光が見えた。そして、目を開けたら知らない場所にいた。
 地平の果てまで白色で、そのほかには何一つ目を引くものがない空間が、俺の目の前に広がっている。そこは停滞した場所だった。ぽっかりと、あったはずの物全てが削り取られてしまったかのように、この場所は冷然としている。何も無いという空間だけが、延々と展開され続けていた。
 ここはどこだろうか。そう考えても、分からなかった。答えは出ない。だけど同時に、俺はここがどこであるのかを知っているという、奇妙な確信も胸の中にはあった。衛宮士郎は、このがらんどうの空間を知っている。一切合切が燃やし尽くされてしまったように、灰一つさえも残されていない、荒涼としたこの白色の砂漠を。そんなことが当然のように頭の中に浮かぶ。不思議だったが、違和感はない。そんな理屈では説明出来ないことを考えながら、もう一度周囲を見渡してみた。白色だけしか認識できない世界を、もう一度観察する。
 寂しい。ここはとてつもなく寂しい場所だった。延々と伸び続けた白い地面は、果てに至るまで何一つない。心に残るようなものが存在しない。ここは既に終わっている場所だった。
 轟々と荒ぶる渇いた風だけが、この場所を潤している。無限に広がる白い世界の中に、一人風を受けて立ち尽くしながら、そう考えた。冷たくて強い風だけが、この場所に変化を与えている。それは何故か空しさを感じさせた。
 一歩、歩く。俺を後ろへと押し戻そうとする風に逆らって、前へと進んでいく。風は強かった。この暴風は、人一人を容易く吹き飛ばせるほどに激しい。存在するもの全てを容赦なく吹き飛ばしていくだけの、荒々しさに溢れていた。
 その風に逆らって、歩く。
 何故か前へと進まなければならないような気がした。ここがどこであるか分からない以上は、それしか方法がないからなのか、それとも別の理由なのか。どちらであるかははっきりしなかったが、本能的に進む必要があると感じていた。
 だから歩く。延々と白色だけの光景が続いていく。
 進むたびに風は強くなっていた。最初は体が少し後ろに押し戻されるように感じる程度の突風。それが徐々に強くなっていく。突っ立っていれば後ろに押し戻されるほどの風は、やがて目を開けることさえも辛いほどの強風になり、最後には全身全霊を傾けなければ抗うことが難しいほどの暴風となった。
 風は、明らかに勢いを増していた。最初の頃は簡単に踏み出せていた一歩が、いつの間にか酷く困難なものへと変わる。歯を食いしばりながら足を進める中で、その事実に気がつく。
 白い砂漠の中。風だけが強くなっていった。何一つないくせに、この場所に吹く風だけはまるで辛辣で容赦がない。行く手を阻む壁のように、俺の前へと立ち塞がる。ここは冷たくて厳しい場所だった。もしかしたら、それが原因で何一つ存在できないのかもしれない。
 その事実を、一つ一つ胸に刻みながら前へ進む。吹き付ける風が痛かった。
 そしてふと、この場所に来る前に抱えていた女のことを思い出した。意識を失っていた彼女のことが心配になる。命を奪う呪いが迫っている彼女は助かったのだろうかと、そんなことを考えた。
 どうして確実に助け終えなかったのだろうかという自責が胸に浮かぶ。後悔を覚える。そして、ならばこそ救わなければいけないと決めた。足に込める力が強くなる。前へ進む意思が増す。ここがどこであるかは分からない。だけど、前へ進めば何か答えがあることを俺は知っていた。だから、風に逆らった先に存在する何かを求めて進んだ。
 時間の感覚があやふやな中、体を前へと進ませ続けた。呼吸することさえも辛い、四つん這いにならなければすぐさま後ろに吹き飛ばされてしまう風の中を進んでいく。
 風は相変わらず容赦がない。全身の肉が圧し掛かられて悲鳴を上げる。だが、前へと進む。果てまでの距離を詰めていく。
 俺は前進を止めなかった。この道程の先に何があるかも知らないくせに、ただ何かを信じて進み続けた。時間の感覚はまるであやふやで、どれだけの時間それに没頭していたのかは分からない。既に三日は経っているのかもしれないし、一晩も過ぎていないかもしれない。或いは、とっくに七夜を数えたのかもしれない。ただ、気が遠くなるような時間、俺は荒ぶる風を越え続けていった。
 そして、その踏破の彼方。何一つなかったはずの周囲にも、ようやく変化が訪れ始めていた。がらんとしていた白い砂漠に、変化の兆しが生まれていた。風が吹いてくる方向、その場所に向かって平坦だった地面はなだらかな傾斜を作っていた。まるで丘のように、地面が盛り上がっている。いや、それは真実、丘のようだった。
 その変化を目にした瞬間、俺はその丘の頂へと向かって進む事を決めた。そこに誰かが待っているという確信を抱く。地べたを這いながら、ゆっくりと、だが確実に進んでいく。風はどんどんと強くなり、意識を奪うほどに強烈な力の奔流へと変わっていた。その風をかろうじて耐えて思考を保ちながらも、全身の力をかき集めて前へと進む。風が吹く場所へと向かっていく。それは想像を絶するほどに厳しい道程だった。だが、俺はありとあらゆる意思を行使して前へと進むことを止めなかった。
 この丘に辿り着くために消費した時間の更に数倍。それだけの時間をかけて丘を登り続ける。
 だが、それでも何も見えない。だから、俺は更に時間をかけて丘を上がっていった。這いつくばりながら、必死になって歩みを止めない。さらにそれまで流れた時間の十数倍の時間を対価にして、丘の頂を目指す。だが、それでも足りない。
 だから俺は、更に途轍もない時間をかけて、この坂を昇っていった。いつしかこの場所を登る意味さえも忘れてしまいそうなほどに摩耗していく。しかし、それでも進むことだけは諦めない。這いつくばって前へと体を動かしていく。
 そして、凄まじいまでの時間をかけた果て。俺は遂に丘の頂を目にすることができる場所に辿り着いていた。目の前に、この世界で最も高い場所が見える。そこは何一つない世界にただ一つある丘の頂上だった。
 白い何もない世界の丘の頂。その場所には一人の男が立っていた。
 轟々と激しく荒れ狂う、もはや爆発の連鎖と評してもいい暴風を真正面から受け止めて、男はその場所に立っていた。その体は鋼のようで、俺が目を開けることさえも全力を傾けなければいけない風の中を、物ともしないで存在している。刃向かえば捻じ伏せられる、抗うことすら俺の限界に近いこの丘で、男は自身を堂々と保っていた。ありとあらゆる風に打ち克ってその男は、確実にこの世界を踏みしめている。くすんだ蝋燭のように白い髪と、赤い背中がとてつもなく力強く見えた。男の外套がばさばさと風に翻る中で、奴の体は地面に埋め込まれた鉄芯のように圧力に抵抗している。
 男は頂の彼方に見える何かを見据えて、立ち続けていた。その姿を見て、不思議なことに俺はこの男が何かを守っているのだということを、教えられもせずに理解することができた。なぜかは分からないが、衛宮士郎はこの場所ならばありとあらゆるものを知覚することができる。それを俺は知っていた。目の前にいる、身じろぎ一つせずに風に曝されている男の背中を眺めながらも思う。風は変わらず、殺傷能力すら秘めるほどに苛烈だった。
 そして、そんな中。男の居る場所から、不意に言葉が聞こえてきた。
「何のために、お前はここに来た」
 荒々しい風に流されて、その言葉が俺の耳まで届く。
 目の前の男は微動だにしていない。こちらを見向きもしない。俺には背中を向けたまま、どこかを見据え続けている。だけど、その言葉が俺に向けられているものだと言う事だけは分かった。だから答えを口にしようとした。俺には助けないといけない人がいるんだ。助けに行かないといけないんだ。そう、口にしようとした。
 だが、そう言葉を発するよりも早く、男はこちらに返答してきた。
「違う。そんなことは聞いていない。どうしてこの場所まで来たのかと、オレは聞いているんだ」
 その瞬間に、更に大規模な風の爆発が起きた。びゅうっという音が高まっていって、やがて聴覚で聞き取れる限界を越える。鼓膜を切り裂かれるような耳鳴りがした。同時に、伏せていたはずの俺の顔が風に掴まれて後ろにぐいっとのけぞらされた。それを俺は、ぐっと指先に力を入れることで耐えた。
 男は、俺がそうやって全力で地べたにこびりついている間も、頂に一人立ち続けている。
 俺からの回答を待つかのように。だが、俺はその問いかけの答えを持ってはいない。どうして俺がこんな場所にいるのか、そんなことなどは何も知らない。だから、そう答えようとどうにかして貝の様に閉ざした口を開こうとする。
 だが、今度も言葉を発する必要は無かった。俺が口を開くよりも先に、あの男は言葉を返してくる。
「何も知らずに、この場所まで? たわけが。貴様がここに来たからには理由があるはずだ。それを思い出せ」
 背中しか見えない男は言葉を続ける。俺がここにいる理由があるはずだ、と俺に言う。
 だが、それでも俺は何も分からなかった。顔も知らない■■のことを助けようとして、気がついたらここにいた。そのことだけしか俺は知らなかった。だから、何も答えられない。
 しかし、そう考えた瞬間に、男はまた言葉を投げかけてくる。
「人を助けることでここに来た、か。まさか貴様、死を運命づけられた命を救ったのか?」
 男は今度も俺の言葉を聞かずに言葉を発する。その瞬間に理解した。この男は、俺の思考を理解できる。共有しているのだ。脳の奥底に詰まった俺の知識全ては、奴の意識へと直結している。そのことに気がついた。
 だからこそ、俺とあの男の間に会話は必要ない。思考すればその瞬間に相手へと伝わる。タイムラグさえ存在しない意思の疎通。そのことを、理解した。
「今ごろその事実に気づいたのか。だが、そんなことはどうでもいい。お前は死に瀕する人を助けたのか。その問いに答えろ」
 そして男は俺が理解したとおり、俺の思考を直結した意識から汲み上げていた。思考を即座に把握して、言葉を返す。
 いや、これは言葉ではない。俺が耳にしていると錯覚していたものもまた目の前の男の思考なのだ。鋼のように冷えた声で、問いかけるこれもまた男の意識でしかない。そのことを知覚する。この世界の事を段々とまた理解していく。
 俺は必死になって地面に体を貼り付けながら、男の問いに答えるために考えた。いや、助けていない。まだ助け終わってはいないんだ。だから、俺は帰らないといけない。そう思考を、赤い背中をした男まで届ける。
 俺の思考は男まで届いたのか、すぐに言葉の形式を取った男の意識が戻ってきた。
「そうか。ならばそれは救われたな。まだ世界は貴様を拘束するには足りん。正直、お前を感じた時にはオレの座を継ぎに現れたのかと考えたが、違うようだな」
 男は意識を発した。ろくに訳の分からない単語で構成された言葉だったが、俺には何故かその言葉の内容が理解できていた。座、英霊、契約。その知識が、直結している男の意識からバイパスされて繋がっている。だから知っている。
「恐らく、これは選別なのだろう。より良い、より都合のいい衛宮士郎を選ぶための選別。ここにいるお前と、オレ。どちらが世界に適しているのかを探すための。お前は世界に強く何かを願っただろう。衛宮士郎」
 男の思考を受けて俺は同意する。ああ願った。俺は死に掛けていた命を救いたいと願った。本当に強く願ったんだ。
 そう考えると、目の前の男から納得したような思念が感じられた。
「そうすると、その強い渇望が世界に補足されたといったところだろうな。今、奴らはお前が願いを叶えるに足りる存在であるかを試そうとしているのだろう。座にあるオレを抹消してでも、お前の願いをかなえるべきかどうかを判断しようとしているに違いない。望んだ時にはそれを遠ざけ、受け入れた時にはそれを近づける。まったく、何と意地の悪い」
 男はそこでようやく感情らしい感情を垣間見せた。世界の頂に一人立ち、遠い地平を見渡しながらも男は確かに何かの感情を見せた。何かをずっと守り続けていた男が、幾星霜の果てに気を抜いたのか呆れたような思考を見せる。
「それで、お前はどうする?」
 男は尋ねてくる。俺は何を聴かれているのか分からなかった。だから尋ね返す。何がだ?
「言っただろう。これは選別だ。オレとお前は天秤にかけられている。だからお前が、願いをかなえるためにはオレを超えて見せなければならない。オレよりも遠い頂へと登り、証明する必要があるのだ。己が世界が飼うに足りる番犬であることを。その上で聞くぞ。お前は、どうする?」
 鋼鉄のような体で、風の濁流を一心に堪え続ける男はそう尋ねてきた。
 だが、そんなこと考えるまでもなかった。衛宮士郎は、人を救う。それだけのためにある。だから、オレは人を助けられるのならば何だってするだろう。例えそれが、お前を超えることだとしても。そんなことは、誰よりもお前が知っているはずだろう?
「そうだな。愚問だったか。オレ達は総じて愚かだ。それは知っている。お前を見ていると、本当にそう思う。衛宮士郎は、止まり方を忘れてしまった男にしか過ぎない」
 赤い背中の男はあっさりと退いて、そう応えた。そのことをオレは不思議に思った。目の前のコイツが、こんなに簡単に諦めるはずがないのだ。これは、世界中の誰よりも諦めが悪い愚者なのだから。ただそれだけのためにこの場所に立ち、ただそれだけのために世界を守っているとも言っていいこの男が、誰かを守ることを他の誰かに譲り渡すわけがないのだ。
 そんなことを考えていると、男はオレの思考を読んだのか、続けて言葉を発した。
「だからこそ、だ。オレはお前に呪いを与えようと思う」
 赤い背中をした男は、風によって構成された暴力を凌ぎ続けながらオレに言葉を向けた。鋼のような圧力を伴った超風を物ともせずに、ぽつりと、淡々とした声で言葉を発した。
 瞬間、嫌な予感がオレの背中を伝わる。
「お前がオレの座を奪わないように、お前がこの世界へと二度と関われないように。オレはお前を祝福しよう。愚かにも、この場所まで世界に踊らされたとはいえ辿り着いてしまったお前のために。そして、それ以上にお前の周りにいる者達のために」
 赤い騎士は背中だけを見せてオレに告げる。その意思から構成された声は、奇妙な迫力が存在していた。聞いてはいけない。聞いた瞬間にオレはこの道を失うという恐怖感が、腹の底で呻き声を上げた。耳を塞げ、とオレに命令しようとする。だが、それはできない。
「その通りだ、衛宮士郎。オレとお前はこの場所においては、勝手にお互いを共融する。だから、耳を塞ぐことはできないし、目を閉ざすことも出来ない」
 そこで赤い外套の騎士は頂から、ざんっと更に一歩を踏み出した。その瞬簡に、この白い丘が盛り上がる。奴が歩いたその後ろに、道が作られていく。ギチギチと隆起した白い地面が、丘を高めていく。
「この丘が、何であるか分かるか?」
 奴は、足を踏み出す前よりも、更に熾烈さを増した風の中でじっと耐えて佇みながらオレに尋ねた。
 その問いかけに答えるために、オレは地面を眺めてみた。ただの白い地面だった。何であるのかまでは分からない。
「よく見ろ。これはオレ達にとっては馴染みの深いものだ」
 だが、そんなオレに向けて奴は言葉を続けた。その言葉は真実である事を、オレは知覚していた。だから、もう一度この地面を眺める。そうすると、ギチギチという金属がぶつかり合うような不協和音が聞こえてきた。
 そう、剣と剣がしのぎを削りあうような音がしていた。まさか、これは、と思う。
 地面を見る。その瞬間に、今まで考えていたことが間違いであったとオレは悟った。ここは何もない白い世界ではない。この場所にはただ一つだけ存在しているモノがある。それは剣だった。ただただ抜き身の剣刃が連なって、この世界は生まれているのだと理解する。
 理解を終えて地面を眺めてみれば、それまで見えなかったものが見えてきた。それは密集した剣の塊だった。何本も何本も、数えることさえできないほどに多数の剣が、地面に並んで突き刺さり丘を形成している。俺が這いつくばっている地面は、無限に繰り返された剣製の果てに作られた剣の群れだった。
「そうだ。これこそは衛宮士郎が得た果ての一つ。妄執じみた愚者の夢を忘れることができなかった馬鹿者が、その生涯を終えてなお作り続けている剣群だ。剣の丘、とでも言うべきなのだろうな」
 そこで言葉を止めた目の前の男は、ぐんっと足に力を込めてまた一歩を踏み出した。その瞬間に、再び少しだけ丘が盛り上がる。ギチギチと、無数の剣群が突き刺さることで、丘は更に高みへと近づいていた。
「お前は、この場所をどう感じる?」
 奴は何の感情も見せない声で尋ねてきた。距離を離され、小さく見えるはずのその背中は相変わらず大きい。
 オレは、何も答えなかった。
 だが、奴は勝手にオレの思考を掠め取ってきた。寂しい、そう感じた記憶を抜き出していく。
「そうだ。ここは寂しい場所だ。絶望的に孤独で、終末的に救いがない。オレもそう、思っていた」
 一歩、一歩。あの赤い背中をした男は、どんどんとオレから距離を離していく。外套を翻しながら進む。一度もオレを見ようとはしない。奴は黙々と、同じ動作を繰り返し続けている。それが、どれほど気が遠くなるような作業であったか、この丘を昇ってきたオレには分かった。それは哀れみ以外浮かばないほどに救いがない道程だった。
「だがな、それだけではない」
 しかしそれでも、奴は誇るかのような声で、だがな、と言った。足を止めず、前へと進み続けながら、哀れみを浮かべたオレの感情を否定した。それはとても信じるに値する言葉ではなかった。
 それなのに赤い背中をした男は、オレの思考を理解していながら、己の言葉を変えなかった。
「嘘だと思うのならば、後ろを見てみろ」
 あり得ない。そう考えながらも、男の言葉に従って後ろを見てみる。剣の丘にしがみ付いて、風に吹き飛ばされないようにしながらも、昇ってきた道筋を眺めてみる。何も見えなかった。そこには剣だけしかなかった。空しさしか覚えないような道筋だった。
 だが、それでも赤い騎士は言葉を続けた。
「違う。そこではない。更に後ろだ。この丘のふもとではなく、更に遠くを見据えてみろ。あの火災の日まで届くように、遠くを振り返って眺めてみろ、衛宮士郎。オレ達の目ならば、その程度の距離を視認できないはずはあるまい」
 幾星霜を重ねて築き上げられた丘の更に先、その場所まで眺めてみろと言ってあの男は更に一歩を踏み出していた。また、あいつの背中が遠くなる。
「見ろ、見ろ。そして思い出せ。この工程が、ひたすら空しさを感じさせるものだったとしても、そうではない理由がそこにある」
 あいつは自信を持った声でそう言った。強い口調で、真実を語る。
 だからオレは、その言葉に従って、更に彼方を剣の丘から見渡してみた。思い出す。回想する。辿って来た道を振り返る。
 オレは世界の果てに存在するこの丘から、対極に位置する果てを見つめた。遠すぎるその距離を、オレは知覚することができた。
「何が見える」
 奴は言った。
 俺の目は始まりの劫火を映していた。衛宮士郎が生まれた地獄の揺り篭が、この場所から見えるその極限には存在していた。
「ならば、その手前には何が見える」
 奴は言った。
 俺の目は、次に切嗣の姿を見つけた。優しくって、死にかけていた俺の命を救った人がいた。切嗣は、こちらを眺めていた。とても綺麗な生き方をしていた人。その憧憬が、胸の中で再燃する。
「その更に手前には、何が見える。そして、その更に手前には何が見える」
 奴は言った。
 俺は赤い背中をした男の言葉に従って、どんどんと辿ってきた道程を振り返っていった。そこには藤ねえがいた。切嗣がいなくなってから、ずっと一緒にいた人がいた。そして、その傍には桜もいた。一成もいた。今まで出会った人達が、丘からは遠すぎる場所にいた。
「そして、その手前には何が見える」
 奴は言った。
 びぎっと頭の中でノイズが爆ぜる。だが、俺はそれでもその場所を見つめた。そこには遠坂がいた。そのことを思い出す。
「そうだ。そこまでは思い出したようだな。ならば、更にその付近を探してみるといい。そこにはきっと道標がいる」
 奴は言った。
 俺はその言葉を聞いて、その周辺を探してみた。すぐに銀色の光を見つけた。眩しい。その光は、遠い世界の果てにいる俺達のいる場所まで届いていた。セイバー、彼女がこの世界にはいた。
「見つけたか。衛宮士郎」
 一つの幹から分かたれた別々の根。俺の辿る可能性の一つ。奴が言った。
 俺はその言葉に頷いた。見つけた、と口にする。
「ならば理解したか、この道程が無価値ではなかった理由を」
 アーチャー。英霊の座に至ったあの男は、前へと進みながら俺へとそう尋ねた。
 俺は答えた。ああ、この道は決して厳しいだけのものじゃない。
「そうだ。確かにオレ達は、ある種の模造品に過ぎない。だがな、それでも関わってきた者達は本物だ。そして、彼らと触れ合うことで得た生き方も、間違いなく本物なのだ。だからこそ、この過程にも意味がある。オレがここで繰り返し続けることも、例えその起源となる感情が、自身の裡から表れたものでないとしても、それを信じて貫くことに矛盾などない」
 奴は言った。誇りながら言った。
 その生き方は途方もなく強いものだった。どうして諦めていないのか、折れていないのかと、不思議に思う。知識として、奴が経験した過酷な戦いが俺には理解できている。百度吐き気を催して、尚足りない残酷を経験しておきながら、奴は屈していなかった。そのことに、恐ろしいほどの羨望を覚えた。
 更に、奴との距離が離れていく。赤い外套が翻る。そのたびにあいつは丘を作り上げて、頂へと上り続けている。
「お前は、セイバー、彼女のことが理解できるか?」
 びょうびょうと風が吹く中、奴の声がはっきりと届いた。その瞬間に、俺はバイパスした奴の知識から彼女のことを知覚した。アルトリア、その名を知る。その生き方を、知る。
「思えば、彼女とオレ達は似ていた。戦う理由も、得られた結果も、その全てが合わせ鏡のように似通っていた。オレが果たせなかった理想を体現するために世界と契約を結んだのと同様に、彼女は果たせなかった王としての責務を遂行するために世界の走狗となろうとした。オレ達と彼女、共通してその生き方は酷く己というものが希薄だった」
 烈風の荒れ狂う中心から、鋼の風圧をもつ超風の真中に立ち尽くすあいつの姿を見る。奴は俺に振り返らない。ただ前だけを見据えている。
「お前にも覚えがあるだろう。オレ達の生き方は歪だ。炎に焼かれたあの時から、何かが欠落してしまっている。それと同じで、アルトリアもまた何かが欠けていた。だから彼女は英霊となり、過去の改変を望もうとした」
 赤い騎士の言葉は遠い。だが、確実に届く。その声に不思議さを覚えながら、俺は奴の言葉を聞いていた。
「だがな、聞け、衛宮士郎」
 そこで急に奴の声色が強くなる。そして同時に周囲の風も再び、連鎖して爆発するかのように激しく荒れ狂った。
 その中心。風という砲弾が打ち落とされてくる剣の丘の中心に立つ男は、ただの一度も膝を曲げずに言葉を続けた。先ほどと同じように、誇るように口にする。
「彼女はそれを止めた。何度目になるかは分からない輪廻の果てに、彼女は自身の運命を受け入れたのだ」
 ぐらり、と。その言葉を聞いた瞬間に、頭が揺れた。心のどこかで凝り固まっていたものにひびが入る。固まっていた何かが崩れる。そして、何故か胸の奥底が熱くなった。
 感覚が麻痺する。同時に、奴の言葉が真実であることが、直結している意識から流れ込んでくる。アルトリア、不明だった彼女の背景を理解して、そして認めてしまう。彼女は、自らが進んできた道筋を、肯定したのだと。
 意外な事に、俺はすぐに納得した。胸の中にすとんと、何かが落ちる。
 セイバー、彼女が答えを得た事を、理解する。
「それを成し遂げたのがオレでなかったことが、悔やまれるといえば悔やまれるがな」
 ぐんぐんとアーチャーの背中が遠くなってく。風の暴風が激しさを増そうとも、奴の足は止まらない。進んでいく。もう俺と話すことはないとでも言うかのように、その足を止めない。奴は鋼の嵐の中を通過していく。
 奴は後悔していなかった。この場所にいることを。この場所で、繰り返し続ける事を。ただ、己の理想を貫き続けている。丘が剣に積み上げられていく。
「それとな。後悔していない、それは嘘ではない。だがな、縛り付けられてしまって、ふと思うことがある。オレの立ち位置は自らから遠すぎた。そう思うことがある。この丘の直ぐ近くにあの人達がいたならば、いや、オレがあの人達の近くで丘を作っていたならば、それは素晴らしいことであったかもしれないと」
 その声は丘から彼方、切嗣達のいる場所まで響いていく。そこに羨望はなかったが、ただの仮定の様にも思えなかった。
 しかし、俺の思念を読み取ったあいつはその考えを即座に否定した。
「いや、これは真実、ただの仮定だ。それ以上の、意味はない。そもそも、オレがここにいることで保たれている理想もある。だからオレは、決してこの座を降りはしない」
 奴の言葉は硬い。傷一つさえつけられそうにない。
 離されていく。着いていけない。それなのに、どこかで俺はそれが当然だと感じていた。
「だからだ、その上で聞くぞ。衛宮士郎、この場所に至りかけている別のオレ。お前はどうする?」
 歩き続けていた騎士の足がそこでぴたりと止まる。俺の回答を待つかのように、更に盛り上がった丘の頂に直立する。
 俺は、俺は。瞬間的に何かを答えようとしたが、言葉が出ない。どうするべきなのか、そこで初めて躊躇う。今の俺では、きっとこの男よりも前へは進めない。その背についていくことができない。それは推測だったが、たぶん真実に近い。そう思う。
「答えは出ないか。だが、それでいいのかもしれん。常に衛宮士郎は決断が早すぎた。だからこそ、一人ぐらいは迷う奴がいてもいい。誰もがこの頂を目指す必要性はないのだからな」
 その言葉。呟くようなその言葉を聞いた瞬間に、俺は悟った。今の自分では、まだここには至れないと、知覚する。
 そして、それが合図となって、世界が一度ぐらりっと揺れた。続いて剣の丘が、小さくがたがたと揺れ始め、その振動は世界を崩しさるほどに強まっていく。世界を存続させるために必要な土台が取り払われてしまったような、そんな終末的な振動が起きる。
 この白い世界が、俺の認識と同時に解体されようとしていた。
「もう時間が来たか。無駄話をする時間はなくなった。既に天秤は傾きを終え始めた。やがてオレは全ての理性、全ての思念を封じられて、再び世界の下僕へと成り果てるのだろう」
 がらがらと落ちていく。地面が崩れて剥がれ落ちる。俺がしがみ付いていた場所も、いつの間にか消失していた。するっと落下する。俺は落ち始めていた。体が奇妙な浮遊感に包まれる。赤い外套を翻すあの男との距離が一段と遠ざかる。
 崩れさる世界の最も高い頂にいる男は変わらず立ち続けていた。その場所から鷹の目をもって、世界を見据えている。背中だけしか見えないが、それだけは分かった。
「オレ達の持つ原初の感情。誰かを助けたいと思う、あの衝動。先ほども言ったように、あれはオレ達の裡より湧いたものではない。あれは言わば借り物だ。あの人の笑顔が、余りにも綺麗だったから生まれた憧れが別の形を取ったものにすぎない」
 落ちる。落下していく。遠ざかる。それなのに、あいつの声は確かに聞こえる。あいつは自らが今すぐにでも奴隷以下の存在に成り果ててしまうというのに、身じろぎもせずに立っていた。
 そして、その強固な意志を伴った姿が俺へと伝える。奴が語りたい事を。奴が何を俺に言おうとしているのかを。それが、この場所にいることで理解できる。
 だから俺は頷いた。そうだ、そんなことは俺だって気がついていたさ。そう答える。そんなことは、ずっと前から気づいていた。
 すると、視界の果て。世界の頂に立つ男は、そこで初めて振り返った。点のようにしか見えないほどに開いてしまった距離の果てで、奴は確かに俺へ振り返っていた。
「それを知っていたか。ならば最後に聞かせろ」
 そう奴が言葉を口にした瞬間に、奴の足元にあった虚空から鎖が飛び出した。長い長い鎖が現出する。それは蛇のように巻きついてあいつの足を拘束していく。そしてすぐさまに別の鎖が四方から飛び出てきて、更にあいつの体へと絡み付いていった。両手が、両足が、決して振りほどけない束縛に捕まえられる。
 それをあの男は抵抗しないで受け入れていた。体の自由を奪われようとも、堂々と立っている。泣き喚くこともしない。
 一切の抵抗をしないあの男の体は、簡単に鎖で覆われた。その猛禽のような右目を除いて、その全てが世界に絡め取られて、ギチギチと締め上げられていく。鎖は捕縛する苛烈な圧力を強めていく。しかし、あいつはそれでも微動だにしなかった。
 そして鎖に拘束された状態のまま、見えない口から言葉を発した。
 あいつは俺に尋ねた。その一瞬だけ視線がぶつかる。
「衛宮士郎。それを知って、おまえはどうする?」