「――――は、……つ」
目が覚めた。それはあまり良い夢見では無かった。印象だけを簡潔に伝えるならば黒であろうか。
しかしその強烈な印象も起きたその布団と部屋の静謐さに全てが飛んでいったような気がした。
その部屋には何もない。本とか電子機器とか、普通の家ならば一つの部屋に一つずつはおいてありそうなものさえもそこにはなかった。
空はもう暗くなってしまっていて肌寒かったが、私が昼間着ていたような薄めの外出用の服とは別に縦縞模様のセーターが枕もとに置かれていた。これで温まってくれと言う事だろうか。
「ここはどこだ?」
少し頭もはっきりしてきた頃、当たり前といえば当たり前な疑問を口に出す。少なくともあの怖い男の部屋でない事は確かなのだろうと考えてから、赤い服を着た男の家なのだろうなと思い当たった。かたわらに黄色い縦縞のセーターが置いてある。周囲が寒かったのでこれを着ろということなのだろうかと感じた。
とりあえず家人が置いてくれたであろうセーターに袖を通して周囲を見回す。襖を開けると沢山の部屋があると一目に分かるほど長い廊下があった。これも心遣いなのだろう。見ると一方向にだけ電灯がつけられていた。
「とりあえずは会ってみることが必要か。礼を言うのが先だな」
一人でうむと納得して誘導されるように廊下を歩いた。ここが古来の日本家屋、またはそれを模していることはすぐに分かった。そうして少し歩くと襖から明かりの漏れている部屋を見つけた。
気を落ち着かせるように深呼吸を一つ。容易に覚悟は決まってくれた。助けてくれた人に会うのに覚悟もなにもないんだが。
「家人はいらっしゃるのか?」
スッと襖を開けて声を掛けた。意外にも家人はあっさりと見つかった。襖を開けた先の台所に慣れた様子で料理をしていた。その服装は夕方見たときと同じ赤の服を着ていたが、それもまたこの台所に妙にあっているような気がしてこの情景を絵に描いてみたいと思った。そう心から思えたのはとても久しぶりの事だった。
とんとんとリズミカルに何かを切っていた彼は私が入ってきた一瞬、動きを止めた。
しかし次の瞬間には何事も無かったかのようにリズムを取り戻しつつ私に背を向けたまま告げた。
「ああ、起きたのか、――無事でよかった。まあ、少し待っててくれ。じきに夕食が完成する」
やはり、酷く優しい声だった。どこか掠れているテープのような弱々しさも感じられたがそれ以上に労りを感じた。
すぐに礼を告げて帰ろうと思っていたのだがその言葉につられて決心が鈍ってしまった。決して匂いにつられたわけではないと思う。そうして少しの間だけ俯いて考えた。
「ああ、遠慮なくご馳走に預かる事にする」
結局頷く。まあ、助けてくれた者にしっかり礼を言うのは理に叶っているのだろう。別に、ここに泊まるわけではないのだから夕食ぐらいは良いだろう。それに、一人じゃない食事など久しぶりだ。
私は料理が出来たと言われるまで彼の逞しい背中をなんとなしに眺めていた。
数分後、食卓に並んだ料理の多様さに私は驚愕していた。
漬物、味噌汁、焼き魚、天ぷら。その量、一食で食べる量ではなかった。
「――少し作りすぎてしまったけどまあ残れば明日にでも食べればいいか。……どうした? 食べないのか、それとも食べる前に神に祈ったりでもするのかな?」
軽く、おどけたように訊かれた。いや、と私は首を振る。その答えに彼は、そうか、とだけ言って料理を勧めた。
少し、と言うがとんでもない。きっと私が四人いても一晩じゃ食べきれないだろう。
ともあれ、薦められているのに食べないのは礼儀に反するだろうし、私もお腹が減ってきていたのでいただくことにした。
漂う芳香に誘われ箸を手に取る。いただきます、と手を合わせてから先ず最初に味噌汁を口に運ぶ。
「――む、これはなかなか」
「――それは良かった。君の口に合うかどうか心配したよ。じゃんじゃん食べてくれ。今日は久々に二人で食べることになるかもしれないと思ったからつい気合いが入りすぎてしまったからさ」
「気を使っていただく程ではなかったんだが。まあ、そのおかげでこの料理を食べられるのだから悪い気はしない。それに私も複数の人数での夕食は久方ぶりだ」
「なるほど、似たもの同士というわけかな?」
「そうかもしれないな」
ふふ、と二人で顔を突き合わせて笑った。彼は微かに唇の端を上げて、私は声を潜めて肩を震わせる。なにか、とても暖かいものを感じる。今は、その曖昧な感覚に浸っていたかった。
「それで、君は誰なのかな? 今更といえばそうだが、訊いておくに越した事はないだろう」
食事も終わりかけになった頃、彼が話を切り出した。
「そういえば失念していた。どこかで会ったことがあるような気がしてな、どうも初対面とは思えなんだ」
思ったことを素直に伝える。どうやら今日の私は平生に比べて大変饒舌らしい、と思考した。
どうやら向こうも同じことを考えていたらしい。視線が交わり笑いを堪えた。
「確かにそうだね。こっちもそう思っていたかもしれない」
彼はぽりぽりと照れくさそうに頭を掻いた。
こちらもどうしていいか分からず苦笑した。
「まあとにかく自己紹介といこう。私は氷室鐘。新都の方でOLをやっている」
「へえ、そういう風にはあまり見えないな」
「よく仲のいい友人二人組みにはそう言われる」
ふと蒔寺の顔と由紀の顔が頭に浮かんだ。
二人は知りもしない男の家に私が上がりこんでさらには夕食を共にしたと言ったらどう反応するだろうか。驚くか、呆れるだろう。それとも話を飛躍させて酒の肴にでもするだろうか。
「氷室、鐘さんか」なにか感じ入るようにして再度呟く。
「ん、変だと笑うか? 私はなかなか気に入ってるのだが」
「いやいや、そんなことはないよ。古風であろうが今風だろうが綺麗な名前はどうあっても綺麗だし、君と言う存在は不変なのだろう? ならばいいじゃないか。それに、鐘という透き通った音も、漢字の印象もきっと君に合っている。その言葉、誓ってもいい」
大真面目にそんな戯けたことを言う。
今までそんなに絶賛された事も無かったので少し面食らったが素直に受け取る事にした。
「それで、貴方の名前はどうなのだ? 私はそろそろ名前が訊きたいのだが」
「ああ、俺の名前ね。そんな大層なものはあまり意味はないが………。まあ訊かれているのだから答えるのが礼儀か」
「……? 名前を答えるのが嫌なのか?」
「そう、なのかな。正直分からない。……まあいい。衛宮、衛宮士郎だ」
どこか訊いてはいけない部分を訊こうとしてしまったのか。
その男――衛宮は一瞬瞑目してそう呟いた。
「エミヤ? 聞き覚えのある名前のような気がするが……」
「――――」
スッと眼つきが少しだけ鋭くなる。
射抜かれるような鋭い視線に私は軽い恐怖を覚えた。
「射抜かれる……思い出した。衛宮は穂波の出身か?」
「――あ、ああ。それがどうしたんだ?」
彼はいきなり出身を訊かれて困惑したようだった。
これがあの有名な、などという大したことのない感動を彼に覚えて、軽く眺めつつ私は更に言葉を紡いだ。
これはただの確認だ。おそらく私の予想に間違いは無い。
「元弓道部のエースで便利屋の?」
「……多分そうだ。というよりもなぜ知っているんだ? 有名になった覚えは無いんだけど」
驚いた事を言う。衛宮はあれで目立っていないつもりだったらしい。
彼の親友と名高い生徒会長――柳洞一成は何も忠告しなかったのだろうか。
そんなどうでもいいことを思い浮かべた。
「何故も何も、私も出身と学年が一緒だ。クラブは陸上部に所属していた」
「……それはすまなかったね。最初に君の名前を聞いたときに思い出すべきだった」
「いや、衛宮とはクラスが一緒になったことは無かったから仕方あるまい。まあ、私は二年の時はかの遠坂嬢と同じクラスだった」
遠坂の言葉に彼は微細な反応を示した。あからさまでなく、また隠そうとしているわけでもないただの反応だ。だがしかし私は興味半分で言葉を継ぐ。
「確か彼女は美大で海外留学したはずだったな。彼女の事だから溢れる才能を周りにひけらかしているのではないかと思うが」
「いや、そうでもないらしい。なかなか粋のいいライバルがいたらしくて、ソイツと切磋琢磨しているそうだよ」
意外にも衛宮は私の言葉に食いついてきた。話した後にしまったという表情をしたがそれを見逃す私ではない。衛宮と遠坂嬢の接点がいまいち掴めなかったが後々話のネタになることを期待して訊いてみる。
「はて、どこで最近の情報を?」
「……まあいいか、そのぐらいは。ああ、倫敦で偶然会ってな、なかなか楽しそうにしていたよ」
もちろんあの時以上に美人になっていたよと目を細めて心なしか嬉しそうに語る衛宮。なぜかその表情に私はムッとしてしまっていた。目の前に見た目麗しき(遠坂嬢には及ばないが)女性がいるのにも関わらず別の女性を褒めるというのはどうだろうか。
――いや、私は何を考えている。
「ん? どうした氷室。体調が良くないのか?」
なんの気負いもなく顔を覗き込んでくる衛宮。その顔に貼り付けられた表情は私を心底心配しているようで、別にそんなつもりもない私は瞬間的に退いてしまっていた。
「――そういうわけでは……」
ぺた、と私が後退するよりも何倍も早く彼は近づいてきてごつごつとした掌を私の額にのせる。予想以上にひんやりとした彼の手は私の熱を奪ってくれたが、それ以上に私が発熱する量が増えてしまった。というか衛宮という男は地でこんなことをするのか。まったく。こんな男と付き合うあう女性は苦労するだろうな。というか体が火照っている私はその女性になれる可能性があるのだろうか。あれ、私は一体何を考えている。久しぶりに高校時代の有名人にあったからといってこんな気分になる筈が――ふむまさかこれがいわゆる一目惚れというやつかああ頭もあついなこんな時には冷えた日本酒の水割りが美味い――
「――む、これは酷い」
渋い顔をして衛宮が呟いた。なにが酷いのだろうかまさか私の今の精神状態を掴んでいて乱調っぷりが酷いと――?
錯乱気味にうわ言を呟く私に向かって衛宮はふわりとした笑顔でこちらを見た。
――駄目だ、本気で格好良いかもしれない。
周囲にいい男が少ない男日照り気味の私にあの笑顔は反則だ。
そんなことを私が考えているとは露知らず、衛宮士郎はまたふっと笑った。
「まあ、乗りかかった船だ。最後までしっかり世話するとしますか」
衛宮は苦笑してこちらを見て――
「まあ、ここで第二話は終わりなわけなんだが……」
「鐘ちゃん酷いー」
「うっわ最低。最悪なところで切ったねアンタ」
「仕方ないだろう。まだまだ話も夜も長いんだ」
「夜!? 長いの!? なにがあったの!?」
「――――嘘だろ……そんなラブコメみたいなの……」
「そう憧れるな蒔寺、きっといつか君にも白馬に乗った王子様は現れる」
「そんな妄想みたいな夢見てるの!?」
「――――うるさい! そんなのアタシの勝手だろう」
「まあ、その通りだな」
「……そうかもね。でも私達今何処に向かってるの?」
「無視するな! こら、先に行くな、待て!」
「どうせここまで来たら最後まで付き合ってもらおうか――」
まだまだ続く。