私はまたしても布団の中に篭る事になってしまった。ついでに衛宮の好意で服も貸してもらった。原色に近い青のスカートと白いブラウス、なぜこんなものが衛宮の家の箪笥に入っていたのかなんていう野暮な事は訊くまい。しかしなかなか生地が良い物を使っていると感じた。
「氷室、大丈夫か? まあ、その様子だと大丈夫な筈ないか。……状態が状態だから今日は家に泊まっていくこと。いいね?」
小学生を諭す教師のような口調で肩を竦める衛宮。その言葉に私はゆっくりと頷いて返した。足の末端から頭の髪の先まで真っ赤になってしまっているとさえ錯覚してしまいそうだ。
熱。そうだ、きっとこれは熱の所為なのだろう。
異常なほどに手際よく、氷やタオルの準備を済ませてゆく。衛宮はそれじゃあ入れるからなと優しく言って、丁寧に布で包まれた氷枕を枕と入れ替えた。
呆、とした頭で衛宮の姿を見詰める。ただでさえ視力の悪い私が布団に入るときに注意された所為で眼鏡をかけていないのだから顔や服装の微細なところまで確認できるはずがない。赤い髪の毛だけが浮き上がって見える。
ただそれでも、ひしひしと伝わってくるものはあった。
それだけで私は心が温かくなったような気がした。
――望んでいた物がここには存在する。
そんなことは随分前から気づいてはいた。
――温かい家庭。
それは私には持ち得なかったものだった。信頼できる家族、喧嘩しない親、頼れる兄弟、仲の良い姉妹。その全てが私の手にはなかった。そして誰もが誰もを信用できなくて破綻に至った。
家族の絆と言うものが無いと、確信してしまったのはいつのことだったのか。それまでは自分を騙し騙しして、これが家庭というものの平均的な姿だと思っていた。
それでも、八歳の夏、周囲の友達は私のそんな幻想をいとも簡単に破壊してしまった。
仕方のないことだったのだということは今になってみれば良く分かる。誰も、小さな時から分別がついて配慮が出来る子などいないのだ。それでもその時の私にはそれが理解できなかったし、しようとも思わなかった。ただ、独りで、暗くなった公園のブランコで泣いていたのだった。
その時に私は誰かに救われたのではなかったのか。一体誰に――?
遠い日の夏の思い出。
それは今となっては夢とさえ思えてしまうほど温かかった物語。
役者は二人だけ。一途で純真。
『――ちゃん、――と約束しようよ。明日、またここで―――』
交わした約束は露と消え去り、今はただ乾いた跡が微かに残るだけ。
やがて意識の霧が懐かしい情景を覆い尽くした。
「…………」
遠い過去の記憶が思考の表層に浮かんできて泡のように消えた。知らず、涙が零れた。
それが一体なんだったのかも、誰だったのかも分からない。それだけその時は自分というものに余裕がなかったのだ。
愛されたくて、誰かと繋がりが欲しくて、でもそれは誰にも与えられなくて。
独り、闇の中で泣いていたのだと思う。
「――氷室! 大丈夫か!? 凄く――――顔色悪いぞ……病院行くか?」
衛宮の声が私の意識の中に入り込んできた。その声音は酷く苦しそうだった。
心配には及ばない程度だと思う。まあ、倒れておいて心配に及ばないもないのだろうが。
「――いや、そこまではしてもらう必要はない。それに、随分調子は良くなった」
「――――全く、どうやら俺の周りの女性方は皆意地っ張りらしい。そんな顔で調子がよいなどと言われて誰が信用出来るっていうんだ」
そう言って衛宮は私の額をひんやりとしたタオルで拭いた。
その冷たさは私の意識を溶かしていって――――
同年代から幼児の子供が公園の中を走り回っている。騒がしい、こけるな、泣くな。
――五月蝿い、もう少し静かにしてくれ。そう思った。
その日、私は夏休みの真っ只中だというのに私は麦わら帽子を被って公園のベンチに座っていた。たった独り、前日にした約束のために。
みーんみーんみーん
じーわじーわじーわ
みーんみーんみーん
じーわじーわじーわ
暑い、どうして日本の夏というものはこんなにも暑いのだろうか。ぽたぽたと汗が落ちる。
きっと太陽が日本に一番近づく季節なのだ、と教科書にもないような説明をつけた。
来ない、約束の時間はまだ過ぎていないがそれでも私は来ているのだから向こうもこないと反則だと勝手に思った。
総じて待つ時間というものは待つものにとっては長いものである、その時の私は癇癪を起こしかけた。待ち始めて一時間とも二時間とも思えた炎天下のベンチ。
時計を見ればまだ三十分も経っていなかったのだがその時の私に冷静さを求めるのは酷だと思うのだ。
いらいら、いらいら。
いらいら、いらいら。
体温の上昇が私の冷静な部分を奪ってゆく。
むかむか、むかむか。
もう待ちきれない――!
「ああ、もう! って………え?」
立ち上がった瞬間足が崩れた。意識が彼方に飛んでいくような感覚と自分の体が重力に逆らえない事実。私は背中を地面に打ち付けた。
「――――あれ? どうしたのかな」
よろよろと地面に手をついて立ち上がろうとした。けれど力が入らない。いったいどうしたというのろうか。
「大丈夫?」
そんな私に掛けられる声。それは昨日約束した子だった。その子はスッと手を差し出してくる。
手にとって無理やり上昇する。しかしまだ足に力が入らないらしく崩れ落ちてしまった。
「――あつい」
「そりゃそうだよ。こんななかで日差しのなかずっといればのぼせちゃうよ」
「――かもね」
答えるのも億劫だ。少し休めば動けるようになるのだろうと勝手に思って脱力する。するとその子は突然騒ぎ出した。
「あああ、服が汚れちゃう。どうしてそんなことするの? ちょっと、ちょっと、かねちゃん?」
「――――もうだめ」
服の事を気にする彼が気に入らない、なんて子供心に思って膨れっ面になろうとした体はそのまま意識に引き摺られていった。
――ぺた。
何かひんやりしたものが私のおでこにあたったらしい。
目を開けると彼が濡れたハンカチをぺたぺたと私のおでこにやっていた。
気づけばここは木陰。どうやら運んでくれたらしい。
「ありがとう」
「あたりまえだよ。お母さんが女の子にはやさしくねって言ってたし」
そう言い終わったかと思うと彼はハンカチを持って走り去ってしまった。なんだなんだと思っているとすぐに帰ってきてもう一度私のおでこに当てる。どうやらもう一度濡らして来てくれたらしい。
彼のおでこには薄らと汗が滲んでいる。ということは一度ではなかったらしい。
「君も、おでこ」
私のおでこを拭いていたハンカチを取り上げて彼のおでこにやった。
「――――ん、ありがと」
「どういたしまして」
彼は花が綻ぶように自然な笑みを浮かべた。気恥ずかしくなって私は、
「――もうそろそろ立ち上がるね」
「あ、ちょっとちょっと――」
よいしょ、と立ち上がろうとした矢先、崩れ落ちて抱きとめられる私。まるで私は病人のようにふらふらとしたままその子の胸に顔を埋めていた。
「あ――――」
私の何気ない声が漏れる。その子のシャツから花の匂いがした。これはなんなのだろう、目を瞑って匂いだけで判別しようとした。
「え? なになに、どうしたの?」
まだ足に力が入らないし、この体勢はなんとなく気持ちよかった。そして答えに辿りつく。
「ひまわりだ……」
「…あ、うん。今日やっと家のひまわりが咲いたんだ。それで嬉しくってずっと眺めてて――あ」
だから少しだけ来るのが遅れちゃった、ごめんねと彼は微笑んだ。
大分不満があったけど、男の子はちゃんと謝ってくれたし、結局は約束が守られたので許してあげる事にしたのだった。そのことに気分を良くしたのかその子は嬉しそうに、
「一緒に家でスイカ食べながらひまわり見よう?」
などと言うので、私も、
「……うん!」
といささか元気良すぎるぐらいに答えを返していたのだった。
その時の私は家族の不和なんか忘れてしまうぐらい元気で――――
目を開く。どうやら眠ってしまったらしい。時計を見ると私がこの客間に入って二時間ほど経っていた。まさか、ずっと傍に付いていてくれたのだろうか。
「すまないな、衛宮」
「いや、困った時はお互い様だろ?」
情けは人の為ならず、って言うしね。などと軽い調子で言葉を返してくる。その動作がいやに手馴れていて、誰にこんな手厚い看護をしていたのだろうかと夢想した。
私は表情に出さずに驚く。自分はそんなことを考えるような人間だったか。そんな私を知ってか知らずか衛宮の無骨な手が丁寧にタオルを絞り、私の額に乗せる。そしてゆっくりと髪の毛を梳いた。労わるように。包み込むように。
遠い夏の思い出。
それは甘い果実のようにすぐ口の中で溶け去ってしまう。
『今日はなにして遊ぶ?』
『そうだね……一緒に描き合いっこしよ?』
『うん!』
「――――――――」
「大丈夫だ、きっと明日には良くなってるさ。なにも辛いなどと思うことはない。仕事も、人間関係も、きっと君なら上手くやっていける」
ハッと顔を上げる。
表情から読み取ったのか、彼は私に向かってふるふると首を横に振った。その動作に迷いや澱みは欠片も見当たらない。理由も根拠もなく、彼はそう信じているのだと直感的に悟った。
そして私の顔を見詰めるでもなく、窓の方――正確には窓の外で凛然と浮かび上がっている月を、彼は眺めて呟いた。
「辛そうにしている人を見分けるのに根拠なんか意味がないんだよ。そして首を突っ込む理由も要らないんだよ。ただ、なんとなく。そう。なんとなく君が辛そうに見えたんだ」
遠い夏の記憶。
家族と喧嘩をして家を飛び出ても寂しくも辛くもないと思えるようになったのは彼と出会ってからだった。公園の隅で佇む少年少女。
『何で泣いてるの? 辛そうだよ? 大丈夫?』
『うん、大丈夫。…聞いてくれる? 今日ねお姉ちゃんと喧嘩したの――――』
染み入る彼の一言一言。
私は月を眺める衛宮の顔を飽きもせず、視界に収め続けていた。
そうして気づいた。衛宮は決定的に世間からずれていると。
顔はなぜか私たちの年では考えられないほどの深い皺と細かな傷が刻まれていたし、なによりもその姿と瞳が彼の異常性を醸し出していた。
その目に宿る深い悲しみと憂いと自嘲。
月を見詰める彼は何かに頭を垂れるように項垂れていた。
それでも続けられる私の髪への愛撫ともとれなくない手梳き。
私が長い間求め続けていたものはそんなありきたりなものだったのだ。
だからこそ、嘗ての私は周囲を羨み、妬んだ。
遠い夏の記憶。
叫んだ慟哭はいつものように中空には溶けず、彼が受け止めてくれた。
『私には良いお父さんもお母さんもいないの! お姉ちゃんもお兄ちゃんもみんな私を嫌っているの。……もう、私耐えられない。……なんで私には――君みたいな子が家族にいないの?』
『大丈夫だよ』
『何で簡単にそんなこと言えるの!? 君に私の気持ちなんかわからない!!!』
『でも――――』
しかしそれを積極的に求めようとしなかったのは私の方だったのか――
「どうしてこんなことをしている?」
つまらない理由で私は口を開いた。瞬間手が止まってなんだか寂しくなった。
「――あぁ、すまない。いつもの癖だ。過去にこうして欲しいとねだる子がいてね、つい」
なんとなしに私が放った疑問は衛宮に目を伏せさせた。それでも手は退けられる様子はなかった。安堵のため息をつく。
そしてふとした瞬間、中空を見て誰に向けるでもなく唇が動いた。
その時の衛宮の泣きそうだった顔は私には忘れる事は出来なそうだった。
「申し訳ないな、私が浅慮だった」
「――いや、俺が悪いんだよ。じゃないとアイツに叱られちまう」
「――――」
いまさらそれが誰なのかなどと訊くのは傷を抉るだけだろうと私は口から飛び出そうになる言葉を必死で押し留めた。これ以上、彼の悲しそうな顔や泣きそうな顔を見たくなかった。それに、どうしても彼にそんなことで嫌われたくなかった。
遠い夏の記憶。
彼との出会いが、日々が、幸福であればあるほど、別れは反動となって深く身に染みた、いや、突き刺さった。
錆びた日常を虹色に変えてくれた彼は唐突に私の前から姿を消してしまった。それはとても、辛かった。子供には残酷すぎる話だった。
突然街で起こった正体不明の火災。その規模は幼い私には量りきれるものではなかった。その事柄の本質だけが、子供の鋭い感性を刺激し、子供に襲い掛かる。
『ねえ、お母さん、あの子の家はどうなったの?』
『ああ、最近楽しそうに遊んでた子? ……きっと、あの火事に巻き込まれて死んだわ』
瞬間、私の足元が完全に崩れ去るような感覚が――――
ふと私は彼のことについて気になった事が合った。
「なんであんなに手馴れていたんだ? ナイフにも怯えないなんてえらく肝が据わっているじゃないか」
「――ああ、それか。……なんでもないよ」
「そんなわけないだろう……衛宮、お前は確かに見慣れていると言った。吐き気がするとも言った。何がお前をそうさせる? そもそも衛宮はどこから帰って来たのだ? お前にそんな目をさせているものはなんだ、何をお前は見た、何がお前をそこまで決定的に変えたんだ!?」
後半からは気づいたら怒涛の如くの勢いになっていた。
貝のように口を閉じる衛宮。しばし睨みあう。
「――聞かない方がいい」
「駄目だ。聞くまで眠ってやらん」
「…………アフリカだ」
やがて彼は諦めたように呟く。そして私はさらに先を促した。すると彼はぽつぽつと話し始めた。
「内戦国だ。オレは内戦国から帰ってきた。故に刃物や銃を見慣れている。オレは犯罪者だよ。殺人、戦争時の殺人罪が問われないとするならばオレは殺人罪には至らないかもしれないが」
「……! 衛、宮。なんでそんなところに――?」
「理想のためだ。誰にも、傷ついて欲しくない」
「そんな――――」
無茶な、と言いかけて言葉を呑み込んだ。言われなれているのだろう。彼はなんでもなかったかのように言葉を続ける。
「何人も何十人も何百人もこの手で殺した。――――怖いだろ?」
「…………」
自嘲するように私に向けられた手をまじまじと見詰めて私は何も言い返せなかった。目の前にいるのは殺人者なのかと恐怖を感じた。だが逆にその眼はそんな事望んでいないのを如実に現している。
「始めはどうすれば多くの人が救えるのか分からなかった。でもしばらく戦場に身を置く間に気づいたよ。どちらかを圧倒的に倒して被害を少なくすればそれが一番多くの命が残る方法だ、と。殺して殺して殺して。その何十倍の人を救って。また殺して殺して救って。そんな事の繰り返し。生き残って生命を謳歌出来るのは常に総数よりも少ない――」
「――――」
「そうして助けられなかった人は沢山いる。何人も、何十人も。掬おうとした生命は指の隙間から零れていった! どうしても零れない生命などどこにもなかった!」
「そう、なのか――」
納得する。ああ、だからこんなに彼の言葉と瞳はこんなに胸を掻き毟るのか。
誰に向けられたか分からない悲しい慟哭。辛そうな衛宮。
このような種類の叫びを私は知っている、いや、したことがある。
『――――ウソ、嘘よ、嘘だよね! ――君が死んじゃったなんて嘘だよね!!』
『煩い! 嘘なんかつくわけないでしょう!』
『――――ぁ、あぁ。――ッ!』
「まだ生きていたかっただろうに。輝かしい未来が皆にはあっただろうに!」
「――――」
「救えなかった。何処の戦場も、血と涙に濡れるばかりだ! 中東、東欧、南米、アフリカ! どこも、大義や理由が違おうとも、流れる物に違いはなかった!」
「それでも、精一杯衛宮はやったんだろう?」
「足りない、足りないんだ。いくら助けても零れ落ちる人がいる限り嬉しいなんて思えない――!」
そんな言葉を吐くことさえも罪だと受け止めるように、辛そうな表情を張り付けたまま彼は嘆いた。
「なんでそこまで……」
「誓ったんだ。遠い冬の日、俺は、俺が正しいと思えることを、正義の味方を最期まで貫き通してみせるって」
自らを金槌で叩くように己を律して、彼はそこだけは爛々とした瞳で言い放った。
その瞳は、あの、遠い過去の彼の瞳によく似ていて――――
遠い夏の思い出。
それは黄金。そのとき私の人生はこの時のために合ったのだと錯覚してしまうほどの幸福。
あの瞬間の私の喜びの深さを私はこの瞬間まで忘れていた。
『でも、ってなんなのよ!』
『なればいいじゃないか、家族に』
『――――え?』
『いつか、その時が来たら、結婚しよう?』
『…………ばか』
だが私はまた一つ知ってしまった。知らないほうが良かったのかもしれない。
――彼の理想は遠すぎて、彼がその自らの誓いを遂げる事は天地がひっくり返ろうとも不可能なのだと。
――遠い日の彼が、この目の前にいる哀しき男なのだと。
いわゆる、女の勘という直感だけで彼が気づかないところを知ってしまった。
――彼は他人を救えるが自身を救う事は出来ないのだ、と。
――独りでは、きっと潰れてしまうのだと。
そしてふいに、彼は居辛くなったのか目を伏せて立ち上がろうとした。
「………そろそろ、二時か。ここに俺がいては君が寝るのに邪魔になるだろう、そろそろ俺も寝るとするよ」
踵を返して立ち去ろうとする衛宮。
私は即座に手を掴んで引き止めた。体が、思考を完了させる前に勝手に稼動していた。
この機を逃せば彼に会うことは二度と出来なくなるような気がして。腕が腕なら口も口だった。
思い出すのは、遠い日の約束。
それは私の人生を、狂いかけた私の精神を大きく矯正してくれた、私がショックのあまり忘れてしまっていたもの。どこまでも貴い。彼がいなければ今の私はなかった。
『どう、かな?』
『うん。……約束だよ?』
『ああ、きっと』
『なにかがあっても私は絶対に忘れないんだからね!』
『僕も、頑張る』
『絶対覚えてるって言いなさい!』
『――うん!』
「……ここに、いてくれないか?」
繋ぎとめるために紡いだ言葉は、笑い出してしまいそうなほど馬鹿みたいな科白だった。
きっとこの瞬間だから紡げたのだろう。普段ならこんなこと自分が言う科白だとは思えなかったがこの時の私は、自分とこの場に今言った科白は合っていると、完全に本気だったのだ。
考えずに口から飛び出た言葉に表も裏もある筈がなかった。
その言葉は唯一の真実で絶対。
そして次に紡いだ言葉も、考え尽くされたものだったが、真実だった。
「この布団は、独りでいるには広すぎる……」
驚愕に目を見開く衛宮。そしてまじまじと私を見詰めた。
これはもしかしたら一時の夢かもしれない。
ただの二人の行為はお互いの傷を舐め合うだけの情けないことなのかもしれない。
だとすれば私は酷く滑稽――――だとしてもよかった。
それでも良いと私は決めていた。
そして衛宮の掠れるような声。
「氷室――――」
「覚えているか、衛宮」
「――――どういうことだ?」
「ある、遠い夏の日のことを」
「…………」
「一人ぼっちだった少女の前に現れた少年。そいつはその子のことを救った」
「――――――」
「家庭崩壊に揺れる少女の心を救った、一人の少年」
そこまで言って大きく息を吸い込む。胸はばくばくいってるし、顔は真っ赤っか。
それでも彼には思い出して欲しかった。
――あの、遠い日の思い出を。
あえて私は昔の口調に、出来るだけ近づけて喋った。
「ね、しろ君。あたしのこと、そして約束の事、おぼえてる?」
「――――あ、あれ? なんで――――」
衛宮は大きく眼を見開いて、なにか信じられないようにがたがたと体を震わせる。
「――――いや、ま、だ。……まさか、覚えていたというのか……?」
何かを思い出そうとしている。でも、余計な事は思い出させてあげない。
「――オレは、誰だ?」
「いいじゃない。しろ君はしろ君で。他の誰でもないよ。昔の、優しいしろ君のまんま」
「あ、れ? かね――ちゃん?」
「そう。もう一度聞くけどあの日の約束、覚えてる?」
「――――」
瞬間的に身を引こうとしたしろ君、いや、衛宮を引き止めて、口調を戻して言う。
「忘れた? それとも私は嫌いか?」
「え……ぁ、いや、そんなことは――」
「じゃあなにか、私には興味がないか?」
「そんな――いや、オレは血で汚れすぎている。氷室みたいな普通の女性に近寄ってはいけないんだよ。第一、このオレに幸福など身に余りすぎる――――」
「いいんだ。これは私が決めたことだ。あとは、衛宮の決断次第だ」
俺なんかでいいのか、などと言いそうな衛宮の言葉を遮って言葉を被せる。
覚悟は出来ている。必要とあらば地獄まで付いてゆく覚悟すら出来た。
彼ならば私の心の傷を癒す事が出来るだろうし、私も同じことを彼に返すつもりだ。
恩には恩を、仇には仇を、友には信頼を、恋人には愛情を。
「――いいんだな」
「ああ。……何度も言わせるな、全く。私に恥をかかせる気か? ……まあ、そんなことはどうでもいい。―――――おいでしろ君、布団の中は暖かいよ」
私はゆっくりと布団の裾を持ち上げて彼の腕を引いた。
それに合わせてゆっくりと彼は布団に入ってくる。
そして啄むような口付けをした。
真正面から近距離で向き合う。
衛宮は涙を流していた。はらはらと、誰にも知られないようにという本人の意思の所為か異常なほどに静かさを以って。
何故かは分からないと本人はいいたげであったが、そんなこと決まっている。
遠い日の思い出を思い出してくれたのだ。
しかし彼も不思議そうな目で私を見ていた。
――なんてことない。私も涙を流していたのだ。
遠い日の思い出を忘れていた者同士の愛の儀式。
そうして私たちは、離さない右手ではなく、左手でお互いの涙を拭った。
そしてもう一度触れ合うように、でもさっきよりは少し強めに口付けをした。
意を決する。それは向こうも同じようだ。
「いいかい?」
「ああ、だが初めてだから……なるべく優しくして欲しい」
いいか、と訊くと彼は真っ赤に顔を染めて、
「当たり前だろ、氷室だって女の子なんだから」
とぶっきらぼうに返してきた。
人工の光が消える――――
そうして二人は溶け合った。
「というわけだ」
「「――――――――」」
「む、何故二人は鯨が空を飛んだような顔をして絶句しているのだ?」
「だだだだだって」
「なななな、なぁ?」
「そろそろ到着だな――――」
「え――?」
「あ――」
「やあ、鐘」
「ああ、士郎。少し遅くなった」
「これぐらい大した事ではないさ。さあ、家に入ってくれ。大したもてなしは出来ないが料理ぐらいならそれなりの量を取り揃えた」
「さあ、行こうか士郎」
「そうだな、鐘」
「「――――――」」
「? どうした、二人とも。置いて行くぞ?」
そうして始まる二人のための道程。これは、fateでありまた異聞でもある。
これからの二人の道はどうなるか分からない。ただ、彼等は彼等なりの幸せを見つけることになるだろう。まだ目標は遠く、路も道幅も分からない。だがもし二人分の道がなくとも彼は彼女を抱え上げて歩み出すだろう。まるで、それはヴァージンロードのようで――――――
fate/other story end
「士郎がお姉ちゃんに内緒で結婚しちゃった――――!」
なんていう後日談があったりなかったり。 おしまい。