「反乱軍はどうやら北と南から挟撃する形で、この街へと進軍してきている模様です。兵数は共に千前後。合計すると二千を超える兵力となっていることは確実かと考えられます」
「そうか、解った。ご苦労だったな、下がっていいぞ」

 片膝をついた姿勢で報告する部下に対して、去飛の街の守備隊長は余裕さえ感じさせる表情で頷いた。緊張感を感じさせない事務的な動作で、右手を軽く前へと払って部下に退出を促す。

「二千か、予想していたよりも多いな。――どうするのだ?」

 守備隊長の後方。部屋の中で檀となった場所に座している去飛の街の留守が、目の前に直立する守備隊長へと尋ねた。その声は守備隊長と同じく、余裕というものを感じさせる。

「予定通りです。あの左道士殿の言葉通り、にわかじこみの千や二千の雑兵などは、配置された魔人が駆逐してくれることでしょう。我々は敵の陣形が魔人によって崩壊するまで待機し、崩壊を確認後、一気に打って出て敵を各個に殲滅します」

 彼ら狗根国軍人の余裕の源は、魔人だった。彼らの前に現れた深川と名乗る左道士によって与えられた、一騎当千という言葉すら生ぬるい人外の存在は、ただ味方についたというだけで戦闘への勝利を確信させるものだった。
 去飛の街には兵力を全てかき集めても、報告にあった敵兵の勢力の十分の一程度しか存在しない。だが、それでも魔人という存在が味方についただけで、彼らは敗北という可能性を忘れた。
 それは狗根国に所属する、魔人という存在の恐ろしさを知る者ならば、当然の反応だった。

「お前は、どれくらいで片が付くと考えている?」
「正確には解りません。何分、魔人は敵で遊ぶことも充分に考えられます。下手をすれば、わざと殺さずに延々と敵を嬲り続けるという可能性もありますので。――ですから早ければ丸一日、遅ければ二日。そう考えていただければ」

 守備隊長にとって既に勝利は確定していた。
 彼は人間であり、人間が魔人に勝てるわけなどないという道理を、骨の髄まで理解していた。だから自らの命が天秤にかけられているなどとは考えていない。むしろ、内心では一方的に魔人に殺戮され尽くすことになる敵に対して、種族的な同情すら感じていた。

「ふむ、そうか。まあ、その程度の期間はやはり必要か」

 座った体勢のままに留守。背筋を丸めて、やや気だるそう声を出す。

「はい。戦闘後の処理まで含めると、更に二日ほどは必要かと思われます」
「つまり三、四日は身動きが取れない日々になるということか。面倒なことだ。――まあ、自業自得ではあるが、我々にたてついた反乱軍どもよりはましなのだろうがな」

 留守は、そう言って怯えるように表情をしかめた。
 戦闘とはかけ離れた生活を送ってきた留守にとって、魔人という言葉は、聞くだけでも重圧を与えるものであるのだろう。それはやはり、魔人の力を知る者ならば無理のない反応ではある。

「まともにぶつかっていれば、敗北していたのはこちらでしょうから、奴らに情けをかける必要などはないかと」
「解っている。ただ、魔人に殺される奴らを少し哀れに感じただけだ。我々に隷属していれば、将来がないと言えども生き続ける事はできたのに、とな」

 そう口にした後、留守は顔を上げて守備隊長を見た。

「――指示通りに火魅子を除いた反乱軍の兵士どもは、一兵足りとも生かして残すなよ」
「了解しています。それでは、私は準備がありますので、これで」

 守備隊長は、さして気負いもせずに頷いた。それが返答だった。




    /




 死線と呼ばれるものに近づいた時、いつも紅玉の背中には寒気が走る。
 強大な敵。命を脅かす殺意。圧倒的な暴力。――どれだけ過酷な鍛錬を身に修めていたとしても、敵というモノが存在するからには、常に万全であり続けることなどはできない。あらゆる場面、あらゆる局面で死は発現する機会を窺っている。目に付かないような位置で、命を掠め取る瞬間を耽々と待ち望んでいる。だから、戦場で気を抜けば、人は必ず死ぬ。
 戦い続ける限り、命を落とす可能性がゼロになることなどはない。力を増やし、技を磨き、心を研ぎ澄ますことで、死の確率がゼロの近似の値を取ることはある。が、真実、ゼロに成り代わることなどはない。
 そのことを紅玉は理解していた。そして理解していたからこそ、自身に忍び寄る死の気配には敏感だった。最早それは第六感と称しても差し支えのない段階にまで到達している。目に見える明確な根拠などは無くとも、自らが死に近づいた場合、彼女の鋭敏な肉体はそれを察知してしまうのだ。

 ――これから先、無理をすれば死ぬかもしれない。

 武術の極限は戦わないことだと言う。そして武術を修めた者の中には、ごく稀にこの境地にたどり着く者がいるとも言う。――紅玉は、まさしくその稀有な人物の一人であるのだろう。彼女は自らがこのまま進むべきではなく、むしろ引き返すべきだと感じていた。根拠の見当たらない、だが確たる判断の下に。
 天候は晴天。今までの数倍にも膨れ上がった千名近い人数での行軍。身を切る寒さの冬は終わりを告げ、長閑な季節が始まろうとしている。作戦は順調で、一部の乱れもない。復興軍の未来は明るいはずだった。事実、兵士達の顔は一様に輝いていた。
 それなのに。
 紅玉の戦意は高まっていくどころか、警戒のために細く鋭くなっていくばかりだった。これから始まる攻城戦のことなど脳裏から追い出して、迫り来る何かのために緊張を維持していた。際限なく周囲に観察の目をめぐらせ、突発的な事態に備えようとしていた。

「どしたのか、母上?」

 横に並んで歩く、香蘭の声は陽気さを含んでいた。生まれ持った気質ゆえか、ゆったりと間延びしているように聞こえる。それはつまり、香蘭が現時点では何ら不安を感じていないということを意味していた。
 紅玉は香蘭が幼少の頃より、己が知る技術という技術を仕込んできていた。だから親の贔屓目を抜きにしても、香蘭の危険察知能力が高いことは確実だった。間違いなく、大半の同世代の者達に追随を許さないほどの腕前はある。
 それほどに香蘭は武術家として優れていた。生来の緩すぎる感の否めない性格さえなければ、今すぐにでも一人前だと認めても良いほどのものだった。恐らくは、紅玉が大陸に残してきた高弟達と比較しても遜色するところはない。
 その香蘭が危険を何も感じていない。つまり、それが意味するところは、

 ――これは私の杞憂にすぎないのだろうか。それとも、私でしか気づけないほどに狡猾な危険が迫っているのだろうか。

 紅玉はちらりと視線を前にやって、前方を行軍している部隊の中央に立つ青年の姿を見た。
 見えない真意。隠された激情。そして、不意に感じる悲しみ。――およそ紅玉が人生の中でまったく出会ったことのない種類の人物である、青い服を着込んだ男、雅比古。
 まるで脈絡も無く唐突に九洲に現れたと聞くその男は、後ろを振り返る素振りなどは当然のように見せず、ただ前方のみを見つめて歩いていた。恐らくは、戦場で常に口元に浮かべている、ぞっとするように酷薄な笑みを消してはいないのだろう。向かう先は去飛の街、次の戦場なのだから。
 紅玉が考えるに、紅玉自身を除いたこの場にいる仲間の中で、最も戦闘というモノに優れているのは、娘である香蘭ではなく雅比古だった。
 立ち塞がる全てを燃やし尽くす苛烈さと、視界に映る全てを凍てつかせる残酷性を併せ持っているために、霧がかっているように見えにくい部分の多い男ではある。だが、その動きの端々には確かに正統な流れを汲んだ武術の基礎を感じていた。
 それも紅玉から見ても合理性を感じる体捌きは、紅玉の会得する技術にひどく近いものがあった。無論、紅玉にしてみれば未熟さを感じる部分も何点か存在しているのだが、それでも雅比古の年齢を考えれば充分に驚嘆に値するものではある。
 だから、何か直感的な不安を感じている紅玉は今、その雅比古が何らかの危険を感じてないかどうかを、不意に尋ねてみたくなった。少なくとも、尋ねれば何かが解るような気がしていた。
 何故か雅比古という男に、紅玉はそのような印象を感じていた。

「――母上?」
「え、ああ。香蘭、どうしたのです?」

 ふと、横から聞こえてきた声に、紅玉は知らず自らの注意が疎かになっていたことを悟った。胸騒ぎを感じていたにも関わらず、逆に集中が乱れるとは情けない、そう自戒する。
 一度軽く拳を握って、脳裏から雑念を追い払うイメージ。紅玉は一瞬で元の状態へと戻った。

「あっちのほうが、どかしたのか?」

 香蘭は興味深そうに、紅玉が先ほどまで見ていた前方――雅比古の部隊が進軍している――に目を向けていた。大きな瞳にありありと疑問の色を湛えて、足並みがわずかに乱れている即席の部隊を見ている。

「いいえ、何でも有りません。ただ少し、気になることがあっただけです」

 再び周囲に警戒を向けながらも、紅玉はその感情が表へと出ないように、表面上は平静を装って答えた。

「気になること? それは何か?」
「あなたが解らないのなら、その程度の杞憂でしかないということなのでしょう。忘れておきなさい。――それよりも、今は次の戦いへと意識を集中させておきなさい。あの人の故郷を、再び甦らせられるかどうかは、これから起こる戦いの全てに懸かっているのですから」

 紅玉は自身の感じた微かな不安を表情に出すことなく、集中が散逸し始めたように見受けられた香蘭に言い聞かせた。
 緊迫した状況下では、感情は容易く伝染する。特に上の者の感情は、高いところから水が低いところへと流れ込むように、下の者達へと伝播していく。
 それが余裕であったり、冷静さであったりすれば問題などはない。だが逆に不安であったり、落ち着きの無さであれば問題となる。人の心は容易く揺れ動くものであるということを、紅玉はよく理解していた。このあたりの思慮深さが、紅玉をただの一流の武術家だけで終わらせない一面であるのだろう。
 仮にも一つの部隊を預かっている以上は、おいそれと感情の揺らぎを見せなどしない。隣を歩く香蘭にも、なるべくなら平常であるように努めさせる。

「おお、そだたね。香蘭、必ずや、頑張るよ」

 恐らくは、そんな母の真意には欠片も気づいていないのだろう。香蘭は紅玉の言葉を聞くと、にっこりと笑いながら胸を拳で叩いた。楽天的なその笑顔は、見る者の思考から敗戦という可能性を追い払う。底抜けな陽気は、周囲の陰気を洗い流していくようだった。

「ええ、その意気込みですよ、香蘭」

 紅玉はその温かい表情の中に、亡き夫の影を見ながらも、艶然と微笑みながら頷いた。――何があろうとも、あの人の故郷を。胸の中にあった決意を、再び磨きなおす。

「香蘭に、任せておくが、いいよ」
「期待していますよ。ただ、あなたはまだ未熟でもあるのですから、決して過信してはなりません」
「そね。解って、いるよ。香蘭、うぬぼれない」
「その意気込みです。ただ、その自信に満ち溢れているように見える表情はどうにかしなければなりませんよ、香蘭」
「わかてるよ。きと父上の――ん?」

 諌められていることに恐らく気がつかないままに、胸を張って頷いていた香蘭が、不意に表情を固めた。次いで首を傾げて、何か得心がいかないように眉根を寄せる。それまでの表情とは打って変わって、周囲を探るように慎重に見渡し始めた。
 紅玉は、直感的に娘が何を感じ取っているのかを理解した。

「母上」

 香蘭は 黙りこくった状態から、口を開いた。

「何か、ありましたか?」

 紅玉は胸に茨の棘が絡みついてきたような違和感を覚えながら、問い返した。知らず、脈拍が強くなっていく。
 香蘭は、そんな紅玉の様子に気づいた素振りも見せずに、目を瞑った。そして指をペロリと舐めて、風の向きを読み始めた。

「……香蘭?」

 紅玉が呼びかけても、香蘭は答えない。目をじっと瞑らせて、周囲の匂いを調べるかのように、鼻を動かしていた。
 そして。
 すぐに香蘭が、目を開いた。

「――何か、血の匂い。しなかたか?」


 結論から言ってしまえば、やはり誰よりも周囲の状況を正確に察知していたのは、他ならない紅玉だったのだ。




    /




 遠くから獣の咆哮のようなものが聞こえ、九峪は次の侵攻のために巡らせていた思考を解いて、顔を表に上げた。長く続いたあぜ道の先に異変がないかどうかを、じっと目を凝らして観察する。仔細見逃すことがないように、注意深く。
 そして、見た。
 距離が離れているために不明瞭にしか視認できなかったが、それでも脳裏の奥底までに刻まれている生物種の姿を、その目で確実に。血の匂いを常に感じさせる、禍々しい暴力に満ち溢れた肉体を、九峪は確かに見た。
 気がつけば九峪は、懐かしい感情を覚えていた。
 余りにも懐かしすぎるがために、口の中が無性に乾き、喉が水分を求めてカラカラになっていく。手の平にはびっしりと汗が浮かび上がり、抑えきれない激情のためか視界が赤く染まっていくような錯覚に陥った。立ちくらみを起こしたようにぐらぐらと、地面が揺れていた。

「あれ、は……」

 搾り出すように一言。それが限界だった。今ここにはない場所で流された血の光景を、衝動的に幻視してしまう。
 目にした先。未だ小さい点ほどにしか見えない場所で、何か黒く大きな生物が歪な四本足で疾走しながら、常識では有りえないような速度で九峪の部隊へと接近してきていた。脳裏に死と悲哀の光景が散々に浮かび上がってくる。

「あれ、は――ッ!」

 下腹から始まって心臓まで、熱された焼き鏝を押し当てられような灼熱感が這い上がってくる。
 冷静になれ、冷静になれと執拗に頭の中で理性が主張したが、そんなものは聞くつもりにはなれなかった。
 死んだ友。殺された仲間。冷たくなっていった■■。――姿さえ、おぼろげにしか見えていないにも関わらず、確実に近づいてきていることが肌の寒気で嫌になるほど理解できる、圧倒的な存在感を伴った暴力。それが、九峪へと向けて高速で接近してきていた。もはや理性を完全に保てる道理がない。

「全体、進軍停止! ――後方の部隊にも緊急で伝達! 臨時戦闘用、二番の銅鑼を鳴らせ!」
 
 細胞が熱を持ち始める。沸騰するほどに強く加熱されたように思える体は、もはや炭化して黒焦げになるか、蒸発して霧散してしまうしかない。そう真剣に考えてしまうほどに、九峪の思考は燃え上がっていた。
 仲間を奪った、仲間を殺した、仲間を嘲笑った相手が、九峪の目の前に来ている。――その事実だけで、失神してしまいそうなほどの高揚感と殺意を、脳髄に覚えていく。

「今度は、俺の番、だよな」

 呪詛を口から漏れさせる。
 貴様らは地上より全て消滅しろという、無慈悲で純粋な意思の込められた負の言葉が、周囲の大気を毒していく。護衛のために九峪に付き添っていた兵士達の顔からは、途端に表情と血の気が失われていった。
 直接的に放たれたわけではない、ただ漏れ出ただけの言葉が、兵士の体を縛った。九峪の表情には、狂人と呼ばれてもしかたがないほどの、禍々しい笑みが浮かんでいた。
 その表情を、かつての九峪の知人達が目にしたのならば、きっと痛々しく沈痛な表情を揃って浮かべることだろう。それは同時に哀れさも感じさせる笑みだった。

「……雅比古様、いったい何が?」

 方向すら定めず、周囲に毒々しい敵意を振りまき始めた九峪に対して、怯えながらも傍らに控えていた兵士の一人が小さな声で問うた。顔から血の気がひいているその表情は、困惑を前面に押し出している。当然ながら、彼はまだ現状を理解していなかった。戦闘経験の少ないただの兵士が、そこまで早く事態を飲み込めるわけがない。
 だが、この場所ではそんなことは言い訳にさえもならない。九峪は常のように、兵士達に易しく噛み砕いて言い聞かせるような悠長な真似はしなかった。ただ深刻な表情のまま、簡潔に返答をしただけだった。
 
「魔人が、現れた。そう伝令を後続の部隊へと、伝えさせてくれ。――俺はもう、出る」

 全身を鎖でがんじがらめに縛られていながらも、その拘束を力のみで引きちぎろうとする獣のような表情。九峪の声は、理性と憤怒による激しいせめぎ合いを感じさせた。そして、体はすでに臨戦態勢を取っていた。

「ま、魔人ですか――!?」

 臨界点を振り切りかけた九峪からもたらされた言葉に、兵士は青ざめさせていた顔からさらに血の気を引かせた。
 魔人。――耶麻台国の民にとって恐怖しか喚起しない、その絶対種の名前は、口にすることさえも兵士の意欲を奪う。

「ああ、そうだ。部隊は、このまま一時撤退させてくれ。絶対に兵士を、魔人の対応に回すな。あれは、数でどうにかできる、生易しい生き物じゃあ、ない」

 そう言い終わった瞬間、九峪の体が兵士の目の前から消えた。
 最早なけなしの理性すらかなぐり捨てて、九峪は前面へと駆け出していた。肌の寒気で魔人の存在を感知しているというのに、ただ黙って迎え撃つような賢い真似ができるはずもなかった。
 七支刀は、その手にない。九峪が魔人に抗うことができるかは解らなかった。
 だが、それでも膨張して破裂してしまいそうな感情が、九峪を走らせた。号令によって進軍を停止した兵士達の間を縫うようにしてすり抜けて、輪郭がぼんやりとしか見えない魔人を撃退すべく駆けた。
 そして咆哮。
 待ちすぎたために暴発寸前の激情を発散させるために、九峪は全力で野太く吼えた。声の中に秘められた残酷性は、例え来る魔人に対しても劣る事はない。純粋な敵意のみから構成された絶叫が、喉元からほとばしる。
 思考が帯びた溶岩のような熱を冷ますために、外界へと向けて声を放つ。もう九峪には、それしかできなかった。
 だから、九峪はもう一度叫んだ。
 言葉の中に、殺してやるという殺意をのせて、恐らくは笑っているのだろう魔人に向けて、強く強く、腹の底から声を上げた。