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 すれ違いや、いがみ合いから生まれる縁だってあるのだろう。




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 ――ある日、珍しくも九洲に雪が降った。
 
「……ああ、雪か」
 連日連夜の政務作業に忙殺されて、心身共に疲労していた九峪。彼は視界の端に九洲では見慣れないものの姿を捉えて、過剰労働による影響で半停止状態にあった思考をかろうじて復活させた。
 明け方まで続いた会議をようやく終え、小休止のために自室へと移動していた足を止めて外を眺める。鳥の羽のように柔らかそうな白い雪が、ふわりふわりと舞い落ちていた。
 寝食を惜しむという言葉を体現するかのように、睡眠時間を極端に削る生活を続けてきたために疲労していった精神。それが、柔らかそうな雪が降る様子を観察していると、幾分かは楽になっていくように感じる。
 何をするわけでもなく、暫くの間、九峪は久しぶりに見た降雪の風景に目を奪われた。休む間もないほどに慌しく過ぎ去っていく日々をその瞬間だけ忘れて、一人その場に立ち止まって外の景色を眺める。
 九峪の視界を覆い尽くした雪は、人の多忙な時間の流れを気にすることなく、深深と降り敷いていた。
(これは牡丹雪、――いや綿雪かな)
 粉雪と呼ぶには大きすぎる雪片雪花を見つめて、九峪は彼らしくもない疑問を浮かべた。
 だが、その疑問も答えを出さないうちに掻き消えることになる。
「――九峪様?」
 透き通った、若い女の声がした。
 九峪が声に反応して首だけを左に向けると、そこには予想したとおりの人物がいた。歌い手のように透明な美しい声の持ち主、志野。旅芸人という出身を持つ彼女は、普段は露出の多い薄い服装しかしていないのだが、流石に今朝の冷え込みは堪えたのだろう。普段着の上から薄茶色の羽織物を着込んでいる。 
「志野か。何か用?」
 九峪は少しばかり名残惜しく思いながらも、雪を眺めていた体を志野へと向けた。
「いえ、別に大した用事というものも無いのですが。ただ九峪様が、その――」
 普段は弁舌爽やかな志野にしては稀なことに、言葉を選ぶようにして言いよどむ。視線は九峪に固定されているのだが、どうにも上手く言葉を切り出しかねているようだ。
(何か言い難いことでもあるのかな。珍しい)
 疑問に思った九峪は、言葉の続きを促すことにした。
「どうしたんだ? 別に何を言ったっていいからさ。言ってみてくれないか?」
 笑いながら 「このままじゃ気になって眠れない。そうなったら責任取ってくれるのか?」と、冗談めかして続ける。
 九峪は、自分にしては面白い冗談を言えたつもりだった。だが、相手に与えた効果は逆だった。九峪の言葉を聞いた志野は表情を心配するように曇らせた。
「その、何か九峪様が疲れているように見えたのですが。御体の調子でも悪いのですか? もしそうなら、今すぐにでも忌瀬さんを呼んできますけれど」
 眉根を寄せて、志野は九峪を見る。窺うように見上げる様子がひどく艶かしい。志野という人物は、本人が感知しているいないに関わらず、動作の細部にまで何とも言い表せない色気を持つ女性だった。
(――これは、下手な男なら会話するだけでも落ちるだろうな)
 どこか遠くから観察するような視点で、九峪は志野を眺めた。細いおとがい。雪を欺くほどに白い肌。凛とした中にも、どこか儚さを感じさせる表情。女性的な柔らかい曲線を描いた肉体。そのどれもが九峪の知りうる限りの最良に近かった。――その最良を前にして、どうして自分が何も性的な興奮を覚えないのか不思議になるほどに、志野は美しかった。
 ふと、日魅子のことを思い出す。同じ血脈の女性であるためか、九峪は志野から日魅子を連想した。九洲での日々が続くにつれて、日魅子の細部を思い出すことが徐々に難しくなってきているが、それでも群を抜いて美しかったことだけは確実に覚えている。
(そういえば、日魅子と志野は眉の形が似ているような気がするな)
 志野の顔つきを眺めていた九峪は、不意にそう思った。少し口元を緩めて笑う。
「……あの、九峪様?」
 黙り込んでじっと自身を観察していた九峪に困惑したのだろう。志野は首を傾げて九峪と視線を合わせた。
「――おっと、悪い。少し、昔のことを思い出していたんだ」
「昔のこと、ですか。それは九峪様が九洲にやって来られた以前の?」
「ああ。九洲に来るまでは、いつも一緒にいた知り合いの顔が不意にひょっこりと頭に浮かんでさ。ちょっと物思いに耽っていたんだ」
 九峪は脳裏に日魅子の姿を浮かべながら志野を見た。見れば見るほどに志野は日魅子に似ているように思えた。
 だが、その錯覚は志野の言葉で否定された。
「そのお知り合いの方というのは、女性ですか?」
 ――違うな。あいつはこんなに聡くない。
 間もおかずに真に迫った質問をしてくる志野を眺めて九峪は思った。志野は志野だ。日魅子とは違う。
 頭も切れるし、腕も立つ。忍耐に優れていて、芸に通じている。――だから、顔つきが多少は似ていても、日魅子とは何の関係も無い。日魅子ではない。
「……どうして解ったんだ?」
「いえ、私を通して、他の誰かを思い出しているように感じましたから。それなら女性なのではないか、と」
 やっぱり違う。思いながら九峪は志野を見つめた。
 先ほどまでは日魅子と似ているように思えた顔つきも、今では完全に別種のものに見えた。
「志野には適わないな。亜衣や藤那と同じで鋭すぎる。――そうだな。うん、志野に似て綺麗な奴だったから、志野を見ていて思い出したのかもしれない」
 観念したような気分になって、九峪は肩をすくめて白状した。
 女の顔を見て違う女の顔を連想するなどとは失礼極まりなかったが、この時の九峪は疲労のためかその辺りの判断がろくにできてはいなかった。最も、初めからそのあたりの配慮ができる男であるのかと尋ねられれば、返答に困るところなのだが。
「そうですか」
 志野は別段、怒りを見せることもなく頷いただけだった。
「ああ。それと体に関してだけど、今のところは問題ないと思う。少し眠たいような気もするけど、それだけだから」
 九峪は体の調子が悪くないことを示すために、自分の二の腕を手で叩いた。乾いた音が廊下に小さく鳴る。それを聞いて志野はもう一度 「そうですか」と頷きながら微笑んだ。
 そこで少しばかりの間、会話が途切れた。
 簡素な静寂が生まれる。九峪と志野の視線が空中で絡んだ。向かい合うだけでお互いに言葉を発しない。
 だが、その無言の状態はすぐに九峪によって破られた。どちらも口を開かない状況にある種の重圧でも感じたのだろう。絡んだ視線をほどいて、外の雪を眺めながら口を開く。
「――それで、志野はどうしてこんなところにいるんだ? 俺は亜衣達と今まで評定があったんだけど、志野は確か休みだったはずだろう?」
「はい。ですが、どうもこの雪が原因で、街道を進んでいたはずの商団が姿を消したそうで。その捜索に派遣する部隊の編成を頼まれましたので」
「それは昨夜の内の話?」
「はい。報告が入ってから、まだ一刻程度しか時間は経っていません」
 志野は降る雪を気にすることなく、九峪の横顔を眺めながら頷いた。
「そっか。それなら俺が、こんな場所で世間話に志野を引き止めると邪魔をしていることになるな」
「いえ、邪魔だなどとそんなことはありません。それに、どちらにしても報告は九峪様まで回ることになっていたと思いますから。問題は無いと思います」
「そう言ってもらえるとありがたい。――よし、それじゃあ話し込むのはこれぐらいにして、お互いに仕事に戻ろうか」
 九峪は胸の前で小さく手を叩き、そして志野を見た。
「はい。解りました。九峪様、くれぐれも御体に気をつけてください。――それでは、失礼させてもらいます」
 志野は微笑んだままに頷いた。頭を下げて九峪から離れていく。そして廊下を曲がり、九峪の視界から消えた。
 九峪は志野の人影が見えなくなるまでその場所に佇んでいた。志野の後ろ姿を目にしていた。
 しかし、終始考えていたのは日魅子のことだった。
「……神の遣いがホームシックなんて。――笑えない」
 志野の姿が見えなくなった後、九峪は外を眺めて苦笑を浮かべた。
 変わることなく雪は深深と降り積もっている。
「雪か……。そういえば一度も、日魅子には雪合戦で勝ったためしが無かったな」
 胸がきつく締め付けられるような孤独感を、九峪は感じた。


    /1


 九峪が白い息を吐きながら城の外へと出てみると、普段は土色をした地面が総じて白く雪化粧を施されていた。
 存分に降り積もった雪は地平から顔を覗かせた日の出の光を受けて、まるで燃えているように輝いている。辺りは一面の銀世界だった。
 普段から童心というものを多分に持ち合わせている九峪は、その光景を目にすると口元を緩めた。
 雪国に住む子供達にとってはそうではないだろうが、西日本出身の雪と接する機会の少ない子供にとって、雪というものは年に数回しか見ることのできない希少な遊び道具である。この男が喜ばないわけがない。
「おおっ、いい感じに降ってくれたな」
 呟きながら歩くたびにサクサクと雪が鳴く。そして歩いた場所にはスニーカーの靴跡がくっきりと残る。九峪は振り返って自分が歩いてきた道筋にできあがった靴跡を眺めて、更に口元をほころばせた。
(――子供の頃に日魅子と一緒に、お世辞にも上手とはいえない雪ダルマを作ったことがあったな。確かあの時は、日魅子の爺さんをモデルにしたんだったか)
 耳まで隠れるように白いニットキャップを被り、何枚も重ね着をしたためにパンパンに桃色のジャンパーを膨らませ、おざなりに赤色のマフラーを首にかけて、寒さから頬を真っ赤にしていた日魅子。子供の頃の彼女が喜びながら雪玉をこねまわしていた姿を、九峪は思い出す。
(昔の日魅子は色気なんて雀の涙ほどもなくて、鼻水が出ているぞと言えば 「えへへ」なんて笑って、はにかみながらポケットからティッシュをごそごそと取り出そうとする、そんな子供だったな)
 まだ礼儀作法や分別なら、当時は悪ガキと近所の評判だった九峪のほうが知っていたように思える。
(……そんな日魅子が火魅子の正当な後継者? そして狗根国に対する蜂起の旗頭となる? ――ありえないな。あいつはそんなものに耐えられるほどに強くない)
 九峪はそう強く考えた。知らず手の平を軽く握り締める。
「――何といっても、気が強いくせに中学生まではお化けのことを怖がっていたからな。魔人を見ただけで気絶するのは確実だ」
 白一色で統一された銀世界の中で、青色の学生服を着込んだ九峪は故郷と幼馴染を思い出す。この場所は九峪が生まれた九州に酷似しているが、九州ではない。九洲。違う世界。
 けれどそれでも、雪が降ってしまえば、視界全てが雪片雪花に包まれてしまえば、この場所が九峪には自分が生まれた場所と同じ世界であるように感じられた。
 だから時折、不意に噛み締める疎外感を忘れることができた。もう一度笑う。
「違う場所でも、同じ雪が降る――ってことか」
 九峪は膝を曲げて屈みこみ、くるぶしの位置よりも高く積もった雪に手を伸ばす。淡雪に指先が触れると、ひんやりとした体の熱を冷ます心地よい感触が返ってきた。
 雪には視覚的に精神を癒す効果があるという説があるが、現在の九峪にとって視界を埋め尽くした雪はまさしくそれだった。心の中から難しい思考を放り出して、ただ無心にこんこんと降り続ける雪を眺めているうちに、様々な煩わしい些事が体の中から抜け落ちていくような安堵感を感じる。気がつけば背負っていた重荷を、雪の中にいる時だけは忘れてしまっても許されるような気分になる。
 全身の力を抜いて、零下の空気を思い切り肺の中に吸い込むと、一気に体から熱が奪われていって鳥肌が立つ。そして 「寒い寒い」と言いながら腕をさすると、そこにいるのはただの九峪雅比古だった。間違っても、威厳溢れなければならない神の遣いなどではなく。
(寒さに震えてみないと、もうそんなことも思い出せないなんてな。俺はただの高校生だってことを)
 そんな当たり前の事実を今まで忘れかけていたことが面白おかしくて、九峪は喉を震わせた。そして両腕を広げて背中から雪の上へと倒れこんだ。受身も取らずに大の字になって倒れこんでも、積もった雪が緩衝材となり、衝撃はほとんどなかった。
「あー、俺も結構疲れていたのか」
 雪に埋もれたまま小さく呟く。
 九峪は首筋にひんやりとした冷気を感じながらも、近頃は鬱屈としていた自身の気分が高揚していくことを感じていた。
 ――これじゃあ子供だな。俺は。
 雪が降っただけで癒される現金な自分の性格に苦笑しながら空を見る。けれど悪い気分ではなかった。ちらちらと降り積もる雪の一欠けらが、九峪の鼻筋へとゆるやかに着地した。それが冷たさを感じさせると共に、何故か無性に面白かった。
「――そらっ」
 九峪は寝転がったままに、両手で雪をかき集めて、空へと放り投げた。
 視界を占める綿雪よりも遥かに大きいそれらは、空へと向かって上昇し、そしてすぐさま重力に引かれて落下した。当然のように、その何割かは九峪の顔へとかかった。上気した頬から一気に熱が奪われる。冷たさが心地よかった。子供の頃を思い出す。 
「あはは、これは結構楽しいな。――うん?」
 と、極度にリラックスしきった状態で寝そべっている九峪の体の上を、小さな影が覆った。
 不審に思った九峪が視線をそちらへと向けてみると、逆光を受けているために体の輪郭しか判断することしかできなかったが、それは小さな人影だった。
 元から周囲に対する警戒心が乏しい九峪であっても、足音にさえも気付けなかったのだから、よほど雪に意識が集中していたのだろう。もしくはそれほどに接近者が気配を断っていたのか。
「誰だ? 日魅子か?」
 九峪は間違っていると解っている言葉で、敢えて問いかけた。
「……馬鹿?」
 疑問に返ってきたのは疑問だった。人影は無愛想な表情で九峪を見下ろしながら、呆れたように聞こえなくもない言葉を発した。


    /2


 強い風が吹けば、髪が乱れると毒づく。
 雨が降れば、服が濡れると愚痴をこぼす。
 よく晴れれば、日差しがきついと眉をひそめる。
 他人に話しかけられれば、煩わしいと顔をしかめる。
 だが、ただ一人。信頼する志野の前でだけは年相応に甘えたような態度を垣間見せることがある。――それが珠洲という少女だった。
 だから、当然のように珍しく雪が降ったその日。彼女は悪態を口にした。
「寒い……ふざけるな」
 通常状態が不機嫌であるというこの少女が、世を倦むような言葉を口にすることは少なくない。だが今日はいつにもまして嫌悪感の籠もった言葉で珠洲は空に向かって毒づいていた。その様は天に唾吐くようにすら見える。
 珠洲という名前を聞いて、耶麻台国の人間が思い浮かべる単語といえば「志野」か「厭世」かといったぐらいであるのだから、一見すればその様子に不自然さなどは無いはずである。天候を罵倒する珠洲。至って正常に思える。
 だが。今回ばかりは珠洲の様子がいつもと違っていた。
 離れた場所から周囲をじっと観察するようないつもの無表情ではなく、彼女の顔には僅かばかりの苛立ちの感情が見て取れた。険が見てとれたと言い換えてもいい。
 厭世している割には、少女特有の張りのある肌をした珠洲の眉間に大きなしわが刻まれている。そして眼光には相手を切り裂きかねない鋭さがあった。
 閑谷が珠洲のこの様子を察知したならば、即座に踵を返して逃げ出してしまいかねないほどの不機嫌さだ。
 理由は一つ。珠洲という少女をある程度理解している者ならば、誰だって推測できる原因からなのだろう。
「……志野がいない」
 珠洲の傍らには、彼女の保護者にして親友にして姉である志野の姿が無かった。珠洲の精神安定剤と揶揄される志野の不在は、それだけで珠洲からなけなしの協調性や落ち着きというものを奪い去っていた。あるいは、志野という壁の存在により表面に露呈することがなかったはずのものが顔を覗かせていた。
 珠洲は領地に侵入してきた泥棒を追う猟犬のように、志野の姿を求めて目を周囲へと動かしながら移動していた。それこそ一心不乱に。この態度からだけでも、志野が珠洲にとってどれだけ大切な存在であるのかということは簡単に推測できる。
 だが、城の中をどれほど移動してみても、珠洲の前に志野の姿が現れることはなかった。
 朝方であるためか、城の中を移動している者の数は少なく、人とすれ違うことさえ余りない。珠洲は志野を探す最中に、二、三人の兵士の姿を目にしただけで、それ以外に視界に収まった動くモノは雪だけだった。
 大して時間をかけることもなく、珠洲は志野のいそうな場所を探し終えた。志野は、いなかった。気が付けば珠洲は、城の外へとたどり着いていた。実際には迷い込むような心境であったとしても。
 そして、そこで珠洲は見つけた。――大好きな志野ではなくて、大嫌いに分類されている男の姿を。
 一面を白銀に染め上げた雪の中に倒れこみ、手の平で淡雪をすくっては空へと放り投げている、恐ろしいまでに頭の悪そうな神の遣い、その人の姿を目にしたのだ。
 その行動が余りにも常識外れであったためか、自慢の毒舌を発揮することも忘れて、知らず珠洲は神の遣いへと近づいていった。別段、気配を消すこともせずに、深雪を踏み越えて九峪へと近づく。だが、それでも九峪は珠洲に気が付かずに、倒れこんだまま雪を空へと放り投げて遊んでいた。
 ――馬鹿だ。こいつは。
 珠洲は確信をもって断定した。目の前で倒れこんでいる相手は、とてつもない阿呆だと。少なくとも、珠洲の接近に気がつけない相手を敬う気持ちになどなれそうにない。
 そう思いながら一歩、さらに足を進める。もう少しで顔面を踏み抜くことが可能になる距離。
 と、そこでようやく九峪は雪をすくい上げる手を止めた。そして、接近していた珠洲を見た。何から何まで遅い動作だった。
「誰だ? 火魅子か?」
 そして、訳の解らないことを口走る。耶麻台国の始祖の名などを。
 衝動的に、珠洲は答えた。
「……馬鹿?」
 そしてそう口にした瞬間に、眼下で寝転がる男と珠洲は目が合った。間抜けそうな面構えをした青年だった。九峪雅比古。逆境の淵にあった九洲に突如として現れた希望。彼がそこにいた。
「そう。……馬鹿で間違いない」
 珠洲は九峪が反論を口にする前に、もう一度しっかりと呟いた。目の前に寝転がるこれは馬鹿だと、心底から思いながら雪まみれの神の遣いを見下ろす。
「おいおい、相変わらず口が悪いな」
 しかし、九峪は気分を害した様子もなく、にへらと笑った。
 珠洲はこの笑い方が嫌いだった。まるで馬鹿にされているような気もするし、同時に何故か親しみを向けられているような気もする。志野以外からの親しみなど、珠洲は欲しくは無かった。
「誰だってそう思うに決まってる。仮にも神の遣いを名乗っているのに、こんな格好で」
 だからなのだろう。珠洲の口から出た言葉は、いつになく厳しかった。珠洲とて身分というモノの重さは知っている。だから、現状で復興軍の最高位に属する相手に、これほどまでの悪態を言ってのけることなど、通常ならばあり得ない。やるにしても、志野の後ろに回って、小さい事をちくちくと突くぐらいだ。
 志野がいないという状況。そして、九峪と二人だけという現状。それらの因子が現在の珠洲の攻撃性を形成していた。
 だが、そんなことは露ほどにも気にしないで、九峪は寝転がったまま心外だと言わんばかりに肩をすくめた。
「おいおい、仮にもってどういう意味だよ? これでも正真正銘の神の遣いなんだけどな、俺」
「……どこが。すけべえの癖に」
「馬鹿。男は神の遣いだろうが生身の人間だろうとすけべえなんだよ。お子様の珠洲ちゃんには解らないかもしれないけどな」
 そして九峪は珠洲の敵意など何でもないと言わんばかりに受け流す。暖簾に腕押しをするような苛立たしさを珠洲は感じた。
「……不潔」
「不潔で結構。こっちは既に雪まみれだからな。今さら一つや二つの珠洲の毒舌にまみれてもどうってことはない」
 思いついた罵倒を口に出してみても、やはり九峪へは届かない。最初の頃は過剰なほどに悪態に反応していたにも関わらず、最近の九峪は慣れてしまったのか、珠洲の毒舌にも憤慨したりする様子が無くなった。
 むしろ、その状況を楽しんでいるようにも見える。
「どうした。それでお終いか?」
 続きを促すような声。それが酷く癇に障る。
「……うるさい」
「うるさい、か。貧困な語彙だな、珠洲。まあそれがお前の限界なんだろうけど。もしも俺を怒らせるだけの悪口を言いたいなら、もっと他人と会話でもして豊富な知識を身につけないと相手にならないぞ」
 そして九峪は何を言われても余裕を崩さない。珠洲の罵倒など歯牙にもかけずに立ち上がる。完全に舌戦では珠洲は窮地に立たされていた。衝動的に、ぎゅっと懐に忍ばせている糸を握りそうになる。
 だが、そんなことには気づいていないのか目の前の九峪はにやにやとした笑いを止めようとはしない。
 その表情から、明らかに現状を楽しんでいることが見て取れた。場を支配している人間が浮かべる笑み、それは珠洲が特に嫌いなものの一つだった。九峪が浮かべているものであるなら尚更だ。
 その瞬間に、珠洲の中にたまっていたありとあらゆる不満が、かんしゃくを起こして爆発した。
「うるさいっ」
 普段の物静かな珠洲の声とは信じられないほどに、大きな声が出た。相手を糾弾するような台詞だったが、その声は何故か身を守るために発せられたようにも聞こえる。まるでそれは赤子の泣き声のような言葉だった。
 だが、そんな突飛な声をあげられても、九峪はおやっと片眉を跳ね上げてみせるだけだ。
「あらら、言い過ぎちゃったか。けどな、そんな言われ慣れていることを何度言われようとも、俺は別に傷つかないんだよ、珠洲」
 九峪の声質は変わらない。叫び返そうとも、貶そうとも、変わらないのだ。
 それが珠洲には酷く癪に障った。まるでその声には憐れみの感情が含まれているようにも思えた。だから、一度膨れ上がった不満は連鎖して増殖していく。それは雪ダルマ式に増えていった。
 珠洲の小さな口から、何度も何度も罵詈雑言という形となって飛び出ていく。
「うるさいうるさいうるさいっ」
「あらら、今度はごねはじめたか。これだから子供は困るんだ」
「うるさいっ、うるさい! うるさい!」
「で、次はこっちに聞く耳をもたないのかよ。ここまで反抗的だと逆に新鮮だな。まるで怒り始めたあいつみたいだ」
 しかし、叫ぼうとも喚こうとも九峪は変わらない。動じない。揺るがないのだ。
 不満を声に出しても無駄だということを悟った珠洲は、そこで叫ぶことを止めた。そして、ぐっと瞳に力を入れて獣のように目の前の九峪を睨みつけようとする。しかし、その眼光も九峪には通用しないようだった。
 九峪は平然と目の前で立っている。
 場が止まった。
 珠洲は現状に苛立っていたが、九峪はむしろ楽しんでいるような素振りすら見せている。その事実が、更に珠洲の心の中で灯った火に油を注がせる。排他的な珠洲の心の中で黒い憎悪と言う炎が燃え上がっていく。そのままいけば、珠洲は実力行使に出て九峪へと襲い掛かっていたかもしれない。
 しかし、実際にはそんなことは起こらなかった。
 燃え上がった炎が、すぐさま消火されてしまったためだ。九峪雅比古の手によって。
「まったく、いつも駄々ばっかりこねやがって。――そんな我が儘なお子様にはこうだっ」
 自分がどういう状況に陥っているのか理解できているのか怪しい神の遣いは、あろうことかしゃがみこむと足元に積もった雪をすくいあげ、それを珠洲へと投げつけた。
 突然の行動に驚いた珠洲が後ろへと跳躍して、その雪を避けると、直後に珠洲の顔面に冷たい何かが直撃した。
「ははっ、当たりーっと」
 珠洲が突然の奇行の連続に、わけもわからず顔に手を伸ばしてみると、冷たい感触が返ってきた。それは固められた雪の感触だった。つまりは、珠洲は雪玉をぶつけられたのだ。浴びせかけられた雪をかわして動きが止まった瞬間を狙って。
 運動神経が欠片も無いはずの九峪にはめられたことを理解した珠洲は、きっと九峪を睨みつけた。
 だが、九峪はそこで待ってましたとばかりに口元をほころばせた。
「どうだ? むかついたか、珠洲」
 笑いながら、心底楽しそうにそう九峪は言葉を発した。まるで訳が分からない行動。勝手気ままで、自由自在で、それでいて計算づくの奇行を行う神の遣いは笑っていた。ただ雪玉をぶつけただけで、なぜそこまで楽しげに笑えるのかが珠洲には分からなかった。
 本当に、分からなかったのだ。
 だが九峪は笑うことを止めない。にやりと笑って両手を広げてみせる。
「よし、ここで提案だ、珠洲。お前は俺が気に食わない。そして俺もお前が気に食わない。だけど、ここで俺たちが大っぴらに戦うのは不味い。色んな人に迷惑がかかるからな。志野だとか、亜衣だとか、伊雅のおっさんとかな。――だから、代理の戦争を始めよう」
 そして自信満々の声で言葉を発する。深いこげ茶色の瞳を逸らすことなく、珠洲という個人を見つめ、そして九峪は堂々と提案と言うものを始めた。その言葉の中には正論もまた含まれていたために、珠洲は聞き流すことも出来ない。志野に迷惑がかかる、それは珠洲としても何があろうとも避けたい事態だった。それがあったからこそ、今まで九峪とは口だけの小競り合いですんでいたとも言える。
 そして、狡猾な神の遣いはその事実すら理解しているのか、満足そうに頷くと更に言葉を続けた。
「だから、だ。他の奴らには迷惑が一切かからない方法で戦おう。規則は一つ、雪玉を作って相手が謝るまでぶつけあう。先に謝ったほうが負けだ。これならどっちも怪我をしないから誰も文句は言わないはずだ。――まさか逃げるとは言わないよな、珠洲」
 そして挑発するように九峪は口元をつり上げる。
 その生意気な顔を見た瞬間に、珠洲の心は決まっていた。あっという間に足元の雪を握り締めると、それを九峪へと投げつけた。
「……その勝負、乗った」
「は、後で泣いてからごめんなさい九峪様って言っても遅いからな」
 九峪はその言葉を受けると、更に嬉しそうな表情を浮かべて、珠洲が投げつけた雪玉を避けてみせた。


    /3


 夜明けの肌寒い時間帯に緊急の仕事が入ってきた時に志野は、傍らで眠る未だ幼い珠洲を起こすのは気の毒だと思い、一人で呼び出しに応じて仕事を片付けることを決めた。それは純粋な、混じり気のない愛情に由来した行為だった。
 息を凍らせる寒さに顔をしかめながらも部屋を出て、重心をかけすぎればすぐにギイギイと音が鳴る板張りの廊下をそっと歩く。
 移動の途中、どこか遠くを眺めているような寂しげな表情の九峪を目にしたので心配になり、少しだけ立ち止まって会話をしたが、それ以降は普段と同じく献身的に雑務を片付け続けた。 
 だから、志野は予想していなかった。その行動が彼女の想像を絶する結果を招くという事実に。

「……少し目を離しただけで、神の御遣いと珠洲の二人が雪合戦はないでしょうに」
 目の前で繰り広げられている光景に、呆然とした心持ちになりながら呟く。更には、余りにも理解出来ないために、夢かと疑って自らの頬をつねってみても結果は変わらなかった。
 志野の目の前では、幼い頃より共に在った最愛といっても差し支えの無い少女、珠洲と、そして共に過ごした時間は少ないが、それでも急激に志野の心の中で大きなウェイトを占めるようになってしまった青年、九峪がいた。二人はまるで幼い子供のように、雪の積もった庭先を駆け回っては、お互いに必死になって雪玉をぶつけ合っていた。
 運動神経は珠洲のほうが格段に上だろう。だが、九峪には珠洲よりも大きな体格があった。いかに体力がないと言われている九峪であっても純粋な腕力でならば珠洲に惨敗するということはない。むしろ勝っているかもしれない。そのためか、雪玉のスピードはやや九峪のほうが上回っていた。しかも、やはり九峪のほうが手の平が大きいために雪玉を握る動作が素早く終了している。どうしても小柄な珠洲では、人にぶつける雪玉を作るとなれば九峪のようなワンアクションではなく、ツーアクション、スリーアクションといった動作が必要になってくる。
(……どうして雪合戦をしているのかは分からないけれど、きっと自分に有利だということは計算に入れてのことでしょうね)
 志野は子供相手にも手を抜かないというか、手を抜こうものなら一気に畳み掛けられそうな神の使いを眺めながらそう考えた。
 二人の戦況は五分、もしくは珠洲の方へと傾いている。恐らくは九峪の総合的な体力のなさと、珠洲の小柄な体が的になりにくいことが原因なのだろう。
「ど、どういたしましょうか?」
 するとそこで、志野の隣にいた新兵と思わしき若い青年が心底困惑したような表情で尋ねてきた。彼は不幸にもこんなでたらめなシーンを目撃してしまい、当事者である二人に最も顔が利くと思われる志野にまで助けを求めてきたのだった。
 軍の最高司令官と、子供とは言え幹部である志野のお付である珠洲の雪合戦などという理解に苦しむ現象をその目に焼き付けてしまった青年の困惑はいかほどのものだろうか。志野は純粋に心の中で彼に同情した。何故ならば、志野もまた心の中では卒倒する寸前だったからだ。
 彼女の脳裏には、既に怒り狂った蛇のような形相をした亜衣の姿が細部に至るまで詳細に浮かび上がっていた。
「貴方はもう下がってください。それと、このことはくれぐれも他言しないように。いいですね?」
「わ、分かりました」
 志野の言葉に、当然と言わんばかりに何度も上下に首を縦に振った新兵はそのまま脱兎のごとくどこかへと駆け出してしまった。十中八九、逃げたのだろう。それは九洲の希望と呼ばれる存在がこんな生き物だと知ってしまったのならば、仕方の無いことではあるのだろうが。
 実際、志野もこれが九峪と羽江だったならば衣緒にでも万事押し付けて逃走を図りたいところだった。もしかしたら、皆がそう思ったからこそ今まで誰も雪合戦をして戯れる二人を止めようとしなかったのかもしれない。
(……とは言っても、私が止めないといけないのよね。あれは)
 そこで志野はじっと二人の姿を見つめた。珠洲はいつものように敵意のこもった顔で九峪を睨んでおり、対する九峪はそんな珠洲を見て逆に面白そうに笑っているように見えた。朝方に志野が見た、そのまま朝露と一緒に消えてしまいそうな表情ではなく、九峪は子供のように生き生きとした顔をしていた。まるで子供の様な表情。
 今だけは、目の前で笑っている九峪からは疲労の色が見えない。屈託無く笑うその姿は、どこか志野の心をほっとさせるものだった。その瞬間に少しだけ、目の前の馬鹿げた光景を見ていても気が楽になる。一瞬だけ志野はあと少しだけこの光景を見守ろうかなどとまで考えてしまった。
 だが、それでも実際問題として看過するには難しすぎた。だから志野はことさらゆっくりと時間を稼ぎながら言葉を吐き出した。
「何をしているんですか?」
 志野の声は良く通る。透き通っているとも評されることもある。だから大抵の場合は語気を荒げずとも、言葉を口にすればその場にいる人間の耳にまで届く。だが、目の前の二人には弱すぎたらしく雪玉を投げつけあう勢いは止まらない。むしろ戦いは佳境に突入したのか、一層のヒートアップを見せている。
 だから志野は今度は先ほどよりも大きな声で呼びかけた。
「二人とも、――何をしているんですか?」
 しかしそれでも反応は無い。日頃、志野の言葉を聞き逃すことのある九峪はもとより、どれだけ離れた場所にいても志野が呼べば近づいてくる珠洲でさえも言葉に動きを止める様子は無い。目まぐるしく立ち位置を変えて、お互いに雪玉の射線に入らないように回避動作を繰り返しながら相手への反撃の機会を淡々と窺っている。まるで雪玉が実際に炸裂弾か何かで、ぶつけることで相手の息の根を止められるとでも信じているかのような熱の入れようだ。
(呼びかけても気づきもしないなんて、珍しい)
 珠洲はまだ子供だからともかくとして、志野にとって九峪がそこまで雪合戦に熱中していることは意外だった。
 志野の知る九峪雅比古は智謀に優れていたり、体力がまるで無かったり、一般人には想像もつかない思想を平然ともっていたりするし、それ以前に根本的に幼い。だから少しばかり人の話を聞かないことや拗ねて見せることなどは確かにある。だが、それでも繰り返して呼びかければ必ずその呼び声に応える。
 九峪は対話と言うものを重視しているらしく、例えどんな状況でもどんな相手であっても殊更に誰かを無視することは無い。どれだけ切迫している状況でも、どれだけ逃げ場の無い窮地に追い込まれても、九峪は皆が混乱に陥っている中でもただ一人冷静に皆の意見を聞いてきた。だから、志野にとって九峪は普段の態度はどうあれ、どんな状況でも熱くなりすぎず冷静さを残した思考ができる人だという印象を抱いていた。それこそが一見平凡に見える九峪をただの青年だと逆立ちしても思えない理由であるのかもしれない。
 その九峪が呼びかけに応えない。視界の端に志野の姿は映っているはずなのに、そのことに気づくだけの思考の余裕が無いのだろう。九峪は必死になって雪玉を避けながら、どうしてか嬉しそうに口元を緩めていた。
 その姿を見ると、やはり志野は驚きの感情を禁じえなかった。そして同時に少しだけ、胸の内側で安堵の息を吐き出した。
(普段と様子が違うのがどうしてか良く解らないけれど、やっぱり神のお遣いとは言っても九峪様も何かに没頭することもあるんでしょうね。――それに何より、見ている限りでは嬉しそうだから、これでもいいのかしら)
 志野はそう一人、思案する。
 九峪は戦いを嫌い、冗談を好み、平和を愛している。基本的に戦にはどこまでも不向きな人種だと志野は九峪を把握していた。しかし現状は九峪のそんな性質を苛烈に切りつけるほどに酷いものだった。争いの終わりは糸口さえも見えず、今日明日といった近い未来に誰もが死に瀕する危険性を孕んだ日々。
 そんな毎日が終わる兆しを見せずに続いていたため、九峪が苦しんでいるのではないかと志野はずっと不安に思っていた。そしてその不安を自分が打ち消すことができないのだということを何度も何度も九峪へと話しかけるうちに思い知っていたのだった。
 朝方の会話もそうだが、志野は九峪の支えにはなれなかった。九峪雅比古と九洲の人間の間には壁があるのだ。それも一方的な壁が。九峪は志野も含めた九洲の人間の心を助けようとするくせに、いつか九洲の地を去ることを自覚しているからだろうか、自分の心の内側には決して誰も招くことはない。神の遣いとは思えないほどに気安い態度で誰にでも話しかけるので錯覚してしまいそうになり、実際に志野も錯覚していたのだが、九峪は誰にでも、本当にどんな相手にでも同じ態度で接するのだ。それは、九洲の民の中には九峪にとって特別な相手がいないことを意味している。
 つまり九峪の心の内側には既に誰かが住み着いているのだと、志野は最近になって結論付けていた。だからそんな九峪を癒せるとしたら、その胸の内にいる誰かなのだろう。そんなことを志野は一抹の寂しさとともに考えていたのだ。この九洲において九峪の思考が誰か一人に向くことなどはあり得ないと。
 そう、考えていたのだ。
(だけど――)
 そこで志野は今まで抱いていた考えを振り返りながらもう一度九峪の姿を見つめた。
 楽しそうだった。
 体全身で喜びを表現していると言うわけではないが、それでも表情の隅々には喜色が浮かんで見て取れる。九峪は子供のようにはしゃいでいる。そんな姿を眺めてみれば、それまで考えもしなかったような推測が志野の頭の中に浮かんでくる。
(これは、もしかしたら――)
 九峪は誰にでも優しい。それは裏を返せば誰にでも同じ態度しか取らないということだと志野は考えていた。事実、九峪は誰か特別な一人を作ろうともしない。下世話な話であるが、九峪に男性としての欲求があることはその正直すぎる言動や表情から志野は読み取っていた。実際に周囲の人間からすけべえと皮肉られている場面を何度も見たことがある。だが、それでも九峪はそういった関係の相手も作ろうとしない。九峪は復興軍で最も高い地位に座しているのだ。その九峪が望むのであれば火魅子候補ですら関係を断ることは、きっとできないだろう。それに加えて九峪は復興軍の面々から悉く好かれている。仮に地位が今の状況から志野達と同じ程度にまで下がったとしても、九峪と共に在りたいと思う相手は少なからずいるだろう。それなのに九峪は特別な相手を作らない。志野にとってすれば、それは誰かに操でも立てているに違いないとしか思えなかった。そしてそれはつまり、九峪が九洲の民と共にあることはできないのだろうという推測の何よりも強い根拠となっていた。
 今この瞬間、本当に楽しそうに雪玉を投げつける姿を目にするまでは。
(こんなことであんなにはしゃいで。――もしかしたら九峪様は、私が考えていたほどに私たちと距離を取っていたわけではないのかもしれないわね)
 珠洲と九峪はお世辞にも仲がいいとは言えない。むしろ険悪だと言ってもいい。
 その珠洲を相手に九峪はこれほど感情を露にしているのだ。少しその姿が志野が思い描いていたよりも子供すぎる気がしないでもなかったが、それでも九峪はいつものように少しだけ皆から離れた視線で立ってはいなかった。真正面から珠洲と九峪はお互いににらみ合っている。まるで喧嘩でもしている子供のように、同じ目線で。
 その姿を見て志野は、自分が今まで間違った考えを抱いていたことに気がついた。対等な目線で立つ相手に口元を緩めている九峪の姿を見ることで理解する。志野はきっと、どれだけ九峪の庶民的な態度を見ていようとも、それでもまだ九峪を神聖視しすぎていたのだということに。
(……いえ、逆ね。私が九峪様と無意識に距離を取っていたというのが正しいような気がする。その証拠に九峪様に物怖じも遠慮もしない珠洲と一緒にいたほうが楽しそう。今朝、私と会った時にはあんなに笑う姿なんて見せなかった)
 そこで志野は今まで自分が抱いてきた考えを否定した。
 九峪は皆と距離を取っているわけではない。逆だと。距離を取っているのは自分達であったのだと。
 思えば兆候はあった。いくら子供であると言っても、珠洲の九峪に対する言動や態度は仮にも復興軍の総司令官を相手にするものとして相応しいものではない。それなのに、そのことで九峪が珠洲を責めることなどは一度も無かった。そして、そんな九峪の意思があったからこそ、同じように周囲の幹部も珠洲に口頭で注意する程度ですましてきたのだ。
 それを志野は九峪の優しさゆえの行動だと考えていた。
 だが、それは違ったのだと志野は気がついた。
 真実はまるで逆で、九峪はそういった態度をこそ好んでいたのだろう。目の前の光景を見てみれば解る。常日頃から上下関係を嫌い、自分の横に並ぶ相手を求めていた九峪は敬われることよりも、対等の友人を求める。そして、そんな九峪にとっては身分も何も気にしないで反抗心を露にする珠洲が心地よかったのだろうと。
 笑う九峪の表情を見てしまえば、志野はそのことが解った。
 そして、その瞬間に視線を上空へと移して心の中で一つ頷いた。
(――やっぱり、あと少しだけ待ったほうがよさそうね。せっかく九峪様も、それに珠洲もはしゃいでいることだから。亜衣さんに見つかった時が怖いけれど、その時はその時で覚悟を決めればいいわけだから)
 決断してしまえば気持ちは一気に軽くなった。
 だから志野はそのまま二人を見守るために少し後ろへと下がろうとして――

ぽすんっ

 真綿がぶつけられたような気の抜けた音が響いた。同時に、志野の顔が真っ白に塗りたくられる。
 考えるまでも無く、その白色の正体は雪だった。
 志野は上空へと向けていた顔を下ろした所で、どこかから飛んできた雪玉が炸裂したのだ。雪のように白い肌が、ぎゅっと握り締められて固まった雪の欠片で彩られる。
 周囲に何ともいえない雰囲気が漂い始めた。
「あ……」
「うわっ」
 呻き声が二つ。続いて上がる。
 口の中に少し雪が混じっていることを舌先で感じながら、志野は声の持ち主について考えた。悩むまでも無かった。それまで雪玉の投げ合いをしていた珠洲と九峪に違いない。恐らくは流れ弾が大きく外れて志野にぶつかったというところだろう。普段の志野ならば雪玉程度は簡単にかわせるが、ちょうど悩み事を考えていた時に流れ弾がきたこともあり、これはもう運が悪いとしかいいようがなかった。
(……まあ、事故の様なものだと考えるべきなのかしら)
 普段ならばこんなことをされて怒るところではあるのだが、珍しく九峪が疲れを取ることができていたようなので、そこで志野は怒らないことに決めた。この辺り、彼女が思慮深さと優しさが十分に感じることができる。
 ちなみにこの間、志野は思考に没頭していたためか微動だにしていない。雪玉をぶつけられた時からフリーズしたままである。
 そんな志野をおもんばかってか、それまで雪合戦をしていた二人が恐る恐るといった様子で志野へと近づいてきた。
「おーい、志野。……大丈夫か?」
 まさしく戦々恐々といった声色である。声は出さないが怯えているのか珠洲も九峪の背後から窺うように志野の顔色を注視していた。その様子を見て志野は命拾いしたわね珠洲、などと思考を巡らしながら顔面の雪を払った。
「はい、少しも問題はありません。たかが雪が顔にかかっただけですから」
 そして、志野はにっこりと笑った。雪玉をぶつけられた直後であったので、心の底から笑顔を浮かべる事はできなかったが、それでも九峪に負担をかけないように、いつも剣舞をしてみせる時のように営業用の笑顔を浮かべてみせる。
 すべてはそれで一安心となるはずだった。
 だが、何故かその笑顔を見て二人は毛を逆立たせた猫のようにびくりと体を震わせた。
「そ、そうか本当に悪かったよ、志野」
「……ご、ご、ごめん。志野」
 そして蛇に睨まれた蛙のような表情で謝罪の言葉を口にする。
 その様子を見た志野は、ちゃんと許したというのに二人はまだ自分が怒っていると考えているのだろうかと黙考した。そして、すぐさま笑顔が足りなかったのだろうと結論付け、更に大輪の花のような笑顔を浮かべて二人を見渡した。
「ええ、気にしていませんから。大丈夫ですよ。――それで、九峪様と珠洲で何をしていたんですか?」
 そこで一歩前へと進んで二人へと近づく。
 すると二人は何故か揃って一歩後ろへと後退した。それまでいがみ合っていた姿が嘘のようにシンクロした動作だった。まるで距離を詰められたら食われるとでも感じているかのように二人はじりじりと後ろへと逃げていく。
 志野は心底、どうして二人がそんな行動を取るのかが分からなかった。
 だから取り敢えず話し合うために、二人へと近づくことにした。
「後ろに下がったりして、どうしたんですか。――本当に怒ってなんていませんから、そんなに怯えないでください」
 そこで志野はもう一度にこりと笑う。巡業の際にこの笑顔を見せたならば、町の男連中がコロッと騙されて鼻の下を伸ばしながら寄って来る笑みだ。志野は会心の笑顔を自分では浮かべることができたと考えていた。
 だが、やはり反応は違った。
 少女である珠洲はまだしも、男である九峪は喜ぶどころか、その笑顔を見た瞬間に露骨に腰を引かせた。ちょっとだけ心の中で志野はむっとした。
 けれどそんな感情の変化に九峪は気づいた様子も無い。
「な、なあ、本当に悪かったから、そんなに怒らないでくれよ、志野」
 完璧に志野が怒っていると九峪は読み違えている。その後ろで似たような顔をしている珠洲も同意するようにこくこくと頷いていた。
(普段怒ったときは、今よりももっとへらへらして対応するのに、どうして許そうと考えたときにはこんなに怖がられるのかしら。理不尽なものね。それに珠洲も、いつも言うことを聞かないのに、今回だけはあんなに怯えて)
 思うように進まない現状に苛立ったためか、志野は知らず歯を強く噛んでいた。
 ギリッと笑顔には似つかわしくない音が鳴る。
 するとそんな音だけは詳細に聞き取ったのか、瞬間的に珠洲と九峪の二人は背筋をぴしっと伸ばした。そしてそのままお互いに目配せをする。
「あはは、志野はどうやらお疲れみたいだな、珠洲」
「……うん、そう。絶対そう」
「なら俺達がいるとお邪魔みたいだから、ちょっと遠くに行かないか? たまには街の様子を見に行くのもいいだろうからさ、珠洲は護衛ってことでついてきてくれよ」
「わ、分かった。行こう、今すぐ行こう」
 そして二人同時に、速攻でお互いに言い聞かせるように頷きあうと、そのまま背を翻してぴゅーっと駆け始めた。
 それは志野が口を挟む余裕などまったく与えない、神業のような逃走だった。あっという間に二人の背中が小さくなっていく。
「あ、二人共――」
 そう呼びかけた時には、先ほどとは一転して肩を並べて駆け出した少女と青年の姿は城の中庭から消えてしまっていた。後には一人、志野が雪玉のぶつけ合いで滅茶苦茶になった場とともに残される。
 顔面雪まみれの女が、雪合戦でぼこぼこになった中庭に一人。そしてその状況を作り出した二人は何を勘違いしたのか逃げ出していて姿形も見えない。
 それは客観的に考えると非常にシュールな光景だった。特に雪玉をぶつけられても、不快感を押し隠して笑みを浮かべた女は良い道化だろう。
 その事実を自覚した瞬間に、志野の心の中にある導火線にゆっくりと、だが確実に火が灯った。
「……せっかく怒っていないと教えたのに、二人して逃げ出すなんてどういうことかしら。しかもこんな時だけは、あんなに仲良くして」
 点火した導火線の向かう先は語る必要すらない。即ち、喜怒哀楽でいう二番目だ。
「珠洲はまあ、いつもより強めにするとしておいて、……九峪様も九峪様で、行動が解りにくいのよね。心配すれば距離を取って、許そうとしたら逃げ出して。少しぐらい刺激でも与えたら解りやすくなるのかしら」
 続けて笑顔を浮かべたままに 「本当に、たまったものじゃないわ」と呟いた志野の目は笑っていなかった。仕事明けだとか雪玉をぶつけられたりだとかした小さなストレスが蓄積していって、遂にはボーダーラインを突破してしまったのだろうことは想像するだに難くない。
「これはやっぱり、……残念だけどお仕置きが必要ね」
 そこで志野はぞっとする程に綺麗な笑顔を浮かべて、そう口にした。ばさばさばさと中庭に設置されていた木から小鳥が一斉に飛び出していく。そんな光景を目にも止めずに、志野は肩にかけていた羽織物を取り払って、二人が逃げ出していった方向をじっと見据えた。近くを巡回していた兵士達が統率された動きで回れ右して引き返していった。最後に志野はちろっと小さな舌を出して、肌の白さに引き立てられることで際立って赤い上唇を嘗めた。九峪と珠洲が中庭で遊んでいるという報告を耳にして怒鳴り込もうとしていた亜衣が、慌てて城の中へと逃げ帰っていく。
 
 ――直後、鬼が走り始めた。


    /4


「……逃げ切ったか?」
「……多分。大丈夫だと思う。まだそこまで怒ってなかったから」
「そっか。助かったな。まさに九死に一生スペシャルを地で行った感じだ。あっちに帰ったら間違いなく特番組まれて俺はお茶の間のヒーローになってたところだ」
「……何を言ってるか解らないけど、少しして志野がもっと怒り出すかもしれないから、もっと遠くに逃げた方が――ひっ!」
「そうかって、何だ? 急にしゃっくりでも起きたのか? 背中でも撫でてやろうかってヒィッ!」
「――に、逃げないと! 早く、早く早く早くっ」
「やばい。やばいぞ何だアレ。兎華乃達に追われるよりも怖いなんて常識外れも良いところだっていうか、こんなの三国志読んでても対応の仕方なんて思い浮かぶわけが無いに決まってるッ!」
「うわぁっ、こっちきたっ――」
「やばい目を合わせるな珠洲。金縛りに合うぞ――っていうか何で俺を盾にしようとしてるんだよお前!」
「……か、神の遣いなら、非力な少女を守ってくれるのが当たり前」
「馬鹿言うなっ、それどころかお前が俺の護衛なんだからむしろ防波堤になれ――なんて遊んでる暇なんかないぞ。現実逃避してたら食われるッ」
「……けど、けど、どっちにしたって――うわああぁぁっ」


 ――その日、九洲の地に断末魔の叫びがこだました。


 この後。
 街中で神の遣いとお供についていた少女が、謎の美女に襟首掴まれて路地裏に引きずり込まれたという情報が復興軍幹部の中で錯綜したが、全ての情報を握る立場にいた亜衣はがたがたと肩を震わせながら、伊雅達の追及をも跳ね除けて最後まで黙秘権を貫いたという。
 その隣には同じ復興軍の幹部である、旅芸人出身の美女がいたかどうかは定かではない。
 ついでにいうと助け出された神の遣いとお供の少女は震えながらお互いに抱き合っている姿で発見されたのだが、その姿を見た旅芸人出身の美女が 「二人が仲良くなって嬉しいわ」と妖艶な笑みを浮かべて呟いたことも機密事項に属するので詳細は語れない。












   /おまけ


 色々と言葉にはできないような折檻が行われてから少しした後、前と似たような状況で復興軍の最高司令官である九峪と幹部の一人である志野は廊下で顔をあわせた。まだ雪は止まないのか、上空を覆う雲からは深深と雪が舞い落ちてきている。
「あら、九峪様。あれから、お体の調子はどうですか?」
 以前よりも少しだけ声の調子を明るくして、志野が向かい合う九峪へと笑いかけた。
 対する九峪は、若干引き攣ってはいるものの、同じように笑顔を浮かべて返す。
「あ、あはは、志野じゃないか。うん、体の調子は元気一杯で問題ないよ」
「そうですか、それは良かった」
 志野はそう言って頷くと、ちらりと視線を外に降る雪へと移した。つられたのか、九峪の視線もそちらへと移る。
 期せずして、二人は廊下に並んで雪を見ることになった。
「そういえばですけれど――」
「な、何?」
「九峪様は雪がお好きなのですか? 最近は良く雪を眺めているようですけれど」
 城の外廊下はそのまま外気に接していて手すりの上に手を伸ばせば、外から舞い降りた雪が手の平へとそっと乗る。志野はすくうような形にした手の平に積もった雪を眺めた後に、隣に立つ九峪を見上げた。
「雪が好きかって? それは好きか嫌いかで言ったら好きだけど。見ていたら何となく心が和むし、小さかった頃、まだずっと俺が子供だった時の事を思い出せるからな。そういう志野は、雪は好きじゃないのか?」
「私は――そうですね。好きでも嫌いでもありません。特に雪には感傷を抱きませんから。それこそ、雪玉をぶつけられでもしない限りは」
「ははっ、手厳しいな」
 暗に含んだ言葉の意味を感じ取った九峪はそこで白旗を揚げた。両手を上げてお手上げのポーズを取ってみせる。
 そんな九峪の行動を見た志野はくすりと、その赤い唇から笑みを漏らした。
「ええ、近頃思うところありまして方針を転換することにしたんです」
「方針転換? それって何を?」
「それは一応秘密です。それよりも九峪様」
 志野は九峪の問いかけを、たおやかな態度でさらりと流す。そして少しだけ九峪に近づいて距離を縮めた。
「何?」
「雪を見ていて思い出すというのは、前におっしゃられていた、九洲に来るまではいつも御一緒だったというお知り合いの女性のことなのですか」
「――んっ? ま、まあ、そうだけど。今日はいつにも増して鋭いな、志野。それがどうかした?」
「いえ、ただそうではないかと思っただけです。言ってみれば女の勘でしょうか」
 くすりと笑って志野は更に九峪へと近づく。既に肩が触れ合いそうな程に、二人の距離は縮まっていた。
 見上げるようにして笑う志野に当てられたのか、九峪は少し恥ずかしそうに頬をかいて視線を振り行く雪へと逸らした。
 そんな様子を見て取った志野は更にくすりと笑う。
「うーん、女の勘ね。馬鹿に出来ないものだとは知ってたけど、まさかここまでだったとはなあ」
「そうですよ。中々捨てたものではありませんから。――そういえば九峪様は、今まで何をなされていたのですか?」
「俺? 俺は休憩中。色々と書類を書いたり印を押したりと面倒でさ、気分転換も兼ねて城の中をぶらぶらしてたんだ」
「それで雪を見ていたと?」
「そういうこと」
 九峪は頷くと、そこでくぅーと変な声を出しながら大きく伸びをした。肩に僅かに積もっていた雪がその動作で払われて床へと落ちていく。
 そこで志野は九峪の服に雪が少なからずついていることに気がついたのか、そっと手を伸ばして袖や肩に残った雪片を丁寧に払っていった。
「少しまだ服に雪がついていますね」
「お、そう? 悪いね。冷たいだろ?」
「いえ、これぐらいなら特に冷たいというほどのものでもありませんから」
「そっか」
「ええ、ですがそれよりも九峪様。これだけ雪がつくほどに外の空気に当たっていると風邪を引かれてしまうかもしれませんよ」
 九峪の服についた雪を払った後、志野は自らの服についた雪も払いながらそう口にした。そして心配しているような、窺うような視線で九峪を見つめる。
「うん、確かに冷え込んできたから風邪ぐらい引くかもしれない。けど、何となく雪を見ていたいって言う気持ちもあるんだよな。どうしてかは解らないけど」
 志野の視線を受けた九峪はやや戸惑った後に、その視線を外してまた空を見上げた。雪を眺める。ぼぅっとそこではないどこかを見つめるような表情へと変わる。
 少しだけ遠くなったようなその横顔を眺めた志野は、そっと九峪の手の平を握っていた。
「手、冷たくなってしまっていますよ?」
 途端、遠くを眺めていたような九峪の視線の焦点が志野へと戻った。掴まれた手に驚いたような、狼狽したような表情を浮かべて、志野を伺う。
「うわっ、びっくりした。俺の手、冷たいだろ? 放した方が良いよ」
「確かに冷たいですね。それと九峪様は今、休憩中なんですよね? 少しお時間はありますか?」
 放した方が良いという言葉を意図的に黙殺したのか、手を握り締めたままに志野が尋ねる。
 九峪は困ったように空いた右の手だけで頬をかいた。
「ま、確かに休憩中だから暇だけど。それがどうかした?」
「そうですか、でしたら少しお時間をいただけませんか? 久しぶりに、今日は舞ってみたくなったもので」
 志野は九峪の手の平を放さない。まるで遠くに向いた意識を留めておこうとするかのように。
 九峪は志野の真意など気づくこともなく、おやと目を見開かせた。
「へえ、志野の剣舞か。懐かしいなあ。――良いの?」
「はい。今日はそういった気分なので。ただ、観客がいてくれなくては正しく舞にはなりませんから、お暇ならばお願いします」
 志野は真直ぐに九峪の目を見据えている。それは戯れに逸らすことなどできるはずもない、真摯な視線だった。
 九峪はその目を見てから快く笑って見せた。
「それも良いな。なら面白みの無い観客だけど、見させてもらおうかな。よろしく頼むよ、志野」
「ええ。解りました。――たまには雪以外のものを見るのも良い筈ですよ、九峪様」
 そう言って志野は九峪の手をもう一度柔らかく握り、優しく微笑んだ。
 その時、浮かべた笑みの真意は誰に向かっていたのか。
 目の前に立つ九峪雅比古であるのか、それとも九峪の記憶の中に存在する、まだ見ぬ九峪が小さい頃から共にいた知り合いへと向いているのか、それはきっと志野のみが知っていることなのだろう。