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 過去へと戻ってきた九峪は森の中に身を潜めて、ある集団を観察していた。それは、九峪が耶麻台国の隠れ里へと向かっている途中に見つけた集団だった。その様相からして、恐らくは狗根国の狩人部隊。
 九峪からしてみれば、これから大きな反乱を起こすのだから、今の時期に無用な騒ぎは起こすことは得策ではない。狩人部隊などを見つけた端から逐一襲撃などしていけば、狗根国側の警戒を招く。それは利口ではない。
 だが、気がつけば九峪はその集団を尾行していた。
 捕らえられている人達がいるのを見てしまったからだ。
 夜の暗がり、しかも森の中であったので詳しくは解らなかったが女が二人、そして子供が一人。
 例え今ここで動きを見せることで、無用な緊張が狗根国側に広がってしまうとしても、九峪は捕らえられている人達を見捨てることができなかった。九峪は、本質的には優しすぎたのだ。
 悩んだ挙句に九峪は集団の周囲への警戒が薄くなった時に、気付かれないようにその人々を助け出す事を決めた。
 そして時が来た。
 数時間歩き続けていた集団が、休憩のためかその歩みを止めたのだ。
 しかも都合のいいことに、兵士の大多数が何故か見回りに出始めた。
 この好機に、距離を取って集団を監視し続けていた九峪は捕らえられている人たちの救出へと向かった。
 気配を消して、物音を立てないようにゆっくりと近づいていく。
 隊長格の男が女を木に縛り付けて何事かをわめき散らしているのが見えた。九峪は速度を上げて男の背後へと回り込んでいく。
 狗根国側に緊張を与えぬために男を殺さずに昏倒させようとしていたからだ。
 だがその途中で場の雰囲気が変わった。
 男が立ち上がり小太刀を振り上げたのだ。

「代わりならあと一人いる! そんなに死にたいのなら死ね!」

 そして男が振り上げた小太刀を振り下ろそうとするその時。
 九峪は木に縛り付けられている女の顔を見ることができた。――いや、見てしまったというべきなのか。
 突発的に、九峪の頭の中に過去の記憶が激しい頭痛とともに浮かび上がってきた。

「大丈夫です。私たちにはあなたがついているんですから」


 いつからか聞くことができなくなった、記憶の中の優しい声が反芻される。
 圧倒的不利な状況であるにも関わらず、輝きを失わない強いまなざしが思い出される。

「殿は任せてください。必ず追いつきますから」


 不器用ながらも、ひたむきに誰かのために戦おうとしていたその姿が脳裏に浮かぶ。
 美しかったその姿が、その声が、その生き方が、――忘れることなどできるはずもない様々な記憶が怒涛のように浮かんでは弾けて消えた。

「王族でも山人でもなく、私はあなたが……」


 九峪を助けて、九峪を信じて散っていった女性。
 初めて彼が会った女王候補、伊万里。それはきっと九峪の罪の一つでもあるのだ。

「ぐっ、がぁぁぁッ――!」

 津波のように押し寄せる激しい頭痛に、知らず九峪は声を漏らしていた。
 そして、痛みと同時に気がつけば体が動き出していた。理性による行動などではなく、反射的な、本能による行動。それは二度と失わないための防衛本能だった。
 九峪の全身が瞬時に応答して、地面を蹴りつける。細胞全てが反応したかのように力強くスムーズに、九峪は伊万里との距離を一瞬で詰めた。すぐ目の前に男の背中が見える。
 九峪は、男が背後からの接近に気づかないうちに、そのまま次の行動へと移っていた。
 振り下ろされそうになっていた小太刀を操る男の右腕を上から掴み、そのまま男の右腕を操って小太刀で男の頚動脈を掻き切らせた。ずぶりっと肉を断つ感触が腕に伝わり、周囲に鮮血が飛び散った。
 九峪の右腕が、そして伊万里が血で染まる。
 その時点でようやく九峪は、伊万里が無事な姿に安堵した。ほうと息を吐く。
 そして、万感の思いを込めて告げた。

「――大丈夫か?」

 九峪の言葉に、伊万里は反応することなくただ呆然と倒れた男を見つめていた。
 そのため九峪は再び問いかけた。

「怪我は無いか?」
「え、あ、はい。大丈夫です」

 ようやく伊万里は九峪に気付いたらしく礼を言った。そして九峪を見つめた。
 ――知らない人間を見る目で。その瞬間に九峪の心が抉られる。
 過去へと戻ってきたのは九峪一人だけ。だから誰一人自分を知らないことを九峪は理解していた。そう、頭では理解していたのだ。
 しかし現実は過酷だった。
 伊万里の目が、態度が、言動が、その全てが主張していた。九峪のことなど知らないと。それは予想以上に九峪を傷つけた。
 その現実を、九峪は表情に出すことなく、ゆっくりと飲み干した。

「あの、どうしたんですか?」
「……ああ、悪い。すぐに縄を解くから待っていてくれ」

 伊万里の声に九峪は笑って答えた。彼女を不安にさせてはいけないと思ったからだ。
 内心の痛みを押し殺して伊万里へと近づき、その縄を解いていく。
 努力が実ってか、震える指先に気づかれることはなかった。

「よしっ、これで大丈夫だな」

 可能な限り、自分の痛みを伝えないために、九峪は優しく暖かく微笑んだ。後悔などという思考は、いつでも出来る。それよりも先にしなければならないことが山ほどあることを、九峪は知っていた。
 だから、目の前に伊万里がいるのに感じる孤独感をその時点で封印する。

「……あ、あ、本当にありがとうございました!」

 ようやく自分が九峪に助けられた事を理解したのだろう。縄を解かれた伊万里は勢いよく頭を下げる。
 何度も何度も、頭を上下に往復させるその姿に九峪は笑みを浮かべてしまった。

「そんなに気にしないでいいよ。困った時はお互い様だろう。それよりも、あんたの仲間を助けるのが先だと思うけど?」
「え? あ、上乃! 仁清!」

 九峪の言葉で初めて仲間の存在を思い出したのか、彼らの拘束を解きに行く伊万里。
 その姿に、九峪は堪えきれずにまた微笑を浮かべた。
 仲間に向かって一目散に駆けていく伊万里の姿に、九峪が知る伊万里の姿を見出したからだ。不器用ながらも、周囲の仲間を大事にする心根は、伊万里が確かに持っていたものだった。
 そして、だからこそ九峪は思うことができた。
 九峪のことなど知らなくても、彼らは彼らであると。九峪が守るべき仲間なのだと。自分の事を知っているとか、知らないとかいう瑣末なことなどはどうでもいい。ただ、生きてくれさえすれば。
 そう、決意してゆっくりと九峪は目を瞑った。

「お〜い、そこの人〜」

 そうして、何がしかを考えている間に伊万里たちが九峪に近づいてきた。
 腕をぶんぶん振って近づいてくるのは上乃だ。傍らには伊万里、仁清がいる。
 三人は極自然に歩いている。誰一人欠けることなく。
 それは九峪が渇望した光景だった。日常という名の平穏。九峪の手から零れ落ちてしまったもの。
 不覚にも九峪は目頭が熱くなるのを感じていた。大声を上げて泣いてしまいたい衝動に駆られる。
 だから、相手に心配されないように半ば強引に九峪は返答した。 声を出すことで涙を紛らわせるために。

「あんまり騒がないほうがいい。近くにはまだ敵がいるかもしれないから」
「縄さえ解ければだいじょ〜ぶだよ。正面からやり合えばあんな奴らには負けないよ」

 そして上乃の言葉に、九峪は今度は軽く頭を抱えた。
 確かに、伊万里、上乃、仁清の三人ならば狗根国の兵士の数十人ならば倒せるだろうが、それでは狗根国に警戒されてしまう。ただでさえ、怒りに任せて隊長格の男を殺してしまったので事態の収拾が難しいというのに、ここで部隊を全滅させてしまったら、今すぐにでも狗根国との戦いを始めなければならなくなる。
 それは拙かった。
 九峪の考えでは最低でも、耶麻台国側の勢力を纏め上げるために一ヶ月は必要だ。ここで打って出るわけにはいかない。
 しかし沈黙する九峪が、戦いを恐れているとでも勘違いしたのか上乃が、安心させるように笑う。

「だいじょ〜ぶ。私たちだけですぐに終わらせるからさ。あなたは何もしなくてい〜よ」

 上乃は戦う気満々だった。
 殺されかけたことを考えれば当然の反応ではあるが、九峪は何とか戦いを避けるように上乃達を誘導したい。

「すまないけど、あんたたちを助けるので体力を使ってしまって動けそうに無いんだ。出来れば休める場所まで案内してくれると嬉しいんだけど」
「それじゃ〜、ぱぱっと済ませるからここで待っててね。行こう! 伊万里、仁清!」
「直ぐに終わらせるから待っていてください」
「……ちょっと、行ってきます」

 しかし、三人は止まりそうにも無かった。確かに自分達を嵌めた相手が近くにいるのなら、その反応も当然ではある。
 だが、それでも九峪はどうにかしようと三人を呼び止めようと声を出そうとした。
 が、その声は何処かから聞こえてきた叫びにかき消されてしまう。

「ぐぎゃぁぁぁぁ!」

 森の中で、悲鳴が上がった。
 その場にいる四人の誰でもなく、低い男の悲鳴。それが状況から狗根国兵のものであることは容易に想像できる。

「があぁぁ!」

 それも複数の悲鳴が連続して上がっていく。

「何が起こっているんだ!?」
「わかんないよ!」

 連続して起きる悲鳴は、どんどん九峪たちに近づいてくる。咄嗟に九峪を除いた三人は背中合わせなり、警戒の体勢を取った。
 そして九峪はその間、悲鳴の上がった方角、そして数から大体の状況を把握しようと努めていた。恐らく襲撃者の数は最低でも二人以上。九峪達のいる場所を包囲するように、真逆の位置からそれぞれ近づいてきている。
 そこまで判断できた所で、完全に悲鳴が消えた。
 つまりは悲鳴を上げる者が息絶えた事を示している。
 森の中に閑散とした静寂が戻る。
 ただ風の音のみが響き、血臭が色濃く漂い始めた。
 その時点で九峪は、肌に圧し掛かってくるような重圧を感じ、全身の神経を聴覚に集中させて身構えた。相手の出方を、探る。
 直後、近くの草陰でがさりっという音がした。
 伊万里たち三人は音のした方向へと反射的に注意を払ってしまう。しかし、その場所には誰もいない。
 その間隙をつくように、続いて今度は音を立てずに、横手の茂みから九峪めがけて黒い何かが飛び出してきた。伊万里達は気づけない。それは、確実に殺意をもった相手。
 飛び出してきた相手はその両手に小刀を持っており、それぞれ九峪の喉と胸元を刺し貫こうとしている。
 音も立てずに九峪の命を奪おうとする、洗練された動きはまさに一流。動きや気配の消し方から、暗殺者のそれに近いことは明白だった。注意を余所に向けてからの渾身の一撃を回避できる者などそうはいないだろう。
 しかし、その急襲も九峪には通用しなかった。
 上下から繰り出される刺突を九峪は最小限のバックステップでかわす。そして相手が次の攻撃に移る瞬間、空振りした事により僅かに前に出てしまった相手の重心を崩すために身をかがめて足払いを放つ。
 相手は飛び上がり回避。
 その行動に九峪は唇を笑みの形に歪ませた。相手の行動が予測の範囲内だったからだ。
 空中では相手が打てる手は殆ど無いと考えてよい。
 対する九峪には打てる手がほぼ無尽蔵に存在する。九峪は、正確に狙いをつけて最も得意とする方術を空中にいる相手へと放った。かつての仲間に教わった風の方術。空気の刃がゴウッと生じて、空中にその身を置く相手に向かって突き進む。

「――くっ!」

 だが、襲撃者を切り刻むはずだった風の刃がかわされた。至近距離からの一撃を、襲撃者は咄嗟に体を捻ってかわしたのだ。空中において、それを避けるとは凄まじい反射神経である。
 しかし無理が過ぎたのか襲撃者は体から地面へと落ちた。
 その隙を見逃す九峪ではない。
 相手が立ち上がらない間に距離を詰め、その両手の武器を蹴り飛ばす。
 そしていつでも方術を撃てる状態にして相手の頸部を掴んだ。その時点で戦いが終わる。

「動くな。少しでもおかしな真似をすれば、すぐにお前の頭を吹き飛ばす」

 適わないことを悟ったのか、それとも反撃の機会を探っているのか襲撃者はそこで動きを止めた。

「今から質問をする。全ての質問に五秒以内に答えろ。反論したり返答がない場合、即座にお前を殺す」
「……殺せ。狗根国兵の言うことなど聞かん」

 その瞬間、襲撃者が初めて声を発した。
 ハスキーな女性の声。
 九峪はこの声の持ち主を知っていた。九峪が守れなかった仲間の一人、清瑞に違いない。咄嗟に襲撃されたために気づけなかったが、間近で見直してみればそれは確信に変わった。
 九峪の心に僅かな動揺が広がる。
 その直後。清瑞が動いた。
 九峪の威圧感が消失した一瞬の隙に、体を反転させて九峪の腹に回し蹴りを打ち込む。ご丁寧に隻腕である九峪の左半身を狙っているのが清瑞らしいところか。
 九峪はその回し蹴りを危なげなくすねで受け止めた。が、清瑞に対する注意が疎かになる。
 即座に清瑞は後方に下がり九峪と距離を取っていた。
 嘲笑するように、清瑞は九峪を見て鼻で笑った。

「ふん、最後の最後で気を抜いたようだな」
「……気を抜いた、か。違うな。俺達に戦う必要がないことがわかっただけだ」

 その時点で相手が完全に清瑞であることを確認した九峪は、ゆっくりと言葉を返した。事実、この時点で九峪の戦う意思は消滅している。清瑞と争うなど、無意味どころか苦痛でしかない。
 そのため九峪は説得を試みた。状況さえ説明すれば、戦闘を避けられる自信が九峪にはあった。

「あんたは耶麻台国の人間だろう。俺は狗根国の人間じゃない。勘違いして襲ってきたんだろうが、俺達に戦う理由なんかないんだよ」
「……何だと? 耶麻台国の人間はそんな面妖な服など着ない。大方、狗根国の左道士ではないのか?」

 しかし、清瑞は九峪の言葉をそう簡単には信じようとしない。その強情な態度に九峪は相変わらずだなと、内心で苦笑せざるを得なかった。勿論、それは悪い気分ではなかったが。
 そうすることで九峪は清瑞を見つめ、清瑞は九峪を睨みつけるという状況ができあがってしまう。
 清瑞としても九峪の出方を計りかねているらしく、九峪としてもう少し清瑞の姿を眺めていたいという考えもあった。
 一種の膠着状態が完成したわけだ。
 だが、その一方から見れば緊張した状況は、横からの声によって緩和される事になった。

「違うよ! その人は私たちを狗根国兵から助けてくれたんだから!」
「そうだ、この人には命を助けてもらったんだ。この人を傷つけるのなら私たちも相手になるぞ」

 伊万里と上乃が横合いから声を出す。
 突然始まった二人の戦闘に取り残された形となり、一段落ついて事態を認識したのだろう。剣を構えて、九峪を守るようにその横に立つ。

「……お前たちは?」
「この近くの県居の里の山人だ。狗根国兵に捕まったところをそこの人に助けてもらったんだ」
「……それは本当か?」
「誓って嘘はない」

 清瑞は鋭い視線で伊万里を観察する。不審な点がないか調べているのだろう。
 対する伊万里はただ清瑞を見返している。その瞳からは、誰が見ても嘘偽りなど探し出すことができない。
 少しばかりの時間が経って、清瑞は一歩後ろへと下がった。そして夜闇に同化するかのように、敵意を薄めた。

「すまなかった。こちらの不手際のようだ」
「わかってくれたならそれでいいさ。それで敵ではないと解ってくれたのなら、そこの人も出てきてくれると嬉しいんだけど?」

 殺されかけたことなど気にもせず謝罪を受け入れた九峪は、誰もいない木の影を見つめて声を発した。
 その言葉に伊万里、上乃、仁清は首を傾げ、――そして清瑞だけは身を強張らせた。

「気配は消していたつもりだったが、ばれていた様だな」

 木の影から気配が浮かび上がると同時に、一人の初老の男が現れる。伊雅である。
 いきなりの出現に伊万里たち三人は身構えたが、九峪は微塵も動揺しない。清瑞を捕まえた時に、僅かながら鋭い殺気が漏れたのに気付いていたために、伊雅のいる場所は分かっていたからだ。
 九峪は、伊雅もやはり人の親だと思いながらも、表面上はそ知らぬ顔で言葉を発した。

「襲い掛かってきたそこの人が捕まった時から気配が漏れていましたよ。動揺してたんじゃないのかな?」
「そうか。迷惑をかけてしまったようだ。非礼を詫びよう」
「いや、いいですよ。結局、誰も怪我してないわけだし。――それに、俺はあなたに用がありますしね」

 そして、九峪は本題を切り出した。
 九峪の目的である耶麻台国の復興のためには伊雅の力が必要である。そのために本来は耶麻台国の隠れ里に向かっていたのだから、この事態は九峪にとっては僥倖と言えるものだった。
 ならば伊万里もいるこの場所で話をまとめてしまったほうが効率がいいという判断もある。
 この瞬間に九峪は復興へと向けた思考を目まぐるしく回転させ始めた。

「私に用があると?」
「はい」
「記憶が確かならば、私はあなたとは面識がないはずだが?」
「直接の面識はないですよ。ただ俺の知り合いがあなたを知っていましてね」
「ほう、私をご存知な友人がいるのですか」

 好々爺とした表情で、九峪の言葉に当たり障りの無い返答を返す伊雅。会話の中に伊雅自身の情報は一切出されていない。王族にしては中々の狸っぷりである。
 そんな伊雅に対して、九峪もそれまで通りの口調で、爆弾を投下した。

「ええ、――耶麻台国副王の伊雅さん」

 伊雅が狸なら九峪は狐か。
 その言葉が発せられた瞬間に場の雰囲気が騒然となる。
 副王という響きに伊万里たち三人は動揺し、九峪から距離を取って会話の成り行きを観察していた清瑞は伊雅の前に立ち、惜しみなく九峪に殺気を発し、伊雅は表情を一変させ瞳孔を細めて九峪を見つめた。
 低く抑えられた声で、九峪を詰問する。

「貴様、何者だ?」

 感情の無い伊雅の声。
 返答によっては再び戦闘が起こることをその場にいる全員が理解した。まさに一触即発の事態である。
 だが、その状況を引き起こした九峪は軽く笑みを浮かべるだけだった。自分が原因で周囲が緊張を強いられていることなど気にもかけない。

「俺はただの旅人ですよ。友人の言葉に従って伊雅さんに会いに来ました」
「旅人だと? 何が目的だ」
「この場所に来たあなたならわかるはずです。俺がここにいる理由が」
「……まさかっ!」

 何気ない九峪の言葉。それに思うところあったのか、伊雅は声を上げると懐から宝玉、蒼竜玉を取り出した。
 取り出された蒼竜玉は真紅に輝いている。

「そういう事です」

 そして九峪も同じく懐から古びた鏡、天魔鏡を取り出した。
 その瞬間、蒼竜玉の輝きがさらに強くなる。

「それは正しく天魔鏡!」
「間違いなく本物の天魔鏡ですよ。ほら、確認してください」

 天魔鏡を伊雅に手渡す九峪。受け取る際に伊雅の手は僅かに震えていた。
 そして伊雅は月明かりにあてて何度も何度も天魔鏡を確認した。

「おおっ! これこそ耶麻台国の神器の一つ、天魔鏡に間違いない! 旅の人、一体何処でこれを?」

 興奮しながら伊雅は問いかける。
 伊雅は九峪を『旅人』と呼んだ。実はここに九峪の狙いがあった。
 九峪が神器を渡すのにわざわざ回りくどい会話をしていたのには理由がある。彼は最後の最後まで命がけで守られて、置いていかれる神の遣いになりたくなかったのだ。故に彼はただの旅人であることを望んだ。
 しかし耶麻台国の元副王に真正面から『俺は旅人です』などと言って怪しまれないわけが無い。
 だからこそ九峪は会話の方向を幾度も逸らして自身の『旅人である』という情報を、『神器』や『耶麻台国副王』といった真実に織り交ぜて刷り込んでいったのである。
 これは俗に『九割の真実に一割の嘘』と呼ばれるもので、人を騙す時の基本とされている技術でもある。色々あって九峪はこの辺りの詐欺に近い技術も習得していたのだ。
 それはそうと、伊雅の余りの様子に傍らに控えていた清瑞は困惑している。
 勿論、伊万里たちもきっちり困惑している。神器に副王にと、出てくる話が大きすぎるのだから無理も無いが。

「ええ、友人から渡されましてね。そいつの言葉に従ってこの近くにある耶麻台国の隠れ里まで持って行こうとしていたんですよ」
「ご友人から? それでその方は今何処に?」

 伊雅の言葉に平静を保っていた九峪の表情が沈んだ。
 九峪の友人とは鏡のことである。彼を過去へと送るためにそのエネルギーを使い果たした鏡。もう一度会えるかわからない鏡の事を思い出して、九峪の心を幾ばくかの悲しみが覆った。

「……今は音信不通になってましてね、会えるかどうかも解らないんですよ」

 九峪の声にその場所に居た全員が沈黙した。
 彼の悲しみを含んだ声は、話に出てきた友人が無事ではないことを連想させるのに十分なものだった。

「いつか会える日も来るでしょう。そんな時は気を強く持たれたほうが良い」
「ああ、そうですね。友人共々、心配してくれてありがとうございます」

 伊雅は九峪の友人が神器を所持していたがために、何か不幸にあったのだろうと推測していた。
 未だ九洲で続く耶麻台国の関係者の捜索の中で、神器の捜索はかなり大規模に行われている。神器を見つけ出すためだけに、日々多くの九洲の民が命を失っているのだ。そのため伊雅がその様な考えに至ったのは自然な結論であると言える。

「そういえば、私の名前は知っているようだが、あなたの名前は?」

 場の雰囲気を変えるためか伊雅が九峪に名を尋ねる。
 中々の気配りである。
 九峪もその意思を汲み取り答えた。

「俺の名は雅比古です。よろしくお願いします」



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