前書き

 このSSは、『火魅子伝』(富士見ファンタジア文庫 舞阪洸著)を元に書かれています。
 ですが、耶麻台国が復興した後を勝手に想定して書いている為、多くの原作との齟齬がありますがご勘弁くださいませ。
 また、感想・批判等をいただけるとありがたく思います。






 火魅子伝 外記 兎音伝





 走っている。
 その先に確かに目的地があるかどうか、そんな事少女にはわからなかった。
 ただ、走っている。
 時々、意地悪く地面から浮き上った木の根を踏み越え、悪意がそのまま具体化して道を塞ぐために生い茂ったような枝を払いながら走った。
 日が落ちて夜の戸張が落ちた山中は、一寸先の空間を認識される事を拒んでいた。それは少女の恐怖心を煽るのには充分だったが、それでも少女の足が止まる事はなかった。
 その先には、彼らがいるはずだった。それを信じていた、信じるしかなかった。
 でないと、足が止まってしまうから。もう息が上がっていた、横腹はきりきりと体を締め上げ、ただ足を上げるだけが痛く、体のはしばしが悲鳴を上げていた。だから二本の足だけではなく、いつしか両腕でも地面を掻き、まるで獣のように前に進んでいた。
 走り出してどれだけの時間がたったのだろう、不意に少女の足が止まった。自発的に止めた訳ではない、少女が気がついた時には少女の小さな体は弾け飛ばされてごろごろと無造作に地面に転がって視線は白々と明け始めた空を見ていた。
 実際の所、少女にもよくわかっていないが、突然走っていた彼女の目の前に現れた柔らかい壁に避けるまもなく無造作にぶつかって弾け飛ばされたのだった。
 呆然と地べたに寝そべったまま少女は、混濁していく意識を抱えながら自分の足がもう動く事を拒否している事を理解しない訳にはいかなかった。
 無理な労働からようやく解放された彼女の両足は悲鳴をあげるかわりに、痙攣をおこしていた。もう走るどころか立ち上がる事すらできなかった。
 その事実と理解は、今まで彼女を何とか支え続けていた意思を叩き切るのに充分なものだった。
「ここからは我々、魔兎族の縄張りだ。勝手に入るな」
 だからだろう、少女は目の前に突然現れた壁が話し掛けてきたという事実に驚愕を抱かなかった。
「お、お願いです、助けて……」
 カラカラに乾いた喉から、ようやっと声をかき集めて少女は言葉をもらした。だが、それが本当に限界だった。
「あっ、こら」
 少女の意識は、戸惑ったような声を聞きながら、深い深い闇へと落ちて行った。


 少女が最初に感じたのは全身を包むだるさだった。その次に、起き抜け特有の頭痛を感じた。薄く開けた両目からはまばゆい光が差し込んできた。
「うっうんんんん」
 いつもより体がひどく重い事に、少女は違和感を覚えた。眠気を払うために、わざと声を出して瞼を拭う。
 もう日が上がっているなら、まず水を汲んできて、畑の手入れをしなければいけない。やらなければならない事はいくらでもあるのだから、ゆっくり寝ている訳にはいかない。
(……でも、どうしてお母さんは起こしてくれなかったのかな?)
 村でも有数の働き者である母が、朝寝坊を許してくる事なんてよほどの事がなければない。
 そこまで、考えが及んで少女は初めて違和感を覚えた。
「眼は覚めた?」
 聞き覚えのない声に思考を停止させて振り向くと、思いもかけず近くに自分と同じくらいの背丈の儚げな可愛い少女が座っていた。
 粗末な野良着を着ているがその素晴らしく整った容姿を隠す事はできようもない。まるで、昔話に聞いた遠い大陸のお姫様のように少女には思えた。
「えっ、あの、その、ここは?」
 まだ自分が夢の中にいるような錯覚を覚えて少女は改めて目を周囲に走らせた。
 粗末だが、よく片付いた部屋。部屋の隅には、手入れされた農具が一式積み上げられていた。勿論、その全てが少女には見覚えのない光景だった。
「ここは、私達魔兎族の土地よ、お嬢さん」
「えっ、あの、その」
 目の前の美少女の言葉に、少女はようやっと自分が今どこにいるのかわかった。
 でも、そこから少女の中では思考も感覚がついていかなかった。
 記憶が酷く不鮮明な所で途切れていて、少女は呆然として目の前に座って何が楽しいのかにこにこと笑っている美少女をうまく把握する事ができなかった。
 そこで、少女は改めて目の前の美少女を見直した。
 見れば見るほど美少女だった。目鼻立ちの造形と配置は非の打ち所もないように思えたし、髪の色は、桜の花びらをそのまま染め上げたような桜色で今まで見た事もない髪型に結わえられていた。
 そして、少女の目はある一点に固定された。
 それは、少女の髪の毛を間から二本ひょこりと長く伸びて、風に揺れるみたいにひょこひょこと左右に揺れていた。
「ま、と、族?」
 少女は、その聞き慣れない単語を困惑と共に反芻した。
 その単語を始めて聞いたのは、村に定期的にくるお喋り好きの行商人(といっても、大抵の行商人はお喋り好きなのだが)のおじさんが耶牟原城に仕入れに出向いた際仕入れた噂話として教えくれたのだ。
 この村の、ちょいと山向こうの奥地には我らが耶麻台国を復興を手伝ってくれた魔兎族という、そりゃあもうすごく強い魔人が住んでいるらしく。何でも九峪様という耶麻台国を復興してくださったお偉い神の御使い様が復興を手伝ってくれたそのお礼として、その魔人に土地を与えたんだ、という。
 もちろん、その行商人自身が魔人にあった事がある訳ではないらしく。一緒に話を聞いていた噂好きの小母さんに、その可能性に問われた時は嫌な汗をかきながら滅相もないと頭を振っていたものだった。
 そして、魔兎族という魔人の一番の特徴は頭からまるで兎のように二本生えた白くて長い耳なのだ、と。
「ええ。私は魔兎族の兎華乃。よろしくね、お嬢さん」
「は、はい」
 呆然と、その二本の耳を見ていた少女が兎華乃の言葉で、思わず背筋を伸ばして正座をしてしまう。兎華乃といえば、そんな少女をやはり楽しそうに見ていた。
「ね〜、面倒くさいからやっちゃおうよ」
 少女の後ろから二人女性が、部屋の中に入ってきた。二人は、明らかに成人した女性だった。
 二人共、少女が今まで見た事も無いような姿かたちをしていた。目の前の少女と同じような野良着を着ているのだが、その背は彼女が驚くほど高い。目も眩むような黄金色の髪の毛をやはり見た事もない形に結わえていた。その胸部は、小山のごとく隆起していた。そして、その髪の間からこれまた兎華乃と同じように異形の印のごとく白く長い耳が二本伸びていた。
 二人いる内、先頭を歩く女性は何か特別良い事でも直前にあったではないかと思うほど陽気で、後ろの女性は歯痛を堪えてるかのように不機嫌そうに黙り込んでいる。
「そんな事言わないの、九峪さんと約束したでしょ、この土地をくれる代わりに理由無く人を殺さないって」
 目の前の少女が、明らかに成人した女性を子供でもあやすように諌めた。
「そうだけどさ〜、この子うちらの土地に無断で入ってきたじゃない。充分な理由だと思うけど」
「そうですね」
 少女には、二人が何を言っているか充分には理解できなかったけれど、それに含まれる不穏当な響きに少女はさらに身を小さくした。
 そして、何やら言い争いをしている目の前にいる魔人達を見ながら、自分がひどい間違いを起こしたのではないか? という疑問にとりつかれていた。
 少女は、少女なりに色々と想像もしていたし少なからず覚悟だって決めていたのだ。
 例えば、鬼のような巨体に、凶暴そうな人相、口は裂け、目は爛々と凶暴な色を湛えているに違いないとか、そういうのだ。
 話なんて聞いてもらえるなんて、ほとんど思ってもいなかった。そもそも、会った瞬間に殺されたって仕方ないとだって思っていた。
 だというのに、目の前にいるのは笑顔を浮かべた自分と変わらないぐらいの笑顔を浮かべた少女と、女性だ。しいて言うなら、一番後ろの女の人だけがずっと怒ってるように見えるくらいだった。
「まあ、待ちなさい。何か理由があるかもしれないでしょう? ねぇ、お嬢さん」
「は、はい」
 急に話を振られ、少女は背を伸ばし思わず正座してしまう。目の前の美少女の言葉は柔らかかったが、その言葉には有無を言わさない力があった。
「あ、あの、ですね。うちの里に、その私が見たわけじゃないんですけど魔獣が現れたんです」
 美少女に話を振られたのはいいが、少女はどこから話を進めていいものかわからず。ひとしきり頭を捻っていたが結局、自分のわかる範囲の一番初めから話す事しかできなかった。
「魔獣?」
 その一言に、興味なさげに後ろで髪を弄っていた二人が振り向いた。
「は、はい」
「そう、大変ね」
 少女の切羽詰った口調とは裏腹に、兎華乃の口調はどこまでも気楽だった。
「そうなんです。うちの里の家畜はほとんど食べられてしまって、こうなったらもう生贄を用意するしかないって、皆がその話していて、あの」
 少女に住んでいる里は、阿蘇山の麓に近くにあり大きな人里からは大分離れていた事もその決断を下したことには大きな要因の一つだった。
 耶麻台国軍に助けを求めるにしても、相手が魔獣である以上そう簡単にいく相手ではなく。また、どうしても日数がかかってしまう。その間に、里人に大きな被害でないとも限らない。もしこれ以上大きな損害で出れば、それこそ村自体の存亡にすら関わってくる。事実、魔獣のせいで村や里が滅びるのは狗根国の支配がはじまった頃からそう珍しい話ではないのだ。
 勿論、少女がそんな事を一から十まで理解していた訳ではなかった。それでも、生贄という言葉の意味を大人たちの会話から理解した時、少女は走り出さない訳には行かなかったのだ。
「そう、生贄ねぇ」
「……でも、私どうしても」
 少女は思い出す。自分の家に来た大人たちを。
 皆、少女とも母親にも目を合わせなかったし、挨拶もしなかった。ただ、黙って用件だけを伝えて去っていった、その後ろ姿を。
 少女の母親は、戦の流れ矢で受けた右足の怪我のせいで畑仕事ができなかった。理由はそれで充分だったようだった。だからこそ、少女の母親は他の仕事を誰よりも一生懸命村のために働いていたのに。それをみんな忘れてしまっているようだった。
「納得いかない?」
 母親が何も言わず、黙って頷いても。父親が何も言わず、傍観者のようにそれを見ていても。
「……はい」
 兎華乃の問いかけに少女は俯きながらも、はっきりと答えた。あの時、答えなんて出ていた。
(納得なんてしてやるもんか)
 少女はあの時、そう心に決めていた。だからこそ、少女はあの時、暗闇の中走り出したのだ。
 誰も頼れなかった。誰も彼もが口を噤んでいた。だから、少女は走り出すことしか出来なかった。
 かすかな記憶、魔人と魔獣という頼りない連想。だが、少女には他には何もなかった
 そんな姿に兎華乃がどこか満足そうに微笑む。
「兎音」
「はい。何でしょう? お姉さま」
 兎音と呼ばれた女性は、魔獣という単語が出てきてから興味津々とし言った感じ聞いているもう一人とは違い、どこか不満そうに少女と兎華乃のやり取りを聞いていた。
「あなた、行って差し上げなさい」
「私がですか?」
「ええ」
 露骨に不満そうな兎音に、兎華乃がきっぱりと頷いた。
「……魔獣ごときで私どもが出向く必要があるとは考えられませんが。そもそも、なぜ私達がこのようなものの願いを聞き入れなければならないのですか?」
「いいじゃない、ちょうど退屈だったんでしょ」
 今までの邪気を一切感じさせない笑みから、どこか皮肉めいた微笑に変えて兎華乃がそう諭すように反論を返す。
「それは、まあそうですけども」
「私達は、人界の一部に住まわせて頂いているんですもの、珠には無償で人助けして差し上げてもいいじゃない」
「……だったら、自分で行けばいいじゃいか」
 兎音は忌々しそうに、顔を背けぼそりと呟いた。
「あら、兎音ちゃん。それとも、私のお願いを聞けないのかしら?」
「いや、それは……」
 そう言われた兎音が、思わず後退った。
 そんなやり取りを見ていた少女は首を傾げずに入られなかった。
 目の前の兎華乃というのは、さきほどからずっとにこやかに笑っていてどこも怖い所なんて一つもないというのに、どこから見ても大人の兎音がその笑顔を見て顔を恐怖に歪めて反論できないでいる姿は少女には理解できないものだった。
 そもそも、少女の理解でいえば、子供が大人に何か命令するということ自体が理解できなかった。
「そ、れ、に、この子を連れてきたのは兎音ちゃんでしょ?」
 皮肉めいた兎華乃の言葉に、兎音は顔を強張らせて声を詰まらせた。
「え〜、兎音だけず〜るい。わたし、わたしが行〜く」
「あら、兎奈美。あなたにはお仕事が残ってるでしょ?」
 兎奈美が、満面の笑みでぴょんぴょんとまさに兎のように飛び跳ねながら手を上げたが、兎華乃はやはり一顧だにせず笑顔で却下した。
「うっ……。ぶ〜」
「……わかりました。行かせて頂きます」
 兎音は、頬を可愛らしく膨らませる兎奈美とまだ意味深げに笑っている兎華乃を交互に見て、最後に少女に忌々しそうな視線を向けてから、ため息と共にそう言った。
「お願いね」
 満面の笑みで頷く兎華乃に、兎音は尚更顔を顰めた。
「あの、その、できれば、その、あの、兎奈美さんの方が……」
 その一部始終を、何を言えず見ていた少女だったが目の前で勝手にドンドンと進んでいく話に不安を覚え声を上げた。
 少女にしてみれば、何だかよくわからないけれど初めから不機嫌そうな兎音より、一抹の不安こそ残るが明るそうな兎奈美の方がまだましのように思えたのだった。
 もっとも、その声は当然のように無視された。
 兎奈美は、可愛らしく頬を膨らませさっさと小屋を出て行ってしまったし、兎華乃は兎華乃でもう話は終わりだと言わんばかりでやはり小屋を出て行ってしまった。一人の残った兎音は、何やらごそごそと部屋の隅で身作りを始めている。
 優しそうな兎華乃ならともかく、不機嫌そうな兎音に声をかけられる訳もなく。少女はただ一人身をちぢこませるしかなかった。
「ふん、姉上の命令だ。仕方ない、助けてやろう」
 少し経って身作りを終えたのだろう兎音が、そう言って少女の前に立った。
 兎音は野良着を脱ぎ捨て、着ているのか着ていないのかわからないような生地を少ない服を着ていた。そして、腰には物騒に光を放つ円形の刀をぶら下げていた。
 そのあまりといえばあまりな姿に、声も出せずぽかんとしている少女を兎音はひょいっと、後ろ襟をまるでそれこそ猫やウサギを持つように親指と中指で掴み上げて小屋を出たのだった。


 少女の視界の中で、目に映った全てのものが恐ろしい勢いで現れては消えていく。
 左右にはえている木々は、ぐにゃりとありえない角度で降り曲がり、皆飴細工のようにくっ付いているように見えた。地面にいたっては、もう茶色や緑といった色が斑にのっぺりと広がっているようにしか見えない。
「おい」
「……はっ、はい」
 あまりの事に少女が頭を廻しかけていると、急激に少女の周りの風景が正常に復元されていた。そのせいで、頭の中身が攪拌されたようでまともな思考などできなかった。
「はい、じゃない。いったい、どっちなんだ? ここがお前の言っていた二つほど山を越えた辺りだぞ」
「ええっと、はい。あっちに、私達の村があります。から、こちらの山の中腹辺りだって言ってました」
「ふぅん。そうか」
「わ、私達の村は、その、大きくはないんですけど、真ん中に小川が流れていて魚が取れるんです。それで、それで、それで」
 少女の言葉を聞き流しながら、兎音は理解不能なものを見るように少女を眺めていた。
 そんな視線を感じながらも、少女は言葉を止める事ができなかった。
 あの小屋から、野良猫を放り出すように連れ出されてから何一つ会話がなかったのだ。勿論、頭が半分攪拌されていた事もあったけれどそれ以上に、自分を摘み上げている兎音という魔人が始終不機嫌そうでとてもではないが話かけられる雰囲気ではなかった。
 だから、初めて出来た話ができる今の状況を少女としては何としても手放す訳には行かなかった。
 もし、一度でも黙ってしまえばもう話出すことなんて出来そうにないように思えていた。
 少女が思いつくだけの村をあらましをほとんど支離滅裂になりながらも捲くし立てた。自分の頭の中を、あの見慣れた光景でいっぱいにしたかった。
 そうでもしていないと自分の頭が得体の知れない不安で、押しつぶされそうだった。
  
 少女の話が、意地悪な三軒隣のおじいさんの話に差し掛かった頃、兎音は不意に足を止めた。
 山の中腹、まるで十円禿げのようにぽっかりと木々が抜け落ちていて、まるで世界の端まで見渡せるのではないかと思うほど見渡しのいい空間だった。
「えっえっえ?」
 何の前触れもなく再び兎音が立ち止まった。驚いた少女が声を上げるが、兎音は今度はそれを無視して周囲に眼を走らせた。魔人としては嗅覚とでも言うべきものが、先ほどから獣とも人とも違う異質で、兎音には馴染みの深い気配をかぎ分けていた。
 少女も、その雰囲気に飲み込まれて言葉を飲み込む。
「出てきたら、いるんだろ?」
「きゃあ」
 兎音は、右腕にぶら下げていた少女を無造作に後ろに放り投げた。少女の小さな体は、悲鳴を上げながら下草の上に転がった。
「……ほう、魔人か?」
 前方の木々の間から、ゆっくりと黒い影が姿を表した。
 一見すると、犬か狼のように見える外見から伸びた細く引き締まった四肢は、地面を掴んでいた。口端からは白く伸びた犬歯が顔を覗かせている。
 だが、異形の印のようにその体躯は銀色の硬質な体毛に覆われ、両眼には獣ではありえない深い知性と意思を漂わせていた。
「へえ、魔狼族じゃないか」
 その姿に、兎音が驚いたというよりも感心したように呟いた。
 魔狼族は、数多い魔獣の中でも数の多い種族に属するが、目の前に現れわれた魔獣ほど強い力を感じさるものはそうはいない。ましてや、魔人以上にこちらの言葉を流暢に使いこなすとなれば尚更だった。
「後ろの小娘が、お前の召還者か?」
 魔獣の視線が、兎音から外れ少女に向けられた。
 少女の体と意思は、それだけで魅入られたかのようにもう身動ぎもできなくなった。
「……まあ、畜生の言う事だから仕方ないけどね」
「お前も、はぐれか」
 兎音の不快そうに吐き捨てるよう魔獣の言葉を否定する姿に、魔獣が皮肉めいた笑みを浮かべそう呟く。
 魔人、魔獣に問わず、召還者だけにはある程度の主従関係が生まれる。召還者が仮に死ねば魔人魔獣には単独で魔界に戻るすべがないのだ。だから、その命令には従うし、その身を護りもする。
 だが、兎音の一連の動作にそういった少女を使役者として気遣う態度が見えなかった事に魔獣は敏感に気がついていた。
「一緒にしないでもらおう、……反吐がでる」
「人と馴れ合い、人と暮らすか、魔人も堕ちるものよな」
 わざとらしく魔獣は、唾を地面にはき捨てた。
「こそこそと人界を逃げ回るように暮らすはぐれ魔獣ごときがよくもまあ吼えるものだ」
 兎音の言葉に魔獣が、口の中でくぐもった自嘲気味な笑い声を上げる。
「で、その魔人様が何の御用かな?」
「決まっている、お前をぶち殺しにきたんだ」
「……ほう? 何故だ、私はお前達の縄張りを侵した事はないはずだが」
 魔獣の瞳が、今一度後ろの少女に移った。そして、意味ありげに少女の小さな体を見た。
 少女の心は、それだけでもう恐怖に満たされた。この場から、絶叫を上げて逃げ出す事ができたらどれだけ楽であろうと思う。でも、体を動かす事はおろか、声を出すことすらできなかった。ただ、体からは冷たい汗がその代わりのように流れ落ちていく。
「お前を殺すのに理由なんて必要ないだろ」
 兎音は、そんな魔獣の態度に不愉快げに言い捨てた。
「では、もう語る事もないな」
「そうみたいだな」
 その言葉が合図だったように獣の体が、膨れ上がったように大きくなる。全身の毛という毛が逆立ち、閉じた口元から、赤い歯茎が剥き出し太く白い犬歯が口外にまで伸びた。
 兎音は、腰にぶら下げた円形の刀を取り出して無造作に構える。そして、一歩、また一歩と獣との間合いを詰めながら、くるくると円形の刀を回転させる。刀が風を切る音が辺りの音を圧するように空間を埋め尽くした。
 何の前触れもなく獣の両足が一気に地を蹴り上げる。
 石弓から打ち出された弓矢のように、獣の速度には中間点というものがなかった。たった二歩か三歩の助走で獣の速度は人の視界から消える速度を叩き出した。
 相手が人間であれば、その一瞬で柔らかな腹を食い破られ内蔵と血液をばら撒きながらけりがついていただろう。だが、相手は決して普通の人間ではなかったし、根本的に人ですらなかった。
 それとほぼ同時に兎音は、引くのでも避けるのでもなく無造作に前に進んだ。しかも、同じようにたった数歩で獣とほぼ同様の速度を出していた。
 そして起きた人の目では捕らえる事の出来ない交叉は金属と金属がぶつかり合う乾いた音を響かせ、兎音と獣の立ち位置を変えるという結果だけを残した。
「へぇ〜、やるじゃないか」
 感心したように、油断なく四足で構える獣を見ながら兎音はおもしろそうに呟く。
「ふん」
「じゃあ、今度はどうかな?」
 今度先に仕掛けたのは兎音だった。
 獣は距離を取ろうとしたのか後ろに大きく飛んだのだが、兎音がそれを許さなかった。あっという間に、距離を詰めると刀で獣の胴体を狙う。だが、それは後一歩というところで獣の牙で防がれたり、ひらりと身をかわされてしまう。
 人や魔獣のそれとは違い、魔人の戦いに小賢しい駆け引きは存在しない。ただ、己の持つ力と速度を持ってすれば、獲物を逃すことなどあり得ないからだ。
 兎音はただ純粋に自らの持てる、その圧倒的な暴力を叩きつける。
 少女は、その一部始終を少し離れた所からつぶさに見ていた。
 勿論、見ていたとは言っても彼女の目に何が映るというわけでもない。ただ、二つの影が恐ろしい速度で交わり風と音を生み出しているのがおぼろげに理解できるだけだった。
 それでも、少女の体は凍りついたようにその場から動く事ができず、目を見開いたまま人外の決闘を注視し続けていた。
 不意に、二人の空間の間に真っ赤な壁が打ち上げ花火のように花開き、消えた。
 兎音が、口元をわずかに上げて笑う。
 その視線の先には、右足の膝辺りを大きく切り裂かれた魔獣が荒い息をしてこちらを睨みつけていた。
「どうした? もう、終わりか?」
 嘲りを含んだ兎音の言葉にも、もう魔獣は何も答えなかった。ほとんど皮一枚で繋がっていた右足を邪魔げに振るい落とした。そして、今一度愚直に前に兎音へと飛び掛っていった。
 ただ、それには最初の一撃のような速度も力もなかった。
 兎音が笑う。歓喜に満ち、冷徹な殺気をのせて。
 再びの交差に残ったのは地面に無造作に落ちた魔獣の体だった。ただ、そこにはあるべきはずの首から頭がすでに失われていた。
「……魔獣風情が、魔人たる私に勝てるとでも思っていたのか?」
 兎音が明らかに嘲りとわかる口調で、前方の木の根元まで飛ばされて止まった魔獣の首に問い掛けた。
「……さてな」
 すでに首から下は無くなっているというに、魔獣は口角から血を吐きながらも平然と答えた。
「我に、この地に生きる場所はぁあなかった、ということだ。あの、懐かしき、かぁの地も戻るすべはなく。この地で朽ち果てるしかない」
「お前が望んでこの地に赴いたのだろう? 何を今更ほざく」
 兎音は、唾を魔獣の顔面に言葉と共に吐きつけてやった。
 もちろん、魔獣にそれを避けるすべがあろうはずもなく、兎音の唾は魔獣の頬に辺り垂れ下がった。
「くくく。そう、だな、だが。おぬしは、どっどうだ? 人と馴れ合い、この地で自らの長き命が磨り減るまで、生き長らえるつもりなのか?」
 兎音の言葉に、獣は口の端から血と共に笑みを零しながら答えた。
「…………」
 兎音の歯ぎしり音に、少女が訳もわからず身を竦めた。
「果たして、それがぁぁいつまで可能だ? 今はぁ良い、かも知れぬ。だが、所詮は己も人と、相容れぬ身ではないのか?」
「……だとすれば、人を滅ぼすまでだ」
 兎音は顔色一つ変えず答えた。
「くくく、その意気はぁ良しぃ。魔兎族の娘よ。ど、どうせ、我々はも、もうあの地にぃ、は帰れぬのだぁ、あ、足掻くがいいィィ」
 その言葉を最後に、獣の言葉は途切れ、目から光が消えた。
 兎音は、もう喋らずただその体を亡くした頭部を少しの間見ていた。そして、振り返った。
「……まだ、いたのか?」
 少女は、何も考える事も出来ず呆然として目の前の兎音を見ていた。そして、急に振り返った兎音の何の感情も想起させない表情に身を強張らせた。
「あ、あの、その」
 村を襲っていた魔獣が死んだというのに、少女に喜びはなかった。ただただ、目の前の光景が恐ろしくてたまらなかった。
「見たとおりだ。お前の願いはかなった」
 兎音の言葉に、少女はいまだ焦点の合わない目をしきりに兎音と死んだ魔獣の間を行き来させながら頷く。
 何一つ現実感がなかった。
 目の前で、魔獣が死んだ。村が救われた、母親が生贄に出されることもなくなったはずだ。
 なのに、少女が感じているのは恐怖だけだった。
 目の前で確かに起きた事をうまく飲み込めなかった、まるで自分があの時意識を失った瞬間から目を覚ましていないような、長い長い悪夢を見せられているような気さえした。
「ここからであればお前の足でも帰れるだろう。もう去れ」
「はっ、はい」
 苛立ったような兎音の声と同時に、兎音が再び顔を背けた事でようやっと少女は声を出すことができた。それで、ようやっと少女に徐々にではあるが目の前に現実を受け入れる事ができた。
 それでも、少女には喜びは湧き上がっては来なかった。
 兎音の背中が、最初にあった時の言葉よりもずっと強く自分を拒絶しているようで少女は身を翻させた。
 それでも、少女は何か言わなければならないようなそんな衝動にかられていた。そうしないと、どうしても駄目なような気がしてならなかった。
 何も言わなかった両親の姿が、不意に瞼に浮かんでいた。
 めいいっぱいの勇気を掻き集めて、こちらを見ようともしない兎音の後ろ姿に向き直った。
「あ、あの」
「……何だ?」
 やはり、振り返りもしない兎音の強く、冷たい言葉に少女は一度言葉を飲み込んでしまう。もう一度、意を決するまで少々の時間を必要とした。
「ありがとうございます」
 少女は深々と兎音に向かって頭を下げて、逃げ出すようにその場から走り去った。
(帰れるんだ)
 斜面を走り出しながら、ようやっと喜びが少女の胸の内から沸いてきていた。
 自分も里へ、両親が待ってくれているあの里へ帰れるのだ。少女は、ただそれだけが嬉しかった。

 その後ろ姿を横目で追いながら、兎音の頭を捉えたのはあの少女を捕らえて殺すべきか? という問題だった。
 兎音は、足元に転がっている魔獣の頭を無造作に蹴り上げて、そのまま足でそれを転がし始めた。
 問題はない。
 そうした所で、誰に見咎められるものでもない。
 もし、万が一兎華乃にその事を気が付かれても、対して怒られもしないだろうと、兎音にはわかっていた。それでも、兎音は何となく動く事ができずにいた。
 獣の頭部を、原型を止めぬただの肉隗に変えながら、兎音は自分が少女の小さな体を切り裂く姿を想像した。
 あの小さな体から考えられないような絶叫を上げさせ、腸を引きずり出し、その柔らかく、暖かい体を口に運ぶのだ。兎音は知っていた。それがひどく甘美な味がする事を、それがひどく自分の心を揺さぶるであろう事を。
 その自分の姿を想像すればするほどそれは、魔人として心踊る姿であり、とても自然の姿のように兎音には思えた。
 だが、結局兎音はあの時と同じように少女を見逃してしまった。どうしても、足を踏み出す事ができなかった。あの時の記憶が、あの気の良い人間達の声が、顔が兎音の足にどうしても絡みついてくるのだった。
 気が付いたときには兎音の鋭敏な嗅覚や感覚でも少女の気配を捉える事ができなくなっていた。
 訳もなく、兎音は胸がむかつくのを覚える。
 自分が、自分ではなくなったようにさえ思えた。
 そして、兎音は初めてあの場所に戻りたいと心から思ったのだった。
 自分が生まれ、育った場所、魔界のあのうっそうと生い茂った森を思い出した。
 魔界は、人間が考えているような草木も生えないような不毛な大地ではない。寧ろ、草木は人界より深く無秩序に生い茂っている。その森には魔獣を含め多くの動物がおり魔人が食事に困るということはまずない豊かな世界ですらある。
 ただ、魔人界にはほとんど集落というものはない。
 魔人は基本的に、己と血縁血族以外のものを信用しないし、秩序に囚われるのを嫌う性向が強い。
 その為、他者との共存生活が成立しない。希に、己が力で他の魔人を支配し貴族や王を名乗るものもいないではないが、どちらかといえばそれは少数派だ。
 魔人界は、人が想像するよりもずっと穏やかな世界だと言ってもいい。
 だが、同時にそれは魔人のもつ本能的な衝動を満たしてくれるものではないのも確かであった。遠い昔は、それを天界人との抗争によって満たしていた訳だが、門が閉じている今それもままならない。
 だからこそ、魔人や魔獣は危険を犯し、人という下等な生物に使役されるという身分に身を落としてでも人界に下ったのだ。
 その事を後悔なんてした事はなかった。楽しい思いだって幾らでもした。なのに今は、ここで体験した全ての記憶を捨て去って、昔のようにただ自分の感情に身を任せたかった。それが、出来ない今の自分の境遇がたまらなく悔しく恨めしかった。
 ぐしゃりと、足元で獣の頭が落とした野菜のように無造作に潰れていた。知らず知らずの内に、兎音の足に力が入っていた。
 潰れ、ひしゃげ、崩れ、血で汚れた眼球や、牙、鼻だったもの達が兎音の足元で蠢いていた。
 先ほどまで兎音を支配していた憤怒や苛立ちは急激に覚めていって、何か得体のしれない感情が兎音の中をせりがってきた。
 震えが、くる。
 体の奥から、獣の声が聞こえてくる。それは、先ほどとは違って兎音の奥底を激しく揺すぶった。
(……帰ろう)
 兎音はもう振り返らず、ただそれだけを念じながら来た道を引き返した。
 あの場所には遥か遠くてもその先には、まだ自分がいる事が許される場所があるのだから。

                         終

 後書き

「年開けちゃいましたよ」
「そうね〜」
「どうしましょ?」
「そうね〜」
「今回こそは、約束を守れるんじゃないかと思ってたんですけどね〜」
「そうね〜」
「SINさん、とりあえずお約束のSSです。恐ろしく遅れましたが読んでやってください」
「……そうね〜」
「内容は、これ『火魅子伝』のSS? と「?」がつく感じですが許してくださいませ」
「くっ……、そ、そうね〜」
「まあ、何ですよ。期待しないでねって感じですね。暇人さんが、立派な兎音SSを書いて下さったのでそちらで満足なさってください。こっちは「刺身のつま」みたいなもんですから」
「そ、そ、う〜〜〜〜〜、さっさと突っ込みなさいよ」
「あら、これはこれは、色々言われて凹んでいる日魅子さんじゃないですか」
「ぎく」
「まっ、何ていうんですか、これを機にですね。ちょっとは心を入れ替えていただきましてですね。今年は穏やかな〜な感じでやっていだけますとありがたいな〜と思うんですけども」
「……」
「ほら、日魅子さんだっていい加減「SMの女王」とか言われるの嫌でしょ。私も、その、せっかく本編書いてもこの後書きの方が面白いって言われるの悲しいんですけども」
「……………」
「でも、何と言いますか、このまま「何見てんのよ」とか半ギレで言っても違和感ない感じのキャラになってますのでこのまま潰すのはちょっと惜しいかもしれませんね〜」
「……言い残す事はそれだけで充分かしら?」
「へっ?」
「言い残す事はそれだけで充分かって聞いてるのよ?」
「いいや、その、ちょっと何を言って」
「いいから、ちょっとこっち来なさい」
「い、いや、その」


 少々お待ちください。


「さて、皆様。そんなこんなですが、今年が皆様にとって良いお年でありますように〜」
「……顔は止めてっていってのに、しくしくしく」
「では、また〜。See You〜」

                           〜 了 〜