年月を重ねるたびに体は老いていく。
 腕は節くれ、皮膚はたるむ。目は見えなくなり、耳が遠のく。記憶力はなくなりはじめ、体の自由は薄れ、後は天命などというものに身を委ねて死という理不尽なモノを待たなければならない。
 ソレに蛇渇は納得がいかなかった。
 それ故に抵抗した。

「か、かかっ……!」

 そして抵抗は成功した。
 魔界の泉を体に飲み込み人という枠から外れることにより、老いさらばえる己が運命に打ち勝ったのだ。泉の力は彼に活力を与え、彼と同じ時間にこの世に生を受けた者達が皆、土に還ってしまった現在でも蛇渇の体に死の兆候は現れない。
 確かにその身は既に人ではない。
  ――だが、それでも皮と骨だけになった体は精力に満ち溢れている。
 確かにその身に既に理性は無い。
  ――理性と生命でどちらが重要であるかなど比較する必要すらない。
 赤子がこの世に生れ落ちた瞬間に大声で泣きじゃくり涙するのは、決して避けようの無い死という運命に絶望するためだという言葉がある。そして真実、蛇渇はその言葉どおりに避けようの無い死を恐れたのだろう。外敵のいない安全な母胎で死という終わりも知らず羊水の海を漂っていた中で、突如として闘争と死が溢れた世界へと産み落とされたことを恐怖したのだろう。
 そして思ったのだろう。闘わなければならないと。
 それが現在の結果を生んだ。齢百を超えても力に満ち満ちた蛇渇の精神。老衰を寄せ付けぬ骨ばった肉体。未だ左道士監として最前線にあり続ける地位。そして後進を上から抑えつけるだけの実力。つまり、それは――

「さあ、来よ、闇の者ども。闇よりも黒き血を持つ魔界の住人よ、黒き水の民の呼びかけに応えよ」

 魔導を究め、高みを望み、彼は赤子の頃より死というモノと闘争を続け、そして勝利したと言うことになる。少なくとも蛇渇はそう考えている。人である頃の自分を覚えている人間が誰もいなくなった状況を勝利であり、それこそが勝利者に与えられた栄誉なのだと。
 蛇渇は窪んだ鈍く光る眼光の下でそう考えている。
 彼はある意味で純粋な闘争者であるのかもしれない。
 脆弱な肉体を嫌い、忍び寄る老いを嫌い、終息である死を嫌った。だからこそソレと闘い、現在の骨人形じみたおぞましい外見の蛇渇が生まれている。生きるというそれだけのために生き、人の外見を捨てて、人の理性を捨てて、人の良心を捨てた。
 ただ一つだけに執着し他を削ぎ落としていく様はさながら蛇蝎の如く。

「我が呼びかけに応えるものには、約束しよう、うまし血、うまし肉、うまし骨を捧げることを」

 蛇渇の言葉に、空間が反応した。
 ざわざわと黒い霧に似た何かが漂い始め、寝台の上に身動き出来ないように縛り付けられた生贄の娘の腹が引き裂け、吹き出る血とともに黒い手が現れる。血に濡れて黒ぬめりした腕が生贄の女の胎を掻き分ける。それは魔人と呼ばれる化け物の腕だった。人を虫けらのように殺す化け物。それが人の腹の底より腕を伸ばす。まるでベクトルが真逆ではあるが、それは酷く禍々しく呪わしい赤子の誕生を思わせた。
 産声を上げる代わりに現れ出でた魔人は哄笑する。嘲笑する。歓喜する。既に動かなくなった女の腹の底より冷たく低い笑い声が響く。人の背筋を凍らせるような、身震いさせるような笑い声が部屋の中に木霊する。
 それは見ることさえおぞましい光景だった。人としての理性がある者ならば。
 魔人の召喚。それを行える者は狗根国の左道士の中でも数人しかいない。そして蛇渇以上にそれが行える者はいない。人を超えた彼は長い年月の果てに魔人すら従える術を習得していた。
 始まりは人だった。だが魔を用いて人を外れた。そして現在では魔を従えようとしている。それが蛇渇という男。その執念は飽くことなく、その闘争は際限なく続く。それはずっと。恐らく蛇渇は己の命が尽きる瞬間まで戦い続けるのだろう。敵があればまず喰らいつき、敵が無ければ自らの手で敵を作りそれから喰らいつく。それもさながら蛇蝎の如く。
 始まりは人だった。
  ――だがその心は異形に落ちた。
 魔界の泉を飲んだ。
  ――次にその体は異形に落ちた。

「くかかっ! さあ、来よ、魔界の住人よ――」

 肉体など些事であり人であることを誇りと思わず力を手にし縛られた男の口から誓約の言葉が紡がれていく。
 呼び出した魔界の住民を縛り付けるための約束を蛇渇は交わす。血をもって、生贄をもって、そして人を殺させる事を約束として魔人を己が意に沿わせ操る。
 これだけのことができる左道士は狗根国の中でも蛇渇を除いて他にはいない。――当然だ、人には理性があるのだから。最後の最期の一線は越えることなどはできない。これほど凄惨なことを躊躇わないわけがない。
 だが、それを蛇渇は微塵も躊躇わない。
 常人ならば踏み込めない一線へと迷うことなく、むしろ嬉々として足を踏み入れる。それが蛇渇という生物。
 ゆえに蛇渇は現在も最強の左道士であり続けている。

 ――今宵、人の世にまた、魔人が招かれた。







 蝋燭の光が薄仄かに室内を照らす中で、伊雅は一人、目を閉じて過去を回想していた。軍議の間を縫って彼は一人でいられるこの場所に来ていた。一人になりたかった。部屋の中央に座り込み、脳裏に浮かぶ記憶を一つ一つ思い出していく。
 兄であり主君である耶麻台国王の最期の言葉。
 人生で唯一愛した女の面影。
 何もかも炎に抱かれて消え去った城。
 国を奪った敵兵の姿。
 雷光と共に消えてしまった赤子。
 全てを失ったと思った瞬間の悲しみ。
 ただ一人だけ手元に残っていたことを知った瞬間の自責の念。
 故国を再興するために放浪した長い年月。
 昔と比べ格段に老いた自分の体。
 その名に込められた願いの通りに瑞々しく成長した娘。
 そして――到来した最後の機会。狗根国を打倒できるかもしれない現在。火魅子の素質を持つ子女が集まり、神器が集い、各地で蜂起の機会を窺っていた同士達が集まった。長い長い年月を思い出す。死を覚悟したことも一度や二度では決してなかった。
 未だ彼らの力は燎原を焼き尽くす業火と呼べるほどのものではないが、それでも過去十数年の記憶の中で最も若く、最も力強く、最も頼もしい――伊雅がその命を賭けることを僅かにも躊躇わないだけの勢いがあった。
 美禰の街は落ちた。彼の仲間が落とした。それはほんの数年前までは考えられない事態だった。一月に満たない間に複数の街を解放していくだけの勢力が九洲に残っていたなどということは。
 正直、伊雅には全てを捨てて諦めてしまおうかと思ってしまった時期もあった。自分がしていることはただの悪あがきではないのかと猜疑したことが何度もあった。だが、今ならば自分は間違っていなかったのだと胸を張って言える。
 兄に。愛した女に。死んでいった者達に。最期の瞬間に伊雅に希望を託していった者達に。
 そして誓える。必ずや、この地に再び巴日輪の紋章をはためかすと。
 だから――

「涙など……まだ流すわけにはいかない」

 伊雅は不意に目頭が熱くなったが堪える。顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまいたくなったが耐える。
 まだ終わっていない。それどころかやっと始めることができただけに過ぎない。そう自分に言い聞かせて、瞳を濡らす涙が零れ落ちることを止める。両の拳を力の限りに強く握る。奥歯を一心に噛み締める。手が、震えた。
 老いは涙腺を緩める。そう思いながらも、伊雅の脳裏には次々と過去の記憶が浮かんできていた。幼い子供を連れて旅をすることには抵抗があった。そしてその幼い子供に暗殺者としての技を仕込むことは更に抵抗があった。それが自分の血を分けた娘であれば尚更だ。どれほど思いとどまろうとしたことか。だが、結局伊雅は戦いの技を教えた。父である事を隠した。
 そのことだけは今でも罪悪感にかられる。間違っていたのではないのかと思う。自分が逃げていただけではないのかと、そう思えてならない。
 だが、――そうだとしても今は告白してはならない。それは全てが終わってからだ。そうしなければ同じように、また別のものへと逃げる事になる。
 伊雅は思う。九洲の地から戦乱を排除することができて初めて自分は娘に真実を語れるのだと。
 伊雅は願う。九洲の地から戦乱が消えた後、願わくば自分の娘が人並みの幸せを見つけてくれることを。
 伊雅は信じる。そのためにも自らは骨を砕き、身を粉にして力の限り戦うのだと。
 ゆえに選べる道は唯一つ。苛烈で困難を極める道がただ一つ。近道も脇道も無い。唯一つ。選択肢などはない。昔よりも遥かに少ない勢力で、昔よりも遥かに力を増した敵に挑まなければならない。
 それは伊雅の人生の中で何よりも激しい戦いとなるだろう。戦いの最中に幾人もの仲間達が去っていくだろう。そして失われていくだろう。
 ならば、

「例え、この身が志半ばで朽ちるとしても――」

 守らなければならない。矢面に立たなければならない。この体は盾。若き次代を担う者たちの護りとなろう。仮に進む道が茨の道であるのなら、その茨を払いのけるのは自分であろう。
 自らは誰よりも頼れる人間でなければならない。火魅子の資質を持つ者たちも、幹部達も総じて皆が若い。そのような者達が激しい戦いの中へと身を落とせば悩み苦しむことは一度ではないはずだ。
 ならば、自分は道標でなければならない。あらゆる方向性を持つ若者達に進むべき道を教えることこそが重要。
 伊雅は思った。
 この老骨が砕いた骨と流した血が巡り巡って九洲に光を取り戻させることになるのならば他には何もいらないと。
 
「――あの者達だけは、必ず」

 伊雅は目を開く。
 泣き言は後だと立ち上がる。思いの他、時間を消費してしまったために軍議が始まるだろう場所へと急ぐ。その目は少し赤かったが、良く見なければ判断がつかない程度のものだった。少なくとも光源の少ないこの時代、夜であったのならば他人には気付かれない程度のものでしかない。
 伊雅は背をぴんと伸ばして一歩一歩、歩みに力を込めて目的地へと歩いた。最盛期より確実に衰えた彼の肉体は、それでも尚見るものに衰えを感じさせなかった。髪は白まり、皮膚にしわが刻まれようとも、――それでも尚強く。







 ――目を閉じて最初に思い浮かぶのは後悔。冷たくなった体に手を伸ばして死後硬直で堅い体の感触を確かめる。赤い手。赤い足。欠けた腹。流れた涙。ぶちまけられた血液。「――返せっ、返せっ!」立ち止まって何が悪かったのかを考えるだけの時間さえない。呆然と死に浸る時間などない。「ねえ、……どうして、どうして動いてくれないのかなあ?」気がつけばまたいなくなる。死ぬ。「――私の■■■を返してっ!」腕に突き立てるように握られた指が痛い。叫ぶ声が煩わしい。だけど振り払うことさえも億劫だ。「何がっ、――何が神の遣いだこの死神め!」穴を掘る。人の体が楽に横たわることができる穴を掘る。「は、はは……ぅああアッ」だけど道具が手元に無い。なら仕方が無い。手で掘ろう。あいつらが楽に眠れる穴を掘ろう。「……軍を止めると騒ぎ規律を乱した兵を――斬りました」爪がはがれる。血が滲む。それでも足りない。「あ、く、峪、さ……す、みま――ひ」あとどれだけだ。あとどれだけ必要だ。俺が■なせた人間はどれだけいる。「――貴方、なら……きっと」止めろ。止めてくれ頼む。俺をそんな目で見るな。「あ、れ――? ……私、■んじゃうんですか?」死ぬな死ぬな死ぬな。置いて逝くな。「――ふふっ、気付いて、くれて……いましたか? わたし……」消える消える消える。姿が消える。声が消える。世界が消える。誰も何もかもが消えていく。「――どうしてっ、貴方が生きているっ!?」終わる。積み立てたものが崩れる。足元が崩れ去る。落ちていく。終わる。世界が終わる。死んで終わる。死ねば終わる。俺が終わらせた。「逃げて、くださ……」■す。■してやる。あいつらに手を出した奴ら全てを。この手で必ず原型など残さずに――


「……ぅあ」

 九峪は呆けたような声を出して目を覚ました。
 美禰の街を解放してより半日ほど。次の作戦までに終わらせてしまうことが必要な仕事を片付けてしまった後に取った、彼の仮眠が終わる。
 今は復興軍に時間的な余裕はない。だから目を覚ました九峪は一瞬で意識を切り替えてすぐさま立ち上がった。感慨に浸るだけの時間はないことを理解していた。自分がするべきことを知覚していた。だから再び目を閉じて回想に耽ることをよしとせず、目を見開いて前を見た。

「さて、と――」

 ただ一度。徐々に古びかけていく学生服の袖で目元を撫でた後、九峪はいつものように皆のいる場所へと向かった。
 その足音は変わらず軽快で、その表情は変わらず軽薄に、九峪雅比古は足を進めた。