたので、いつの間にか九峪は九洲の人間にもわかり易い話ができるようになっていたのだ。
 本当に懐かしい、取りとめも無いような話を、九峪は一つ一つ丁寧に話していく。
 昔の事を話すと、不思議と九峪の気持ちは落ち着いていった。
 音羽は、ただ聞き役に徹して、相槌を打ちながら九峪の話に耳を傾ける。過去に体験したようなそれが懐かしくて、そして嬉しくて、九峪は本当に色々な話をした。
 一区切りがつくと、いつの間にかかなりの時間が過ぎてしまっていた。

「――まあ、こんなところかな。どうです、少しはおもしろかったですか?」
「はい。初めて聞きましたけど、不思議な話ですね」
「まあ、余り信憑性がないことは自分でも理解してますよ。多分、清瑞とかに言ったら鼻で笑われちゃうでしょうからね」
「そうですね。きっと『ふん、貴様の戯言に付き合う気は無い』とか言われますよ」
「あはは、音羽さん以外と声まね上手いんですね」

 人差し指で両の瞼を吊り上げて清瑞の声まねを敢行する音羽に、九峪は自然と笑みを漏らしてしまった。本当に心の底からおかしくて、つい普段よりも大きな声をあげてしまう。
 そんな九峪を、音羽はじぃっと見つめ返していた。
 笑い終わってから、ずっと見つめられていることに気がついた九峪は、不審に思ってそのことを尋ねた。

「……どうかしたんですか?」
「いえ、やっと笑ったと思いまして」

 尋ねられた音羽は、真面目な表情を作って答えた。

「笑ったのがどうかしたんですか?」
「確かに、今朝から何度も笑ってましたけど何か違ったんですよね。辛そうというか、後ろ向きな笑いというか……。けどさっきは本当に笑ってくれたようでしたから」

 音羽は、それだけを言い終わると暖かく微笑みながら笑った。人が笑ったことが嬉しいと、満足そうに九峪を眺める。――その姿に九峪は彼の知る過去の音羽を見た。不覚にも、また泣きそうになってしまい、九峪は堪えた。
 泣くのは全て終わってからだと、九峪は決めていた。

「……気付いてたんですか?」
「ええ。何か今朝から様子がおかしかったので。何かあったのなら相談に乗りますよ」

 幼い子供に対する母の様に音羽は答える。それは、本当に優しい声だった。
 九峪の心の中に衝動的に全てを音羽に話してしまいたい願望が生まれる。自分にはこんなことがあった。こんなつらい経験をしてきたと、悩みを無条件に吐き出せる相手がいたらどれだけ楽なことだろうか。――しかし、九峪はその願望を強引にかき消した。
 九峪は誰にも自分のことは語らないと決めていたのだ。
 もし話してしまえば彼らは確実に九峪を守ろうとする。そんなことは、とにかく御免だった。

「……心配してもらってすみません。だけどこれは、自分でけりをつけなきゃいけない問題なんですよ」

 だからゆっくりと、九峪はその言葉を口にした。

「そうですか。もし一人で辛くなったら遠慮なく言って下さいね」
「はい。本当にありがとうございます」
「いえ、気にしないでください。今日聞きたかったことはそれだけですから、私はここで失礼させてもらいますね」

 そこで立ち上がり、音羽は部屋を出て行こうとする。九峪を一人にしておくことは、音羽なりの配慮であるのだろう。実際に、まだ決意が固まっていない九峪にとって、その対応はありがたいことだった。傍に誰かがいると、頼ってしまいたくなる気持ちが生まれてしまう。それは本能的な衝動で、簡単に制御できるものではない。
 九峪は音羽の姿が小さくなっていくのを見つめていた。

「助けようと思っている相手に、逆に心配されるなんて笑えない……」

 音羽は最初から九峪が悩んでいることに気付いていて、九峪の精神的な負担を減らすために態々、部屋までやってきた。その事実に気付いた九峪は音羽の優しさに感謝すると共に自分の弱さを恥じた。このままでは誰かを助けることなんてできようはずもない。
 だから九峪は部屋の中で一人悩んでいても、答えなどでるはずもないと気づけた。
 行動に移すことを決める。その瞬間に、腹は決まっていた。

「真正面から聞けばいいんだよな」

 そして九峪は立ち上がり部屋を出た。彼の悩みを解消するために。
 九峪は前を向いて歩き始めた。


   /


 当麻の街の留守の間。
 豪華な装飾の施されたその部屋の中央に二人の女がいた。一人は儚げな印象を与える女性、志野であり、もう一人は無愛想な少女、珠洲である。二人は、街の最高権力者である存在の前に立っているのだ。

「今回はお招きいただきありがとうございます。留守様」

 志野は上座に座る太った男に対して、たおやかな美しい笑みを浮かべながら丁寧に礼をした。後ろに控える珠洲も、この時ばかりは丁寧に頭を下げる。
 そんな二人の態度に留守は大きな声で笑いながら答える。

「お前達が街で評判の白拍子か。早速だがその舞を見せてもらおう」
「拙い芸ではありますが、留守様のお望みとあれば」

 微笑を絶やさずに答えながら、志野は右手に抱えていた白い包みから、柄の上下に刀身の付いた特殊な形状の剣――双龍剣を取り出した。珠洲も同じく、横に置いていたカラクリ人形を操るための糸を指にはめた。

「それでは存分にお楽しみ下さい」

 部屋の中央に立ち相対する志野と珠洲。
 そして、二人が得意とする舞が始まった。
 まだ小柄な体であるにも関わらず珠洲は巧みな指使いで人形を操る。人形はまるで意思を持つかの如く立ち上がると、一歩一歩、志野に向かい近づいていく。そしてお互いの手が触れ合う位置まで接近すると、一時その動きを止める。
 志野はその間、身動き一つしない。精巧に作られた人形が二つ並んでいるかのように錯覚させるほど、志野と人形は完全に動きを止めた。部屋の中に、静寂が訪れる。
 人形、志野、珠洲の誰もが動かない。

「これはどういうことだ……」

 留守が始まらない舞に疑問を覚える。周囲の兵士達も、見たことも無い形式の舞に首を傾げようとしていた。
 だが、その瞬間。周囲の人間の目が十分に引き込まれたが確認された直後に、止まっていたはずの時間が流れ始めた。
 ぶぅんっ! と何の前触れもなく急に人形が右腕を動かした。
 握られた拳は。遠慮なく志野へと向かっていく。虚を突かれた観客は、驚きという感情をアクセントとして始まった二人の舞に取り込まれていく。
 残像すら残る人形の一撃を志野は悠々とかわす。
 そして人形は圧倒的な速度で志野に対して連撃を放ち続ける。上段。袈裟懸け。薙ぎ払い。――そして刺突。
 至近距離から繰り出される、その全ての攻撃を志野は避け続ける。その姿はさながら蝶の如く。微笑みながら、そして舞の形式を崩すことなく人形の攻撃をかわし続ける姿は幻想的の一言に尽きた。
 次第に留守たちもその光景に心奪われていく。

「これは素晴らしい……」

 留守の間に控えていた文官の一人が呟く。舞などに詳しくない常人にも、芸の深さを感じさせるだけの凄みが二人の剣舞の中には存在していた。――そして、ほうと漏れた文官の言葉を合図としたかのように事態が変わった。
 人形の攻撃を受けるだけだった志野が反撃に転じたのだ。
 両手に持つ双龍剣を、くるくると回しながら志野は人形に攻撃をしかける。
 上下同時に。左右同時に。刺突と斬撃。およそ見る者の予想を裏切る、だが華麗な動きでもって志野は攻勢に移っていた。流れるように、そして苛烈に、儚げな志野の体から燃え尽きる直前の線香花火のような苛烈さがほとばしっていた。
 そして、守勢にある人形も、その攻撃を全て腕で弾き飛ばす。
 攻めと守り。
 紅き人形と青い衣服の志野。
 荒々しき力と華麗なる技。
 対極たる二つの存在のぶつかり合いは見るものの心を鷲づかみにした。
 暫くの間、志野の刃と珠洲の人形はぶつかり合いせめぎ合うことで奏でる金属音が、留守の間に響き渡っていた。
 そして響き渡る音の強さに負けぬように、次第に剣舞の動きもまた激しさを増していく。
 接近しての技の応酬。かと思えば一瞬の内に距離を取り対峙する。
 最初は留守の間の中央で行われていただけの剣舞も次第にその行動範囲が広がっていく。
 留守も、その傍らに控える文官も、その護衛である兵士達も、誰一人その事実に気付かない。余りにもその舞は美しかった。
 そして人形の一撃が奔る。その豪腕を志野の双龍剣へと叩きつけることで、細い志野の体ごと吹き飛ばす。吹き飛ばされながらも空中で体勢を安定させた志野は、危なげなく後方へと着地した。
 その場所は、ちょうど留守たちの上座へとなる。

「おおっ、激しい剣舞だ」

 手を伸ばせば触れられそうなほど近くまで来た志野の姿に、留守は声を上げる。
 先ほどから何度も繰り返されてきた光景であるので、この時点では傍に控える兵士たちも志野の接近に緊張したそぶりはない。
 むしろ緊迫感のあるその動きを楽しんでいるようにも見える。

「せいっ!」

 掛け声を上げて、志野に向かって珠洲が人形を操りながら駆けた。大きく人形はその拳を振り上げて志野を叩き伏せようとする。
しかし、余裕を持ってやはり回避する志野。加速しすぎたのか珠洲は勢いを殺せずにそのまま慣性に従い突き進むことになる。――留守へと向かって。

「むっ?」

 その動きを不審に思ったのか兵士が留守の前を固めるが、その兵士達の目の前で珠洲の人形は止まった。
 そして何事もなかったかの様に珠洲は志野に向かい直す。そして。

「――邪魔」

 後方を振り返ることなく、留守の前を固めた兵士達を、人形を操ることで吹き飛ばした。
 突然の攻撃に、避けることもできずに兵士達は一撃で昏倒して床へと叩きつけられてしまう。

「何をする、無礼なッ!」

 突然の珠洲の行動。危険と感じた兵士達は、咄嗟に兵士達が留守の周りを固めようとする。だが、それは致命的に遅かった。
 いや、珠洲だけに注意が向きすぎたことが致命的だったのか。
 構えを取った兵士達の首筋に、先ほどまで剣舞の中で使用されていた双龍剣が深々と突き刺さる。いつの間にか、剣を抜こうとした兵士達の傍には、視線だけで人を殺せそうなほどに強い憎悪を瞳に湛えた志野がいた。
 志野の動きには、まったくの容赦などなかった。
 悲鳴が、上がる。鮮血が、舞い散る。
 一瞬で数人の兵士が倒れ伏した場所に、志野は立つ。血で赤く染めた双龍剣を両手にして。
 彼女は留守の間の全員が珠洲に気を取られている隙に回りこんでいたのだ。それだけで、この行動が珠洲の乱心などではなく計画的なものであることが窺える。
 志野は勢いそのままに留守に向かっていった。立ち塞がる文官、兵士を切り伏せながら。その剣筋は舞の際に見せたものの何倍も熾烈で激しい。彼女の舞うような動きに合わせて周囲に紅い血の華が咲いていく。
 志野は、すぐさまに留守の元まで辿り着いた。彼女の剣の腕は雑兵が止められうる次元にはなかったのだ。

「当麻の街の留守、相馬に違いありませんね?」

 そして、志野は双龍剣を留守の喉元に突きつける。
 先ほどまで微笑を浮かべていたはずの彼女の目は猛禽の如く細まり、憎悪の炎が露に燃えていた。

「げ、下賎な白拍子が何用だ……」

 腰を抜かし震える声ながらも留守は答えることができた。
 だが、その瞬間に剣先が皮一枚分めりこみ、ひいっと悲鳴を上げてしまう。

「私はあなたが相馬かどうかを聞いているのですが?」
「い、いかにも儂が相馬だが。な、何の用だ」
「そうですか。やっと会えました」

 望む答えが得られたのか、留守の言葉に志野は心から嬉しそうな声で微笑んだ。しかし、その美しいはずの表情からは寒気しか感じられない。それは留守もまた同様であったらしく、体を緊張させて縮こまらせた。

「き、貴様は何者だッ!?」
「五年前。あなたがしたことを覚えていますか?」
「五年前だと? 儂が川辺城に居た頃か?」
「ええ、五年前です」

 志野の五年前という言葉に考え込む留守。命をにぎらられている状況であるために、下手に返答すれば命が危ない。そのため留守は必死に考えてみたが何も思い浮かんでこなかった。留守には命を狙われるに足りる理由など掃いて捨てるほどに存在していたためだ。
 どれほど考えてみても、目の前の志野と接点のありそうな記憶など浮かんできそうにはなかった。
 その程度の関心しか、持っていなかった。

「……わ、わからんな。お前達は何が欲しい? 金か? 名誉か? 士官となりたいのならば今回の件は見逃して」
「黙りなさい! 五年前あなたは一人の人間を殺した。まさか覚えていないのですか!?」

 何も覚えていないと言外に主張する領主の態度に激昂したのか志野が叫ぶ。
 留守は助かりたい一心で、志野の殺したという単語から必死に思い出そうとした。だが、やはり何も思い出せなかった。五年前といえば彼は出世するためにありとあらゆる悪事に手を染めていたのだ。恐喝、賄賂、強盗、必要ならば殺人も。
 心当たりがありすぎるために特定することができるはずもない。

「……まさか本当に覚えていないとは」

 その様子に、留守が何があっても思い返すことなどないと悟ったのだろう。
 怒りと、若干の空しさ悔しさが混ざった声で志野は呟いた。さらに、剣先が留守の体へと、ずぶずぶとめり込んでいく。

「ま、待て、思い出した! 私が出世するために蹴落とした同僚のことか!? いや金を奪うために殺した漂白の民だろう!?」

 そして留守は覚えている限りの出来事を語ったが、――そこに志野の望む答えはなかった。

「……もういいです」

 志野は、余りの悔しさに涙を流しながら全てを終わらせることを決断した。
 剣を振り上げて、一息に目の前の男の首を刎ねるための体勢を取る。頭の中では、優しかった恩人の笑顔を浮かべていた。

「あなたが、殺した人の名は志都呂。……五年前に川辺城を訪れた旅の一座の座長にして私たちの恩人! 殺した者の名すら思い出せない己の業を悔いつつ逝きなさい!」
「ひいぃッ――!」

 そして志野の双龍剣が振り下ろされる。その細く鋭い刃が、腰を抜かし倒れる留守の首筋に吸い込まれていこうとする。
 そして、白刃によって血煙が作られようとした、その瞬間。
 ――突如として、後方から禍々しい黒い波動が放たれた。
 迫り来るその術を察知して、志野は瞬時に回避する。

「へえ、流石にやるじゃあないか。狗根国の留守を狙うだけはある」

 術が飛んできた方向。そこには、若い女がいた。長い黒髪の女は、爬虫類に似た笑みを浮かべて笑っている。どことなく蛇を思わせる赤い舌が印象的な女だった。

「おおっ! 深川様!」

 そして留守が、女の名前を呼ぶ。深川、それが女の名前だった。
 深川は、並の実力者ではない志野を前にしても、余裕を崩さず笑っている。

「まったく、無能者とはいえ狗根国の留守を襲ったんだ。覚悟はしてもらうよ、お嬢ちゃん」
「あなたが誰かは知りません。けれど、もし邪魔をするようならばただでは済ませませんよ」
「おお、怖い怖い。けど、そんなことを言って大丈夫なのかい?」

 志野は一瞬で相手の力量を測りとっていた。一対一ならば負ける事はない。そう思っていたのだが、深川の言葉でその考えをかき消される事になる。深川の足元には一人の少女が倒れ伏していた。。
 それは志野にとって誰よりも大切なはずの相手だった。

「珠洲っ!」
「あっはっは! 抵抗すればこの子はどうなるんだかねぇ」

 狼狽する志野の姿を見て、深川は満足そうに笑みを浮かべる。
 激昂していたとはいえ、志野に気付かれずに珠洲を倒したことから、深川の実力は決して低くない。お互いの距離から、どうあっても志野が動く前に、深川は珠洲を殺せるだろうことが、志野には理解できた。理解してしまった。
 もはや志野は、双龍剣を強く握り締めることしかできない。

「ほらほら、早く武器を捨てたほうがいいんじゃないかい。あんまり遅いと、この子の喉元に私の短剣が滑り落ちちまうかもしれないよ?」
「くっ!」

 一瞬だけ思案した後、志野はすぐさま武器を捨てた。また誰かに大切な相手を目の前で殺されるのは御免だった。
 そして、その姿を深川は嬉しそうに見つめる。

「衛兵! こいつらを牢に入れときな!」

 為す術がなくなった志野と珠洲は、そのまま連行される事になる。二人の留守襲撃計画は、失敗に終わったのだ。。
 二人が連行された後、ようやく恐怖から立ち直ることができた留守は、満足そうに笑った。、

「さすがは深川様ですな。蛇蝎様直属の左道士の名にそぐわぬ見事なお手前」
「はん、あの程度。対処できないやつがおかしいのさ」
「まさしくその通りですな。ところで先ほどの不埒者の処分はいかがいたしますか? ただ殺すだけでは興がありませんから、引き回すなり、四肢を切断するなり……」

 そして留守は腹いせとばかりに、襲撃者である志野たちの処分を検討し始める。
 だが、その声は意外なところから止められる事になった。

「ああ、さっきの奴らには手を出すなよ」
「ど、どういうことです? 奴らは恐れ多くも狗根国の留守たる私を暗殺しようとしたのです! それを何の処罰もしなければ面目がたちません!」
「……誰が奴らに手を出さないと言った? 私はお前達が奴らに手を出すなと言ったんだよ」
「そ、それはどういう意味です!?」

 要領を得ない深川の言葉の意味が解らず、留守は戸惑うことしか出来ない。
 そんな留守の姿を嘲るように鼻で笑いながら、深川は言葉を続けた。

「そのままの意味だよ。奴らに手を出していいのは私だけだ。――奴等を見たか? 顔立ちも声色も悪くない。むしろ最近じゃ一番の上物だね。いたぶればさぞいい声で鳴くだろうと思うと……、くくっ、笑いが止まらなくなってくるじゃないか」

 両手で自分の体を抱きしめながら、深川はくつくつと笑う。狂気を含んだその光景に、俗物であるが常人である留守は気後れしてしまう。本能的に、気がつけば留守は深川から距離を取っていた。

「くくっ、あの綺麗な顔に傷をつけるのが楽しみだ。明日から残党狩りをしなくちゃいけないのが残念でならないよ。相馬、あの二人は私が帰ってくるまで丁重にもてなしておけよ。私より先に傷をつけたり、味見したら五体満足ですましゃしないからな」
「わ、わかりました」

 深川の言葉に、留守は震える声で答えるしかない。
 先ほど命を狙われていたためではなく、目の前に居る深川の狂気が彼の声を震わせていた。自分が命を狙われたことなどよりも、更に危険であると思わせる何かが、深川の瞳の奥底では鎮座していることに留守は気づいてしまったのだ。

「いい返事だ。それじゃ後は頼んだよ。そこらに散らばってる死体の後片付けとかな。――ああ! 明後日が待ち遠しいじゃないか!」

 留守の部屋を離れながらも、深川はずっと笑い続けていた。
 その笑い声を聞きながら、留守は全身に鳥肌が立つのを抑えることができなかった。



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