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 ――流れ雲だって、太陽が好きである。


   /


 それは良く晴れた日のことだった。
 九洲という地が二つに分割され、その二国が揃って狗根国からの攻勢を警戒している最中。いとやんごとなき御方であり、九洲の民の希望と称しても差し支えない神の遣いこと九峪雅比古は、各県の視察のための道中で早くも音を上げていた。
「あー。もう尻が痛くて駄目だよ、俺」
 それこそ子供のように体力の無い総司令官の限界を見越して、軍の中でも最も扱い易く乗りこなし易い名馬を亜衣は貸し出してくれたというのに、九峪の忍耐力は簡単に尽きてしまったようだった。
 馬上で手綱を握っているだけと言う楽極まりない体勢であっても、九峪は惜しげもなく自身の不調さをアピールし始める。
 この時代、この場所。大の大人であれば自身の我慢のなさを開けっぴろげに周囲に伝えることは恥と思い、ことさら隠そうとするものだが、九峪にはそんな方面の謙虚さはまるで存在しない。
 疲れたなら、赤子のように疲れたと主張する。
 飽きたなら、幼児のように飽きたと駄々をこねる。
 そのくせ時折、そんな幼さをどこかに置き捨てて、人々をあっと驚かせるような頭の冴え具合を披露することもあるのだから理解の範疇を超えている。
 それがおおむね、九峪についての周囲の人々の評価だろう。
 だから、護衛と言う名目で九峪についてきていた忌瀬もまた例に漏れず、これぐらいの駄々では別に驚きもしなかった。
 むしろ、よくここまでむずがらないで我慢したと心の中では九峪の頭を撫でている。
「そうですか? ついさっきも休んだような気がするんですけど」
 しかし内心はどうであれ、九峪という珍妙な神の遣いは甘やかすと増長する傾向があるので、そこまで優しい言葉をかけないことも忌瀬は忘れていなかった。わかりやすく噛み砕いた言葉で嫌味をきかせながら、自分が乗っている馬を九峪の傍まで寄せてじとっとねめつける。
 普段ならば九峪のわがままに付き合うのは忌瀬もやぶさかではない、というよりも好んでいるのだが今は時期が悪かった。
 狗根国からの侵攻が、いつ迫り来るかも分からない微妙な時期であり、言ってしまえば遊びができる時間がなかった。
 それに加えて常日頃、九峪で遊ぶ傾向のある忌瀬はそのあたりの事情を亜衣に耳にタコができてタコ踊りができるほど念入りに言い聞かされていたので、今回はたやすく譲歩するわけにはいかなかったのだ。
 しかし、そんな嫌味もなんのその。
 馬の耳に念仏とでもいうべきか、忌瀬程度があてこすったぐらいでは、九峪には大して効果が無いらしい。忌瀬の暗に我慢しろという言葉に、頷くどころか反発して九峪は盛大にぶーたれてみせた。その様はまるきり、スーパーでお菓子を買ってもらえなかった子供のそれである。
「何だよ、堅いこと言って忌瀬らしくないな。そんな亜衣みたいに真面目なこと、忌瀬が言っても気持ち悪いだけだぞ」
「き、気持ち悪いって……。それは流石に言い過ぎじゃないですか?」
「いーや。そんなことはない。俺が知ってる忌瀬は、こんな時だったら一も二も無く休憩に賛成したはずだ。だからきっと今の忌瀬は変なんだ。言ってみれば変忌瀬だな」
「……よりにもよって、変忌瀬ときましたか、九峪様」
 いや、子供だってもう少し聞き訳が良くて、筋が通っているだろう。
 割かし自由奔放に生きている忌瀬は、その彼女すらも遥かに上回る九峪の荒唐無稽な会話の展開のさせ方に、呆れと驚きが半々に入り交ざった感情を抱いた。そして続けて、心の中で普段の子供みたいな九峪の世話をしている亜衣に少しだけ敬意を払った。忌瀬にしては珍しく、自然と勢いの無いため息が口から出て行く。
 しかし、そんな風に忌瀬がちょっと遠くを遠眼鏡で眺めている間も、ゆっくりと歩く馬の背に乗った九峪は調子よく言葉を続けた。その良く回る舌で次の手を打ってくる。
「そうそう。だからさ、ちょっと休憩を入れよう。他の奴だって疲れてるだろうから。――な?」
 そう言って九峪はぐるっと周囲を見渡す。周囲には忌瀬の他に、人手が足りないために亜衣に頼み込まれて九峪の護衛として随伴している魔兎族三姉妹の長女、兎華乃の姿があった。魔人の魔の字も感じさせない可愛らしい衣装に身を包んでいる兎華乃は自分が呼びかけられたことに気がつくと、興味深そうにくりくりとした瞳で九峪を見返した。
「別に私は疲れてはいないけど、この程度で九峪さんがもう耐え切れないってぐらいに疲れたのなら、休憩にしてもいいんじゃないの?」
 そして飛び出る遠慮の欠片も無い露骨な言葉。普通なら、こんなことを小さく可憐な少女の姿をした兎華乃に言われて、黙っていられる男などはいないだろう。
 しかし、ここでも九峪はその器の底知れなさを見せ付けた。
 兎華乃の言葉に恥ずかしさから前言を撤回するどころか、逆にぐんっと薄いもやしのような胸を張る。
「うん、俺はもう駄目だってくらいに疲れてる。そういうわけで兎華乃の同意も得られたことだから、休憩だ休憩。それでいいよな?」
「いいよなって、私に聞かれても。忌瀬さんはそれでいいの?」
 体力の無さを誇示するかのような九峪の切り返しに、兎華乃は困ったような表情を見せながらも口元を小さく笑わせた。虚飾の無い本音一直線の九峪の言葉がツボにでもはまってしまったらしい。
 兎華乃はそのままどうするのか、と忌瀬に視線を移した。
 忌瀬はその視線を受け止めた瞬間に次の言葉に戸惑った。ただでさえ時間は少ない。しかし、駄々をこねて立ち塞がるのは復興軍随一の策士にして奇人、神の遣いこと九峪雅比古である。
 結構純情な性格をしているので色恋沙汰や、それに近しいことでならやりこめることができるが、それができない現状では太刀打ちのできる相手ではない。本気の舌戦で九峪と勝負ができそうな人物など、忌瀬は天目と亜衣の二人以外思い浮かばない。
 言うまでも無く、忌瀬では何ごとかを言い聞かせようとしても煙に巻かれて終わりだろう。それは確実だった。
「はあ、そうですねえ――」
 だから忌瀬は少しだけ悩んだ後、諦めて答えを出すことにした。
「それなら仕方がないですから、少しだけ休みましょうか」
 これぞいわゆる白旗というやつである。


   /


「あー、生き返るな」
 先ほどまで進んでいた街道から少し外れた小川。
 その場所で九峪は流れる川の水をすくって顔を洗っていた。透明度の高い澄んだ水を顔に当てるとその冷たさが心地いいのか、自然と満足そうな笑みを浮かべている。
 忌瀬はその様子を、後方に佇みながら観察していた。
「生き返るって、そんなに疲れるようなこと、何もしてないと思うんですけどねえ」
「確かに九峪さんは疲れるようなこと、まったくしてないわね」
 ぽつりと呟くと、その言葉に隣に立っていた兎華乃が不思議そうな表情で同意してみせた。人間である忌瀬でさえも理解しがたい九峪の体力の無さが、人よりも抜きん出た体力を持つ魔人である兎華乃にはことさら理解しにくかったのだろう。
 実際、馬の背に乗って半日揺れていただけで疲れたと喚く大の大人がいるなど、この目で見ていなければ忌瀬も眉唾物だろうと疑ってかかるはずだ。
「何だよ二人してうるさいな。いいじゃないか、俺は体力よりも頭に比重を置いてるんだよ。きっと」
 すると、そこで後ろにいた二人の声が聞こえたのか、九峪が顔を洗う手を手を止めて言い返してきた。気持ち良さそうにしていた顔を一転させて不満そうに唇を尖らせる。
「いえ、別にあげつらうつもりはないんですけどね、ただ――」
「ただ、何だよ」
「本当に驚くぐらいに九峪さんが我慢弱いのねってことじゃないかしら」
 言葉を濁そうとした忌瀬に噛み付いた九峪の態度に呆れたのか、横から兎華乃がぐさりと一言刺し込む。
 すると、少しだけひるんだような表情になった九峪は視線を兎華乃へと移し、弁解を試みたようだった。
「別に疲れたってわけじゃなくて。ほら、俺こんな服着てるから暑かったんだ」
「はあ、呆れた。九峪さんは暑いから休憩をねだったの?」
「う……いや、それは。――あ、そうだ。そういえば、二人以外の他の奴らはどこにいるんだ?」
 そこで露骨に九峪は首をきょろきょろと左右に振って、周囲を見渡した。
 話を変えるには不自然すぎて、誰の目にも話題のすり替えであることは明らかだ。
 しかし、ここまで堂々とそれをやられると追求する気も起きないのか、兎華乃はそこで隣に立つ忌瀬をちらりと見つめただけだった。
 その視線を受けて、忌瀬は仕方がないとばかりに頷く。
「兎音さん達なら、周囲の見回りに行ってますよ。休憩するなら、まず九峪様の安全を確保しないといけませんからね」
「あはは、そうか。なら帰ってきたら兎音達にもお礼を言っておかないといけないな」
 頭の回転の早い九峪は、忌瀬の言葉から、自分が休憩を提案しなければわざわざ見回りをする必要も無かったという事実にも気づいているのだろう。愛想笑いのような笑みを浮かべて、困ったように頬をかいた。
「九峪さんの我が儘には皆、慣れてるでしょうから、余り気にしなくてもいいんじゃない?」
「うわ、きっついなー兎華乃。もうちょっと優しくしてくれてもいいような気がするな、俺」
「もう十分、魔人としては優しく接してると思うけれど」
「いや、それは。――確かに。よく考えれば人当たりの凄く良い魔人だよな、兎華乃達って」
 と、そこで会話をしながら九峪は着ていた青のジャケットを脱ぎ始めた。どうやら本当に馬上で熱を吸った上着が暑かったらしい。上着を脱ぎ終わって、衣緒に縫いつくろってもらったシャツのような服だけのラフな格好になると、気持ち良さそうにふうと息を吐く。
 何度も周囲の人間に言われている事ではあるが、九峪の今の姿と態度だけを見れば普通の青年にしか見ることができない。
 そして、その姿を見た兎華乃も同じことを感じたのか、不思議そうに小首をかしげて、涼んでいる九峪を見つめた。
「本当に、そうしてみると九峪さんはただの人よね」
「そうか? って、そうだろうな。俺なんか、復興軍の皆と比べても特徴がないからなー」
 対する九峪は、傷が徐々に増えてきているスニーカーを脱ぎ、ズボンの膝下をまくりあげると、素足になった足首から下を小川の中へと突っ込んでいた。足首を流水の中にひたらせると快かったのか、そのまま子供のように水の中で足を前後左右にかき回し始める。
 それはどこまでも庶民じみた動作で、どのアングルから観察してみても、尊い人物の行いには見えるはずも無い。百歩譲っても、ただの童心の抜け切れていない青年だ。
「自分に特徴が無いなんて、本気で言っているの? 言っておくけど、私はあなたみたいな変な人、今まで見たことが無いわよ。まあ、神の遣いなんだから変わっていて当然なんでしょうけど」
「何だよそれ。俺からしてみれば復興軍の皆なんて、相当変わってるけどな」
 兎華乃の言葉にも、九峪はそう返してからからと楽しそうに笑う。
 その様子に、兎華乃の隣に立っていた忌瀬がさすがに九峪の言葉を許容できなかったのか口を開いた。
「それは見ている九峪様が変だから、普通の人が変わって見えるってだけだと思いますけどね」
「お、言ってくれるな。まあ、確かにそう言われても頷けるところがあるから、深く反論はしないけどな。――それよりも、こっち来ないか? 結構、水が冷たくて気持ちいいぞ」
 普通の男ならば眉根をひそめるような言葉を受けても、九峪は逆に嬉しそうに笑う。ぱちゃぱちゃと水面を叩く足を止めることなく笑うのだ。
 その表情を少し眺めていた忌瀬は、はあと小さく息を吐くと九峪の隣へと移動した。そして、九峪と同じようにして靴を脱ぎ、足先を川の流れの中へと入れた。
「それじゃあ、お邪魔して。――結構、冷たいですね」
「そうか? ひんやりしてて、気持ちいいと思うけどな」
 そこで九峪は足先を小川の流れにつからせたまま、小さく一度のびをした。ぽかぽかとした陽光を浴びながら、気持ち良さそうに目を細める。
 横に並んで座る忌瀬は、無防備な九峪のその態度を見て自然と口元がほころぶことを自覚した。
 どれほどまでに他人と打ち解け易いという性質を持っていたとしても忌瀬は漂泊者である。それは人の繋がりと言うものが地域に極端に密着しているこの時代では、どの場所に赴こうとも究極的なまでに他人でしかあれないということであり、身内として見られないということを意味している。
 だがしかし、九峪の前ではそんな他人という忌瀬に貼られたレッテルがいとも容易く消失する。事実であろうと、幻想に過ぎなかろうと、本当にそんなものは瑣末なことでしかないのだと感じることができる。忌瀬はここまで自分の前で気を抜ける人物がいるという事実がどうしてかこそばゆく感じていた。
「確かに、気持ちよくはありますけどね。――あ、持っていましょうか、その服?」
「この服? どうして?」
「そんなに足を動かしていたら、水飛沫で濡れますよ。また出発するときに、服が濡れていたら嫌ですよね」
 忌瀬は何のことだか分かっていない神の使いに、膝元に畳まれている青い上着が既に結構濡れかけていることをやんわりと教えた。
 その言葉を聞くまで、手元の上着の状態にはまるで気づいていなかったらしく、九峪は跳ねた飛沫がかかって少し濡れかけた上着を見ると、少しだけ目を見開かせた。
「あらら、これは結構濡れてるな」
「それは、あれだけ足をばたつかせればそうなりますよ。こういうところ、まるで子供みたいですよねー、九峪様って」
「子供? それ、いいじゃないか。見ていて和むってことだろ?」
 忌瀬の言葉に、九峪は嬉しそうににやりと口元を緩める。
「それは子供見れば少しは和みますけど。こんな子供っぽい方が軍隊の総司令官やってるなんて知られたら、入隊志願者とか激減するかもしれませんよ?」
「それはまあ、分かってるよ。だから、これでも気を張るべきときには張ってるつもりなんだから、深く追求しないでくれよ」
「何度も言いますけど、あれで気を張ってたつもりなんですか」
「ああ。俺としては最大限の警戒を払ってあれなんだ」
 少しからかうような口調で忌瀬がそういうと、九峪はすぐに面白そうな笑顔を浮かべた。
 九峪はころころと表情を変える。自分が軍の中で一番偉いということも、目の前にいる女が出自の分からない漂泊者であるということも、そんなことは歯牙にもかけない。
 ほぼ全ての人に友のように接し、そして友のように扱われることを望む。それが忌瀬が見てきた九峪だった。
 その性質は言葉で言い表せないほどに特異で不可思議で、どうしてか時々横にいるというだけのことで、はらはらさせられたり、呆れさせられたり、心臓の奥底がむずむずさせられたりする。その理由は忌瀬にも分からず、目下のところその原因の解明が忌瀬の最近の好奇心の向かう先ともなっていた。
「ん、じゃあ忌瀬、服頼んだ」
「はい」
 そんなことを考えながら忌瀬は九峪から手渡された青い上着を受け取る。とても特殊な材質で作られた衣服であるらしく、指に返ってくる感触は、滑らかなのに何故か自然の匂いを感じることが出来ない。それは東西諸国を行脚した忌瀬でさえも思い当たる材質の無いものだった。
 このあたりもまた、ただの青年にしか見えない九峪がただの人とは別種の存在である事をさりげなく教えてくれる。どこか俗世から浮いているのだ、九峪と言う男は。
「くーっ、ほんとに言い天気だな。このまま一日中寝転がっていられたら幸せだと思わないか?」
「そうですね。確かにそんなことができたら気持ち良いでしょうね。――だけど、今は駄目ですよ。すぐにでも出発しないと、目的地に着けなくなっちゃいますから」
「まあ、それはそうだろうけどな。だからあと少しだけ待ってくれよ」
「一応、聞いておきますけど少しってどれくらいですか?」
「それは少しは少しだよ。具体的に言えば、あんまり休んでばかりはいられないってことだろ?」
 同意しながら忌瀬が釘を刺すと、九峪は分かっているとばかり苦笑した。だが、変わらず川の中に足首をつからせている。今すぐに立ち上がるという気は毛頭無いようだ。その口から出てきた言葉がどれほど本気であるのかは分からない。
 後ろに佇んでいる兎華乃も同じことを考えたのか、口を開いた。
「本当に分かってるのか、怪しいところよね。九峪さんって、一度そうなったら無駄に抵抗するから。普段は意気地がないくせに、そういう時だけは頑固になるわよね」
「確かに、そうですよね」
 その言葉に忌瀬も即座に頷いてみせる。
 すると、旗色の悪さを感じ取ったのか九峪は小さく笑ってから言葉を開いた。
「そう冷たくしないでくれよ。――よし、そうだ。二人を待たせるのも悪いから、休憩している間に俺の故郷に伝わってるありがたいお話を聞かせてやるよ」
「ありがたい話、ですか?」
 突然の話題転換に忌瀬が尋ねる。よくよく考えてみると、休憩時間を引き延ばそうとする意思が見え隠れしている言葉なのだが、九峪のようなでたらめな論法でそれをやられるとやはり驚きが勝ってしまうらしい。
 対する九峪は普段のだらけたこげ茶色の瞳に少しだけ光を満たしてから大きく頷き返した。
「ああ、きっと今の二人には大切な話だ。どうだ、聞く気はあるか?」
 聞こえてくる九峪の言葉には、本人が理解して使っているのかは定かではないが聞く者を引き付ける引力じみた強い力がある。忌瀬は衝動的にその話を聞いてみたいと言う感情が生まれた。
 しかし、それと同時にこのまま九峪にペースを握られてしまってもいいのかという葛藤も生まれる。
「え? えっと、それは――」
 だから忌瀬は後ろを振り返ってから兎華乃を見た。どうするべきか判断を仰ぐ形で兎華乃を見たわけだ。
 だが、忌瀬と視線が合わさると兎華乃は、はあとため息をついてから頷いた。つまり話をさせろという意味なのだろう。呆れたような表情をしているが、その実、頭上の長い耳はぴくぴくと忙しなく動いている。それは兎華乃にとっても九峪の話というものが興味があるということを存分に主張していた。
 その瞬間に好奇心と言う津波によって忍耐と言う防波堤は崩壊してしまった。
「そうですね。じゃあ、少しだけ」
 そして、その言葉を聞いて九峪は待ってましたとばかりに、にやりと笑ったのだった。


   /


「そうだな、これは俺の故郷では割と有名な話なんだけど――」
 そう言って、九峪が二人に話し始めたのは一つの物語だった。
 この世界の何処にも伝わっていないだろう、しかし九峪のいた世界では頻繁に語られていたという物語。
 その話の名を北風と太陽と言った。
 相反する性質の北風と太陽が、通りかかった一人の旅人の服を先に脱がした方が勝ちという条件で勝負を行い、苛烈な強風により旅人の服を吹き飛ばそうとした北風よりも、暖かさによって自発的に旅人が服を脱ぐように仕向けた太陽のほうが勝ったというストーリー。
 九峪はその話を時には誇張し、時にはこの時代に合うように調整しながら、二人の前で語っていった。
 聞く側の二人も、口を閉ざして静かにその語り口に耳を傾けている。テレビや新聞などにより情報が散乱していないこの時代では、このような郷土の物語の類はやはり誰にとっても興味深いものであるのだろう。それが奇抜である事で知られている九峪雅比古の語る童話であるのならば尚更だ。
 結局、全ての話を語り終えるまで、二人は口を挟まずに九峪の話に聞き入っていた。
「――そして結局、力技に走らなかった太陽が勝負には勝てたってわけなのさ」
 そこで九峪の話を語り終わる。
 その瞬間に、話を聞いていた二人は動きを取り戻した。
「へえ、結構変わった話ですね。私もこの辺りを散々巡りましたけど、似たような話すら聞いたことありませんよ」
「そうね。私も全然聞いたことがないような話だったわ。北風と太陽が意思を持っているって点からして、大きな話よね。その話を考え付いた人も、よくもそこまで話を広げられたものだわ」
 二人は口々に感想を述べる。その態度に満足したのか、九峪は小川に足首をつからせ、太陽の光を一身に浴びながらも満足そうに笑った。
「そうだろう。俺もこの話を初めて聞いた時は、そんなことを考えたよ。何でそもそも北風と太陽がそんな変なことで勝負するんだろう、しかも先に服を脱がしたら勝ちってのはどんな変態な思考してるんだろうって」
「初めて聞いた時はそう考えたってことは、今はそう考えていないってことなの?」
 兎華乃がそう口を挟むと、九峪は軽く目を見開いた。
 そしてよくできました、とばかりに軽く笑う。
「お、するどいな。いいとこついてる。実際その通りで、昔はそう考えていたんだけど、後でよくよく考えてみたらこの話はこれで良かったんだって思いなおすようになったんだ。だって、この話の目的はたった一つの教訓を伝えるってことだけなんだから。北風とか太陽とか、そういった他の部分は言ってしまえばただの飾りでしかないんだ」
「教訓、ですか?」
「ああ。――何だと思う?」
 問いかけられた忌瀬は少しばかり悩んで、その答えを考えてみたが具体的には何も思い浮かばなかった。
 助けを求めるために、ちらりと横の兎華乃に視線を向けてみても、やはり彼女もまた九峪の言わんとすることは分からないようだった。長い耳をぴくぴくさせながら、首をひねって考え込んでいる。
「分からないか?」
「分かりません。教訓って何なんですか? 九峪様が言おうとすることなんだから、どうせしょうもないか途方も無いことのどっちかだってことは分かるんですけど」
 再び尋ねられて忌瀬は降参した。最後の言葉は、結局答えられなかったことに対する八つ当たりのようなものである。
 だが、そんな忌瀬の心情など分かっているとばかり、九峪は大仰に笑みを深めた。
 そしてもったいぶってから口を開く。
「分かってないな、忌瀬。これは人の心を分かりやすく話にした物語なんだ。――つまり何が言いたいかというと、嫌がる人間に無理やり物事を強制しても決して良い結果は迎えないってことなんだよ。北風みたいに力ずくで旅人に何かをやらせようとしても反発されて、太陽みたいに旅人を優しく包みこんでこそ望む結果が得られるわけだ」
 そしてゆっくりと長い台詞を言い終えたあとに、九峪は満面の笑みを浮かべてから忌瀬達を見た。まるでお菓子をほしがる子供の様な純粋な笑み。
 分かってくれたよな? とでも言いたげなその表情から、本人が何を言いたいのかは丸分かりだった。
 忌瀬は素で呆れた。
 もったいぶって話した物語の内容がこれである。
 ――強制してもいいことないよ。だから優しくしてくれ。
 結局のところ、九峪は旅人に自分を当てはめて、忌瀬と兎華乃が北風だから嫌だと駄々をこねているにすぎない。
 それが分かったために呆れてはあ、とため息をついてから九峪を見ると、九峪は自分の考えが理解されたと思ったのか、さらにガキっぽい笑顔を浮かべてきた。これが神の遣いを名乗るのだから、世も末である。まあ世紀末に相応しく戦乱の世の中ではあるのだが。
「――つまり九峪様は、私たちにもうちょっと休憩させろと言いたいわけですか?」
「ああ。俺にもっと太陽光を浴びさせてくれ。北風ばっかりだと駄々こねるぞ」
「北風ばっかりだとって、さっきから駄々こねまくってるでしょう」
「いやいや。まだ俺は本気を出していないってことなのさ。あーゆーおーけー?」
「……おーけー」
 最早言葉が通じないことを理解した忌瀬は、そこで首を縦に振ることしかできなかった。これ以上は無駄だと悟ってしまったためだ。九峪に口で勝とうなどと、土台無理な話は考えていない。
 せいぜいこの後、無駄に消費した時間を取り戻すために、全力で走らせた馬の背に尻を痛めつけられて泣き喚けばいいのだ。
「おーけーじゃないわよ。九峪さん、その話は少しおかしくない?」
 そんなことを忌瀬がダークサイドに落ちながら考えていると、異議があったのか兎華乃が口を挟んできた。
「おかしい? 今の話のどこが? 我ながら完璧な話だと思うけど」
「だって、おかしいじゃない。そもそも北風が諦めが良すぎると思わない? 私が北風だったら嵐でも呼んで、服を脱がないと殺してやるって脅しつけるわ。それで一安心でしょう?」
 そしてさらりと魔人らしい言葉を口にする。
 直球で返された九峪は人種の違いを感じたのか、げんなりとした表情を作った。
「……あのな兎華乃、子供向きの童話なのにそんな怖い方向に進んでどうなるんだよ」
「でも、それが一番良い方法には違いないでしょう? 命が懸かれば誰だって何だってするわ。そこに子供も大人もないんだから」
「でもな、やっちゃいけないこととかあるわけだよ、世の中には」
「それは人の法でしょう。魔人には関係ないわ。そんなもので私たちを規制することなんてできない。何なら今から私が北風役になって、九峪さんを次の目的地まで引きずってもいいわよ。それが力ずくが優れているっていう証明にもなりそうだし」
「いやいや、そうやって強制しても何も良いことないって。具体的には俺が悲しみの淵に沈む。――泣くぞ」
「どうぞ御勝手に。私は私で試させてもらうから。――そうね、それだけだと公平じゃないから、またあの時みたいに、変な力で抵抗してもいいわよ。もしもそれで立場が逆転したのなら、九峪さんが力ずくで私をどうにかしたっていいわ」
 背筋がぞくりとするような笑みを浮かべて、兎華乃はそう言った。
 何が琴線に触れたのかは分からないが、どうやら魔人としてのスイッチでも入ってしまったようだ。
 その捕食者としての表情が垣間見える変貌に、九峪はあちゃあと情けない声を出した。
 基本的には受け答えが丁寧な魔人だから忘れしまいそうになるが、兎華乃は最強の魔人なのだ。この場所で暴れられたら、一軍をもってしても止められそうにない。当然、ここにいる二人など相手にならない。だから取り扱い方法は注意に注意を重ねる必要があったはずなのだが。何か間違えたようだ。
 兎華乃は川べりに座る九峪の首根っこを、いつの間にか掴んでいた。
「……あのー、兎華乃さん。俺って一応、神の遣いらしいんだけど。荒事は止めてくれない?」
「駄目。嫌なら嫌で抵抗してみなさい。私を敵と思って、殺す気でかかってきてくれてもいいから」
「……俺ひ弱なんだから本気で暴れても敵うわけないじゃん。言っておくけど、忌瀬にだって傷一つつけれずに負ける自信あるぞ」
「あらそう。なら今回は意固地にならず言う事を聞けば良いじゃない。痛い目に遭いたくないなら。ねえ、旅人さん」
「……だから北風ぶるのやめてくれよ。兎華乃は太陽が似合うって。な?」
「――な、とか言われても理解できないわ。生憎、私は魔人だから」
 などなど、智謀溢れる神の遣いと最強の魔人がしょうもないことを言い合う光景が繰り広げられる。
 その様子は傍にいたただの人である忌瀬をして、奇妙奇天烈極まると言わしめたわけのわからない光景なのだった。なんといっても兎華乃がその特性を生かして九峪よりちょっと強い力を得たとしても、そこはもとが貧弱な九峪様の凄いところである。
 ゼロがちょこっと増えてもゼロの近似でしかないわけで。
 一にはならない。つまりふざけたことにイーブンなのだ。
 そういうわけで、兎華乃と九峪はそれぞれ川から引きずり出そう、そして抵抗しててこでも動かないようにしていたが、それが妙に拮抗していたりする。
 時々、本当に神懸かった片鱗を見せる男と、最強の魔人である少女が押し合い引き合いする姿はどこかシュールだ。
 少なくとも忌瀬は見ていて地味に笑いを禁じえなくなっていた。
 真横で展開される喜劇だか何だかわからないものを見ていると、黙っていようと思っていても笑ってしまう。
「お二人とも、楽しそうですねー」
 そう口にしてみても、既に引っ張り合いに熱中している二人の耳には届かなかったらしく、言葉は風に流れて消えた。
 力ずくが優れているとか、兎華乃には俺への愛が足りないとかわめいている二人の声だけが聞こえてくる。
 間近で見ている忌瀬を無視して、よくここまで子供みたいなことをできるものだと、ある意味で忌瀬は感心した。――これは存外に兎華乃の精神年齢も九峪と同様に低かったということなのか、それとも九峪の場の雰囲気をぐだぐだにする才能が素晴らしいのか。
 とにかく押し合いへしあいする内に、、気がつけば兎華乃から先ほど感じた魔人としての危険性は、いつの間にか煙に巻かれて消えてしまっていた。
 その点についても忌瀬はなるほどと感心せずにはいられなかった。
「ゆるい雰囲気にするのが目的だったのか、それとも何も考えてないのか。どっちなんだろうね、この人」
 相変わらず忌瀬を脇に追いやって低次元だが必死な争いを続ける二人を見ていると、そんな言葉が漏れた。
 本当に九峪の近くにいれば変なことが山ほど起きるので飽きはしない。
 それが楽しくて忌瀬は二人の争いを眺めながら口元をほころばせた。
 すると、そんなところだけは目ざとく見つけたのか、九峪が声を上げて非難してくる。
「おい忌瀬ッ、何やってるんだ! 俺だって一応は上司なんだから助けてくれよ!」
「残念ですが、敵は強大なので私では太刀打ちできそうにありません。御自分でどうにかしてください」
「ああっ、お前裏切ったな!?」
 肩越しに向けられた兎華乃の視線にあっさりと白旗を上げた忌瀬に、九峪が悲鳴を上げる。
 どうやら拮抗していた状況も収束に向かいつつあるらしく、兎華乃の勝利は近いらしい。
 兎華乃ほどの魔人がここまで梃子摺ったのは、九峪自信に欠片も害意がないことが大きいのだろうが、それにしてもすごい抵抗だった。人は普通ならば、どうあっても魔人に対して敵意や害意を持たずにはいられない。そこを利用して兎華乃は人よりも強い力を得る。
 だがしかし、九峪には米粒ほどの敵意だって存在しないから、兎華乃は地力で勝負するしかない。
 その時点で異常だ。真横で自分を引きずろうとする魔人に敵意を持たないなどと、あの神の遣いの脳味噌の中身はどうなっているというのだろうか。忌瀬はまだまだ世の中には不思議が溢れていることを再確認した。
「ぬぐぐぐッ……」
「ほらっ! いい加減に! みっともないことはやめて諦めなさい!」
「忌瀬マジで助けてくれー」
 ずるずると川べりから引っこ抜かれている九峪がまた情けない声を出して助けを求めてくる。とても偉いはずのその青年が発する声は、売られていく子牛が発するドナドナボイスだった。情けない、が、どこか放ってはおけない。
 忌瀬はどうするべきか少しだけ悩んだ。
 助けるべきか、むしろ見捨てて兎華乃側につくべきか。
(うーん、普通に考えたら見捨てたほうが後々楽でいいんだろうけど、……それよりもどこかでこの光景を見たことあるような)
 そして考えている最中にまた別の考えが浮かんできて思案する。
 首をひねって考えてみると、忌瀬はどこかで今の光景を見たことがあるような気がした。
 だが、どこでかは思い出せない。
「へるぷみー! この前教えてやっただろ、助けてだ!」
「もうっ、九峪さんじたばたしない! どうせ抵抗するなら私の中が飽和するぐらいの変な力を出しなさい!」
「意味が分からん! それよりも忌瀬助けて攫われるー!」
 しかも真横で五月蝿い口論が続いているので、気が散って思い出すのに時間がかかった。
 忌瀬は一旦、横の二人を無視してから真面目に考えることにした。
 うーん、と唸りながら記憶を遡っていく。
(どこで見たんだったかなー。この喉に小骨が刺さった感じが気持ち悪い。――って、ああ、そうか。見たんじゃなくて聞いたのか)
 と、少しばかりの逡巡の果てに、既視感の正体を探り当てることができた。
 この無力な九峪が強引に兎華乃に引きずられていこうとする光景。それはまるで、先ほど九峪に聞いた太陽と北風の話の流れにそっくりだったのだ。
 力押しでやっても上手いこといかないなどと九峪は言っていたが、なかなかどうして。言葉どおりに今のところは進んでいる。
 まあ今にも旅人は北風に陥落して服を脱いでしまいそうな勢いだったが。
「北風と、太陽かあ――」
「おいマジやばいって忌瀬ヘルプ! うあ、ちょっと何処握ってんだ兎華乃!? 潰されたら俺は死ぬ!」
「それならわがまま言わないで従えば良いでしょう」
「そうですよ九峪様。諦めが肝心ですって」
「馬鹿言うな忌瀬ッ、男には例え分かっていても引けない時があるんだよ!」
 何だかんだで敗北寸前であっても驚異的な粘りを見せてわめく九峪。
 その姿に忌瀬は確かに北風と太陽の話は、人の心理を正確に表現した童話だな、などと思った。
 そして、だからこそ、それならばとも考えた。
 伝え聞いた話に寄れば、北風では旅人をどうこうすることができないのだから、太陽が出てくればいいのだと。旅人が自分から服を脱ぎ出すような雰囲気に持っていけば、この摩訶不思議な神の遣いと魔人の争いは終わってくれるのだ。
「というわけで、――えいっ」
 そこで事態を収める方法を思いついた忌瀬は自分の上着に指をひっかけた。
 その突飛な行動に、九峪と兎華乃の動きが急停止する。
「――何してるの?」
「いやまあ、北風で駄目なら太陽で攻めてみようかと。ほーらほら九峪様、もうちょっとこっち来たら服の中が丸見えですよー」
 そう言ってから忌瀬は自分の胸元を見せ付けるように、さらに服にひっかけた指を動かした。
 止まっていた九峪の目が輝きを取り戻し始める。
「あー、川から出てこっちに来れば生まれたままの姿が見えるかもしれないし見えないかもしれません」
「え、嘘? マジで?」
「はい。だって、ほらほら。あとちょっとで見えちゃいますよ」
「おいおい忌瀬、俺がそんな色仕掛けで動く――なんて完璧な読みだな!」
 服を半脱ぎにして挑発してみれば、先ほどまでの様子が嘘のように九峪は忌瀬に近づいてきた。
 一瞬で兎華乃の拘束から脱出して、忌瀬の服に隠された部分が見える位置まで移動してくる。
 忌瀬は余りのお約束に苦笑しながら、ぎりぎり九峪には何も見えはしない距離を保つために後ろへと下がった。
 その瞬間に、九峪はちくしょうと口汚く舌打ちする。
 予想できていたことだが、本当にわけの分からない行動である。
(本当にこの人は、なんでこんなすけべえなんだろ? かと言って復興軍の誰にも手を出さないし。抱かせろって言ってきたら、状況によるけど相手ぐらいしてあげてもいいって人はたくさんいるはずなのになあ。不思議だ)
 見るのはOK。触るのは御法度。
 それが九峪の自分ルールであるらしいことは察していたが、変わった話もあったものである。
 前にどうしてそんなことをしているのかと忌瀬が聞けば、強引なのは趣味じゃないからなどと言っていた。だから誰も抱きはしないと。だがしかし、この状況を見るに溜まっているのは間違いない。まあ周囲に美人が多いのだから当然の話ではあるのだが。
 つまり九峪は誰も咎めないのに自分を律しているわけだ。
 すけべだが、それを制御するだけの自制心はあるということで、忌瀬からすればもう理解不能な人種だった。
 今までこんな男は見たことが無い。
(そう言えば酒の席ですっきりさせてあげましょうか? なんて聞いたら、真っ赤になっても首横に振られたっけ。あれはあれで冗談だったにしても、断られたのは傷ついたんだよなあ。それなのに今みたいな、九峪様いわくチラリズムには乗っかってくるんだから。――本当に、どうしてくれようか)
 しゃかしゃかとゴキブリのような動きでちら見えしそうな角度へと移動する九峪の動きをかわしながら、忌瀬はそんなことを考えた。見るだけで触らないというのは、確かに下卑た男よりは好感が持てるが、それにしてもあれだけの力を持っていて、なおかつ相手に好かれていて、本人もやりたいのに手を出さないのはどうなんだろうかとも思う。
 傍から見ていて酷いと思うような場面も何度かあった。
 顔を赤らめながら九峪との距離を詰めようとしている伊万里に 「悪い。話してるのに気がつかないで近づきすぎた」などと無神経なことを言ったり、すすっと肩へと頭を預けてきた志野に狼狽して 「あ、きょ、きょう用事あるんだった俺」などと逃げ出してみたり、亜衣の策略によって星華と同室で休むことになったら次の日は目の下にクマを作って 「俺は獣にならなかった。やりとげたぜ忌瀬」などと報告してきたり、何も考えていない香蘭に 「私の、胸、もむといいよ」と言われ、手を胸元へと持ってこられてもぐっと堪えるように歯を噛み締めて、手は出さなかったりと、――はっきり言ってしまえば最悪だ。
 特に期待させるようなすけべえな態度を見せるくせに、最後の一線は越えないのが駄目すぎる。
 忌瀬はどうにも九峪との雑談から、どうやら操を立てている相手がいるらしいことは推測していたが、それにしても我慢しすぎだと思っていた。神の遣いなんだから側女の四人や五人いても問題は無いだろうに。
 そんなことを考えながらも、忌瀬は慣れた調子で九峪を誘導していった。胸の谷間が見える位置をたくみに変えて、望むポイントへと九峪を導いていく。
「ほーらほら九峪様。もうちょっと高い位置に移動したら見えるかもしれませんよー」
「ぬあっ、なんてことだ! この位置からじゃ飛び跳ねても見えない!」
「そんな九峪様に朗報が。あそこの馬に跨ったら見えるかもしれません」
「忌瀬、お前天才! よし、これで見えるに違いない――って、何で服を着込みなおすんだ!」
「さあ、そんなことは私には分かりません。――ね!」
 そこで忌瀬は、ばしっと九峪が乗った馬の尻を平手で打った。
 驚いた馬が嘶いて、途端に走り始める。方向は目的地へと向いていることは確認していたので、問題は無かった。
「おわ、ちょ、忌瀬! 謀ったな!」
 振り落とされないように必死に馬にしがみついている九峪の声が遠くなっていく。
 その様子を見てから、忌瀬は今日中にはどうにか目的地へと到着できそうだと一安心した。
「ふう、一件落着」
「――随分と荒い手に出たものね。亜衣さんに聞かれたら怒られるんじゃないの?」
「あ、大丈夫です。きっと。こういうので陰口言うような人じゃないですから、九峪様」
 いつの間にか背後に回り込んでいた兎華乃の言葉に、首を横に振って忌瀬は答える。
「なら、いいけど。それにしてもいつになく乱暴じゃなかった?」
「え? そうですか? 私としては優しい太陽として旅人を導いてあげたつもりなんですけど」
「――まあ確かに。私よりは丁寧だったけど、あなたらしくは無かったわ。いつもなら、色々言いながらとことん九峪さんを甘やかしているのに」
「ええー、そうですか? いや、そんなことないですよ。私だってびしっとやる時はびしっと。……まあ、少し九峪様に振り回されて我を忘れていた面はあったかもしれませんが」
 遠く離れていく九峪を追いかけながら、二人は会話を続ける。
「そうなの? まあ、私だって時々、あの人と一緒にいると自分が変になることがあるから、そうなのかもしれないわね」
「そうですよ。きっとそうです。九峪様と一緒にいる時間が長引くと、色々と変になっていくんですよ」
「ふうん。九峪さんから仲間はずれにされて拗ねてるのかと思ったけど、違ったみたいね」
「ええ、それはもう。もちろん。そんなことはありませんよ。私はしがない漂泊者ですから」
「そう。ならそういうことにしておきましょうか」
「そういうことにしておいてくださいお願いします」
 二人は、そのまま九峪を追いかけたのだった。


   /


「……あー、やっと街が見えたな。本気で尻が痛い」
「そろそろ慣れてくれてもいいと思うんですけど、本当に慣れませんね」
「そりゃあまあ。俺はこれでも神の遣いだから繊細な体なわけよ」
 そしてそれから半日。
 九峪一向はようやく目的地へとたどり着こうとしていた。途中、魔獣やら野盗やらに襲われもしたのだが魔人三姉妹が瞬殺したので、それらについての説明は省略する事にする。
「繊細というより、貧弱なだけだと思いますけどね」
「まあ否定はしないけど、言い方がさっきからきっついな忌瀬」
「休憩した時に太陽のような優しさを発揮したので、これからは北風のようにびしばし行こうかと思いまして」
「……人が乗った馬を殴りつけて暴走させることは優しさと言わないって知ってるか?」
「その前に、ちらっと見せてあげたら喜んでたじゃないですか。あれが優しさじゃないですか」
「馬鹿言うな。寸止め生殺しは何もしないより悪いんだ」
「――その言葉、そっくりお返しします。今度、評定開いた時に面々の前で同じこと言ってみてください。きっと凄い反応だと思いますよ」
 九峪の返した言葉を聞いて、忌瀬ははあと本日何度目かになるため息をついた。
「どういうことだよ、それ。意味が分からないんだけど」
「はいはい。九峪様は分からなくていいんですよ。それよりも、ささっと街の中まで入っちゃいましょう」
「何だよその言い方。忌瀬のくせに気持ち悪い。真面目な忌瀬なんて鳥肌立つって。復興軍のちゃらんぽらんとしての矜持はどうしたんだ? もう俺とお前と羽江しか残ってないんだから、そこは大事にしていこうぜ」
「……初めて聞いたんですけど、何ですかその復興軍のちゃらんぽらんって?」
「もちろん俺たちのことじゃないか。――分かるだろ? 兎華乃」
「その三人の共通しているところなら、なるほど確かに良く分かるわ」
 話を振られた兎華乃はすぐさま頷いた。
「ほらな?」
「はいはい、わかりましたよ。どうせ私はちゃらんぽらんですよーだ」
「おおっ、良い調子だな。その方が忌瀬らしくて安心する」
 忌瀬は見も蓋も無い言葉にふてくされてみたが、その様子を見て九峪は明け透けに笑った。フォローなど一切にせずに、そちらのほうがいいと子供のように笑う。
「……もしかして九峪様、私のこと嫌ってます?」
「ん、何でそんなこと聞くんだ? 俺、忌瀬のこと好きだけど?」
「い、いやまあっ、――それならいいんですけど。ただちょっと言い方に棘があるような気がしたりしなかったりで」
「へー、相変わらず変な奴だなあ」
 あたふたと焦った忌瀬を前にしても、九峪は不思議そうに首をかしげただけだった。そのあたりの器のでかさというか鈍さは神の遣いを名乗るに相応しいと言えなくも無い。
 現に横からその光景を見ていた兎華乃は含み笑いを浮かべている。
 これでは一人、鼓動を早めた忌瀬が完璧に馬鹿を見ている。不条理極まりなかった。まあ、神の遣いと魔人の間に人が挟まれれば、翻弄されるのは必至だったのかもしれないが。
「そんなことよりも、九峪さん。そろそろ行きましょう。私、久しぶりにこの辺りの地酒が飲みたいわ」
「酒かあ。――良いね。俺も最近は忙しかったから御無沙汰だったんだ。ここは一つ、街まで着いたらぱあっとやるか?」
「そうしましょう。忌瀬さんもそれでいいわね?」
「え、ああはい。宴会するなら、いつでも呼んでくれれば参加させてもらいますけど」
「よしっ、なら決まり! 今日は久しぶりに宴会! というわけで、まずは街に入るのが一番遅かった奴はイッキだからな!」
 そう言って唐突に宣言すると、それまで不平不満を零してだらだらと馬を歩かせていた九峪は、俄然力を取り戻して、馬を走らせた。その唐突で卑怯な加速に、残された二人は不満を抱くよりも先に呆れてしまう。
「……あれで神の遣いなんだから」
「……不思議ですよね」
「まあこの程度しか離されてないなら、ひ弱な九峪さんに負けるはずがないからいいけど」
「確かにそうですね。体力勝負じゃ勝てないって、頭では分かってるはずなのに。変な人です」
 喋りながら、二人は九峪を追いかけた。
 多少のハンデがあるにせよ、馬術の馬の字も知らないような相手を抜き去ることなど容易い。
 啖呵を切って勢い良く飛び出したはいいものの、あっという間に距離を詰められた九峪は肉薄してきた二人を見て軽く顔を引きつらせた。
 そんな九峪に優しさを見せるような二人ではない。
 九峪への距離をみるみるうちに詰めていくと、あっという間に今度は逆に九峪を追い抜いてしまった。
「二日酔いの薬なら用意してありますから、安心してくださいね!」
 二人の後ろから、九峪があげた悲鳴が聞こえてくる。
 その間抜けた声に笑みを浮かべながら、忌瀬はそのまま街中まで駆けていった。