夕方の衛宮家。
 台所には一挙動一動作に魂込めてポテトサラダを作る士郎と、その後ろで料理の出来具合でもチェックしているのか、ちょこまかと所在無さそうに佇んでいるセイバーの姿が。
 そして食卓では、両手に箸を一本ずつ装備して茶碗をリズミカルに叩いている虎と、その様子を何か理解しがたいモノでも見るかのように白目で観察している遠坂嬢の姿がそれぞれ見受けられる。(桜は部活。
 この場所では、いつものメンバーによっていつも通りの日常が形成されていた。

「セイバー、ちょっと頼みたいことがあるんだけどいいか?」

 と、ボウルの中にある野菜と茹でたじゃがいもを菜箸でこねくり回してマヨネーズに和えていた士郎が、首だけをひねり後方のセイバーに向けて振り返った。
 顔をセイバーに向けているために手元が見えなくなっているにもかかわらず、士郎の腕の動きはまったく衰えない。まるで目を開けずとも台所という空間全てを知覚できると豪語するかのような手首の返しは正しく圧巻。鉄人よろしく料理を作る。
 流石というか何と言うか、取り敢えず最近まで高校生だったとは激しく認めたくない男だ。

「何でしょうか?」

 そんな士郎の声に反応してセイバーが答える。
 最近になって判明してきた事実ではあるのだが、はらぺこ王として名を馳せる彼女は食べることと同様に、調理に関しても多大な関心があるらしい。まあ、調理方法を覚えてしまえば家の中に誰もいなくても自分でご飯が作れるとか、そんなところが理由なのだろうが。
 ともかく、彼女は少しばかり嬉しそうに士郎の傍へとトコトコと近づいていった。どことなくはにかんだような表情で。ぶっちゃけて可愛い。

「ちょっと面倒かもしれないけど、いいか?」
「ええ、私に出来ることなら何なりとやってみせましょう」

 えっへん、と自信満々な素振りで胸を張って頷くみんなの騎士王。どうやら料理の手伝いに呼ばれたことが嬉しいようだ。
 何と言っても彼女が生まれた時代は、噛めばコルク栓かと勘違いしてしまいそうな堅い干し肉といった『味なんて論外、腹を満たすことだけが最優先』とでも主張するかのような食べ物を、大量の酒で胃の中に流し込むという食事スタイルが騎士の中では主流だったわけだから、塩やら唐辛子やら味噌やらの豊富な香辛料を駆使して衛宮家特級厨師が食事を完成させていく様は見ごたえがあるものなのだろう。
 そう考えると、彼女が料理に興味をもったとして不思議な話ではない。

「そうか。ありがとな。じゃあ――――」

 意気込み頷いたセイバーに対して、士郎は邪気が無さすぎて実はただの馬鹿なんじゃないのかと勘繰りたくなるような笑みを浮かべた後に、本題を切り出そうと口を開く。

「はい。何であろうとも必ず、期待に応えてみせます」

 その様子を見ていたセイバーは更にヤル気を見せつつ、小さな胸に右手をあてて直立不動の体勢を取った。その様子は、王に勅命を命じられる騎士の姿を強く連想させる――――二人が立っている場所が台所でさえなければ、だが。
 更には、場にそぐわない事この上なく彼女は小声で『いえ、流石にセビチェのような魚介類のマリネや粉皮フェンピーのような生春雨は初心者である私では作れないでしょうが、鯖のトマト煮程度の料理ならば造作も無く作れるはずです、シロウ。だってよく夕飯に出てくるから作るのは簡単なんですよね? 鯖のトマト煮は。――それならば私ができない道理などありません。なんといっても、すでに私はキャベツとレタスの区別がつくのですから。さしすせそに至っては言わずもがなというやつですよ』とか何とか、微妙にグルメ番組の見すぎで偏った知識の混じった妄想を呟いていたりもする。
 彼女の脳裏では、華麗に料理をしている自分の姿が鮮明に映し出されているのだろう。傍から見た限り、彼女は料理をするつもり満々だった。
 だが、

「なら、豚肉を買ってきてくれ。豚カタ切り落としで、百グラム九十円のやつをきっちり六百グラム頼むよ。あ、それと他にも足りなくなってきた物があるから、それもついでに頼む」
「――はい?」

 当然ながら料理の鉄人こと士郎が素人に包丁を握らせるわけが無かった。というか台所は彼のアヴァロンなのだから、他者の侵入を基本的に許さない。例外は遠坂嬢か桜ぐらいだ。
 俺は家事は好きじゃないなどとうそぶきながらも、士郎は決して包丁を手離そうとしないのだ。まあ、今さら特筆すべき点でもないが。

「はい、これがメモ。買ってくるものを書いておいたから。それと、これがお金。少し余ると思うけど、余った分で好きなお菓子を買っていいからな」

 セイバーが呆然としている間にも、士郎は彼女に食材の名前が箇条書きされた白い紙切れを手渡していく。そして、紙切れを渡し終わった後に、ポンポンと軽くセイバーの頭を撫でることも忘れない。
 依然、セイバーは止まったままだ。

「それじゃあ、六時までには帰ってきてくれよ。今日はセイバーも好きな豚肉しゃぶしゃぶだからな」

 ぽつーん、と。居間と台所を繋ぐ通路に立ったままのセイバーを放っておいて、そのまま士郎はまな板に向きかえり『波の〜谷間に〜〜命の〜花が〜』とか鼻歌なんぞを口ずさみながら調理を再開した。もはや彼の思考回路全般は家事に向いてしまっていて、セイバーのことなど気にかけてもいない。
 それは、料理ができると思っていたセイバーからしてみれば予想外の事態。
 てっきり料理の手伝いができると思っていた彼女が、士郎が言っていた『用事』がただの買い物だったことを理解するまでに、たっぷり数分の時間を必要とした。
 
「……私は、短冊切りだって、できるんですよ、シロウ」

 まな板の上で包丁を躍らせる士郎の姿が、すごく楽しそうに見えたのがセイバーには悔しかった。
 くしゃり、と、彼女の右手に渡されたメモ紙は知らず握りつぶされていた。












衛宮士郎。働く主夫。
      ――そして今回もオチはなく――












「まったく、シロウは何も解っていない」

 騎士王は不満だった。
 とても、本当に、心底、誰が何と言おうとも不満だった。あんまりにも癪だったから、もらったメモ紙を思いっきり握りつぶしてしまった程に。
 彼女は道端を歩きながらも、乳児のように瑞々しく張りのある頬を紅潮させ、澄んだ美しい碧色の目を見開かさせ、整った柳眉を斜め上に吊り上がらせて、精一杯に周囲に向かって自身の不機嫌さを主張していた。
 その様子は、老若男女、見るもの全ての目に微笑ましく映る可愛らしいものであるのだが、そんなことは彼女にとっては微塵も関係が無い。重要なのは、彼女が心の底から現状に不満を持っているという事実なのだから。

「私も料理くらいならば、すぐに覚えてみせるというのに」

 彼女にしてみれば珍しく不満を露にしているように思えるが、それもそのはず。ぶっちゃけると騎士王は料理がしたかったのだ。
 更に突き詰めれば、いつ士郎に手伝いを頼まれてもいいようにテレビの三分間クッキングは毎日かかさずに見ていた。ばれないように本屋で料理関係の入門書を立ち読みもしていて、料理の基礎的な情報ならば頭の中にインプットしていた。士郎が家にいないときには隠れて包丁の握りも確認してみていた。塩・コショウなどの各種調味料が置いてある位置も全て調べておいた。醤油には薄口と濃い口の違いがある事だって覚えた。士郎が台所に向かえば、それとなくついていって、いつ手伝いに呼ばれても大丈夫である事を楚々としてアピールもしていた。
 彼女は頑張っていた。
 それは確かに、出てくる食事の方に多くの意識を奪われたけれど、それでも料理を覚えたいと思って彼女なりに努力していたのだ。ともすれば鼻腔をくすぐる食の香りに意識を乗っ取られそうになりながらも、それでも歯を食いしばり、唾を飲み込み、腹を押さえて耐えていたのだ。
 士郎の一挙手一投足に注目し、料理の手順を覚えるために。そしていつ呼ばれても機敏に反応できるように。
 だが、
 結果は報われなかった。
 というか彼女の元マスターは周囲の微細な変化に気がつかない鈍感――――を、通り越して純粋培養馬鹿だったという事実だけがあったのか。或いは彼の持つ非常識なまでの家事へのこだわりがセイバーの望みをスルーしてしまったのか。
 なんとなく自身が食べる専門のキャラクターであるという雰囲気が衛宮家の中で定着してきたために、自分から料理を教えてくださいと言えなかったことに問題があったのかもしれない、とセイバーは思った。
 そして、だけれど、とも続けて思った。
 それくらいなら気付いてくれてもいいのに、と。
 少なくとも昔、出会ったばかりの頃の、無愛想ながらも周囲への気配りを忘れない溌剌とした青年であった士郎ならば気付いたはずだ。それなのに、さほどの年月が経過しているわけではないのに、どうして彼はこうなってしまったのだろう。ここ数日は家事をしている士郎の傍にいるのだからこちらの真意を汲んでくれてもよさそうなものなのに――――

「はあ……けれど、それはやっぱり無理な相談か。シロウは変わりすぎた」

 と、そこまで考え始めたところで、にへらー、と日夜幸せそうに笑っている現在の士郎の顔がセイバーの心の中に勝手に、しかも堂々と浮かび上がってきた。
 精悍という単語の真逆に位置するような馬鹿面。その頬の緩み具合には過去のむっつり顔の印象なんて軽く吹き飛ばされてしまう。何となく直視し続けるとため息をついてしまいそうな笑い方だ。というか既にセイバーはため息をついている。
 だが、

「――しかし、それも悪くはないのだろう」

 それは彼女からしてみれば悪い表情では無かった。少なくとも、斜に構えた態度で嫌味に皮肉を口にされるよりは心が軽い。士郎が身を切り、心を砕いて、人が抱くには大きすぎる理想を追いかけるよりは余程、望ましい。
 故にセイバーはその結論に至った時点で、現状からどう転んだとしても士郎が赤い弓兵へと至る道に足を踏み入れそうにないという事実に満足することにした。
 元来、彼女は一つの事を引きずる性格ではないし、そもそも今回のことは考え直してみれば不満を述べるに値しないほどの些細なものだと思い当たったからだ。冬木での生活を始めてから未だ一年の歳月すら経過していないというのに、自分は随分と感情を抑えられないようになったものだと、歩きながらも彼女は苦笑した。
 目を閉じれば瞼の裏に浮かび上がる、彼女が護りたいと願う者たち。セイバーは彼らが幸せであれば良い。
 今は消えたアーチャーが伝えたかったモノも、そんな風景の中に紛れているのではないか、とセイバーは根拠も無く感じた。
 気がつけば、些細すぎる不満など消えていた。

「ふふっ、私はいつからこんなに幼くなっていたのか」

 先ほどまでの様子が嘘のように、セイバーは苦笑しながら呟いた。目鼻口、そのどれも変わらずに先ほどまでと同じ容貌であるはずなのに、途端に浮かんだのは大人の微笑。それは、ともすれば見失いがちになる、彼女が士郎達よりも精神的に年上であるという事実を思い出させた。
 何というか、先ほどまで子供っぽく怒っていた姿からは想像も出来ない。
 そのまま彼女は優雅に背筋を伸ばして足を進め、

「さて―――買い物を早めに済ませてしま……おぅ」

 いきなり困ったっぽい呻き声を発した。
 彼女の右手の先には、常人を遥かに凌駕するサーヴァントの握力で握りつぶされて、ぐっしゃぐしゃのビリビリになったメモ紙がありましたとさ。







 ところ変わって衛宮家の居間。
 そこには、今日も今日とて煽情的な服装をした桜と、畳の上で「あ゛ーー」とか言いながら寝転がる色気もへったくれも無い藤ねえと、テーブルの上で何らかの新聞折込チラシを眺めている士郎の姿があった。遠坂嬢は別の部屋で休んでいるのか姿が見えない。

「先輩、何を見ているんですか?」(と言いつつ接近、接近
「ん? ああ、これを見ているんだ」

 呼びかけられた士郎は視線を手元にある雑誌から声の持ち主である桜へと向けて答えた。幸せいっぱい夢いっぱい、ついでに脳内アルファ波いっぱいな表情だ。
 彼が見ていたチラシには遠坂嬢にとって鬼門にあたる電化製品が、五割引だの七割引だのという言葉を謳い文句にして、これでもかと並べられていた。どうやら家電製品専門店のチラシであるらしい。

「ちょっと見せてもらって良いですか―――きゃっ、先輩ごめんなさい」(必殺、触れ合う指先!

 どうやら士郎の興味の対象が気になったのか近づいてきた桜だったが、不意に小さな可愛らしい悲鳴を上げた。
 原因はテーブルの上にあったようで、近寄ってきた桜が伸ばした白魚のような指先と、士郎の節くれだった堅い指先とが一瞬だけ触れ合っていたためだ。楚々としたぴゅあ少女である桜には、家族同然とは言え、異性に触れるだなんてショックが大きいものがあったのだろう。
 アホな士郎のことだからチラシの商品を見ていたために注意が疎かになっていたに違いない。こいつは本当にけしからん奴だ。

「おっと、悪かったな」
「ごめんなさい。ちょっと驚いちゃって」(作戦失敗……次はお風呂場でニアミスするべきかな、それともいっそ夜這―――って危ない危ない。実力行使は嫌われる原因になるから控えておかないと。プラトニックラブ。プラトニックラブ。プラトニックラブ。……ふう、一応は落ち着いた、かな?
「そうか。―――それでだけど俺が見ていたのはこれなんだ」

 更には「こんな事、どうってことはないだろう?」とでも言うかのように、士郎はその話題を打ち切り本題へと入る。こいつはもう少し異性への礼儀という奴を勉強した方がいい。

「へえ、ビデオカメラですか」(さんきゅっぱ、ですか。値切り交渉で一割引きと計算しても諭吉三枚に新渡戸が一枚……
「ああ、やっぱり色々とこれからは必要になるかと思ってさ。ほら、これからは記録に残したりしたいことが増えそうだろ」

 そう言って士郎はにこやかに微笑んだ。
 自分がこれから生まれてくる子供の姿をビデオカメラ片手に映像に収める姿でも脳味噌の中で考えているのだろう。何ともまあ呑気な表情だ。

「そうですね、先輩には必要かもしれませんね」(……それにしても幸せそうだなあ、先輩
「だろう? だから最近は金も貯まってきたから買ってもいいんじゃないかなと思ってさ」
「先輩は頑張っていますから、それくらいなら買っても大丈夫ですよ」(……私なんかには見向いてもいないんだろうなあ
「そうかな?」
「はい、そうです」(……諦めた方が良いのかなあ

 にっこりと綺麗に笑って桜は答えた。
 そして、隣に座る桜の言葉を頬をかきながら聞いていた士郎は、その言葉に後押しされたのか大きく頷き、

「―――よし、決めた。俺さ、これ買ってみるよ。相談聞いてくれてありがとうな、桜」
「これから生まれてくる赤ちゃんと姉さんと先輩の記録、たくさん撮れるといいですね」(……よくよく考えてみると現状は辛いなあ

 ほんの少しの間だけ桜の動きが固まったような気がしたのは見間違えなのだろうか。まあ、この状況で彼女が動揺する原因なんて無いのだから見間違えなのだろう。

「そうだな。けど、それだけじゃないぞ」

 うんうんと頬を緩ませながら頷いていた士郎だったが、それまでと同じ表情のままに桜のほうを向いて言った。

「えっ?」(どういうことですか?
「まずはそれよりも先に桜の新人戦があるだろ?」
「? どういうことですか?」(ええっと?
「だから、新しく部長になった桜の初めての試合が今月にあるじゃないか。これ買ったら、一番最初にそれを撮らせてもらおうかなと思ってさ」

 話を飲み込めないのか問い返す桜に、変わらぬ表情で笑いかける士郎。

「姉さんを先に撮らなくてもいいんですか?」(私でいいんですか?
「ああ、勿論。桜は俺の大切な家族だからな」
「そう、ですか」(「俺の」……「大切な」
「どうしたんだ黙りこんで? ああ、もしかして、やっぱり恥ずかしいのか? 桜が嫌だって言うなら止めておくけど」

 言葉を噛み締めるように呟いた桜を不審に思ったのか首を傾げる馬鹿。

「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事があっただけですから」(うふふふふふふふ!
「そうか。―――それで話の続きだけど、今度の試合は俺が見に行っても大丈夫そうか? 桜がどれくらい上手くなったのか気になるしさ」
「はい。先輩が来るなら大歓迎ですよ。――ただ、ちょっと恥ずかしいですからビデオを撮るなら隠れて取って下さいね」(不肖、桜。先輩を見惚れさせてみせます!

 士郎の言葉に対して茶目っ気を含ませて答えた桜。向日葵みたいな笑顔を浮かべている。

「ああ、解った」

 ただ、どうしてだろうか。
 どこかでピコーンという音がするのと同時に不倫フラグが三つほど立てられたような気がする。実に謎だ。







 ヒレ。ロース。カタ。モモ。バラ。カタロース。ソトモモ。
 それは料理人としては駆け出しにすらなれない味噌っかすのセイバーに取って、呪いにも似た難問だった。

「豚肉しゃぶしゃぶには、一体どれを買うべきなのか……」

 右手に買い物籠を下げながらもセイバーは唸った。
 ぶっちゃけて十五分ほど前にメモ帳を握りつぶしてしまっていたことに気付いたセイバーは、当然ながらぐちゃぐちゃになったメモ帳を復元しようと頑張った。しわを伸ばしたりして文字を読める状態にしようとしたわけだ。
 努力の甲斐あってか、大方の文字はすぐさま読めるようになった。だがしかし一箇所だけ、彼女の人差し指と中指によって貫き抉られてしまった部分に書いてあった文字だけはどう頑張っても復元することが出来なかった。
 「豚○○○、百グ○ム○○○○」
 読めなくなった部分を文章に直すとこんな感じになる。
 当初は「ああ、豚肉を買えば良いのか。取りあえず一安心」とか考えたセイバーだったがそれは甘かった。豚肉百グラム、豚肉百グラムと唱えながら彼女がマウント商店街にある肉屋を訪れてみると、予想だにしない出来事が起こったのだ。
 その時のセイバーさん曰く「豚肉には種類があるのですか?」
 彼女は普段から食べることにばかり気を使っていたために、豚肉は部位によって名称が異なってくることを知らなかったのだ。困ったことに。これでは彼女はグルメを名乗ることなど出来ようはずもない。
 というわけで二十分近く彼女は悩み続けている。

「むむ……」

 道端に佇む彼女の表情は険しい。
 そしてそのことが原因となって、肉屋のおっちゃんは彼女に声をかけられないでいる。何というか声をかければ首筋に喰らいつかれてしまいそうなオーラをセイバーさんが纏っているのだ。
 美人というやつは厄介で、怒ると怖い。乳無し妹然り、カレー先輩然り、両儀の人然り、遠坂嬢然り、キャスターさん然り、ライダーさん然り、タイガーさんは怖いが同時に面白いので微妙なために除外するが、まあ概ね美人に怒られると泣きたくなるのが通常だ。
 そしてセイバーさんもその例に漏れずに、無言になって眉根を寄せるだけで眼圧がうなぎ上りに急上昇していき怖くなる。なまじっか西洋人形じみた端整な顔立ちをしているだけに、常人は睨まれると色々びびって逃げ出してしまいたくなるのだ。彼女が眼タレなんぞしようものなら子供をダース単位で泣かすことが可能だろう。
 日々、平穏に生きてきただけの肉屋のおっちゃんが突破できるほどに英霊たる彼女の防壁は薄くないわけだ。
 ゆえに、このままでは誰も彼女に声をかけられない。そのはずだった。
 だが、

「あら、どうかしたの?」 

 むうむう唸っていたセイバーさんに余裕で声をかける人物が現れた。剛毅な人物だ。

「……あなたは――」
「覚えてない? 美綴。美綴綾子だよ、セイバーさん」

 右手に学園指定の手提げ鞄を持ち、左手を軽く上げて闊達に笑いかけながら、現れた人物である美綴綾子はセイバーの近くに寄っていった。セイバーが振り返った時にギヌロンッという感じの視線を受けたにも関わらず気にした様子も無い。
 流石は学園で喧嘩を売ってはならない人物トップスリーなだけはあるというところだろうか。

「いえ、覚えています。久しぶりですね、アヤコ」
「そうだね。前に会ったのが台風が直撃する前日だったから、だいたい一ヵ月半ぶりってところ?」
「ええ、そのくらいでしょう。あの台風は本当に酷かった。―――それで、アヤコはどうしてここに?」

 この二人は何度か面識が在るのだろう。
 当初は肉の種類について悩んでいたセイバーも、平静な状態で快活に喋る美綴嬢の言葉に受け答えをしている。

「ちょっと親に買い物頼まれていてね。受験対策の放課後授業をサボって商店街まで来てみたら、そこでセイバーさんの姿を見つけてさ、何か怖い顔して困っていたようだったから声をかけてみたってところになるのかな。―――買い物の途中みたいだけど何か問題でもあったの?」

 ちらりと視線をセイバーの左手に抱えられた買い物袋へと向けて美綴嬢が尋ねた。
 セイバーは問われた瞬間にビクリッと少しだけ体を硬直させたのだが、数秒の後に大きく息を吐いて言った。

「実は―――」









 で、ちょこっとだけ時間が流れて衛宮家の夕食。

「どうしてここに綾子がいるの?」

 何故にか、いつものメンバーに加えて元・弓道部女主将こと美綴綾子が食卓を囲んでいたりしていた。どうやら彼女は一度帰宅しているらしく、制服ではなく私服姿となっている。

「別にいいじゃないか、あたしがどこにいたってさ」
「……それはそうだけど。受験で忙しいんじゃないの?」

 という風に質問を繰り出しているのは遠坂嬢。右斜め前に座っている美綴嬢のことを訝しげに眺めている。友達以上で親友未満、微妙に宿敵という彼女の出現に対して戸惑っているのだろうか。

「まあ、受験で忙しいってのは確かにそうだけど。さっき、セイバーさんと商店街でばったり会っちゃってね。そこで色々と話をしていたら家にこないかって言われたからさ―――ねえ、セイバーさん」
「……え? ―――ええ、そうです。シロウに頼まれた買い物が終わったところで偶然にもアヤコと会ったものですから。凛、何か問題でもあったでしょうか?」

 丼ご飯を隣にいる大虎と競い合うようにかっ喰らっていたセイバーだったが、美綴嬢の言葉に頷いて遠坂嬢の方を向いた。彼女の箸を動かす手が止まる。

「いや、まあ、問題っていうほどのものは無いけど。―――ただ、綾子のその緩んだ顔は何のなのかなって思っただけよ」
「あたしの顔がどうしたって言うのさ?」

 にやにやと笑みを浮かべながら美綴嬢は言った。彼女の視線は問いかけてきた遠坂嬢に向けられているように思えたが、よくよく観察してみると微妙にずれている。遠坂嬢より人一人分だけ右側だ。
 そして彼女の横には、そう、稀代の逆噴射式アホがいた。

「どうした、凛。気分でも悪いのか? もし箸を持つのがきついなら俺が食べさせてやるぞ。はい、アーンゴブゥッ!!」
「はい、解ったから静かにしていてね。―――何よ、その視線は。やる気?」

 ゲイボルグ級の右ストレートを隣にいる士郎の頬にめり込ませながら、美綴嬢に対して牽制の綺麗な笑顔を浮かべる遠坂嬢。食卓の地味な方向から「ああ、殴られても笑っていられる先輩は素敵です」とかいう声が聞こえてきたが無視する方向で。

「まさか。何でもないよ。ただ、アンタ達は本当に面白いと思っただけ」
「面白いって、何がよ」
「人間ここまで変わるものなのかってことさ。―――去年までのアンタ達とはほとんど別人じゃないか。特に衛宮夫」
「何よその衛宮夫ていうのは……まあ、うちの宿六が馬鹿みたいに暴走しているのは認めてあげるけど」
「まったくだ」

 すっかりボケナスキャラとなってしまった士郎に向かって遠坂嬢は本気で苦笑いを浮かべ、美綴嬢はさも面白そうに笑っていた。が、その途中で美綴嬢は笑みを止め、

「そういえば、今の今まで忘れていたけどアレはどうする?」
「アレ? あれって何よ」
「ほら、一月だったか二月だったか忘れたけど約束したじゃない」
「ああ、あのことね。すっかり忘れてたわ」

 得心がいったような声を上げる遠坂嬢。
 美綴嬢との間で結ばれた、先に男が出来たら云々の口約束を思い出された模様だ。確か勝者は敗者に一度だけだが凄っまじい命令をしても良いとか言う約束だったはず。
 そしてこの場合の勝者とは勿論ながら遠坂嬢である。隣で倒れこんでいるお利口さんではない青年、士郎が何よりの証拠だ。

「そうね……」

 首をわずかに傾げ、視線を部屋の天井に向けて思案するかのように遠坂嬢は呟いた。冬季市が誇る元祖あくま娘は一体どれ程の責め苦を美綴嬢に負わせようとしているのだろうか。そう、思われていた。が、

「―――やっぱりいいわ、あの約束」
「あら、拍子抜けだね。何言われるかと、けっこう緊張しながら話題振ってみたのにさ」
「というか、どうでもいいのよね。別に綾子を弄くっても楽しくないから」
「ほほう、遠坂とは思えない発言だ。―――その心は?」

 過去の遠坂嬢の勇壮な人となりを知っているためか、興味深そうに美綴嬢が尋ねる。
 すると、遠坂嬢は空中を眺めながら「うーん」と小さく唸った後に、最後に隣をちらっと見つめて、

「そういうの、もう間に合ってるのよ」

 まあなんだ、ちくしょうてめえら初々しいこと言いやがってってな感じの、高校生なら教室中でひやかされて黒板に相合傘を書かれてしまうような事をさらりと言ってのけてくれました。

「なるほど、確かにあたしの負けだ」

 ぎゃふん! ってな感じで美綴嬢。
 彼女は頭の中で、明日この事実を知り合いにどれだけおもしろおかしく伝えてやろうかと思いながらも、その場はかつての学友にあてられて何も言う事ができなかったとか。


 こうして新聞の四コマ漫画並みにオチが無いままに、そしてそのくせ平和に衛宮家の時間はすぎていく。