「暖かい日差し」




「――ん、朝か」
 降り注ぐ日差しと騒がしい目覚ましの音に目が覚めた。清々しい朝とは言いがたいが決
して悪い気分でもなかった。なかなか夜遅くに寝ると朝が辛いのは知っていたがまさか二
日酔いがここまでとは、と未だ酔いの覚めぬ頭を二三度振って洗面所に向かった。
 ばしゃばしゃと顔を洗う。鏡を見ると幾分か隈が出来ていたので化粧で隠す事にした。
 一段落ついて深呼吸をしてみる。ふう、大丈夫。いつもの自分だ……多分。
 などと自分を毎朝再確認しているのも衛宮との再会以来の習慣となっていた。
 どうもあの日以来私は急速に変化を遂げているらしく同僚に何度もからかわれた。衛宮
といる事によって何らかの変化が私に訪れているらしい。しかしそれが事実ならばなら
ば、それはそれで悪い事ではないと私は思う。まあ、恥ずかしいがあれだ。彼の色に染め
られているという事だろうから、ということにしておく。

「さて、今日も一日精一杯働くとするか」

 衛宮と二人で撮った写真を眺めて気合いを入れる。写真一枚でこれほど元気とやる気が
湧いて来るとはどうもなかなか私は惚れっぽいらしい。
 外見上では少なくともそういう人間には見えないらしかった。まあ、ついこの間までは
私もそういう人間だと思っていなかったのだが認識を改めた。それを体験しつづけている
私の熱はまだ当分冷めそうになかった。
 ゆったりとした速度で少しきつめのスーツを着る。私にはこれぐらいがあっているらし
い。そして長年お世話になった眼鏡のフレームがそろそろがたがきているらしく緩くなっ
ていた。

「そうだ、今週の休みにでも二人で買いに行くとするか」

 なんとなしに呟く。うん、名案だと思う。脳内議会の満場一致で可決。彼の好みに合っ
たフレームに変えるのもいいだろう、彼のことだから「元々のフレームの方が似合ってる
よ」などと言うかもしれない。それはそれでうれしいものだ。自然と表情が綻んでしま
う。
 これから会社に行くとは思えないほど浮ついた気分で家を出る。いつもより軽やかな足
取りで玄関を空けて、

「――――行ってきます」

 誰もいない家に向かって気軽に言い放った。
 思えば、これを始めたのも最近だったか。



「あ、氷室さん最近元気いいね。よっぽど彼氏と上手くいってるのね」

 会社に着いて早速受付の同僚にからかわれる。まだ衛宮と付き合い始めてから二週間程
度しか経っていないが、それほどまでに恋というものは人を変えてしまうらしい。
 自分で考えてなんだが恥ずかしいものだと思った。
 羨ましそうな同僚に笑顔で返して余裕を出してみた。案の定、こめかみにばってんが出
来ていたが気づかなかった事にして歩み去る。
 本日の危険行為第一号、受付の男日照りには彼氏彼女と上手くいっていることを知られ
てはいけない。これもまた我が会社で誠淑やかに語られている噂である。
 多少、意地の悪い笑いしてから席についた。
 どうも笑いが堪えられない模様だ。そんな私を見かねたのか別の同僚が話し掛けてく
る。

「あんまり、受付の貴倉さんにはそういう話しちゃいけないわよ。何組も嫌がらせを受け
たって聞くしさ。…………実は、その所為で分かれたカップルも何組もいるのよ」

 ぼそぼそと別の人間がやってこないか確認してから彼女は言った。
 まさか噂が本当だとは思わなかったがそこまで具体的だとはと肝に命じておく事にし
た。まあ、浮かれているのを隠しなさいと言われても隠しきれる自信などこれっぽっちも
ないのだけれど。

「ああ、情報提供感謝する」
「そうそう。感謝して彼氏でも紹介しなさいよ。見定めてやるんだから」

 ふふ、と笑いあってデスクに向き直った。
 後ろで、―――さんが欠勤? 珍しいねーなんていう会話が成されていたが私の耳には
入ってこない。これも集中力の賜物だと思うことにした。後になって考えてみれば自分に
都合が悪いから聞こうとしなかったことが分かったんだけどそれは後の話ということにし
ておくとしよう。
 ――――さて、今日のお勤め頑張りますか。






 ――むう、困った事になった。

 そううめくしかないほどに彼――衛宮士郎は追い詰められていた。
 敵は二人、これまで彼が戦場で相対してきた敵に比べればそう大したことでは――――
あった。
 なんたってその二人は家族と言ってもいいほどに長年生活を共にしていた二人、冬木の
タイガーこと藤村大河と、冬木の通い妻こと間桐――じゃなくて遠坂桜。まあ、そのよう
な綽名など流言飛語のようなもので立ち消えてしまうだろうと高を括っていたのだが今も
消えていないらしい。恐るべしマウント商店街。
 などと微妙に冷静さを出しつつ、衛宮士郎は部屋の隅っこで退路も無く、衛宮士郎は途
方に暮れていた。
 その時の二人の相貌たるや鬼人母神のようだったとかなんとか。

「なあ、申し訳なかったと思ってるからもう少し冷静になってくれないか? ちょっと、
この威圧感はなんともしがたいんだけど」

 おそるおそる、小動物が白旗を恐竜に振るように彼は提案した。
 だが、そんなことで冷静になるようであれば藤村大河、実の爺さんに目の前で何も言わ
れずため息をつかれることなんてなかったのだろう。先手必勝と何処から持ってきたのか
分からない鉄製のポスターを振り回している。

「うるさいうるさいうるさーーーい!!! お姉ちゃんはね、お姉ちゃんわね、士郎が、
帰ってきたのに一言の連絡も入れないような親不孝者に育てた覚えはありません!!!」

 獰猛な獣の如くの咆哮。ビリビリと鼓膜が振動する。育てたっていってもあんた親じゃ
ないだろと言いたかったがすんでのところで止める。そして我が意を得たとばかりにさく
らも攻勢を強めてきた。

「そうです! 藤村先生にはまあ結婚しちゃってるかなーなんて殆ど有り得ないような可
能性を考慮して電話を掛けなかったっていうのはありですけど、可愛い後輩に一言も無
しって言うのは酷いと思います! 今日姉さんからの電話で初めて先輩がこっちに来てる
の知って仕事休んで飛んできちゃいましたよ!!」

 なんかさり気に藤ねえに暴言吐きつつも要所要所を外さずについてくる桜。桜の成長は
兄貴分としては嬉しいが悲しい部分もあったりするのである。語られぬところは推して知
るべし。

「え……桜ちゃん会社休んできたの?」
「ええ、それはもうついさっき。会社に向かってる途中でしたが進路をぱきーんと変更し
てこっちにきました」

 戸惑う藤ねえとは対照的に、えっへんと大きく胸を張る桜。なにがそんなに嬉しいのだ
ろうか。

「その理由は教師としてどうかと思うんだけど……」
「そんなこと大した事じゃありません。藤村先生だってこの気持ち分かってくれますよ
ね?」

 尚自信満々で喋る桜。どこからそんな遠坂のような自信が湧いてくるのかと訊きそうに
なったが姉妹なら仕方あるまいと諦める。そろりそろり。

「え、だってだって……会社はそんな風な理由で休んじゃ駄目だってお爺様が言ってた
よ?」
「だってもへちまもありません! そんなことじゃ絶対に先生の嫁の貰い手がなくなりま
すよ!!」

 藤ねえ劣勢。さすがに教師としての道を外れまくった(本人にその気なし)藤ねえも長
年極道の娘として育ってきただけあって職業観念はしっかりとしていた。ううむ、刻一刻
と桜の放つ威圧感が膨れ上がっているのだがこれはいかにしたものか。そろりそろり。

「そんなことないもん、士郎が貰ってくれるもん!」
「先輩は私が美味しくいただくんです。先生なんかにあげません!」

 むむむ。雲行きが怪しくなってきた模様。そろそろ本艦は全速前進でこの場を離
脱――――

「士郎! なにお姉ちゃんを置いて逃げようとしてるの!?」
「先輩! 逃がしませんよ!?」

 ――できませんでした。
 にゅるにゅると虚数の影が足に絡み付いています。
 ぴんち。どうして俺はこんなに修羅場を切り抜けているのに魔力に対する抵抗は高まら
ないのでしょうか? などと天を仰ぎ見てみる。遠坂にへっぽこだからよと罵倒された。
幻想ですらあなたは俺を罵倒してくれました。っていうか現実と応対が変わらないのです
ね。

「士郎はお姉ちゃんを貰ってくれるよね? 桜ちゃんなんていうエロ担当の陰険女になん
か萌えないよね?」
「――ッツ、言うにこと欠いて淫乱女とは教職者にあるまじき発言。先輩、こんな似非お
姉ちゃんなんかに毒されないで私と夜の天国を体験しましょう」

 ずずい、と迫ってくる二人。盛大に突っ込みたいところは沢山あるのだけれど入れたが
最期、致命傷の一撃になりかねないと心の奥底で警鐘を鳴らしている。こんなところで心
眼(真)が発動しても意味は無いと思う。なんたって回避不能なところまで来てるし。

「えっと、白熱してるところ悪いんだけど。ちょっと言いたい事があるからいいかな」
「なんなのよう!」
「なんですか! 二人いっぺんにとか言われたら流石の私も………えと、怒っちゃいます
よ?」

 桜、その間はなんだとか言いかけたが再び警鐘が鳴ったので飲みこむ。
 これはこれで致命的だと知りつつも心を鉄にして口を開いた。

「その、なんだ。いま付き合ってる人がいるんだ」

「――――――――」
「――――――――」
 (あまりの爆音と絶叫のため表記できず。各自好きな想像をしてください)







「じゃあまた明日ね」
「ああ、また明日」

 会社の仕事を終え帰り支度をしている最中、突然電話が掛かってきた。

「――ん、電話か」
「また愛しの彼氏から? 羨ましいわねー、仕事が終わった瞬間に掛けてくるなんて。ね
え、それって愛? なんか通じ合ってる?」

 事実、衛宮からの電話だったので否定できずに頬を赤く染めた。これはやはり運命とい
う奴だろうかなどと火照る頬に手を添えた。

「うえ、マジ? うあー、恥ずかしいっていうか羨ましいっていうか……もう惚気は私の
見えない所でやってちょうだいよね」

 はあ、と同僚がため息を吐いてよろよろと退社していった。
 しばしその様子を眺めていたが、数秒後我に返り携帯電話を見詰めた。
 深呼吸を一度だけしておく。
 向こうから掛けてきてくれる電話をそのまま放置するわけにもいかず通話機能を作動さ
せた。

「ん、氷室なかなか電話に出なかったが何かあったのか?」
「――、そういうわけではない。しかし何か用か? 今日は特別用はなかったはずだが」

 そうは言いつつも浮き足立つ心は隠し切れない。むこうから何か誘ってくるのかと期待
してにやにやとなりそうな表情を押さえるのが精一杯だった。

「悪いが今日仕事が終わって暇なら家に来てくれないか? なんの前置きもなしですまな
いが」
「ああ、いいよ。今仕事が終わったばかりだから行くよ」

 来た。今日は何の誘いのつもりなのだろうか、いや、それとも出来るだけ毎日に近い
ペースで会いたいと思うようになってきたのだろうか。何もイベントが無いのはそれはそ
れで寂しいが、また逆に何の理由も無いのに会いたくなったとかそういうのは望むべき状
況ではないだろうか。
 そう口では言い、手はさっきより明らかに早くなっている。
 同僚たちが明らかに不可解なものを見るような目でわたしを見ているがそんなことどう
でも良かった。明日由紀香たちに会うのだから何か面白い事があったら話してあげよう。
それに彼女は衛宮の料理レシピを欲しがっていたようだから頼んでみるのも一興だろう
か。

「そうか、なら聞いた通りだな。氷室のこれからの予定が開いてて嬉しい。来るのを待っ
てるよ」
「――? 聞いた通り、とはどういうことだ。誰かから訊いたのか?」
「いや、まあそれも含めて来てくれたら話すよ。まあ夕食の準備はこちらでしておくから
その時に」
「ああ、分かった。それじゃ」
「それじゃ」

 プツンと電話を切る。バッグを肩に掛けて歩き出す。少し早歩きになるのは仕方の無い
事だろう。ああ、そうだ。バスの時刻表を見ておかないと――――







 プツンと電話を切った。そして後ろを振り返る。

「と、こういうわけなんだが――」
「なんなんですか! 氷室さんって私の同僚の先輩じゃないですか!? そりゃまあ確か
に先輩とは同学年でしたでしょうけどだからといって、いついったいどうやってそんな関
係になったんですか!」
「そうよう! お姉ちゃんに連絡もいれずに一体氷室さんとなにがあったのよ!?」

 猛烈な気勢。戦場で鍛えたこの心眼(真)もここでは何の役にも立たないようだ。全て
の行動が何手か先でバッドエンドになってしまうような未来が見えている。ああ俺が穴倉
よろしく高速思考と分割思考さえ会得していれば多少はマシな結果になっただろうに、な
どとは思うがそれでも結局十手先辺りでバッドエンドを迎えてしまうかもしれない。意味
無いとか言うの禁止。分かってるから。

「確かに帰ってきたことを言わなかったのは申し訳なかったとは思うよ。だからって二人
が俺の恋路うんぬんを意見するのは間違っているとは思わないか?」

 不思議だ。全くもって理解が出来ない。というか藤ねえは今でも嫁の貰い手が無いのは
分かるが桜の恋人がいないのはおかしいと思う。だって兄貴分の俺から見ても高額物件
だ。料理よし、気立てよし、スタイルよし、一体これ以上なにを望むと言うのか。もし俺
が傍から見ていたら放っておかない――――ん? なんだか爺さんの顔が見えた。なんか
士郎は女泣かせの鈍感だねえとかなんとか。なんかむかつく。

「な、ななな――――」
「……先輩? 本気で言ってますか?」

 失敗した。というかそういう実感だけが俺の体に吹き付けてくる。
 正しく言うと目の前で桜がブルブルと体を震わせているのだけれども。
 にょきにょきわさわさと桜の後ろから影が這い出てくる。タイガーさんそれを見て失
神。
 いやはや、どうしましょう。

「さ、桜。一言だけ良いか?」
「何デスか先輩。下手なこといわれたら先輩の事ごっくんしちゃうかもしれないデスよ」
「ああ、分かっている。………桜、お腹が減ってるからそんなに怒りっぽいのか?」

 途端にとって付けたような静寂が訪れる。
 そしてしばし二人だけで見詰め合う。そして桜の口がゆっくりと開いて――

「うわーーーーん! 先輩の鈍感馬鹿阿呆間抜けーーーー! 乙女の恋路を邪魔するなん
て馬に蹴られて死んじゃえーーーー!!!」

 どたんばたんと障子を破壊して家を飛び出していった。
 なあ、俺って乙女の恋路邪魔したか?
 そう思いつつも藤ねえを客間に布団を敷いてそこに寝かせてくる。
 家への電話が鳴ったのは居間に戻ってきた時の事だった。

「――――はい、衛宮ですが」






 ふと、冬木に帰ってこようなんて思うのは久しぶりの事だった。
 まあ、帰りたいか帰りたくないかと訊かれると、人としての遠坂凛は帰りたいというだ
ろうし、魔術師としての遠坂凛は帰っちゃいけないというのだろう。というのもあっちが
居心地が良すぎるだけなのだ。気のおける友人や戦友、それに住み慣れた家がある。一度
帰ってしまうとこっちに来るのが面倒くさいなーとか思ってしまうのだ。その威力、考え
るまでも無い。

「ねーリン。一度冬木に帰りましょうって」
「あー、まあ機会があったらね」
「いっつも貴女はそうやって言う。なに、帰りたくないの?」
「……そういうわけじゃないけど」

 そう、この私の傍で私にぶーたれてくるのは白い悪魔っ子ことブルマの化身……いやい
やいや。イリヤスフィール・アインツベルンだ。彼女が家の工房で手伝ってくれている事
はとても嬉しい事なのだ。研究にとっても私にとっても。さすがに優秀な魔術師だけあっ
て正確の悪ささえなければ相棒にはもってこいだ。
 とはいえ彼女はいつも冬木に帰りたがっているわけではない。何もしない毎日をのんべ
んだらりと冬木で過ごすよりもイリヤは倫敦で研究でもしていたほうが良いと答えるに違
いない――と思う。
 彼女が言う、シロウ。正しくは衛宮士郎。イリヤの兄であり弟でもある彼の存在がこの
悪魔っ子の動向を決めるといっても過言ではない。彼がドイツにいると聞けば行きたがる
し、ロシア、アメリカ、フランス、それらも同様だ。まあ、観光を兼ねているのだしイリ
ヤの財布からお金が出ているのだから私にも不満はない。
 それが今回、士郎がしばらく冬木に腰を落ち着けると電話で聞くや否や(衛宮士郎とい
う男は私や桜には電話の一本もないくせにイリヤにだけは週に一本電話を掛けてくる)イ
リヤは荷物の準備を始めていたのだった。
 確かに久々に冬木に帰ってみるのもいいかと、ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに
一方的な休戦状を叩きつけて帰ってきたのだ。そのときのイリヤの笑顔と対照的なルヴィ
アの憤怒は相当のものだった。あの表情は生涯忘れまい。くけけ。

「なに笑ってるの、リン。はっきり言って気味が悪いわよ」
「へ? ああ、ごめんごめん。ルヴィアのあの顔を忘れられなくってさ」
「まあ、いいけど。あの手の輩は焚きつければ焚きつけるだけ燃え上がるわよ? 面倒な
ことするのね、リンって」

 私ならそんなことしないんだけどなあと呟くイリヤ。確かにそのやり方は魔術師らし
い、が私は魔術師である前に遠坂凛なのだ。私の矜持だけは譲るまい。

「そうね、けどそれをまた完膚なきまでに叩き潰してやるのが愉しいんじゃない」
「リンらしいや、ホント」

 これ見よがしにため息を吐くイリヤを無視して私は飛行機の席を立った。
 もうすぐ私の家が見えてくる。この空港からバスに乗って二千円ぐらい乗れば冬木だ。

「でもなんで士郎たちに連絡しなかったの? バスなんてほんと面倒だわ」
「だって、知らせないほうが楽しいじゃないの。そのための苦労よ」

 ばんばんと景気良くお土産の詰まったボストンバッグを叩いて元気良く歩き出す。イリ
ヤはその私の後をはあとため息を吐いて追いかけてきた。

「ホントに。士郎に迎えに来てって頼めば四千円浮くしさらに荷物を抱える面倒もなくな
るのに。こんな意味のなさそうなことにだけリンは努力するのね。日頃はケチケチしてる
くせに」

 ぼやくように、でもひさびさの日本に心ときめかせるような声音で言った。

「――――あ」
「気づいてなかったの? うっかりもほどほどにしてよね、リンらしいけど」

 さっきよりも冷たいイリヤの視線と口調。
 あーしくじった。固有スキルうっかり発動ーってそんなのいらないし。

「あは、はははは」
「……もういいわ。リン、行くわよ」

 春を祝福するように吹いた風はまるで私を馬鹿にするように――





 ふんふんとつい口ずさんでしまいそうなほど上機嫌な最近。そこに細かい理由なんか必
要ないと思うし、あったとしたら今の私には無粋に思えてしまうだろう。吹き抜ける春の
風がまた私を祝福してくれているようでまた一つ嬉しくなった。
 私は今、新都のバス停に来ていた。やはり衛宮の家に行くにはバスで行った方が断然早
い。以前、地図片手に歩いていった事があったがなかなか、厳しいものがあった。
 バスに乗り込んで出発時間を待つ。どうやら少し早く来すぎたらしい。それほどまでに
早歩きになっていたのかとしばし黙考。……またそれもよし。
 ところが出発寸前になって駆け込み乗車の客がいたらしい、ふとそちらを見やると赤と
白――を基調にした服装と雰囲気だった。ぜえぜえと息をする彼女らを乗せてようやくバ
スのドアが閉まった。

「………はぁ、はぁ。駄目、何でこんなギリギリなの?」
「……はー、そんなの知らないわよ。つーかもう一本後に乗った方が良かったんじゃない
の?」
「だって早く会いたかったんだもの」
「わからなくはないけど、もっと落ち着いて会いたいとか思わなかったの?」
「それはそうだけど――――」

 えらく大荷物を抱えて肩で息をしながら会話をする二人。どうやらどこかから久々に
帰ってきたらしいということが様子から知れた。ということは長期旅行か留学でもしてい
たのだろうか。どうせまだしばらくは彼の家につくこともないので二人の会話にしばし耳
を傾けるとする。
 しかしまあ、赤い人のほうがなにか見たことのあるような雰囲気の女性だったが注視す
るのも良くなかろうと目を外の風景に向けた。注視するのは良くなくて何故聞き耳が良い
のかなどと聞くのは意味がない。だって女性は恒常的に噂話に飢えているのだから。

「――でもアイツはどこまで育ったのかしら」
「さあね、でも腕は上げてるでしょうね。体壊してまで訓練する人だから。……あら、師
匠としては可愛い弟子の動向は気になる?」
「……かもね。まあ訓練に関してはそこのところが馬鹿だっていうんだけど……」
「そこまでしないと至らないんでしょうね、彼は凡人だから」

 何かスポーツや格闘技でもしているのだろうか。かといって先程の二人がなにかそうい
うものをやってそうではなかったけれども。凡人が故の苦労、まさにそれが出来る人間を
我々――何もしようとしない人間――が天才と呼ぶのだろう。本当の天才とは程遠いとい
うのにも関わらず我々はそれらを一緒くたにして考えるのだ。

「――で、実際のところどうなのよ。セイバーがいなくなった今、誰がアイツを支えてい
くの?」
「そんなのは私が答えることではないわ。だってそれは彼が決めることだもの」

 どうやら深い話に突入しているようだ。どうしようかもう話を聞くのをやめるべきだろ
うか、などと思ったときその言葉は私の耳に飛び込んできた。

「そうね、でもアイツはいらないって言うかもしれないわよ、イリヤ?」
「それでもいいわ。士郎が嫌だと言っても私はついていくもの。そこまでの協力だって約
束だったもの。そうよね、リン」
「………はあ、確かにそういう約束だったけど。いざなくすとなれば惜しいわよねえ。一
世一代の遠坂とアインツベルンの協力関係もそこまでか……」

 今なんといったか、士郎・・と、さらにはリン・・と? それではさきほどの
既視感はこの目の前にいる高校時代を共にした遠坂凛に感じたものだったのか。となると
いろいろ今まで興味本位で聞いていた話はえらく身近なものになってしまうのだ。思い出
せ、私はなにを聞いていた?
 体が――、
 訓練――、
 師匠――、
 弟子――、
 支える――、
 セイバー、
 イリヤ、
 遠坂、
 一体なにが私の知らないところであった、または進行しているというのか。
 バスが目標のところに到着する。
 ボタンが遠坂嬢の手によって押される。その瞬間、何故か目が合ったような気がした。

「――――」

 ごとごとと急いで出て行く二人の後を私はゆっくりとついて行くしかなくなっていた。






「――――はい、衛宮ですが」
「――――?」

 突然英語で電話が掛かってきたのには驚いた。とはいえ聞いたことのある声と完璧なま
でのクイーンズイングリッシュ。これは――

「ん、ああルヴィアか。一体どうかしたか?」
「…やっと分かってくれましたの。まあいいですわ。そんなことよりもあなたに伝えなけ
ればいけないことがあるのです」
「なんだ? ルヴィアさんが俺に伝えなければいけないことといったら遠坂のことか?」
「――まあ、そんなところですわ。端的に言います、今そちらにアインツベルンの申し子
とミス・トオサカが向かっていますわ」
「な、なんだってーー」

 突然掛かってきた電話の内容は驚愕を通り越して気絶ものの衝撃だった。
 よりによって今日、藤ねえと桜を説得しなければならないという重大任務を帯びている
にも関わらずさらにやっかいな悪魔(もう子とは言えない)が二人もやってきてしまうの
か。

「こちらに電話を掛けさせていただいたのも、単に二人への嫌がらせだと思ってくださっ
て結構ですわよ。あの二人ったら突然朝に休戦とか言いつつ私のところにきたんですわ。
休戦! たかが士郎に会いに行くためだけに休暇を一ヶ月もとるなんて正気の沙汰とは思
えませんわ!!」
「い、いや。そんなこと俺に言われても。っていうか二人は久々に冬木に腰を落ち着けよ
うと思ったんじゃないかな?」
「なんのために? 時計塔という最高学府以外の場所で真っ当な研究が出来るとは思えま
せんわ」

 そうは言いつつも二人の非論理的な部分があるのは彼女も分かっているのだろう。会話
も程ほどにして電話を切った。
 しかし二人が帰ってくるとはいったいどういうことになってしまったのだろうか。とも
かく、

「食事の用意でもしておくか」

 日々の行動だけは忘れない正義の味方なのだった。




 私はやっとシロウの家に帰ってきた。途中、狭いシートに腰掛けて今流行りのエコノ
ミークラス症候群(正式名称は違う)にでもなるかと思った。浮かれ気分でシロウの家へ
の道程を歩く。うん、街並みもあまり変わっていないし久々に見る日本の風景に少しだけ
安心した。

「ねえ、イリヤ」
「……なに、リン」

 訝しげな声で話し掛けてくるリンに対してついつい素っ気無い答えを返してしまった。
けれどリンはそうした私の逡巡を気にした様子もなく、

「別に私達何もしてないわよね?」
「――――はぁ?」

 つい素っ頓狂な声を出してしまった。淑女としての振る舞いに失点かもしれないが一体
どうしたというのか。倫敦での彼女なら、何かしてしまった時ですら泰然とした態度で振
舞っているというのにも関わらずだ。

「……アンタなにかいらないこと考えてるんじゃないでしょうね」
「想像にお任せするわ。……でも、一体リンは何を以って私たちが何かをしたという話に
なるのよ」
「あのさ、」

 ちょいちょいと振り返らずに指だけ後ろに向ける。
 なんなのだ、とちらりと振り返るとえらく深刻そうな顔をした妙齢の女性が私たちの後
ろを歩いているのだった。ほんの、本当に少しだけその形相は怖かったと自白しておく。

「――なによ、彼女がどうかしたの?」
「どうかしたの、ってバス降りてからずっと一緒なのよ? 少し不審に思ってもいいじゃ
ない」
「それはもしかしたら一緒の方向に向かっているだけかもしれないじゃない」

 そうかなぁと未だに首を傾げているリンに、疑り深いなぁと苦笑して前を見やる。そろ
そろだ。そろそろシロウの家が見えてくる、と思うと同時に驚くシロウの顔を想像した。
やっぱりなんだかんだ言っても私はリンのことどうこう言えないらしい。

「シロウ、お姉ちゃんが今行くよー」
「まあ、考え過ぎよね。……でも彼女見覚えがあるような気がするわねぇ」

 そして待ちに待ったシロウの家に到着すると共に、家のチャイムを我先にとばかりに押
した。

 待ちに待った期待は私の中で猛烈に膨れ上がり――――

「お、やっと来たか。おかえり、イリヤ。それと、いらっしゃい、遠坂」

 プシューと音を立てて私の期待がリンの胸囲ぐらいに縮んだ。がっかり。
 それじゃすまないのが私の隣のリンだ。なんたってこの微妙に大それたいたずらを敢行
するために日頃ケチりまくっているリンが四千円以上も損したのだ。故に成果がなかった
ことなどリンには諦めがつかないようだった。……はて、なんでシロウが私たちの帰郷を
知っているのだろうか。

「な、な、ななな――――」
「ん? なんだ、そんなにがたがたと噴火する前の火山みたいに震えてどうした?」
「なんでアンタが私たちが帰ってくるのを知ってるのよ!!!」

 烈火怒涛のごとく怒れる赤い悪魔参上。
 久方ぶりの登場といえば久方ぶりだ。最後にこれを見たのはいつのことだったか。確か
シロウが赤い色素が抜けた髪の毛で倫敦に来た時だったか。あのときの暴発っぷりも猛烈
だった。

『あんたなに体の色素が変わるぐらい無茶な投影してるのよ!!!』

 とかなんとか。そうはいっても魔術の才能がないシロウからすればそれしか道がないの
だから仕方がないのだろう。まあ、お姉ちゃんとしてはそんな頑張り屋のシロウも好き
だ。
 リンに応対しておろおろしていたシロウもやっとのことで声を絞り出した。

「ルヴィアがさっき電話をくれたんだ。二体の悪魔がこっちに向かってるとか何とか。相
当ご立腹の様子だったぞ。……遠坂としては珍しいな。休戦状を叩きつけてくるなんて」

 それを聞くとリンは毒気を抜かれたように呆然と立ち竦んでしまった。後半になるとシ
ロウもその姿に堪えきれなくなったのか笑いを噛み殺している状態だ。なるほど、そこか
ら流れてしまっていたのか。てっきりサクラあたりからかと思ったが違うらしい。という
よりもサクラは何処へ行ったのだろうか。本来ならシロウと一緒に玄関に出て来る筈なの
だが。

「あんの金ぴか……いい加減にしなさいよ! 私の行動をどれだけ邪魔したら気が済むの
よ!」
「はあ、迂闊だったわ。リン、これは貴女の落ち度よ。自業自得ね」
「あーもう! 倫敦に帰ったらギッタンギッタンにしてやる!!」
「……その言葉遣いは淑女としての礼儀に欠けるわ。それにこれからはリン一人だから頑
張ってね」
「あー、そうだった! ……ボコボコぐらいにしといてあげるか」
「……リンがそれでいいならこれ以上何も言わないけどさ」

 ため息を一つ。シロウのほうを見るとどうも微笑ましげにこちらを見ている。コントで
も見ているような気持ちなのだろうか。それとも――――

「それで、桜は? 出てこないとなると買出しにでも行ってるわけ?」
「そうそう、サクラは?」

 リンは気持ちを切り替えて疑問を投げかける。するとシロウは不思議な顔で、

「いや、なんか突然脱兎の如くの疾走を見せて走り去った」

 と言った。そこで何かに気づいたかのように私たちの後ろに向かって手を振った。

「氷室! 遅かったな。でも突然呼び出して悪かった」

 聞き覚えのない名前。しかしなにかリンは思い当たるところがあるようで、あー、など
と呟いている。
そしてその声を聞いてそのヒムロという女性が私の前に出てきた。

「……ああ。呼び出しに関しては全然気にしてないのだが、一体これはどういうこと
だ?」

 不満気に、やや唇を尖らせてシロウに食って掛かる彼女。その瞳は鋭くシロウを見詰め
ている。
 たじろぐシロウ。とはいえ彼は彼らしい様子で、

「氷室が気にするような事は何もないよ。……そうだな、それも含めて家の中で話すよ。
夕食取りながらでいいかな?」
「……わかった。嘘はついていないな、衛宮」

 尚鋭い視線で詰め寄る彼女。それに対してシロウは、

「ああ、当たり前だ」

 と晴れ晴れするような笑顔で言い、それに対して彼女も、

「――そうか、ならばいい」

 とふっと微笑んだのだった。

「え――――?」
「…そうか。ならみんな家に入ってくれ。夕食は豪勢にしてるつもりだ」

 その反応に安心したように頷くと、彼は私たちを家に入るようにいって家にさっさと
入っていってしまった。まあ、彼のことだから自分で準備をしたいのだろう。
 そしてしばらくは絶句するリンと不愉快に眉を顰める私が、ただ動く事もなく門の下に
佇んでいた。


続き





「…………」
「――――」

 かちゃかちゃと食事を食べる音だけが居間に響いていた。……怖い。はっきり言ってこ
の場にいる何人かの顔が鬼神のように引き攣っている。

 その筆頭は遠坂凛。なにか凄く不吉な顔を時折浮かべながら、黙々と優雅な動きで食事
をしている。次にその妹の桜。彼女は三人が来てから程なくして走って戻ってきた。その
ときの形相はつい記憶から抹消してしまった。うん、もう憶えてない。
 その右隣にいるイリヤはなにかつーんとした感じで黙々と食べてるし一体何があったと
いうのだろうか。さらにその右隣――つまり正面にいる氷室はつーんじゃなくてシンと食
事をしている気がする。偶に目線が合った時の彼女の笑顔、いや凄く彼女自身は美人で澄
ましたものがあるんだけど、それ以上になにか悪寒を感じさせるソレは想像以上に寿命を
縮めそうな気がする。うん、とりあえずはそんな感じ。

「――――あのさ」

 一斉に視線がこちらを向く。食事の手を綺麗さっぱり止めて睨むように、またねめつけ
るように。

「――――ぬう」

 つい押し黙ってしまう。というかこの場での殺気すら篭った視線が、戦場の空気よりも
キツイのはどうなのだろう。
 再び沈黙が流れる。
 この場の空気を変えるにはいったいどうしたらいいのだろうか。
 そもそもこの場が静かになることなんかあまりなかったと思うのだが……。

 違和感は拭いきれないがそれ以上にこの場に溢れる魔力がじりじりとこの身を焦す。い
や、比喩じゃなく本気で。なんかこう、少しずつ魔力を削られるような。

「――じゃあそろそろ説明してもらえるかしら、衛宮君?」

 実に優雅な仕草で口元をハンカチで拭いた後、にっこりとあの赤い悪魔の笑顔で笑いか
けてきた。皆それを時期と見たのか凄然とこちらを見詰めて言葉を待っている。

「――えと、遠坂……もしかして怒ってる?」

 取り合えず訊いてみる。心眼(真)で慎重に選んだ言葉はまず無難なものからだった。

「いえ全く、全然、皆無。ちっとも怒っていませんよ、なにか疚しい事でも?」
「う――、そういうわけじゃないんだが、なんか拙いことしたかなー、と」
「いえ、特には。しかし、そうやって結論を先延ばしにする事が今のところ一番拙いので
はないかと思っているんですけど?」

 どうかしら、と遠坂。……確かにそうなのだが、この雰囲気は話せる状況じゃないと思
うぞ。多分。

「――ぬ、ぬぅ……」

 敵は強大なり、勝率は三分未満。誰か代打を――――

「もう、このままじゃいつまで経っても終わらないじゃない、凛。それに士郎も腹を括っ
てしっかり答えなきゃ駄目でしょ? お姉ちゃんは悲しいよ」

 意外な事に助けに入ってくれたのはイリヤだった。双方を窘め、なお自分に答えを促し
てくる。
 それでもさっきより幾分か話しやすくなったと思う。

「――? お姉ちゃん、だと? それはどういう――」
「氷室、それも後で話す。だから今はそれは置いておいてくれ」
「わかった」

 氷室には悪いがその質問は後回しにさせてもらう。
 そもそもこの問題は、いつかは自分が覚悟を決めて話さなければいけないことは最初か
ら分かっていた。それが単に早まっただけなのだ。

「結論だけ先に言おうか。……衛宮士郎は氷室鐘と付き合っている。」
「――――な」
「――――え?」
 瞬間、凍りつく遠坂とイリヤ。

 ……なんか変なこと言ったのだろうか。特にそんなつもりはないのだけれど――
 あわあわという表現が似合うくらい狼狽する遠坂。
 ただ呆然と、こちらを見ているだけのイリヤ。いやその瞳は虚空を見詰めている。一体
何を見ているのだろうか。桜は机に突っ伏している。怨嗟の声が聞こえてきそうなのでつ
い目を逸らした。
 ちなみに氷室さんは恥ずかしげに、顔を赤く染めて俯いていたりする。

 こういうところが可愛――いや、今はそれよりも、
「……なんでそんなに驚くのさ」

 取り合えず疑問。そんなにおかしいことなのか――
「お姉ちゃんを除け者にして晩御飯なんて許しませんーーーー!!!」

 虎の強襲。
 ああそうか、今までの異様に静かな違和感はこの人の不在の所為だったのか。
 突然襲来してきた虎に多種多様な視線が向けられる。
 しかし虎もさるもの。それほどの違和感と視線を無視して、いつもの席に腰を下ろし食
事の用意を要求した。虎の食に対する思いは物凄いと実感。

「…………おいおい」
「五月蝿ーーーい! 早くお姉ちゃんのために御飯持って来なさい!!!」

 視線だけで殺されそうな空気の中、ぎしぎしと動きにくい体を使って藤ねえの分を用意
する。

「――――ほら、藤ねえ。ゆっくり噛んで食べろよ」
「はいはーい。ほんっとに士郎ったら小言が多いんだからー」

 ぶつくさいいながらでも美味しそうに御飯を食べる藤ねえを見ているのは気持ちがい
い。ただその食いっぷりも尋常ではないので少し抑えてくれると嬉しかったりするのだ、
やはり。
 ひとしきり御飯を食べ終えて、緑茶を一杯ずずーと胃に流し込む藤ねえ。
 周囲の雰囲気を未だに無視できる辺り、大物である事は間違いない。

「あの、藤村先生。そろそろよろしいですか?」

 あからさまな狼狽を見せていた遠坂も、流石に時間が経つと平常心に帰ってきたよう
だった。まあ、藤ねえに呆れ返っていたりするのが追加変化だが。

「うん、遠坂さん、いいよー」

 ご満悦とばかりに機嫌よく返事する藤ねえ。
 しかし藤ねえは何故驚かないのか、ある意味での驚きを隠せない氷室。大丈夫、皆驚い
ているからそんな不安そうな顔しなくてもいいんだ。

「じゃあ、衛宮君。少しアクシデントがあって話が途切れたけど、話の続きを聞かせても
らえるかしら。みんなそれを心待ちにして――――」
「って、なんで遠坂さんがいるのようーーーーー!!!!!」
 虎、大咆哮。




「はあ、いいですか藤村先生。折角私たちが衛宮君の話を大人しく聞こうとしているのに
一度ならず二度までも――じゃなくて、再三再四邪魔してくれるとはどういう了見です
かっ!!!」

 最初は呆れた口調だったが、途中から加速度的に語気を荒げていって終いにはぷっつん
した。
 うーむ、怒っている遠坂の背景というのは今にも雷が降ってきそうだなぁなどと思い浮
かべる。
 似合い過ぎて怖いし睨まれそうなので思考を遮断する。

「一度目はまあ、藤村先生だからということで許してあげましょう。けれど居間に入った
瞬間には一旦机を囲む人を全員見るでしょう? それをしなかったばかりに、私の存在に
驚いて吼えるわ、イリヤがいることに驚いて喚くわ、氷室さんがいることに絶叫するわ一
度で済むはずの咆哮を三回に分けてするなんて私たちへの嫌がらせですか!」

 しょんぼりして正座する藤ねえの前に仁王立ちして激怒する遠坂。
 怒髪天をつく、という雰囲気だが流石に髪の毛は逆立っていない。当たり前だが。
 まあ彼女がそのようになっているのにも理由があった。今しがた遠坂が話した通り、遠
坂に藤ねえが驚いた後、しばらくして落ち着いたので、話を元に戻そうと今度はイリヤが
司会進行をしようとした矢先に藤ねえが。その後氷室に対して藤ねえが……ということな
のだ。いやもうほんと疲れた。
 出来ることならこのまま眠ってしまいたい。

 ……いや、桜。永眠は希望してないから影をにょきにょきっせるのは止めて欲しい。ボ
リボリごくんとか絶対嫌だから。

「兎に角、士郎の話を聞こうよ。もう私疲れてきちゃった」
 はあ、とため息を吐いて話を促してくるイリヤ。
「そうね、士郎、早く話しちゃって」
 遠坂も疲れ果てたように腰を下ろす。
「ああ、じゃあ少し前の話からしようか――――」






「――――というわけなんだ」
「なんなの、それ。じゃあ、氷室さんは昔の――あの事件以前から士郎のこと知っている
の?」
「ああ。あのころは家庭が大変でな、いろいろあってその時に精神的に支えになって貰っ
ていたのだ。――それで、あのころ二人が呼び合っていた呼び方はだな……えと、その…
…」
「もういろんな意味でお腹一杯だし……。恥ずかしいなら言わなくていいから」

 はあ、と眉を顰めて遠坂。ならこれは私たちが心配するまでもないかーなどと言ってい
るがどう意味かは分からなかった。視線を氷室に向けるが彼女も遠坂の言っていることは
分からないようで軽く首を横に振った。

「ならしばらくは心配ないわね。リン、もう私疲れちゃったからこれ以上の話があるなら
明日以降ということでいいかしら」
「……わかったわ。ねえ、士郎。離れの部屋借りていい?」
 ああ、と頷いて、
「それとイリヤも泊まっていくといい。部屋は……そうだな、開いてる部屋を好きに使っ
てくれて構わない」
「ありがと、シロウ」

 欠伸をして居間から出て行くイリヤを見送って、風呂が沸いたかどうかを確認しに行こ
うとすると、
「先輩、今日は姉さんと話したいことがあるので私も泊めて頂いてよろしいですか?」
「ん、わかった。じゃあ、離れに一番近い部屋にするといい」
「ありがとうございます」

 立ち上がって風呂場に歩く自分の肩を叩いてきたのは、やはりと言えばなんだが氷室
だった。
「――――今日は迷惑をかけて済まなかったな」
「いや、大した事ではない。……それに、恋人というものは、迷惑を掛け合うものなのだ
ろう?」
 やや、俯きめでぼそぼそと答えてくる氷室。
「ありがとう」
「…………よせ、恥ずかしい」
「やめない」
「――――」




 士郎と自分二人が、居間に残っていた。
 藤村先生はなんだかんだ言いながら結局帰途へと着き、私はこの家に居残っている。
 尋ねる事はそれこそいくらでもある。けれどまだ、それは必要ではなくむしろ、絆を確
かめ合う事だけが必要であるように私には思えた。さらに深く言えば、絆さえしっかりし
ていれば尋ねる必要性すらないと思った。
「衛宮――――」
「…………」
 二人で黙して肩を寄せ合う。
 衛宮士郎は一体何を考えているのか、体温は私と分け合っているくせに思考はどこか遠
くへ飛び去ったままだ。おそらく何から話すか考えているのだろう。

 ――全く、コレだから彼は朴念仁だというのに。

 私の考えている事がいまいち分かってもらえない。きっとこれは誰が相手でも衛宮士郎
という男は態度を変えることは無いのだろう。しかしその、事態に対する真摯さはなによ
りも私の胸を撞く。
 なにが起きたとしても訊けば彼は答えてくれるのだろう。でもそれは同時に彼への負担
を強いている事になる。動か静か、動くきっかけの無いまま二人は肩を寄せ合い体温を分
かち合う。

「なあ、氷室。氷室は一体何から訊きたい?」

 どうやら長い間考えた挙句、何から話して良いか分からず私に疑問を求める事にしたら
しい。

「そうだな……訊きたいことは山ほどあるが先ずはイリヤ嬢との関係から訊くことにしよ
うか」

 先ずは簡単、といっても複雑そうだが、当り障りの無さそうなものから尋ねることにし
た。
 イリヤのことか、と衛宮は呟いて、

「彼女は、間違いなく彼女の言う通り俺の姉だ。といっても勿論血が繋がっているわけで
もなく、姉というよりも妹に近いような感じはあるんだがそのへんの説明は省こう。そも
そも、俺の元々の家族は十中八九この世にはいない。……ああそうだ。氷室の思う通り、
あの火災で死んだんだろう。その最中自分を拾ってくれたのが爺さん――衛宮切嗣なん
だ。そしてその娘にあたるのがあの、イリヤ――イリヤスフィール・フォン・アインツベ
ルンなんだ。爺さんは元々俺を救ってくれる前は世界中を飛び回ってるような人だったら
しくて、俺を引き取った後もよく長い事家を空けてたよ。それこそ何週間も帰ってこない
こともザラだった。だから娘がいてもおかしくはなかったんだ」
 初めて会ったときは驚いたけどね、と夢想するように目を細めて彼は紡ぐ。
 よほど大切な思い出なのだろう。それを語る彼の瞳は、私が軽く嫉妬してしまうほど優
しい。
「だから爺さんがいなくなってからは、本当の家族というものはイリヤにとって俺一人し
か居なくなってしまった。そして日本に来て……まあ、いろいろあったんだよ」
「そうか……彼女と衛宮が家族か」
 彼の告白を聞いていたときに呆然自失していた彼女の顔を思い出す。直感的に彼の話し
ていることはズレていると思った。彼女のあの顔は家族を取られたとか、兄弟に恋人が出
来たとかいう、悲しみや喜びとは遥かにかけ離れたものだった。
 いうなれば有り得ないものを見た顔。起こるはずが無いと思っていたことを否定され
た、まるで鯨が飛翔する姿を見てしまったような顔。
 そしてその後、ちらちらと私に向けられた、抑えられていたけれど隠し切ることは出来
なかった嫉妬に澱んだ視線。そして彼に向けられる熱い目。あれはもはや家族を見る目で
はなく、一人の男として見る目つきだった。
「衛宮は――――」
「ん?」
「彼女が、イリヤが好きなんだな」
「ああ」
 何の臆面も無く頷く。ただその瞳は、イリヤを姉妹とも、女と見ているのか判断し得な
い曖昧なものだった。

「……じゃあ、遠坂嬢とはどのような縁で知り合ったのだ?」
「彼女は、高校の時からの知り合いだった」

 ……驚愕の事実だったとはいえない。妥当な知り合う時期を考えればそこしかないとい
う考えの帰結がそこにはあった。そしてさらに驚くべき事実。

「彼女は俺の師匠だよ。魔術師・・・のね」
「――――」
「いろいろ教えてもらった。基礎、理論、実践、格闘。師事した期間は一年と少しだった
けどその間にいろんな事を教えてもらった」

 確かに話は聞いていた。私と衛宮が付き合うという事になった次の日。大事な話がある
と呼ばれた。どれだけ常識から言うと変で信じられなくても、先ず聞いてほしい、本当の
事を話したい。などと言われたので衛宮の家で話を聞いた時に魔術師という単語は出てき
ていたのだが、まさか遠坂嬢がそうであったなんて知りはしなかった。まあ、知ったとし
ても私がする事は特に無いし、私の気持ちも変わらないだろう。

「……そうなのか。だから、バスで」
「? どういうことだ、氷室」
「バスで二人の会話を聞き耳を立てていてな、それで少しだけ分かった。」
「そうか」
 苦笑する衛宮。何を聞いていたのかなんて訊いてきやしない。きっとそれだけこちらを
信用してくれているのだろう。
「それとな、桜は実は遠坂の本当の妹なんだ」
「……それはどういう?」
「魔術師というのは普通の人間――俺にも理解しがたい事なんだが、一子相伝でそれ以外
には魔術師としての教育も与えられない。まあ魔術刻印というのが家々には伝えられてい
るらしいんだがそれは一人だけに継がせて後をさらに、という風にするらしいんだが分か
らないので省略しよう。
 詰まるところ、間桐の家に養子に出されてたってことらしい」
 それは驚きだった。遠坂嬢と桜が姉妹だなんて私にはこれっぽっちも分からなかった。
「……なるほど」
「大体はそんなところだよ。他に何か質問は?」
「もう今夜はこのぐらいにしておこう」
「……なんなら泊まっていくか?」
 もう遅いし、と衛宮。まあ、明日はどうせ休みなのだし、相手からのお誘いだ。断るわ
けにはいくまい。
「――そうさせてもらおう」
 そして、ふっと笑った。


 今日は何もしていない。いちおう、それだけは言っておく。






「あんたは一体こんなところにいてなにやってたのよー!」
「じゃあ先輩がこっちに戻って来てるの知っていたなら、何で教えてくれなかったんです
か!?」
 姉さんが使っている離れの部屋に来て、しばらくお茶をした後に突然怒鳴ってきた。姉
さんが言いたいのは、あんなに長い間通い妻じみたことをしてきたのに鳶に油揚げ掻っ攫
われているのかとかそういうことだろう。
 とっさにメーターが振り切れて怒鳴り返す。
 そう、先輩がこちらに戻って来るなんて連絡さえ入っていれば、きっとこんな事には
なっていなかったのだ。そうに違いない。
「なによ、私の所為にしちゃって。桜の押しが弱いから、こんな時まで延長戦した挙句負
けてるじゃないのよ。高校生の間にあんたがその自慢のエロ担当の体でどうにかしちゃえ
ばこんなことにはならなかった筈よ」
「――っ、よくもそんなふうに言いますね姉さん。あのときは、士郎は私の弟子だからと
か何とか言って散々邪魔してくれやがったじゃないですか!? それにイリヤちゃんは私
が意を決して先輩に擦り寄ろうとした時にはなぜか当然のように先輩とべたべたしてる
し! あれは素であんな事をしているんですかそれとも狙ってやってるんですか!? っ
ていうか絶対皆が皆先輩を独占しようとして失敗したんじゃないですか!!」
 そう、結局は皆で潰し合いをして延長戦、と相成っていたはずだったのだが……。
「いつの間にか先輩は知らない間に帰ってきて格好良くなってて氷室さんと付き合ってる
なんて!?」
 まるで三流ドラマを見ているみたい、なんて感想を姉さんは漏らしたがそんなオチは納
得行かない。そうか、三流の昼ドラ……ならば――
「それにしても氷室さんと士郎が元々知り合いだったって言うのは盲点だったわよねえ。
……そういえばちゃんと士郎は訓練はしてるのかしら? ……勿体無いなー、士郎を手に
入れてイリヤをセットで手に入れれば私の躍進は怒涛の如く進んだのになー」
 素直に負けを認めている姉さんを横目に私は(内心で)高らかに笑う。
「…………ふふふ。先輩待ってて下さいね。貴方の桜が貴方に至高の幸せを捧げます」
 抑えきれない(邪気)魔力が迸り、私を覆った。顔がにやけるのが抑えられない、あら
大変、先輩の桜はそんな子じゃないから必死に隠しますよー。
「そう、昼ドラといえば寝取り。……ああ、なんて甘美な響きなんでしょう。必ず先輩を
氷室さんの魔の手から救い出して差し上げます」
「……魔の手ってむしろ桜の手じゃな――」
「――黙っててください」
 姉さん仕込みの中国拳法から見出した超人的蹴りを顔面に叩き込む。よし、一撃必殺。
「よーし、これで明日先輩をわたしに振り向かせるのよ」
 後ろで気絶している姉さんなんて気にならない。本当に。