「ツァイツェン」
街はいつも通りに多くの人が行き交っていた。
老若男女の人々がそれぞれの目的地を目指して歩いている。灰色のビルが立ち並ぶ新都の空気は自分にはあまり合っていないと思った。この新都にオフィスを構えるとある会社に大学を卒業して就職したのは良かったが、働き始めて五年も経った今思考しなおすと、なかなか自分には空気が合わないらしかった。
流石に新都は人が多い。自分のような会社帰りのOLもいれば、サラリーマンもいるし、学生もいれば主婦もいる。ただ、その人の多さに辟易するのもいつものことだと諦めて私は歩き出した。
矢張り、商店街の方に行くべきだったか。
それなりに大手のスーパーに入ってすぐに私は顔を歪ませた。
「タイムサービス! ただ今からもやし一袋10円! 限定300個!」
どうやら特売の時間に来てしまったらしい。混み合うなかを悠々と移動して商品を買えるほど私は頑丈でもなかったし、ましてや戦線に参加などという真似もしようとも思わなかった。
騒がしい店内を出来るだけ人にぶつからないように慎重に歩いて買い物をした。数人向こうからぶつかってきたのだが、二桁にとどかない分だけ今日は幾分か前回よりましだった。
前回特売の時間に来てしまった時は酷い目にあった。考えが甘かったのもあったのだろう。
特売の所にさえ向かわなければたいした事はないだろうと高をくくっていた私だったが、その数分後自分の考えを改めざるを得ないほどに私は疲弊していた。押し合い圧し合い、世のおばちゃんたちは特売のポイントに向かって突貫していく。その射線上に私はいたのだ。
その時ばかりは二度とこんな店来るものかと思ったものだったが、如何せんここは仕事場に近く便利なため性懲りも無く足を踏み入れていた。全て、特売の時間は外していたのだけれど。
そう前回のことを思い出して少しだけ落ち込んだが気を取り直してレジに向かった。
そう、今度からは絶対にマウント商店街に行けば良いのだから。
一人ごちてバス停に私は向かった。
――プシュー。
目の前で(といっても5mほど離れていたが)バスが行ってしまった。次のバスの予定到着時刻は四十分後。到底待とうとするような時間ではなかった。両手が荷物で塞がっていなければ踵を返して新都へ向かうのだが生憎二三日分の食料を買い込んだビニール袋はパンパンにふくれあがっていた。手に食い込んでいる部分が少し痛かった。
「仕方が無い。歩くか」
自分に言い聞かせるように呟いた。どうせ家に着くまで歩いて三十分程だバスを待つのも面倒くさい。
とぼとぼと周囲には分からない程度に落ち込んで歩き出した。がさがさとビニール袋が揺れる。今日の晩御飯はどうするべきだろうかと冷蔵庫の中身を思い出しながら考えた。特売ほどではないがそれなりに安いものを選んで買っているのだ。メニューなど考えているわけではない。
ぶつぶつと品目の候補を上げながら橋のタイルを見ながら歩いていた。
――突如に衝撃。
「なにぶつかってくれてんだ、そこの女」
醜悪に顔を歪ませて男が告げた。どうやら私は今晩の夕食の事を気にしすぎてこの人相の悪い男とぶつかってしまったらしい。内心で大きく舌打ちをした。
「…む、それは申し訳なかった。考えに意識が向きすぎていたようだ」
内心で自身を叱咤しつつ毅然に言葉を返す。
ただその態度が逆効果だったのか男が目に見えて憤った。
「ああ? 何様だ手前。女の癖に態度がでかいんだよ」
「申し訳ないと謝っているではないか。元々がこういう性格をしているのだから許してはもらえないだろうか。可能な限り穏便にいきたいのだが」
相手の挙動を目で捕らえつつ私は言葉を返した。見るに、この男は堅気の人間ではないという事はすぐに分かった。もちろん藤村組でもないだろう。藤村組の人間はとても統率されていると聞く。ともあれ私だって女性としては平均的、又はそれ以上の運動能力は保有しているつもりだが、目の前にいる男のような人間を相手に出来るほど肉体的に強くは無かった。
「ちょっとこっちへ来てもらおうか」
「――――――」
下品な笑いと共に私の手を取ってくる。反抗しようとしたが筋力の地力が違った、全く抵抗になっていなかった。そのまま引きずられていく。
運の悪い事にこの時間帯、車は通っていても人はあまり通らないらしい。何故か周囲に人がいなかった。非常に、この状況は拙いのではないだろうか。
そんな当たり前の事しか今の私には考える事が出来なかった。
私の大した事ない想像力がこの後の事を想像する。
一、金を取られる。
ニ、犯される。
三、両方。
碌な事になりそうも無い。というかなぜ私がこんな目に会わなければならないのだろうか。私は悪い事を何もしていないのに――。ああ腹が立つ。
下卑た男の顔が私の瞳に写る。なんて憎たらしい。腹の立つ。毒々しい顔。
もしもこれがアニメとか、私の友人の三枝由紀香がよく読むような少女漫画だとしたら正義の味方が現れて私を助けてくれるのに――――
などと意味のない事を考えてしまう。それぐらい私は切羽詰っていた。
「――――おい、アンタ。一体その人をどうするつもりだ?」
「――なんだ手前。やんのかコラ」
突如男の手が横から伸びてきた赤い服を着た男に握られた。
驚いてその男を見上げる私。
その男は普通のスーツケースを引いていた。一見、出張帰りのサラリーマンに見えなくも無い。どこかのスポーツマンにも見えそうな筋肉のつき方をしていたが、その男の印象はそれらを越えて赤い服という一点に集約されていた。少なくとも私はそんな服装見たこともない。
「殺すぞコラ、邪魔すんなや」
「低俗な……。これが日本か? 日本とはこんな国だったのか?」
「――――なんだ?」
見上げた男の服装は上から下まで真っ赤だった。身長も私の背よりも一回りも二回りほども大きかった。なにより、その男の目が煉獄の如く、昏い怒りに燃えているのが私の目に焼きついた。口調も純粋な怒りと言うよりも、嘲弄の混じった口調だった。
相変らず下品な顔つきをしていた男が、怒りに顔を真っ赤に染めた。放り出される私の手。その反動で私は建物の壁に激突していた。背中に衝撃が走る。逃げ出したいのに逃げられない。いや、それよりも逃げ出して私はどうするつもりなのか。私を助けようとしたこの赤い男を放っておいて逃げ出すのはこの男を裏切ると言う事に他ならないのではないだろうか。
「なにをわけのわかんねえことをペラペラと」
「なんだ、まだ分からないのか? ……まあいい。要するにアンタはこの世界のクズだと言っているわけだ」
間違いないだろう、と皮肉げに笑う赤い男。
「ンだと!」
「見るところあんた堅気の人間じゃないだろう? ならば爺さんに任せるのが一番か」
相対した男は震えている。この男の痛烈な非難に晒されて、怒りを剥き出しにしようとしていた。
突然懐に手を伸ばす。男が手にしたのは手から少しはみ出る位のアーミーナイフだった。その動作がサラリーマンが名刺を出すぐらい自然な動きだったので驚いた。それによしんばそういうことを日頃からしているとはいえ素人相手にあまりにも自制心に欠けるのではないのかと思ったがもしかすると覚せい剤でも使っているのかもしれない。そうして武器を手にした男は赤い彼に切っ先を向けた。日差しがナイフに反射し煌く。
「――ハ、なにいってやがるんだ。これを見ても手前は平常心でいられるか?」
「……無論だ。そんなもの見慣れすぎて吐き気がする。……やれやれ、そんなもの修練がなければ使えまいに。貴様は素人だろうが」
やれやれと赤い男がため息を吐く。その動作は目の前にナイフがあることに気づいていないのではないかと私に思わせるほど自然で無防備だった。
「なんだよ、なんなんだよ。なんで手前はそんなに平然としていられるんだ!?」
怒り狂ったように、また怯えるように言葉を紡ぐ。赤い男は明らかにこのナイフを持った男を素手で圧倒していた。そこには武器を持って男が感じるはずの優越感や赤い男が感じるはずの恐怖は全くなく、また逆に赤い男が勝ち誇っているわけでもなさそうだった。
ただその瞳に映るのはナイフと哀愁のみ。
「――ク、クソッタレが!!!」
――危ない
そう私が思う頃には赤い男はとうに極端に低い体勢で疾走を始めていた。突き出されるナイフをものともせずに突進しそのままみぞおちに肘を叩き込んだ。その行動はこの国にいるものとして不自然なほどに手馴れている。
「遅いし、武器の扱い下手だ。ましてやこんな天下の往来では使うべきではない」
無常に赤い男が言い捨てる。次の瞬間私が気づいた時には下品な男の腕からはナイフが取り落とされていた。続く固形物が無理やり折られるような妙に高い音。
「ぐ、ガァ――――」
赤い男に軽蔑されるように見下されている男。その顔は恐怖と苦痛に歪んでいた。
明らかな実力差がそこにはあった。
「馬鹿な事だ。こんなことをして一生を棒に振るなんて勿体無いし、無駄が多すぎる」
そういいつつも彼はポケットから携帯電話を取り出して電話をかける。二三会話をするとぷつんと携帯電話を切った。そしてため息を吐く。
「……ふう。それで、君、大丈夫かな?」
口調ががらりと変わる。あのような言葉を吐いていた割に案外と私を見詰める顔と瞳は優しげだった。今まであのような戦いを見せていたとは思えないほどの口調。
「ああ、背中を打った程度でそれ以外はどうってことない」
「それは……済まなかった」
驚くべき事に彼は謝った。そのまま彼は訥々と謝った。
「もう少し俺が早く動いていたらこんな事にはならなかったのに……」
「いや、そこまで思い悩むものでもなかろう。十分私は助けられた」
「しかし――」
そこまで彼が言った瞬間、私の肩がだらりと垂れた。どうやら緊張しすぎたらしい。ついでに意識もそのままもっていかれて――――
「え、あ、おい! 君、大丈夫か!?」
狼狽した彼の顔が見える。私はなんだかとても安心した。だってその私を心配する瞳と態度は誰由も真摯で真っ直ぐだったから。鋭い彼を優しい彼が装っているのだと確信したからだった。
そしてその顔は何か見たことのあるような顔で――
「ふむ。これで第一話は終了だ」
「えーー。鐘ちゃん続き教えてよー」
「そうだぞ。一体その後がどうなったのか。それとソイツが誰だったのか知りたいじゃないか」
「――――あ、名前を聞くのを忘れてた」
「え!?」「嘘!?」
「嘘だ」
「「……………」」
「――――まあ待て、とりあえずは喉が渇いたことだし各々注文した物を飲もうではないか」
「気になるなぁ」
「嘘かよ――ったく分かったよ」
「まだ今日という時間は長いからな。慌てる事もあるまい」