あの男は言った。

「はっ、殻の中で閉じ篭っていることほど楽なものはないな。何もしなくても自分を心配している人間がいるとなれば尚更だ。―――いや、違うか。お前は何もしなくても自分を誰かが案じてくれる事を望んでいるんだな? 無条件の庇護を受けることで自分に向いている愛情を確認できると思っているんだろう?」

 苛立たしくも自分の居場所を削り奪おうとしている男は、そう言った。
 美禰の街への道中。その道すがら。

「そう、言ってしまえば志野だ。お前はあいつを悩ませることが嬉しいんだろう? だからそんなにも志野を除いた他の誰かに対して排他的になる。志野に自分の近くには誰もいないと訴えることで、志野をお前の傍へと引き戻す。そうやって、自分が安息できる空間を作っているだけなんだよ」

 だからどうした。私は志野がいればそれでいい。いや、―――志野以外は何も要らない。
 胸の中から湧き上がる攻撃的な感情に従って、私はそう言い返した。それは本心だった。
 けれど、あの男はそう返した私を侮蔑も露に見下した。どこかで見た事があったような表情だった。

「―――馬鹿だな」

 そう言い捨てた男の顔を見て思い出した。目の前にいる男の姿が重なった。ずっと昔にいた、志野に乱暴を働こうとして私が殺したあの一座の男に似ている、と。
 だけど、

「本気で理解できていないらしいな。お前が四六時中、ずっと志野を求めていることが何を意味しているのかを。―――言ってやるよ。お前は志野を食い物にしているんだ」

 あの男は逆に、私こそが志野に危害を加えようとした男に似ていると言った。大きなお世話だった。だけど聞き流せない何かを含んだ言葉でもあった。

「お前にとっての志野は何なんだ? 母親、姉、それとも親友。或いは、そんな明確な区切りのないただの家族。そのどれがお前にとっての志野になるのかと聞かれて答える事ができるか? ―――出来ないだろう」

 当たり前だった。答えられる問いかけではないのだから。
 志野は志野。どこまでもいってもそれは変わらない。代わる者もいない。私の中で唯一で、私の中の絶対。それが志野なのだから。短い言葉で言い表せるような存在なんかじゃない。志野が私にとってどんな存在であるのかを誰かに教えるためには、それこそ私が今まで生きてきただけの時間が必要になってくる。つまりは不可能と言う事だ。
 だからあいつを睨んだ。それがどうした、と。

「そう、お前は答える事が出来ない。何故か。―――答えは簡単だ。お前にとっての志野は、母であって姉であって親友であって家族でもある。その全てが合わさった存在がお前にとっての志野になっている。だからこそお前は、尋ねられても明確な言葉で志野を言い表すことが出来ない」

 それなのに、あいつは全く動じることなく、その軽い口から言葉を返してきた。
 志野は私にとっての全てであるのだと、当たり前の言葉を吐いた。そんなことは今さら言われるまでもないのに。
 何を言いたいの、そう言った気がする。

「お前はソレがどれだけ危険なことなのかを理解しているのか?」

 疑問に返されたのは更なる疑問。

「結局どこまでいってもお前と志野は他人にしか過ぎない。同じ人間にはなれない。それにも関わらずにお前は志野に全てを望んでいる。お前という個人は自分の存在全てをもって志野という存在の全てを望んでいる。それはな、志野にも全てをもってお前に応じろと言っているようなものなんだよ。―――お前は全力で依りかかることで志野を押さえつけている」

 そして突きつけられた言葉は軽くなかった。嘘か本当なのかは解らなかったけれど、その言葉を吐いた相手が本当に気に入らなかったけれど、その言葉の全てを認めるわけにはいかなかったけれど、確かに軽くはなかった。
 私の心を混乱させるのに充分な響きがあった。

「心の中が依存心で凝り固まっているお前は、それでもいいんだろう。けどな、志野は普通の人間だ。お前とは違って考えるのは一人だけで良いというわけじゃない。自分や親しい人間、或いはそれ以外の人間のことまで常に考えないといけない。誰か一人のことだけに焦点を合わせておけば良いというわけじゃない。それなのに、そんな中でお前が故意に志野の手を煩わせたならどうなるか―――考えるまでも無いだろう。それは重荷だ。負担と言い換えることだってできる。なあ、解るか珠洲? お前は志野の足首に絡みついた鎖なんだよ」

 その男は、―――まだ出会って日も浅いはずの薄気味の悪い男は、そこで一度後ろを見た。志野と、美禰の街へと一緒に向かう二人の人間が歩いていた。いつの間にか距離が離れていた三人は、私と目の前の男の会話に大した警戒心も抱いていないようだった。
 それを私が確認すると男は笑った。その顔には、寒気がして、吐き気がした。

「なあ、珠洲。ずる賢いお前には解っているんだろう? このままだと志野は潰れるぞ?」

 うるさいっ、黙れッ! と、唸るように私は言った。
 今思えばそれは手負いの獣のようだった。 

「ほら、またそれだ。お前には協調性ってものが欠けているんだよ。そしてそれを補わされるのは間違いなく志野だ。他の誰でもない」

 声を怒らせてもあいつには通用しなかった。逆に癇に障る動作で肩をすくめるだけ。
 だから、私は返す言葉を失った。
 どうにか出てきたのは、あんただって私と同じじゃない、という言葉だった。だけど、

「俺が珠洲と同じ? ―――面白い意見だけどそれは違うな。俺は“やれるのにやらない”で、お前は“それしかできない”だ。この差は大きいぞ。何なら証拠を見せてやろうか? そうだな、今からどうせ一芝居打たないといけないから丁度良いな」

 気負いもせずにそう言ったあいつは、自分の言葉を証明して見せた。
 美禰の街での興行という名目の陽動作戦。その場で人当たりのいい仮面を被り、それこそその姿を見ていた志野達が目を丸くするほどに柔らかい態度で場を治めた。普段から身に纏っている他人を排するような気配を隠し切っていた。まるでその姿が本来のものであるかのように街の住人を錯覚させた。
 私とあいつは排他的な面で似通っていると思っていた。だけど、あの瞬間にそれが違ったという事を理解した。
 あいつの言葉どおり、確かに私にはできないことをあいつはできる。

「理解できたか? 俺とお前の違いが。―――理解できたか? お前が手枷であって足枷でもあるってことが」

 だけど、その言葉だけは絶対に

「理解できたか? お前が志野の重りになっているってことが」

 認めるわけにはいかない

「理解しているんだろう? 珠洲、賢いお前なら」

 頷いては、いけないっ―――







「―――ぅあああっ!」

 絶叫を上げて珠洲は跳ね起きた。体にかけられていた粗末な毛布をかなぐり捨てるように腕で払うと、寝汗が充分に含まれている衣服が体にまとわりつく。生暖かい湿り気が、先ほどまで見ていた悪夢とも言える記憶を呼び起こす。
 認めたくは無かった。彼女は自分が九峪に言われた言葉を認めるわけにはいかなかった。

「どうしたの?」
「……志野?」

 と、すぐ傍から彼女を守る声が聞こえてきた。癒す声が。包み込む声が。
 隣で眠っていた志野の気遣うような声を聞いて、珠洲は軽く錯乱しかけた思考を平静に落ち着ける。落ち着けようとする。

「……大丈夫。嫌なことを思い出しただけ」

 ―――お前は志野を縛り付ける。
 優しい、心配するような表情をしていると珠洲の脳裏に九峪が吐いた言葉が勝手に反芻された。それが落ち着きかけていた精神に再び波を立てる。
 自分は、きっと、志野のお荷物にはなっていないはずだ。そう何度も何度も心の中で繰り返す。珠洲は自分が志野のために生きていると信じていた。

「嫌なこと? ……昔のことを思い出していたの?」

 長年の付き合いであるために、珠洲の内心での混乱を見抜いたのだろう。志野は母のように珠洲に尋ねてきた。その十二分に自分を思いやろうとしてくれている様子に珠洲は胸に暖かいものを覚えた。普段であったなら彼女の胸に抱きついているところだろう。だが、
 ―――お前は何もしなくても自分を誰かが案じてくれる事を望んでいるんだな?
 今は違った。志野の優しさを身に受けると、暖かい感情を覚えるのと同時に、ドロドロとした九峪の言葉が浮かび上がってくる。それはまるで呪いだった。

「……昔のことじゃない」
「それじゃあ最近になって嫌なことがあったの? 何かあったのなら私に話してくれない?」

 一瞬、その掛け値なしに自分を心配してくれている声を聞いて珠洲は、九峪に言われた言葉の全てを目の前の志野に教えてしまおうかと思った。だが、思いとどまった。結局、首を振ってこう答えただけだった。

「ううん、それほど心配してもらうほどのことじゃない」
「あんなにうなされていたのに?」
「……たぶん、寝ぼけていたんだと思う。ごめん」

 今まで悩み事があったら全て志野に打ち明けてきた。それなのにどうして今回だけ珠洲は自分がそれを隠し通したのかが正確には解らなかった。
 九峪の言った言葉を口にして、それが志野に認められてしまうことが怖かったのかもしれない。或いは、九峪の言葉を志野に教えてしまった時点で何かに負けてしまう事になるような気がしたからかもしれない。
 考えられる可能性は幾つかあった。
 だけど答えは出なかった。解らなかった。

「別にいいわ。私は珠洲に何も無かったことが解った方が嬉しいから。―――それよりも早く寝ましょう。明日からはきっとろくに休めないだろうから」
「うん」

 ただ一つだけ解っていることは、珠洲は志野に本心を話さなかったと言う事だけだ。







 美禰の街が制圧されてから直ぐに、全住民を前にして火魅子の素質を持つ子女である藤那によって解放の演説が行われた。
 耶麻台国の巴日輪の幟が翻る檀の上で弁舌を振るい、住民達を鼓舞する藤那の演説には壮年に差し掛かったかのような貫禄があり、そして同じくらいに人々を惹き付けるような若さと勢いがあった。もしこの演説が採点されたとしたならば及第点は優に超えているだろう。
 長らく抑圧を受け入れていた人々の目を覚まし、そして奮い立たせるだけの力が言葉の中に篭っていた。
 
「いや、見事な演説だな。我らが火魅子候補の藤那様は」

 その演説を、集まった住民達の視線からは死角になる藤那の後方の位置で聞きながら九峪が言った。体を壁に寄りかからせて、藤那を見ずに空を眺めながら。その表情はいつもと変わらず、何かを笑うかのように口元が歪められている。

「まるで街の城門を制圧してくれていた清瑞のように見事だ」

 九峪の傍には黒装束に身を包んだ乱波、清瑞がいた。彼女は藤那の警護を行っているのか周囲を警戒しているように見える。

「何だそれは。私を馬鹿にしているのか?」

 だが、それでも律儀に清瑞は九峪の言葉に答える。どうやら無駄口を返すだけの余裕はあるようだ。
 戦闘も終わり、この付近には余り狗根国の手も及んでいないことも理解しているためだろう、付きっ切りで警護をしているというわけではないらしい。

「まさか。これでも純粋に褒めたつもりなんだけどな」
「ふん、何故だろうな。お前が言うと褒め言葉も嫌味に聞こえる」
「手厳しい言葉だな。心にゆとりが足りないんじゃないか?」

 打てば響くといった感じに皮肉の応酬をする二人。
 しかも二人は言葉を交わしている最中に一度も視線を合わせていない。それは相手を嫌悪しているがゆえなのか、もしくは周囲の警戒も怠っていないためなのか。どちらであるのかは当人達にしか解らないだろう。

「そうであったとしてもお前には関係の無いことだ」
「ピリピリした雰囲気の人間がいると周囲も混乱するものだから、一人の問題だと思っているなら間違いだと思うけど?」
「その程度の分別ならついている。そもそも私は表には出ないからお前の言うような状況は起こらない」
「本当にそうか?」
「くどい。―――お前は少し黙っていろ」
「はっ、これでも心血を注いで作戦を遂行したっていうのに。全く報われない」

 九峪は天を仰ぐような動作で仰々しく言った。その動きの一つ一つが癇に障る。琴線に触れる。
 清瑞はその九峪の動作を見ているといつも内心で激しい苛立ちを覚えた。芝居がかった口調がひどく鼻につくためだ。

「ふん、あれを成功させたのは殆ど志野殿だろう。お前などいなかったとしてもどうにでもなった」
「まあ、確かにな。―――ただ、志野か。彼女がいつまでこの復興軍にいてくれることだか」

 と、そこで九峪は思わせぶりな言葉を吐いた。
 会話を打ち切りたいと思っていても、目の前の男はいつもそれを阻むだけの二枚舌を持っている。そう清瑞は思った。

「どういうことだ?」
「いや、今は復興軍に参加してくれているけどな。いつ志野がこの軍を出て行ったとしてもおかしくはないだろう、ってことだ」
「まさか」

 清瑞もある程度ならば志野の境遇を知っていた。だからこそ志野が狗根国との戦いから抜けるとは思えなかった。
 だが、その思考を表情から読み取ったのか九峪は笑って、

「確かに志野個人だけならそうかもしれない。だけどな、例えば志野以外の何かが理由になって復興軍を去っていく可能性がないとは言えないだろう?」
「―――何が言いたい?」
「何が言いたいといわれてもそれだけだ。深い他意はないからな」

 到底信用のできるようではない口調で九峪。解っていてその態度を取っているのだろうと思うと、清瑞はまた苛立たしく思った。

「……話はそれだけか? それならここを離れろ。お前がいたのでは集中も出来ない」
「はっ、俺がいて集中が足りなくなるようじゃ―――おっと、これは言い過ぎたな。悪かった。話は別にあるんだった。それも重要な話が」

 不快感がピークに達しようとしているにも関わらず、それでも重要な話と切り出されれば耳を貸さないわけにはいかない。清瑞は九峪が作戦に関わることで嘘は言わないということを知っていたからこそその場に留まった。

「―――南に捨てた奴らがどうなったか確認できたか?」
「散々にお前が脅しておいた狗根国の文官連中のことか?」
「ああ」

 頷く九峪を視界の端に捉えながら清瑞はつい先日の事を思い出していた。
 美禰の街で捕らえた文官は、その殆どが命を奪われずに南へと放たれた。美禰の街の南には、ちょうど当麻の街で挟むような形になって去飛の街があり、児湯の街がある。その方向へと文官たちを放ったということは、

「問題ない。お前の予定通りに今ごろは去飛の街で命からがらにこちらの軍勢について報告していることだろう」
「そうか、それなら方針の変更は必要ないってことか」
「その判断をするのは私ではない」
「はっ、確かに。―――それじゃあ聞くことも聞けたから俺は退散させてもらう。このままだと誰かの堪忍袋の緒が切れてしまいそうだからな」

 最後まで癪なことを口から吐きながら九峪は清瑞の目の前から去っていった。来た時と同様に、相手の意向など関係なく去っていく。その様はまるで避けようの無い天災だった。
 しかし同時にその男が復興軍に必要である事も認めていた。捕らえた文官を殺さずに、敢えて敵軍に動揺を広がらせるために散々に怯えさせて敵の手へと返す。もとから戦いに免疫の無い文官たちは良く囀ってくれるだろう。
 清瑞はそれが効果的な手法であると理解していた。少なくとも相手を殺すことしか念頭にしか置けない清瑞には考え付くことが出来ない。
 それが多くの仲間を救うだろう事も理解していた。それは一人の敵兵を葬り去るよりも軍全体に益を与える。だが、

「ちっ―――苛立たしい」

 それでも深層の感情は消せない。
 だからせめて彼女は表情からだけでも感情を消すしかなかった。