「やれるか、だと? ――――私にやれない道理があるわけないだろうが」

 そう言って影は飛んだ。そして標的を屠る。
 影の動きは、誰にも気付かれることが無かった。








「はいはーい! 誰も行かないならボクが行くよ!」
「へ?」

 忌瀬が顔を横に向けると、そこには凄まじく馬鹿でかい男の傍らでぴょんぴょんと飛び跳ねて存在を主張する少女の姿があった。体格的には香蘭と同じくらいだろうか。何故かその少女は首に蛇を巻いているのが理解の外側だった。
 その外見から判断して、少女の挑戦は全くもって無謀であると真姉胡も忌瀬も共に思った。だが、観衆たちの反応は違った。
 大半の人々は飛び跳ねる少女に正気を疑うような視線を投げかけてはいたが、同時に幾人かの囁きもまた聞こえてきた。「……おい、あいつは石川島の重然じゃないか?」と誰かが言い出せば、それに呼応するかのように「そうだそうだ、あの肩の彫り物は間違いねえ。重然がどうしてこんな陸地にいやがるんだ?」といった声もまた返ってくる。
 どうやらこの近辺では名前の知られた人間であるようだ、と忌瀬は大男と元気の良さそうな少女の二人を見て思った。

「石川島の重然って聞いた事がある?」
「いえ、無いです。ただその付近の海域には賊が多いと聞いたことが有りますけど」
「そう。じゃあ、あれがその賊なのかもしれないね。――いや、そこまで恐れられていないように思えるから、賊というよりも義賊に近いのかもしれないか」

 近くにいる馬鹿でかい男と飛び跳ねる少女がいる場所まで声が届かないように、小声で囁くように忌瀬と真姉胡は会話した。そして顔は向けずに、だが視界の端に彼らの存在を捉えてその外見的特徴を観察する。
 筋骨隆々とした巌のような大男に、羽のように身軽そうな少女。大した組み合わせだと忌瀬は思った。まったくもって前後関係が掴めない。今日は何事も起きなかった数日分のつけを取り戻すかのように面白い事が起きていると思う。

「本日最初の女性の挑戦者に、皆様暖かい御声援をお願いします! ――それではそちらの方、こちらへどうぞ」

 そんなこんなで忌瀬が目まぐるしく思考を回転させていたわけだが、その間に飛び跳ねていた少女は隻腕の男に招かれて香蘭の前まで移動し終えていた。
 体格はほとんど同じ二人の少女。どちらも天真爛漫といった笑みを浮かべており、その容姿もまた甲乙つけがたい。だが、片方の肌は桜の花びらに似た薄っすらとした桃色を帯びた白。そしてもう片方の肌は、良く日に焼けた健康的な小麦色――いや褐色と表現した方が正確だろうか。

「キミって強いんだね。ボク、びっくりしたよ」
「そうか? 香蘭よりも、母様のほうが、ずとずと強いよ」

 纏う雰囲気は似た二人。されどその外見は対極とも言える二人。その少女達がにこやかに土俵の上で向き合った。
 可憐な少女が二人、土俵の上で笑いあうなどと言えば聞いた者は首を捻りたくなるかもしれないが、不思議なことにこの二人に限っては絵になっている。

「へえ、そうなんだ。じゃあいつかキミのお母さんとも組み合わせてもらいたいな〜」
「そか。それなら、明日にでも、また、来るといい。きと、手合わせできる」
「明日かあ。今日じゃダメ?」
「今日は、無理。忙しい、よ」
「今から時間が空いたりしないの?」
「いや、これから、大事な用、あるよ」
「用事? どんな?」
「それは―――あ……」

 にこやかに忌瀬達の位置からは聞きとれない程度の小さな声で言葉を交わしていた二人だったが、その途中で不意に香蘭が表情を固まらせて口をつぐんだ。動きが凍ったとも表現できる。

「どうかしたと思います? あの人、何かいきなり固まったような気がしますけど」
「さあね。話の内容が解らないんだから、私に解るわけが無いだろう」

 その様子を不審に思っての言葉なのだろうが、興味はないとばかりに忌瀬が返した。何か決定的におかしなことがあったのなら忌瀬も考えるというものだが、状況を見た限りでは何も問題は無いと判断したためだ。
 忌瀬の視界には土俵の上の二人以外には、後方で艶然と扇を広げて微笑む女性や、行事役を買って出ている笑顔の男の姿しか入っていない。それは別段、異常な事態に感じられるわけでもない。不審な様子などあるはずもなかった。

「二人とも、会話はそれくらいで打ち切ってくれないか?」

 と、そこで行事の男が土俵の二人の間に割って入った。そして二人の距離を離させる。

「おお。そうだったね。これは、相撲だったよ」
「は〜い。もうちょっと話したかったんだけどしょうがないね」

 男の言葉に、片方は自然に、もう片方は飛び跳ねるようにして後方へと下がった。固まっていた香蘭の動きはいつのまにか正常に戻ってしまっている。

「どうも。ありがとうな。それじゃあ始めても良いか?」
「問題、ないよ」
「いつでも大丈夫!」

 二人の元気のいい返事に忌瀬は一瞬だけ、目の前の相撲が他愛の無い遊びであるような錯覚を覚えかけたが、即座に思い直した。少なくとも片方は人の範疇に置いて考えない方が良さそうだ、と。
 どうにも二人に緊張味が欠けているので、観察する側の気力も削がれてしまうようだ。

「いい返事だ。それじゃあ双方共に距離を取って――――八卦良い、のこった!」
「先手、もらうよっ!」

 始まりの合図に真っ先に反応したのは挑戦者の少女だった。
 ぴょんぴょんと飛び跳ねて笑っていた姿が嘘であったかのように、即座に前方に飛び出して香蘭へと接近する。その様は極限まで絞りきられた弓から射られた矢。或いは獲物に喰らいつこうとする獣を思わせた。
 色物でも見物しているつもりだった観衆が一気に声を失う。
 それほどまでに少女の動きは速かったのだ。少なくとも先の挑戦者の誰よりも彼女は早い。
 少女に対する香蘭は動けない、いや―――

「わあっ!?」

 高速で迫ったはずの少女は、瞬きするほどの僅かな時間に空中をひっくり返っていた。疾風の如く地面を走った少女は、忌瀬が知覚出来ないうちに空中に放り投げられていたのだ。
 大半の人々と同様に忌瀬は余りといえば余りの事態に驚いた。だが、

「……うわあ。挑戦者の人も凄いですね」

 呆けたように真姉胡が土俵を見つめながら言った。
 忌瀬としても心底、同意したい気分となった。何故ならば、

「確かに。一体どんな平衡感覚もっているんだか」

 瞬きするほどの僅かな時間で距離を詰めた少女は、これまた瞬きするほどの短い時間で香蘭に投げ飛ばされた。それだけでも驚嘆に値するにも関わらず、その投げ飛ばされた少女が空中で猫のように肢体をしならせて二本の足できっちりと着地したというのだから更なる驚きを呼ぶ。
 度重なる勝負を見ていた人々は香蘭に挑戦者の少女が勝てるわけが無いと考えていたが、その光景を見て考えが変わったらしい。どよめきながらも次第に、最初と同じように挑戦者の少女を応援し始める。
 忌瀬は近くに無言で佇む重然と呼ばれた大男が、口元を僅かに緩めて笑う姿を見たような気がした。

「あ痛たたっ。絶対この手どうにかなっちゃったよ」

 湧き上がり始めた声援を気にすることなく、左の手首をぱたぱたと痛そうに危なげなく着地した少女は振った。投げ飛ばされるときに関節でも極められたのだろう。よほど痛かったのか目尻には涙が浮かんでいるように見える。
 その少女を眺める香蘭は目を軽く見開いて、相手をまじまじと観察していた。

「凄い、ね。驚いたよ」

 よく見れば、香蘭の足元には、ほんの僅かではあるが挑戦者達が残したものではない足跡が出来ていた。つまりそれは、ずっと足を動かすことが無かった香蘭が移動したということを意味している。移動せざるをえなかったということ。

「これくらいで驚いたって言われてもなあ。まだまだ勝負はこれからだから覚悟しておいてよねっ!」

 その事実に気がついているのか、調子が良さそうに少女は言った。そして再び腰を落とす。
 たんっ! という軽い音が持つ印象とは裏腹に力強く少女は駆けた。その速度は先ほどを更に上回る。香蘭の腰よりも低い位置に頭がくるような前傾姿勢で、バランスを崩すことも無く突撃する。
 滑り込むように、流れ込むように行われた、香蘭の下半身めがけてのタックル。
 人々は息を呑むような少女の攻撃に声を出すことを忘れた。
 だが、香蘭は、

「そか。なら、仕方ない」

 腰を落とした。両脇を締めた。右足を前に出して膝を軽く曲げた。その膝の上に右手を構えた。両足のかかとを浮かせた。左手を腰に添えた。後ろ足である左足に重心をかけた。迫り来る相手を双眸で捉えた。息を吸い込み肺に大気を満たした。

「ィヤアァッ――――!」

 そして香蘭は一瞬だけ本気を出した。
 ずだんっ! という右足の踏み込みは地面が割れるかのような大音量。風を巻き込み同時に突き出された右の掌は神速。そして訪れたのは無言。
 結果として挑戦者の少女は吹き飛んだ。

「ぃいっ!?」

 幾らかの時間を挟んで、もう何度目になるか解らない驚きの声を真姉胡が隣で上げるのを聞きながら、本当に止めてくれと忌瀬は思った。今まで彼女が見ていたものは香蘭の本気では無かったという事実と、そんな香蘭が垣間見せた本気の人外っぷりに、流石の彼女も頭がずきずきと痛み出す。こんなのが反乱軍にいたなら鎮圧は一筋縄ではいきそうにありませんよ? 蛇渇の爺にでも頭を下げて魔人でも借り受けないといけないかもしれません。などと届きもしない声を都督府にいる人物に向けて内心で呟いてみる。
 が、そんなものは事態を変えることが出来るわけも無く、吹っ飛ばされた少女は身動き一つせずに地面に転がったままだった。
 死んだのではないだろうかと忌瀬はいぶかしんだ。

「ふう、彼女、強かったよ」
「香蘭。加減はちゃんとしたか?」
「だいじょぶよ。当たったときに、彼女、後ろに、飛んだから」
 
 話の内容を聞き取れなかった人間は何を呑気に話をしているんだと思いながら、土俵の中の二人を見つめた。しかし二人は気付いていないのか、気付いているのに無視しているのか何も行動を起こさない。
 せめて介抱なりしなければならないとでも思ったのだろう。人込みの中から一人の中年の女性が吹き飛ばされた少女に近づいていこうとした。だが、

「愛宕。騒ぎになるから、そろそろ起きろ」

 いつの間にか先に、吹き飛ばされた少女の傍に大男、重然が近づいていて、腹の底から押し出されたような低い声を出した。外見に相応しい重圧を伴った声だった。
 駆け寄ろうとした中年の女性は、その大男が発する威圧感に近づくことが出来ない。おろおろと戸惑うばかりだ。
 呼びかけられても少女は当然ではあるが、まったく動く様子を見せなかった。
 だが、その様子に苛立ったかのように重然は足を大きく踏み鳴らした。ずどんっ! と先ほどの香蘭とは違い重量を感じさせる低い音が鳴る。

「三つ数えるまでに起きなかったら頭を踏み抜くからな―――ひとつ。ふたつ」

 地面に口付けをするかのように、うつぶせになって倒れている少女に対する重然の眼光が徐々に引き絞られていく。

「まだ起きねえのか? なら、もうそれでも構わねえよ。―――みっつ」
「うわああ! 起きた! いま起きたから踏み抜くのはダメだよ!」

 屍のようにピクリともしなかった少女だったが、重然の言葉が発せられるとバネ仕掛けの人形のように、わたわたと手を振りながら飛び起きた。どうやら狸寝入りであったらしい。
 少女が死んだとばかり思っていた者達は内心で胸をなでおろした。

「やっぱり起きてたんじゃねえか」
「それはそうだけど、少しだけは気絶してたのに―――って、あいたたっ!」
「ん? どこか折れたのか?」
「いや、ただの打ち身だと思うけど……痛いよ、ほんとに」
「打ち身ぐらいでガタガタ言うんじゃねえよ」
「しょうがないじゃないか。ボクは重然と違って陸地での戦いに慣れてないんだから。海だったなら受身ぐらいはとれたんだろうけどさ。―――つつっ」

 しかも吹き飛ばされた少女は大男に突っかかるだけの余力も残されているらしい。時々、痛みに腹を押さえて顔をしかめることはあっても、大の男でも逃げ出してしまいたくなりそうな重然を前にしても怯えた素振りすら見せない。

「御二方すみません。うちの香蘭がやりすぎてしまいまして」

 と、そんな二人に行司をしていた青年が近づいていった。
 どうやら倭国語に不自由していた仲間の代わりに謝意を述べているようだと忌瀬は推測した。その証拠というわけではないが、口を開きはしないが男の後ろに香蘭がついていっている。

「そっちが謝ることなんてねえよ。勝負を挑んだのも、吹っ飛ばされたのもこの馬鹿の責任だからな」
「そうは言っても、うちも大きく分類すると客商売ですから。せっかく勝負を挑んでくれたお客様に怪我を負わせてそ知らぬ顔は出来ないんです。―――ほら、香蘭」
「悪かった、よ。だいじょぶか?」

 青年の言葉に後ろの香蘭がぺこりと頭を下げる。そして吹き飛ばされた少女を見た。

「うん。ボクは大丈夫。こう見えて体だけは丈夫だからね」
「それは、よかた」
「本当にすみませんでした」
「いいっていいって。そっちのお兄さんも謝らないでよ。負けた上に頭まで下げられると結構、恥ずかしいんだからさあ」
「そうですか? そちらがそう言われるのなら、こちらとしてもありがたいんですが」
「そうそう。―――あ、そうだ! 折角だから名前を教えてよ、名前。あとお兄さん達がどんな人達かも聞きたいな。教えてくれたなら、さっきボクを吹き飛ばしたのは無しってことでどう?」

 ぱちんと両手を合わせて、さもいい事を思いついたかのように少女が言った。
 本人は他愛も無いことで手を打ったつもりであるのだろう。だが、その能天気そうな声を聞き取りながらも忌瀬は、良い所を聞いてくれたと内心で吹き飛ばされた少女を喝采した。

「それくらいでいいなら。俺の名前は雅比古。そしてこっちが香蘭。今はあっちにいる三人とここにいる二人で組んで、九洲を渡り歩いて興行をしているんだ」
「へえ。ってことはお兄さん―――ええっと、雅比古も香蘭と同じで大陸の人なの?」
「いや、大陸出身なのは香蘭と、あそこで扇を持っている紅玉さんの二人だけだな。まあ、実のところ、俺達は最近になって一座を作ったんだ。それまでは俺は一人で、香蘭は紅玉さんと、そしてあっちの小さいのは隣の剣持ってるのと、別々に旅をして稼いでいたから」
「そうなんだ。それがどうして今は一緒に旅をしているの?」
「まあ、最近は物騒になってきたからなあ。ほら、俺一人だと野盗にでも襲われたらひとたまりもないだろう?」

 そう言って雅比古と呼ばれた男は左肩を持ち上げた。有り体に言ってしまえば彼は隻腕だった。

「それで俺としては、この香蘭みたいに馬鹿に強い仲間がいたならありがたいと思ってね。香蘭と紅玉さんの二人を見つけた時、九洲に不慣れな二人に道案内をするから一緒に行かせてくれってせがんだわけだ。ああ、それと、あっちの二人はまた別口でね。三人も五人も違わないと思って、俺が誘った。それであっちも女二人だと何かと舐められるからって言ってくれたんで、今、こうしてこんな一座が出来ているってことになるのかな」
「へええ〜。波乱万丈なんだね」

 二人の会話を聞きながら、よくもまた、そこまで話を作っているものだと忌瀬は思った。
 最初から反乱軍の人間ではないかと疑ってかかっている忌瀬達以外の目には、これで彼らは旅の芸人一座であるとしか映らなくなってしまっただろう。それとも本当にただの旅芸人にすぎないのだろうか? そんな疑問さえ沸きあがってしまいそうなほどに、人好きのする笑顔を浮かべた青年の受け答えは自然だった。

「お、波乱万丈だなんて難しい言葉を知ってるな」
「そう? へへ」
「ああ、その年でそれくらいのことを知っていれば充分賢いだろう」
「ほんと? ―――ねえ、聞いた? ボク賢いんだって」
「世辞に決まってるだろうが、馬鹿。それとあんたもこいつを無駄に褒めるのはやめてくれねえか? 単純だから言葉の裏に気付かないで調子に乗る」
「いや、本心ですよ。それに元気がいいのもいいと思うし。そもそも香蘭の足を動かせた人間なんて、そうはいないから」

 大男である重然を前にしても自然に会話を続ける雅比古と呼ばれた男。その様子を眺めて忌瀬は、全体的に細い印象を受ける雅比古の芯は太いのだろうと思った。
 それに弁も立つ。仮初であるのか本業であるのかはわからないが、あの一座の中では交渉役を担当しているのだろうとも、内心で推測を重ねていった。

「けど、負けちゃったからボクはまだまだだよ」
「いやいや。この興行相撲で香蘭に勝った人間なんて俺は見たことないよ。更に言うなら、俺が見た中で一番善戦したのはあんただ。充分、胸を張って良いと思うけどな」
「そうかなあ?」
「そうだよ。―――見た限り、ここにいる人間であんたよりも出来そうなのと言ったら」

 と、そこで雅比古と呼ばれた男は周囲をぐるりと見渡した。強そうな人間でも探しているかのようだ。
 観客全てに向けられたその視線に、忌瀬は自分の姿が捉えられたような気がした。が、それはただの直感であったらしく何事も無く周囲を見渡す九峪の視線はぐるりと一周を終えて再び元の位置まで戻り終わった。
 即ち、眼前の少女に向けられたわけだ。

「やっぱり、隣の人しかいそうにないな。そういうわけで、この香蘭と一つ相撲をとってみる気はないですか?」

 言葉を言い終えた雅比古の視線は重然に向いていた。
 食わせ物なのか只の馬鹿なのか――いや、こういった場面にこういった場合は大抵、食わせ物である確立が高い――浮かべた笑顔を変えもせずに、穏やかでない事を言う。義賊であるかもしれないが、それでも賊。そんな男に勝負を吹っかけるような台詞をぬけぬけと言い切るなんて随分と好戦的に思える。
 忌瀬は大衆から「おいおい、これで重然が暴れ出さなければいいがよ」などと言った囁きが聞こえてくることを知覚しながらも、事態の推移をつぶさに観察するために目を細めた。
 話しかけられた重然はまず最初に目を軽く見開き、続いて逆に目を瞑った。何事かを考えているようである。
 が、何らかの結論に至ったのだろう。ゆっくりと目を開いて、

「いや、いい。やめておく」

 眼下の雅比古を見下ろしながら言った。

「へ? やらないの? もしかして重然、負けるのが怖いとか?」

 その返答に真っ先に反応したのは雅比古でもなく、大衆でもなく、隣にいた少女だった。そそり立つ大岩のような重然に、まさか怖気ついたのか? などと正面から問うことは出来ない大半の人間の信条を見事に代弁してくれている言葉だった。
 が、どうやら重然にとってその言葉は不快なものであったらしい。彼は片方の眉を跳ね上げて少女を睨んだ。

「馬鹿言うな、馬鹿が。俺たちがここにいる理由を足りない頭で思い出しておけ」
「へ? 何だっけ?」
「馬鹿が。あれだろうが」
「? ……ああ! そっか。そういえばそうだったね」
「忘れてんじゃねえよ。ったくよ。―――というわけで雅比古とか言ったか? 悪いが俺は少しばかり用事があるんでな、相撲取ってる暇は無いんだよ」
「そうですか? それは残念だ」

 残念だ。そう言ってはいるが惜しむ様子は見られない。むしろそうなると考えていたようにも見受けられる。
 そんな雅比古の言葉を聞いた重然の右眉は跳ね上がったままだった。
 
「次に会った時なら大丈夫だろうからな、その時は一戦頼んでおく。―――何なら明日以降に俺たちがいる石川島まで来てもらったなら勝負をすることもできるんだが、どうだ?」
「いや、それはちょっと。流石にこっちも客商売ですから」

 逃げられたと思われるのが癪であるのだろうか、重然は再戦の約束をこぎつけようとする。が、雅比古は愛想笑いで切り返す。
 誰しも好き好んで賊の巣窟へなど足を踏み入れたくないのは当然か、とその場の殆どの衆目達が思った。

「そうか。ならお前達の興行の予定を教えてくれや。こっちの手が空いたら、その嬢ちゃんと組み合わせてもらいに行くからよ」
「ああ、それなら大丈夫です。俺たちはこの街の付近に明後日くらいはいるはずです。それからは後は多分、このままだったら去飛の街まで行こうかと思っています」
「そうか、去飛だな。覚えておく。―――おい、愛宕」
「はーい」

 ぴょいっと。間延びした返事をしながらも少女、愛宕は飛び上がった。そしてすとんと腰掛ける。巌のような大男である重然の右肩に。まるで重然のことを軍馬か何かの乗り物とでも考えているかのように、愛宕は重然の肩へと飛び乗った。
 そして肩に乗りかかられた重然もまた大したもので、一人の少女分の重量が肩に圧し掛かっているというのに体をぐらつかせもしない。それどころか微動だにしない。まるで彼の両足が地面に大きな根を張っているようにも思える。

「それじゃあな、俺達はいかせてもらうぜ」
「じゃあね〜」
「そうですか。また会えたなら、何処かで」

 そう言って、重然達は街の外側へと出て行った。
 外見とは違って、普段の重然の足取りは軽かった。その大きな体で人よりも早い調子で足を進めるのだから、あっという間に姿が小さくなっていく。恐らく、肩に愛宕が乗りかかっているのは、愛宕と重然では歩く速度に二倍以上の差があるからなのだろう。

「さて―――他にどなたか香蘭に相撲を挑む方はいますか?」

 雅比古はぐるりと周囲を見渡しながら尋ねた。が、誰も名乗りを上げるはずなどは無かった。むしろ中途半端に腕の立ちそうな連中は視線を外そうとすらしている節がある。

「そうですか。なら仕方が無い、これにて香蘭の相撲は終了となります。ほら、香蘭」
「ありがとう、ござい、ました」

 香蘭が頭を下げると、大音量の様々な喝采の声や、それらに混ざって小さな安堵の吐息が漏れ始めた。

「では、次がうちの一座の最終演目! 座長志野による双龍刀を用いた剣舞となります!」







「―――それでは、私の剣舞はこれまでとさせてもらいます。ありがとうございました」

 そう言って、双龍刀を脇に抱えた志野と呼ばれた女性はたおやかに一礼した。彼女の演舞は終わった。
 それに伴って、どっと割れんばかりの歓声が人々の間から湧き上がった。

「凄く綺麗でしたね」
「私はどちらかと言うと歌のほうが好きなんだけど、確かにあれは凄かった」

 もう忌瀬達が芸を眺め始めてから、一刻以上の時間が流れてしまっていた。その長いようで短かった時間も、先ほどの志野と呼ばれた若い女性――やけに露出の多い服装をしていたことから考えると白拍子であるのだろうか――の剣舞をもって終わりを迎えることとなった。
 儚げな体躯の女性が、まるで己の命の蝋燭を燃やし尽くすかのように剣を振るって踊る様は、それまでの美禰の街の住人の誰一人見たことが無いほどに美しいものであった。瞼を閉じても、それでも瞼の裏側に志野の踊る光景が浮かび上がってきそうなほどに幻想的な剣舞。
 まるで白昼夢を魅せられたかのようだと忌瀬は思った。
 舞が終了するまでの間、別世界に引き込まれてしまったかのような奇妙な時間を経験した彼女は、本当に少しだけの時間ではあるが、自分がその場所に存在する意味を忘れてしまっていた。それほどに見事なものだった。ただ感嘆の息が漏れる。
 しかし、彼女に訪れる驚きはそれだけでは終わらなかった。
 いや、むしろそれからが本番であったのだろう。

「―――これにて一座の公演は終了とさせてもらいます」

 志野と入れ替わりに、人々の前へと進み出てきて男が言った。

「ご清聴して下さった皆様、本当にありがとうございました。そのお礼というわけではありませんが、一座が街を離れてから一刻以内に、飛びっきりの奇術を披露させてもらおうと思います」

 志野と入れ替わりに、人々の前へと進み出てきた奇術師の男は言った。
 その言葉に従って、他の一座の面々は頭を下げる。
 観衆達は男、雅比古が何を言っているのか理解できなかったが、先ほどの剣舞に思考を奪われていたために、小さく首を傾げるだけだった。

「それでは―――」

 そして奇術師の男の別れの言葉を合図として、一座の面々は惜しまれながらも街を去っていった。








 そしてそこから一時程度の時間が流れた後、美禰の街に火魅子を旗頭とする再興軍の兵士達が攻め入った。
 門を守る守備兵はいつの間にか何者かと入れ替えられており、狗根国兵士が敵の進撃を確認しても正門が締め切られることは無かった。ゆえに街を守る堅牢な城壁は意味を成さず、勢いそのままに美禰の街は落とされた。
 街の中心部に残った狗根国兵士達は目立った抵抗をすることも出来ずに捕縛されてしまった。
 電撃侵攻。電撃制圧。
 その様子を見ていた忌瀬は言った。

「あれは奇術じゃなくて詐欺だ」