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 目にすれば恐怖に四肢が硬直し、目にされれば全身が絶望に麻痺する。射殺すような視線に思考を止められ、抵抗する意思を根こそぎ奪われる。――それが、魔人。例えどれほどに修練を積もうとも、人はその楔から逃れることはできない。人という種は、魔人という超越種を超えることはできない。戦えば、ほぼ間違いなく人は敗北する。
 その事実を九峪は、精神が発狂してしまいそうになるほど強く、過去に経験した現実から理解していた。誰よりも魔人を憎み、また誰よりも魔人を理解しているからこそ、自らの行動が無謀に近いことを知っている。
 過去に九峪が、魔人を討ち取ったことは、一度となく存在する。だがそれは真実、九峪の力によるものではなかった。――七支刀。何の因果か九峪が使い手として選ばれた、その炎の御剣の手助けがなければ、決して実行不可能なことだった。
 今。過去へと逆行を果たした九峪の手に、七支刀はない。
 七支刀が現在、どのあたりの場所に存在しているのか、九峪は漠然と理解している。だが、その場所は数日で取りにいけるほど近い場所ではなかった。まだ編成されて間もない復興軍を、十日以上も離れてまで七支刀を入手するのはリスクが大きすぎる。そう考えて九峪は、見切り発車してから時が経っていない、幼い復興軍での雑務を片付けていくことを今まで選択してきた。
 ゆえに結局、現時点で魔人に対抗できる明確な術を持ちえていなかった。
 真正面から魔人にぶつかれば恐らく、象に挑む兎の如く、九峪は踏み潰されるしかないのだろう。だが、

「その笑い声を、必ず俺が、消してやるッ――」

 理性。冷静な判断すら押しのけて、九峪の体は動いていた。
 憎悪という燃料を惜しみなく心臓にくべることで、限界まで己の体を酷使する。
 近づけば近づくほどに、蛇の如く体を這わせて心臓に絡みつこうとする絶対的な恐怖を、脳裏に浮かぶ仲間の死に際の記憶だけで圧倒しながら、九峪は激情に駆られた体を走らせた。腹の底から怒りを湧きあがらせ、迫り来る魔人を八つ裂きにするために、己の力を鋭く強く磨き上げていく。
 距離が縮まる。
 少し前までは、点にしか見えなかった魔人の姿が、今ではその体の細部までを確認できるほどになっていた。鉱物を連想させる黒い肌に、禍々しい三眼。凶悪で鋭利な歯が見え隠れする口元は大きく裂け、人一人ならば胴体ごと楽に噛み千切ることができるだろう。見る人に不幸を振りまくその姿が、鮮明に視認できるようになる。
 そして更に僅かな時間が流れれば、二つの生物は、お互いの命を奪い合える距離まで到達した。
 九峪の血が、消し炭になるほど、苛烈に燃えた。

「グハハ、活キガ良イ、獲物ダナッ!」

 米俵ほどの太さがある、魔人の四本の手足が瞬間的に膨張する。収縮した筋肉は、爆発的な跳躍力を生み出し、小山のような質量を伴った魔人の体が、九峪から太陽の光を覆い隠すほど高く跳んだ。
 それは魔人にとって軽い動作だった。そして、そこには人が乗り越えられない壁が、確かに存在していた。魔人はいとも容易く、人の限界を嘲笑しながら超えていく。九峪が一生涯を対価にしても、その瞬発力を得ることはできない。

「マズハ、一匹――!」

 空に届くほどに高く飛び上がった魔人の巨体は、重力という理にしたがって、九峪の体へと迫った。剥かれた獰猛な乱杭歯が、てらてらと鈍い輝きを放っている。恐らくは、鉄製の鎧程度なら、大した労力もかけずに、噛み砕いてしまうことだろう。
 防御のための武装をしていない九峪ならば尚更だ。鋭い歯が、引っかかるだけで、恐らくは致命傷を負う。
 状況は悲観すること以外、不可能なほどに、九峪に不利なものだった。しかし。
 
「余り、騒ぐなよ」

 抑揚のない声。散々に感情を燃やして、溶解させ尽くして、後には灰しか残らなかったような、聞く者の背筋をぞっとさせる声がした。殺意を原料に、憤怒を鎚にして、極限まで薄く鋭く打ち鍛えられた復讐という刃を、否応にも感じさせる。
 九峪は揺れるように前進。退くことなく、前へと加速した。
 頭上より死を呼ぶ魔人が降り下ろうとしていても、混乱に怯え、身動きが取れなくなるようなことはない。それは、ただ誰よりも魔人に恐怖した経験を、重ね続けた九峪だからこそ出来る、判断だった。
 後退を良しとしなかったわけではない。一度退けば、後はただ魔人に氾濫した川の水流の如く、怒涛の勢いで押し切られることを九峪は知っていた。だから多少の危険には目を瞑って、着地するだろう魔人の背後を取るために、九峪は上空から一瞬で圧殺される危険性を承知した上で一直線に疾走する。
 魔人に抗うためには、魔人に対して背を見せてはならない。巨大な魔人の懐に、人の矮小な体を滑り込ませて、まとわりつきながら攻め続けるしかない。
 そうしなければ、即座に人は踏み潰される。
 九峪が、宙に浮く魔人の体によって地面に作られた影を越えた瞬間、背後で轟音がした。巌のような巨体が着地した衝撃だけで、激しく小刻みに大地が悲鳴を上げる。常人ならば、立つことさえも難しいほどの鳴動。副次的に生まれた風圧だけで、九峪の衣服がばさばさと、強くはためく。
 もうもうとした土煙が、黒い肌をした魔人の周囲で、散乱する。陽光を吸収することで視界を覆い隠し、戦闘の続行を難しいものへと、変化させていく。
 魔人は、ただ跳び上がるという一動作だけで、地形を粉々に変形させた。それは凶悪であり、同時に人の限界を強く物語る。初めてその光景を目にした者は、例外なく自らの無力さに打ちひしがれることだろう。
 だが。
 その程度で攻撃の手を緩める覚悟しか持っていなかったのならば、九峪はこの場所にはいない。

「倒れろ、地面に」

 風牙迅雷。――自然を律する言葉を口にする。
 周囲の大気が渦を巻いて九峪の前方へと集まり、次いで空気が膨張して破裂するような音がした。その音が鳴った瞬間に、辺りに漂っていた土煙が更なる風圧によって強制的に吹き払われる。
 そして同時に、九峪に背を向けて着地の態勢をとっていた魔人が前のめりに倒れこんだ。
 難攻不落。堅牢強固。決して地面に五体を投げ出さないと思われていた魔人が、顔面を大地へと晒した瞬間だった。

「――あいつらのように」

 再び、方術が紡がれる。九峪の言葉に一拍遅れて、風船が破裂したような音がした。先ほどと同じように、魔人の体が風に撃たれて小さく跳ねる。
 衝撃が、巨岩のような魔人の体を貫通した。五体全てを切断してやるという、烈火のような感情の込められた術が、倒れないはずの生物を、傷つけた。

「早く、死ね」

 九峪は、表情が消え去ったままに、もう一度、術を紡ごうとした。大気を集めながら、ただ死ねと願う。
 ――しかし。
 術を発動させる直前に、九峪は小さく舌打ちをして、体を横へと跳躍させた。
 直後。黒い暴風が、九峪の立っていた場所を散々に破壊しつくした。蹂躙し、侵略する巨大質量が、無慈悲に地面を陥没させる。砂粒や小石が、爆発したように千切れ飛んだ。

「ガアアアッ、舐メルナ、人風情ガァ!」

 陥没した大地に、猛る声。腹の底を震わせる咆哮に、吹き荒れる重圧。
 倒れていた体勢から、腕の腕力だけで、魔人は九峪との短くない距離を詰めていた。爆発的な瞬発力は、ただそれだけで必殺の武器となりうる。九峪が横へと逃れる時間が、ほんの僅かでも遅れていたならば、今ごろは志半ばで哀れにも逆行者の体は骸と成り果てていたことだろう。
 人がきれるチップは一つだけ。それを失えば待つのは純粋無垢な死。対して、魔人は無尽蔵な体力に任せて、底なしのチップをきることができる。土台、奇跡でも起こらなければ、人と魔人の二種族の間には、戦闘というものが成立するかさえも怪しい。
 現に、九峪の全力での連撃は、魔人の肌に小さな擦過傷しか作っていなかった。致命傷などからは、程遠い。
 そこにあるのは、不公平すぎる、命のやり取りだけだった。
 だが、

「俺はもう、ただの一度だって――」

 びりびりと頭頂からつま先まで、全身を紫電のように駆け抜けた悪寒に脂汗を浮かばせながら、それでも九峪は悲鳴を上げることなく、逆に魔人へと向けて前方に跳んだ。
 この程度で、ふざけるな。――種族的な本能で、一瞬でも恐怖しそうになった自分を、八つ裂きにしてやりたいと強く憎むことで、体が動かなくなることを止める。胸の奥底に沈殿している憎悪を汲み上げることで、湧き上がる恐怖を、更に黒一色で上書きする。
 ――殺意で、恐怖を塗り潰す。
 震えを、止める。挫けそうになる意思を、立て直す。戦意を、赤々と燃焼させる。

「――お前達を、舐めてかかることはない」

 力の純粋な大小では、巨岩と砂粒の戦い。だから、その差を少しでも埋めるために、九峪は声だけでも相手を殺すほどの意思を込めて、眼前に立ちはだかる魔人に対して、短く告げた。
 そして加速。
 虚実の動作を織り交ぜながら、滑り込むように魔人の懐へと潜り込む。猛威を振るって荒れ狂う台風である魔人の、唯一の死角へと、震えそうになる膝を叱咤して走る。

「チョコマカト――」

 黒色の魔人が、九峪の胴体よりも太い両腕を振り上げた。黒光りする硬質的な肌を持つ魔人が、双腕を空に掲げる姿は、どこか禍々しい塔を連想させた。
 
「邪魔ダッ、人間!」

 振り下ろされた両腕。速すぎるその動作は、造作なく音を超えた。生まれた音速すら跳ね除ける、最強の魔人の一振りが、対象に激突する前に、凄まじい衝撃波を生む。
 砂塵が爆発したように飛び散り、一瞬で草花が潰える。
 魔人へと接近していた九峪は、その一撃をかろうじて回避した。しかし、紙一重以上の余裕を持って避けたにもかかわらず、その体は爆風で小さく体勢を崩されかけた。
 九峪の全身が、本能的に総毛立つ。常識を超えて、理解の範疇には決して収まらない暴力が、そこには確かに存在していた。
 ――しかし、それでも、九峪は止まれない。

「顎下が、空いてるぞ」

 怒りのためか恐怖のためか、震えそうになる唇で、言葉を紡ぎながら跳躍。九峪は鉄槌のように地面に突き刺さった、魔人の腕を駆け上り、一瞬で魔人の顔面までの距離を詰めた。

「風牙、迅雷」

 超至近距離からの、術の爆発。陸上生物にとって最も筋肉に覆われていない、損傷し易い部位である顔面を狙った、正確精密な風の方術が、その牙を魔人へと振るった。木の幹の一本程度ならばへし折るだけの圧力を伴った、殺傷目的の攻撃が、魔人の頭部に正面から着弾する。
 相手が人ならば、確実に生命活動を停止させる一撃だった。――しかし、それすらも。
 致命傷と、なり得るはずもなく。

「オオオッ――!」

 びりびりと、聞く者の体を後ずさせる、腹の底へとまとわりつく低い咆哮がした。次いで、大気を啼かせる、豪腕の閃きが唸る。
 九峪は、術を放ち終えて着地した瞬間に、生き汚なかろうとも、何よりも素早く体を横へと転がした。瞬間、九峪が寸前まで立っていた地面が抉られ、陥没する。砂と泥に汚れながら、九峪は、魔人の両の拳が大地を残酷にひび割る瞬間を見た。
 人が、どれだけ足掻いても、あの力を決して得られないのは、不公平だ。――続く、戦術を考えながら、九峪は渇望に似た感情を抱いて思った。

「コノ、蛆虫ガアアアアアッ!」

 頬にざっくりと、刺し貫かれたような切り傷。怒り狂う魔人の顔面からは、少量ではあるが、血が、流れていた。
 それだけが、怒りのままに戦闘を続行する九峪にとっての希望だった。
 未だ天秤は大きく魔人に傾いたまま、戦況は一向に、変化の兆しを見せることはない。




    /




 その質量は、立ち塞がる全てを破砕する凶器である。
 その硬度は、向かい来る全てを遮断する防壁である。
 そのモノの前に立てば訪れるのは死であり、そのモノの目に捉えられたならば訪れるのは死であり、そのモノに刃向かえば訪れるのは死である。
 進行を防ぐ手段は無い。
 逃走することは絶望的。
 そして、勝利することに至っては不可能。絵空事でしかない。
 魔人と呼ばれる種族は一様に兇悪な戦闘能力を所持している。彼らの前で鋼の刃は棒切れに過ぎず、鉄の盾は紙くずでしかない。人などは地上に湧いた虫と同等であり、腕を一振りするだけで内臓をぶちまけて死に至る。
 魔人とは、食物連鎖において人の上位に君臨する、最強の生物であるのだ。

「――何なの、アレはッ!」

 酷く耳障りのする嫌な風切り音が聞こえてきた瞬間、星華の近くにいた兵士の一人が強風にあおられたボロ布のように宙を舞った。およそ重力に逆らって空へと吹き飛んだ兵士の手足は不自然に折れ曲がり、大量の血潮を周囲に振りまいている。
 絶命。助かる見込みを砂粒一つほどさえも探すことができない、完全な生命活動の停止だった。
 にたにたと笑いながら軽く右腕を振った鋼色の魔人によって、至極あっさりと兵士は殺された。
 その光景を見た星華は、人という生物種の構造は脆いのだと初めて思い知った。

「星華様、魔人です! ここは一時撤退をっ!」

 思考に浸る時間を与えることなく、生来の気質をかなぐり捨てた、絶叫に近い衣緒の声が、星華を後方から強く打ち据えた。――動け。動かなければ死ぬという現実が、圧倒的な質量を伴って星華に圧し掛かる。
 順調に思えていた行軍。だからといって星華は気を緩めてなどはいなかった。何時いかなる場所で敵の強襲を受けてもいいように、行軍の途中で一度たりとも気を緩めたことはない。
 夜道。山道。背の高い平原。――敵が潜伏している可能性がある場所では、それこそ常に気を張り詰めて、即座に号令を響き渡らせることができるようにしていた。抜かりは無かったはずだった。見晴らしのいい平原、その場所の中央に一人立つ、鈍く光る鋼色の魔人の姿を目にするまでは。

「何をしているんですか、星華様!」

 思考に陥りかけた星華を、もう一度衣緒の声が打つ。
 だが、いくら近くから大声で揺さぶられようとも、星華の思考は麻痺したままだった。目の前では、兵士達が巨大な魔人にくびり殺されていく。
 人は死ぬ。そこまでは星華も理解していた。だが、そんなにも簡単に人が死ぬとは知らなかった。――いや、知識としては保有していたのだが、頭の中では真に理解していなかった。
 だから、まるで人が、針でつつけば直ぐに破裂する血と臓器の詰まった風船でしかないかのように、周囲の兵士を殺し続ける魔人の姿を目にして混乱に陥る。

「あれが、魔人」

 それは、血と流血と死を産出する、想像の範疇を超えた生物だった。

「――失礼しますっ!」

 声が聞こえてきた瞬間に、ぐいっと力強く後ろ首をつかまれて、星華の体は浮いた。地に足が着かなくなり、さらに数瞬だけ強い混乱に陥る。が、気づいたときには衣緒のすぐ傍にいた。そこに至ってようやく、星華は棒立ちしていたところを衣緒によって後方へと下げられたのだと気がついた

「……衣緒」

 星華は自分の目の前にいる、魔人に立ち塞がるように大槌を構えた、衣緒の背を見た。

「星華様は、このまま護衛を引き連れて、撤退してください。ここは必ず、――私が食い止めて見せますから」
「何を、言って――」

 覚悟が透けて見えるほどに強い衣緒の言葉を聞いて、星華は半ば反射的に異議を唱えようとした。

「早くっ、ここから離れてください!」

 だが、その声はかき消された。反論を認めない、強い意思の込められた言葉で、未だ正常に思考の働かない星華の言葉は泡と消えた。
 そして止めることができないままに、衣緒は単身で特攻を仕掛けた。槌を強く両手で握り締めて、しっかりとした足取りで、駆け出す。
 衣緒が大きく槌を振り上げると、薄手の服にしか隠されていない後背筋が、目に見えて隆起する。それは見る者に、迫り来る殆どの脅威を払い除けてくれると感じさせる、力強さを持った姿だった。――だが、魔人の前に至ってはそれも酷く霞んだ。
 星華は、衣緒が死にに行くようにしか見えなかった。

「衣緒、止めなさいッ!」

 腰が抜けてしまいそうな恐怖の中、星華は喉を振り絞って声を上げた。
 しかし、その声は届いたはずなのに、衣緒は更に加速した。大上段に槌を振り上げて、玩具で遊ぶように兵士をいたぶる、魔人へと走る。

「――星華様、どうかお達者で」

 声は遠く、決意は堅く、聞こえてくる。
 撤退か。抗戦か。――星華は瞬間的に、何をすれば良いのかが、解らなくなった。

「星華様!」

 何も決めることができないままに、後方から叫ぶような呼び声。前方へと駆け出した衣緒の声に似ているが、それよりもやや鋭い印象を受ける。亜衣の声だった。

「――早く、星華様だけでも、撤退を。このままでは、いずれ全滅するしかありません」
「でも、亜衣。衣緒が……」

 息つく間もなく切り出された亜衣の言葉に、星華は返答に詰まった。
 星華は幼少の頃より教育を受けていたために、戦況を読むことには長けている。現時点での敵勢力は魔人が一体。そして自勢力は、伊万里の部隊が合流したとしても、大部分を新米兵士によって構成された千程度の兵力のみ。恐らくは、その中の数十に満たない人員しか、魔人に向かって時間稼ぎをすることはできないだろう。
 そして、仮にも交戦することができる実力者ともなれば、十を下回る。紅玉、香蘭親子のどちらかがこの場所に存在していれば、戦況は代わってきただろうが、その二人はいない。つまり、真正面からぶつかり合えば、蹴散らされるのは自軍だった。この場所に留まれば、九分九厘、死しか待ってはいない。
 星華は、聡いが故に、その判断を瞬時に下していた。
 しかし。

「衣緒ならば、間違いなく星華様が撤退するまでの時間を稼ぐことは可能です。ですから早く、後方へ」
「亜衣。だけど、衣緒が……」

 ――確実に死んでしまう。
 そう言葉にすることが、恐ろしくなり、星華は口を閉ざした。口にしてしまえば、その縁起でもない事態が、現実に起こってしまうような錯覚を覚えてしまったからだ。
 星華は衣緒のことを心配していた。ゆえに、状況を改善出来ないかどうかを、亜衣に尋ねる。
 亜衣は星華が幼い頃からの教師役だった。何か疑問を尋ねれば、きっちりと、時には時間をかけて厳しく、常に正解を口にしてきた。だから、今回も尋ねれば、誰もが生き残れる方法を答えてくれるのではないだろうか。そう星華は瞬間的に期待していた。
 だが、そのような誰もが納得できる答えなど、最初から存在するわけがない。

「その通りです。衣緒は、運が悪ければ、ここで死ぬでしょう」

 亜衣は冷淡すぎると思えるほどに、感情の見えない声色で、星華の期待をかき消した。

「――しかし、その程度の事ならば私たちは戦いを始めると決意した時から、当に覚悟はしています。あなたを最後まで守ると、そう決めているのです。ですから星華様が今、そのようなことを気になさる必要はありません」

 声の調子は変わらない。決断を促すためか、早く、冷たく聞こえる。

「今は何よりも撤退を。これ以上、ここで問答を続ければ、衣緒が稼いでくれるだろう時間も無駄になってしまうかもしれません」
「だけどッ――」

 亜衣の言葉の正当性は嫌と言うほどに理解していた。そして、それでも納得がいかなくて星華は反論を口にしようとした。
 しかし、星華が言葉を上手くまとめるよりも早く、先に亜衣が口を開いた。

「星華様、続きは移動しながら聞かせてもらいます」

 刺すような視線。有無を言わせない声色。
 亜衣の声は表面上、臣下の礼を失ってはいないものの、その内実は全くの逆だった。従わせようとする意思が影に見える。平静な状態であっても、反射的に頷いてしまいそうになる言葉。混乱していた星華の思考には、染み込むように良く響いた。
 
「でも……」

 声がかすれる。
 何か、何かを間違えているような気がする。――そんな思いが星華の胸に絡み付いていたが、それを上手く言葉に出すことが出来なかった。現状で、余らせておく時間などない。だから決断しなければならないというのに、星華は己の判断を下すことが出来ないでいた。
 ふと、亜衣から視線を外す逃げのため、周囲を見渡してみる。
 すると。
 星華は、忘れていたものを、目にした。

「あ、……」

 何百の視線。それが、不安そうに星華を見つめていた。近くに魔人が存在するという壊れそうな圧迫感の中でも、星華を見ようとしていた視線が、大勢存在していた。幾らかの兵士は、既に逃げ出してしまっているためか、数は多くない。だが、それは決して少ない数でもなかった。
 ――半ば反射的に、星華は自らが王族であるのだということを思い出した。
 王とは、導く者。民という大多数に対して、方向性を提示することで、先導するがゆえに尊い者。少なくとも、星華は自らの身分について、そう考えていた。

「……亜衣」

 初代火魅子という偉人の血を引いているという矜持を、もちろん星華は持っている。己の体の中を常に駆け回っている赤い血潮が、遥かな昔に九洲の血を平定した初代火魅子の流れを汲んでいることを、疎むはずがない。
 だが、星華はそれとは別の理由から、王族として存在する自らについても、誇りを持っていたのだ。
 そのことを、縋るような大多数の視線を見たときに、思い出す。
 だから。
 一度肺の中に大きく空気を吸い込んだ後、腹を決めて声を出した。

「今から、魔人と応戦している者達の、援護をします」
「なっ、何を言っているのですかッ――?」

 亜衣は、その言葉に目を見開かせて、咎めるような声を上げた。
 亜衣は理性だった。だから、逃げるという選択肢が現状で最も安全だという答えを知っている。――だが、きっとそれだけでは駄目なのだ。
 星華は周囲で自らを探るように見る兵士達の姿を眺めながら思った。

「相手は、よりにもよって、あの魔人なのですよッ!」
「……解っているわ。正直に言うと、今でも膝は真直ぐに立ってくれなくて、この場所から直ぐにでも逃げ出してしまいたいとも思っている」
「なら、どうしてですか? 衣緒が、何のために、誰のために時間を稼いでいるのか――」

 亜衣は、間髪入れずに問い返してきた。そこには、先ほどまでは沈着冷静に見えていた参謀の姿はない。
 やはり彼女とて、どうにかぎりぎりのラインで、落ち着いた態度を維持してきたにすぎないということなのだろう。一度、表面に張られた薄皮が剥がれてしまえば、もうそこにいるのはただの姉だった。
 隣に立つ人間が冷静さを失う様子を目にすると、逆にその姿を目にしている人間は冷静さを取り戻すことがある。あたかも、他人の理性を吸収するかのように。
 星華は、徐々に、押し潰されるような圧迫感と困惑を薄れさせていくことができた。

「それも、解っているわ。だけどね、亜衣。つい先ほどまで逃げ出したいと怖がっていた私が、こんなことを言ってしまっていいかどうか迷うけれど、魔人は狗根国に一体しかいないわけじゃないのでしょう?」
「……それは、確かに。先の耶麻台国が滅んだ原因は、絶えることのない軍勢と、消えることのない魔人の影にあった事は明白ですが」
「――それなら、ここで逃げ出すわけにはいかないわ。魔人一体すら倒せない人間に、九洲を復興させることができるわけなんてないから」

 言った。言ってしまった。口を閉じ終わった後に、星華は自分の退路を自らの手で削り取ってしまったことを悟った。背水をもって陣をなす、――と言えば聞こえは良いが、それはやはりただの博打でもあった。
 しかし、説得自体に論理の穴はない。それらは全て事実だった。
 そもそも現状で兵士が我先に逃げださないのは、先の戦いでの勝利が大きい。その勝利の記憶を盾に、かろうじてこの場所に踏み止まっているのが大多数の兵士達の心情であるはずなのだ。
 ――その状態で、部隊を率いる人間が撤退すればどうなるか。
 悩むまでもない。それは逃走と見られ、裏切りと見られて、失望へと変わる。兵士は最早、復興と言う言葉に耳を貸さなくなるだろう。現状は、星華が生き延びれば機会はきっとあると言えるほどに楽天的なものではなく、むしろこの機を逃せば全てが潰えるという段階まで来てしまっているのだ。――それが解らない、亜衣であるはずがない。
 亜衣は何も答えず、心底、口惜しそうに歯噛みした。
 それが返答となった。

「行きましょう、亜衣」
「……覚えておいてくださいね、星華様」

 ――ええ、生きていられたなら好きなだけ説教されてやるわよ。
 近づくたびに常軌を逸した魔人の圧力に震えそうになりながら、かろうじて外見だけ虚勢を張った星華は、心の中でそう思った。