「ああ。ちょっと気になることあったから。――清田、お前、俺たちの鉄の誓いを忘れてないよな?」 「それはもちろん。一つ、白石先輩で遊ぶのは一日一回。一つ、白石先輩は割りと性格が捻じ曲がっているので非行に走らないように注意すること。一つ、白石先輩を泣かす奴はこっそりと潰せ。一つ、白石先輩を恋愛対象としてみるペドが現れたら排除しろ。ですよね?」 「……ちゃんと覚えているらしいな」 あの日の誓いをすらすらと口にする僕の言葉を受けて、電話口に伊藤先輩は何かを考えるように黙り込んだ。 「それがどうかしたんですか? あ、そういえば白石先輩に彼氏いたらしいですよ。伊藤先輩知ってました?」 「彼氏の話か。やっぱりな。それなら俺も知ってるよ」 ふと、この前喫茶店で仕入れた新しい情報を披露してみたが、あっさりと頷かれてしまった。 ――やはり歴代で最も凶悪な情報網を持っていると歌われた新聞部部長なだけはある。 すっぽんの伊藤の名は伊達ではないということか。 僕がOBになったら、ここまで母校の情報を入手できるとは思えない。 「先輩、知ってたのに僕に教えてくれなかったんですか?」 「白石ちゃんがやっかみにあったら可哀想だから教えなかったんだ。お前まだ秘密を他人にもろばれにする癖、直ってないだろ? そんな奴に言えるかよ。白石ちゃん、元気だけど割とクラスの中では立場弱いからな」 「まあ、マスコットキャラの立場が弱いのは周知の事実ですが、別にばれてもどうってことないと思いますけどね」 「お前はそこの認識が甘いんだ。意外とあの学校の女子は、伝統としてドロドロしたもん受け継いでるんだから」 「そうなんですか?」 「ああ。特に白石ちゃんの代には、表面は良いのに陰で二人ほど不登校に追い込んでる集団がいるからな」 先輩の言葉は真剣だった。ということは事実なのだろう。 人を騙して弄ぶ趣味がある先輩なので、真贋を見極める必要がある困った人なのだが、このように声に一本筋が通っている時は大抵真実を語る。 「……へー、不登校ってきついですね」 「だろ。女子は男子と違って精神的に追い込むからな。発覚しにくいし、えげつない」 「その集団ってもしかして白石先輩と揉めそうですか?」 「これまでは無関係だったんだけどな。問題は高崎だよ、高崎勝也」 「……高崎先輩がどうかしたんですか?」 不意に出てきた名前に、聞き返す。 「鈍いなお前。話の流れで分かるだろうが。その陰湿な集団の中に、高崎を好きだった奴がいたんだよ。しかも位置的にはサブリーダーだな。かなり攻撃的な性格をしてる」 「名前は?」 「鎌田麻衣。今は三年四組だ」 「白石先輩と同じクラスですね」 「そうだ。今回の一件で下手したら白石ちゃんが狙われかねない。分かるな?」 確認するように聞いてくる、伊藤先輩。 つまり高崎先輩と付き合っているのが白石先輩の姉だから、とばっちりで妹の白石先輩がいじめにあったりする可能性を懸念しているわけか。 「了解です。つまり姉が憎いから、妹を狙う可能性があるほど危険な奴だということですね?」 問い返せば、返ってきたのは無言だった。 電話口で伊藤先輩が考え込んでいるような雰囲気が伝わってくる。 そして数秒経過しただろうか。また、声が聞こえてきた。 「……まあ、そういうことだ。取り敢えず確認のためにいくつか質問する」 「何の質問ですか?」 「清田が現状をきちんと理解しているか、だ」 どうやら僕はあまり信頼されていないらしい。 まあ昔からよく新聞部の活動で手を抜いていたからなのだろうが、白石先輩のことに限って疑われるのは心外だ。 白石先輩に関しては、実の娘のように暖かな気持ちで幸せを願っていると言うのに。 「問一。白石ちゃんと高崎の関係は?」 「白石先輩の姉と高崎先輩が付き合っているので、高崎先輩は白石先輩の未来の兄ってところでしょうか」 ふむ、と電話口から頷くような声が聞こえてきた。 伊藤先輩は質問を続ける。 「問二。現状で白石ちゃんを見守るクラブとして最大の脅威は?」 「さっき聞いた鎌田麻衣ですかね」 「問三。それでは清田が第一にやるべきことは?」 「一先ず鎌田麻衣への警戒ですか。三年の女子となると、余り知り合いがいなくて難しいですが、それとなく探ってみます」 それだけ言うと、伊藤先輩はまだ黙り込んだ。 この人は黙り込むと、大抵ろくでもないことを考える。今回もそうなのだろう。 「……確かに三年の女子への警戒に清田だけだと厳しいな。一人、アシスタントをつけよう。まだ貸しが一つある相手が三年女子に一人いる」 「相変わらず誰彼構わず貸しを作ってるんですね……。ていうか三年女子に動かせる人がいるんなら、僕は必要ないような気がしますが」 「まあ女子が相手ならな。鎌田は不良グループの高杉、あいつらとも仲がいいから、もしもの時の暴力要員として備えてくれればいい」 「ああ、そういうことですか」 不良グループ、と呼んでいいのか分からないが、高杉の顔を思い出す。 この前、目の前で林檎を握りつぶしてやったら大人しくなったので、怖い相手ではない。 「早速、貸しのある相手には連絡を取っておくから、そっちも警戒しておくように」 「了解です」 「なら、今日の話は終わりだ。白石ちゃんのことを頼んだぞ、ルーキー」 そこで、伊藤先輩からの電話は切られた。 行動の速い人だから、今頃次の相手に電話でもしているのだろう。 僕としては今日はもうすることがなさそうだから、帰るか。そう考えた時だった。 ぷるぷると再び携帯が振動する。メールが来たらしい。 宛先人には 「アホ柊」の名前が踊っていた。 『数学の宿題が解けないので、清ちゃんを家庭教師に指名してあげようヾ(@°▽°@)ノ 全力でうちに“ヘ(`▽´*) コイコイ!! イヒヒヒ・・・』 メールの内容は悩む必要すらないものだった。 僕は脊髄反射で返信してやった。 『死ね』 ぱたんと携帯を閉じてから、白石先輩のことを考えなおす。 三年女子に陰湿な相手がいるなどと知らなかったから、高崎先輩の件も問題にしていなかったが、白石先輩に被害が及ぶようならば真面目に取り組まなければいけない。 僕は腕を組んでから、対策を考えることにした。 しかしそこでまた、うざい震動が携帯から伝わってくる。 またアホアホ生物からのメールだろう。 見る価値も無さそうだったので、読まなくても良かったのだが、僕は律義だったので文章に目を通した。 『なら美砂っちと二人で頑張るから絶対来るなよ(;`皿´)!!』 「ば、馬鹿な!? 田村さんも一緒にいたなんて!?」 そこで驚愕の声を漏らしてしまう。 柊一人ならマイナス百ポイントだが、そこに田村さんがいたとなるとプラス五百ポイント。合計プラス四百ポイントで心のオアシスに早変わりする。 僕が迷うはずなどなかった。 確かに今週の数学の宿題は、娘が反抗期にあるために機嫌が悪いと噂の数学教師によってたくさん出されていて、僕も死ねと思ったものだが、こうなれば話は別だ。 僕は即座にメールを打ち返した。 『やっぱり行く。田村さんに何か買ってきてほしいモノないか聞けよ』 『死ね』 柊は即座にメールを返してきた。 先ほどの僕と同じぐらいの神速だった。しかも内容まで一緒である。相変わらずむかつく女だ。 話にならなかったので、僕は直接電話をかけた。 二回目のコール音が終わって、柊が出る。 「おいこらボケナス。人に死ねなんて言ってんじゃねえよ」 「……清田君? それ、私に言ってるの?」 「うわぁっ、田村さん!? なぜ柊の携帯に!?」 電話口に出たのは田村さんだった。僕は誤爆した。 というか間違いなく柊の策略だろう。奴は僕の呼吸を知っているために、開口一番罵詈雑言をとばしてくることを読んでいたのだ。 試験勉強はできなくて、いつも僕に泣きついてくるくせに、なんと悪知恵が回る……ッ。 「清田君? 弁解は?」 「いや、違うんだ田村さん。さっきの言葉は全部、柊に向けたものであって……」 「ユーミンが相手でもそんなこと言っちゃ駄目だって」 「ごめんなさい」 「そういうところ、清田君の悪いところだよ?」 「すいませんでした」 僕はへこんだ。柊に対して憎悪が燃え上がる。 目の前に誰もいないのに、ぺこぺこと頭を下げてしまう。 「まあ分かってくれたならいいけど、清田君、こっち来れるの? さっき死ねって返ってきたけど」 そこまで見られていたのか。何というマイナスイメージ……。 僕は挽回のために尚更、数学を教えに行かなければならなくなった。 「や、うん。柊とはそんな感じのメールするから」 「へー、そうなんだ」 田村さんは棒読みだった。僕のイメージがどんどん悪くなっているような気がする。 反射的に携帯を握りつぶしそうになったが耐える。 取りあえずこの話を切り上げねば。 「うん。で、これから柊の家行くけど、何か買ってきてほしいものない?」 「……そうだねー、私ダイエットコーラ飲みたいかな。お金、後で払うから買ってきてくれる?」 「すべてお任せあれ。というわけで今から急いでそっち行くから、切るね」 そこで電話を切って、僕にとって悪い流れを断ち切った。 危うく柊の策略で破滅的な結果を呼び込むところだった。 額に浮かんだ汗をぬぐう。 高崎先輩と話をした時よりも遙かに緊張した僕は、急ぎコンビニへと向かうのだった。 もちろん白石先輩の件は完璧に忘れ去っていた。 / 「よーす。おばさん、お邪魔します」 「あら龍祐君。悪いわね。今日も由美の勉強見てくれるんでしょう?」 「いえいえ、お構いなく。親父にも言われてますし」 「悪いわね。あ、これ羊羹だけど、良かったら持っていってね」 お盆に載せた羊羹を柊のおばさんから手渡される。 柊の死んだおじさんは僕の父親と警察学校の同期であり、なおかつ柊のおばさんと僕の死んだ母親は高校時代バレー部の先輩後輩の関係だった。 そして柊と僕が生まれた病院は同じであり、もう何というか柊家と清田家は壮大なスケールで腐れ縁であるのだった。 なので簡単にお互いの家の中に入り込める。というか鍵の隠し場所まで知っている。 そんな家のおばさん相手なので僕はかなりフランクだった。 というか僕が二歳の頃に母が死んだため、よく柊のおばさんには面倒を見てもらっていたこともあり、ほとんど家族のようなノリだ。 鼻歌でも口ずさみながら、目をつぶっても辿りつける柊の部屋へと向かう。 そしてふすまにノックを二回。僕は柊の部屋の中に入った。 「勉強進んでる?」 「あ、清田君」 まず最初に制服を着たままの田村さんが反応した。私服だったらいいなと思っていたので、少し残念だ。 だけど制服だろうと田村さんは可愛いので問題ない。 横でぐったりしてる私服の柊よりも数十倍キュートだ。 「ねえ、高崎先輩との話、大丈夫だったの?」 「ああ、あれ? 別に何事もなく平和に終わったよ。ちょっと拍子抜けしたぐらい。あ、この羊羹おばさんからだって」 お盆をテーブルの中央へと置く。 馬鹿な柊は自分の部屋に勉強机を持っていないために、勉強する時はいつもガラス張りの机の上になる。 僕はさりげなく田村さんの対面に座った。 ガラス張りなので、カーペットの上に座っている田村さんの足が見えた。眼福だった。これだけで僕がここに来た理由があると言うものだった。 と、そこで脇腹に抉り込むような衝撃を受けた。 「今なんか変なこと考えてなかった?」 「宿題で死にそうになってるお前の頭が可哀想だとなら思ったけどな」 ふん、ともう一度ボディを食らいそうになったので、その拳を片手で受け止める。 ぎりぎりと僕と柊の腕をせめぎあった。 が、そこに消しゴムが飛んでくる。 「はーい、ストップ。清田君、攻撃的になっちゃ駄目ってさっき言ったばかりだよね? あとユーミンも、勉強したくないからって、清田君に逃げない」 その言葉に、僕は柊の拳を手放した。 そして買ってきたジュースを田村さんに渡しつつ、宿題の教材を広げる。 「あ、はいコレ。それとどれぐらい進んだの?」 「ありがと。お金これでいい?」 「うん」 僕はあらかじめ用意されていた小銭を受け取った。 「それでね、今の進行状況はユーミンが大問一から苦戦中。で、私は半分終わったところ」 「へえ、やっぱり予想通り田村さん進んでるんだ。それに引き替え……」 僕は汚物を見るような視線で、アホアホ生物を見下した。 アホアホ生物こと柊は怯んだようにうろたえた。 「だってさあ……、こんなん絶対無理。自慢じゃないけど、あたし学年三百五十人中、三百二十位だよ?」 そりゃ本当に自慢にならないと言いかけたところで、僕は口をつぐんだ。 田村さんの前で本音をぶちまけると、冷たいイメージを与えてしまう可能性がある。 打算にまみれた計算だった。 「というわけだから清田君、ユーミンに教えてあげてくれない? 私が答えを教えるだけじゃ、ユーミンのためにもならないだろうし。かと言って一から教えるのって私、慣れてないから」 「おっけー了解。田村さんの頼みとあれば、全力で教えて見せるよ。というわけで、柊。分からんとこ教えろ」 「うわー、露骨な対応の違いに、さすがのあたしも引くわー」 「いいから教えろよ」 まだテーブルにつっぷしてる柊の頭をがしっと掴んで、僕は目の前の問題用紙と向き合わせた。 勉強が苦手な柊はさらにひるんだが抵抗はしない。この女、馬鹿だが宿題はしないといけないと考える律義な性格をしているのだ。 そしてやらないといけないと分かっているのに勉強ができない、致命的な物覚えの悪さを誇っていた。 はっきり言って、この一帯では進学校に数えられる西霞高校に合格したことが奇跡のようなものであり、僕はこいつを合格させるために中学三年の九月からほぼ毎日この部屋で柊を勉強漬けにした記憶がある。 それはつらく苦しい時間だった。 もしもそれがバイトだったら金は要らないからと言って逃げ出したくなるような、物覚えの悪さ。 親父の命令でなければ三日でさじを投げていた。それほどのキングオブ馬鹿。 かなり面倒を見てもらった柊のおばさんへの恩返しの気持ちと、親父から失敗したら小遣い抜きの宣言がなければ達成できなかったことだろう。 僕は合格発表の日に、自分の番号を見つけても特に何も思わなかったが、柊の番号を見つけた時は感動にむせび泣いた。 マジ泣きである。後にも先にも、僕が身体的痛み以外が原因で泣いたのは、あれしかない。 「えっとね、そもそも問題の意味が分かんないだけど、これ何聞きたいの?」 「……そこからか」 僕は自分のこめかみを指で押さえた。目の前の田村さんが苦笑した姿が見えたが、僕は笑い返せなかった。 昔を思い出して胃がつかれる。だが、やはり投げ出すわけにもいかない。 そもそも能力的に厳しい高校に合格させてしまった原因は僕にもあるのだし、投げ出すわけにもいかなかった。この件に関しては、柊をからかって遊ぶのはやめることにする。 「そりゃ数学の問題なんだから、それに関することに決まってる。今、授業でやってること覚えてるか?」 「確率?」 「じゃなくて、も一個やってるだろ。数Uの67ページ開け」 「うお、こいつ教科書見てもいないのにページ数をさらっと。ガリ勉めー」 「いいから開け」 「あいたっ」 べしっとでこぴんすれば、柊は渋々と指定されたページを開いた。 「ほら、これ。ココに書いてあること今やってるだろ」 「あー、確かに記憶にあるような」 「やってるんだよ。で、問題も似たようなものだろ?」 「おー」 「だから、その問題も例題と同じ考え方で解けばいい。はいヒント終わり。自分で考えろ。時間は十分な」 僕は一方的に言い渡すと、柊の部屋の本棚から適当に漫画本を取り出した。 待っている間暇なので読む。 「あれ、清田君は宿題やらないの?」 「あ、うん。僕もう終わったから。柊が悩んでる間、漫画でも読んでるよ」 「終わったって、この宿題出されたの今日じゃなかった?」 「日本史の時間暇だったから内職でやってたら、いつの間にか終わってて」 「えーっ、これそんなに早く終わる? 清田君やっぱり頭いいね」 驚いたように、田村さんが声を上げる。 僕としては普通なことなのだが、こうして田村さんが驚いてくれると、ちょっと自慢してもいいのかなと考えた。 我ながら単純である。 「やめなよ美砂っち。こいつ褒めると調子乗るよ」 横から問題に眉をひそめながら、柊が口を出す。 「いいからお前は問題解け」 「解いてるけどわかんないんだって」 「分からなくてもいいから考えろ。悩め。そうすることで少しずつ覚えていくんだから」 「へーへー」 柊は再び問題に集中しはじめた。 この女はよく脱線するので、そのたびに勉強意識を思い出させてやらないとひどいことになる。 教えるからには集中させないとすべてが無駄になってしまう可能性すらあった。手を抜けない。 僕は爪楊枝に羊羹を刺して食べた。 柊のおばさんが選んだ羊羹は美味かった。娘と違ってできた人である。 もぐもぐもぐ。飲み物が欲しくなってくる。 「ちょっとお茶もらってくる」 僕は自分の家のような気軽さで台所へと向かった。 台所ではおばさんが夕食の用意をしていた。材料からおそらく回鍋肉だろう。紛れもなく僕の好物だった。 「お茶もらっていいですか?」 「どうぞ。それより龍祐君。今日は晩御飯食べていかない?」 「いいんですか?」 「ええ。夕方までに由美が、宿題終わるとも思えないから」 おばさんは苦笑した。 何度も何度も僕が柊に勉強を教えることに手こずってきた過去から、長丁場になることを見抜いているのだろう。 親相手に真実を話すのは気がひけるが、もうばれてるので僕はおごそかに頷いた。 「お願いね。多分、龍祐君いなかったら、うちの子ひどいことになると思うから……」 「万事お任せください。一年と半年。ここまでうまくやってきましたから。卒業までは必ず」 僕は柊を卒業させなければならないという至上命題を再認識し、コップに入れたお茶を飲み干すのだった。 さらにもう一杯のみ込む。 そして、そのままおばさんに挨拶してから柊の部屋へと戻る。 「問題解けたか?」 「まだー」 やっぱりと思いながら僕はまた漫画を読み始めた。柊のくせに少女漫画なんて持っていてけしからん。 けしからんが少女漫画って意外と面白いな。そんなことを思いながら、だらだらと時間が過ぎる。 「あ、そういえば柊」 「何?」 「さっきおばさんに飯誘われたから、ここで今日食べてくから」 「お母さん何作ってた?」 「僕の予想では回鍋肉だな。かなり期待できる」 「清ちゃんが来ると、いつもそれだよね」 そこで柊は眉根を寄せた。やはり問題が解けないらしい。 僕は再び漫画に戻った。 おずおずと田村さんが声を発した。 「結構、清田君ってユーミンの家でご飯食べてくの?」 「ああ、うん。僕の家とこいつの家って、生まれる前からの付き合いだから。家も二軒隣だし。月に二回ぐらい食べてるような」 「最近、週一ペースじゃない?」 「確かに、言われてみると増えてきたかもな。まあおばさんのお誘い次第だけど」 父子家庭と母子家庭が超近所にあるから、清田家と柊家は不思議なコミュニティを形成しているのだ。 家族ともいえず他人とも言えず、すごくあやふやなところがある。 というかうちの親父は最近、柊のおばさんが好きなんじゃないかと思うような所が多々あり、もしかしたら近い将来、アホ柊とは兄妹になる可能性すら僕は考えている。 すごく摩訶不思議だ。 「へー、幼馴染っては聞いてたけど、仲良いんだ」 「柊はともかく、僕と柊のおばさんは超仲良しだよ」 「清ちゃんはともかく、あたしと清ちゃんのおじさんも超仲良しだけどね」 「何だよ対抗するなよ」 「してないって」 「ああ?」 「やるか?」 ぴゅーっと次はシャーペンの芯入れが僕らに向かって飛んできた。 「だから駄目だって」 田村さんであった。 「はーい」 僕らは本格的に怒られる前に勉強へと戻ったのだった。 そんなこんなで今日という日は過ぎていく。 聡明な田村さんが宿題を終えても、柊はようやく大問二を終わらせたところであり、夜遅くなったので田村さんを駅まで送り、さらに夕食を挟んでからも柊の物覚えの悪さは炸裂した。 そして、そのまま時は過ぎ。夜中の十時になる頃、ようやく僕は柊に宿題を解かせるという難問に成功したのであった。 恐るべき疲労が後頭部に圧し掛かってきたので、家に帰ってからはすぐに寝た。 / そして次の月曜日。伊藤先輩からの電話のこともすっぱり忘れていた僕は元気に学校に登校してきていた。 一日の始まりに田村さんを見ることが僕の爽やかな日課なのだ。 そこから更に白石先輩の変な行動を観察できたら言うことはない。 学校とはとても楽しいところなのである。 これで手のかかる柊さえ独り立ちしてくれたら文句はないのだけど。 そんなことを考えたところで、僕は自分の教室へと向かって歩き始めた。げた箱でスリッパに履き替えて、自分のクラスへと向かおうとする。 だが、そこで背後から声が聞こえてきた。 「少し待ってほしい。二年の清田龍祐君だな?」 「……そうですけど。どうかしましたか?」 振り返って声の主を観察してみれば、見覚えがあった。 えらく堅苦しい喋り方と、印象的な切れ長の瞳。鼻筋はすうっと高く、中性的というよりはやや男前な顔立ち。サムライのように後頭部で艶やかな黒髪を結わえた女子生徒。 制服の着こなしは完璧で一点の校則違反もない。 それは学校のほとんどの人間が知っている、我が校の前生徒会長様であった。 確か名前を九条水鶏(くじょうくいな)。 現代に蘇った武士道娘だの、聖書の代わりに校則を唱える風紀の守護者だの、様々な呼び名を持つ偉人だ。 最も有名な逸話は“午前八時、だんびら坂の決闘”であり一部の女子の間では爆発的な人気を誇っている。 SかMかで言えば間違いなくS側の人であり、基本Sで田村さんにだけMの僕からすると相性が悪い相手だった。 もちろんキャラクターの面白さには興味あるものの、その堅苦しさから僕が九条先輩と接点を持ったことはない。 「伊藤先輩から聞いていないのか?」 「うわー、もしかして借りを作ってる人って九条先輩だったんですか」 「……実に不本意なのだがな。伊藤先輩には、借りを作ってしまった」 すごく嫌そうな顔で告げる九条先輩。 その気持ちは十分に僕も理解できた。 そもそも僕が新聞部に入部することになったのも、最初は伊藤先輩に弱みを握られてのことだった。 そしてあの弱みは恐らくまだ時効になっていない。傷害罪でまだ立件できるはずなので、僕は伊藤先輩には逆らえない。 恐らく表情からして九条先輩も何らかの弱みを握られているのだろう。 僕は労わるような視線を九条先輩に向けた。 九条先輩も僕の気持ちを理解したのか、力強く頷いた。 「伊藤先輩に関する話はしなくともいいだろう。むしろしたくない。時間がないから本題に移るが、白石に関してはそれとなく私が観察しておくことにする。幸いにもクラスが同じだからな」 「ですか。がんばってください。ていうか九条先輩がいるなら僕、何もしなくて良さそうですね」 何を隠そう九条先輩は剣道部でインハイに出ている。 柔道部主将が学校最強の男と呼ばれるのに対して、九条先輩は学校最強の女と呼ばれている。 つまり普通に強いのだ。これ以上ないほど抑止力として働いてくれそうな感じだ。 こうして観察してみても頼れる兄貴って感じがビンビンしてくるし。 暴力要員として、なんて伊藤先輩には言われていたけれど、九条先輩をサポートする必要なんてなさそうだ。 「もしもの時は頼れと言われているだけだからな。普段は何かしてもらうつもりもない」 「僕、基本頭脳労働専門なんで、何もかも九条先輩にお任せするつもりです」 「二年前の西町通り魔事件に関わっておいてよく言う」 「何の話ですか?」 「ふふ、隠そうとしなくてもいい。君を知らなくて伊藤先輩に頼りになるのか尋ねた時に、少しばかり教えてもらっているからな」 「……うえー、伊藤先輩、誰にも言わないと約束したはずなのに」 僕が裏切られたショックから顔をげんなりとさせると、悟ったような顔つきの九条先輩は静かに言葉を発した。 「安心しろ。もし口外したら、伊藤先輩から私も色々と暴露されてしまうことになる。例え口が裂けても、吹聴しないと約束しよう。というよりできない」 「一蓮托生ってやつですね。九条先輩どんな弱みを握られてるんですか?」 「そういうことは、女子に聞くべきではないな」 堂々と胸を張って、九条先輩は僕の問いかけを無視した。 「何ですか、その逃げ方。僕は秘密を知られているのに」 「小さいことを言うな。それよりも、迷惑な人に弱味を嗅ぎつけられた者同士、仲良くしたほうが賢明だろう」 「まあ伊藤先輩には逆らわないほうがいいってのは正論ですね。後が怖いから」 「ああ。あの人は本当に容赦がないからな。頑張ろう」 「頑張りましょう」 そんなことを話していると、僕たち二人の間には奇妙な連帯感が芽生えたのだった。 伊藤先輩をいつかへこましてやろう同盟とか、そんな感じの。 まあ反撃が怖いから実行はしないけど、どこかで愚痴ったりできたら楽しいかもしれない。 ともかく、その日はお互いの連絡先を交換しただけで別れた。 そして、それから数週間。白石先輩の周囲で何か問題が起きたという形跡はなく、僕は自然と伊藤先輩からの忠告を忘れていったのだった。 / そして、ある日。 三年生であり、入試の勉強のため特別なカリキュラムが組まれている白石先輩は滅多に新聞部の部室に来ることはなくなった。 つまり部の中には僕ばかりというつまらない日常が続いていくわけである。 適当に校内新聞を作り上げながら、僕は暇を持て余していた。 最近の新聞部の平均活動時間は30分を切っている。 田村さんとのカラオケと廃部寸前の部活動なら、誰だって前者を取る。 というか新聞部が活動していてもカラオケを取る。 僕の正義はいつだって田村さんを向いているのだった。 今日もすることがなかったので、僕は早急に家に帰ることにした。 と、途中で携帯が鳴った。 相手は渡辺だった。同じクラスでハンドボール部所属。渡辺の特徴としては、とてもエロい。 二年最高のエロ男、七組の荒木と双璧を張れるのは渡辺しかいないというのがクラス男子の一致した見解だった。 「はい。こちら皆のアイドル清田」 『オチが弱いで。それより新しい裏ビデオ手に入れたんやけど――』 「よし。集合場所を教えてくれ。すぐ向かう」 『うっは、いつもながら早いな。清ちゃんのそういうとこ愛してるわ』 「ご託は良い。それよりも、どこで見るんだ。渡辺の家に行けばいいのか?」 『その予定やったんけど、姉ちゃん帰ってきたから無理になった。で、場所探してて、清ちゃんの家空いとる?』 「OK。いつでも来い。ビデオを忘れずにな」 『おっけ。ビデオを忘れずに。他にも四人ぐらい連れてくから』 「好きにしろ」 と、そこで渡辺からの電話は途切れた。 素晴らしいばかりに情熱のパッションがほとばしった会話だったが、それは僕の若さゆえなのだろう。 ウキウキした気分で僕は家へと早歩きで向かうのだった。 そして時間は即座に過ぎ去り、僕の家には六名のエロ戦士達が集った。 二年最強。他者の追随を許さない冷酷なエロマシーン、荒木。 キングムッツリ。甘いベビーフェイスの裏に隠された獣の欲望、木下。 エロワイズマン。素敵アイテムを誰よりも早く入手する賢者、渡辺。 連射王。人体の限界に挑戦し、十一回という記録を持つ男、田辺。 オープンエロ。女子にすら下ネタを振るために男子に尊敬され女子に嫌悪される勇者、野村。 そして最後にごく正常な青少年である清田こと僕。 西霞高校の健全なる男子生徒である。 「あー初めまして清田君。噂は常々聞いてました。仲良くしてな」 「いやいや木下君。僕も木下君とは仲良くなれそうだと思ってたんだ」 初対面の木下君と何となく握手する。 男はビデオテープを前にすれば二秒で親友になれる生き物なのだ。 「お前ら二人ムッツリ属性だから仲良くなれるだろ」 「いやー、まだまだ清田君の伝説には届きそうにないけど。今日は勉強させてもらおうかと」 「またまた。それを言うなら木下君だって」 「――そんなことはどうでもいいから、ビデオ。見ようぜ」 軽く自己紹介を始めようとしていた僕たちをエロマシーン荒木の言葉が切り裂いた。 やはり恐るべき男である。 初対面の人間同士の挨拶などどうでもいいから、ビデオを見せろと。シンプルかつ強力。 西霞高校史上最強のエロと噂されるのもいただける。 「ま、そうやな。なら早速。清ちゃんの家って、おじさんと二人暮らしやったから三本ぐらいは見る時間あるよな?」 「今日は奴は当直だから全部いける」 「さすが頼もしいな、エロ番長」 「番長言うな」 などとくっちゃべりながら僕たち六人は居間へと移った。 最近親父が何を思ったのか買い換えた薄型テレビの画質はばっちり最高だった。 男六人。食い入るようにして、テレビの前に座る。 荒木はあぐら、木下君は正座、渡辺と田辺はソファーに座り、野村は何故か体育座りだった。 あれが個人個人の戦闘体型なのだろう。 そんなことを観察しながら僕はテレビの画面に集中し――。 そこでピンポーンと、のんきな音が鳴った。 「清ちゃん客みたいやぞ」 「出てくる。一応音と画面消して待ってろよ」 「あいよー。早くな」 無粋な闖入者の対応のために僕は玄関へと向かった。セールスか何かは知らないが、早く帰らせないと。 そう考えていると、がちゃっと家の扉が開く音がした。 鍵は閉めたはずなのに、である。つまりは親父が帰ってきたということなのかっ――!? まずい。そう考えて僕は親父を引きとめるためにダッシュした。そして会話が中の連中に聞こえるように大声を出した。 「お、仕事はなかったの、って柊テメェ何しに来たんだよっ!」 「お母さんがこの前の御礼にって、晩御飯のおかず作ったから持ってきてあげたんだって」 玄関を開けて登場したのは空気を読めないアホ女、柊であった。 まさしく最悪の展開である。 柊はタッパーに入った数々のおかずを手に、ずかずかと家の中へと上がり込もうとした。冷蔵庫の中にでも入れるつもりなのだろう。 普段からそれぐらいしても不思議ではないぐらいには、お互いの家に僕らは入り浸っていた。 だが今は不味すぎる。居間には五人の兵どもがいる。 僕は体を壁として、それを阻止するしかない。 「ははは。柊。そいつはありがたいな。ただ家の中に運ぶぐらいなら僕がやるから。今日は帰りなよ。わざわざ持ってきてくれてありがとうな」 「……何それ? どういうこと? 清ちゃんがあたしに感謝するとかおかしくない?」 「まさかまさか。そんなことないって。柊家の母娘がいなかったら清田家は成り立たない」 心の中で、この事態に気づいてくれよーと念じながら僕は柊の侵入を阻んでいた。 だがその態度を柊は不審に思ったらしい。 「もしかして熱ある? 清ちゃんって酷い風邪ひくと、色んな人に感謝しはじめたりするよね」 「いやそんなことはない。あ、そうだ柊。この前、コンビニの新作スイーツを食いたいとか言ってただろ。今回のお礼に俺に買ってやるよ。ほら」 僕は財布を取り出して五百円ほど柊に渡そうとした。 今起きかけている惨劇を防ぐためならば、五百円など安いものだった。 柊はスイーツという言葉に惹かれたのか、ぱっと笑みを浮かべて五百円玉を受け取った。 「ほんと? あとで返せ馬鹿とか言わない?」 「絶対言わない。だから早くコンビニ行け。売り切れるかもしれないぞ」 「そうだね。じゃあこれ、持って」 そういうと柊は僕の手にタッパーを乗せた。そして家の外へと出ようとして。 「なーんて、っね!」 「のわっ!? テメェ柊止まれ!!」 くるっとUターンした柊は跳躍しつつ靴を脱ぐと、タッパーを持って身動きを制限されている僕の横を駆け抜けた。 雷のような速度で、居間へと向かって走る。 僕はそれを止めようと思ったが、追いつけない。 勉強は駄目でも身体能力は抜群のこの女、百メートルを12秒台で駆け抜けるスピードを持っているのである。帰宅部のくせにッ! それは一瞬の間の出来事だった。 僕の制止の声も振り切って、柊は今のドアを開いてしまった。 「あっはっは、清ちゃんのことだから、ここにあたしにばれたらまずいものあるんで……」 ぎー。 ばたん。 柊はドアを閉めなおした。我が家を静寂が包みこんだ。 僕は言葉に詰まった。あのリアクションから考えて、悲劇が起きてしまったらしい。 柊は苦笑いを浮かべていた。そして困ったように眉根を寄せる。 「あ、あはは。やー、うん。若いってこういうことなんだよねー」 そして柊は僕の近くに寄ってきて、ぽんぽんと肩を叩いた。何か悟ったような表情だ。 「まあ気にしないでよ清ちゃん。大丈夫。こういうのは言い触らしたりしないから。いやー、ちょっとタイミング悪かったわ」 そんな言葉を言い残して、柊は家へと帰っていった。 僕は大ダメージを受けた。 そして居間に戻ると、僕よりもダメージを受けている男がいた。 木下君だ。 普段は爽やかなイケメンである木下君にとって女子にエロビデオ観賞する姿を見られたのはダメージが大きかったのか。 そんなことを考えていると、野村が口を開いた。 「清田。どうして止めなかったんだ」 「止めようとしても止められる女じゃないんだよ、あいつは。ていうかむしろ、何故エロビを見続けていたのかを聞きたいな。止めてろつっただろ」 「――男が五人いて止められるわけがなかった」 冷酷なるエロマシーンは静かに言葉を発した。 それは誰が悪いわけでもない、悲劇だった。 木下君は床に両手を膝をついて、衝撃を受けたようなポーズのままぴくりとも身動きしない。 連射王、田辺が慰めるようにその肩を叩いた。 「大丈夫だって。木下君なら多少エロいことがばれても、女子にはモテるよ」 「そうそう。柊、誰にも言わないからって言ってたし。あいつ口約束は守るよ」 僕も木下君の心痛を和らげるために、そう言葉をかけた。 だが木下君はさらに肩を震わせた。 「清ちゃん」 渡辺が眼鏡をきめらかせながら、僕を見た。 「今はそっとしといたり。木下君、去年から柊さんのこと好きやったんや」 「マジで……?」 「本当だよ。俺も聞いたことある」 野村は悲しげに呟いた。 それは本当に悲しい出来事だった。 木下君は二分後から泣き出した。 誰も言葉をかけられなかった。 自然ともうビデオなど見る余裕はなくなった。 そのまま僕達六人は、鑑賞会から“ドキドキっ! 木下君の失恋記念パーティ!”を開始することになったのだった。夜遅くまで。 悲劇とは予想していなかった方向から、襲いかかってくるものなのだ。 僕はそのことを学んだ。 / 清田家の悲劇から二日が経過した。 学校で会った柊はあの日のことを完璧になかったことにしたのか、普段どおりに接してくる。 ぎくしゃくしないのがなまじ不気味だった。 木下君も普通に会話できた良かった、と言っていたけれど、どうなんだろうか。 うーん。今柊が何考えているのか長い付き合いの僕でさえも分からないな。 木下君は、この前、酒の勢いかは分からないが、嫌われてなかったら告白するとか言いだしてたけど、どうなるんだろうか。 あれで頭は悪いが、見た目は悪くない(と木下君は語っていた。笑うと可愛いとか、話してて安心するとか。僕には理解できない)柊はどう反応するのか。 木下君はエロいことを除けばいい男だ。 西霞高校からは毎年東大か国立の医学部に進む生徒が三人ぐらい出るが、僕らの代では木下君は確実だろうと言われている。つまり将来有望株。 顔だって良い。道行く人に、僕と木下君のどっちが恋人にしたいですかと尋ねれば、十人が十人、木下君と答えるだろう。 案外、告白したらすんなり柊は受けそうだ。 柊の低スペックで、木下君ほどの高スペック男を捕まえられる機会なんて二度と訪れないだろうし。 ていうか何で僕はこんなことを考えているのか。 うん? ていうかもし柊に恋人ができたら、柊は田村さんと遊ぶ機会が減るんじゃないか? つまりそうなると田村さんは暇を持て余すようになり、誰か遊び相手を探すようになって 「清田君、どこか遊びに行かない?」ってなって――夢が広がるな。 決めた。僕は今日から木下君の味方だ。 柊も妹のような存在だし、あの二人が付き合うことを積極的に支援していこう。 まずは告白のセッティングだ。 そこまで考えたところで携帯が鳴った。 画面には九条の名前。一瞬、誰だか分らなかった。 だが声を聞いてすぐに思い出した。 『清田君か』 「はい。どうかしましたか?」 『その様子だとまだ知らないみたいだな。すまない。やられたかもしれない』 「どういうことですか?」 『――白石が階段で足を滑らせ、そのまま踊り場まで転げ落ちた。ついさっき、病院に運ばれたよ』 電話越しの九条先輩の声は、どこか質力を持っているかのように、僕の耳朶を打った。 「……すみません。よく聞こえませんでした。もう一回言ってもらえますか?」 『白石が階段で転び、頭を打って病院へ運ばれた』 「それ、誰かに突き落とされたってことですか?」 『分からない。分からないが、何もない階段で暗くもない時間帯に、人がそう簡単に転ぶだろうか』 硬い声。九条先輩は暗に誰かがその事態を引き起こしたのだと語っていた。 僕はそれまで考えていたことを全て止めて、白石先輩が運ばれたという病院の名前を尋ねた。 |