「雅比古からの合図はまだか?」


落ち着いた声色で伊雅は、慌てた様子も無く堂々と傍らに控える音羽に向かって問いかける。
彼ら耶麻台国復興軍は、当麻の街の南西に陣を構えている狗根国兵二百強の後方に広がる森林に身を潜め、じっと戦闘の始まりを待ち続けていた。


「予定とは違う場所で火の手が上がったという報告はありましたが、計画通りの場所でのお二人からの合図は確認できていません」

「……別の場所からの火の手か。敵は火計を使ってきたのかもしれんな」


音羽の返答に、伊雅は顎を手で撫でながらも眉根を寄せて唸る。

彼ら復興軍は、九峪と香蘭の二人が用いた火魅子という餌に誘い出された敵部隊に、林を丸ごと焼き去る事によって打撃を与えたのを確認した後、手薄になり恐慌状態に陥った残った狗根国兵を叩くという手筈になっている。
少しでも攻撃の開始が早ければ、敵は未だ混乱に陥ってはいない万全に近い状態で対応してくるし、逆に遅ければ敵が策に乗せられた事に気付き、時が経つにつれて冷静さを取り戻していく。
最大の好機はほんの一瞬であり、その隙を見逃せば復興軍の被害は甚大となる。
ゆえに、伊雅は判断を間違えるわけにはいかないのだ。


「伊雅様、どうしますか?」


音羽もまたその事実に気付いているのだろう。
神妙な面持ちで伊雅の判断を仰ぐ。


「そうだな――――やはり当初の予定通りに事を進める。雅比古からの合図があるまでは待機を続ける」

「解りました」


深い伊雅の声に音羽も頷く。
二人は、そのまま会話を終了させ辺りを無言が支配し始めたが、


「伊雅様、計画した場所から火の手が上がったのを現在確認しました」


薄暗い森の中から、黒装束に身を包んだ清瑞が走り寄ってきて報告する。
僅かながら彼女は息を切らしており、緊張した様子が伺える。
音羽もまた、清瑞の言葉に数瞬、身を強張らせた。

清瑞からの報告を聞いた伊雅は目を見開き、


「よしっ、復興軍はこれより、敵の背後から奇襲をかける!」




















「凄まじいな……あちら側は本当に、狗根国兵三百を相手にして打ち破ったようだぞ、衣緒」


遠眼鏡と呼ばれる仙宝で、当麻の街の城壁の上から東の森を見ていた亜衣は、傍らに立つ衣緒へと、その森が狗根国部隊を招きいれた瞬間に燃え始めた事を告げた。
常に冷静な態度であらんとする彼女にしては珍しい、呆けた様な口調である。


「あの時に見た人が行ったのなら考えられなくもありませんね。お姉さま、それよりも早く急ぎましょう。これからが私達の出番なのですから、急ぎ星華様の所まで行かなくては」


呆然とした様子の亜衣に対して僅かに眉根をよせながらも衣緒。
姉の思考を現実へと戻すために控えめながらも言葉を発する。

それもそのはずで、彼女達には時間が無い。
今回、衣緒達が九峪によって提案された作戦では、敵の指令系統が混乱した一瞬の隙をついて伊雅が率いる復興軍と、星華、藤那の両名が率いる再興軍が前後から残った敵部隊を挟撃し、反乱する時間を与えずに殲滅する手筈となっている。
今は一分一秒が惜しいのだ。


「ああ、そうだったな。直ぐに兵を連れて正門へと急ぐぞ」


衣緒の言葉で思考を再び目の前の戦闘に切り替えなおしたのか亜衣はとたんにきびきびとした行動を開始し、城壁で狗根国の監視と防衛の任に就いていた兵士たちを即座にまとめ上げて、正門へと向かわせる。

何十という兵士達が、これからの戦いに向けて意気込みながらも駆けた。





















「準備に抜かりは無いな! これより敵残存部隊を殲滅するために打って出る! 敵を壊滅に追い込むのは我々だと思え! 他の部隊、並びに作戦を共に行う友軍に出遅れるなよ!」


藤那は威風堂々とした態度で馬上から再興軍兵士達を見つめ言い放った。
言葉の中には、功績を立てようと肩に力を入れすぎている嫌いもあるが、それでも兵士の士気を上昇させるという点から考えれば申し分ない口上である。


「それでは行くぞ! 突撃!」


そして大きく腕を上方へと掲げた後に、狗根国兵たちが陣を構える方向に向けて一息で振り下ろし宣言した。
押っ!!という低く腹に響く兵士達の声は轟音となり、当麻の街を揺るがし始める。
閉じられていたはずの正門は開け放たれ、同時に何人もの再興軍兵士が陣形を崩す事無く疾走し始めた。

藤那がちらりと横を見れば、星華達の部隊も同じく行動を開始していた。
彼女にとってこの戦いを勝利するのは当然。
勝利した後に、自らの発言力を増大させるためには藤那の部隊が出遅れるわけにはいかない。
だからこそ、彼女は再び声を上げて力の限り叫んだ。


「勢いを維持したままに敵を打ち破れっ!」


雄叫びを上げながらも、藤那、星華の両名が率いる復興軍は直進し、そしてやがては狗根国兵が陣を構える草原まで到達する。
精兵たる狗根国兵であっても篭城しているはずの敵が、城から逆に打って出るという可能性を十分に考慮する事はできずに、続々と討ち取られていく。

だが、狗根国部隊全体の四分の一程度を復興軍が蹂躙し終えて、やっと狗根国側は連携した動きで反撃を始めた。
一旦、陣形を取り直した狗根国軍は純粋に強い。
復興軍に相対してコの字型の陣形を構え、突撃してきた復興軍の勢いを殺すべく守勢に転じて反撃の機会を虎視眈々と狙い始める。
しかし、


「ふん、それでもこちらの予定通りなのだがな」


怒号飛び交う戦場の真ん中で、馬上に座した藤那は唇を緩めて笑った。
そう、ただ奇襲一つだけで狗根国兵を打ち破れるなどとは藤那は最初から考えていない。
今回の藤那達の役割は、敵の注意を当麻の街側に釘付けにする事でしかないのだ。

藤那の思考を知らぬままに狗根国部隊は復興軍を押し返し、逆に前進を始めた。
復興軍の攻撃を無力化し、打って出てきた復興軍を逆に撃破せんと確実に一歩一歩前へと進み始める。


だが――――


「――これで詰みだな」


――――藤那が呟いた瞬間に狗根国部隊の後方が分断された。
最初の藤那達の奇襲と同じく、狗根国兵は続々と討ち取られていく。
予想されぬ場所からの攻撃に狗根国部隊は混乱に陥り、一度完成させたはずの陣形が再び崩れ始めた。

それを行ったのは伊雅率いる復興軍に他ならない。
そもそも、藤那達再興軍が奇襲であるにも関わらず、雄叫びを上げながら進軍したのも、この奇襲のための布石でしかない。
奇襲において雄叫びを上げる事は敵に早くに感づかれ、ひいては敵の対応が早くなるために愚策でしかない。

だが、再興軍は何故あえてそれを行ったかといえば、敵の注意を一身に集めるためだ。
敵の視点を再興軍側の一方向にのみ集中させ、奇襲を行うのに適した、ある程度熟達した兵士が多い伊雅率いる復興軍は、敵に気付かれる事無く背後から忍び寄り、無防備な敵を全力で叩いたのだ。

一度の奇襲ならば精兵である狗根国兵であっても防ぐ事は可能だが、その奇襲さえも布石として更なる練度の高い奇襲を受ければ対応する事など二百強の人数では不可能。
一旦崩れた陣形を再び構えなおす時間を与えずに復興軍は敵陣の奥深くまで切り込んでしまい、後退を始めたはずの再興軍もまた息を吹き返して、狗根国部隊へと襲い掛かる。

これだけでも狗根国側にとっては致命的なまでの痛手であるのに、狗根国側にとっては不味い事に当初、予定していなかった力が復興軍側には加わっている。
大陸でも五本の指に入る拳法家である紅玉の参戦である。
一騎当千を地で行く、驚異的なまでの戦闘力で狗根国兵に反撃を許さず、尚且つ味方に戦闘経験を積ませるために適度に力を抜いて、敵陣を切り崩している。

更には影の如く戦場を疾走し、次々に敵を音も無く殺していく清瑞の存在も忘れてはならない。
九峪が最初に立てた計画では火魅子の囮を行う人物は山林での機動力に優れた清瑞であった。
しかし当麻の街からの帰りに、それ以上の驚異的な身体能力を誇る香蘭と出会ったために、香蘭がそのまま囮役に変更され、清瑞は奇襲部隊へと回された形になった。
敵味方入り乱れる混戦、更には深夜の戦闘は彼女にとって最も得意な分野であるために他者の追随を許さない戦果を上げている。

瞬きする間に次々と狗根国兵は討ち取られていく。

戦闘の流れは最早引き戻せない段階まで到達し、狗根国兵の残存数も五十を切った正にその時、狗根国側にとっては更に悪夢としか言いようの無い事態が起きた。


復興軍と再興軍に前後から挟撃を受けている狗根国部隊の側面に方術による攻撃が行われたのだ。




















「あれは何なの!?」


敵を殲滅する一歩手前の状況で行われた風の方術が、星華の目の前で残った敵兵を切り刻んでいく。
重武装の狗根国兵は倒れはしないが、それでも致命的な隙を生み出し、結果として他の一般兵によって討ち取られていく。

遠方からの方術は、優れた術士である星華でさえも驚きを隠せないほどに強大であり精密。
目標を違える事無く、次々と敵の力を削いでいく技術に星華は戦慄した。


「……解りません――――ですが、味方であるようです」


傍らに控えて戦況を観察していた亜衣が告げる。
彼女もまた比類なき術士。
行われている方術がどれほどのレベルなのかは肌で感じている。


「復興軍だと言うの?」

「恐らくは……いや、この方角は――――」


星華の問いに答えようとした亜衣であったが、途中で言葉を止め何かを思案し始める。

しかし、彼女が口を開くよりも早くに、方角にして当麻の街から南側の暗闇から二つの影が飛び出てきた。
一人は白い外套に身を包んだ幼さの残る女性、香蘭であり、もう一人は奇妙な蒼い服を着込んだ青年である九峪。
二人は、突然の参入に一瞬動きを止めた両陣営を気にも留めずに、狗根国部隊の最央へと直進する。


「やはり! あの時の男、雅比古です!」


亜衣が遠眼鏡を用いて、二人の姿を確認した瞬間に一方的な戦闘が始まった。
近寄ってくる敵も、逃げ出す敵も一撃を用いて絶命させる超人的な技を用いて二人は、残った敵兵を捻じ伏せていく。
一人倒れ、二人倒れ、三人が倒れ、そして遂には動く敵が消えた。

敵兵の屍の山を築き上げた香蘭と九峪の二人は、呆然とする復興軍、最高軍兵士を見渡しながも佇む。

そして、誰かが口を開くよりも早くに白い外套を纏った香蘭は右手を掲げ、


「――――勝利を!」


周囲に響き渡る大音量で叫んだ。

やや発音がおかしかったような感じのする言葉だったが、戦闘による興奮状態にある兵士達にはそんな事は関係ない。
耶麻台国の象徴である巴日輪の刺繍された外套を身に纏った若い子女が、戦闘の勝利を厳かに宣言したという事実だけで、狗根国に抑圧され続けてきた彼らの心は打ち震える。
一瞬の静寂の後に、狗根国兵の息絶えた草原で怒号にも似た歓声が、どこからともなく湧き上がった。

この時、当麻の街での戦闘は狗根国側の全滅という結果で幕を閉じた。




















「これで、よかたのか?」


周囲で誰もが歓声を上げ回る中で香蘭は、首を傾げながら隣に立つ九峪に向かって尋ねた。


「ああ、少しばかり発音が間違っていたけど反応を見た限りでは十分だ」

「そか。よかたよ」


試験の結果を気にする子供の様な表情で九峪の返答を待っていた香蘭は、九峪の言葉を聞いて目に見えて安堵した表情で顔を綻ばせた。


「……まあ、香蘭は長い話をするのは難しいから、これくらいのフライングは問題ないだろうな」

「ふら……んぐ?」

「うん? ……ああ、悪かった。これは倭国の言葉じゃなくて俺の故郷の言葉だから気にしなくていい」


気が緩んでしまったのか、英語を使ってしまった九峪は心の中で軽く舌打ちしながらも、香蘭には何でもないといった表情を向けて告げた。
香蘭はその言葉を素直に信じたらしく軽く頷く。


「さて、どうしますかね――――って、怖いのが来たかもしれないぞ、香蘭」


夜空を見上げながらぼんやりと呟いた九峪だったが、苦笑しながら一点を見つめた。
その視線の先には、馬に乗り九峪達へと向かってくる藤那の姿や、歩調を速めて同じく九峪達へと近づいてくる星華達の姿があった。


「久しぶりだな、雅比古」


馬上から藤那は険の含まれた声で九峪と傍らに立つ香蘭を見つめる。


「いや、こんな良い夜に再開できて嬉しい限りだ」


対する九峪はへらへらと笑いながら返答する。
戦闘をしていた時とは真逆の九峪の軽薄な表情は、その二面性を知るものには背筋に冷たい何かが走る様な恐怖に似た何かを感じさせる。

だが、藤那とてその程度で引きはしない。


「――――それで、これはどういう事だ?」


周囲で歓声を上げる兵士達を見つめ、藤那が問う。


「めでたく狗根国を追い払えたから、皆も嬉しいみたいだな」

「……私が言っているのはそんな事じゃない」

「悪い。俺は頭の回転が遅いらしくて良く解らないんだ」

「お前――――」


藤那にとって手柄を横から攫われてしまった形となるだけに怒りは収まらない。
そんな彼女の精神状態を気にする事無く、のらりくらりとした九峪の態度に、反射的に藤那が怒鳴りつけるよりも早く、


「これはどういう事ですっ!?」


元々、吊りあがっている目を更に怒らせながら星華が九峪と香蘭のいる場所まで詰め寄ってくる。
しかし、それでも九峪は表情を変える事は無い。


「何かおかしな所でもあったか?」

「そんな事、言わなくても解っているでしょう!」


先ほどの藤那と同じ会話を展開する星華。
傍らに控える亜衣も、九峪の体に穴が開くほどの視線で睨んでいるし、衣緒もまた控えめながらその視線を九峪へと向けている。


「いや、解らなくて悪いな」

「あなたは――――」


戦闘による興奮も手伝っているのだろう、星華が更に九峪との距離を詰めようとしたその時、


「星華殿、少し私に話をさせてくれ」


先に冷静さを取り戻した藤那が口を開き、星華を制した。


「星華様、少し落ち着いた方が……」


続いて、衣緒が控えめながら主の怒りを静めようとする。
二人に言われて、星華は渋々ながらも落ち着きを取り戻し、後方へと下がった。


「では、聞こう。雅比古、そちらの方は」


馬上から降りて、地面に立った藤那は香蘭を真正面から見据えながら、九峪に対して問う。
見つめられた香蘭は首を傾げている。


「こっちは、火魅子の資質を持つ香蘭だ。伊雅さんが持ってる耶麻台国に伝わる神器、天魔鏡で既に真偽は確認している」


そ知らぬ顔で爆弾発言を投下する九峪。

一瞬して、その場にいた九峪と香蘭以外の全員の表情が驚愕に染まった。


「何だとっ!?」

「だから、こっちの香蘭は復興軍に二人いる、火魅子の資質を持っている子女だって事だ」

「今、何と!? 火魅子の素質を持つ子女が二人いる!?」


藤那と九峪の会話に横から割って入ってきて亜衣が九峪に詰め寄る。


「ああ、伊万里と香蘭の二人だ。どちらも耶麻台国の王族の血筋を見極められる天魔鏡で確認済みだ」

「そちらにも二人いたというのか!?」


信じられないといった表情で亜衣。
まるでこの世あらざるモノを見てしまったかのよう両の瞳は見開かれている。
だが、無理も無いだろう。
ただでさえ、待望され続けても現れる事が無かった火魅子の資質を持つ子女が彼女が知る限りで四人となったのだから。
九洲の歴史に関する知識が深ければ深いほどに驚きは大きくなる。


「あ――――そっちにも火魅子の資質を持つ子女がいるのか?」


僅かに言葉を途切れさせた九峪が、調子を一瞬で元に戻して尋ねる。


「ああ、こちらの星華様と、藤那様の御二人だ」

「いや、凄い奇遇だな」


二人を見つめた九峪はわざとらしい笑みを浮かべて驚きを口にする。


「お前は知らなかったという事か?」


九峪を見つめ、探るような視線で藤那。


「ああ、知っているわけが無いだろう? 俺は九洲の人間じゃないからな」

「それは――――」

「それよりも早く兵を街に戻したほうが良いんじゃないか?」


何かを問いかけようとする藤那の言葉を遮り、九峪。
正論であるが故に藤那もまた強く返せない。


「詳しい話は街の中でするべきだろう。伊雅さんとの顔見せもあるだろうし、色々と話し合わないといけない事が多いからな。というわけで、戻るぞ、香蘭」


九峪は藤那の返答を聞く事無く背を向けて、復興軍の下へと香蘭を連れて歩き始めた。