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「それで、これからトリトンについて改めて説明しようかと思ったのだけど」
 そこでテアトルの三番隊隊長であるアリシアは言葉を区切った。新しく割り振られた隊員、
アルフレッドへと視線を向ける。
 するとアリシアの形の良い眉が露骨にひそめられた。その視線の先に在るのは乱雑に切り
揃えられた髪と、まるで手入れのされていないみすぼらしいひげだ。テアトルの戦士の中に
あって唯一外見を重視するアリシアにとって、それらは我慢のならないものだったのだろう。
 アリシアはゆっくりと首を横に振る。
「――それよりも先にやることがあるわね」
「……やること?」
 当のアルフレッドは何を言われているのか理解できないようだった。
 その様子を見て、更にアリシアは首を振った。
「まるで駄目ね、貴方。本当に駄目。――半日休みを上げるから昼までに身だしなみを整え
てもう一度ここに来なさい。貴方がトリトンに属する限り、絶対に不精は許さないわ」
 緑森京より帰還しテアトルへ戻ったアルフレッドを迎えたのは、そんな辛辣な言葉だった。


   /


「確かに、その辺りの感覚は忘れていたな」
 アリシアから隊長命令を受けて、早速、散髪へと向かわされたアルフレッドは盲点だった
とばかりに反省していた。これまでは様々な場所を旅する生活を続けていたために、いつし
か身だしなみの類をすることはなくなっていた。
 だが、これから街中で活動をしようというのだから、そのままで良い訳がない。
 最低限のマナーに反しないだけ服や髪は整えておかないとならないだろう。
 そう考えると少なくない出費が必要に思えたが、時期のいいことに今のアルフレッドの手
元には先の桃色豚闘士団の護衛料が転がり込んでいた。資金面で困ることはなさそうだ。
「しかし、それにしても……ここまで切られると落ち着かない」
 まずは手始めにと、ばっさり切られてしまった髪を撫で付けると、アルフレッドは違和感
を覚えざるを得なかった。続いて、かつてひげが存在していた口元を触ってみれば肌の感触
しか無いのが、実に不思議な感覚だ。
 辛うじて顎ひげだけは残っているのだが、アルフレッドは雲ひとつ無い快晴の昼間である
にも関わらず、何故か寒さに身を震わせそうになった。
(ただ、こうしてみても昔の俺と似ていないのは僥倖だったな。何年もろくに良い物を食べ
てこなかったから、明らかに血色が悪い)
 そうして先ほど鏡で見た、自分の姿を思い出してアルフレッドは苦笑した。
 ともすれば女の子にだって見えてしまいそうな中世的な容姿をした今のジャックと、長年
の過酷な生活と、成長するにつれて男らしくなっていった今のアルフレッドでは外見がまる
で異なる。
 血色の良い表情と、血色の悪い表情。
 子供の様な体つきと、完全に絞り込まれた成人男性の骨格。
 産毛すら見えないような滑らかな肌と、小さな傷が幾重にも刻まれた肌。
 これらを比べて同一人物だと思う人間はそうはいないだろう。
 ただ一つ、顔の作りだけは似通っているように思えるかもしれないが、ジャックとアルフ
レッドでは纏っている雰囲気が違いすぎて、その事実に何人が気がつくだろうか。
(……それにどちらかと言うと、俺は母さんに似ていたからな。ケアン・ラッセルの縁者と
疑われることも無いだろう)
 両手剣は研ぎ直しに出しており、古びた衣服は新調したために、真新しい衣服を着こんで
片手剣だけを腰にかけたアルフレッドは、そんなことを不意に考えた。
 今のアルフレッドからは完全にみすぼらしさが抜けている。
 街中を歩く姿はこれまでのようにどこか浮浪者を思わせるようなものでもない。
 やはり人間は外見が大事であると言うことなのだろう。
 鍛え抜かれた体躯と、歴戦を重ねるにつれて洗練されていった歩き方などはむしろ、アル
フレッドを熟練の戦士と思わせるに十分なものとなっていた。
 すれ違う街中の人々もアルフレッドをテアトルの人間だと理解しているのか、それに相応
な距離を取った視線を送っている。アルフレッドもまた平然と、その視線を受け止めていた。
 が、その途中でアルフレッドは自分を眺める変わった視線があることに気がついた。
 ふとそちらに目を向けてみれば、見知った顔がこちらを眺めている。
 その表情を見た瞬間に、アルフレッドは懐かしさを感じた。
(そういえばナルシェはこの時期、まだ治っていないんだったな。……元気付けられるよう
なら、そうしてやったほうがいいか)
 自然と、アルフレッドの足はモーフ医院へと向かっていた。



 重い病を患っているために、日々モーフ医院の中でしか暮らすことのできないナルシェは、
ある日、街の中を今まで見たことが無い人物が歩いていることに気がついた。部屋の中から、
窓を通して外を眺めることしかできないだけに、ナルシェはそういった変化には敏感だった
のだ。
 ただし、だからと言ってそこからどうにかなるわけでもない。
 窓から外を眺めている少年になど、誰も目を向けることは無い。――はずだった。
 それなのに、その見慣れない鋭い雰囲気を持った男は、ナルシェに気がついたのだ。
 外に出ることもできず、ただじっと体を休ませなければならないナルシェの視線に気がつ
くと、その男は柔らかく笑った。そして、少しばかり思案したような素振りを見せると、そ
のままモーフ医院の中へと入ってきてしまったのだ。
 当然、ナルシェはびっくりしてしまった。
 緊張から脈拍が速まり、とくとくと血液が体中を駆け回っていく。
 まさか目が合っただけで、その人物がやってくるだなんて、完全に予想外だった。
 どうしていいのかさえも分からない。
 悩むナルシェに時間を与えることなく、知らない人物は直ぐにナルシェのいる病室へと姿
を現した。窓から見た、鋭くてそして綺麗な立ち姿をした男。剣士であるのだろう、絞り込
まれているのに、なお太い腕や胸板は、病弱な自身にコンプレックスを持っているナルシェ
には羨ましく思えた。
「――どうしたんだ? そんな、寂しそうな顔をして」
 そして聞こえてきた声は、落ち着いた外見に反して、少年のように感じられた。



「あはは、そうなんだ」
「まあな。旅をすれば、そういうものと出会うこともあるし、それ以上におかしなことに巻
き込まれることだってあるさ」
 アルフレッドと名乗る男がナルシェの病室に現れてから少しばかりの時間が経過した。
 当初ナルシェはまるで面識の無い相手と何を話せば良いのかなど分からなかったため困惑
していたのだが、その悩みもすぐに消えた。一見すれば怖そうに見えるアルフレッドだった
が、その語り口は終始穏やかで、ナルシェのことを友人のように扱ってくれた。
 また、その口から落ち着いた声で紡ぎ出される冒険譚は、ベッドに縛り付けられる生活を
送るナルシェからすれば魅力的で、羨ましいものに聞こえたために、アルフレッドの話には
気がつけば引きこまれていた。
 最初に抱いていた緊張など、すぐに解消されてしまっている。
 耳にわずかにかかる程度に短く髪を切りそろえたアルフレッドは、目に入らないように前
髪をかきあげている。そのためか、自然と鋭い目が露になっている。
 また、近くで見れば見るほどにアルフレッドの体は戦う者が持つ力強さに満ちている。
 病弱なナルシェなどは軽く殴られただけでも、気絶ぐらいならしてしまいそうだ。
 そんな相手であるのに、自分がいつの間にかアルフレッドのことが少しも怖くなくなって
いることがナルシェは不思議に思えた。
 強いて理由を挙げるならば、アルフレッドが自然体で接してくれているためだろうか。
 そう、長年の友人のように。
「ねえ、アルフレッドさん」
「――何だ?」
「まだ、面白い冒険の話があるなら聞かせてくれない?」
 頼みこむナルシェの言葉にアルフレッドは、優しい時の姉のように薄い笑みを浮かべた。
「ああ、いいとも。昼からは仕事があるから、それまでの空いた時間は付き合うよ」
 

   /


 桃色豚闘士団に所属する新米騎士ジャック・ラッセルは緑森京での任務を終えてから訓練
に時間を費やすことが多くなった。その原因は、たった一つだ。
 自分がこれまで培ってきた価値観を崩壊させるほどに強い男の出現。
 テアトルの戦士、アルフレッド。
 呼吸するように自然に、ブラッドオークを打ち倒した剣使い。
 自分が一矢報いることすらできず恐怖の感情に縛られていた時に、アルフレッドは気負い
すらせずにジャック達の前に立った。そのみすぼらしかったはずの背中は、命の危機におい
ては鋼鉄の壁のように思えた。
 そしてジャックは確かに感じたのだ。
 まるで今は亡き父親にでも守られているような安心を。
 それが、どうにも納得がいかなかった。
「……何だ、お前も来ていたのか」
 そこで、剣を振り続けるジャックに向けて声が発せられた。
 声の持ち主の姿を確認せずとも、その相手が誰であるのかは理解できた。
 入団試験の際に、ジャックを倒した同じ桃色豚闘士団の仲間。
 リドリー・ティンバーレイク。
 以前まではジャックにとって、このリドリーもいつか越えるべき目標だった。
 だが、今は違う。その遥か高い位置にアルフレッドが座ってしまったのだから。
「ああ、ちょっと今日はやることもなかったから。そういうリドリーはどうしてここに?」
「訓練場に来る理由に、訓練以外あるはずがないだろう」
「――そっか。確かにそうだな」
 素っ気ない普段通りのリドリーの言葉を聞いてから、ジャックは再び素振りを開始した。
 頭の中でイメージするのはブラッドオークを前に一度だけ見ることができたアルフレッド
の隙のない剣捌き。どうしてかジャックには、あれこそが自分にとって最高の動作であるよ
うに感じられた。
 今の今まで、姉であるエアデールから教わった剣の型にも、時々見ることが出来た将軍で
あるダイナスの動きにも、そんな印象を抱いたことは無かった。それほどにアルフレッドの
剣技は常軌を逸していた。
 どうしてかそんなことを感じる。そして何故か、それが少しだけ苛立つ。
「お前、……その動き、アルフレッドの真似をしているのか」
 黙々と剣を振るジャックを眺めていたリドリーが、不意にそんなことを呟いた。
「ああ、やっぱ上手くいかねえよな。どうやったらあんな風になれるのか不思議でさ、せめ
て形だけでも真似してみよう思ってるんだけどな」
 ジャックは素振りを止めることなく言葉を返した。
 額に浮き上がっていた汗が、激しい動きにより地面へと落ちる。
 気がつけば、かなり長い間、剣を振り続けていた。
「当たり前だ。あいつは別格だ。私やお前のような新米とは、積み重ねてきた年季が違う」
「……あれから随分、アルフレッドの肩を持つんだな、リドリー」
「それはな。あんなものを見せられたら、自分と同列には扱えない。お前だって、あの光景
を目にしたからこそ、以前と違って暇があればこうして訓練をするようになったんだろう?
 私も同じだ。騎士になれた程度で、自分がどれだけ思い上がっていたのかが分かった」
 リドリーは、ジャックの横に並んでから木人に打ち込みを始める。
「正直な話、トーナメントで優勝して騎士となった時に、私は少し満足していた。同世代で
誰も私に敵うものなどいないと」
 訓練用の木人がリドリーの鋭い打ち込みで、激しく軋む。
「だが、そんなものは無価値だった。それがブラッドオークの前に立った瞬間に理解できた。
命の危険に陥った時に、虚飾で作られた自信はあっさりと崩れ落ちる。――きっと、あんな
状況であっても立っていられる者こそ、本当に強いんだろうな」
 リドリーの言葉を、ジャックは無言で素振りを続けながら聞いていた。
 暫くの間、剣が空を切る音と、木人へと打ち込む音だけが訓練場に響き渡る。
 そして、二人とも言葉を発しない内に、ジャックが剣を収めた。
 額に浮かんだ汗をタオルでぬぐってから、ふうと一息つく。
「……リドリー、まだ続けるのか?」
「ああ、もう少し続けたい」
「そっか。なら俺、先に上がるわ」
 リドリーがいまだ訓練を続ける光景を横目に、ジャックは訓練場を後にすることにした。
 背後から間断なく聞こえてくる、打撃音に耳を傾けながら訓練場の扉を開けて外に出る。
 疲れた体で重たい城の扉を開けるのは、少しだけ億劫だったが、その瞬間に頭の中で飄々
とした態度で剣を振るうアルフレッドの姿が思い出された。
「くそっ、……せめてもう少し強くならないと、何もできねえんだよな」
 疲れた体であっても、ジャックは虚勢を張って、力強く背筋を伸ばした。
 今はただ、それだけしかできなかった。


   /


「あら、意外と様になってるじゃない」
 身綺麗にして帰ってきたアルフレッドを見たアリシアは、目を丸くしながら言葉を発した。
 朝方には浮浪者を思わせる装いが、ここまで変化したことは、滅多なことでは笑みを絶や
さない彼女からしても驚きに値したのだろう。
 ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「おかげ様で少しは文明的な格好になれましたよ」
「不思議ね。こうして格好が違うだけなのに、貴方の声が朝とは違って聞こえるわ」
「それはどうも」
 アリシアの言葉に、アルフレッドは確かにと内心で頷いた。
 髪を切り、服装を整えただけで自分でも驚いたぐらいに見た目が変わったのだから、周囲
の反応にも納得できる。そしてこれまでの自分の姿がどれほどみすぼらしかったのかを、再
認識することになった。
 トリトンの部屋に来るまでに出会った、タナトスやジェラルドと言った面々から既に似た
ような野次をかけられていたため、少し辟易している部分もあったが、それは口に出さない。
 そんなアルフレッドを眺めたアリシアは最後にもう一度くすりと笑みを浮かべてから、話
を切り替えた。本来の趣旨であった隊の説明に戻る。
「少し脇道にそれたけれど、あらためてこれからトリトンやテアトルの規則について説明さ
せてもらうわ。アルフレッド、貴方はどれくらいテアトルについて認知しているのか教えて
もらえる?」
「基本、テアトルの人間はチーム単位で行動する。また、簡単な小遣い稼ぎ程度の依頼なら
隊で受けた依頼に支障をきたさないような範囲で受けることができるってことぐらいなら、
知っています。――早い話が剣を使った何でも屋でしょう?」
 すらすらと答えるアルフレッドに、アリシアは小さく頷いた。
「そう。テアトルは細かい規則のない組織だから、それだけ分かっているなら問題ないわ。
実力のある人間がその実力に見合った依頼を、――ひいては高い報酬を得ることができる。
貴方は実力は相当あるみたいだけれど、まだ知名度はないから、初めは小さな仕事から片付
けていけばいいんじゃないかしら」
「取り敢えずはそのつもりです。それで今のところトリトンとして動く仕事はありますか?」
「――無いわね。だから当分は、受付のタナトスさんにでも個人でもこなせそうな仕事を回
してもらいなさい。チームとして動くべき時が来たら、改めて召集をかけるわ」
 そこで話は終わり、とばかりにアリシアは腕を組んだ。
 その表情はどこか楽しげだ。ばっさりと切られたアルフレッドの髪やひげのあたりを眺め
て楽しそうに笑っている。
「分かりました。ならお言葉に甘えて、軽めの仕事でもこなしてきます。まあ何の仕事をも
らえるかは分かりませんが」
「多分、貴方ならそこまで悪い話は持ちかけられないはずよ。――新米騎士団を守りながら、
ブラッドオークを倒した話はかなり広がっているはずだから」
 緑森京での一件はどこから漏れたのか、テアトルの人間も知っているようだった。桃色豚
闘士団の人間が進んでそんなことを周囲に言いふらすような人種には思えないために、騎士
団に報告した後に、その報告を何らかの形で知った人間が情報をリークしたということだろ
う。テアトルは剣士ギルドとしての面が強いために印象は薄くなるが、ヴォイド・コミュニ
ティーのように非合法な手段で情報を集める暗部も構成員の中に含まれている。
 だから、一部の人間しか知らないはずの情報をアリシアが知っていたとしてもおかしいこ
とだとは思えなかった。アルフレッドは平然とその言葉を受け流す。
「あれはきっと、運が良かったんですよ」
「あらそう。うふふ。――貴方はやっぱり面白いわね」
 何がつぼだったのかは分からないが、満足そうに笑ってアリシアはまた頷いた。
「ありがとうございます。それじゃあ、俺は行きますから」
「ええ、行ってらっしゃい」
 その言葉を聞きながら、アルフレッドは自然な歩みで部屋を退出した。


   /


 そして、それから数日が経過した。
 アルフレッドがテアトルの受付けで得ることができた依頼は、どういう判断が働いたのか
は不明だが最初から一定以上の難易度があるものばかりだった。が、それでもアルフレッド
にしてみればそこまで手こずるようなものではない。
 受けた依頼のほとんど全てを、アルフレッドは迅速に解決していった。
 そうなると周囲の評価というものも、こなした依頼の数だけ上昇していく。
 わずか数日の短い期間。
 ただそれだけの時間で、アルフレッドはテアトルでも注目される存在へと変わっていった。
 そして、そうなればテアトル以外の人間もアルフレッドに目をつけるようになる。
 今日も難易度の高い依頼を一人で片付けたアルフレッドは、自室のテーブルで遅めの夕食
を摂っていた。つい先日、かつてと同じように顔なじみになった居酒屋 「カンちゃん」の
主人に頼んでテイクアウトさせてもらったスープは温かい湯気を立てている。
 疲れた体は栄養を求めているのか、喉を濡らすその旨みにアルフレッドは、ほうと息を吐
いた。懐かしい味が、郷愁を呼び起こす。
「そろそろ、――食いついて来たか」
 そしてアルフレッドは窓から外を少しだけ眺めてから、そうつぶやいた。
 アルフレッドの家へと続く路地の階段。そこには何の意図も無いかのように、座り込んで
いる少女の姿があった。アルフレッドの家など視界にも入れていないように見えるため、た
だの気まぐれのように思えるが、そうではないことをアルフレッドは知っていた。
 ヴォイド・コミュニティーのフラウ。
 非合法な暗殺や窃盗、情報の収集などを行うギルドに属する彼女が、アルフレッドの家の
前にいる意味は明白だ。それはようやくアルフレッドがヴォイドに興味を持たれたというこ
とに違いない。
 現在のアルフレッドは、今後起こりうる事態に対応するために情報を欲していた。
 桃色豚闘士団が、かつてと違い解散に追い込まれていないという状況は喜ばしいものであっ
たが、それは同時に最早アルフレッドではこれから先の未来が読めないということを意味し
ている。だから、これからはあらゆる事態を想定する必要があるためだ。
 さしあたって現在の難問は大きなところでクロスの暴走の可能性、ルシオンの思惑、ライ
トエルフ側の動きになるが、それらへの対応を考えるためには何よりも情報が必要となる。
 この街の中で最も情報量が多い組織は、裏から裏へと流れていく情報を一手に握っている
ヴォイド・コミュニティーの面々に他ならない。
 だからアルフレッドは待っていたのだ。ヴォイドが自分へと接近してくる機会を。
 ここ最近、あえて自分の力を誇示するようにテアトルの依頼を解決していた行動も、その
一環になる。ヴォイド・コミュニティーはテアトルとは組織的には敵対関係にあるが、有能
だと認めた人間は、例え敵対する組織の人間であってもコネクションを取ろうとする傾向が
ある。
 利用できる相手は例え敵対関係にある存在であっても利用する。
 そんな冷静な狡猾さを、ヴォイドの上層部は所持している。
 そして、だからこそ情報の収集という面で他者の追随を許さないのだ。かつて未熟な子供
だった頃、アルフレッドはヴォイドの情報によく助けられた。
(……様子見にフラウが俺を観察しているってことは、まず間違いなくヴォイドは俺に興味
を持っている。ヴォイドにとって有用か有害か、判断している最中ってところか。ここは、
まだ時間を置いたほうがいいだろうな。余りにも早く俺のほうからヴォイドに接近すれば、
あちらも馬鹿じゃないから不審がるだろう)
 アルフレッドはちらりとフラウを一瞥した後に、大きく伸びをして深呼吸した。
 ふうと自然に息を吐くと、それだけを終えてから夕食を再開する。
 まだ今のところは確認だけで、フラウと接触するつもりはなかった。時期が早すぎる。
(あとほんの一押し、ヴォイドの気を惹く様なことをすれば、あちらから接触してきそうな
雰囲気ではあるか)
 過去の知己であったヴォイドの面々を思い出しながら、アルフレッドはそう判断した。
 だから今日のところはこれで手を引く。
 一日一日、確実に思考しながら行動を進めていく必要があることを、大人になったアルフ
レッドは理解していたためだ。不安に苛まれ、決断を急いでしまうような真似は避けたい。
 そんなことをすれば、かつてのような結果を招いてしまう可能性があるのだから。
 流されるままに、妖精とリドリーを見捨ててしまった、あの過去を。


   /


 その頃、紫色山猫剣士団の団長であるナツメは城下町を一人、歩いていた。
 向かう先は以前出会った不詳の剣士、アルフレッドの住居。
 日が暮れてから十分に時間が経った時間帯。道行く人々の中には酔っ払いの姿も混ざり始め、
陽気な談笑の声がそこかしこから聞こえてくる。そんな城下町独特の雰囲気をすり抜けながら
ナツメは進み、やがて目的地へとたどり着いた。
 橋の下にある古びた、レンガ仕立てのボロ家。その玄関の扉を軽く叩く。
 すると、まるでナツメの接近に最初から気づいていたかのように、――いや実際に初めから
察知していたのだろう、家の主はすぐに姿を現した。
「なんだ。ナツメ団長じゃないか。どうしたんだ?」
 アルフレッドは、深夜の来訪に気を悪くした風でもなく、第一声を発した。
 容姿端麗かつ騎士としての実力にも優れたナツメを前にすれば、大抵の男たちはだらしなく
顔を緩めるか、警戒するかのように表情を引き締めるものだが、アルフレッドにはそれがない。
ただの街娘が家を訪ねてきた程度の、軽い反応。
 それを見て取ったナツメは、再認識した。
 やはり目の前の男は自分よりも高い実力を備えていると。
 その考えを支持するかのように、今ここでナツメがアルフレッドに切りかかったとしても勝
てるイメージが浮かばない。
 類まれな才能に慢心することなく、長きに渡る修練を重ねたナツメは、半ば反射的に相手の
力を感じ取ることができる。
 一挙手一投足の距離にある相手と向かい合えば、仕掛ける前に、おおよそ相手と戦えば勝て
るか否かの判断ができるのだ。
 そしてその直感がナツメではアルフレッドに勝てないと告げている。
 ここで戦いが始まれば、アルフレッドの体に刃を刺し込むよりも、ナツメの喉元に手刀が突
き刺さる方が早いだろう。
 その事実を、認める。
 だからこそ、ここに来た判断は間違っていなかったと確信する。
「――少し、話があります。テアトルのアルフレッド。時間はありますか?」
 人目を避けるように、夜分にアルフレッドの家を訪れたナツメは静かな声で言葉を発した。


   /
 
 
 時は少し遡るが、王国首脳部で構成される議会において一つの決定がなされた。
 それはライトエルフとの国交回復交渉を、今後も継続して行っていくという方針だ。桃色豚
闘士団を特使として開始された交渉は途中で、不慮の事故などがありライトエルフ側の使者が
ブラッドオークに襲われるという危機的な事態も起こったのだが、たまたま現場付近を通りか
かったテアトルの剣士の存在によって事なきを得たという報告がなされている。
 またライトエルフの使者側から王国に伝えられた内容も友好的とは言えないものの、当初か
ら想定していた許容できる範囲の要求しか出されていない。現状、ライトエルフと王国の間は
かなりの距離が離れているが、溝はそこまで深くない。
 外交的な交渉を通じて、多少の年月はかかったとしても、友好条約の締結にまで持ち込める
だろうという考えが首脳部の多数派だった。
 当然、親妖精派の筆頭であるジャスネ・コルトンにとってその流れは歓迎すべきものだった。
 だが、しかし。その流れの中で、たった一つだけ許容できないことがあった。
 それは騎士団を統括するラークス卿の言葉に端を発する。
「――それでは、今後ともこの任務には妖精側と親交の深い桃色豚闘士団を王国の使者として
派遣することを、騎士団総参謀長として提案致します」
 構成団員三名の内、実に二人の父親がライトエルフと交流を持っていたという、まさに今回
の国交回復交渉のためだけに作られたかのような新米騎士団。彼らを今後もライトエルフ側と
の交渉に当てるのは理にかなっているとジャスネにも思える。
 しかし――! しかしだ!
 今回のこの決定はジャスネには到底納得などできようはずがなかった。
 なぜならば、ライトエルフの集落付近には既に二体ものブラッドオークの存在が確認された
と報告が上がってきたのである。そんな危険な場所に、ジャスネが愛する娘であるリドリーを
派遣しなければならなくなる命令など発することはできるはずがなかった。
 ジャスネにとっては当然の理屈で、そして議会の人員からすればいきなり分けも分からない
理由で一気に議論は荒れ始めた。大勢はラークスの意見が道理に適うという判断の下に支持さ
れているのだが、ジャスネは厄介なことに家老である。貴族としての身分も高い。
 そのジャスネが新米騎士団には荷が重い任務であるために、桃色豚闘士団は城内でも可能な
儀礼的な要素の強い任務に当てて、今後はライトエルフとの交渉には不測の事態にも対応でき
る紫色山猫剣士団を当てるべきだと強行に主張し始めればまとまる話もまとまらなくなる。
 これが民主主義的な議会であれば、多数決ですぐに結果がでるのだが、残念ながらここは王
国だった。王国文民のトップとも言えるジャスネの意見を数に任せて切り捨てるのは難しい。
 結局そこから、話し合いは紛糾し、荒れに荒れた。
 そして収拾が付かなくなったために最終的には国王の一声で決定されるというところまでも
つれこんだ。そうなると当然、合理的であるラークスの案が採用されることになる。ジャスネ
とて国王に逆らうわけにはいかないので、桃色豚闘士団を今後ともライトエルフと交渉の任務
に当てるという案には頷かざるを得なかった。
 だがしかし、ここで綺麗すっぱり忘れて執務に戻るようなジャスネではない。
 誰よりも何よりも国よりも、愛する娘であるリドリーの安全。
 それに代わるものがこの世にあるだろうかと素で考えることができるジャスネは、すぐさま
ナツメを呼び出した。そしてどうにかしてリドリーの身の安全を確保するための作戦を立案し
ろと駄々をこねたのである。
 そうなると、俄然燃えてくるのがナツメである。
 ジャスネのリドリー狂いと同じレベルでジャスネを偏愛しているナツメは、愛するジャスネ
のためにそれはもう真剣にリドリーの身を守るための方策を考えた。ざっと考えて五十通りほ
ど案を練り、その中で実用性の高いものを三つほどジャスネに提案した。
 一つ。桃色豚闘士団に護衛のための別の騎士団を付ける。
 一つ。交渉の場所を王国側の拠点へと移動するようにする。
 一つ。桃色豚闘士団の構成員数を至急増員するようにラークス卿と掛け合う。
 それらはどれもジャスネとしては良策であるように思えたのだが、悲しいことにリドリーが
関わらなければ超優秀な頭脳は、このままではラークスに押し通すことが難しいという判断ま
で下してしまったのだった。
 騎士団の人員は不足している状態が長く続いているために、案の内二つは実行不可能。
 そして残る一つも実現の可能性は低い。ライトエルフが集落付近から出てくることなど滅多
なことがあったとしても起こり得ない。交渉を提案した王国側が出向くのは外交的な常識だと
考えられた。
 そのためジャスネはナツメに命じて、更なる案を出させる。
 命令を受けたナツメは、ジャスネの役に立てるのならばと、さらに本気で命を賭けるような
意気込みで頭をフル回転させた。そして途中で一人の男のことを思い出した。
 自分よりも強い男。
 王国の騎士でさえ倒すのが難しいブラッドオークであっても、秒殺する剣士。
 テアトルのアルフレッド。
 あの男さえ、永続的に桃色豚闘士団の護衛につけることができれば――。
 その瞬間に、本人のあずかり知らぬ所で、アルフレッドの今後の行動を勝手に決めてしまう
迷惑な一つの決定が生まれたのだった。
 
 
   /
 
 
「単刀直入に言います。王国よりテアトルを仲介して貴方に、今後とも桃色豚闘士団の護衛を
頼むことになりました。――これは家老であられるジャスネ・コルトン様からの直々の依頼で
あります。受けていただけますね?」
「それはまた、随分急な話だな。しかも言い回しも妙だ。王国からの仕事だって最初に言った
のに、家老からの直々の依頼? そのニュアンスだと、形式的には王国からの依頼であっても
実際のところはコルトン卿から内々の依頼があるってところかな」
 真夜中、突然の来訪者であるナツメを慌てた様子もなく家の中へ招き入れたアルフレッドは
口火を切ったナツメの言葉だけで事情を悟ってしまったらしかった。その事実に、ナツメは戦
慄を禁じえなかった。
 あれほどの剣の腕を持ちながら、頭も切れるとは。内心でアルフレッドの評価を更に上げる。
「……まさしく、その通りです。王国からの依頼内容は、ブラッドオークによる襲撃を退けた
貴方は妖精側から一定の評価を受けていると思われるために、今後ともライトエルフとの交渉
には桃色豚闘士団に随伴するようにというものです」
 そこまでナツメが言い終えたところで、対面に座るアルフレッドは何を言わんとしているの
かを察したのだろう。ぽんと軽く手を叩いた。
「ああ、そういうことか。大体分かった。確か、コルトン卿はリドリーを溺愛していると専ら
の噂だったな。つまり、俺には桃色豚闘士団に同行してリドリーを守れと言いたい訳か」
「……人の説明の台詞を先読みしないでください。――いや、話が早くて助かります」
 そこまで完璧に思考を読まれたことで一瞬、ナツメはもしかして自分の考えは誰でも思いつ
くような問題の多いものなのだろうかと落ち込みかけたが、どうにかポジティブに思考を切り
替える。なんと言ってもこの依頼は敬愛するジャスネからの命令なのだ。
 何としても取り付けなければならない。
「もう大体、貴方は状況を理解してくれているようですが、その通りです。ジャスネ様は危険
な任務に御息女であられるリドリー様が就かれることに酷く胸を痛めておいでなのです。です
から可能な限り任務における障害を取り除いておこうとお考えになり――アルフレッド、貴方
にたどり着きました」
 そこで言葉を止めて、ナツメはアルフレッドを観察した。
 必要最低限の物品しか置かれていない簡素な部屋の中。ナツメをテーブルに座らせ、自身は
備え付けのベッドに腰掛けた男は普段どおりの態度でナツメの話を聞いていた。
 しかも帯剣したまま室内に入ってきたナツメを相手に警戒した様子もない。
 普段使用していた両手剣はテーブルのすぐ傍に立てかけられており、まったくの無防備だ。
 もしかしたらこれはナツメが若い女であることを考慮しての、警戒させないようにするため
のアルフレッドなりの配慮であるのかもしれないが。
 と、そこまで考えたところでナツメは内心で苦笑した。
 一対一でしかも自分が武装している状況で、ここまで警戒しなければならないような相手が
こんな古びた家に住んでいるとは。
 腕も立つし、頭も切れる。性格は物静かだが、冷めているわけではない。
 冷静に考え直してみても良い男だ。
 これで顔がもっと、焼きたてのパンのようにふっくらとしていて赤ら顔で、しかも時折ヒス
テリーを起こすような可愛らしさがあれば完璧なのだが。
 非常に男性の好みが一般常識からかけ離れているナツメは、表情に出さずにアルフレッドを
観察しながら、惜しいと思った。
 まあとてつもなく、どうでもいいことであるが。
「質問だけど、それは断れる類の依頼なのか?」
「――他言無用でいてくれるのならば、断ってもらっても構いません。と、私としては言いた
いのですが、正直他に手がない現状では首を縦に振ってもらいたいものです」
「そうか」
 そこで初めてアルフレッドは思案するように目を瞑った。
 王国からの依頼であれ何であれ、それが騎士ではない民間人ならば断る権利は存在している。
 少なくともその程度に王国は自由だ。
「依頼の条件はどの程度になる? 具体的にはどれくらいの頻度で仕事が入るのかを知りたい」
「……そうですね。恐らく王国も、ライトエルフ側も次々と提案など出すことは不可能でしょ
うから、当分は月に一度ほどあるかないかといったものでしょう。報酬の面でも、テアトルの
剣士としては最高クラスのものを用意するとジャスネ様から言質を頂いています。もしそれで
も不満があるようでしたら、さらに掛け合うこともやぶさかではありません。――正直、貴方
クラスの実力を持っていて不定期な護衛の任務にも就けるような時間的余裕がある人間など早
々いません。更にこれは秘密裏の、特にリドリー様には知られたくない依頼ですので、その点
も考えて我々もかなりの待遇を用意しています」
 ナツメとしては一剣士に提示するにはかなりの条件を出したつもりである。
 とは言っても、その実力は最低でも騎士団長クラスの男なのだから当然ではあるのだが。
 アルフレッドはその言葉を聴いてから、さらに考えるように腕を組んだ。
「……金にはそこまで興味がないから良いんだけど、月に一回程度の仕事か」
 二、三度、部屋の天井を見つめて再び思案するような素振りを見せる。
 他に適当な人選など思い浮かばないナツメには、その姿を眺める時間は長く感じられた。
 そしてしばらくの静寂の後。
 アルフレッドはおもむろにナツメを見据え返してきた。
「まあ良いか。突然で驚いたけど、悪い話じゃない。桃色豚闘士団のメンバーも個人的に気に
入っているし、受けるよ」
 望んだ返答を聞けたことで、ナツメは軽く息を吐いた。
「そうですか。ありがとうございます」
「まあ期待された分は努力させてもらうよ。とにかく桃色豚闘士団の人間に降りかかる妨害を
排除すればいいんだろう?」
「はい。具体的な契約条件については、追ってまた書面で提示させてもらいますので」
 取り敢えず目的を達成できたナツメは至急報告に帰城するために椅子から立ち上がった。
 そして部屋の中で脱いだ、フード付きの外套を着込みなおす。
 その様子を見たアルフレッドもまた立ち上がって、先に扉のノブに手をかけた。
「気づいているだろうけど、外にいる子はヴォイドだ。さっきの話の内容を嗅ぎ付けられたく
ないなら、警戒しながら帰ってくれよ」
「その程度のこと、分かっています。私は尾行は苦手ですが、追跡者を撒くことは得意なので
問題ありません」
 そう言った直後にナツメは気配を消した。呼吸を抑え、体の微小な動きを制御する。
 それは確かに本人が自信げに口にするだけの見事な技術だった。
「要らない心配だったみたいだな」
 その様子を眺めてアルフレッドは苦笑する。
 だが特に感心した様子は見えない。ナツメはもしかしたら、先の桃色豚闘士団の任務におい
てアルフレッドには既に尾行がばれていたのかもしれないと不意に感想を抱いた。
 それは確証も何もないただの予感であったが、不思議と正しいような気がした。
「ええ。貴方もこのことはくれぐれも口外なさらぬように――」
 しかし、そんなことはこれ以上考えても無駄でしかない。
 ナツメはそこで会話を打ち切って、アルフレッドが開けたドアから家の外へと出て、周囲か
ら感じるヴォイドコミュニティーの監視の目を把握しながらも、帰城するために足を進めた。
 
 
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