「これで今日の分は終わり?」 ぐるぐると凝った肩を回しながら目の前の亜衣に尋ねる。最近忙しくなってきているためか、今日の仕事は格段にきつかった。俺の声には達成感よりも疲労感のほうが多めに含まれていることだろう。 今すぐにもこんな面倒な仕事は放り投げてしまいたいのだけれど、曲りなりにも自分でやると決めた“神の遣い”の仕事。ぐっと我慢して続けるしかない。例えどれだけ無理やりな状況から始まったとは言え、やると決めた事はやりとげるのが男子の本懐というか何と言うか。 「ご苦労様でした、九峪様。残りは私が指示通りにまとめておきますので、今日のところはお休み頂いて構いません」 「そっか。ありがとうな」 「いえ、これが私の職務ですから。九峪様、最近は睡眠時間をかなり削られていられるようですので、お体に気をつけて下さい。それでは」 俺と同じだけ、あるいはそれ以上の仕事量を抱えているにも関わらず、どうして亜衣は平静な顔をしていられるのだろうか? そんなことを考えながら亜衣に感謝の言葉を返しておく。亜衣は俺の視線に気付くことなく、そのまま部屋を出ようとする。 その歩みには微塵の揺るぎもない。本当にタフな女性だ―――などと思っていたら、かたんっ、という音がして亜衣の手から木簡が滑り落ちた。「ああ、すみません」と言って直ぐに亜衣は木簡を拾うが、その動作は素早くない。遅いわけではない。だけど、常に機敏である亜衣らしくない普通の動作だった。 その姿を見て「ああ、俺は馬鹿だな」と思った。俺が疲労困憊になるほどの仕事をしているということは、その俺のお守りもしている亜衣は更にそれ以上の仕事をしているということにどうして気がつけなかったのか。 こんな俺の洞察力の無いところは本当に“神の遣い”に相応しくない。 「亜衣、大丈夫?」 「……見苦しいところを見せてしまいました」 「いや、そんなことは無いから。それよりも疲れているなら、ちゃんと休んでくれよ。何といっても俺がいなくても復興軍はどうにかなるけど、亜衣が倒れてしまったらそれでお終いなんだからさ」 冗談めかして笑いながら言う。 亜衣という人間は長所も短所もその勤勉さにあるという、非常に真面目な性格の持ち主なので、誰かがやんわりと止めておかなければ際限なく仕事をこなしていこうとする。その責任感の強さは好ましいものだけど、それと同じくらいに心配にもなる。 「いいえ、きっと復興軍は九峪様がいなければ―――」 「亜衣、頼むから休んでくれ」 律儀にも何か言おうとしていた亜衣の言葉をさえぎってお願いしておく。俺のお守りがきつくて倒れられたとなったなら目も当てられないし、それ以上にさっきの俺の冗談は真実が含まれているから。 亜衣がいなくなったら復興軍は沈没してしまうだろうってことは簡単に予想できるし。というか亜衣がいなくなって平然としている復興軍を想像することなんて不可能だ。 「……はい、では少しだけ仮眠を取らせてもらおうかと思います」 「うん、それがいい。お疲れ様。また明日もよろしく頼むよ」 「こちらこそ。それでは失礼します」 どうにかこっちの願いが通じたのか、最後に少しだけ笑って亜衣は部屋を出た。 その姿が見えなくなるのを見送った後に、はあっとため息をつく。凝った首を左右に回すとゴキゴキと骨がいい音をだして鳴った。人に色々と言っておきながら俺も結構疲れているようだ。まあ、俺は体力ないし根性もないから今までよくもったと自分で自分のことを褒めてあげたい気持ちです、みたいな。 「さて、これからどうしようかなあ」 疲れている割には精神状態が高揚しているようで目を瞑っても眠たくならない。頭を使いすぎて精神的にハイになっているようだ。こんな時にはどうすればいいだろうか? ―――と、いったら答えは一つしかないか。 現代に帰って行えば違法であることは間違いないアレ。 日魅子の爺さんに付き合わされたアレ。 藤那の生命の源であるアレ。 酒だ。酒を飲もう。きゅっと一杯呑んで、ぐでんぐでんになって眠ってしまったらきっと気持ちいいはずだ。 / お酒は心の潤滑油。 「……なんて思っていたのに、誰も相手が見つからないというのが寂しいな」 取り合えず仕事で部屋を空けている藤那のところに行って、隠してある酒を強奪してきたところまでは良かったものの――きっと藤那が帰ってきたなら俺と藤那との間で過去に類を見ない凄い口論というか殴り合いが起きる可能性もある。が、きっと閑谷は俺の味方だ。だって俺に藤那の飲酒癖を治療してくれって頼み込んできたことあるし。だから隠してあった藤那の酒をガメたことは閑谷の目的にも沿うはずだ――そこからが上手くいかない。 酒を一緒に飲む相手が見つからない。 一人では切ないので誰かに晩酌でも頼もうかなあと思っていたのに、藤那や織部、重然、あるいは伊部といった酒飲みーずは揃っていないし、清瑞も諜報活動とやらで今はいないので俺を構ってくれない。 まさか珠洲や閑谷や羽江のお子様ーずに酒を飲ませるわけにもいかない。 星華や伊万里、上乃や只深や宗像姉妹の上二人は酒を余り飲まないし、志野は本人の名誉のために控えめに表現するなら酒乱であるので酒飲み相手としては除外しないといけないし、伊雅のおっさんだと業務接待でも受けている気分になって心苦しそうだ。 香蘭に酒を飲ませると、何か悪い事をしているような罪悪感にかられてしまうし、紅玉さんに至っては苦手だ。ただでさえ艶のあるあの人が酒でも含んでうっすらと頬でも上気させようものなら、精神レベルが高校生である俺は太刀打ちできるはずも無い。というか理性がもちません。まあ紅玉さんほどの魅惑的色気系美人に限って俺みたいなのを相手にするようなことはないだろうけど、まかり間違って誘惑なんてものをされてしまったら五秒、いやさ二秒で陥落する自信がある。そしたら筆でも下ろさないといけない。なんて、素敵な展望―――じゃなかった、俺はまだ香蘭という自分と年の近い義娘を持ちたくは無い。せめてあと四年ぐらい遊んで暮らした後なら考えたくもなる魅力的な選択肢ではあるのだけれ―――って、さっきから何を考えているんだ俺。これじゃあ珠洲にスケベと言われても反論できないじゃないか。 ……まあ否定するつもりなんてないけど。誰かに白い目で見られない限りは。伊万里や清瑞みたいな純情派に白い目で見られるのは精神的にきついからなあ。―――九峪雅比古、外面だけは良くしておこうとここに決意するのであります、とか未だ見ることのない火魅子様にでも誓ってみたり。 ……えーっと、逸れすぎた。考えを戻そう。確か酒の相手のことだった。酒の相手。 音羽だときっと、夜遅くに飲酒なんてするものじゃありませんとか言って俺を叱ってくるだろう。そうなったら弱い。年上に「めっ!」と言われることほど俺のような男を縛る言葉なんて存在しない。危険だ。さすが音羽。 なら愛宕はどうだろう? ……まあ、ガチガチに緊張してしまうから俺が逆に相手を気遣わないといけなくなりそうだからダメだな。 寝太郎は、……バラの香りがするので絶対に却下。酔った状態であいつの前に出たら何をされるかわかったものじゃない。きっと想像する事も恐ろしい結果になってしまうはずだ。おぞましい。 忌瀬と真姉胡コンビは、考えるまでも無いか。まず真姉胡は子供だし、それ以前に忌瀬は平気な顔して酒の中に笑い薬でも混入してきそうだ。しかも忌瀬は毒物には耐性がありそうなイメージだからアルコールなんて効果ないかも。つまりは誘えるはずも無い。 ていうか手詰まりだろうか? 復興軍にはこんなにも人がいるのに晩酌の相手すらいないなんて不思議だ。 「……こうして考えてみると、日魅子は良い女だったよなあ」 気がつけばいつも隣を歩いていたし、何かやりたい事があったら手伝ってくれた。きっと酒でも呑もうと誘ったら「未成年が悪ぶっちゃって、カッコ悪いなあ」とか言いながらでも相手をしてくれたはずだ。失ってからこそ気付く大切なもの、そんなモノがあるなんて今の今まで知らなかったけれど、こうして思い出してみると良く解る。あれは良い女だった。―――って、何だかこんな風に考えると日魅子のことを二度と会えない相手と考えているみたいだ。……良くないな。あいつは、絶対にもう一度、会える女だ。それは、確実だ。そのために……俺は今ここにいるんじゃないか。 ……う、日魅子のことを思い出したらホームシックになりかけたかもしれない。心の隙間に現実の風がしみてくる。 「やばいな。余計に酒でも呑んで気を紛らわせないと」 だけど、それでもやっぱり良い相手が見つからない。一人で飲んだら更に気落ちしそうだってのに。 誰か、こんな状況を打破できる人物はいないのか。……いなかったら寂しいし切ないから本当に困るんだけどなあ。 「おい、さっきから廊下で何をしている?」 そんなことを考えながら不審者よろしく廊下をうろうろしていると声が聞こえてきた。それで思い出した。完璧な人材がいた。正確には人じゃなくて魔人だけど。 この触れれば斬り殺すとでも言いたげなクールビューティ上等の声の持ち主をどうして俺は思い出せなかったのだろう。乳、尻、ふとももの三拍子全てが揃った逸材だというのに。胸囲では星華を足蹴にし、露出度では志野を下し、色気で紅玉さんに対抗できそうな夢の黄金率の体現者を。 と、いうわけで。 「やあ、兎音。酒でも一緒に飲まない?」 / さん、にー、いち。ばたんきゅー。 気分は酩酊。もう飲めません。お酒は二十歳になってからという格言には理由があったんだなと改めて知った今夜という日。 「あー、やっぱり魔人に飲み勝つのは無理だったのか」 恐ろしく肝臓にダメージを負ってしまったことを自覚しながら床に倒れる。明日の朝はひどい事になりそうだ。 どうせなら酔った勢いに任せて酒の相手をしてくれている兎音の柔らかそうな太腿に倒れこもうか、なんていう考えがちらりと頭の中で浮かんできたけれど、自身の命はかなり大事なのでやめておく。 大人しく腕を枕にして横になるだけですませる。 「当たり前だな。魔人が人に飲み負けるなんていうことは、天地が逆さまになってしまったとしても起こり得ない」 「さいですか」 彼女の常である触れれば凍らせるような切り口ではなく、酒が入っているためかどことなく口数の多い調子で兎音が答えた。よく観察してみると少し口元が笑っているようで非常に目の保養になる。うん、清瑞や伊万里みたいに普段あまり笑わない人間の笑顔ってのは良いものだ。眼福、眼福。 「それにしても本当にお前は酒に弱いな」 藤那が隠していた度数の物凄く高い秘蔵の酒を、惜しむことなく湯水のように呷りながら兎音が言ってくれる。 まあ、相手にすらならずに倒れてしまった俺が言えた義理じゃないかもしれないけど、兎音が馬鹿みたいに強いだけだと思う。高校の男友達と一緒に飲んだ時には――もちろん違法。お酒は二十歳になってから――俺はメンバーの中で一番酒に強かったはずだってのに。 やっぱり魔人は肝臓も規格外なんだろう。あるいは酒なんて人間にとってのコーヒーぐらいでしかないのかもしれない。だとしたらこの強さは頷ける。そういえば兎華乃も魔人三姉妹の長女の名に相応しいだけの呑みっぷりを披露していた記憶があるから可能性としてはかなり高い。というかそうに違いない。だから反論。 「それは違う。兎音が圧倒的に強すぎるだけだ。きっと人間と魔人じゃあ酒に対する処理能力が違うんだ」 「そうか? 多少は人に好かれやすい性質を持っているようだが、力は無いし威厳も無い。そんなお前だから酒も弱いとしか思えないが」 くいっ、と酒を一呑みしながらの兎音の返答は切り口滑らか。なまじこの世界で俺が体力的に恵まれていないことは解っているだけに説得力が強い。 酒が強かった、とは言ってもそれは日魅子のいるあちらの世界でのことなので、もしかしたらこっちの人間と本気で飲み比べでもしたら俺は惨敗するという可能性が無いわけではない。取りあえず志野と藤那には、あっちの体調が最悪でも勝てる気はしないし。 「う、そうかな?」 「さあな。ただ強そうには見えない。どこから見ても」 「そうか。やっぱり俺は弱いのかー」 ぐでーっと床に倒れた姿勢のままで呻いてみると、床が冷たくて気持ちよかった。けっこう体温が上がっているということなんだろう。もしかすると火照って顔がリンゴみたいに赤くなっているかもしれない。やけに心臓がバクバクなっているような気もするし。 危ないな。これ以上飲むと意識を失いかねない、そう俺の経験が語っている。というわけで戦線離脱決定。 後は残りの酒を全部、兎音に飲ませ続けてしまおう。言わなくても飲みそうな相手だけど。 そう思って兎音のほうを眺めてみたら、予想通りに一人になっても酒を飲み続けていた。少しの間その様子を見続ける。床に倒れた俺と、一人で酒を飲む兎音。それだけ。 ふと、会話がなくなっていることに気付いた。 「……あれ? 何か、会話が止まっちゃったなあ」 「酒に弱い神の遣いが原因だろうな」 「ぐっ、切り返しが早いですねとねさん」 ちびちびと飲みながら、端的に言い返されると言葉に詰まりそうになる。しかも、これでまた会話が途絶えてしまった。 どうしたものかな。そう思って天井を見たらぐらぐらと揺れていた。すわ地震か? とか一瞬だけ馬鹿みたいなことを考えてしまったけれど、なんて事は無い。俺が前後不覚になるほど飲んでいただけの話か。 あー、それにしても頭がぼんやりしているせいで場を和ませる九峪トークが思い浮かばない。ほんとにどうしよう。 「あー、うー、えっと、何か話すこととか無いかな? 例えば俺に聞きたい事とか無い? 今ならスリーサイズ以外の情報は全部答えて見せるけど」 頭を捻って考え抜いた末に出てきたのは、もう凄く駄目な感じの言葉だった。九峪トーク、地に落ちたり。とか自分で思ってしまうぐらいに最悪だ。けれど、 「―――何でも聞いて良いと言ったか?」 何故か会話は続いてくれた。しかも「すりぃさいずとは何だ?」とかいう疑問は返ってこずに、至極まともな質問がきた。 本当なら、そこから「スリーサイズっていうのは兎音のここと、ここと、ここの部分のことさ〜」と指をツンツンさせながら言って、俺の望む方向に話を進めていくはずだったのに。魔人の防衛能力には恐ろしいものがあるな―――とか自然に考え付いてしまった俺の頭には虫が湧いている。……そう考えられるうちは、俺はまだ正常だ。間違いない。そう信じたい。 「うん? 何か俺に聞きたいことでもあるのか? あるんなら何でもどーぞ。答えられる限りは答えるから」 「そうか、なら聞かせてもらうが」 と、何やら興味深そうに兎音がこちらを向いた。今までは大抵、手元にある酒を眺めていてこちらと目線を合わせてくれなかったのに、どうしてか今回は俺の目をしっかりと見ている。―――まさか俺に惚れたか? なんてことは死んでも考えられないからどういう理由だろうか? そういえば兎音が酒に付き合ってくれた理由からして不明だ。「酒でも一緒に飲まない?」と言ったら最初はすごく嫌そうな顔をしたのに、そのあとにオブラートに包み込んだ死ぬほど苦い風邪薬でも飲み込もうとするような表情で「解った」と答えてきたところからして不自然だ。今さらそこに思い当たる俺の頭も不自然だけど。 まあ俺のほうは馬鹿だからという説明で事足りる。だけど兎音が俺に付き合ってくれている理由は本当に何なんだろう? 酒が飲みたかったから、というのは少し弱いような気がするし、仲が余り良くなかった俺と親睦を深めるためという線は無さそうだ。 ……ふむ、考えてみると全然わからないな。酒で思考が鈍っているってのもあるだろうけど、それ以前に情報が少なすぎる。酒を飲み始めてからはクールに毅然としていて、少なくとも普段の兎音であるように表面上は見えたけれど。内心では違うのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。ああ、こんがらかってきた。 ―――こうなったらやっぱり、あっちの質問というやつを聞いてみるしかないか。 そう決めたので寝そべったままに頷いた。すると兎音は口を開いた。 「お前は―――」 そう言った兎音は邪気の無さそうな、しかし大人びた容貌に見合った笑みを浮かべて両手を俺へと伸ばした。ゆるゆると笑う兎音。その姿に目を奪われて、大した警戒を為すことも無く彼女の指先が俺の体に届く様子を眺めていた。 ぴたり、と。兎音の指先が思考している俺の喉元へと添えられた。それが何を思っての行動であるのかは解らなかった。この時までは。ただ、何か周囲の雰囲気が変わったような違和感だけを覚えていた。 そう、これは、まるで、戦場のような。 「―――私が何であるのかを理解していないのか?」 ……あれ? どうしてこんな、近くにっ? これは、まさか――― 「ぐ、ぁっ――!?」 思ったときには遅すぎた。 捻じ伏せるような圧力。しゅるり、と蛇の舌のように俺の喉に十本の指先が巻きついた。途端に喉元から空気が漏れる。気がつけば俺は兎音に首を絞められていた。 細い兎音の指先には、彼女の魔人という本質に相応しいだけの力があった。指の第一関節が埋め込まれるほどに強く俺の首を絞める。喉もとの圧迫は気道を狭め、空気を肺に送り込むことも、肺から送り出すことも許さない。 「私としては理解できない。根本的に生物としての次元が違う私を前にして、どうしてお前は腹を見せて寝転がれる? どうして瞼を閉じられる? ずっと不思議だった。犬か何かだったのなら腹を見せることは降伏の合図にもなるが、お前の場合はまったくそんな様子には見えない」 「……あがぁ……ッ」 喉元に篭められた力が強まる。細くて鋭い指先が喉の肉を抉ろうとするかのように侵入してくる。締められることで圧迫された気道がギチギチと鳴った。限界まで開いた口の中が唾液で溢れる。まるで兎音は俺を殺そうかとしているようだった。 腹を見せるだとか何だとかって、こいつ素面に見えて実は本気で酔っているんじゃないかっ―――!? 「魔人なら、そんな命を捨てるような真似はしない。それが例え血の繋がった血族であっても普通は在り得ない話だ。事実として私も姉様の前では少しだけではあるが常に緊張しているだろう。もちろん、お前が人間であるから魔人の常識なんて通用しないということは解る。―――しかし、ここが重要なんだが、人間であっても私の前で気を緩めることができた相手なんてお前以外に存在しない。私を前にした人間は、警戒するか、逃げ出すか、死ぬか、その三通りしか存在しないはずだった」 強まりすぎた力によって、もう俺の口からは呼気すら漏れる事が無くなった。 さて、人は酸素がなくてもどれだけの時間を生きられるだろうか? 二分か、或いは三分ぐらいならもつだろうか―――そんなことを考え始める。思考する最中に頚椎の鳴る音を聞いたような気がした。 「魔人には本能がある。血が見たい、骨を喰らいたい、泣き声を聞きたい、死臭を嗅ぎたい、硬直した筋肉に触れたい、殺戮を行いたい、そんな絶対不可避の本能が。その本能が生み出す恍惚に従って魔人は命を蹴散らし踏みにじる。特に人間などという生き物は絶好の対象になる。よく泣くし、歯ごたえもあって、死臭を撒き散らすから、私たちの本能を充足させる相手としては申し分ない。―――誰だってそんなことは知っている。知っているからこそ私の前で馬鹿みたいに気を抜く相手なんていなかった。当然の行動、というよりも、それができない人間は生物として基本的な欠陥があるとしか思えない。もう一度言うが、お前の行動の異常さにはずっと疑問を感じていた」 相変わらず首を圧迫し続けながら、やけに饒舌な兎音は俺の首を持ち上げた。床に寝そべっていた上半身が強引に起こされる。 首を締められることで顔を後方に反らした体勢の俺の眼前には、それこそ相手の呼吸が感じられるほど近くに兎音の顔があった。兎音は笑っていた。 「なあ、欠陥生物。―――お前のその態度は余裕か?」 更に首に力が加えられる。ギチリッ、という音。そして俺の上半身は更に兎音の近くへと移動した。それこそ彼女の硬く鋭利な犬歯を観察できるほど傍に。 遠くから俺たち二人の姿を見たならば抱き合っているように見えるだろう。それほどに兎音の顔が近くにあった。現に俺と兎音の脇腹はぴったりと密着している。 「そうだとしたなら、私としては我慢できそうにもないんだが」 そう言って兎音は俺を見た。首に加えられている力は依然そのまま。きっと何か答えろということなのだろう。声も出せない状態の俺に。こいつが酔っているのかどうかなんて解らないけど、視界の中に黒い点が混ざり始めたことは確実に現実だ。 やばい、意識をもっていかれる―――ッ! 「どうなんだ? ―――“九峪殿”」 ここにいるのは魔人と人間。力の差は大人と子供などという生易しいレベルではない。首を絞められて酸欠寸前の状況が、目の前の兎音の機嫌を損ねれば、俺の体が頭と胴体との二つに分かれてしまうことを主張していた。 だけど、もう一方で、それと同じくらいに俺の理性が他の事を教えてくれていた。―――どうしてこんな状況になった? 相手の意図は何だ? と呼びかけてくる。 解らない。解らないけれど、こいつは俺という存在の行動にひどく疑問を持っているということは理解できる。ならどうして今こんな状況になっている? この首を絞められた状況は? ―――相手は魔人だ、考えなければいけない。 ぎちぎちと音を立てる自分の喉が、酷く他人事のように思える。 ここにいるのは神の遣いという名前に相応しいとは思えない高校生がただ一人と、その高校生に疑問を抱いている人外一人の二人だけ。力の天秤は最初っから人外側に傾いている状況で兎音が改めて俺の首などを締めてどんな利点があるっていうんだ。 俺を殺してしまうことで利点なんてものは生まれるのか? ―――決まっている。逆に俺が質問に答えられなくなるだけだ。それは兎音の利点とも重なることはないはず。 だから思った。それならこれは違う。これは命の危険なんかじゃない。ここは媚びへつらうところじゃない。ここはもっと別のところだ。 ―――そしてそこは俺が死に瀕している場所なんかじゃない。 だから、俺は、確信の下に笑った。 クラクラとし始めて鈍くなっていく意識の中で、唇の端をどうにか吊り上げて笑みの形を作る。鏡がないから成功したのかどうか解らないが、まあ、大丈夫だろうとは思った。 すると―――― 「……はっ」 笑うというよりも呆れる。そんな雰囲気の言葉が兎音の口から漏れた瞬間に、喉元を締め付ける手は緩められた。途端に肺が空気を求めようとする。横隔膜が収縮する。一瞬だけ気絶していたのか、勝手に動く胸の動きで意識が戻った。 一息に空気を吸い込もうとしたのが悪かったのか激しくむせた。吐き気すら催すほどに強く咳き込む。 左手で口元を押さえて、右手で床をついた状態のまま俺は落ち着くまで存分に酸素を貪った。咳き込みすぎたためか目尻から涙が出始めたのが解った。予想以上に危ない状態だったようだ。 「がっ、げほっ、はあっ―――」 「大丈夫か?」 「な、何とか。こう見えて、肺活量になら、自信がある」 どうにか会話が出来るようになったので、区切り区切りに兎音の問いかけに言葉を返しておく。それにしても自分で首を絞めておいて「大丈夫か?」とは、やっぱり魔人は規格が違う。きっと俺とは異なった思考回路があるのだろう。一応は推測どおりに大丈夫だったことに安心しながらも思った。 九洲では俺も同じように変な思考回路を持っていると考えられているけど、兎音の思考法はそれとも違う。魔人というものはこういうものなのか。それとも兎音が独特なのか。まあ、どちらであっても俺には理解するのが難しい。 ああ、くそっ―――何か言ってやりたいけど、それよりも先に酸素が欲しいっ! 「そうか。なら聞くぞ」 しかも半泣きの俺を気遣おうともせずに連続して質問とくる。もう反射的に白旗でも揚げたい気分だ。が、それでも、まあ答えないわけにはいかないか。 服の袖で唾液に汚れた口元をぬぐいながら兎音を見る。 「何でも聞いていただいて結構ですよ」 「その馬鹿にしたような口調は何だ」 「いや、これでも誠意を見せているつもりだったんだけどなあ」 どうやら首を絞められたことに対するあてつけの皮肉は通用しなかったようだ。残念だけど。魔人相手なのだからそんなものなのだろうが。 「まあ、いい。―――それで、どうして先ほどは抵抗しなかった? 下手をすれば私にくびり殺されていたかもしれないというのに」 初めて予想どおりの質問が来た。どうして抵抗しなかった、か。そんなことは――― 「そんなことは当たり前だ。だって俺が抵抗したって意味なんてないじゃないか。力の差がありすぎる」 「ほう、それは全てを諦めたということか?」 「いいや、そこまで俺は人生を悟っていないよ。抵抗しなかったのは別の理由」 「それは何だ?」 もったいぶって言ってみると、兎音は直ぐに反応を示してきた。どうやらこいつは俺が馬鹿みたいに魔人である兎音の前で警戒心ゼロの状態でいたことに本気で関心を持っていたようだ。これはもう、本気で魔人らしいというか何と言うか。いや、魔人にそれを疑問に思わせるほどに無警戒だった俺もどうかとは思うけど。 と、そこで唐突に、少し前までの望みどおりに会話がぽんぽんと進んでいることに気がついた。首を絞められて三途の川へと入場しかけたことを代償だと思えば、これは安いものなのか高い買い物なのか。……判断つかないけど首が痛い。 「兎音が俺を殺すはずがないと思ったんだ。そもそも俺が死んだら質問に答えられないし」 「どうでもよくなって殺す可能性がないわけではないだろう?」 「んー、その可能性もあったけど、兎音に限ってそれは無さそうな気がして」 「楽観的な予測か?」 「いや、だって兎音って上級の魔人だから。約束ってものは守ろうとすると思ったんだ。ほら、ずっと前に俺に危害は加えないみたいなこと言ったじゃないか」 「そうか? そんなものは破り捨ててしまうかもしれないとは思わないのか」 「いいや、ちっとも。―――きっと魔人は本質的にシンプルなんだろうな、基底に在るのは力の一つだけで。だから人間みたいにずる賢くないから、約束が破られることなんて無い。あの土羅久流ってのもそうだった」 人間なんて色々いるから口約束なんて泡に消えてしまうこともよくある。けど、それはある意味で人間の弱さの限界だと、ここに来てから思うようになった。約束なんて守っていたら相手を出し抜けないから人間は約束を反故にするんであって、約束を無かった事にせずとも力で状況をどうとでもできる魔人にはそんな方向の狡猾さは無い。必要ないから。 土羅久流とかいう魔人だって、不利な状況であっても殊更に約束を守ろうとしていたからその可能性は高いだろうと考えていたんだけど、どうやら反論してこないところを見ると間違っては居なかったらしい。 首の皮一枚で命拾いした気分だ。 「頭だけは、神の遣いを名乗れるな」 にやりと彼女らしく笑う兎音。どうやら首絞めは考えどおりにただのはったりだったらしい。なんて過激な。そうしないと俺が本心を語らないとでも思ったのだろうか? ―――魔人というやつは服装もそうだけど行動の全てが過激できわどいと改めて思う。 それにしても頭だけはとか、否定できないけど酷い言い草だ。くそう、こうなったらこっそり運動して体力つけようか。迷うところだ。 「どういたしまして」 なんてことを考えながら、格好つけてニヒルに言い返してみたけどガラじゃなかったみたいだ。どうも自分でも似合わない事がわかるくらいに似合わない。多分、今の俺の姿を日魅子が見たら腹を抱えて爆笑するだろう。こっちの人間なら忌瀬や羽江あたりでも同じく爆笑してくれそうだ。 周りにいるのが兎音だけで良かった。 「それなら、最初の質問に対する答えは何だ?」 「うん?」 最初の質問? そんなものあったかな? ―――って、ああ、あれか。 「俺にとって兎音は何かっていう質問か?」 「ああ」 あの、兎音の目の前で俺が警戒心ゼロで寝転がることが出来るのはどうしてか? 馬鹿だから? といった感じの質問の答えか。 俺にとっては当然のことだから言葉では上手くまとめられそうにも無い。生まれた場所の違い、とか言っても納得してくれるか怪しいし。 さて、どうやって答えればいいものだろうか。 「それはな―――」 ふむ、それにしてみても、よく考えてみれば俺はどうして兎音を怖がらないのだろうか? 相手はミスユニバース級の美人であったとしても、その本質が野生のライオンなんか目じゃないほどに強暴だということは理解しているつもりだ。多分。 だけど俺は兎音を目の前にしても今まで怖いと思った事は無い。何でだろ? ……あれ? 真面目に考えてみると泥沼にはまってしまったように答えが出そうに無いな。兎音が俺の首絞めてまで答えを聞こうとしていた気持ちの一割くらいなら理解できたかもしれない。実に不思議だ。 確か兎音達と会う前に目にした魔人はバリバリに怖かったはずだ。あの頭悪そうだったけど、力だけは凶悪そうな魔人見た瞬間には、周囲に誰もいなかったなら悲鳴をあげながら逃走しようかと思ったほどだ。それくらいに、あの頭悪そうな魔人は―――って、ああ、そういうことか。 「いやな、ほら。兎音って言葉が通じるじゃないか。だから多分怖くないんだと思う」 俺って神の遣いを堂々と語る詐欺師だし。口先八丁手八丁の理念の下に行動できているうちは、あんまり怖くないんだろうな。言い方悪いけど、俺は性根があれだから相手を舌先三寸で丸め込むの得意だし。 だから頭の悪い言葉の通じなさそうな魔人は怖くて、その魔人を束にしても適わない様な目の前の兎音は怖くないわけか。自分で口に出してみると納得するな。 言葉って大事だ。 「言葉、か。ただそれだけで恐怖心が拭えるものなのか?」 「そうなんだろうな、実際。兎音と対立しそうになっても会話でもしてみれば、対立の原因を探す事が出来るじゃないか。そうすれば利害関係を一致させる方向に事態を進めることができる。そして最終的には兎音と俺が対立することはなくなるわけだろ? ―――やっぱり俺みたいな人間にとってみれば言葉はかなり大切だな」 「そんなものなのか?」 目の前の兎音が興味深そうにこちらを眺めている姿が見えた。どうも余り解っていないみたいだ。何ていうか魔人にとっての言葉なんて、戦いにおける勝ち名乗りをあげるためとか、必要最小限の意識を伝えるためのものでしかないんだろうなあ。 言葉は社会の礎とか聞いたことがあったような気がするけど、闘争に明け暮れていて社会構築なんてものは余り見向きもされていない魔界では、そこまで言葉の重要性が理解されていないのかもしれないな。 ここは御近所の年配のおば様方に人気だった小粋な九峪トークで解り易く説明する必要があるようだ。さて、どう言おうか。 「そうだな、言ってしまえば会話が出来るっていうことは俺にとって譲れない最重要項目なんだ」 「ほう、随分と奇抜な考えだな」 そこでまた、ぐいっと酒を飲み相槌を打つ兎音。 ……それにしても酔っていて首を絞める魔人に奇抜なんて言われたくないな。―――なんて突っ込みたくはあるけれど、そこはぐっと我慢の子だ九峪雅比古。……また首絞められたらたまらないし。 「そう、それは言い換えてしまえば―――」 ここは場を盛り上げてこそ男の行動だろう。というわけで九峪トーク。 「兎音が俺にとっては隣で眠ることができる相手なのさ」 「はあ?」 それまで良い気持ちで酒を飲んでいた兎音が素っ頓狂な声を上げる。 ……やばい。滑った。……この上なく滑った。目を点にして兎音はこちらを見ている。もしかしたら殺されるかもしれない。逃げるべきか。―――逃げるべきなのか? 「……お前は、私が隣にいても、眠ることができると言ったのか?」 噛み締めるように言ってくる兎音。そのクールな地の底から響くような声が処刑執行人の声に聞こえるのは勘違いだろうか? ……そうあって欲しいのだけど、俺の理性がそれを否定する。 ドツキ回されるか、また首を絞められるか。俺の今後はどっちだろう? ―――できれば痛くないほうがいいです。優しくしてください。 そんなことを考えていると、 「くっ、くははっ」 唐突に兎音が笑い出した。それも必死に堪えようとしているのに、それでも笑いが止まらないというような表情で兎音が笑っていた。あのクールな兎音がだ。 錯乱? とか聞きたかったけれど俺は自分が好きなので止めておく。 「どうしたんだ?」 「いや、なんでもない。―――くっ、くくっ」 代わりに無難に尋ねてみたけど、それもあっさりかわされる。兎音は本気で面白そうに笑っている。理由が解らない。一番可能性が高いのは、実は兎音は笑い上戸だったとかいうところだろうが、魔人が笑い上戸とかありえそうに無い。きっと違う。 じゃあ何だ? 「解った。くくっ、やっと解った」 そして兎音は彼女らしからぬ様子で頷きながら言った。そして俺を見た。何だろうか? そんな俺の葛藤をものともせずに兎音は口を開いた。 「お前は馬鹿だ」 「へ?」 しばし硬直。フリーズする思考。いや自分でもそうじゃないかと時々思うことはあったけど、こうまであっさりと真正面から断言されると否定できない。とっさに、俺は馬鹿なのかそうなのかと認めてしまった。何てことだ。 「やっと解った。胸のつかえが取れた気分だ」 「……俺が馬鹿だということが、やっと解ったと?」 「ああ」 清々しく答えてくれる兎音。 俺は今日はじめて魔人は腕力ではなくて口でも一人の人間をこてんぱんに痛めつけることができると身をもって知った。 あそこまで自然に即答されて傷つかない青少年はいないはずだ。例え自分が馬鹿かもしれないと思っていた俺だって同様だ。激しくガツンときた。心臓にきた。 「それはどういうことですか、とねさん?」 「ああ、それはいい。きっとお前は口で言っても解らない」 「いや、こう見えて頭の回転だけは人並みにあると思ってるんだけど」 「確かに頭は良いかもしれないが、それでもお前は馬鹿だ。言っても解らない」 暖簾に腕押し、糠に釘。理由を聞こうにも答えてくれない。これは好きな人をいじめたくなるとかいうものではなくて、本心からそう思っての行動であるようだった。 つまりは本気で兎音の中で俺は“馬鹿”に分類されてしまった事を意味している。 「盲点だった。神の遣いがただの一般人であるかもしれないという可能性までは考えられたが、まさか神の遣いが馬鹿だったとまでは思いつかなかった」 「何気に酷いと思うんだが、その言葉は」 自分の言葉に頷きながら言う兎音に、いいようにいたぶられる俺。日魅子にも「九峪ってさ、馬鹿だよねっ」とか笑いながら言われた記憶があったけど、これはそれの比ではないダメージを受ける。心に大寒波が到来しております。 「だが今、合点がいった。お前の行動の理由がやっと解った。全ては馬鹿だからだ」 「あのな、兎音。魔人であることと酒が入っていることを考慮してもその発言は酷いと俺は思うんだ」 鳴り止まない俺への攻撃。しかも本心。首を絞められた時よりもそれが痛いのは、俺が変だからなのか。そうじゃない気がする。これはもう、―――あと少しで俺はもう、いじめっ子に小突き回された幼稚園児のように泣いてしまうかもしれない。 「お前は意外に面白かったらしいな」 「何が何だか解らないから、本気で説明して欲しいんだけど」 「いや、それはいい。―――それよりも首から血が出ているぞ。治療したほうがいい」 しかも会話を逸らされたし。目も逸らされたし。 兎音は悠々と再び視線を手元の酒に戻した。俺を見てくれない。 ……神の遣いをやってる俺だけど泣いてもいいだろうか? ちくしょう伊雅でも明日いびってやる。「なあおっさんよう、そのヒゲ邪魔だから切ってくれないかなあ?」とか言って清瑞が止めようともいびってやる。兎音が謝ってくれない限りは絶対だ! ―――とか考えてしまう俺は馬鹿なのだろうか? って、馬鹿だったら認めてしまうことになるからだめじゃん。 ……首が痛いからまずは治療してもらおう。 / そこからがまた色々あった。 「その首の傷跡はどうしたんですか?」と治療にやって来た忌瀬が質問してきたものだから、兎音にやられたと正直に答えたら魔人に対する風潮が難しい復興軍内部が面倒なことになると思ったので「酒に酔って兎音の胸に顔をうずめて力の限り顔を左右に振って柔らかさを堪能したら半殺しにされてこうなった」と言ったのだけど、何故かその言葉を聞いた兎音がまた笑い出して一波乱。結局、どういう流れかは覚えていないけど、酒飲みメンバーに忌瀬が新しく加わって色々と騒ぐことになった。俺なんてその時点で限界まで飲んでいて辛かったのに、ザル二人――忌瀬はやっぱり酒に強かった――と酒を共にしなければいけなかったわけだ。 あれはアルコールハラスメント、つまりはアルハラだ。間違いない。特に忌瀬に至っては酒の中に笑い薬じゃなくて自白剤入れようとしていたので恐ろしい。忌瀬いわく無味無臭の薬が混入されたことに兎音が気付いてくれなかったら俺は過去の恥ずかしい体験全てを女二人の前で語ることになっていたに違いない。そんなことをしてしまったとなったら、その体験の一部分では日魅子のプライバシーも深く関わってくる部分があるので、元の世界に帰れなくなるところだった。―――二度と忌瀬とは飲みません。 しかもそんな二人の相手で心身ともに衰弱していたところで更なる騒乱の兆しがやってきた。藤那だ。 秘蔵の酒を俺に奪われてしまったことに上級の酒飲みだけが所持するシックスセンスで気がついた藤那は、ボロボロになった閑谷を片手に――この時点で俺の味方は失われた――俺たちの宴会場へとやってきた。物腰丁寧に鼻息荒く、俺を射殺さんばかりの視線を投げかけて礼儀正しい言葉遣いで部屋へとやって来た藤那は、その勢いとは裏腹に何が何だか解らないあいだに忌瀬に丸め込まれて宴会に参加することになっていた。正直、殴られるよりも宴会を長引かせることに関しては右に出る者のいない藤那の電撃参加は痛かった。 そこからはもう予想通り。 酒飲みの、酒飲みによる、酒飲みのための大宴会の始まりである。俺は軽くアルコールにトラウマを持ってしまいそうになるぐらいに酒を呑まされた。吐いて飲んで吐いて飲んで吐いて飲んだ。生まれて初めて「僕は未成年だからお酒が飲めません」と言えないことを憎んだ。もしかしたら、今まで未成年にも関わらず酒を飲んでいた罰が当たったのかもしれない。法律は俺を縛っていたのではなくて守ってくれていたことを知った俺は大人になったのだろうか? ……そうじゃない気がするなあ。 そういえば、知らない間にやって来ていた兎華乃が俺に向かって一気コールをしていたのも謎だった。呼ばれてもいないのに宴会を察知してやってきたなんて、あいつも流石は最上級魔人ということだろうか? まあ、兎華乃は難攻不落と思われていた藤那に単身で飲み勝負を吹っかけて倒してくれたから感謝してはいるんだけど。……思えば、兎華乃がいなかったら俺は今も酒を飲まされていたはずだ。いつかキャロットケーキの作り方でもあいつに教えてあげよう。 そんなこんなで最終的に上乃や兎奈美や伊万里――全員俺より酒に強かった。しかも伊万里は酒乱だった。絡まれた。死ぬかと思った――も加わった大宴会なのだけど、奮闘空しく力尽きた俺はいつの間にか眠ってしまっていた。 それはもう死屍累々とした宴会場のど真ん中で、だ。よくもまあ踏まれたりしなかったものだと思う。 やっぱり日ごろの行いがモノを言うのだろうか――― と、まあ、目が覚めて最初にそんなことを考えた俺なのだけど、今、目の前に一つの問題が転がっている。 大きな大きな二つの問題が。その姿はまるで二つの白い巨塔。 「……ん」 寝返りをうったら揺れること揺れること。 流石は香蘭を超える逸材だ。 プリンが食べたくなって仕方がありません。二日酔いで頭が痛いけど、その痛みすら押さえ込む存在感。激しく揉みしだきたい。 つまりは、 「……何で兎音は俺の隣で寝てるんだ?」 すーすーと眠っている兎音。彼女は物言わぬ屍と散乱した宴会用具で散らかった部屋の中で、なぜか俺の隣で寝ていた。どうしてこんな場所に寝ているのだろうか? はっ、まさか俺の事が大好きなんじゃ―――とかいうことは有り得ないので、寝る場所がここ以外に無かったとかそういう理由なのだろうけど。 どうしよう? 今のかなり無防備な兎音になら色々とできそうな気もするけど。などと、視線が胸に釘付けになりながらそんなことを考える俺は健全なのかそうじゃないのか判断に苦しむところではある。 そう思って、青少年的に両手をわきわきとさせはじめた俺なのだけど、 「―――ぅん」 「……まあ、いいか」 何かとても無防備な兎音の声を聞くと萎えた。いたずらする気になどなれそうにもない。というか一気に二日酔いの痛みがぶり返してきた。ああ、ズキンズキンと実に活発なことだ。忌瀬が起きたら、痛み止めの薬を持っていないか聞いてみよう。まあ、十中八九収まらないだろうけど。 「いつつっ、こうなったら寝てしまったほうがいいな」 本気で我慢できそうにも無かったので俺は取りあえずまた眠る事にした。ああ、この宴会がばれたら亜衣が激怒するだろうなあ、なんて思いながら兎音の隣で。 俺が目を閉じるその瞬間まで、兎音はよく寝ていた。 隣にいる九峪が完全に眠りについた事を確認した兎音は目を開いた。そしてゆっくりと立ち上がり眠る九峪を見下ろした。 たっぷりと男を眺めていた兎音はやがて口を開き、 「こちらが無防備であってもこれとは。―――やはり馬鹿だな」 彼女の冷めた口調はどこか嬉しそうに聞こえた。それに普段は温度の感じられない彼女の九峪を見る視線は、まるで――― |