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   /1

 秋も終わり、冬がやって来る季節。立ち並ぶ木々は枝に生やした葉の色を、瑞々しい緑から落ち着いた赤色へと徐々に変化させていく。暖かかった気候は様相を変えて、肌寒いものへと推移する。まだ息は白まずとも、頬に当たる風は十分に冷たい。
 帰宅途中の大河は、今年になってから購入したばかりのスクーターを走らせながら、寒気のためかぶるりと体を震わせた。
 歩くだけでも寒さを覚えるような空気。それを時速何十キロというスピードで浴びているのだから、手袋も何もつけていない指先と、マフラーも何もまいていない首筋は特に寒いはずだ。どうにか大河は首を亀のようにすぼめて風から身を隠そうとしているが、ろくな防寒着も着ていない普段の格好では効果も見込めない。
 主に和風の屋敷が並んでいる深山町の海側の住宅地を、大河はスクーターに乗って走っている。対向車や人影などには注意しているが、それ以外の風景はろくに見ていない。興味がないのか、見飽きてしまっているのか。彩りを変え始めた木々や道路脇にたまっている落ち葉になど、目もくれていない。ただどこかへと向かってスクーターを走らせるだけだ。
 そして、そのままスクーターを走らせると、すぐに大河は一つの武家屋敷の前まで着いた。住宅街の中でも群を抜いて大きな敷地を持ったその家の表札には、衛宮という文字が書かれている。
 大河はスクーターを道路脇に寄せて止めると、迷う様子もなく門をくぐった。冷たくなっているだろう指先を擦り合わせながら、玄関の扉を開けるために手を伸ばす。すると。
「トリックオアトリート!」
 突然、弾丸のように白い影が飛んできた。ジャックオーランタンのお面を被ったその影は、驚きのためか身動きを止めている大河に突っ込んだ。意表を突かれたのか、大河はかわせない。
「へ? って、何っ?」
 大河の腹の辺りにぼぐんっ、と白い影が突撃する。重くはなさそうだが、軽そうでもない。不意打ちにぐらりと後退しかけた大河は、すんでのところで足をとどめた。そして襲撃者に視線を移した。
 まるで狙ったかのように鳩尾に頭を突撃させてきた白い影は、ぐりぐりと抉るように大河の腹の中に頭を埋めている。動くたびにさらさらと揺れる銀色の髪には美しさがあって、まるで妖精か何かような、そんな雰囲気があった。
 一度見たら忘れることなどできないような美しい少女。
「……手ごわい攻撃をするようになったみたいだけど、これは何の挨拶かなって聞いてみたいなあ。ねえ、イリヤちゃん?」
 大河は見下ろすようにして、突進してきたイリヤを眺めている。
 すると素の表情はとてつもなく可愛らしいはずの少女は、被っていたかぼちゃの仮面を頭の上へとずらして、まるで悪魔のような表情を覗かせた。大河を見返して、失望したような感情を赤い瞳に込めながら、意地悪そうにニヤっと笑う。
「なーんだ。タイガか。つまらないわね」
「つまらないってどういうこと? 人様のお腹に抉りこむように頭めぐりこませておいて、それでもつまらないって?」
「うん。だってシロウかと思ってやったのに、タイガだったから残念。抱きつき甲斐がないじゃない? 硬くなくてゆるゆるしてるから。ねえ、タイガ。三十路前だからって、プロポーションが崩れるのが早すぎないかしら?」
 イリヤの声にはからかうような響きが存分にあった。そのことを理解しているのか、大河は我慢するような表情を作った。が、それも一瞬。すぐに拳を握り締めてから叫ぶ。
「わたしは三十路前とよばれる年齢じゃない! しかも崩れてるって何さ!」
「へえ、崩れてるのがどの部分か言ってもいいんだ」
「――詳細についての言及は止めてください! この悪魔ちびっ子!」
 うおーん! と半泣きになって吼える。からかわれていると解っていても、大河は叫ばずにはいられなかったのだろう。
 対するイリヤは、大河が叫び出す前にちゃっかりと後ろへと避難していた。そして安全な場所から、檻の中に入れられた動物園の珍獣でも観察するかのように、口元に冷笑を浮かべて大河を見ている。 
「ふふっ。今日はせっかくのハロウィンだっていうのに、年下の悪戯も大目に見れないなんてタイガは本当に情けないわね」
 と、そこでイリヤは頭に乗せていた仮面を外して手に取った。ハロウィン用のおもちゃであるらしい、かぼちゃのお面を手でいじりながら、ぐさりぐさりと台詞で大河の心を刺す。
「うぅ。この小娘は藤村家の皆さんを篭絡するだけでは飽き足らず、ついにわたしまでも弄ぼうというのだろうか……って、あれ? イリヤちゃん、今日ってハロウィンなの?」
 と、そこですこーんと大河は思いついたように話題を転換した。別に不利な話題から逃げるためではないのだろう。その声には、純粋な興味の感情だけしか見えない。
 傍から見れば脈絡のない会話だが、大河の中だけでは理に適った行動となっているようだ。
 そのことを多少なりとも理解しているのか、イリヤは小悪魔な顔を引っ込めて、肩透かしを食らったような表情を見せながらも頷いた。
「ええ。朝にサクラが言ってたわよ。今日は年に一度のハロウィンだって」
「そうだったんだ。何だか、言われてみるとそんな気がしないでもないわね」
 腕を組んで大河は少し考える。そして何となくイリヤが言っていることは正しいのだろうと判断したのか、とぼけた表情で頷いてみせる。
 そんな様子を見て、呆れたようにイリヤは肩をすくめた。
「タイガ、前から疑問に思ってたんだけど、本当に英語教師なの? ハロウィンなんていう英語圏の代表的な文化を知らないだなんて。あまりこの習慣との縁がない私でも、今日がハロウィンだっていうことなら解ったわよ」
「う、ぬぬ……面目ない。どうもわたしの周りではハロウィンなんてやる人間いなかったから忘れちゃったみたい。士郎なんて小さい頃から頼んだって悪戯なんてしてくれそうな子じゃなかったからなあ。それで印象に残ってないみたいなのよね」
 大河はそこで何かを思い出すかのように、天井を見上げた。数秒、言葉を止める。
 そして再び口を開く。
「桜ちゃんもうちに来てから結構経つけど、あの子もそんなタイプじゃなかったから。性格的にわたしならやれそうだったんだけど、年がね。仮にも最年長だから年下のあの二人に悪戯するわけにもいかずというか、悪戯したらご飯抜かれそうで」
「なら、この家ではずっとハロウィンはやっていないの?」
 大河の返答に、イリヤが白けたような表情で尋ねる。
「うーん。少なくとも、士郎と一緒にハロウィンを祝った記憶はないわね。正月とかなら豪勢にするんだけど、それ以外では基本的に質素に過ごすから。この家は」
「そうなんだ。それじゃあ士郎にやっても、ハロウィンなんて解らないかもしれない?」
 大河の言葉を聞いたイリヤは、そこで少し不満そうな態度で、そう言った。つーんとしたお嬢様のように、大河から視線を外す。それは怒っているのか。それとも怒っていることをアピールしているのか。どちらであるかは解らない。ただ解っていることは、よほど年下に厳しい人間でなければ、無視できる光景ではないということだけだった。
 自然と宥めるような台詞が、大河の口から出る。
「多分、ハロウィンぐらいなら知ってると思うわよ。いくら士郎でも、そこまで世間知らずじゃないだろうし。きっと士郎のことだから美味しいお菓子でも作ってくれるんじゃない?」
「そうかしら?」
 その言葉を聞いたイリヤは少し、考えこむように問い返した。だが、すぐに何か思うところがあったのか頷いた。
「――ううん、きっとそうよね。シロウなら、きっとそう」
「そうそう。だからどーんって悪戯あるのみ! わたしも影から見守っててあげるから」
 そう言いながら大河は、そこでようやく靴を脱いで家の中へと入った。イリヤの横まで行って笑いかける。
 しかし、どうやらその態度がお姫様は気に食わなかったらしい。少し憮然として大河を見返す。
「良いわよそんなの。タイガはいつもみたいに居間で寝転がってればいいの」
「そう? ならそうしておこっかな。――イリヤちゃんはまだここにいるの?」
「ええ。タイガが帰ってきたっていうことは、そろそろシロウも帰ってくるだろうから」
 頷くイリヤ。だが、そこで大河はふと首をかしげた。
「あれ? そういえば今日って士郎バイトじゃなかったかな。オトコの所で人手が足りなくなったから、ヘルプに行くって昨日ぐらいに言ってたような」
「何? それ本当なの? 聞いてないわよ」
「確か、昨日イリヤちゃんが未知の生物みたいに、白服のメイドさん達に両脇を挟まれながら帰っていった後ぐらいに聞いたから、そりゃあ知ってるわけがないわよね」
 けらけらと大河は笑う。するとイリヤは面白く無さそうに、むすっとした表情を作った。
「何よ。なら、さっきからここで待ってたのは完全な無駄じゃない。釣れたのが行き遅れのタイガーだけなんて、労力の無駄だわ」
「――おっと、待ちなちびっ子! 今、明らかに八つ当たりでわたしのことをタイガーって言ったのは止めてほしいと思うのだ!」
 微妙な発音の違いを正確に耳に捉えた大河は、己の主張を大にして叫ぶ。例え叫ぼうが喚こうが天敵であるイリヤの前には通用しないのだろうが、泣き寝入りする様子もない。それこそが大河の本質であるのだろう。
 だが、どうやら今回は普段と状況が異なっていた。
 イリヤはつまらなさそうに髪をかきあげながら、口を開く。
「別に、そんなのどうだって良いじゃない」
「お、おぉう? どうしたの? いつもの稲妻もかくやという切れ味のデビルトークが発揮されないみたいだけど」
「何よその言い方。タイガは相変わらず失礼ね」
 愛想のない声。イリヤの応対が距離感のあるものへと変化する。
 大河はその声を聞いて、露骨に焦ったような表情を浮かべた。
「ええっと、なんだか感情レッドゲージ突入って雰囲気だけど――」
「知らない。タイガの勘違いじゃないの?」
 無難な言葉を投げかけてみても、へそを曲げたイリヤには通用しない。むむむ、と大河は腕を組んだ。虎模様の脳細胞を使って、事態を打開するための方法でも考えているのだろうか。
 そして時間にして四秒。事態が動いた。
 人差し指を立てた大河がこう切り出す。
「ねえ、士郎のとこに行こっか?」
「……シロウの所って、シロウは今アルバイトしてるんでしょう?」
「うん、そうだけど」
「それなら行っても邪魔になるだけじゃない。何考えてるのよ」
 イリヤは話にならないとばかりに、首を横に振る。
 だが、その様子を見た大河はいつものように笑って説得を続けた。
「まあ、そんなのいいじゃない。あそこの雇い主知り合いだから、どうとでもなるって。何といっても今日は年に一度のハロウィン。地の利は我にありってやつよ」
 一度決めたらアクセル前回。大河は横に立っていたイリヤをぐいぐいと押し出して、玄関へと向かわせた。そして自分は先ほど脱いだばかりの靴を履きこむ。
「ちょ、ちょっとタイガ! 押さないでよ!」
「ふふふ、抵抗は無駄なのだー。さあ、髪の毛をくしゃくしゃに混ぜ返されたくなかったら、気張って靴を履くがよい」
「ああもう、髪を撫で回さないで! 本当にタイガは淑女としての嗜みがないわねっ」
 ぐりぐりと頭をなでると、その手をイリヤは鬱陶しそうに手で払った。
 だが、そんなことで一度暴走体勢に入った大河は止められない。大河は無駄に両手をずびしっと前面に構えて、挑発するように口を開いた。
「ふっふーん。そんなこと言っていいのかな? もし君がわたしと一緒に来ないようならば、こちらは一人でコペンハーゲンに特攻を仕掛けることになるのだよ?」
 両手の人差し指をイリヤに向けた格好の大河は、くいっくいっと眉を上下させる。
 その様子を見たイリヤは怯んだように、一歩後ろへと下がった。
「……それがどうしたっていうの?」
「解らないかなあ。言っておくけど、野に放たれた虎は一匹残さず辺りの獣を食い尽くすものなのよ? ふふふ、語るまでも無く兎じみた士郎などお茶の子さいさい」
「なっ、それは脅迫なの?」
 くぅっと呻くようにイリヤは歯噛みする。その光景を見て大河は調子に乗った。まるで悪代官のような台詞を口にする。
「もしも誰も止める人間がいなかったなら、わたしは何をするやら。士郎は身内の恥に泣くかもしれないわね。それでもいいのかな? ――イリヤちゃん、士郎が明日からバイト先で恥ずかしい思いをするか否かは君にかかってるのだよ」
 言い終わった後に大河はふぁいなるあんさーどうぞっ! と咆哮する。その様子を見ながら唸っていたイリヤは、やがて自身の敗北を悟ったかのようにため息をついた。そして呆れたような声で、言葉を発した。
「……解ったわよ。私も行くわ」
「おおう、その言葉を待ってました! それじゃあ早速、善は急げというから行こう行こう!」
 だっしゃー! と勝利の雄叫びをあげながら大河が跳ね回る。そして一度暴れまわると飽きたのかすぐに大河は、靴を履いているイリヤの手を取って急かし始めた。
「イリヤちゃん、まだー?」
「ああもう急かさないで! 手も引っ張らない!」
 色々とちょっかいを出してくる虎の手を払いながら靴を履き終えると、イリヤは立ち上がった。そしてとんとんと靴のつま先で地面を叩いてから、形を整える。
「準備完了?」
「できたわ。もう、タイガったら強引なんだから」
「ふふふ、それがわたしの長所なのだー」
 呆れたような顔をしたイリヤの言葉を聞いて、大河は満足そうにそう言った。


   /2

 ――取り敢えず、新都まで行こっか。
 その大河の言葉が最初の方針となり、二人はバスに乗って街まで来ていた。徐々に人込みの増え始めた時間帯、二人で目的地へと向かって並んで歩く。
「士郎が働いているところは、ここから近いの?」
「うーん。ちょっと離れてるかもしれない。だってあそこ、夜は居酒屋にもなる毒婦の溜まり場だから、ちょっとイリーガルな場所に陣取ってるのよ」
 てくてくと歩きながらも大河は、イリヤの質問に答える。
「毒婦? そんなのが集まる場所でシロウはアルバイトをしてるの?」
「そーなのよぅ。こればっかりは流石のお姉ちゃんも困ってるのよねー。朱に交われば赤くなるってやつで、士郎がいつか人様を粉塵爆破するようになるんじゃないかって心配で心配で」
 大河は腹の前で両手の指を絡ませながらも、うめくようにそう言った。
 だが、そんな言葉をイリヤは信じてはいないようだ。白けたような目をして、大河を見返す。
「それは穏やかな話じゃないわね。――それで、今の話はどこまで本当でどこまで嘘なの?」
「ぬうっ! 嘘とは何ですか、嘘とはっ! 頭の先から尻尾まで本当なんだから!」
「はいはい。好きなだけ言ってなさい。どうせ直ぐに着くんだから、嘘なんて全部ばれるのに見苦しいわね」 
 両手を振り回して潔白を主張する大河に、イリヤはしっしっと手を振って追い返す。傍から見れば、大河のほうが年上に見えるにも関わらず、精神的な落ち着きはまるで逆だった。つっかかる大河を、イリヤがいなす。
「くっ、このませたお子様には口で勝てないというのか……ッ!」
「口以外でも負けてるつもりはないわよ。私が負けそうなのは体重ぐらいじゃない」
「な、何ですと!? あり得ない、そんな冷たい言葉はありえないよイリヤちゃん!」
 歩きながらも二人は小競り合いを繰り返す。そして、そのどれもが大河の敗北で終わる。相性というものを感じさせる会話だった。
「そんなことはどうでもいいから、次はどっちに進めばいいの?」
 と、二人が三叉路まで到達した所で、イリヤは会話の流れを断ち切って尋ねた。右を見ても、左を見てもそれらしい建物は見えない。
「んー、ここは右ね。交差点渡って、あっちまで行こう」
 それまで追い詰められたかのように口をあわあわさせていた大河は、そこであっさりと表情を普段のそれへと戻した。そのまま青信号の交差点を真直ぐ進んでいく。
「それにしても、なんだか今日は空いてるわね。いつもだったら、もっと人と肩がぶつかりそうになるぐらい混んでるのに」
「いつもは人が多いの?」
「うん。もう何というか、都会の荒波に揉まれたいと思ったらここに来いってぐらいに、普段だったらこの時間帯のこの付近は人が多いのよね。飲み屋がこのあたりは多いからだと思うけど、夜になるにつれて酒を求めてダメ人間がうじゃうじゃと」
「へえ、そうなんだ。よく解らないけど、偶然このあたりにいる人間が、何となくこの近くを歩いていないだけっていうことなんじゃないかしら?」
 イリヤは唇に指を当てて、考え込むようにそう答えた。どこかから、カチリカチリという、何かの歯車が回るような音が聞こえてくる。
「たまたまだっていうこと?」
「ええ。きっとそんな偶然が積み重なることだってあるわ。何といっても、私とタイガが一緒になって歩いているっていう時点で、普段と違うじゃない。それなら他にも違うことがあってもおかしくはないと思わない?」
「ふーん、変わった考え方するわね。けどまあ、確かにこんな時ぐらいは人込みの中を突っ切って歩かないでいいかも」
「でしょう?」
 そう言ってイリヤが、得意げな表情を見せる。
 その言葉に大河は同意するように頷いた。
「うんうん。そうだね。――って」
 そして、その途中で何かを視界に捉えたのか、ぴたりと足を止める。
 視線の先には、特に何の変哲もない、一軒の店があった。店の前では大河と同い年くらいの女性が、二ダースはビール瓶が入っていそうなケースを、一人で持ち上げて近くにある車の中へと運んでいる。
「もう着いちゃった。イリヤちゃん、あそこが士郎がアルバイトしてるところ。名前がコペンハーゲンで、蛍塚の一族が経営してる危ない店だから注意が必要なんで覚えておいてね。ここは夜になったら毒婦が集まる雌豹の巣として有名だから」
 大河はそう言いながら、とことこと歩いていく。
 そのまま店の中に入っていって、日本酒でも買いに行こうとしているような大河の姿を見て、イリヤは慌てた。士郎にばれては意味がないのだ。
「ちょっと、タイガ何してるのっ?」
「士郎驚かしていじるのが目的だから、あそこの店員、名前は音子っていうんだけど、こっちサイドに引きずり込んでくるから待ってて。どうせだから盛大な仕掛けにしようよ」
 コペンハーゲンに向かいながら、大河は後ろにいるイリヤに向けてひらひらと手を振った。
 ゆっくりと歩いていき、車と店の間を往復していた音子へと近づいていく。そして背後に音も立てずに忍び寄り――
「トリックオア! トリートッ!」
 いきなりうなじから背中を通って腰のあたりまでつつーっと指先でなぞり出した。ビール瓶の詰まったケースを持とうとしていた音子は、その瞬間に背をのけぞらせて飛び上がる。
「うひゃあっ、な、何するんですか! ってバカ藤村!」
「やっほーオトコ元気? って、その声聞いた限りじゃ元気だね。良かった良かった。というわけで、ちょっと顔貸して」
 驚こうが怒鳴られようが気にすることなく、そのままむんずっと大河は音子の服の袖を掴んで、ぐいぐいとイリヤのいる場所まで引っ張っていく。
「本当に何なんですかー!? ていうか服が伸びる、伸びるから止めてください!」
「まあまあ。そんな騒がないでついてきなさいよ。これもまた人助けなんだから」 
「人助けとか零くんっぽいこと、藤村が言っても寒気しかしないんですよっ!」
 ぎゃあぎゃあと姦しく、往来で騒ぎ立てながらも二人は、店から離れてイリヤのいる場所まで近づいている。その様子を見ていたイリヤは、少し眉をひそめた。
 しかし、大河は何も気にしていない。掴んでいた音子の袖ごとイリヤの前へと放り投げる。
「一名様、ご到着ー」
「わわっ。……あんたは本当に、そろそろケリをつけたほうがいいようですねッ!」
 突然の強襲に加えて、乱雑に扱われた音子は怒りからか、細い目を更に鋭く細めて、大河を刺すように睨みつけた。尖り物でも持っていたなら、ぶすっと行きそうな雰囲気だ。
 だが大河は腐っても極道の家に生を受けた境遇からか、そんな視線は物ともしない。逆に落ち着かせるようにゆっくりと言葉を発した。
「はいはいストップ。後ろを見てみ?」
 ぱんぱんと小さく手を叩いてから、音子の後ろに向かって大河は指を向ける。律儀にも、その言葉に反応して音子は首を振り替えさせた。――そこには、ハロウィン用のかぼちゃのお面を手に持った、イリヤがいた。理解しがたいような生き物を見る目で、大河と音子を見ている。
 ぴきっと音子の表情に亀裂が走った。
「はい、そういうことだからネコらしく猫被ろうね」
「……本当にアンタが絡むとろくなことにならないね」
 唸る音子の視線はイリヤに向いている。
「そうそう。取り乱さないで、そんな感じで」
「アンタはっ……! くっ。このことは覚えとくからね、バカ藤村」
 現状を不利だと判断したのか、あるいは知らないイリヤの前で狼狽したところを見せたくないと思ったのか、音子はそこで怒りを表面上は消してみせた。
「うむうむ。よきに計らえオトコ」
「変な発音でオトコ言うな。約束なんだから。獣並みの知能でもそれぐらいは覚えときな」
 そこで音子は、一度諦めたように小さくため息をついた。
「――それで、アンタがアタシのところまで来たっていうことは何かあったん? 今回はどんな無理難題持ってきたのさ?」
「ふふふ、良くぞ聞いてくれました。まずはここにいるのがイリヤちゃん。最近、藤村組で大ブレーク中のちびっ子アイドルの皮を被った小悪魔ね。そのチャーミングさは、頑固一徹のお爺様さえメロメロにさせるほどの危険物。取り扱いには注意が必要なのだ」
 得意げに腰に手を当てて、大河は音子にイリヤの説明を始める。
 そしてその説明を聞いた音子は、聞き覚えがあるかのようにおやっと目を見開いた。
「へえ、この子が噂の子なん。エミヤんから聞いてた通りで、可愛い子だね」
「――初めまして。ええっと、オトコ、でいいのかしら?」
 視線があったイリヤは、あくまで優雅に会釈する。
「できればオトコっていうのは止めて欲しいんだけど、どうにも外人さんが言うと響きが違うからいいか。――こちらこそよろしく、イリヤちゃん」
「よっし、これで二人は知り合いになったわけで、早速本題に入るわよ」
 向かい合ったイリヤと音子の注目をひきつけるために、大河は手を叩く。そして二人の視線が自分に集まると、人差し指を立てながら口を開いた。
「はい突然だけど、ネコ。今日は何の日でしょう?」
「今日が何かって? 月末とかじゃないの?」
「ぶっぶー。違うわよ。――ヒントはそこのイリヤちゃん。具体的に言うと、右手らへん」
「はあ? ……って、ああ。そういうことか」
 視界に捉えたのはジャック・オー・ランタン。そこで音子は納得してから頷いた。
「あー、ハロウィンかー。ハロウィンなんて、マイナーすぎて忘れてた」
「そう、そっちが正解。というわけで、今日が何の日か解ったところで頼みがあるのよ」
「何さ? 言ってみなよ」
 こきこきと、そこで音子は軽く首を回した。
「うむ。士郎いるでしょう? とりあえずイリヤちゃんがハロウィンらしく士郎に悪戯するから、そのお膳立て手伝って」
 ずびしっと大河は、音子に向かって人差し指を突きつけた。まるで悪巧みを考え付いた子供の様な表情で笑っている。
 が、音子はその提案に悩む素振りもみせず、首を横に振った。
「あー、それ無理だわ」
「何でよー。こんな可愛らしいお子様の頼みが聞けないっていうのオトコは」
「オトコ言うな。――んー、アタシもエミヤんからかうのは好きだから、そういう話なら手伝っても良かったんだけどさ、無理なんよ。今は」
「どうしてっ?」
 むむむ、と眉根を寄せて納得いかないと言わんばかりに、両腕をばたばたさせながら大河が尋ねた。その後ろではイリヤがちょっと不満そうな表情をしている。
 その二人を見て言いにくそうにしながらも、音子は口を開いた。
「いや、根本的な問題だけどさ、いないから」
「ん? 誰が?」
「エミヤん。――さっき早上がりで帰ってった」
「嘘っ!?」
 大河は想定外だとばかりに跳び上がる。
「嘘じゃない。ついさっき、今日は用事があるから早めに帰らせてもらいますって言って、そのまま出てったとこ。おおかた、アンタ達と入れ違いにでもなったんじゃない?」
 言いながらも音子は、肩をすくめてみせる。その返答に大河は慌てた。
「よ、用事があるなんてわたし聞いてないわよっ」
「そんなんアタシの知ったことじゃない。エミヤんは帰った。それが真実」
「ええーっ。せっかく、イリヤちゃん連れてここまで来たのに。ねえ、イリヤちゃん。……って、あれ? 何か視線が怖いなーとかお姉ちゃん思うんだけど」
 同意を求めようとイリヤに顔を向けた大河を迎えたのは、冷たい視線だった。大河は野性の本能から危険を感じ取ったのか、後ずさる。
「……タイガ」
 ひんやりとした声。冷たくて怖い。
 イリヤの声は糾弾するかのように、鋭かった。
 大河はその声に焦ったのか、冷や汗をかきながら、たははっと力なく笑った。
「うう、イリヤちゃん、ごめん」
 申し訳無さそうに両手を顔の前で合わせる。
 しかし、イリヤは何も言葉を返さず、冷たい視線で大河を見据えるのみだった。


   /3

「あー、あのさ。イリヤちゃん、キャンディとかいらない? ポケットの中にいつの間にか入ってたヴェルダーズオリジナルのキャンディがあったんだけどって、あーっ、自販機だ! イリヤちゃん、何か飲みたいものある?」
「いらない。何かを口にする気分じゃないもの」
「そんなこと言わないでさあ。ほら、機嫌直してぐいっといこうよ。――とりあえず、適当なの買ってくるから」
 新都までの移動が無駄足に終わった後、二人は来た道をそのまま引き返していた。コペンハーゲンから新都のバス乗り場まで、来たときと同じように歩いていく。
 行きと帰りで違うのは、イリヤが不機嫌であろうかどうかだけだ。
「ほらほら、ピーチとかオレンジとか、意表をついてお汁粉とか買ってきたから。ね、機嫌直してくれたら嬉しいなあ、とか思ったり」
「いらない。全部、タイガが飲めば?」
「うう……素っ気ない。まるで小姑にいじめられる新妻の気分」
 つれないイリヤの言葉に、大河はへこんだ。そして半泣きの表情で、イリヤを見る。
 だが、イリヤはつんっと顔を逸らしてその視線を振り払った。
 大河はいよいよ追い詰められたのか、唸り始めた。
「むむむ。イリヤちゃーん。機嫌直してよぅ」
「――別に機嫌が悪いわけじゃないわ」
「嘘だ。その目がわたしを責めている」
「嘘じゃないわよ。ただ、気が乗らないだけ」
 食い下がる大河に、淡々とイリヤは言葉を返す。お姫様はご機嫌斜めであるらしい。
「だから、ね。悪気があったわけじゃないのよ。士郎から、今日用事があるなんて聞いてなかったから、あんなことになったわけで。イリヤちゃんを騙そうなんてつもりは毛頭無くて。何というかこれは突発的な事故だとわたしは主張したいな」
「そんなことは解ってるわよ。それで私達は、こんな距離を往復することになってるんだってこともね。――あーあ、家で大人しくシロウを待ってれば良かった」
 そこでイリヤは億劫に髪をかき上げてから、横目で大河を見た。
 大河は目に見えて体を縮こまらせる。
「うぅ。藤村大河、一生の不覚。真に申し訳ない」
「本当に、誰かさんのいうことなんて聞かなければ良かったな」
 可愛らしい外見に反して、言葉の中に含まれているのは猛毒だ。遠まわしでありながらも、辛辣な言葉が大河を打つ。大河はちょっとだけ泣きが入ってきた。
「本当に悪かったってばー、ねえねえ、イリヤちゃん。そろそろ機嫌直してよー」
 堪りかねたのか大河がイリヤの顔を覗き込む。それ以上、ダメージを負えば泣くと確信できるぐらいに、大河の目には涙がたまっていた。まるで年齢不相応な姿。
 少しの間、二人の視線が絡まる。実際には見下ろされていながらも、見下ろすような視線で大河を見るイリヤと、見下ろしているはずなのに、どこか見下ろされているような大河。あべこべな二人が、お互いを眺める。
 少しの間、口を閉ざしていたイリヤは、あからさまに大きくため息をついた。
 そして根負けしたかのように言葉を発した。
「お汁粉をもらうわ」
「へ?」
 毒舌が続くと考えていたのか、イリヤの声を聞いた大河は間の抜けた声を上げた。
「だから、買ってきたのよね? その、お汁粉をちょうだい」
「え? お汁粉で本当にいいの? わたしが言ったらなんだけど、実は場を和ますための受け狙いで買ってきただけなのに」
「それで良いの。だから早くちょうだい」
「あ、うん」
 両手で抱えた缶ジュースの中から、大河は一つだけ和風の缶を手渡した。
 受け取ったイリヤは、プルトップを開けてから、中身に口をつける。
「甘いわね。けど不味くもないわ。――だから、これでチャラにしてあげる」
「おおっ、本当? やったー。やっぱりイリヤちゃんは人の心を労われるいい子だね」
 今泣いた烏がもう笑う。けろりと表情を変えて、大河は笑った。歩道を歩きながらも、軽く飛び上がってみせる。
 すぐにイリヤの表情が呆れたようなものへと変わった。
「はあ、調子がいいわよね、タイガはいつも」
「前にも言ったと思うけど、それがわたしの長所だからね。――ね、ね、イリヤちゃん。次のバスが来るまで時間があるから、そこの公園で休んでいこうよ」
 大河が空いている手でイリヤの手を掴んで、反対のジュースを持ったままの手で直ぐ近くにあった公園を指差した。
 そこには新都の中心に位置している、静謐な雰囲気を保った公園がひっそりと存在していた。
「それでいいわよ」
「よっし。それじゃ行こう」
 総面積は決して狭くないにも関わらず、どこか薄い印象しか与えない公園。その場所へと向かって二人は歩く。駅前パークの賑わいとは違って、この場所は空気が停滞していると感じるほどに落ち着いている。
 まるでそれは、どこか別世界のようで。周囲の喧騒もこの場所までは届かない。隔離されたように、街の成長から置き去りにされたように、落ち着いた空間がそこにはあった。
「あそこにちょうど良さそうなベンチがあるわね。あそこでまったりしよう」
 公園の中へと入り、そびえ立つように毅然と並ぶ木々の間を歩いている途中、大河が声を上げた。指差した先には、手頃そうなベンチが二つ置かれている。
「それじゃあ、あそこまで競争だ。よーい、どんっ!」
 そして大河はイリヤの返答も聞かずに、そのまま走り出した。手にジュースを持ったまま足取りも軽く、ベンチまで走る。
「――ちょっと、タイガ!」
 ふたを開けた缶ジュースを持っているイリヤは、走れない。声を上げて抗議するが、その時には既に大河はベンチに腰掛けていた。
「イリヤちゃーん。遅いよー?」
 ベンチに座って、ぶんぶんと手を振る。まるで子供だ。
 その様子を見たイリヤはベンチに近づきながらも、両肩から力を抜いた。空気が漏れた風船のように、気が抜けていく。
「呆れた。どうしてこんな所で急に走り出すの? 子供じゃないんだから、もう少し控えめになったほうがいいわよ」
「ふっふーん。わたしはこれでいいのだ。それよりイリヤちゃんこそ、もう少し子供らしくなったほうがいいんじゃない?」
「私こそ、これで良いのよ。今さらこれ以上、子供らしくなんてできないんだから」
 イリヤはそこで言葉を区切って、大河の隣に腰掛けた。
 二人が座ったベンチの正面には、ぽっかりとした空間が広がっていた。過去、劫火によって尽く炭化させられた大地が、今は無数の木々に囲まれた広場として存在している。静か過ぎて、異様な場所。眺め続けていれば、ふと赤い地獄を垣間見てしまうような。
 一瞬、その場所に視界を向けたイリヤは、すうっと目を細めた。
「イリヤちゃん、どうしたの?」
 隣に座るイリヤの変化を感じ取ったのか、大河が顔を覗き込んで尋ねた。そして続いて、その視線が向かう先を見る。
「気分でも悪い? それとも、――この公園がどうかしたの?」
 そこにあるのは、あるべきはずの空間が奪い取られたかのように、何もない広場だった。周囲とは違い、その場所だけは整備の手が行き届いておらず、荒れ放題の地面をみすぼらしく晒している。
「気分が悪いわけじゃないわ。ただ、この場所は昔、大きな火災があったのよね。そのことを思い出していただけ」
 イリヤはそこで細めていた目をゆっくりと瞑った。そして、また開く。普段通りの表情が戻ってくる。
「ああ、そのこと知ってたんだ。今でこそわたしも信じられないけど、この場所でホントに酷い火災が確かにあったのよね。町中でひっきりなしにサイレンが鳴ってた。十年ぐらい前だったかな? 私がまだ穂群原の教師じゃなくて、生徒だった頃の話だから」
 そこで大河は持っていた缶ジュースのプルトップを開けた。静かな公園に、缶に充填されていた窒素が漏れるプシュッという音が鳴る。
「で、それがどうかしたの?」
「特に意味がある疑問じゃないけれど、どうしてそんな火事が起きたのか、不思議に思っただけよ。気にしないで」
「ふーん。どうして火事が起こったのかねえ。あんまりよく覚えていないけど、当時はガスの爆発だとか、移動中のタンクローリーが横転してそれに火がついたとか、不発弾が爆発したとか色々と言われてたような気がする。けど、どれもしっくりくる理由はなかったんじゃないかな。少なくとも、これだっていう理由は知らないや」
「そう」
 相槌を打ちながら、イリヤはジュースに口をつけた。視線は広場に向けたまま、ゆっくりと中身を含む。そして少しだけ飲み終わった後、缶から口を離す。
「もし、もしもよタイガ。これはただの仮定だけど――」
 普段の声と何ら変わりがない口調で、イリヤは声を上げた。それは問いかけだった。
「もしも、あの火災が人為的なものだとしたらどうする?」
「人為的? それって、ガスの爆発とかが原因じゃなくて、あの火災には真犯人がいて、その犯人が故意に火災を起こしていたらっていうこと?」
「ええ。もし、仮の話」
 時折、風に吹かれた落ち葉が地面を擦る音が響くぐらいの静かな公園の中にあって、イリヤの質問はよく聞こえた。不必要なほどに、耳に残る。
 大河は腕を組んで、考える素振りをみせた。
「もし、あれが誰かに引き起こされたとしたら、ねえ。――そうね、きっと悲しいかな。多分すごく悲しいと思う。あの火災で家族が亡くなったっていう友達も少なくなかったから」
 一言一言、適した言葉を選ぶかのように、大河は返答を口にした。
 その答えを聞いて、イリヤは広場を眺めたまま、もう一度口を開いた。
「そう。なら次の質問だけど、その犯人がタイガの知り合いだったとしたらどうする? やっぱり悲しい?」
「もしわたしの知ってる人が犯人だったとしたら? 随分と意地の悪い質問するね、イリヤちゃん」
 続く二つ目の質問を聞いて、大河は苦笑した。答えを口にしたくないというよりも、考えたくないというように、苦い笑いを形作る。
 その様子を見て取ったイリヤは、ゆっくりと首を横に振った。
「少し、悪趣味だったかもしれないわ。答えたくなかったなら、それでもいいわよ」
「うーん、そうね。確かに、あんまりそんなことは考えたくないんだけど、イリヤちゃんと二人でこんなこと話せる機会も、そうそうあるものじゃないからね。うん、答えてみる」
 そこで大河は広場から視線を外して、上空を見た。流れていく雲を見る。
「わたしの知り合いで、あんな火災を起こしそうな人なんて誰もいないんだけど、もしあの火災がその誰かに起こされたとしたらかあ。――想像つかないけど、やっぱりそれでも悲しいのかな。あの火災を起こしたことも、どうして起こしたのか、その原因も。きっとどっちも凄く悲しいと思う。それぐらいしか解らないけど、多分わたしは本当に悲しくなるんじゃないかな」
 言葉を口にする大河の足は、ぶらぶらと揺れている。
 隣に座るイリヤは微動だにしていない。ただ、相槌を打つ。
「そう」
「うん、ごめん。これぐらいしか答えられなくて。ちょっと難しい話は苦手なのよね」
「ううん。答えにくいことを聞いたのは私だから、タイガが謝る必要はないわ」
 呟くように、イリヤが答える。
 ふと、そこで会話の流れが止まった。どこかこの公園に似た、停滞しているような空気が、二人の周囲に生まれる。大河は空を見上げて、イリヤは広場を眺める。言葉が、途切れた。
 落ち着いた時間が流れる。
 お互いに視線を交わさないまま、さわさわと木の葉を揺らす風が、二人の髪を撫でていく。さらりと波打つように、イリヤの髪が揺れた。夕暮れ時の時間帯であっても、銀糸のようなイリヤの髪は良く映える。赤色のフィルターにかけられたような夕暮れの世界の中で、風になびくその髪は唯一光沢を放っている。
「……そういえばさあ」
 そこで、大河が沈黙に耐え切れなかったのか口を開いた。風に吹かれて荒れた髪を、手で撫で付けながら、横に座るイリヤに視線を向ける。
「どうして、イリヤちゃんはあの火災のことを知ってたの? ここに住んでる人達だって、あの時のことは段々忘れていってるのに」
「前にシロウから聞いたことがあったのよ。だから、少し思い出しただけ。ここに来るまですっかり忘れていたけど」
「そっか、そうなんだ」
 納得したのか、大河は首を縦に振った。同時にイリヤを見ていた瞳を一度、閉じた。すうっと長く空気を吸い込んで、そしてゆっくりと吐き出していく。
「――羨ましいなあ」
 そしてぽつり、とそんな言葉を口にした。周囲に吹く風に流されてしまいそうな小さな声で呟かれた言葉は、空気に溶け込むように消えていく。
 誰に聞かせるわけでもない、己の本心を小さく発露させたかのような言葉だった。
「羨ましい? 何が?」
 イリヤは怪訝そうな表情を浮かべて、その言葉の意味をを問い返した。真意を理解出来ないのか、困惑したように眉根を寄せる。
「うーん。大人気ないんだけど、士郎から聞いたっていうところがちょっと、ね」
「シロウからって、そんなのタイガだって同じでしょう?」
 目を少し見開かせて、イリヤは訝しげに大河に顔を向ける。
 すると大河はイリヤの視線に、小さく首を振った。
「んー、それはそうなんだけどね。ただ、わたしがそのこと本人の口から聞いたのは結構時間が経ってたのよ。切嗣さんから、士郎のことはあらかじめ聞いてたんだけど、本人から火災のこと聞いたのはどれぐらい経ってだったかなあ。――イリヤちゃんみたいに、直ぐには教えてもらえなかった気がする」
 そこで大河は言葉を止めた。一度、大きく伸びをする。
「だから、そのことが羨ましいなあって」
 そして普段のように、にこっと笑ってそう言う。
 イリヤは、その表情を見て憮然とした表情を作った。
「そんなこと言ったら、タイガのほうが良いじゃない。ずっと昔から一緒にいるから、私なんかより、よっぽどシロウのこと知ってるくせに」
「まあ、それはね。一緒にいた時間だけなら、誰にも負けてないのは確か。――けど、最近思うようになったんだけど、士郎の家に来る子達ってどこか近寄りがたいじゃない」
「それは、私のこと?」
「ううん、そうじゃなくてみんな。桜ちゃんや遠坂さんに、セイバーちゃんやイリヤちゃん。みんな確かに良い子だけど、どこか近寄れないって言うか、近寄ることを許してくれない雰囲気があるのよね。仲良くはしてくれるけど、ここから先へは踏み込まないでっていうラインも作ってる。――切嗣さんや、士郎とおんなじで」
 ゆっくりと大河は語る。
 暗くなりはじめた公園の中、その表情は影となっていてよ詳細には読めない。
「最初はまあ、年頃の子達だから色々難しいのかなって思ってたんだけど、ある時気がついたのよね。いつだったかは忘れたけど、何かをみんなで話している時に。――壁を作られてるのはわたしだけだって」
「……それで?」
「桜ちゃんも、遠坂さんも、二人とも他人に自分から接しようとしない種類の人なのに、士郎にはよく話しかけるどころか、逆に積極的に関わろうとしてるような節もあるってことに気がついて。この子達、実は士郎が好きなのかなーとか、うちの弟を見初めるとは良い目してるわねだがやらんっとか最初は思ってたんだけど、途中でやっぱり違うんだなって気づいちゃって」
 とうとうと大河は言葉を口にしていく。次から次へとよどみなく語られる言葉を、イリヤは静かに聞いている。
「そのきっかけになったのがセイバーちゃんかな。切嗣さんが死んじゃって、士郎と二人で暮らしてる時から、何か足りない、何かが足りないって思っていたものが、あの子に会った時に見つかったような気がして。セイバーちゃんってすっごく綺麗で、そこにも驚いたんだけど、それよりも士郎の隣に自然と並んでたことに驚いたのよ。歯車が合うっていうの? 欠けたピースがかちって合わさるみたいな、そんな印象があって。それで気づいちゃった。……ううん、思い出したのかな? 忘れようとしてたことを」
 そこで大河は、喉を潤すためか、ベンチに置いていた飲みかけのジュースを口に含んだ。
 ゆっくりと飲み終えてから、再び口を開く。
「――真面目な話、イリヤちゃん達って、わたしの知らない何かで繋がってるわよね?」
 何気ない口調で、尋ねる。その声に糾弾するような響きはない。
 イリヤは何一つ態度を変えずに、その質問を聞いていた。
「どうしてそう思うの?」
 そして広場に視線を向けたまま、尋ね返す。その表情は、読めない。
「まあ、大部分は勘かな。――あと、似てるのよ」
「似てる? 何が?」
「今の家と、昔のあの家。切嗣さんと士郎が二人で住んでた頃と、今のあの家の雰囲気が」
「雰囲気って、それはどういう風に?」
「どういう風にって言われても、口ではうまくいえないんだけど。――とにかく似てるのよ。何だか暖かくって、だけど絶対にわたしには踏み込めない場所があって。その線引きが怖いぐらいにしっかりしてるところなんかは、特に。――それと、士郎かな。隠してるつもりなのかもしれないけど、そこまでわたしだって士郎を見てないわけじゃないから」
 そこで言葉を止める。
 一瞬、沈黙を肯定するかのように、公園の中に吹いていた風が凪いだ。
 そして続いて、その空気をゆっくりと押しのけるように、イリヤが言葉を発した。
「長年、一緒にいたタイガがそう言うのなら、そんなことが本当にあるのかもしれないわね。――私に言えることはそれだけよ」
「うん、解ってる。別に問い質したかったわけでもないから」
 感情の読めないイリヤの言葉を聞いた大河は、不快そうな表情も見せずにただ頷く。
 その未練のない態度に、逆にイリヤが表情を揺らがせた。少しだけ感情が顔をのぞかせる。
「……やけにあっさりしてるわね。そこまで気にするほどのことでもないってことなの?」
「ううん。そのあたり知りたいっては思ってるわよ。だけど、まあ知らなくても良いのよ」
「――それは、どういう意味で?」
「結局、知ったとしてもわたしは変わらないだろうから、それでいいの。士郎好きだし、桜ちゃん好きだし、イリヤちゃんも好きだしって感じで、何があってもきっとわたしの今の気持ちは変わらないだろうなあって思ってるから」
 あっけらかんと放たれた言葉は軽いのか、それとも重いのか。どちらであるかは解らない。
「それに、そもそも昔だってそうだったんだから。切嗣さんも何も言ってくれない人だったけど、そんなあの人をわたしは好きになったから、そのあたりを敢えて聞かなきゃいけないっていうわけでもないのよね。少なくとも今は、そう思ってる」
 語り終えた大河は、肩から力を抜くように、ふうと息を吐いた。
 その様子をイリヤが眺める。
「そうなんだ。なら、最後にもう一つ質問しても良い?」
「何? 答えられそうなことなら、何でも良いよ。こんな機会は滅多にこないだろうから」
「タイガ。――あなたはもしも、あなたの言う秘密が私たちの間にあったとして、その秘密を私が教えるとしたら聞きたい?」
 まるで試すような視線を湛えて、イリヤがそんな質問を口にする。
 大河の目が一瞬だけ見開かれる。だが、その表情はすぐに元に戻った。
「そうね、聞きたいって思いはあるけど、今イリヤちゃんからそう聞かれたら答えはノーかな」
「どうして?」
「まあ、何だかんだ言っても信じてはいるのよ。士郎がわたしに何も話してくれないのは理由があるんだろうなって。だから、ここでイリヤちゃんからそのことを聞き出したら、頼れるお姉ちゃんとしてはまずいじゃない」
 大河はそこで恥ずかしげに笑った。そしてそのままベンチから立ち上がって、少し離れる。
 イリヤの真正面にあたる位置まで歩いていき、そこでくるりと体を反転させて振り返る。イリヤと視線を合わせる。
「だから、これからもこのままで悪くはないのよね。ただちょっとだけ、そのことが羨ましくもあったんだけど、今イリヤちゃんに話せたからすっとしたみたい」
 満足そうに笑って、大河はそううそぶく。そしてそのまま公園の入り口に体を向けた。
「――なんてこと言ってたら、もう時間がなくなってるわね。急いでバス乗り場まで行こう」
「確かに、少し長く話しすぎたかもしれないわ」
 大河の言葉に、そこでイリヤも立ち上がった。
「うん、次の便までここで過ごすのは、ちょっと寒すぎるだろうから急ごうよ。それに、そうしないと夕ご飯片されちゃってるかもしれないから」
「そうね。それは一大事だわ」
 言って、イリヤは大河の横を歩いた。静かな公園に、連れ添うように並びあったでこぼこな二つの影が生まれる。広場まで伸びているその影は一つところに留まるはずもなく、そのまま公園の出口まで向かう。。
 来た時と同じように、二人は一緒に公園を後にした。


   /4

「最近は暗くなるのもあっという間になったよね」
「そう? この国は結構夜になるのが遅いような気がするけど」
「そっか。イリヤちゃんはドイツの人だったっけ。あっちは北にあるから、冬になるのも早かったのよね、確か」
「ええ。今の時期なら、もう五時くらいになれば暗くなってるはずよ。ドイツの冬は暗くて寒いの。一度、見に行ってみるといいわ」
「ふーん、そうなんだ。まあお金とか時間とか、そもそもパスポートとかないから、今すぐには無理だろうけど、暇ができたら考えてみるね。――って、気がつけば着いてたや」
 衛宮家の正門の前。バスを使って新都から戻ってきたイリヤと大河の二人は、話しながら時間を潰している間に、家へと辿り着いていた。
「どうする? 士郎帰ってきてるだろうけど、突撃しに行くの?」
「うーん、何だか今日は色々あったから、もう何もしなくてもいいかなって思えてきたのよね。だから、その場の雰囲気で判断してみることにしてみようかな」
「士郎見て、行きたくなったら行くってことね。解った。それなら今日はハロウィンだってことは、士郎には言わないでおく」
 玄関の前、小声で二人は悪巧みをする。
「それで頼むわ。もし驚かせるなら、士郎の反応があったほうが楽しいから」
「よっし。任せて。士郎いじるためなら何だって協力してあげる」
 大河はそう結論を出すと、玄関のドアに手を伸ばした。古くなってしまったが、それでも整備されているために滑りの良い引き戸のドアを開ける。――そして。
「トリックオア、トリートっ」
 少しだけ恥ずかしがっているような声が聞こえた。二人の動きが止まる。
 イリヤが持っているようなかぼちゃのお面を被ったその声の持ち主は、穂群原女子生徒の服を着ていた。出るところは出て、くびれるところはくびれる。そんな体型をした女性は、この家では限定されている。
 大河は知らず、間の抜けた声を上げた。
「うわぁ。どうしたの桜ちゃん。それ」
「えっと、変ですか? 後輩の子の実家がおもちゃ屋らしくて、これをくれたんです。それで」
 そこで桜はお面を外して、胸の前に両手で持った。やはり恥ずかしかったのか、伏し目がちな目をして大河を見ている。
「それでわたしにやってみたの?」
「はい。ダメでしたか?」
「いや、別に良かったんだけど、それよりも士郎にやれば良かったのになって思って」
 先手を打たれた格好の大河は、気勢をそがれたような表情で、そんな言葉を搾り出す。
 だが、その言葉を聞いて桜は首を横に振った。
「先輩には最初にやってみたんです。だけど、声が小さい、恥ずかしがってるから聞こえないって言われて。それで藤村先生が帰ってくるだろうから、そこで練習してみろって」
 はあ、とそこで桜が落ち込むようにため息をついた。
 その様子を見て大河は少し黙り込んだ後に、隣にいるイリヤに語りかけた。
「桜ちゃんってば、もう士郎を驚かそうと思って失敗しちゃってるんだって」
「そうみたい。朝からハロウィンがどうとか言ってたのも予定があったからなら頷けるわ。――それならもう、シロウは気構えができてるわよね。しかも、サクラが持ってるのは私のと同じお面みたいだから、このままじゃ完全な二番煎じじゃない。アインツベルンの名に相応しいお面を取り寄せなさいって、セラに言っておいたのに」
 悔しそうな表情で、イリヤが歯噛みする。その様子を見た大河は苦笑した。
 二人の会話を聞いていた桜は、目に見えて狼狽し始めた。
「あの、もしかして私――」
「ああ、良いのよ。こういうのは昔から、先にやっちゃった者の勝ちって決まってるんだから。桜ちゃんはいつだって畏まりすぎてるんだから、堂々としていれば良いの。それで、イリヤちゃんはどうする? もう止める?」
「何だかサクラに負けたままっていうのは癪ね。今からでも、やってくるわ」
 むむ、と眉の辺りに力を込めてイリヤが答える。
「そっか。なら適当に頑張って」
「言われなくても解ってるわよ。それよりもタイガこそ、サクラの相手をしてあげなさいよ。サクラはタイガに、トリックオアトリートって言ったんだから。――言わばそれは、挑戦よ」
 きっとした視線を、イリヤは桜に向ける。
 その台詞を聞いていた大河は、おやっという顔をした。そして納得する響きでもあったのかうんうんと首を縦に頷かせた。
「ふむふむ。言われてみるとそんな気がする。挑戦かあ。冬木の虎と勇名を馳せたわたしに挑戦するとはいい度胸してるわね桜ちゃん。と、いうわけで」
「え、え――?」
「覚悟はいいかコンチクショー! よく考えてみれば士郎に行く前にわたしのとこに来てたらまだ可愛げが有ったのに、まるでしょせん二番煎じのような扱い断じて我慢なるものかァッ!」
 ぎゃぼー! という怪獣のような雄叫びが響く。大河はいつものポーズで咆哮を上げた。
 お面を両手で持った桜は、怯えるように一歩後ずさりする。
「……別に、そんなつもりだったわけじゃ」
「良いわよ良いわよ、どうせ桜ちゃんが士郎にフォーリンなのは丸っとお見通しなんだから! そんなお姉ちゃんよりも弟を優先するような桜ちゃんにトリートなどあげるものかっ! むしろトリックし返してやるからそこに直れ!」
「きゃ、ちょっと、やめてください、藤村先生っ」
「やめてといわれて止まる虎はいないッ――!」
 どたばたばたと廊下を走る音がする。飢えた獣のように襲い掛かる大河が、逃げる桜を追って、廊下の曲がり角へと消えていった。姿が見えなくなっても、少しの間は騒々しい音が家の中を賑わす。
 イリヤは、暴れるような音が聞こえなくなるまで玄関に立っていた。そして静かになってから靴を脱いで家に上がる。
 と、そこに声がかけられた。
「まったく……今の音、藤ねえなんだろうけど、イリヤは理由が何か知ってるか?」
 エプロン姿の士郎が、おたまを持ったまま玄関が見える場所まで現れる。呆れたような表情で、大河と桜が走り抜けていった廊下を眺めている。
「いつものじゃれ合いよ。気にしなくても、すぐに終わるんじゃない?」
「そうか。それなら大丈夫、なわけじゃないけど放っておいてもすぐに終わるな。――あとであの虎叱っておけばいいか」
「うん。きっと飽きたら戻ってくるわよ。それか、食事ができたら」
「確かにそうだよな」
 そこで面白そうに士郎が口元をほころばせる。
 イリヤはその様子を見て、小首を傾げながら上目遣いで士郎を見つめた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「うん? 何だ?」
「ちょっと後ろを向いてくれない?」
「後ろって、――こんな感じでいいのか」
 大して悩みもせずに、士郎はあっさりと後ろを向いた。イリヤに向かって背を向ける。
 その余りにも無防備な背中に向かって、イリヤはぽすんと抱きついた。
「どうしたんだ? いきなり抱きついてきて――って、そのお面」
 腰に腕を回して抱きついてきたイリヤを見下ろした瞬間に、士郎の目が少しだけ見開かれた。イリヤの頭の上に乗っかっているジャックオーランタンを模した面に視線がそそがれる。
「桜からもらったのか? それ」
「ううん。自分で持ってきたのが、サクラのと同じだっただけ。だからつまらなくなっちゃったんで、種明かししておくね」
 そこでイリヤは自分の顔をこすりつけるように、もう一度ぎゅっと抱きついた。
「うん、悪いけどやっぱりこっちのほうがいいな」
「こっちって、何が?」
「何でもない。気にしないで。――それよりもお兄ちゃん、私がトリックオアトリートって言ったらどうする?」
 そこでイリヤは士郎に回していた腕をほどいた。そして一歩後ろに下がる。
「何だ、悪戯するつもりなのか? それなら別に何をしてもいいぞ。よっぽど無茶なものがない限りは、受け入れられる。あ、それともお菓子が欲しいなら、得意な分野じゃないけど作ってやれるぞ。出来の方は、自信ないけどな」
 体を振り返らせながら、士郎は無愛想ながらも優しくそう答える。
 その表情を見たイリヤは、嬉しいような、呆れたような、どちらとも言えない様な表情を見せた。
「はあ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだね」
「どういう意味だ?」
「別に、そのままの意味よ」
「む、解らないな。どういうことなのか、さっぱり」
「まあお兄ちゃんならそんなところだろうね。少し心配だけど、そのままでいて欲しい気もするから、ちょっと難しいな」
 何を言われているのか理解できていない表情の士郎を見て、イリヤはくすくすと笑った。
 そして頭に載せていたかぼちゃの面を外して、士郎に渡した。
「はい。これ上げる。私はもう使わないから。――だからハロウィンらしく、誰かに悪戯しに行ってね」
「どういうことだ? 俺はそもそも、こんなの被るような年じゃないぞ。それにこれ以上、隣の家に混乱を撒き散らしたくないんだけど」
 意図を測りかねたように、士郎が首を傾げる。
 だが、イリヤはそのまま押し切って面を受け取らせた。
「いいから。シロウは何をしたって驚かなさそうだからつまらないの。だから、私は何もしないわ。その代わりに、シロウがそれを使ってハロウィンを満喫しなさい。どこか他の家じゃなくてもいいから。この家で」
 子供じみた口調から年上のような口ぶりへと変えて、イリヤが命令するかのように言った。士郎に向かって人差し指を押し付ける。
 士郎は怯んだのか、少し戸惑った表情を見せた。
「いや、だから年がもう――」
「年齢なんて関係ないわよ。それに、いるじゃない。この家にはまだシロウより年上なのが一人」
「年上ってあれか? あれに向かって俺がトリックオアトリートとか言うのか? それは無茶じゃないか、イリヤ」
「無茶じゃないわよ、ぎりぎりだけど。――それにシロウはサクラにもやらせたんでしょう? なら自分だけやらないのは不公平じゃない。そうでしょう?」
 ごねたように言葉を紡ぐ士郎に、ぴしゃりとイリヤが返す。舌戦では士郎に勝ち目はほとんどない。
 口ごもる士郎に、なおもイリヤは続けた。
「あーあ、シロウがそんな人だったなんて思ってなかったなあ」
 純粋な子供のような声で、イリヤが呟く。
「サクラにはやらせておいては、自分がやるとなったらそうやって逃げるんだ」
 失望したような感情を声に乗せて、聞く相手の理性を揺さぶる。
 士郎は、その攻撃に大打撃を受けたのか、むむっと唸って真剣な表情で悩み、そして手元にあるかぼちゃの面を見て更に迷っているような表情を見せた。視線が面とイリヤを交互に移動する。
 イリヤはその間ずっと、口元に指を当てて小首をかしげる、可愛らしくてあどけない仕草で士郎を見返していた。
「……なーんだ、ずるいのね、シロウは。人と助け合わないといけないとか、私に言ったくせに」
 そして最後の一声。
 ぴきりっとそこで士郎の表情が固まる。そして数秒後、決心したかのように顔を上げた。
「ああ、解ったよ。やってくれば良いんだろう? ――別に藤ねえにこんなことやるぐらい、どうってことないさ。多分」
「うん、それでこそ私のシロウ。頑張ってね」
 宣言した士郎の逃げ場を塞ぐように、イリヤが言葉を続ける。士郎はその応援に力強く頷いた。
「任せろ。やってやるさ。だからイリヤも、みんなと仲良くできるように頑張るんだぞ?」
「うん、解ってるよ、お兄ちゃん」
 念を押すような士郎の言葉に、こくんっとイリヤは首肯した。そして続いて、廊下に立ったままの士郎の背中を押す。
「だからね、行ってらっしゃい。どんな反応があったか後で聞かせてね」
 にこりと笑って、突撃の指示を下す。
 士郎は一瞬、顔をひくつかせそうになったが、それを笑顔という名の努力で飲み込んだようだった。
「ああ、行ってくるよ」
 そして、その背中にどこか悲壮な決意を感じさせながら、士郎は歩き始めた。一度、足を踏み出せば決して止まらず、目標が縄張りにしているだろう場所まで、いかなる困難に見舞われようとも突き進む。おたまとエプロン、それにかぼちゃの面を装備したままに。
 イリヤは最初面白そうにその様子を眺めていたが、途中、士郎が廊下を曲がって視界から姿を消した瞬間に、表情を静かなものへと変えた。
「……あーあ。何やってるんだろう、私」
 ぽつり、と呟く。まるで別人のような声。イリヤは髪を億劫そうにかき上げてから、士郎が向かったのとは別の方向へと歩きはじめた。
 衛宮家の食卓に当たる、居間まで向かう廊下を一人で歩いていく。軽いイリヤの体重では板張りの廊下も軋まず、ただ布と廊下が擦れるような音だけが響いた。どこかその音は、広い廊下と比べると弱弱しい印象を受ける。
 そして暫くすると、居間へとたどり着く。
「――何だ、いたの。リン」
「何だとは御挨拶ね。別に私がいたって問題ないでしょうに」
 居間にはすでに、テーブルの上に出されたお茶請けに手を出している凛がいた。士郎から入れられたのだろうお茶を脇に置いて、テレビを見ている。街中で見る凛とは違って、どこか気を緩めているように思える。
「別に嫌味で言ったわけじゃないわよ」
「そう? なら良いんだけど」
「当たり前よ。今日は疲れたから、これ以上体力を使うことはしたくないわ」
 イリヤはそう言いながら、凛の対面、座布団の上に座りこむ。
 その声を聞いた凛は、テレビに映る芸能人に視線を固定したまま、何気ない声で尋ねた。
「疲れたって、また士郎で何かしたの? あんまり苦労かけるものじゃないわよ」
「士郎で遊んでるのはリンだって同じじゃない。――それに、今日は違うわ。タイガよ、タイガ。夕方からずっと付き合ってたから、足がくたくたよ」
「へえ、藤村先生と? 珍しいわね」
 そこで驚いたのか凛は視線をイリヤに向けた。煎餅を取ろうとしていた手を止める。
「ええ、もうひどかったんだから。最初にシロウと間違えちゃったのが運の尽きね」
 そう言って、疲れたようにイリヤはため息をついた。そしてその言葉を皮切りに、一日の出来事を話し出す。
 ハロウィンだから士郎に何かしようと考えたこと。間違えて大河に抱きついたこと。士郎を追いかける流れになったこと。コペンハーゲンまで歩いていったこと。目的地に着いた時には、既に士郎が帰宅していていなかったこと。バスの時間つぶしのために、公園でジュースを飲んだこと。
 それらのことを、残念そうに語っていく。
「――だから、本当に今日は運が悪かったのよ。って、聞いてるの?」
 一通り語り終えたイリヤは、憮然とした表情で確認するように凛に尋ねた。その原因は、イリヤを眺めながらにやにやとした表情を浮かべている凛にあるのだろう。
「ええ聞いてるわよ、イリヤ。続けてくれないかしら」
「……本当に? だったら、どうしてそんな顔をしてるの」
 凛はまるで面白い玩具でも見つけたような表情をして、イリヤの顔を眺めている。
「さあ? それは何か楽しいことでもあったからじゃない?」
「はぐらかさないで。リンにそんな顔をされると気持ちが悪いんだから」
「酷いことを言うわね。――なら、お言葉に甘えて言わせてもらうけど、士郎があなたをこの家に入れている理由が解ったから、面白くって笑ってたのよ」
 くすくすと楽しそうに笑って凛はイリヤを眺める。
 理由も解らず笑われているイリヤは不満なのか、眉根を寄せた。
「それは、どういう意味?」
「そのままよ。あなたも変わっているなってこと。少し昔のあなたなら、シロウを追いかけて藤村先生と二人で新都までなんて行かなかったでしょう?」
「……それは、タイガが強引に話を進めたから仕方がなかったのよ」
 凛の問いかけに、イリヤは少しだけ言葉を詰まらせてから答えた。
「本当にそうなの?」
「そうに決まってるじゃない。あくまで仕方なく、よ」
「そうなんだ。まあ、それはその答えでも納得がいくわね」
 頬を膨らませそうなイリヤの言葉に、余裕を持って凛は頷く。
 そしてあくまで上品に次の質問に移った。
「それなら聞くけど、そもそもあなたが藤村先生と士郎を間違えたっていうのはどうして?」
「同じくらいの身長で、二人共帰ってくる時間がいつも重なってるから間違えたの」
 間髪入れずに、反論を挟ませないようにイリヤが答えた。だが、その返答を聞いて凛はさらに笑みを深める。
「普通の人やお人よしの士郎なら信じるかもしれないけど、私にはそんなことは信じられないわね。この家は異質すぎるから忘れがちになるけど、私達は紛れもない魔術師なのよ。私も、そしてあなたもね。――そんな魔術師であるはずのあなたが、誰が帰ってきたのかを読み間違えることがあるとでも思っているの?」
 凛はゆっくりとした口調で、だが畳み掛けるように言葉を口にする。その様子はどこか魚をなぶる猫に似ていた。
「遠見はあなたの専門分野。そうよね? イリヤスフィール」
 追撃するように一言。
 凛はいよいよ会話に集中するためか、リモコンに手を伸ばしてテレビの電源を切った。そしてイリヤの顔を正面から覗き込んだ。テレビの雑音が消えて、部屋の中に二人の息遣いだけが残る。
 気圧されるようにしながらも、イリヤはどうにか言葉を返すためか口を開いた。
「それは、少し気を抜いていたから。この家にいると、どうしてもそういう部分が疎かになるのよ」
 そこまで語るのが精一杯だったのか、そこでイリヤの言葉が途切れた。あとは不満そうな目で凛を見据えるだけだ。
 しかし、凛の表情は変わらない。普段ならば二人の弁舌は互角といえるのだが、今日ばかりは完全にイリヤの劣勢であるらしい。
「ふうん。それならそれで、やっぱりあなたは変わっているのね。半人前とは言っても魔術師の家で気を抜くなんて」
「……何よ。それが悪いの?」
 苦し紛れなのか、イリヤはそう言葉を返した。それは負けを認めたも同然だった。普段なら、そこから切り込んで凛はイリヤをいい様にもてあそぶことだろう。
 だが、今回は違った。
 凛はイリヤの質問に、首を横に振った。
「――いいえ。それは正直、羨ましいわね」
 笑っているが、その声は少しだけ寂しい。凛はイリヤを追い詰めることもせずに、普段は見せることのない表情を浮かばせた。
 ふと、居間に流れていた空気が色合いを変える。
「羨ましい? それはどういう意味?」
「字面のままよ。私はあなたが少し羨ましいわ」
「羨ましい羨ましいって、何が言いたいのかさっぱり解らない」
 理解出来ないことが不快なのか、眉根に力を込めてイリヤは凛を見据える。凛はその様子を見て、微笑みというよりもどちらかといえば苦笑いといえる表情を作った。
「そうやって変われるところがよ。私なんて、まだ変わる切っ掛けも掴めていないんだから。――ううん、変わる必要性さえ感じていないって言うのが正しいのかな」
「……リン、あなたの言っていることは抽象的すぎて解らないわ。具体的に説明してくれない?」
 困惑したような感情の中に、苛立たしげな色が混ざり始める。イリヤは視線を強めた。
「悪いけど、これ以上は口に出して言えないの。心の贅肉だけど、もし言うとしたなら、最初の相手は決めているのよ」
 だが、どれほど強く睨みつけても凛は動じない。そこから先には決して踏み込ませないというラインを作って、否定する。
 柔らかく聞こえるが、その実堅い声を聞いて、イリヤは怒ったような表情を見せた。
「何よ。聞かせたくないなら、そんな思わせぶりな態度なんて取らなければいいのに」
「確かにそれは道理ね。だけどまあ、ただそれらしいことを口にしてみたくもあったのよ。たまたまあなたが近くにいたから、その独り言に付き合わされたってわけ。野犬にでも噛まれたと思って、諦めて」
「ふん、別にリンのことなんか聞きたくもないから良いわよ」
 イリヤは素っ気ない声で、そう言った。顔を横に逸らす。
「手厳しいわね。だけど、感謝しておくわ」
「感謝するぐらいなら、その何かをやってしまいなさいよ。リンらしくもない」
「そうね、あなたの言う通り。だけど、踏み込めなかったのよ。――もう少し。それだけの時間があれば、切っ掛けなんかも作れそうだって思ってたんだけど」
 テーブルの上。肘を突いて凛は、左右の指を絡めた。そして顔を逸らしているイリヤを見る。
「だけどまあ、それも逃避でしかなかったみたい。あなたを見て、気が変わったわ。――今度、遊びにでも誘ってみようかな」
 そう最後に言ってから、凛は普段の勝気な笑みを浮かべた。しんみりとしていた空気が途端に色を取り戻していく。
 凛の視線の先では、変わらずイリヤはそっぽを向いていた。


   /5

 衛宮邸の中にある、大河の部屋。そこに大河はうつぶせの格好でころがっていた。四肢を畳に放り投げて大の字の格好になって寝そべっている。そして、その大河の上には桜が乗っていた。大河の腰の部分をマッサージしているのか、両手を使って指圧している。
「おあー、あうあー、くっ、ぬうっ」
「うわー、凝ってますね。意外と凝りやすい体質なんですか?」
「いやね、もう桜ちゃん達とは違って、おうっ、年だから」
 体重をかけて桜が大河の背中を押すたびに、気持ちいいいのか痛いのか、どちらか解らないような声が漏れる。
「そんな。まだまだ若いですよ、藤村先生は」
「んー、ありがと。――あ、桜ちゃん、もう少し強くお願い」
「はい、解りました。こうですか?」
「ん、んっ! いいわね。そんな感じでっ。くぅあっ、もう桜ちゃんってば天才かも!」
 ゆっくりと体重をかけて背中のつぼを押していく桜の指圧に、大河は手足をばたばたと動かす。よほど気持ちがいいのだろうが、傍から見れば痛みにのた打ち回っているようにも見える奇妙な光景だ。
「ここなんてどうですかー?」
「マーベラスッ! お姉ちゃんは感動した! だから桜ちゃんに、さっき買ってきたばかりのジュースをあげよう! ――ってわけだから桜ちゃん、そこに置きっぱなしにしているジュース持ってっていいわよ」
 くわっと一度大きく目を見開かせて叫んだ後、大河はくたりと倒れて部屋の隅っこを指差した。そこにはぽつんと所在なさげに桃色の缶ジュースが立っていた。
 その姿を見つけた桜は、大河の上に乗っかったまま動かしていた腕を止めた。両の掌を、大河の腰骨辺り触れさせた状態で尋ねる。
「あれ、どうしたんですか?」
「んー、あれね。対ちびっ子誘惑用の最終兵器だったんだけど、かわされちゃったんで売れ残ってたのよね」
「はあ。ちびっ子、ですか」
 恐らくは解っていないようなきょとんとした顔をして、桜は呟いた。
 そして、そんな桜の雰囲気にはまるで気づかずに大河は一人頷く。
「そ。そういうこと。――あ、桜ちゃんこのへんでいいわよ。だいぶ助かったから」
「もういいんですか?」
「うん。まあね。っていうか、そろそろ桜ちゃんもきついだろうし、それにお姉ちゃんのありがたみも解っただろうから。ね?」
 背中の上に乗っている桜に同意を求めるようにして大河が言った。首だけを振り返らせて桜を見る。
 桜はその視線を受けて、くすりと笑った。そして顔をほころばせたまま、言葉を返した。
「はい、そうですね。ありがたみが身にしみちゃいました」
 そのまま桜は立ち上がって大河の上からどいた。そして、一歩後ろに下がって畳に座る。
「そうよねそうよね。さすが桜ちゃん。その謙虚な態度、あの士郎にも見習わせたいなー」
 その様子を見ていた大河が、嬉しそうに寝転がったままの体勢で笑った。そして、余力が有り余っているのかごろごろと畳の上を転がりまわる。転がりすぎてごんっと壁にぶつかると、方向転換して今度は逆のほうへと転がり始める。すると次は、進行方向に座っていた桜へとぶつかった。ぽすんっという音がする。
 桜は自分の足元に転がっている大河を見ながら口を開く。
「先輩はもう見習う必要ないんじゃないですか? 私なんかより、ずっと解ってると思いますよ」
「ううん、駄目ね。あの子は駄目。もう何というか、日に日にわたしの扱いがぞんざいになってるじゃない。ここは一発ガツンと、お姉ちゃんぱわーというやつを刻み込んで上げなきゃいけないなと思ってたんだから」
「そうなんですか?」
「そうなのよぅ。具体的に言うと、あんまり構ってくれないところとかが。――それにしても、桜ちゃんはそこんところ士郎と違うからいい子ねー」
 そこで何故か感極まったのか大河が寝そべったまま桜に抱きついた。腕を桜の背中に回してぐいぐいと顔を、桜の正座している太腿に押し付ける。
 桜は困ったように笑った。
「もう、先生。そんなことしたら、汚れちゃいますよ」
「いいのいいの。これで汚れるなら本望だから。だりゃーっ」
 むずがるような表情の桜に気づいているのかいないのか、そのまま大河は腕に更に力を込めた。ぎゅうっと桜に抱きつく。
 困ったような顔を浮かべていた桜は、やがて観念したかのように息を吐いた。
「洋服だって、畳で傷ついちゃいますけど、知りませんからね」
 そして薄く笑う。
 桜は、そのまま抵抗するのを止めた。ぎゅうぎゅうと抱えられるがままになっている。会話が止まる。ただ、意思の疎通が止まっているようには見えない光景だった。そのまま時間が流れる。
 そして、いくらかの時間の後。その静かな時間を止める音が響いてきた。
 こんこん、と。ふすまを叩く音がする。
「藤ねえ、いるかー?」
 それは士郎の声だった。その瞬間に反応した大河はゆっくりと起き上がる。
「なに、士郎? いるわよ」
「そっか。じゃあ入るぞ。いいな?」
「いいけど、どうかしたの?」
 ふすまを挟んで反対側から聞こえてきた声に大河が首を傾げる。隣で座っている桜も、不思議そうな顔をしていた。
 だが、それに気づけるはずもなく士郎は部屋へと入ろうとしていた。ふすまが動く。
 そして、すぐにぴしゃりという音を立てて開いた。
 その瞬間に、大河と桜の動きが止まる。
「は? 何それ士郎」
 二人を代表して大河が呟いた。視線の先には士郎がいる。おたまにエプロン、ここまではいつもどおり。だが、顔に看過できないパーツが付属している。それはどう見てもかぼちゃだった。ジャックオーランタン、それがある。
 士郎は、その声にむすっとした声で応じた。
「俺だって知るか。何かイリヤがやれってねだるからさ、仕方なく。隣の家に行くよりはこっちに来たほうがましだろ? だから来たんだよ。――ほら、トリックオアトリート」
 そして凄く嫌そうな声で、お菓子をねだる子供の真似をする。
 その瞬間に、更に大河と桜はぽかんとした表情を浮かべた。
 一瞬、場が止まる。
 その光景を見た士郎は、即座にお面を顔から外した。そして不機嫌そうにむすっとした顔をさらけだして二人を睨んだ。
「何だよ。言いたいことがあるなら、言っていいぞ。藤ねえ、桜」
「……あの、ええっと。意外と似合ってましたよ先輩」
 士郎の態度に痛々しいものを感じたのか、桜がフォローするようにそう言う。だが、その言葉を聞いた士郎は普段の仏頂面をさらに可愛くない方向へと変えていった。憮然とした表情になる。
 その様子を眺めていた桜は、わたわたと手を振って慌てたようにしながら言葉を続けた。
「少なくとも、私なんかよりは。――そうですよね? 藤村先生」
 応援を頼むように隣にいた大河を見つめる。
 だが、大河はその声に答えなかった。ぷるぷると唇を震わせながら、黙っている。
「あの、藤村先生?」
 様子を不審に思ったのか、桜がもう一度声をかける。
 だが、それでも大河は答えない。それどころか、先ほどは唇だけだった震えが肩まで広がっている。何かを我慢するように腹に手を当てて、大河はくつくつと体を震わせていた。
 そして、それが続いたのも一瞬。拮抗は直ぐに終わった。
 口の中で溜め込まれてきただろう声が、一気に外へと出て行く。
「あっははっ、いやーそうよね桜ちゃん! 士郎ったらこの年でこんなことして!」
 爆笑だった。
 つぼに入ったのか、黙り込んでいた分の時間を取り戻すかのように、大河は大声で笑った。ひーひーと、辛そうにして笑う間に呼吸を繰り返しながら、ばんばんと畳を手で叩く。そして、その動作がどんどん激しくなっていく。最後には、背中から畳に倒れこんで両手でばしばしと畳をしばきあげ始めた。
 自然と、士郎の顔が怒ったようなものへと変わっていく。拗ねたように、声を出す。
「笑いすぎだろ、藤ねえ」
「いや笑いすぎって、これでも堪えてるんだから。――それにしても思い切ったことしたわね。もう何ていうかお姉ちゃん感激」
 どうにか笑い声を抑えながらも、大河は頬を膨らませて士郎を見る。よく笑ったからなのだろうか、年の割には血色のいい頬は桃色に染まっていた。そしてぷぷーと口から空気をこれ見よがしに漏らしてみせる。
 すると対照的に士郎の声は硬度を増していった。
「うるさいな。もう二度としないから黙ってろ」
「いやいや、似合ってたわよ。イリヤちゃんがしろって言ったんだっけ?」
「ああ、何か知らないけどいきなりやれって言い出してさ。こっちも色々あったから乗ってやったんだ。それ以外に理由なんてないからな」
「本当にそう? 実は愛しのお姉ちゃんに無茶やってみたかったとか」
 と、そこで大河は上機嫌に首を傾げて士郎を眺めた。すると、士郎の仏頂面からはますます愛想が失われた。
 その姿を見て、更に大河は楽しそうに笑った。
「あ、うそうそ。ごめん士郎。もいっかいやって? 今度はばっちり記憶のアルバムに焼き付けておくから。桜ちゃんだって見たいわよね?」
 大河は士郎をからかって遊ぶ。話を振られた桜がおろおろとしていることは気にかけてもいない。家族だからか、それとも彼女の性質からか容赦がない。鼠をいたぶる猫のようだ。
「ほらほら、桜ちゃんだってそうだって、首を横に振って頷いてるじゃない」
「馬鹿、あれはいいって言ってるんだよ。勝手に変換するな」
「そう? あながち外れてもないと思うけどな。さっきの士郎、可愛かったし、もう一度桜ちゃんだって見たいはずだと思うわよ」
「ああもう、何とでも言ってろ」
 何度か続いた会話のキャッチボールの後。士郎は黙り込んでしまった。むすっとした顔で貝のように口を閉ざす。
 その様子に気がついたのか、そこでようやく大河は笑うのを止めた。目尻に浮かんだ涙を指で拭ってから、軽い体の動きで起き上がる。そして笑ったままの顔で、口を開いた。
「怒らない怒らない。これ、あげるから」
 ひょいっとそこで大河は何かを士郎に向かって放り投げた。放物線を描いて飛んだそれは、ゆっくりと士郎の手の中へと収まる。
 士郎は掌にある物を見て、少しだけ毒気を抜かれたような表情を見せた。
「……何だ、これ?」
「うちの台所番に悪戯されたら適わないからお菓子あげる。ポケットの中に入ってたやつだけど、多分士郎だったら食べられるんじゃない?」
 何気ない口調でそう言い放つと、もう大河は視線を士郎から外して、桜のほうを向いていた。
「そろそろお腹すいちゃった。晩ご飯、できてる?」
「あ、はい。できてますよ」
 いきなり話題を振られた桜は、おっかなびっくりしながらも直ぐに頷いた。その返答を聞いた大河は嬉しそうに笑った。
「そっかー。毎度ながら桜ちゃんはいい手際してるわよねー。で、今日の献立は?」
「え、あ、はい。今日はちょっと先輩と二人で凝ってみました。鶏肉とピーナッツの炒め物です」
「へえ、鶏肉とピーナッツ? 確かにソレは凝ってそうね。どんなのかよく解らないけど。――けど、まあいいか。行って見れば解るんだから。ってわけだから、桜ちゃん早く行こう」
 大河はそこで畳に座っていた桜の手をとった。そしてぐいっと持ち上げる。
「あっ、先生。ちょっと痛いです」
 桜は慌てながらも、その突然の行動に応じて立ち上がる。
「ごめんごめん。ちょっと力入れすぎちゃった。大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です、けど」
 そこで桜はちらりと横目で士郎を見た。が、大河は気づいていないのかそのまま桜の手を握って引っ張る。
「なら、いいわね。それじゃあ行こう」
 そのまま大河は桜の手をとって、部屋の外へと歩いていった。士郎の横をするりと通り抜けて廊下に出る。場違いな、ごっはんーごっはんーという鼻歌も聞こえ始める。
 士郎は呆然とした表情で、二人が出て行く様子を見ていた。
「あ、そうだ。言うの忘れてた」
 が、その途中。不意に大河が足を止めた。そして、桜の手を右手で握ったままに、くるりと顔だけを振り返らせる。士郎を見る。
「士郎、ハッピーハロウィーン」
 そして何でもないように、そう言って、また前を向く。大河はそのまま歩き始めた。その姿は直ぐに、桜と一緒に廊下の曲がり角に消えた。
 大河の部屋の前には、一人、士郎が残された。
 何をすればいいか解らないかのように、手持ち無沙汰な感じで立ち尽くしていた士郎は、やがて手の中にある飴玉の包装をほどいた。中にあった黄色いキャンディを口の中に放り込んで、もごもごと口を動かす。
「意外に甘いな」
 そしてぽつり、と。そう士郎は呟いた。