夜半。月が空の真上より再び地平へと降り始めた時間帯。与えられた自室の中で仮眠を取り、体を休めていた九峪はゆっくりと瞼を開いた。
 まず最初に彼の視界に入ったのは黒色だった。この時代、電灯の様に手軽に光を灯せる道具などは当然ながら無い。そのため夜に起きれば部屋を照らすものは月明かりしかないために、部屋の中は純粋に暗い。
 目が暗闇に慣れるのを待ちながらも九峪は、かつて自身が生活していた現代の事を思い出していた。胸を揺さぶる懐かしい思い出。あの時代は常に人工的な光が溢れていた、と。
 だが、それも一瞬。今の九峪は即座に暗闇にも対応できるし、この時代の生活を不便だと考えることもない。僅か三年の間ではあるが、九峪は九洲での生活に完全に適応していた。だから暗闇など障害となるわけがない。
 九峪は薄暗い中で当然の如く立ち上がり、部屋の外へと向かった。


「雅比古様、どちらへ?」


 部屋を出た瞬間に、入り口で待機していた合併軍の兵士が九峪に尋ねた。九峪もまた幹部級の扱いとなっているために、小事の手伝いをするための兵士が常に傍に控えている。


「ああ、一刻ぐらいの間、当麻の街の周りの地理を観察させてもらおうと思っている」


 兵士の問いかけに柔らかな口調で九峪は答えた。
 普段、亜衣、或いは藤那を筆頭とした合併軍の幹部達に向ける嘲るような態度とは違って、今の九峪の態度はひどく優しかった。
 それもそのはずか、名も知らぬ兵士相手に九峪が自分を偽る必要などは無いのだから。恐れるべき事は、かつての最愛の仲間達が九峪を守ろうとする事であるために、一介の兵士まで欺く必要は無い。いや、厳密に考えれば兵士達もまた偽ったほうが正道なのだろうが、現状で兵士達からまで反感を買うのは得策ではないと九峪は考えていた。戦場を共に駆ける事となる兵士達とは、一定以上の信頼関係を築いておく事が望ましいと。
 もしかすると、他者を欺き続けることに疲弊していたために九峪がそう考えているだけで、本当は兵士もまた邪険に扱うべきなのかもしれない。どちらにしても誰も完全な回答などは出せない問題ではあるが。


「そうですか。それなら私もお伴させてもらってもよろしいでしょうか」


 詰めていた若い兵士は、人好きのする笑顔を九峪に向けて言う。彼は九峪に対して好感を抱いていた。
 九峪の態度は酷く怪しいものではあるが、常に個人を個人として扱う。決して個人を有象無象と考えて無下にする事は無い。それは長い間、狗根国に虐げられ続けてきた人間にとっては新鮮で、まぶしく映った。例え九峪が皮肉を言おうとも、接してみれば九洲の民を虫けらのように扱った狗根国の支配者達とは根本から異なっていることが解る。
 幹部達に九峪は敢えて嫌悪されるような行動を取っているためにその事は理解されないが、一般の兵士達は違う。既に彼らの何名かは九峪が自らの上司として好ましいとさえ考えていた。そして、その殆どが九峪の近くでの仕事を受け持った兵士達でもある。


「今日は少し一人でいたいんだ。お前の仕事を奪ってしまうようで悪いけど、ここは譲ってくれ」

「しかし……」


 随行の申し出を断られた兵士は迷った。断られたという事実自体はそれほどの驚きではなかったのだが、断るにあたって九峪が軽く頭を下げたことに対して戸惑ったのだ。若い兵士は身分は勿論、年齢でも九峪の下に当たる。それにも関わらず、自分よりも目下の相手に簡単に頭を下げる九峪の行動が信じられなかったから。少なくとも、狗根国の支配者達ならばそんな事は有り得ない。
 やっぱり目の前の上司は変な人だと、若い兵士は再確認する。


「それに、俺に護衛は要らないだろう? 何かあった時に一人のほうがやりやすいからな」


 更に続けて軽い口調で九峪が言った。
 若い兵士はその言葉を不本意ながらも最もだと思った。彼は九峪の実力が、ただの兵士が束になっても敵うものではないと知っていたから。そして、そう考えてみると、自分は足手まといにしかならないのだと思えてきた。


「というわけで、俺は行かせてもらう。ああ、それとこの事は報告しなくていいからな。亜衣さんにでも言ったら、俺より先にお前が何か小言を言われるかもしれない。職務を放棄するとは何事だっ! ってな」


 黙考する兵士を傍目に冗談めかしてそう言った九峪は、兵士の横を通り過ぎて城下へと向けて歩き始める。


「あ……雅比古様」

「それじゃあ、な。何か起きたら直ぐにでも戻ってくる」


 結局、判断を下すことが出来なかった若い兵士は、少しばかり悩んだ後に九峪を追う事を諦めた。


「……本当に変わった方だ」


 そして九峪の背中を見ながらも、若い兵士は呟いた。このまま戦い続ければ、いつかは九峪の様に身分に深くこだわらない有能な者達が九洲を治世してくれるのだろうかと考えながら。



















 当麻の街の城壁。その場所で衣緒は十数名の部下と共に街の警護に当たっていた。
 未だ戦闘が終了してから一日しか経過していないために、狗根国が直ぐに動きを見せる可能性は低い。そもそも現時点で合併軍の情報が出回っているのかさえも怪しい。が、それでも気を抜くべきでは無いという彼女の姉の言葉に従って、衣緒はこの場所に立っていた。
 そう表現すると衣緒がいかにも受動的な人間であるような印象を受けるが、事実は若干、異なる。
 形式的には彼女は姉からの命令に従って警護を引き受けた事になっている。だが、実際のところ彼女は『自分は今後の細かな方策を決める話し合いに参加したとしても大した役にはたてないのだから、せめて肉体的な労働は引き受けておこう』という考えの下に行動していた。それは間違いなく彼女が、ただ受動的なだけの人間ではないという事実の証明となる。
 ともかく彼女は、そこかしこに設置された仄かに燃える篝火に照らされながらも薄暗い街の周囲を見渡していた。


「あと、何日で戦いが始まるのかしら……」


 欠けた月から漏れる月光はか弱く、辺りは真暗であるために彼女の視界の中には殆ど黒色しか映らない。だから衣緒は何とはなしに、近い将来に自分達はどうなっているのだろうという思いを込めて呟いた。
 当然、誰もその問いに答えない。十数名の人間が夜間の警護に当たっているとはいえ、一箇所に固まっているわけではなく、ある程度の距離を取って個々人が城壁の上で位置を入れ替えて巡回しながら街の外部を観察しているのだから。つまり、彼女の独り言を聞き取れるような位置には誰もいないのだ。
 まあ、誰も彼女の言葉を聞き取れないと解っていたからこそ、慎み深さを信条とする彼女が内心を口に出してみたのだろうが。


「……でも、結局はそんな事を考えても無駄なのよね。私は戦うことしか出来ないし」


 呟きながらも衣緒は視線を外側に固定したままに、当麻の街を円状に包み込む城壁の上を移動していった。監視というものは大抵が退屈なものであるが、その例にもれずに、彼女の視界には何ら目立ったものは映らない。
 城壁の上を延々と巡回しても変わるのは目に見える風景だけ。そして、その変わる風景さえも夜の暗さのために一様にしか感じられない。


「……私も少し、戦について勉強しておけば良かった」


 一度、独り言を口に出してしまえば、衣緒の口からは堰を切ったように言葉が続き出てきた。足を動かすたびに、彼女の唇からは言葉が紡がれていく。
 平常時の彼女ならば、例え一人であったとしてもここまで独り言を呟いたりはしないものだが、今に限っては初めての本格的な戦闘に緊張していたという要因が関係しているのかもしれない。


「ただでさえ年齢が低くて威厳が無いんだから……勉強ぐらいしておけば、お姉さま達にぐらいには――――え?」


 が、少しばかり歩いた後、彼女は場にそぐわない人物を見かけて呟きを止めた。
 彼女よりも頭一つ分ほど高い身長に、揺れる服の左袖。暗いために顔の細部までは見えなかったが、それが九峪であることは容易に知れた。だが彼女の知る限り、九峪は一昨日から働き続けていたので現在は休息を取っているはずだった。
 それが、どうしてこんな場所にいるのかという疑問が彼女の胸の中に生まれる。


「……雅比古さんですか?」


 確認の意を込めて衣緒は尋ねる。
 すると、その声が届いたのだろう。微動だにせず遠くの一点を見つめていた九峪は顔だけを振り向かせて衣緒へと向けた。夜の暗さのために、九峪の表情は窺えない。


「――――ああ、衣緒か。ご苦労様」


 そして、その声からも感情は読み取れそうにも無かった。何かを考えているのか解らない、掴み所の無い言葉。透明な意思。


「え? あ、いえ、仕事ですから」


 普段は会話の節々に皮肉を織り交ぜる九峪が、憑き物でも落ちたかのように邪気の無い言葉を返したことに驚きを感じながら、衣緒もまた言葉を返した。先ほどまで実の姉が手酷く洗礼を受けていた相手なので、衣緒は一体どんな嫌味を言われるのかと内心で構えていたにもかかわらず自然な言葉を返されて、拍子抜けしてしまった形となっている。


「そうか。狗根国が今すぐに行動を開始してくるとは思えないけど、これからも気を抜かずに頑張ってくれよ」


 そんな衣緒の様子に対して、気にする素振りも見せずに九峪は言葉を続ける。
 この時点で衣緒は、九峪の表情を覗き込める位置まで近づいていたのだが、それでも九峪が何を思っているのかは解らなかった。まるで九峪と自分の間に見えない靄の様な壁でもあるようだと、衣緒は直感的に考えた。その直感が宗像の血から導き出されたものであるのか、或いはただの気の迷いから生まれたものであるのかを衣緒は判断出来なかったが。


「はい。解っています」


 だから、ただ平静に衣緒は頷いた。彼女は内心での逡巡など表には出さない。何か不自然だと彼女は確かに感じていたが、外面に感情を見せる事を良しとしなかったわけだ。


「俺が言うまでも無かったみたいだな」

「構いません。実際に雅比古さんの方が戦闘の経験は多いのでしょうから」

「そう言ってもらえると助かる」


 他愛も無い話を続けながらも、彼女は九峪の表情を観察していた。だが、何も目立った変化は見えない。いつもの様に唇を軽薄に歪め、そして滅多に相手の目を見て話をすることの無い青年が、彼女の目の前にいるだけだった。普段通りの九峪。
 衣緒は微かな違和感を感じながらも、それが何であるのか答えを得る事が出来ないでいた。


「いえ、事実ですから。私はあの時にあなたに負け――――」


 と、答えながらもそこで衣緒は思い出した。何故、真っ先に問うことが無かったのか解らない程に簡単な疑問を。


「どうした?」


 急に黙り込んだ衣緒を不審に思ったのか九峪が問う。
 衣緒は、その言葉を聞いてからゆっくりと口を開いた。


「雅比古さん、あなたはどうしてここにいるんですか?」


 当然と言えば当然の質問。衣緒が知るだけでも九峪はここ数日の間、ろくに休憩を取っていない。そして、やっと与えられた休憩の時間に、どうして目の前の男は体を休める事無く街を徘徊しているのか。
 人は眠らずに働き続けることなど絶対に出来ない。だから、どのような立場のものであっても必要最低限は休まなければいけない。衣緒でも知っている常識。休める時に休むことは兵士として当然の行いなのだ。そうしなければ戦いにおいて実力を発揮することなどは出来ないのだから。
 それにも関わらず九峪は休憩を取っていない。それは衣緒にとって納得の出来るものではなかった。


「さあ、眠れなかったんじゃないのか?」

「眠れなかったとしても眠ってください。それとも雅比古さんは眠らずとも生き続ける事ができる仙人か何かなんですか?」


 のらりくらりと言葉を返す九峪の態度に、少しばかり腹が立った衣緒はきつめの口調で詰問する。


「いや、俺は間違いなくニンゲンだな」


 が、やはり九峪はにやついたままだ。衣緒がどのような態度であろうとも、彼女からしてみれば悪い意味で自我を貫いている。
 こんな男に自分は成す術も無く組み敷かれたのかと、衣緒は自分を恥じた。


「……とにかく、早く部屋に戻ってください。これ以上、何か言うのなら私にも考えがあります」


 だから、早めにこの会話を切り上げることに決めた。


「考え? 具体的に言うと何だ?」

「明日にでも伊雅様に、雅比古さんが怪しい行動を取っていたと報告させてもらいます」

「ひゅう――――怖いな。だけど、見てもいないことを報告するつもりなのか?」

「こんな時間に、こんな場所にいるのですから全くの嘘という訳ではないでしょう。常識的な人は、夜中にこんな場所には来ませんから」

「常識、か。言ってくれるな」

「私にも仕事がありますから、早めに帰ってもらいたいのですけど?」


 会話を楽しんでいるような節すら見受けられる九峪の態度に苛立ちながらも、衣緒は努めて冷静に会話を続けた。いや、続けようとしているのだが、それでも普段の彼女との若干のズレは否めない。九峪は、まるで衣緒が好ましくない行い全てを知っているかのように、的確に彼女の感情を逆撫でる行動を実行するのだから。


「解った解った、そんなに怒らないでくれ。直ぐにでも帰るから」


 と、そこで九峪はやっと頷いた。明らかに会話を楽しんでいたように思える口調に、衣緒は更に苛立った。


「本当に帰ってくれるんですね?」

「ああ、部屋には帰る。それとも俺の部屋まで連れて行ってくれるのか?」

「まさか。私は巡回を続けます。これ以上は他の兵士との連携にも支障が出ますから」

「それは残念だ」

「そうですか。それでは私はこれで」


 早くこの場を離れたいと言う考えの下に、衣緒は会話を打ち切った。そして直ぐにでも九峪から背を向ける。最初はいつもと違うような雰囲気を纏っていると感じたが、そんなものは気の迷いであって、例え自分よりも実力者であっても九峪だけは信用してはいけないのだと考えながら。
 だが、それ故に彼女は聞き取れなかった。
 直ぐにでも、その場所を離れて言ったために九峪の僅かな呟きを聞き取ることが出来なかったのだ。
 九峪の口から紡がれても、即座に風に溶けて消えてしまった言葉は、


「……気配は消していたつもりなのにな。それだけ俺が動揺してるってことなのか」


 そう呟いて九峪は、街の外へと向かって跳んだ。




















 当麻の街から僅かに離れた場所に存在する小高い丘陵。
 その場所には、夜の暗闇の中でも一際異彩を放つ赤色があった。それは欠けた月の浮かぶ夜空へと向かって、吸い込まれるように伸びていく大きな炎。耶麻台国の象徴である炎が、虫の音と風の凪ぐ音しか聞こえない静寂の中でパチパチと音を立てながら燃えていた。


「……ははっ」


 その炎――――当麻の街での戦いで命を落とした兵士達の墓標を見つめながら九峪は笑った。いつもの様に彼らしく嘲るような声で。だが、普段と比べてその声は小さい。
 九洲の地で炎は聖なる存在であり、故に九洲での葬儀は火葬が主となる。つまり、この場所で行われているのは典型的な戦死者の弔いである。
 そんな場所に九峪が一人で立っている理由は複数存在する。理由の一つは間違いなく、死した兵士を弔いたいという気持ちが彼の心の中にあったためだ。九峪がいくら表面上、軽薄な男を装っていたとしても、彼の根の部分はどこまでも九峪雅比古でしかありえないのだから。誰かが倒れたならば心を痛め、誰かが命を落としたならば内心で慟哭する。最早、九峪がそれを誰かに見せるような事は無く、一人で抱え込み続けるのだとしても。
 だが、理由はそれだけではない。彼がこの場所に立っている理由はそれだけでは決して無いのだ。現在の彼の心を支配している感情には、


「今、ここで死んだ人間の中には、過去に最後まで生き残った奴もいたかもしれないのに――――」


 後悔と懺悔というモノも含まれている。
 九峪は時を越えて過去へと遡り、この場所に立っている。過去に耶麻台国が滅びてしまったから、その定めを覆すためにこの場所に立っている。たった一人だけで、一度は指先から零れ落ちた砂粒の全てを拾い集め直すために。
 それが助けとなる仲間も存在しない中、ただ一人で行わなければならない途方も無い戦いである事を九峪は理解していた。そして、自分は絶対に諦めてはならない戦いなのだとも認識していた。
 だが、同時にそれが手酷い裏切りを含んでもいることにも気がついていた。つまりは確かに過去に邪馬台国は滅びたが、全ての兵士が息絶えたわけではないのだという事実に、だ。
 九峪が蛇蝎に復讐を為す為に戦いを挑んだ時にさえも、彼を守るために共に奇襲を仕掛けた兵士達が僅かではあるが存在していた。或いは、既に九峪の元から離反して戦いの無い場所で平穏に暮らしていた者達も、少ない人数だとしても確かにいたはずだ。彼らの中の何割かは邪馬台国が滅びてからもなお、生き残り続けたことだろう。
 だが、九峪は過去へと逆行した。
 それは即ち、過去に生き残ったはずの者達の運命すら改変する事に他ならない。
 例えば、九峪がこれから先に耶麻台国の完全な復興を為しえたとしても、その時に九峪が逆行を行わなければ生き残っていたはずの人間が戦闘で命を落としている可能性は充分に考えられる。過去に数万の屍を代償に得た勝利を、九峪が数千の屍だけを代償に得たとしても、その数千の死者の中に本当ならば死ななかった兵士が入っている可能性は絶対に存在するのだ。
 本当ならば死ななかったはずの兵士からしてみれば、それはこの上ない裏切りだろうな、と九峪は考えていた。九峪雅比古が望まない結末を利己的にも修正するために、命を落とさずとも良かったはずの人間の命を再び天秤にかける自身の行為。吐き気がするようだ、と。
 結果として過去よりも多数の人間を救えたとしても、過去に幸せだった者達の何割かを不幸にしようともしている自身の決断。お前はいつからそれ程に偉くなったのだと、九峪の心の一面が自身を罵倒する。
 目まぐるしく、言葉を変えて、姿かたちを変えて、九峪の内心では自身を貫く言葉と意思と映像が乱立していく。身近にいた者が再び生きている姿を見たいから、名も知らぬ兵士の命を犠牲にするというのかという怨嗟の声。首筋を切られ口腔から粘度の高い赤い血を垂れ流して絶命した兵士の怨恨の視線。何よりも薄汚く思える、誰も救えなかった自分。
 考えれば考えるほどに思考は混乱していく。罪に似た暗色が心を覆いつくしていこうとする。九峪は自分がある意味では間違っているのかもしれないと思い始めていた。
 だが、それでも、


「これで俺はめでたく理想を語る資格も失ったんだろうな」


 自身の道を変える事は出来ないのだと、九峪は一人で悟った。
 例え万人を救いたいという言葉を吐いていた過去の自身を否定する事になろうとも、自分の行動が仲間であった者達の誰かにとっては裏切りであるとしても、それでも自分は利己的に目に映るかつての仲間を救うのだと。緩やかな風が凪ぎ、墓標である積み上げられた木々を燃やす大きな赤い炎が、吸い込まれるように空へと消えていく丘陵にて決意したのだ。
 自分が最も愛していた者達を、何を犠牲にしても守ろうとする思想は崇高ではあるかもしれないが、同時に手酷いエゴを含んでいる。それは仲間の中で、最優先で守るべき者とそうでない者とを分類する愚考に他ならないからだ。
 万人を救うという言葉を嘘偽り無く本心から吐いていた人間が、仲間の誰かと誰かを天秤にかけるなんて皮肉なものだと九峪は思った。少なくとも、ただの高校生だった頃の自分が今の姿を見たならば決して許しはしないだろう、と。
 そして同時に、最初から理想を語る意思などは無かったが、それでも理想を語る資格までも失って少しだけその事を悲しいとも思った。いや、悲しいというよりも寂しいと表現した方が適切であるかもしれない。
 だが九峪はすぐさまに首を振り、弱気な事などは考えるなと思い直して当麻の街へと向かって歩き始めた。
 背を翻した九峪を照らす炎は、戦死者達の弔いの炎は、ただ緩々と燃え続けていた。