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月明かりの下、森の木々の隙間からぼんやりと見える数百に及ぶ狗根国兵の集団。
その姿を確認して九峪は自らの口元がほころんだ事を自覚した。
僅か数日の期間であったが、現在まで彼は煮え滾る己の復讐心を理性で押さえ続けていたのだ。


――――これでやっと戦える


敢えて敵兵の一人を傷つけるだけで見逃した事で、相手側に『火魅子が当麻の街から脱出した』という情報を流し意識をこちらへと向ける。
それが九峪の考えた今回の作戦の根幹。
全ては、敵が誘いに乗るか乗らないかの賭けだった。

あらゆる伏線を、ただこの一手のためだけに使った。
再興軍、復興軍は、敵をこの場所におびき寄せるためだけに動き――――そして成功した。
火魅子という極上の餌に飢えた獲物は喰らいついたのだ。


「悪いが――――殺さず、なんて甘い事は二度と言わないからな」


目に映る何百と言う黒い人影を見つめて、九峪雅比古は哂った。
酷く禍々しくもあり、酷く寂しげでもある、相反する二つの表情を顔に浮かべて。

彼の心は未だ癒えていない。
彼の抉られた傷を癒せる者は失われてしまったから。

傍らに立つ香蘭は九峪の言葉を完全には聞き取れなかったが、顔を右手で覆いながら眼下にたむろする狗根国部隊を嘲笑するその姿を見て、何故か九峪が泣いているのだと思った。


「……どうした、香蘭?」


黙り込んだ香蘭をいぶかしんで九峪が尋ねる。
もう何度と無く、過去に戻ってきてから浮かべた軽薄な笑みを添えて。


「なんでも、ないよ」

「そうか――それなら良いんだけどな。ところで、俺たちが何をするかは覚えているか?」


香蘭の内心を推し量るように黙っていた九峪だったが、大したことではないと判断したのか話題を変えた。


「えと、敵をひきつければ、よいのか?」

「正解だ。詳しく言えば、敵の判断能力を奪ってから、あの場所まで敵を誘い込むわけだけどな」


香蘭から視線を外して、再び狗根国部隊を見つめなおしながら九峪。
敵の姿を見るたびに、その口元が歪む。


「雅比古さん、は、怒ってるのか?」


不意に香蘭が呟いた。
その言葉を聞いた瞬間、九峪の表情が僅かに固まる。


「……どうしてそう思ったんだ?」


暫く、香蘭の言葉に呆然としていた九峪だったが静かな声で尋ねた。


「ただ、なんとなく、そうおもたよ」


首を傾げながら、自分がどうしてその考えに至ったのかを理解出来ないように香蘭。
しかし、九峪は返答を聞いて理解した。

香蘭は倭国語が完全に理解出来ない。
それ故に相手の真意を、表情や動作、纏う雰囲気などから読み取ろうとする。
よって九峪がどれだけ皮肉を言っても、言葉の中に本当に敵意が無ければ気にしないし、九峪が平静を装っていても、その内心が憎悪に囚われていれば断片的ながらも察知する。

心の純粋さから、耶麻台国の仲間の中で香蘭が一番過去を詮索されにくい相手だと考えていた九峪だったが、その考えが間違いであったと訂正した。
言葉が通じないからこそ九峪の巧みな話術に惑わされず、相手の隠された感情を読み取れる香蘭は、過去の仲間と距離を置こうとする九峪にとって最も危険な相手であるかもしれないと。

何故ならば、一度でも心の奥底を覗かれてしまえば、きっと九峪は相手を拒絶できなくなるから。





















「伊雅様、敵に動きがありました。当麻の街の包囲に百、街の正門の前に二百を置いて、残りの兵士は全て東へと向かっています」


当麻の街の南西に位置する湿地帯。
その場所の比較的、平坦な場所に構える復興軍三百の、更に中央に腰を据える伊雅の前に片膝をつきながら清瑞が落ち着いた声で報告する。
戦闘が開始されるまでは僅かに緊張した素振りを見せていた清瑞だったが、今は既に普段通りの態度に戻っている。

「ふむ、ここまでは雅比古の言葉通りということか」


年長者に特有の威厳のある、落ち着いた声で頷きながら伊雅。

戦いが始まる前に、九峪は伊雅に向かって言った。
『二百、或いはぎりぎり三百までなら引き受ける』と。
たった二人で二百を相手にするというのは蛮勇でしかないと、最初は思っていた伊雅であったが、ここまで九峪の作戦に沿った行動を敵が行えば、九峪という男の慧眼を認めないわけにはいかない。

九峪を褒めたような伊雅の言葉に、清瑞が馴染みの深い知り合いでなければ解らない程度の、苛立ちの篭った表情を浮かべたが直ぐに打ち消した。
その様子を片目で見ていた伊雅だったが、清瑞もまた九峪の能力を渋々なら認めた事を悟った。

決して素性を語らず、何に対しても目立った反応を見せない不可思議な男。
耶麻台国に肩入れし、狗根国と敵対する事を望む奇妙な服を着た男。

行動の一つ一つが異端でありながら、その全てが耶麻台国復興のために向けられている。
火魅子の資質を持った子女を見つけ出し、天魔鏡という神器を守り、伊雅でさえも知り得ない何かを知っている様なこげ茶色の瞳は、時折深く沈みながらも失った何かを懐かしむ様な暖かい光を浮かべる。

不安定。
九峪という男を一言で表すとすればこれ程に相応しい言葉は無いだろう。

伊雅は外見から九峪の年齢を二十歳前後だと推測していたが、その年齢の男子ならば普通は何かしらのモノに興味を持つ。
金であったり、名誉であったり、或いは異性であったり。
むしろ、それが正常な反応だろう。

だが、不気味な程に九峪には何も無い。
何か大事なものがぽっかりと抜け落ちてしまっている、がらんどうな精神。
地位を欲さず、名誉を欲さず、ただ戦いのみを求めている。

耶麻台国にとって敵にならないという事だけは理解できるが、その他の情報は全てが不明。


「――――いや、間違いなく雅比古は何かを偽っている」


ふと、そこで声に出して呟く伊雅。
九洲のために戦う必要の無い旅人が、あれ程までに固執して狗根国に憎悪を向けるのだから、誰であっても九峪が何かを隠している事は解る。
だが、それを問おうとしても九峪は答えないのだ。

『過去は決して語らない』と言って。

強固な意志で宣言されてしまえば、最早、伊雅にはそれ以上問いただす方法は無い。
九峪の神懸った指揮能力、戦闘能力は絶対に手放すわけにはいかないからだ。


「難しいものだな……」

「伊雅様?」

「む、何でもない。それよりも準備は出来ているな?」


自らの思考に没頭しかけていた伊雅であったが、清瑞の言葉に目の前の戦いに集中しなおす。
九峪の存在は確かに伊雅の頭を悩ませるが、狗根国との戦いに比べればさして問題ではない。
そう区切りをつけて、伊雅は作戦通りの行動を開始した。


即ち――――


「これより南へと迂回しながら、目的地への移動を開始する!」




















既に日は沈み、薄暗いというよりも何も視認出来ない森の中。
十数人の狗根国兵が隊列を組み、山の中を捜索している。

つまりは、狗根国部隊の半数を使った大掛かりな山狩りだ。

九峪は気配を殺しながらも、その集団に隙が出来るのを待っていた。
傍らにはやはり無言の香蘭が控える。

九峪、香蘭は強い。
それこそ並の狗根国兵士ならば瞬殺できる戦闘技能を所持している。

だが、だからといって真正面から狗根国兵士二百に勝てるかといえば、敗退するだろう。
或いは良くて相打ちか。

戦い続けなければならない二人が危険を冒してまで、そのような暴挙に出るわけなど行かない。

ならばどうすればいいか。
答えは簡単だ――――敵を集団としての特性が活かされない場所に引きずり込めばいい。

二対二百では敗北するが、二対二を百回繰り返す事ならば十分可能である。
森の中に敵を誘い込む事で、敵は整然とした隊列を組む事が出来なくなり部隊としての利点は消失する。
また、生い茂る木々は敵集団を分断し各個撃破が容易になる。
対して九峪達は、木々に隠れて楽に一時離脱する事が可能となる。

複雑な地形の森の中では、集団として力は薄れ、個としての力が強まるのだ。


「……仕掛けるぞ、香蘭」


集団を観察していた九峪だったが、小声で香蘭に向けて言った。
右手には小石を数個握っている。


「わかたよ」


同じく香蘭も小声で頷く。

二人共に、移動しながら微かな物音さえも立てていない。


「俺は左から、香蘭は右からだ」


九峪が右腕を振るう。
ヒュンッという音を立てて飛んでいく小石はやがて、狗根国兵士のいる場所の近くにあった繁みにぶつかり、ガサッという音をたてる。


「な、何だ!?」


敵は自然と、音の発生源である場所、つまりは九峪達とは正反対の方向に向かって身構え――――


「消えろ」


背後から襲い掛かってくる九峪と香蘭に対応できずに、次々と絶命していく。
一人死ねば混乱は広がり、更に一人死ねば狂乱に至る。

香蘭、九峪程の強者から奇襲を受けて一般兵が抵抗できるはずも無い。
僅かな時間が経過した後、その場所で動く影はただ二つとなった。


「香蘭、次に行くぞ」


何ら感慨を抱く事無く、二人は即座にその場所を離れ次の戦いへと移った。




















「多李敷様、一番小隊から五番小隊まで全て報告が途絶えました!」

「何だと!? 既に五十だぞ!?」


多李敷は火魅子が確認された付近の森に陣を構えなおし、周囲の徹底した捜索を行っていた。
だが、捜索に割いた八十の人員の内、実に五十が連絡を絶つという事態に驚愕を隠し切れない。


「流石は火魅子という事か……雑兵では相手にすらならん」


彼の中で敵は既に火魅子となっていた。
屈強さで知られる狗値国兵士を何十人と葬っているのだから、当然の推測であると言える。

兵士の損傷は痛手だが、火魅子捕獲の誘惑の方が強い。


「まずは、隠れられているのが厄介だな……よし、火を放て!」


現在までの狗根国兵士の被害から敵の戦闘能力は恐ろしいものがある事を多李敷は計算していた。
そんな相手と周囲を遮蔽物に覆われた森の中で戦うのは愚策でしかない。

ならば森ごと焼き払ってしまえば、それで事は足りる。


「待機した部隊にも連絡だ、増援で百をこちらに来させろ」

「百ですか? それでは当麻の街の周囲に二百しかいなくなりますが?」


副官は多李敷の言葉に口を挟もうとしたが、


「百だ。二度は言わんぞ」


上官にギロリと睨み付けられれば、従うしかない。
一礼して下がり、命令を伝えるために伝令兵へと向かった。


「捕まえてみせるぞ、火魅子」


ただ一人、床机に腰掛けながらも多李敷は呟いた。




















「はっ、火をかけてくるとは予想外だったな」


赤々と燃える木々を遠くから見つめながら九峪は呟いた。
髪をかき上げるながらの、その言葉には焦燥感は含まれていない。

彼の足元に転がるのは数人の狗根国兵の死体。


「どうする、か?」


少し離れた場所から九峪に向かって問う香蘭。
彼女の周囲にも、精強と謳われていた筈の狗根国兵士の死体が積み重なっている。

頚骨を折られての絶命。
恐らくは死を自覚する暇すら与えられずに葬られたのだろう。


「まあ、普通は火計なんてしないんだが――――」


唇の端を歪めて、苦笑しながら九峪。
自らの読みの甘さに対しての笑いか、或いは敵の策に対しての笑いか判断がつかない。

敵の目的は火魅子の捕獲にある。
その状況下で山に火をつければ、捕獲対象である火魅子を焼き殺してしまう可能性が高い。
だからこそ、火計を敵は打ってこないと九峪は読んでいたのだが、少々当てが外れた形になる。


「――――それでも、計画を前倒しにすれば十分か」


だが、それでも九峪は余裕の態度を崩さない。
その瞳の中に在るのは計略に裏打ちされた絶対的なまでの自信。

過去、彼が浮かべていた人好きのする優しい笑顔は既に無い。


「出るぞ、香蘭。同害報復をそのまま地で行く事になるとは思っていなかったけどな」

「どうがい、ほう……?」


聞きなれない言葉だったのか香蘭が首を傾げる。


「うん? ああ、同害報復は殴られたら殴り返す、蹴られたら蹴り返すっていう意味の言葉だ。まあ、火魅子になるつもりがあるのなら、覚えておいて損は無いだろうな」

「そか。ひとつ勉強になたよ」


こくこくと素直に頷く香蘭。


「……仕掛けている場所は覚えているな?」


嫌な顔さえしない香蘭を見て、顔をしかめながらも話を切り替える九峪。


「もちろん、のこと」


九峪の雰囲気の変化に気付きながらも頷く香蘭。


「出来るだけ、相手に見せつけてから行くぞ」

「わかたよ」


言い終わると同時に、二人は矢の如く駆け始めた。
赤々と燃える森を迂回しつつも、たむろする狗根国部隊へと向かって。




















「ちい、火魅子はまだ現れんのか」


多李敷は歯噛みしながらも眼前で燃える小山を見つめていた。
当麻の街の東側に位置する小山は海側に存在しているために、九洲の中央に走る山脈とは繋がっておらず山伝いに逃げる事は不可能である。
だからこそ、多李敷は火を放てば火魅子は狗根国部隊の包囲網が存在しようとも山から一旦脱出しなければならなくなる。

そう相手の行動を予測していた多李敷であったが、山の三分の一程度に火が広がった現状でも火魅子は姿を現さず、誤った選択をしたかもしれないと内心で悔やみ始めていた。


「耶麻台国の王族は城に火を放って最後を飾っていたが……」


狗根国と耶麻台国の戦いの最後。
敗退を悟った耶麻台国王は城に火を放ち、九洲に伝わる神器や天界の伝承の漏洩を防いだ。

ならば、火魅子もまた敵の手に落ちるぐらいならば、耶麻台国の象徴たる炎に焼かれて滅びる事を選択するかもしれない――――そんな推測が彼の中で大きくなっていく。


「く、手を打ち間違えたか――――」


焦燥感に苛まれた多李敷は間違った手を打ったと後悔し始めていたが、


「ひ、火魅子だっ!」


それ程遠くない距離から兵士の声が上がった。


「何だとっ!」


思わず立ち上がり声の上がった場所へと近寄った多李敷はその両の瞳で見た。
炎に焼かれ燃え盛る木々を背にして、包囲網を形成していた狗根国兵士を薙ぎ倒す白い外套をまとった若い女と、その女に影の如く付き従う見た事も無い異様な服を着た男を。

二人が二人共に恐ろしいまでの凄腕。

多李敷は確信した、目の前にいる女こそが火魅子であると。


「あの女を生かして捕らえろ! 男の方は殺しても構わん!」


自らの策は正しかったと安堵しながらも、多李敷は兵士全員に大声で命令した。
一旦は、奇襲に近い攻撃に混乱しかかっていた部隊だったが、即座に軍としての連携を持ち直して二人の襲撃者の攻撃に応戦していく。

遠距離からは弓を放ち、近距離からは槍、剣での攻撃。

既に十数人の被害が出ていたが、一度連携すれば狗根国兵士は生半可な力では敗れない。
二人の襲撃者は、背を翻して奇襲で広げた包囲の穴から逃走を開始した。


「追えっ! 決して逃がすな!」


折角見つけた火魅子を逃してはたまらない多李敷は即座に、二人を追いかける。
自身も構えていた陣などは気にする事無く、走りながら二人の影を追った。




















「ふははっ! 追い詰めたぞ、火魅子!」


多李敷は上機嫌で笑った。

逃走する二人を追いかけていた狗根国部隊は当初、二人に引き離されかかっていたのだがぎりぎりながらも付いていった。
部隊は高速で逃走する二人の姿を見失う寸前まで追い込まれたのだが、多李敷にとっては運のいい事に二人の移動速度が急激に落ち始めたのだ。

そして隠れるように、近くにあった林に二人が逃げ込んだのが少し前。

多李敷は二人が、連戦により疲労しているのだと推測した。
事実、二人は合わせて百近い兵士の相手を休む事無く続けている。


「奴らに休憩する暇を与えるな! 包囲には五十あれば事足りる、残る兵士は林の捜索にあたれ!」


今が正念場だと判断した多李敷は動かせる全兵力を、林の中の火魅子捕縛に投入した。

敵に息を吹き返すだけの暇を与えずに、弱らせた状態で狩る。
多李敷の頭の中に火魅子を捕らえて凱旋する、自らの光景が浮かんでいた。


「俺も出る! 全員、続け!」


腰に帯剣している事を確認して多李敷は、駆け足で林の中へと入っていった。
指揮官の突入という事態に泡を食いながらも、他の兵士達も続いていく。
最前線に指揮官を送るわけにもいかないために、一般兵は多李敷よりも更に速度を上げて走った。

林の中は小ぢんまりとした木以外には何も無い空間で、所々打ち倒された木々が見える。
奥へ進めば進むほどに、幹ごと破壊されて地面に倒れる朽ちた木が存在しており――――


「どういう事だ?」


思わず多李敷は足を止めた。
奥へと進めば進むほどに、所構わず木が打ち倒されている。
幹を破壊され、根から水分を補給する事が叶わない朽ちた木は乾燥している。

何本も存在する朽ちた木に火をつければ盛大に燃え上がるだろうと多李敷は思った。
先ほどの小山にこれ程の朽木があったのならば、既に山は完全に燃え尽きていただろう。


「……何がここで起こった?」


木こりならば、切り取った木を放っておく事は無い。
そもそも、幹は鉈などの刃物で切られたわけではなく、何か大きな力で破壊されている。


「まさか――――魔人か? ……いや、あり得んな」


多李敷は呟いて、自らの考えに首を振った。
そもそも、魔人は左道士によって召喚されるために、魔人の召喚があったのならば事前に報告が有るはずである。

では何が起こったのか、そう考えようとして――――


「報告します! 周囲より火の手が上がっています!」

「何だとぉ!?」


思考を打ち切って、辺りを見回す多李敷。
そこには轟轟と燃え盛る火の手が周囲から上がっていた。


「謀られたのかっ!」


この瞬間に多李敷の脳裏で全てが繋がった。
敵は疲弊したからではなく、狗根国部隊を誘い込むために林の中に隠れたのだと。
そして、予め火を放つ予定であった事は倒れる乾燥した木々が雄弁に主張している。

一旦、火がつけば林は即座に火の海となるだろう。


「撤退だ! 全員、林の外へと急げ! 火の手の上がっていない方向へと向かえ!」


多李敷の言葉に、混乱し行動を取りあぐねていた狗根国兵士達が一斉に逃走を開始した。
進入してきた場所からは赤々と木々が燃えているために、逆方向へと向かい走る。

最早、兵士達は蜘蛛の子を散らすように走っている。
軍隊としての整然さは存在しない。
狂乱状態に陥り、我先にと外へと駆ける。


だが――――


「ぎゃああああっ!」


――――それが、事態の混乱に拍車をかけた。

先頭を走っていた兵士が突然として、肩を押さえながらもがき倒れた。


「うわあああっ!!」


続いて、その周囲でも悲鳴が続々とあがる。
矢に貫かれている者、槍の設置された落とし穴にはまり体を串刺しにされた者。
数種類の罠が、至る所に散乱していた。


「な、何だぁこれはっ!?」


部隊の中央を走っていた多李敷は足を止めるしか無かった。
他の者もそれに習う。

だが、一部の兵士は火の恐怖に耐え切れずに走り続けた。
そして――――


「――がっはっ」


横手から飛んで来た矢に腹を貫かれて倒れた。
よく観察してみれば、男の足元には緩んだ紐が見て取れる。

多李敷は、自らが敵の策にはまってしまった事を理解した。


「お前達、怯まずに進め! このままでは焼け死ぬぞ!」


罠が仕掛けられていることは明らかだが、それでも止まればやがては炎に包まれて死ぬ。

生き残るためにはどうすれば良いか――――兵士を先に行かせて道を確認すればいい。
一瞬で決断した多李敷は部下達を前へと進ませて、罠の確認の道具とした。
兵士達も命令に反抗して斬り捨てられるくらいならばと、前へと進む。
或いは目に見えない罠への恐怖よりも、背後から迫り来る炎の恐怖のほうが大きかったのかもしれない。


「うっぐぁあっ!」


続々と罠に兵士が倒れていくが、林の出口まではもう少しという距離まで部隊は到達していた。

だが、それは甘かった。


   >>方術・風牙迅雷


出口を目指して注意を前方のみに向けていた部隊の側面を、突如として圧縮された風の刃が襲った。
ゴオオッという音を響かせ、大気を巻き込みながら突き進む風の刃に数人の狗根国兵士が吹き飛ばされた。


「な、何だ!」


今までとは別の事態に狼狽する多李敷。

これまで彼らの前に現れたのはあくまで全てが罠だけだった。
だが、今回の攻撃は紛れも無く方術。
無人で行える罠とは違い、付近には術者が存在する事になる。


「出て来いっ!」


左道士、方術士といった術の使い手は基本的に身体能力が低い。
そのために普通は気配を隠して戦闘する事など出来ない。
それにも関わらず、周囲には狗根国兵士以外の気配を感じる事は出来ない。

つまり単純に考えて、敵は気配も完全に絶つ事が可能な凄腕の術士という事になる。
多李敷にとっても、他の兵士にとっても絶望的な結論であったが。

ここに至ってようやく狩られているのは自分達である事を多李敷は理解した。


「う、うああああっ!」


姿の見えない敵と、無音の静寂は人の恐怖心を増大させる。
後方からは炎に追われているという感情まで加わったために抑えきれなくなったのか、数人の兵士が叫びながら、林の外へと駆けだした。


「迂闊に動くな!」


敵の姿が見えない以上は、無闇に混乱を広げるだけだと判断した多李敷は静止の声を上げるが、


   >>方術・風牙迅雷


時既に遅く、鎧ごとその肌をズタズタに切り裂かれた数体の骸が新たに生まれた。


「姿を見せろ!」


苦し紛れに叫ぶが、状況は変わらない。
走り出して、周囲への注意が疎かになった兵士を敵は方術で次々と殺していく。
反撃しようにも手段が無い。
術が放たれた方角へと注意を向けるが、高速で移動しているのか人の気配は即座に感じられなくなる。

屍の山が築かれていき、多李敷の近くの兵士の殆どが殺されてしまった。


「臆したかっ! 卑怯者がっ!」


決して誘いに乗る事は無いと解っていても、多李敷には挑発する事しか出来ない。
彼に打つ手は残されていなかったからだ。


だが、


「卑怯者とは言ってくれるな」


トンッと軽い足取りで付近の木から若い男が飛び降りてきた。
皮肉気な笑みを張り付かせ、蒼い服を着込んだ隻腕の男。

目の前にあっても存在しているのか解らない程に不気味な幽鬼の如き気配をまとった男を見て、多李敷は一目で危険な男であると悟った。


「ふん、やっと姿を現したか」


だが、その動揺は決して顔には出さない。
動揺が部下にまで伝播した瞬間に彼の敗北は決定するから。


「まあ、な。残り八人か――――結構減ったな」


遥か高みから見下すような声で男は笑った。
その場に存在するモノ全てを嘲笑うかのように。


「貴様、耶麻台国の人間か?」


相手を観察する時間を稼ぐために、話を長引かせようとして多李敷。
生き残るためには、何でも良いから敵の情報を得る必要があったから。


「ああ、訳有りでな。というわけで、ここで死んでもらうぞ」


コキコキと首を回しながら九峪。
既に確定した事柄を告げるかのように淡々と、だが確実に距離を詰めていく。


「……俺たちを誘き寄せたのはお前か?」


腰に下げた剣を抜刀して多李敷。


「ああ、そうだ。予想以上に見事に騙されてくれて助かった。三、四十は逃がすと計算していたんだが、どうにか全滅させれそうだ」


更に距離を詰める九峪。
あと、数歩進めば戦闘が始まる。


「ただ二人だけで、あれだけの数の罠を仕掛けたのか?」


腰を落として戦闘体勢をとる多李敷。
初撃に全てを賭ける右中段の構え。


「うん? ああ、まだ気付いていないんだな?」


と、そこで面白そうに足を止める九峪。


「どういう事だ?」


対して気を抜く事無く多李敷が問う。
いつ不意打ちを相手が打ってきても大丈夫なように気は抜かない。


「馬鹿だな、お前ら。これだけ広い森の全てに罠を仕掛けれる訳が無いだろう。俺たちが仕掛けたのは火を放たなかった場所にだけだ。解るか?」

「……上手く乗せられたわけか」


侮蔑の感情を隠そうともしない九峪の言葉に多李敷は歯軋りした。

火を放たれれば、反射的に人は火の手の無い場所へと逃げようとする。
その習性を利用して九峪達が罠の無い場所に火を放ち、最終的に罠の有る場所へと狗根国部隊を引き寄せたのだと、今頃になって理解しても劣性は挽回しようが無い。


「まあ、只深達からもらった炸裂岩の半分を使ったからな。これで失敗してたら負けだったな」

「炸裂岩か――――火の手の回りの速さはそれが原因か」

「正解だ。さて、長話も飽きてきたな――――」


それまでの薄笑いだった表情を一変させ、猛禽の瞳で多李敷達を睨みつける九峪。
不気味な幽鬼の如き気配は剥ぎ取られ、純粋にして凶悪な殺気がさらけ出される。


「――――そろそろ死ね」


   >>方術・風牙迅雷


風の刃が大気を抉る。
咄嗟に右に跳躍して避けた多李敷だったが、残った兵士の数人はかわしきれずに息絶えた。


「うあああっ!!」


生き残った他の兵士達が九峪に向かって特攻する。
三方向からの連続攻撃。

常人が避けれる速度ではない。
だが、


「遅すぎる」


九峪は常人ではなかった。
四人が交差した後、二本の足で大地に立っているのは九峪ただ一人。


「驚いてる暇は無いぞ」


   >>方術・風牙迅雷


戦意を喪失していた兵士が、術によって無残にも斬り殺された。

残るは多李敷と九峪の二人だけ。


「まて……」


多李敷は敗北を悟った。


「何だ?」


ぞっとする程に感情の篭っていない声で九峪。


「格好からしてお前は九洲の人間ではないはずだ。なのに、どうしてお前は耶麻台国の味方をする?」


死が確定していたがゆえに尋ねる多李敷。
命を失う瞬間に、彼はその事を強く疑問に思ったのだ。


「ああ、そんな事か――――」


少しだけ考える素振りを見せた九峪だったが、すぐさま表情を元に戻し、


「――――俺だけが死んでいないんだよ」


拳を振り下ろした。

多李敷が最期に見た光景は、自身へと迫り来る蒼い残像だった。