美禰の街は至って普通の街だった。
九洲が狗根国に占領されてから大多数の街がそうなったように、この街にも狗根国より派遣された留守が配置され、決して軽くは無い税を課せられた。だが、それが殊更に他の街よりも厳しいものであるわけでもない。人々がぎりぎりながらも生きていられる程度の水準は保たれている。
戦に敗北してからずっと続いてきた、飼い殺しのような生活。
しかし最近になって、そんな美禰の街に変化が訪れた。
それは一般の平民達では気付けないほどの僅かな変化でしかない。だが、少しばかり街の現状に他者よりも関心を向けている者ならば違和感を覚えられるほどのものだった。
つまりは、狗根国兵の姿が見えなくなってきたということ。
定時の巡回や、城門の警護などはいつもと変わらぬように行われている。しかし、それらを行っている兵士達の面々が異なっているのだ。いつもならば生粋の狗根国兵士が行うはずの仕事に、九洲出身の兵士達が配属されているという普通では余り考えられない事態。
我が物顔で街を闊歩する兵士達の姿が無くなり、昔から見覚えのある顔が居心地の悪そうに狗根国の衣服に身を包んで街を巡回する姿が多くなってくる。
――どうして九洲兵士の姿を見ることが多くなったのか?
――どうして狗根国兵士の姿が街から少なくなっていったのか?
当初、人々はその理由を理解することが出来なかった。
理由など無いのかもしれないし、派遣されてきた留守の気まぐれであるのかもしれない。或いはまた何か良からぬことを企んでいるのかもしれない。納得のいきそうな理由など考え付かなかったし、大半の者達は考えようともしていなかった。
長らく続いた狗根国による治世は九洲の民から思考する能力を奪っていた。
だが、そんな状態の街中で一つの噂が囁かれるようになった。
曰く、「南の当麻の街で火魅子を旗頭とした反乱が起こり、その鎮圧に向かった狗根国の部隊は敗北した。その鎮圧に兵士を派遣したために美禰の街では狗根国兵士達の姿が見えなくなった」という、そんな噂が。
時期を計ったかのように流れ始めた噂は、まるで枯れ木に焚きつけられた火のように一斉に広がっていった。狗根国の監視の届かない水面下に置いて、街の住人達の間に浸透していく。それは例え狗根国兵士とされてしまった九洲兵であっても例外ではない。
留守を始めとする、街の中心部に僅かに残った生粋の狗根国民。彼らを除いてその噂は老若男女を問わず、殆どの美禰の街の住民達の耳に入った。
そしてその噂が完全に人々の脳裏に刻まれ終えてから、続いて更なる噂が流れ始めた。
曰く、「南の地で決起した火魅子を擁する耶麻台国軍は北上を始め、いずれは美禰の街を解放してくれる」という噂が。
それら二つの段階的に流れた噂は、人々の鈍麻した思考を徐々に明晰にしていった。
――どうして自分達は狗根国に屈しているのか?
――どうして自分達は何もしようとしていないのか?
正常化された自我の意識は、現状に対する不満をしきりに訴え始める。周囲の過酷な環境に対する諦念の感情が薄れていく。
時が経つにつれて男達は立ち上がる決意を胸にし、女達は戦の開始を覚悟していった。
そして同時に強く、反乱を起こした火魅子たちによる街の解放が望まれたいった。
「ああ、これは反乱軍の勝ちで決まったね」
数日前から始めた薬売りを、余り気の乗っていない様子で行いながらも忌瀬が言った。
「どういうことですか?」
「最近の街の連中を観察してみなよ。死んだ魚の目から活き魚の目になってきているじゃないか。――それに耳を澄まして座っているだけで反乱軍の噂が何度も聞こえてくる。これは普通じゃ考えられない状況だろう?」
そう言って忌瀬は周囲をぐるりと見渡した。
他愛ない周囲の喧騒には生命力を感じさせる瑞々しい張りがあり、街の住民達は普段と比べて活気付いているように思える。
「普通じゃない、ですか?」
「ああ、そうさ。これは絶対に反乱軍が南で決起しかことが、ここまで知られているに決まっている」
目が、違った。
動きが、違っていた。
忌瀬達が美禰の街に至ってから数日。最初は流されるままに日々を生活しているようにしか思えなかった街の住民が、ある時期を境にして急激に活力を取り戻していったのだ。
それは微細な変化ではあった。しかし、その変化の境をちょうど間に挟む形で街へと到着した忌瀬には明らかに感じることが出来る差異だった。
「――いや、もしかしたら人為的なものなのかもしれない」
「街の住人の変化には反乱軍が関わっているってことですか?」
「この街に間者を放って、反乱軍に優位な情報だけを故意に流しているっていう可能性がないわけじゃないだろう? 反乱軍に私らみたいな間者がいれば、この程度の小さな街に噂を流すなんて簡単なことだからね」
と、そこで忌瀬は気の抜けきっていた顔に喝を入れて真剣な表情を作った。
「そうだとすると、当麻の街にいる反乱軍は今までとは趣が違ってきそうですね」
「ああ、うちの天目様なら平気で思いつきそうな考えだけど、それでも一般出身の平民じゃ逆立ちしたってこんな裏工作は考え付け無い。――狙って反乱軍が噂を流しているのなら、音に聞こえた火魅子か、或いはその参謀役なのかは知らないけれど、反乱軍にはある程度は頭の切れる人間がいるってことになる。今回の反乱を甘く見ていたら、直ぐに九洲にいる狗根国軍は手痛く食いつかれるだろうね」
「……この街の留守にそのことを知らせておきますか?」
狗根国軍は手痛く食いつかれる。その言葉を聞いて、忌瀬の隣で膝を抱えて座っていた真姉胡が立ち上がろうとする。だが、
「その必要は無いさ。言っただろう? 今回の反乱を甘く見ていたならって。少なくとも天目様は今回の反乱軍の異常性に気付いていた。だから私達をここに遣したんだろうしね。それなら私たちは言われたとおりの事をやっていればいい。そうだろう?」
「それは、――――そうですね」
言葉の内容を吟味するかのように一瞬だけ動きを止めた真姉胡だったが、やがて忌瀬の言葉の内容に納得したのか頷いて再び地面に座り込んだ。
彼女達の周囲では依然として騒々しい、しかし活気に満ちた喧騒が続いている。
「私たちはここで美禰の街が陥落するのを待っていればいいだけなのさ。そうすれば――」
「反乱軍に潜り込める、ですか?」
「解っているじゃないか」
「頭で解ってはいますけど、何かふくざつです」
「そんなこと言ったって真姉胡は元々、九洲の人間だから気にしなくてもいいと思うんだけどねえ」
「それでも、ですよ」
「ふーん。いつも流れている私にはよく解らないなあ、その考え。けど、まあいいか」
気楽に言葉を発しながらも横目に真姉胡を眺めていた忌瀬はそう言って一応ながら話を区切った。
そして彼女はそれまでと同じように目の前の大通りを眺める人間を観察し始める。心なしか速くなった様に思える人の流れは、彼女の眼前で途絶える事無く変化し続けていた。
この時間帯、既に太陽は空の真上へと上っているために暖かい。少しばかり忌瀬の額は汗ばみ始め、彼女はその汗を指先で拭おうとした。
だが、その時、
――――わあああああっ!
街の入り口に近い場所から割れるような歓声に聞こえてきた。幾重にも重なり合って生まれた忌瀬の鼓膜を揺るがすその声は悲鳴である可能性もあるのだが、何故か忌瀬はその声を歓声だと思った。
「何が起きたんでしょうね?」
真姉胡の視線は街の入り口付近に向いていた。大通りを歩いていた人間の何割かも足を止めて彼女と同じ方向を見つめている。視線の先には人が群がっていて黒い人だかりが形成されていた。
「何がって、私に解るわけがないじゃないか」
「探ってきましょうか?」
尋ねる声は疑問系ではあるが、既に真姉胡の腰は浮いていた。
内心では見に行く事を決めているのだろうと忌瀬は推測する。
「いや、ちょっと待ちな。私も行くよ」
「忌瀬さんもですか?」
「ああ。何の根拠もない直感だけど、行っておいた方が良い気がするからね」
「へえ、見事だね。真姉胡、あんたはアレできる?」
「タネならぎりぎりで解りますけど、できるかどうかは難しいです」
大通りから移動して街の入り口付近へと向かった忌瀬達は、驚きながらも眼前で繰り広げられる光景を眺めていた。
彼女の目の前にいるのは五人程度の少人数の集団だった。その集団は、旅の芸人一座であるのだろう、人々を前にして堂々と見世物を行っている。
扇を両手に艶やかに舞う踊り子らしき人物や、見るものに安心感を与える人好きのする笑顔を浮かべて奇術を行う隻腕の青年などと、少数ながらもその集団の面々は見ていて飽きが来なかった。
現在、人々の前に出ているのはただ一人だけの青年と最も年上だと思われる女性の二人ではあるが、後方にいる女性達にも人々の心惹く華がある。
一人は落ち着いた感じのする美女であり、もう一人は少女と女性の過渡期にあるような外見であるが、それでも可愛らしく愛くるしい印象を受ける顔立ちをしており、そして最後の一人は人形のように整った顔立ちをしている少女であった。三者三様に異なった趣を持っている。
これで衆目の視線を集めないわけが無い。
「さあさあ御立会い! 続きましてはこちらに控える大陸よりやって来た力自慢の娘、香蘭の出番となります!」
そこまで忌瀬が考えたところで、周囲を見渡しながら奇術を行っていた青年が朗々と響き渡る声で言った。忌瀬の思考が中断される。
青年は見世物を終了させて後方へと下がっており、扇を持って舞を踊った女性と同じく大陸製の衣服に身を包んだ少女の隣で片手を大きく広げていた。大仰な青年の動作は出来の良い道化を思わせるもので、おどけたような彼の態度は聴衆に少しばかりの笑いを誘った。
奇術自体の腕は目に見えて派手なものではなかったが、それでも青年の見世物は好評だった。それは彼の立ち振る舞いの上手さにあったのだろうと忌瀬は思った。
「皆様方のどなたかにこの香蘭と相撲をとってもらい、彼女を負かすことが出来たのならば、その回数に応じて彼女が一枚ずつ服を脱いでいくという仕掛けとなっています! 彼女に挑戦しようとする腕に覚えがある方は、どなたかいらっしゃいませんでしょうか?」
その言葉を聞いて聴衆から何度目かのどよめきの声が上がった。
見た目に力強いとは余り思えない少女を数回、相撲で負かすだけでその少女の裸を眺めることが出来るという言葉に若、中年層の男達の中で一斉に声が飛び交い始める。「お前、ちょっと行ってこい」やら、「俺が丸裸にしてやる」などと言った言葉が忌瀬達の周囲でも投げ交わされた。
と、そんな男達の言葉が飛び交う中で体格のいい一人の男が一歩、前へと踏み出した。大陸の衣服に身を包んだ少女、香蘭よりも頭二つ分は大きい体格の熊のような男だ。
その男の出現に、周囲の人間は一斉に彼の応援を始めた。
「それではあなたが一人目の挑戦者と言う事で。あなたが勝ったならば約束どおりこの香蘭が服を脱ぎ、仮にですが香蘭が勝てたのならば何らかの寄付をよろしくお願いします。―――それでは、香蘭」
「わかたよ」
もともと負けることで噂を集める事を目的としているのか、あるいは本当に勝つつもりであるのか忌瀬は判断できなかったが、そんなことは関係ないとばかりに香蘭は悠々自適に男の傍へと近づいていった。
片腕だけでも制することが出来そうな体躯の香蘭の接近に、熊に似た男は勝利を確信したような笑みを浮かべ、構えを取った。
そして、
「八卦良い、のこった!」
ころり、と男は地面に転がされた。酷くあっけなく。
あらかじめ決められていた円の外へと男の体は投げ出されており、誰がどう見ても男の完璧な負けであった。対する香蘭は土俵の中央で構えも取らずに立っている。
途端、観衆からは驚きの声と男に対する罵声が上がる。
人々はにこにこと笑う香蘭と、地面に転がった男とのギャップに息を呑まされていた。地面に倒れている男も何が起こったのか理解出来ないでいるのか、立つことも忘れてしきりに首を捻っている。
その場にいた殆どの人間が何が起こったのか全く理解出来ないでいた。だが、何ごとにも例外と呼ばれるものが存在する。そう、この場合では忌瀬と真姉胡の存在がそれにあたる。
「……見ましたか、今の? あれ人間業じゃないですよ」
「関節を極めたところまでなら何とか見えたけどね。そこから先は解らない」
大勢の観衆と同じく口を広げて驚いている真姉胡の言葉に、苦虫を噛み潰したような表情で忌瀬は答えた。
忌瀬が理解できたのは香蘭が男を転ばした技の一端のみ。男の手首を捻って体勢を崩したところまでは彼女も知覚できたのだが、そこから先は視認するよりも早くに男が地面へと転がされ終えていた。それまでは呑気に見世物を見ていた忌瀬だったが、彼女の上司にさえ通用しそうな神業の出現に一気に肝を冷やされた。
「遠くからだから最初は解らなかったんですけど。あの女の人、構えてもいないのにやけに隙が無いような気が。……私の見間違いですか?」
「そんなこと聞かれたって、私は武術関係はあまり得意じゃないから―――て、えっ?」
一人目の挑戦者が恥ずかしそうに退場し、二人目の挑戦者が香蘭へと近づいていく様子を眺めていた忌瀬は狼狽したような声を上げた。ぎりぎりではあるが表情は平静を保っている。
「どうしたんですか?」
「……気のせいだとは思うけど、今、相撲してる子の周囲を観察していたら行事の男に視線を投げ返されたような気がしてね」
「あの奇術をしていた男の人なら、誰にだって愛想を振りまいていますよ? 視線が合ったって言うんなら偶然じゃないんですか?」
「いや、愛想笑いじゃなくて、もっと別の種類の笑い方だったように思えてさ」
例えば上司である天目に酷似した笑みに思えた。―――そう言葉を続けようとして忌瀬は首を振った。そんなことは有り得ないし、怖い想像であったからだ。更には何故か扇を持っている妙齢の女性も天目と姿が重なって見えたりして心臓に悪いと内心で毒づく。
「そうですか? そうは見えませんけど。―――あ、また転んだ」
二人目の相撲の挑戦者は、香蘭の足を動かすことさえ叶わずに一人目と同じ末路を辿った。衆目の驚きの声の中に感嘆と畏怖に似た感情が混ざり始めた事を察知しながらも、忌瀬は目の前のただの芸人一座とは思えない集団に対して疑問を持ち始めていた。
「たぶん、手首を捻って体勢をずらした後に足を払っているんだと思うんですけど。忌瀬さんはどう思いますか?」
「……たった五人、しかもその内の一人は子供で、更に一人は隻腕。……そんな面子で街の中に入る―――」
「忌瀬さん?」
呼びかけに答えず、黙り込んで何事かを呟き始めた忌瀬のことを不審に思ったのか、真姉胡が忌瀬の顔を横から覗き込みながら言った。が、
「うるさいね。ちょっと黙ってな。あいつら反乱軍かもしれないんだからさ」
「へ? ええ? あの五人が反乱軍、ですか? たった五人で何が出来るって言うんです? そもそも相撲している女の人なら頷けますけど、一人は男の人でも左腕が無くて、一人はまだ子供ですよ?」
相撲の行司役を買って出ている若い男は、全体的に細い印象で頼りがいがあるとは思えない。後方で立ち尽くす人形のような少女は触れれば壊れそうな小柄な体格で脆そうだ。
「子供って点でなら真姉胡だって同じだろう。子供には子供の使い道ってやつがある」
「じゃあ、あの五人は何をするためにここにいるんだと思うんですか? こんな場所で興行やったって意味ないじゃないですか」
「理由なんて幾らでも考えられるよ。例えば、陽動とかね」
「……え、もしかしてあの人たち本当に反乱軍なんですか?」
また突拍子の無い事を言い出して、と言いたそうにしていた真姉胡だったが、淡々とした忌瀬の返答に徐々に表情に真剣味を帯びさせていく。
「いや、可能性はあるっていう話さ。まだ確証なんて持てるわけが無い」
そう忌瀬が言った時点で三人目の挑戦者がやはり同じように地面を転がされた。人々の間から湧き上がっていた驚きの声も徐々にしおれていこうとする。
「―――ああ、それにしても、あれは完璧に本物だ。あの子が敵だったなら天目様でも苦戦するんじゃない?」
「ええっ? 確かに凄く強そうですけど、さすがに天目様ほどじゃあ、無いような」
「そうだね。あの人ならああいう相手は謀略で倒せそうだから苦戦はしないかも知れないね」
四人目の挑戦者が現れようとしない中で話をする二人。しかし忌瀬の目は話の内容ほどに軽くは無い。むしろ砂漠に落ちた米粒を探そうとするかのように鋭く、五人の集団を見つめている。
「それでは次なる挑戦者の方はいらっしゃいませんか? そちらの腕っ節の強そうな方、どうでしょうか? ―――え、今日は調子が悪い? それは残念だ」
そんな忌瀬の心中など知るはずも無く、集団の一人である青年は人々の中から対戦相手を募っているようだった。が、誰も名乗りをあげようとはしない。
「そろそろお開きってところかな。あの子、旅芸人としては素人と見て間違いないようだね」
相撲によって食いつないでいる旅芸人であるならば、例え格下の相手であっても、あれほどまでに見事に簡潔に勝負をつけてしまうはずなどは無い。力の差がありすぎた場合、誰も相撲を挑もうなどとは考えなくなるからだ。
その点を考えていくと、神業を振るって街の男達を瞬時に地面に転がす香蘭は旅芸人だとは思えない。忌瀬はこれまでの香蘭の行動を振り返って半ば確信した。
現に、誰も彼女に挑戦しようなどという人間は出てこようとはしない。体格のいい男が三人も立て続けに敗れたのだから、誰しも負けの解った勝負に挑もうなどとするはずなど無いに決まって――――
「はいはーい! 誰も行かないならボクが行くよ!」
「へ?」
知らず、忌瀬は間の抜けた声を出してしまった。もう挑戦者は出ないだろうと思っていた中で、急に彼女の近くから元気のいい子供の様な声が聞こえてきたからだ。