「暖かい日差し/2」




 私という人間はそもそも朝早くに起きることに適してないと自分で感じている。という
よりもそれは最早核心に近い。…私の小学校中学校時代の登校は、始業のチャイムが鳴る
五分ほど前ぐらいにやっと着くのが精一杯だった。単に自堕落で惰眠を貪っていたかった
だけなのかもしれないが。
 結局誰にも言わなかったが、高校の朝の練習は苦労した。朝七時に学校へ着くために五
時に起きるのだ。そうしないと間に合わないからだった。そして家を出るのは六時半頃。
その眠さゆえに部活を辞めようかと思った時があったほどだった。

 ――それなのに、今日は面白いほどスッと起きることが出来た。
「おはよう、氷室」
 朝がいつもより清々しいのはこの声のおかげなのだろう。。
「起きたか? …起きていないなら起こしに入るぞ」
 起きていないのなら返事も出来ないであろうに、無駄な呼びかけをする。だが彼にとっ
ては重要な事項らしく、二度三度と確認の断りをこちらに向けている。…そんな朴訥さも
また衛宮の良い所か。内心で苦笑する。
 私は応えない。衛宮はどんな反応を聞かせてくれるだろうか。私の寝ている姿を見てな
んと言うのだろうか。それが知りたくなって、彼が近づくのを待つことにした。
「氷室、……寝てるか」
 おそらく苦笑しているであろう衛宮。寝ている私を見て彼は何を思うのだろうか。そこ
まで考えて気付いた。焦った。
 寝癖は付いていないだろうか? 寝相が悪くて笑われたりしないだろうか?
「…相変わらず綺麗な髪だな」
 近づいてくる足音と心底感心したような声音。瞬間、不安は転じて大きな歓喜となっ
た。偽りなく、ただただそうであるという彼の本心が、私のことを――たとえ私を構築す
る一部分だとしても――褒めてくれているのは他の何物にも代え難い。
 「――――」
 沈黙と共に彼の腕が私の髪を撫でる。その無骨な掌の感触と、触れる際のたどたどしい
優しさがちぐはぐで、そんなことどうでも良くなるくらい気持ち良かった。
「氷室、そろそろ起きないか?」
 呼びかける声ではなくただの独り言。手は、私の頭から離れていなかった。つまり彼は
今この瞬間の私の起床は予期しない筈で、
「そうだなっと」
 私が彼の腕を捕まえて抱き付くのに抵抗はなかった。奇襲成功、などと呟いてみる。
「ひ、氷室? まさか起きてたのか?」
 慌てる衛宮。私は嬉しくなって体を起こし、さらに衛宮に抱きついて耳元に囁いた。全
部聞いてたぞ、と。
「――!? ――な」
「髪を褒めてくれて嬉しかった」
 なんで、と続けそうな彼の言葉を遮るように私は言葉を紡いだ。だって訊かれたら応え
ないといけないし、起きてて起き上がらなかった理由を答えるの、格好悪いから。
 ――誰だって好きな人の前では美しく格好よく在りたいものだ。
「そんなに狼狽するということは、あれは嘘だったのか?」
 それこそ嘘だ。私ですらそうだとは思っていない、けど、彼の口からもう一度肯定して
欲しかった。
「いや――掛け値なしの本音だったんだが」
「なら、いいじゃないか。私のことを綺麗だと言ってくれたんだろ?」
 軽く誘導尋問。
「勿論だ。俺は氷室のこと綺麗だと思っている」
「…ありがとう。私は衛宮のこと好きだな。…衛宮は?」
「…俺も氷室のこと好きだよ」
 そう言って、柔らかい口付けを交わした。

「先輩ご飯出来ましたよー――って、朝っぱらからなにやってんですかーーー!!!」

 三十秒を越えた辺りで間桐さんに止められた。真に残念だ。





 移ろい続ける季節の中で私たちは日々を生きている。それに例外など無い。
 けれど停滞していて欲しいと願う時が誰しもにもあっただろう。それは幼く全てを真っ
直ぐに見れた幼少期だったり、友達と仲良く遊べた中学の頃だったり、部活に全てを賭し
た高校生活だったり、努力の末栄華を極めた頂点の時だったりする。
 私が今、ふとした拍子にこんなことを考えてしまうのだと知ったら、嘗ての友人たちは
どう思うだろうか。そう、益体も無いことを考えて、美綴綾子は嘆息した。
 高校時代に割と仲の良かった遠坂凛ならばふぅん、と大した感慨も無く返されてしまう
のかもしれないが、弓道部の後輩だった間桐ならばどうだろう、同意してくれたかもしれ
ない。
 しかし今が幸せでないのかと問われれば幸せではないとは言いがたい。大学もそこそこ
の成績で出たし、就職難のこの御時世に希望していた地元の企業に就職も出来た。世間一
般でこれが幸せで無いとはいがたい。
 でもなにかこの日常は物足りなくて、
「遠坂は今何やってんだろうな」
 久方ぶりに、あの奔放で猫被りで良い性格してて私と対等だった彼女に会いたくなっ
た。
 また、馬鹿みたいに馬鹿みたいな掛け合いをしたくなった。




「――でも、なんで新都に来て一番に向かうのがファンシーショップなんだ?」
「それはイリヤ嬢が何が何でも行きたいと願ったからだろう」
 無骨で真っ直ぐな男、衛宮士郎は、ヌイグルミ地獄に辟易する。というか既にイリヤに
いろんなコーナーを連れ回されて心身ともにぐったりしてベンチに深く腰掛けていた。ち
なみにイリヤは他のところを見てくるとどっかに行った。まあ彼女ほどの魔術師なら自分
に降りかかる危機ぐらいあっさり跳ね除けてしまうに違いない。疲れ果ててぐでーん、と
天井を見上げる士郎。隣にはシックなロングスカートと長袖のブラウスに包まれた、出来
る女系氷室鐘が座っていた。いつものスーツ姿と違うが、今は今で黒と白のコントラスト
が髪に似合う。時代が時代なら彼女の雰囲気も相まって魔女呼ばわりされそうな様子。派
手好きの遠坂とは豪い違いだ。言ったらガンドマシンガンの餌食になりそうなので口には
出しません。よくそう思うけど、どこで情報が漏れるか分からないし。恐るべし情報社
会。以前は国境を二つほど隔てていたのにばれた。怖。
「でもなぁ…正直ここは俺には合ってないんだよな。周りはカップルだらけだし」
 言わずもがな、大の男に似合うヌイグルミなど存在しない。周りにはピンク色の気配。
思わずこちらが当てられてしまいそうだ。…横からジト目が来た、ああ、発言には気をつ
けないといけないのに。
「…ほう、私では不満か」
 視線が痛い。いや、不満とかそんなことは一切思ってないし。
「そういう意味じゃなくて…ほら、氷室はあまりヌイグルミとか似合いそうにないし」
 言うと、ふむ、と納得したようになる氷室。
「確かに私にはヌイグルミに対する造詣はないし、可愛がるようなこともないな」
「だろ? 俺の周りはヌイグルミが似合いそうなのはイリヤぐらいだから」
 遠坂には似合わないだろうな、と呟く。そういや藤ねえとかは虎の人形とか持ってるか
もしれんが。
 そこで考え込むように俯く。
「…ヌイグルミか。ヌイグルミが似合わないがその実大好き、という女子はいたな」
 知られてはいないようだったが…誰だと思う、と問われる。
 問題として成立するということは双方がその人物を知っていなければならないわけだ。
つまりある程度の絞込みが可能だということだが…。
「三枝さんは…ヌイグルミが似合いそうだから今回の答えとしては没か。…なら、実は蒔
寺とか?」
「いや、残念ながら違う。今はどうだか知らぬが、高校時分は風鈴集めやら硝子細工など
に凝っていた記憶がある」
「じゃあ答えは誰なんだ?」
「美綴嬢だ。衛宮もよく知っているだろう?」
「美綴が? へぇ、まあ氷室が言うならそうなのかもな」
 割と驚いた。けれどそんなものなのかもしれない。別に本人が男らしかったりしてもど
こか女らしさみたいなものは持っているだろうし、そもそもそういったものは個性という
もので他人がとやかく言うものではない。氷室の観察眼は並々ならぬものがあるし。浮気
でもしたら速攻ばれるだろうな…勿論しないが。
「シロウーこれなんかどう?」
 なにやら大きなヌイグルミを店員に抱えさせて走ってくるイリヤ。
「うわ、でかいな。イリヤ…まさかこんなの買うのか?」
「いーじゃない、どうせ買うのは私なんだし」
「ぉぉ、これはなんとも大きな白熊…か?」
 感嘆するのも無理ない。大きさが人ほどの大きさになって来ると大きいとしか言えなく
なってくるものだ。特にヌイグルミなどに関してはあまり経験がないから特に。
「お客様がこの方の保護者様ですか?」
 よいしょ、とばかりに商品を汚さないよう、ベンチの上に白い物体をゆっくり乗せる店
員さん…なにやら声に聞き覚えがあるような。
「私、このフロアーのヌイグルミの担当をしております、美綴綾子と申します」
 こちらの怪訝そうな顔を見たのか自己紹介を始める店員さん。ああ、なるほど、通りで
聞き覚えがあるはずだ。自己紹介をしたらしたで妙に得心のいった顔を困惑げに見てく
る。
「ほう、嘗て穂波学園一二を争っていた女傑とこんなところで会うとは。久しぶりだ、美
綴嬢。氷室鐘だ。覚えているだろうか?」
「あー、陸上部三人娘の一角の。おー、綺麗になったねぇ。こんなとこで再会するとは思
わなかったよ」
 相好を崩して氷室に調子良く話しかける。む、あまり変わってないらしい。
「こちらも思ってはいなかった。まさかヌイグルミ好きが高じてこんなところに就職して
いるとは」
 だいぶ置いてきぼりの俺とイリヤ。イリヤはこの人誰、と聞きたそうな視線を向けてく
る。
「そう? 一応これでも第一希望の企業だよ。入るのに結構苦労したんだから。…ところ
で、そこの黒い高いのと明らかに外国人風のこの子はあんたの一体何よ。まさか夫と子
供? 国際結婚?」
 黒いのって…。いやまさかイリヤが俺と氷室の娘って…そういう風に見えるのだろう
か?
「――――つぅ」
 にやけてたらふくれっ面のイリヤに思いっきり足を踏まれた。私お姉ちゃんだもん、
と。自分としてはには妹だと思っているんだがいやごめん、でもかわいい。氷室も頬を染
めてるし、と自分も顔が熱くなっていたが。
「ああ、そうか。紹介していなかったな。彼女が彼の親戚にあたる子で、イリヤスフィー
ルという。でこの彼が――」




 そう言って氷室は、黒いのに寄りかかって腕を組み(憎たらしいくらいに幸せそうな顔
で)この私に言い放った。
「私が交際中の彼氏、衛宮士郎だ。…懐かしい響きではないだろうかな」
「――え」
 衛宮士郎? この黒いノッポが? いや確かに言われてみればそんな気もしてこないこ
とはないがまさかこんなに人間変わるものなのかと。驚愕、私と衛宮の再会はその一言に
尽きた。
「久しぶりだな、美綴。まさか黒いの呼ばわりされるとは思ってなかった」
 しかし、話してみれば何のことは無い。あの、すかした喋り方の同輩、便利屋と呼ばれ
ても一顧だにしなかった衛宮士郎に違いなかった。
「あ、ああ、すまない。…しかしおっきくなったなぁ。昔はそうでもなかったのに」
 これだけ外見が変化したら私でなくてもそう簡単に分かるとも思えない。だから私が気
付けなかったのも仕方ないとしよう。OK、反省はここまでだ。
「で、いつ帰ってきたんだ?」
「そうだな…大体二週間前か。暫く大事が起こりそうに無いから日本に腰を落ち着けるこ
とにして帰ってきたんだ」
 なんだかよく分からないけれど、その話を聞く氷室が俯いていることからあまり深入り
しないほうがよさそうだった。
「じゃあ、あれだ。あたしとあんた達が会ったのをいい機会に、こんど同窓会でもしてみ
るのもいいかもね」
「――それもいいかもしれないな」
 ふっ、と笑う衛宮士郎。その表情はどこか寂しげで儚い。
「そうだ…同窓といえばもう柳洞とかには会ったのか?」
「まさか。何年も会ってない奴に早々連絡なんて出来ないさ」
 そう、言い放った彼の目は何処かここでないところを見ていて。
 そんな衛宮士郎は私の知っている人物ではなくなってしまったのだと気付いた。
 「――士郎」
 傍らで紡がれた掠れた響きに衛宮はハッとした表情を見せた。
「…ああ、済まない。少し、ぼうっとしていた」
「……そうか」
 それもどこか遠い。けれど、冷たいわけではなく、ただ、距離がお互いに掴めていない
様だった。
「それにしても熱いね、あんたたちは。なんだか分からないけど通じ合ってくれちゃっ
て」
 コホン、と咳払いをする。二人にもまだ解決できていない部分はあるのだ。ただ、それ
が無くなり次第、ベタベタラブラブしそうである意味怖いのだが。…いや、想像しなかっ
たことにしよう。
 だって二人がベタベタしてたら際限なさそうだし。
 空っぽと底なし。なら、その愛情行為は永遠だとかなんとか。
「ところで――」




「くきーーーー!! 先輩はこんなところで美綴先輩と会う約束をしていたなんて不潔で
す!!」
 視認したくないほどの黒い気配を持って桜は悔しそうに呻いた。会話しているはずの彼
我との距離、数にして五十メートル以上。障害になる人やワゴン有。あんた相性悪いから
視力強化とか出来ないはずでしょ、とか突っ込んでみるが効果は無し。私は視力強化しな
いと見えないからこの子の視力が気になる。ああ、アフリカの狩人ってこれぐらいは大し
たことなかったっけと一人納得する。
「約束て、あんた、イリヤがここに来たがってて来たのは知ってるでしょうに。というか
二人を追跡するのとかは止めなさいよ。自分だってされたら嫌でしょうに」
 脱力する。これぐらいの執念とかいろいろあったら何か別の方向に使えたら良い方向に
向くでしょうに、負の方向にしか使えない桜の将来が危ぶまれる。いや桜ごめん何も考え
てないわよ。
「――まあいいです」
 一瞬桜が圧倒的優位に立った獣のように見えた。…姉の威厳は?
「ところで何で姉さんは付いて来たんですか?」
 邪魔です、という雰囲気をありありと滲ませて言った。そりゃあ――
「あんたのためを思ってのことよ」
 微笑んで言うが嘘。全身全霊を込めて嘘。というか冬木のセカンドオーナーとしては桜
が暴れることにより発生する被害のほうが怖い。ことが起これば民間人が巻き込まれる可
能性は限りなく百%に近いし、桜がことを起こさない確率はこれまた限りなく零%に近
い。だったら最初から付いて回ったほうが安全というものだ。この場合私の安全が含まれ
ていないのが悲しいといえば悲しいけど、これって仕事なのよね。桜が暴れた後はぺんぺ
ん草一つ生えませんってことにもなりかねないし。
「姉さんも先輩のこと気になるんじゃないですか?」
 偉そうな桜。勝ち誇ったように反らした大きな胸が視界に入るたび腸が煮えくり返
る――じゃなくて。…うん、胸の大きさは女性としての勝利じゃないものね。ちょっと自
分を慰めてみる。
「まあ、気にならないといえば嘘にはなるんだけど。桜ほど差し迫ったものでもないし
ね」
 結果として衛宮士郎が人類の守護者にさえ成らなければいいのだ。
 あの大馬鹿者な士郎を、氷室さんが終生まで面倒を看てくれて、彼のあり方を変えてく
れれば良いのだが、もしそうでなければ私がするしかない、うん、私しかいないと思う。
…あれ?
「姉さんが私と先輩の邪魔をしなければ私としてはいいんですけれど…あ、氷室さん惚気
てるし。あぁ、先輩まで――ぐぬぬぬ」
 我慢してる(らしい)桜の表情はまるで鬼のよう。…怖いにも程がある。あ、子供泣い
た。
「ねえ、ちょっと――」
「淑女としての嗜みが足りないんじゃなくて? サクラ」
 そうそう――ん?
「何ですって姉さん――ってイリヤちゃん?」
 いつの間にやら私たちの近くまで来ている白いちみっ子。
「だってこのままじゃあんたたち見つかるわよ。…桜なんてどす黒い妖気が迸ってるし」
 汚い物でも見る様に目の端だけで諸悪の根源をチラッとだけ見るイリヤ。確かにその判
断は間違っていないだろう。いや、妖気がなくても発見されてしまうだろう。だってこの
付近では子供の泣き声の大合唱が始まっているのだから。正直耳が馬鹿になりそう。あ、
イリヤは魔術で耳を防護してるし。
「迸るって…せめて表現を抑えて溢れ返ってるぐらいにしとかない? 一応あれでも私の
妹だし」
 一応。最近成長目覚しく、黒化が夥しいが。
「サクラもこっちに来て話し合いに参加しなさい。このままじゃ引き下がれないで
しょ?」
「……そうですね。あんな雌狐に先輩を渡すわけにはいかないですもんね」
 一旦理性が勝ったのか、やや黒いまま微笑んで会話に参加する桜。子供たちの合唱もも
う聞こえてこない。つーか皆悉く店から逃げ出した。トラウマになったかもしれない。合
掌。
「じゃあ私が作戦を提案するわよ、サクラ、リン」
 いいかしら、と持論を展開するイリヤ。
 要するにイリヤが妹をアピールして士郎に張り付いちゃおう、ということらしい。それ
ならこれ以上氷室さんと士郎が接近することはなかろうとのこと。会話も念話で筒抜け、
と。
 サクラはなんだかんだ言った挙句大した案は練れなかったようで、イリヤの提案に飛び
ついたようだ。…ほう、話を信じる限りは悪くない提案だ。これからのあの二人の予定は
イリヤによって筒抜けになるし、話の腰を折ったりして士郎に張り付いていてもらえれば
いい雰囲気に発展することも無いだろう。後は桜の決断次第だが…。
「分かりました、その辺りが妥協点でしょう。私もオトナになりました、だから多少は引
くこともします」
「それでいいのね?」
「ええ、ただし、計画が破綻した場合、私も何らかの手段を講じるでしょう」
「抜かりはないわ」
 えらくすんなりと提案は通ったようだ。イリヤは作戦に戻るとばかりに駆け足で二人の
元に去っていく。…というかまさか桜が提案を呑むとは。私もびっくり。桜も胸の大きさ
だけじゃなくって少しは人間的に成長してたのねぇ。
「くくく、先輩は誰にも渡しませんよ。イリヤちゃんも…オトナは信用してはいけないの
にね。可哀想に」
 あれ? 成長したにしてもベクトルを間違ったみたい。
 つーか可哀想はある意味桜じゃないかしらと思考。まあ、発言は身の安全のために控え
るけど。
 …まさかトチ狂って私が酷い目に遭ったらどうしよう。まさかそんなことはしないわよ
ね…私姉だし。布石だけは打っておくか。万が一のため。…保身じゃないわよ、市民の安
全のため。うん、そう。
 そうやってやや恐怖によって理論武装をしながら私は手の中に中堅の宝石を滑り込ませ
た。




「…そろそろ集合時間が近づいてきたようだ。会計を済ませるならば済ませて店を出ない
と」
 気付けばそこそこな時間が経過していたようだ。今ぐらいから行動を始めないと約束の
時間に間に合わなくなってしまう。
「そうか、じゃあ会計にせよなんにせよ手早く済ませないとな。イリヤ、それを買うの
か?」
「うーん、まあ今度でいいや。荷物が大きいしまたゆっくりここに寄りたいし」
「そうか。美綴、時間を取って悪かったな」
「いやいや、こちらこそ。また御贔屓をよろしく」
 手を振って美綴嬢と別れる。そして時計を見た。
「じゃあ二人とも急ごうか。氷室、集合場所は?」
「こっちに新しく出来た店だ。急ごう」
 さり気無さを装って出した手は別の手によって握られた。イリヤ嬢だったか――が二人
の間に入ってまるで(先ほどの美綴嬢の発言を借りれば)親子のように。…まあ、これも
よかろう。
 私たち三人は仲良く目的地に向かって足取り軽く駆け出した。

「…やるじゃない、ちみっ子」
「先輩と氷室さんイリヤちゃんを挟んで親子みたい…なんて羨ましい!!!」 
 善人二人はそんな光景が自分たちの後ろで展開されているとは露知らず、通行人だけが
その惨状を目撃し、悪夢に悩まされることになる。




 指定された集合場所は新都の一角にある最近出来た落ち着いた雰囲気のカフェだった。
華々しく飾られた写真付きの立て看板や、会計所に並べてある持ち帰り用のケーキには色
とりどりのケーキやら何やらが所狭しと並べられていたことからどうやらスイーツに力を
入れているらしい。ぉぉ、どうやら今日は二千円ぽっきりで時間無制限の食べ放題の日ら
しい。…おそらくこれは蒔寺の趣味だろう、どちらかと言えば質より量を取る奴ではあっ
たがもしや山ほど(比喩無し)食べる気じゃなかろうか。…食べ放題とはいえある程度は
節制せねば太ることは目に見えているので私はあまり食べる気はないが。ああ、というか
別にケーキ食べ放題を選択する必要はないのか。昼ごはん食べてないし。
「ねーねーシロウ、食べ放題ってホント?」
「そうだけどあんまり食べ過ぎるなよ。昼食はまあケーキで取ったとしても夕飯にまで響
かせるのは健康に良くないから」
 分かってるわよ、などと軽い応酬。今はまだそこまで気軽にスキンシップを取ることは
慣れていないが、将来はそういうふうにやってみたいと思う。
「……ふむ」
 凄く良い。
 チャンスさえあれば明日にでもやってみたいものだ。いやいやまだ時期尚早かしかし女
性にそういうことをされれば男性というものは基本的に悪い気はしないはずああでも私も
まだそういう風に付き合うには熟練が足りないというか覚悟ができていないというか。
「…氷室、どうした。顔が赤いぞ」
 熱か、などと掌をおでこに当ててくる衛宮。
 いやまて私は熱なんかではないがそんな風にされたら顔が赤くなってしまうのは確実で
というかこんなお約束する人間今時居ないだろうが。
 ――混乱中。
 …落ち着け私。敵は一体だ。固体識別名、鈍感とうへんぼく一号衛宮。お得意の鈍感魂
で私が予想しないことを容易くしてくるぞとかなんとか。全く落ち着いてないぞ私。
 とりあえず大丈夫だということを伝えようと衛宮から一歩離れて掌をひらひらとさせ
る。
「もう、シロウったら淑女の扱いを知らないんだから。ちゃんとエスコートしなきゃ」
 ほら、あのエーデルフェルトの時みたいになどと含めるように言った。衛宮はそれを聞
くと瞬間、むむっとした顔になったが一呼吸継いで、こちらを見据えぴんと背を伸ばし
た。
「お嬢様、席はあちらとなります」
 まさに最上級のエスコート、文句などつけよう筈もない。周囲からはなにやらよく分
かっていないようだが、おお、という小さな喚声が起こる。その無駄のない仕草にドキッ
としてびっくりもした、が。
 ――それは恋人にする所作じゃなくて執事の動作だ。
 そんな叫びを心の奥底に封印した。だってそれもまた彼の素で、突っ込んだって私には
説明しきれないと思ったから。……いや、その格好の良さには正直グッと来たけど。





「ちょっと手洗いに行ってくる」
 やや気だるげに席を立つ衛宮。や、流石にファンシーショップに二時間近くいるのは厳
しいか。男だし。カップルだけど私も苦手だし。彼に視線が集まってたし。…少しむかむ
かする。
 そう考えてしまってから思考をこちらに戻す。流石に目の前にイリヤ嬢がいるのにも関
わらず意識を彼女から長時間外すのは好ましくないだろう。
「それで、ヒムロさん――だっけ」
 その彼女が私に話しかけてきた。今までそんな事はなかったので純粋に驚く。あと、私
の名前覚えてもらってなかったのか。ちょっと寂しい。
「ふむ、言い難かったら鐘でいい。というよりもこちらで読んで欲しいがな」
 自分の苗字で呼ばれるよりも名前で呼ばれるほうが好きだ。それに、氷室と呼ばれると
群体としての一つの自分を呼ばれているような気がしてならない。…いや、単純にこの名
前の響きが好きで理由を後付している可能性もないではないが。……それにいつかは氷室
でなくなるのだし。うん。
「それじゃあ、カネって呼ばせてもらう」
 いくらか気軽そうに微笑む。その笑顔はとても可愛い。
「じゃあ、カネ。あなたは今シロウと付き合っている…そうよね」
 幾らか念を押すように、真剣な表情になって彼女はこちらを見据えた。
「ああ、そうだ」
「アナタは、シロウが――アナタの彼氏がつい最近までどういったところに席をおいてい
てどういったことをしていたのか知ってる?」
 知っている、けれどそれはあまり口外すべきでないということぐらいは分かる。それに
彼女のことや遠坂嬢のことも。
「――その顔、先刻承知って事。ふーん、シロウったらまた自分の置かれている立場も弁
えず安易に一般人に存在を明かして…まあいいわ。弟の不始末は姉が始末してあげない
と」
 やれやれと首を振る。目の前の少女は何者なのだろうか。背中を冷たい汗が流れる。…
一つ選択を間違えれば衛宮の隣には居られなくなってしまう、そんな確信めいた予測があ
る。
「…それは、どういう――」
「そうね、シロウに手を出す。愛しい弟に手を出そうとする女はお姉ちゃんがちゃんと選
別してあげるべきじゃないかしら。だからアナタが相応しいかを量るだけ」
「でもそれは――」
「確かにシロウの自由と言えばそう。けど、弟を正しい人の道から外さない為には必ず誰
か相応しい人が付いていなければいけないの、分かる? 彼の不安定なところがアナタに
も」
 分からないのであればそれで終わり、と告げるように彼女の目が細くなった。
「……彼には寄る辺がない、と思う。――飛びたいのに飛べなくて…でも本当に飛んだら
いいのか迷っている、まるで迷い子のような」
 でも彼は強いのだ。戦うということに対しては問答無用に強いし、その時とあらば迷い
は微塵もない。…でもそんな戦士も休むことなく動き続ければ倒れるのは目に見えている
のだ。
 分かってるんだ、と目を見開いて呟く。けれど次の一瞬には表情を戻して核心を突いて
きた。
「…アナタは、シロウを幸せに出来るの?」
 きっと最初からそれだけが聞きたかったのだろう。それは姉としてなのだろうか、それ
とも――
「――アナタならシロウを幸せにしてくれるの?」
 独りだったら加速してしまう。凛ではきっとその時を遅らせるだけ。桜ではもう止めき
れない。大河は止めない。私はその時にはもう居ない。でもあなたならもしかしたら――
 平和に。血に塗れた士郎に平穏を――その小さくも真剣な叫びはいっそ悲痛だった。
弱々しい小さな叫びだ。視界が悪い。こんな真摯な思いを見つめて、涙しそうになってい
るのだろう。
「――約束しよう。必ず、彼を私に縛り付けると」
 愛で。
 なんて陳腐でありふれた科白なのだろうか。けれど、この場では相応しい気がした。





「ねぇ、集合場所ってここで良かったよね」
「そのはずなんだがなー、氷室のやつ一体どこに座ってやがるんだ」
 店に入ってすぐのところで少し困惑気味なちっちゃな女性と待ち人が現れないせいで文
句を垂れる利発そうな女性が居た。ちっちゃい方の女性は懸命に辺りを見回しているが、
常人より少し背が低いのであまり効果がない。利発そうな女性のほうはどうやら自分から
探そうという気は無いらしく、ため息をついて立っているだけだった。
「ちょっといいかな」
「え?」
「――なんだ、ナンパならお断りだぞ、となんだ衛宮か」
 酷い言い草だ。
「二人は氷室と待ち合わせしてるんだよな」
「あ、そうです」
「…そういうあんたはなんでここにいるのさ。三人で約束していたはずなんだが」
 びっくり、と体全体で表現するように小さい彼女――三枝由紀香。対照的に快活な
方――蒔寺楓は妙に訝しい目でこちらを見てきた。なんか、悪いことをしただろうか。
「…なんでって。いや、単なる同伴だが」
 なんでと尋ねられても困る。もしかすると三人が揃ったらすぐに帰るからと答えたほう
が良かっただろうか。
 瞬間二人は凍りついた。ぽかん。そしてがびん。ころころと表情の変わる見てて楽しい
二人だとどこか遠い頭で考えた。
「…………」
「……いやそんな風に黙られても」
 困るとしか言いようが無い。
「いやだってあれよ。氷室っていったらこの三人の中で一番他者を入れなさそうっていう
かそういう発言をしていたような気がするんだがこれはどういうことって言うかこれは裏
切り!?」
 つーか何にも教えられてねえと些かご立腹。声でかい。
「楓ちゃん、別に鐘ちゃんはそんな風に思ってたんじゃなくて一緒に仲良くやろうねって
ことじゃないのかな。だよね、衛宮君」
 ああうん、と勢いに押されてつい返答してしまう。
 しかし蒔寺御立腹の原因は分かった。自分だ。今までこの二人と氷室で三人一緒にやっ
てきたなかに衛宮士郎という異分子が入り込んできたことに反感を覚えているらしいこと
が分かった。
 というかいつの間にか周囲から注目されているではないだろうか。不覚。
 しかしこのままでは、状況が非常に拙いものがあるので周囲になんでもないと愛想笑い
をひとしきり振りまいてからやや声を小さくして言葉を継いだ。
「兎に角席に行こう、氷室が待ってる」
 周りからの視線が痛いのでややこっそり、そして頭を下げつつ前に進む。
 後ろは怖くて振り返れなかった。偶に受けるとこういう場所の空気は戦場の殺気よりも
辛いのだった。





 帰りが遅いと少し疑問になってきた頃に衛宮は戻ってきた。後ろに蒔の字と由紀香を連
れているところを見るに、どうやら遭って時間を消費してしまったらしい。…ふむ、実に
勿体無い。折角衛宮のことを秘密にしておいて、イリヤ嬢とセットで見てもらい、その反
応を確かめて楽しもうと思っていたのに。
「悪い、氷室。少し遅くなった」
「いや、問題ない。イリヤ嬢とも有意義な時間を過ごせたし、偶には待つのも悪くあるま
い」
 少し微笑む。
「うわ、氷室マジだ。やってること分かってやってますって目。てゆーか私の目の前に居
るのは誰、ホントに氷室? その微笑なに? 冗談で席間違いましたなんてことない?」
 なんて言い草だ。いくらなんでもそんな反応はなかろうよ。たとえそれが滅多に見せた
ことない表情だったとしてもだ。
「蒔の字、それは私に対する挑戦と受け取ってもいいだろうか?」
 頭痛がする。微かに殺意すらこみ上げた。とそこに戦意を喪失させる由紀香が割り込ん
でくる
「うわー鐘ちゃんちょっと見ない間に綺麗になったねー」
「――ん、ああ。有難う。それとすまない、約束に無い人間を連れてきて。驚いたろう?
 …その反応が見たかったというのもあるがな」
「うわ、マジで。男同伴だし。っていうか今日の買い物に相応しく無くね?」
「そんなことなかろう、なんたって私が今後着る物なのだから彼の意見を参考にせねばな
らんところもあろうよ」
「そうだね。好きな人が出来たらその人の好みも知りたいだろうし、楓ちゃんだって別に
衛宮君が一緒に来ることについて反対は無いんでしょ?」
「いいんだけどさ、衛宮…大丈夫か?」
「きっと鐘ちゃんがなんとかするんじゃないかな」
「…そうだな。まあ、衛宮ガンバレや」
 お疲れ、とでもいうように肩を叩く蒔寺。
「……? まあとにかく座ろう、注文も取らないといけないしね」
 衛宮が店員を呼んで座る。元々座っていたイリヤ嬢の横――つまり私の斜め前。それに
続いて蒔の字が私の横に、由紀香が衛宮の横に座った。
 程なく可愛い制服に身を包んだ店員が注文を取っていく。珈琲二つにミルクティ一つ。
イチゴパフェにチョコパフェ。その注文者は推して知るべし。
「…で、結局のところなんで衛宮呼んだんだ? それにその子誰よ?」
「そうそう、鐘ちゃんが買い物しに新都へ一緒に行こうって声を掛けるなんて何があるの
かと思ってたけどこういうことだったんだね」
「まあ、呼ぶのは彼だけの予定だったんだがいろいろあってね。この二人と一緒に来るこ
とになった」
「俺が来るのは予定調和だったんだな…」
 私が彼らのほうを見ると衛宮は無言で頭を下げ、イリヤ嬢も洗練された動作で礼をとっ
た。やや衛宮は訝しげな目をこちらにむけていたが、今話しても仕方ないと思ったのか視
線を戻した。
「私の名前はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと申します。宜しくお願いしま
す」
「あ、ああ。イリヤスフィールね」
 蒔の字はどもって由紀香は凍った。
「そうだな、仲介者として皆を一から紹介しよう。こちらで冷や汗を流しているのが蒔寺
楓、そちらでぽかんとしているほうが三枝由紀香、二人は私の高校時代の親友だ。――そ
してこちらがイリヤ嬢。彼の遠戚で外国のお嬢様らしい」
「なにそれ。衛宮、お前ってもしかして凄い人たちと知り合いだったりするわけ?」
 それに続くように衛宮君凄いです、と由紀香。
「いやいや、単に親父がそういう人たちと付き合いがあったんだろう。……残念ながら俺
には分からないが」
「あ、そうか。衛宮って藤村先生が保護者だったっけ」
「っていうことは衛宮君のお父さんは…」
「うん、結構小さい時に」
 そうだったか、といささか語気を弱めて楓は呟いた。
 由紀香は目に見えてしょんぼりとした。きっと安易に、凄いですなんて発言しなかった
ら良かったと落ち込んでいるのだろう。
「気にするなって。親父がいなくなってからも藤村の爺さんがいろいろ助けてくれたし、
藤ねえもいつも気に掛けてくれたから寂しくなかったし」
「へー。衛宮にはそんなさり気無く重い過去があったのか。いつもへらへらしてる衛宮の
ことだから何不自由なく育ったただのアホみたいな印象持ってた」
 どんな印象だ、一体。
「衛宮君も大変だったんだね」
 彼の苦しい立場だったのを思い、由紀香が心底納得したように力強く頷いた。だからあ
んなに優しいんだ、って。
「まあそれは言い過ぎにしても衛宮君を連れて来るとは思ってなかったよ」
 どこにも特別共通点無かったし、と重くなってしまった空気を無理矢理弾き飛ばすよう
に言い放つ楓。
「まあ、買いたいものもあることだしな」
「げ、本気で連れて行く気か」
「……連れて行って大丈夫?」
 もしかすると二人には、私と並ぶと彼がバランスが合わないということだろうか。私と
しては大変満足のいく相手なわけだ。嘗ては意識していなかった彼の顔も今見ると…精悍
な顔つきでとても格好良いと思う。ほら、筋肉の付き具合にも無駄が無いし。
「――うわ、目の前で言葉も無しに惚気やがるし」
 む、そんな熱い視線を送っていた覚えは無いのだが。
「……つーか違う。そういうことを言ってるんじゃなくてだな、今日行くところっ
て――」
「まぁ、それを含めて楽しもうと思っているのだからそれを潰そうとするんじゃない」
 その言葉に二人が渋い顔になる。
 今度はため息をつくように衛宮君も大変だね、と小声で由紀香。
「こいつは鬼か…。彼氏の慌てふためく姿を楽しもうとするとは……あんたも変わらない
ね」
 その会話の意味を、衛宮は理解しているのかいないのか眉を顰めている。
「そうか? 蒔の字も恋をしてみると人生変わるぞ。幸せな恋をな――ああ、そうかすま
ない。恋をしようにも相手が居ないんだったな、失敬」
 ニヤリ笑いで追撃。わお、と私の突如の爆弾発言に由紀香が顔を真っ赤に染める。衛宮
もびっくりしたような顔を真っ赤にして口をパクパクとさせている。
「うわーん氷室の馬鹿野郎ー私がこの前失恋したのを知りつつその発言、お前は鬼
だーーー!」
 私はお前を信頼して相談したのに覚えてやがれー、とドラップラー効果を残しつつお手
洗いに退場。ああ、そうだったな。私は幸せすぎて忘れてた。可愛そうに蒔の字。あ、そ
うだ。
「蒔の字、女性に野郎は相応しくないぞ」
「つっこみどころはそこか?」
 とりあえず居ない蒔の字の間違いを指摘。意味無いが。
「……蒔寺大丈夫か?」
「……えーと、あの、とにかく楓ちゃんが帰ってきたらショッピングに行きましょうね、
鐘ちゃん。それに衛宮さんにイリヤちゃん!」
 ああ蒔寺ってこんな奴だったんだなぁと妙に感嘆する衛宮と、気まずそうに会話を続行
しようとする由紀香。とそこに、知らない相手ばかりだからなのか今まで黙り込んでいた
イリヤ嬢が口を開いた。
「それで、買い物ってどこを回ることにしてるの?」
 勿論楽しみを減らしたくないので大筋を話すだけにした。





 脱兎のごとく場を去った蒔寺楓は重い足取りで元居た方向に歩いていた。やや好奇の視
線が痛い。ある程度まではなれっこだが。
「あーあ、氷室も本気の彼氏が出来たかー」
 しかも本命。あの目は結婚を考えてる目だ。しかも恋に恋してるという暴走状態。私に
なんか止められるわけ無い。別に衛宮は悪い奴じゃないだろうし止める必要も無いと思う
が。
「しかし私たちが入ってから客が減ったような気がするんだけど――げ」
 視線の向こうの席に見覚えのある顔。それは完璧超絶お嬢様の遠坂凛だった。
 以前から変わらぬ彼女は、見るからに疲れましたという風に椅子の背もたれに身を任せ
ている。
 …隣の黒い気配を放ってる人は知らない。きっとあったことも無いだろう。
 今はそんなことを考えるべきではない。単に彼女らがこの店に入ってきているだけなら
ば私が知ったこっちゃ無いが、遠坂の向かい側にいる女の――地獄の業火から這い上がっ
てきたような――ドギツイ視線を送られているのが(さっき微妙に裏切られたが)親友氷
室鐘とくれば黙っているわけにもいけない。
「せーんーぱーいーのーうーわーきーもーのー」
 奈落の底から直接響いてくるような怨嗟の声。即座に膝が笑った。もしこの声を出して
いるのが目の前に居る人間でなく幽霊だったらどれだけこれからの生活安心できただろう
か。知らなければいいことなどいくらでもある。
「…何者だありゃ」
 呟く。本能が彼女と目を合わすな逃げろと警鐘をガンガン鳴らしている。
「ね、桜。頼むからもう少し隠密行動出来ない?」
 絶対ばれるから、とりあえず落ち着いて。
 制止の声。しかしどうやらその願いはどうあっても聞き入れられる様子は無い。出来れ
ば揉め事無く消えて欲しい気が満載なのだがそうもいきそうに無い。
 今にも枯渇してしまいそうな勇気を振り絞って一歩一歩源流に近づいていく。
「もう、我慢、できません」
「――なあ、あんたどこの誰だか知らないけどあたしの親友に危害を加えるなよな」
 言って即座に反転して立ち去る。
 格好いい、決まったとでも告げるように。
 その後方にはポカンとした二人の女性が残るのみ。
 言った蒔寺さん内心マジビビリにより競歩のような早足早足。立ち去ったというか単な
る逃走。
 早くここから立ち去るように皆に提案しよう、そう深く誓った。





「……あー」
 去った蒔寺を見遣りながら遠坂凛はこめかみを押さえた。
 見つかった、というか今まで見つからなかったことのほうがおかしかったような気がし
ていたがそれはまあ思考から除外する。
「……」
 ぽかんと口を開けて固まる桜。
 どうしようかなぁ、と内心ため息をついていた彼女の目の前で黒かった人が、突如全身
を震わせた。
 混沌とした暗い色から白を通り越して病的な真っ青へ。
「――ど、どうしよう。もし、告げ口されちゃったら、わ、私、先輩に嫌われちゃう」
 いや、そんな突然理性を取り戻されても。
 おろおろとし始めた妹を前に彼女は更に頭を抱え込んだ。

 というのも、と凛は朝を思い返す。あーそーいえば表面に出ない戦争があったなーとど
こか遠い出来事を眺めるように呟いた。

「今日は衛宮付き合ってくれるか?」
 始まりは唐突だった。久しぶりに不肖の我が弟子の作った朝ごはんを食べていて、料理
のあれこれを採点しつつ舌鼓を打っていた私の平穏は、あっさりと崩壊の不協和音を奏で
た。
 食べ終わった直後らしく、口をハンカチで拭って彼女はなんでもないことのように切り
出したのだ。
「分かった」
 コトリと自らの茶碗を置いて一も二も無く頷く士郎。ま、そりゃそうだ。二人は付き
合っているのだから休日ぐらいは共に過ごしたいと思うのが女心だろう。
「それはよかった。というのも今日は由紀香と楓の二人と喫茶店で待ち合わせて買い物に
行く予定だったのだが、少し付き合って欲しいのだ」
「え、でもそれって二人に悪くないのか。三人でという約束だったんだろ?」
「いやなに、二人には話してあってな。一緒に行ってもいいというから来てくれない
か?」
 勿論話してあるなんてことが嘘であることもこの時点の私たちは知らない。
「それなら問題ないか。うし、いくよ」ずず、とお茶を啜りながら黙考したあと彼はそう
答えた。
 迷いのない答えが嬉しかったのか満足げな氷室さん。
 それが面白くなかったのは(あまり認めたくないが)最近めっきり黒くなってしまった
我が妹である。
「へえ、どこへ行くんですか、それ」
 隠し切れない殺気とか嫉妬とかがじんわり桜から染み出している。正直士郎を取り返し
たかったらこれ以上黒くならないほうがいいと思うんだよねー。いまさら聞き入れられる
とは露ほども思っていないんだけど。
「なに、秘密だ」
 ニヤリと氷室さん。うわーさくらのしんけいさかなでしてるー。
「約束は午後だし一緒に新都でウィンドウショッピングと洒落込もうじゃないか」
 ピキピキとなにやら怪しい音。
「ああうん、それもいいな。天気もいいし二人で公園の散策なんてのもいいな」
「先輩、その用事が終わったら夜ご飯の買出しを手伝ってもらえませんか? ちょっとお
米とか重いものが多くて私一人じゃ持てそうにないんですけど」 
「ええと――「いや、その用事は私達・・が受け持とう…なに、私とて買い物が出来
ぬわけではない。そうだろう、士郎?」――えっと……だそうだ」
 士郎の言葉を遮って口上を述べるかの如く氷室さん。こんなところで士郎なんて滅多に
呼びかけない呼び方で呼ぶ辺り相当狙ってる。士郎はやや顔赤いし。
 みし、と致命的な音。
「どうかしたのか、桜嬢。士郎の話ではいつも落ち着いていてとても心の優しい、何でこ
こまで良くしてくれたか分からないぐらい出来た後輩だそうじゃないか」
 きっと人の邪魔をするようなことはしまいと氷室さん。…まさかこの後の布石として釘
刺してない?
「…そりゃそうだ、桜は人様に迷惑かけるような子じゃない。それに俺なんかじゃとても
とても桜には吊り合わない」
「……!?」
 がびんと桜。よもやそんな風に思われていたとは。
「――こら、なら私は桜嬢と比べてそんなに分が悪いか?」
「いやいやいや、鐘は桜と比べても遜色は無いし。すらっとして凄い美人だし。別にさっ
き言ったのはそういう意味じゃないけど」
「……む、そう言われると嬉しいが、桜嬢と比べられる辺り、嫉妬を感じるな、私は。」
 私を基準にしろ、と言外に匂わせる氷室さん。とんでもない口説き方だと思う。本来立
場が逆だと思いかけたが士郎は士郎だし、元々受身の人間だからこれぐらいが丁度いいの
かもしれない。
「…じゃあどうしたら許してもらえるかな?」
「なに、容易いことだ。私の気が済むまで今日付き合ってくれればいい」
「そのぐらいなら確かに容易い。ああ、とことんまで付き合うよ」
 ぶちーん。
「…………」
 わなわなと怒りに身を震わせる桜。…逃げようかしら。
「そうと決まれば話は早い。…今から家を出て軽い運動として新都まで歩いていこうじゃ
ないか」
「…今から? まだ食器も洗ってないし…せめて片付けぐらいしていかないか?」
 そうか、なら二人でさっさと済ませて手をつないで歩いていくとしよう。などとおっ
しゃる氷室鐘。
 恐ろしい。なにが恐ろしいかといえば恋愛探偵の変わりようもだし、桜の後ろから吹き
出る黒い陰もだ。
 士郎もその申し出に心ときめくものがあったらしい。いそいそと片付けの準備を始め
る。
 恐らくこの後展開されるほの甘い空間に耐えられないのがわが妹桜である。うん、悔し
いのはわかったから私に当たるのはやめなさい。ほんとに。
「いいわ、士郎。洗い物は私たちがやっておくからさっさと行っちゃいなさい」
「いいのか?」
 やれやれとため息を吐きながら早く行きなさいと視線を交わした。
「美味しいご飯を貰ってるんだから偶には働くわよ。…それにあんたらの桃色空間に居合
わせるこっちの精神的苦痛にも考慮なさい」
「ありがたい、遠坂嬢」
 帰りに何か旨い菓子でも買って帰る、と私にそう言って二人は部屋を出て行った。
 やっとやたらと重いプレッシャーから開放される、と安心したが流石はいつかの士郎曰
く底の知れない女氷室鐘。アクシデントは私の予想の斜め上を行っている。
 二人の足音が消えていく戸を隔てた少し向こうで、
「ああ、それとさっきの答えに質問させてもらおう。あれは、最後まで、か?」
 なんて声が私の耳にまで聞こえてきたのも計算済みだとは思いたくないものだ。
「……姉さん」
「な、なによ桜」
 突然の矛先に私はたじろぐ。いやなにちょっとそれはないでしょ。
「私も服を買いに行きたいんですけど、姉さんも一緒に来て頂けないでしょうか」
「あ、うんうん。分かった分かった分かった。分かったし一緒に行ってあげるからも少し
クールになりましょ。そう、冷静に。」
「私ですか? やだなあ姉さん何言ってるんですか私はとっても落ち着いてますよほらこ
んなに笑えてるし虫倉で受けたことを思えばなんでもありませんうふふだから大丈夫です
よ」
 …巻き込まれた。

 とまあそういうことがあったわけだ。
 で、見事刺しておいた釘が錆付いて桜を封じている、と。
 予想通り策士だなー。なんて回想してる間に、
「あ、いつの間にかいないし」
 五人は私たちの視界から消えていたのだった。





「…………なんで」
 こんなところに、と衛宮士郎は心の中で泣き崩れた。哀れ女の園に放り込まれた朴念
仁。今日も正義の味方は周りの空気と戦っています。
 誰あれ、って視線がちくちく刺さります。彼女の傍にいない彼氏は常に視線に晒される
事を理解していなければならない。女性客が殆どの店。しかも更衣室の前。だってそこ
は――
「下着屋さんだもんね」
「由紀っち…今時下着屋さんって表現はどうかと思うよ、私は」
 更衣室の前で黄昏ている某正義の味方からやや離れたところで二人は商品を物色してい
た。
「あーあー。もうなんか今直ぐ穴があったら入りたいって顔してたのに、いまや完全に諦
め切ってるし」
「…衛宮君大丈夫かな」
 そう思うのであれば助けてやれと思わなくは無いが悪気が無いのは三枝由紀香嬢らし
い。もちろん蒔寺に至っては困っているところを楽しんで眺めているのだから悪趣味には
違いない。
「しっかし氷室もなんでこんなところにヤツを連れて来るのかねー」
「ほら、多分こういうときにどさくさに紛れて連れて来ないと一緒に来てくれないから
じゃないのかな」
「そうかなー。あいつなら衛宮ぐらい丸め込んでここに連れて来るのは簡単そうなんだけ
どなー」
「あ、じゃあ今日は私たちが一緒だから衛宮君の可愛いところでも見せようとしたのか
な」
「えー、そりゃないだろー。もしかしたら単に気紛れで連れて来ただけなのかもしれない
し」
 悩む二人。そんなこといってる暇があったら助けてくれと士郎の視線。ひらり、楓は気
付かない振りをした。ぶぶー、三枝は気付かなかった。あうち。
「まだか…」
 早く出たい、と心から士郎は思ったものだがそれはそれとして氷室の下着姿というのも
見たいのは事実だ。…が、彼女のことを考えると同時に、時計を見て少し出てくるのが遅
いと思った。
「…衛宮」
 こっそりと氷室の声。
 にょき、と更衣室から飛び出した手がこいこいしていた。それに釣られる幽鬼ようにふ
らふらと近づく。
 気を落ち着かせろ衛宮士郎、研いだ硝子の心は何のためか。それは平常心、常に冷静に
戦いのなかで生き残るためにあるのだ。此度の戦場は女性用下着売り場されど戦場に対す
る前知識無し及び経験の不足が問題というか氷室が美人で平常心は無理っていうかなぜ俺
はこんなところに!?
 ぜんぜん落ち着いてない正義の味方はついに戦場の目の前に立った。
 深呼吸を一つ、二つ。愛しい彼女からの声を待つ。
「…開けるぞ」
「……ああ」
 長い、ちょっとした空白の一秒一秒ですら長い。別段長い時間を待っていたわけでない
のに、瞬間瞬間すら焦らされているような感覚。
 そして――――開戦。
「士郎? ――どうだろう、か?」
「…参っ――た」
 黒だった。その色一色のガーターがとんでもないぐらいに彼女の肢体の美しさを引き立
てていた。
 氷室鐘。花も恥らう恋する乙女驀進中。彼氏のためならちったぁ際どい下着もなんのそ
の。
 しろうはまひしてしまった。…しろうはぜんめつしてしまった。




 やれやれ、と士郎はため息をついた。
 店を出ての第一声はそれしかなかった。店内の空気は居辛いし、他人からの視線が痛い
し、意識が飛んで戻ったらイリヤはいないしで士郎は疲労が溜まっていた。どうやらイリ
ヤ嬢、愛しの弟が氷室嬢に悩殺されたと知るや否や機嫌を損ねて、一言添えた後帰ってし
まったらしかった。
 今日も今日とていつものことだが、士郎は氷室嬢には振り回されっぱなしだった。
 聞けば彼はどうやら彼女が狙ったとおりの反応をいつも返してしまうらしい。
 思わず呟く。落ち着け自分、そして進歩しろ自分。
 歩いきながら談笑していたとき、ふと士郎は隣を歩いていた氷室に尋ねた。
「氷室、お前って結構人のことからかうのって好きか?」
「…ふむ、考えたことも無かったが衛宮との会話などを省みれば、そういった嗜好が全く
無かったと言えば嘘になるな」
 やや驚いたように氷室は返した。
 いまさら気付いたようだったが彼女はいじめっ子らしかった。それも自分との相性問題
で言えば、赤いのとか白いのに勝るとも劣らぬほどである。
「でもでも、鐘ちゃんってそんなこと私達にはしないし、そういうことをするって聞いた
こと無いよ?」
「いやいや、由紀っち。もしかしたら私らが気付かないところでからかわれてるかもよ」
「そんなことないよ。鐘ちゃん、家の弟達にも優しいよ」
「あれ、そうなのか? じゃあ違うのかな」
 氷室いじめっ子疑惑について討論を始める外野二人。どうも相棒の会話によって話題が
それていることに蒔寺が気付く様子も無い。…わざとか?
「私とてそんな嗜好が元よりあったつもりではないのだがな」
 やや憮然と呟く。
「ま、それももしかしたら素の氷室鐘かもしれないってことだろ。…いいんじゃないか、
それも。そんな一面も含めて俺は氷室のこと好きだし」
 すっきりとした様子で、士郎ははにかむように微笑んだ。
「……」
「……」
「……」
 突如として立ち止まり、三人は唖然とした様子で彼のことを見つめた。もちろん今話し
ていたことなど蒔寺と三枝嬢の頭からはすっかり消え去っている。
「…なんだよ、そんな鳩が豆鉄砲くらったような顔して。変なことでも言ったか?」
 いつものように士郎は愛想の無い表情に戻る。
 珍しいことに一番最初に言葉を発したのは三枝嬢だった。
 うわ言の様にうわぁ…と呟いて、
「いいなぁ、鐘ちゃん。私もこんな風に言われたいな…」
 夢見るように空を見上げた。
 蒔寺は正気に戻るや真っ赤に染まった顔を抑えるように手で覆うと、
「うっわ、超ありえねー。この馬鹿すげーありえねー。何だよお前らは、年中熱々のカッ
プルかっての」
 そうぼやいた。なにやら複雑な顔で言葉を結んだ蒔寺の発言を拾って士郎も呟く。
「いや、そうなりたいとは常に思うんだけど」
 驚くこと無かれ、この男、他人のぼやきに真っ直ぐ返答する男である。故に、だからこ
そ士郎の言葉は彼女に強力な追撃となった。
「……ちっくしょー、ぼやきにまで突っ込んで惚気るとはなんという恐ろしさかー。く
そー私も恋がしてー。周りに惚気倒すような恋がしてー」
 吼えた。けれどその叫びは当の氷室氏には届くことはない。なんでかっていうと本人は
未だに顔を真っ赤にしたまま吃驚した表情で佇んでいたからである。
「……鐘、さっきから黙ったままだけど大丈夫か?」
 狙ったように名前呼び。日ごろ苗字で呼ぶ分そのなかには愛情成分が多めに含まれてい
ます。
「え、あ、ぁ、ちょっと待ってくれ士郎。そう、私達には時間が必要だ」
 士郎の心配そうな視線に気付くと、わたわたと慌てだす。なにやら発言が怪しいです。
真っ赤にした顔を見せないように後ろを向くと、おかしくなってないか服装チェック。そ
して服装に乱れが無いのを確認すると自らを落ち着かせるように目を瞑って深呼吸。い
ち、に、さん。
「……全く、末恐ろしいな、君は」
 振り返り、やや戻った顔色で嘆息するように彼女は言った。けれど反撃開始。無言で士
郎の腕を取り、組む。今度は士郎が真っ赤に硬直する番だった。
 そんな二人を見て思わず、
「…私はあんたら熱々カップルが末恐ろしいと思うね、絶対」
 冬木の黒豹(自称)は大層げんなりした様子で呟いたそうな。





 一日と言うものは途方もなく長くて、かといって楽しければ楽しいほど短くて。
「今日は珍しく動き回った気がするな」
 四人で夕陽を背にして帰り道を歩いていた時、まるで学生だったあの頃に戻ったみたい
だ、と彼女は呟いた。
 なにがあったかというと、蒔寺楓による突然且つ唐突で何のノリだかわからなかったけ
れど四人はテーマパークに特攻していたのだった。どうやら惚気られた精神的打撃が効き
すぎてヤケに走ったらしい。
 むしゃくしゃしたから今日は暴れるぜー、なんて蒔寺が提案したのに俺と三枝さんが
乗ったのだった。氷室だって最初はため息をついていたのだけれど、皆で会場を荒らし
回っている内に殆どが苦笑いだったけれど笑っていたのだ。
 ジェットコースターに乗って三枝さんがふらふらになったり、
 行こうと言い出した蒔寺が一人だけミラーハウスで迷いまくったり、
 多分強そうだと思っていたらやっぱり氷室はお化け屋敷で冷静に配置などを分析してい
たり、
 恋に恋している氷室がメリーゴーランドに二人で乗りたいなんて真顔で言い出したり、
 職員になって働いている後藤君に遭遇して笑いあったり、
 四人で乗るはずだった観覧車に二人で乗せられたり、本当にたくさんのことがあった。
「こんな一日、もう二度とないかもしれないって言うほど楽しかったな」
「かもなー」
「ですねー」
 四人とも同意する。
「…なに、まだまだ我々には時間が有り余るほど存在する。私たち三人の友情と私と衛宮
の愛情が続く限りこんな機会もあるだろうよ」
 柄に無い発言を寧ろふてぶてしい態度でしれっとする氷室。
 お、鐘っちも言うねーとばしばし背中を叩く蒔寺。
 それを微笑ましそうに眺めている三枝さん。
 確かにそこには幸せがあった。
「どうしたの、衛宮君?」
「……あれ?」
 頬を伝うものがあった。きっと目の前に自分には分不相応とも言えるような温かな光景
があった。
 きっと家庭というものに理想というものがあるんだとすればきっとこのような温かさな
のだろうな、と。
「おおー、なんか熱血馬鹿が泣いてるー」
「こら、人の想い人に熱血馬鹿などという呼び方はやめんか。冬木の野生の獣とは言え許
さんぞ」
「うわ、鐘っちが自分で想い人とか言った。恥ず、マジ恥ずい」
「…こいつは」
「二人とも楽しそうだね……」
「ああ」
 そんな、二度と忘れられない日常がここにはあった。
「三人とも仲がいいな」
 きっとこれ以上ない親友なのだ。だからこそ自分のことが異物に思えてしまう。でもそ
れは――
 べし、と背後からの攻撃が頭に当たる。
「痛」
「なんて顔してんだよ、衛宮。あたしらから鐘っちを奪っていくんだからもっといっつも
幸せそうにしてろっつーの。そんで仲良くやるんだよ、周りが嫉妬するぐらいに。あたし
らの親友を悲しませたらぜってー許さないんだからな、…こんの馬鹿スパナが」
 古い愛称――らしい名称と共に激励の言葉。
「わかったよ。…ありがとう、蒔寺」
 へ、と言い捨ててそっぽを向いて離れていく。
「なにか衛宮と話してたのか?」
「なーんにも。鐘っちはやらねーぞって言っただけ」
「…何を言っているのだ、お前は」
 氷室はいつものように憮然とした顔で蒔寺と相対し、蒔寺はいつものようにカラカラと
した笑みを浮かべていた。





 家に帰って一言。
「あれ、なんで遠坂そんなにしんどそうなのさ?」
「…気にしないで」
 相対するのは怒り狂った桜を宥め賺して帰宅に漕ぎ着けた遠坂嬢である。すっかりやつ
れた様子であるのだが生き残れたのも彼女が超一流だからである。すごいぞ名門頑張れ天
才。




 丸一日氷室たちと遊びまわった帰りのこと。
 家には憔悴した赤い悪魔一体と、空腹の虎が一匹。
 後者は飯を食ったら何時も通りでした。
 なぜあの赤い悪魔がここまで衰弱していたのでしょうか。流石に心配になったので食
後、生理なのかと訊くと突然怒鳴り始めて――(以下がこれでもかというほどに塗り潰さ
れている)
                         衛宮家の家計簿、メモ欄より




「ん? 士郎ーこんなとこで寝るなんておねーちゃんは許しませんよ」
「…いや、藤村先生。流石に衛宮といえどこんなところで寝たりはしないでしょう」
 士郎が住民に発見されたのは被害にあってから三十分以上後のことだった。
 風呂上りになにやら飲み物を物色しに来た虎と、古いものがたくさんある衛宮家探検を
終えて戻ってきた氷室の二人。検分によると、超強烈なボディーブローをくらったような
アザが、倒れ伏している彼の体には刻み込まれているようだった。
 やや心配そうに彼のことをどうするべきか悩んでいる氷室とは対照的に、虎は迷うこと
なく座布団を複数枚持ってきて、そのうち二枚を氷室と自分の足元に置くと、残りを彼の
体の上に乗せた。どうやら布団の代わりらしい。
「これでよしっと」
「多分良くないと」
「大丈夫大丈夫。士郎は頑丈だから。ま、そのうち起きるでしょ」
 よいしょと座りながら笑う。その裏表のない絶対の信用から来る笑顔が少しだけ悔し
い。
「…そうですね、っと」
 言いながら士郎の傍に腰を下ろし見下ろす。
「…ほんとに子供みたいな顔して寝てるでしょ」
 頷く。すると藤村先生はでも、と続けた。
「私はこの子のちっちゃい時から見てるから分かる。変わってない。寝顔が変わってない
の。いつまでも、いつまで経っても子供のまんま」
 それはどこまで彼のことを知っての発言だろうか。歳を取った。苦労を重ねた。醜いも
のを沢山見てきた。人から見れば悪いことも沢山した。けれど彼はまだ子供の時に夢見た
旗を眺めていて、未だに歩き続けていたのだ。私は知っている。けれど、
「肝心なことは何にも話してくれないんだけどね。ふふ、おねーちゃん失格かな?」
「いえ、良い姉だと。きっと衛宮もそう思っているはずです」
 それだけは違いない。どんなことが起こっているか、何を抱えているのかを殆ど知らな
いで。日々の緩やかな変化、それだけで彼の不調を間違いなく感じ取り心配している時点
で家族として充分だと思う。
「むー、なんか私よりも士郎のこと知っていそうな予感。会話に余裕が感じられるよ氷室
さん」
 ま、いいんだけどねと嘆息。
 私はふふ、とだけ返して彼の髪を撫でる。彼の気性を表すような真っ直ぐな硬い髪。性
格は髪にも影響するのだろうか、ほら、ワカメ髪の間桐とか。
「士郎はそういうことを話すだけ貴方のことを信用しているし大切に思っているのよね。
私は信用はされてると思うけど何があったか話してもらえないし、有事の際にも頼っても
らえない。姉の私も、士郎のお爺ちゃんですら、ヤクザ稼業なんて荒事を治める私たちに
だって相談してくれたことはない。……そりゃあね、士郎の心配事が私達にはどうしよう
もない、なんでもないことだったらいいんだけど。ほら、例えば氷室さんに嫌われそうと
か桜ちゃんに告白されたとかとかそんな恋の話だったら士郎が決めることだし」
「間桐さんに? それは困りますね。ここまで来て衛宮を取られたんでは私の将来設計に
関わります」
 そう言って笑い合う二人。
「桜ちゃんとも付き合い長いけど押しが足りないと思うのよね。だって高校の時から通い
妻みたいなことをしていたんだからリーチずっとかかってたわけでしょ」
 シロウが振り込むまで待つっていうのはおねーちゃんはいただけないなー、なんて昔を
振り返る先生。
「だとすれば先生はどうだったんですか? ずっと長い間。私たちなんかよりはるかに長
い間彼といたんですよね。ならば保護者という立場だったとはいえ、家族という役割だっ
たとはいえそういう情の類は湧いてこなかったのですか?」
 むー、と暫く考え込んでからやがて口を開いた。
「そりゃあ全く無かったとは言わないけど。…士郎は料理洗濯アイロンと家事全般にかけ
て上手だし、感情を表現するのも人付き合いも苦手な不器用だけど、優しくて自慢の弟
で」
 一般に人はこれをべた褒めと言う。
「でも気付いたらその性格のせいか桜ちゃんやイリヤちゃんや遠坂さんと仲良くなったり
家を間借させたりよく分からない外人さんやらなんやらが一時期住み着いたりでちょっと
八方美人過ぎないかなーと思ったり」
 …それは知らなかった。ぜひ後々追求させてもらおう。
「ホントだったら箱入り娘ならぬ箱入り息子にしてエリート主夫への道を歩ませて、私と
結婚、最後は藤村組の若頭へーなんてシナリオもお爺ちゃんの頭の中にはあったらしいん
だけどね」
 そんなものあったのか。
 あまりの驚愕に頭痛がする。というか先生のお爺さんって何者だ。
「名付けて逆光源氏物語。家事を仕込んだまでは良かったんだけどそのあとが失敗だった
んだよねー。私の失敗の理由を、お爺ちゃんとかはシロウの味方でお前の色気が足らん、
とか笑いながら言ってくれちゃって」
「ふむ。その人と会ってみたいものです」
「氷室さんならすぐにでも会ってくれるよ。士郎に彼女がいるって言ったらどんな女性か
見定めてやるから連れてこーいって藤村家てんやわんやだったから」
「なるほど、それは大変そうです」
 だって先生の親でお爺さんなのだ。皆がそうでなくても、彼女を生んだような環境の騒
がしさはとんでもないものになるだろう。
「だったらさ、またこんど家二人で来なさいよ。皆で歓迎するよ」
 それはとても楽しそうだ。などと考えていると傍らに眠っていた士郎が目を覚ました。
「――――っつう…なんだあの悪魔め…とつぜん殴りかかってくるなんて」
 後ろ頭を摩りながら起き上がって周囲を見回す。
「衛宮、大丈夫か?」
「ああ、なんとか…む、氷室と藤ねえか」
「ぶーぶー。なんでそこは藤ねえ…と氷室さんかとならないわけー? 優先順位に異議を
申し立てるよ」
 いや、そんな無茶な。
「本当に大丈夫か? なにがあったかは……訊かない方が良いみたいだな。私は一緒に行
けないが、なんなら明日病院にちゃんと行っておくんだぞ」
「大丈夫だよ。そんなに氷室が心配するほどのこともない」
「そうか。まあ衛宮の発言を信用するとしよう」
「はは、そうしてくれると助かる」
 あんまり彼の発言は、彼の健康に関しては信用出来そうもないが、今回に限っては問題
なさそうだ。さっきの頭を撫でた時に確認したが、瘤が出来てるし、血は流れてないし内
出血もなさそうだったから。
「うー、二人がお姉ちゃんを無視していい雰囲気になってるよう」
 ぶんぶんと自己主張をするように腕を振り回す藤村先生。あなたは子供ですか。
「まーいーや。今日のところはお姉ちゃんこれぐらいで帰るね」
 つまんなくなったから帰るとでもいうようにあっさりと帰る準備をする。
「ん、もう藤ねえ帰るのか?」
「うん、まあそこそこ安心したからかな」
「…なにがさ」
「気にしない気にしない。それじゃあホントに今日はこれで帰るから。氷室さんも明日は
仕事があるでしょうから仲良くしすぎるのも程々にねー」
 元気良く手を振って帰って良く彼女の背中に向かって一言。
「大丈夫です。きっと明日の朝も・・・・・士郎が起こしてくれますから」
「な、なんだとぅーーーーー!!!」





 彼女が帰った後、私たちは仲睦まじく寄り添い、同じ蒲団を温めていた。
 目の前にはただの童が一人。そんな童を見つめる私もただの童女。
 世の中、生き難くなったとか、治安が悪くなったとか、どこかで紛争の種が発生したと
か言われているが、私の周りは平和だ。士郎がいて、楓がいて、由紀香がいて、その中心
に私がいて、それが皆笑っている。そんな当たり前のことがたまらなく嬉しい。
「明日も…早…だから、疲れを残さないように――」
 傍らで囁く様に、寝言かも知れぬ言葉を洩らす士郎。
「疲れ、か。誰が私を疲れさせたというのだ……この馬鹿者」
 体に残る倦怠感がそれを物語っている。私を包む温かさも、全部私の幸せだ。
「なぁ、お前は知っているのか? 私がどんどんお前に嵌って行っていることを。出会っ
てから会う間隔が、以前では信じられないほど短い間になってきていることを」
 再会してから一月も経たない間に骨抜きにされた。何か嫌な事があったとき、早く会っ
て愚痴を零したいとか、次に会えるのはいつだろうかと指折り数える私の気持ちを知って
いるだろうか。知らなかったとしても少しでも気持ちが重なれば、と思う。
「――全く。君は罪作りな男だ」
 小声で言い放って、苦笑する。何が罪なものか。この胸を温める感情を誰かに与えるこ
とが罪なのだとしたら世の中の殆ど全てが罪になってしまう。そんなこと考えているうち
に次第に意識が揺らめいてきた。
「きっと明日も士郎の声で――」
 そんな呟きを最後まで発せぬまま、私は心地よいまどろみに身を任せた。






 私は朝は苦手だ。先ず寒い。次に眠い。そしてなにより朝は――
「今日は独りではなかったのだな、そういえば」
 頭に感じる人の温かみ。どうやら気付かない間に腕枕というものをされているらしかっ
た。
 時間は分からないが、それでも窓から差し込んでくる光の度合いで大体の予測はつく。
 …まだこの家の主人が起きるまでに猶予があるらしい。
 胡乱な頭でただただ天井を呆、と見上げていた。
 どこかから時計の時間を刻む音が聞こえてくる。
 かち…かち…かち…
 時間がゆっくりと過ぎていく。
 なにもしない、ある意無為な時間をじっくりと味わうように過ごす。
「衛宮が寝坊とは珍しいな」
 耳元に囁く。
 けれど起きる気配はなく、返事もない。
「ほらほら、早く起きないと間桐の妹さんが部屋まで来てしまうかもしれないぞ」
 まるでそんなことがあれば面白い、とでも言うように笑いながら語りかける。
 そこでようやく彼は瞼を気だるそうに開く。
「……それは、流石に恥ずかしいな」
「おや、もう目覚めたのか」
 心底それは困るなんて表情をこちらを向ける衛宮に向かって残念がって見せる。
「酷いな氷室。俺がそういうのを嫌がってるって知っててそんなこと言って見せるんだか
ら悪ふざけも大概に過ぎる」
「なに、私だって多少の起こす努力はしたぞ。衛宮が起きなかっただけだ」
「そりゃこっちの不手際か、すまなかったな」
「いやいや、笑顔を堪能させて頂いたから構わん」
 嘘付け、と自分に言ってやる。だって彼にはほんの少ししか起こす努力をしてないし、
寝顔は堪能したが満足はしていないのだ。だから、
「じゃあ、今から台所に行って料理を手伝ってくるよ」
 起き上がり、服を着ながら言う彼に向かって、
「今週の土日まで会えないんだ、今朝ぐらい私にくれたっていいだろう?」
 なんて我侭を言ってしまう。だって彼は優しいから。平日は忙しくて会えないのでこん
なところで甘えてみてもいい気がしてくる。
「それもそうか」
 ほら、やっぱり。彼を引き止めて私は朝を満喫している。
 そうやって過ごしている間に、やがて部屋の中にしっかりとした光が差し込んでくる。
 暖かい、いい日差しだ。
 なんて考えていると、
「今日も洗濯物が良く乾きそうだ」
 などという、非常に彼らしい主夫じみた声。
 そんな、暖かな朝を私は手に入れた。




『活字中毒者さんからの後書き』

桜の暴れっぷりやらイリヤの絡みを期待なさった方申し訳ありませんでした。書こうとしてもいろいろな方々の二番煎じにしかどうもならないようなので物語が破綻する前に退場していただきました。日々精進を心がけますのでどうぞ機会があればまたよろしくお願いします