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 ――冬木の街は二度死んだ。
 
 十年前の火災。思い出すだけでも脂汗が額にビッシリと浮かび上がってしまうあの災厄は、一度きりでは終わらなかった。時期を計ったかのように、それから十年後。災厄は望まれもしないままに再訪した。
 一度目は新都の平凡な住宅街だった。記憶にはないけれど、衛宮士郎になる以前の俺が暮らしていた場所で、唐突に姿を現したその炎の渦は、付近一帯を尽く灰燼へと変えた。あの時、安穏としていた住宅地に押し寄せた赤い熱波は、当時の俺から一切合切のものを攫っていった。
 そして二度目。それは、山寺で起こっていた。川を挟んで新都とは対極にある柳洞寺で、もう一度あの劫火は姿を現した。黒い汚濁のような炎は懲りもせずに、何の反省も見せずに過去と同じように大口を開けて人々を飲み込んでいる。
 その日。その時。自分の部屋の中で、することもなく眠り込んでいた俺の所へ飛んできた藤ねえは、真っ先に逃げろと言った。普段のお茶らけた顔をかなぐり捨てて、まだ頭が良く回らない俺を両手で引っ張りあげると、すぐに部屋から家の外へと叩き出した。そして、山の方を見ろと言った。血相を変えたその鬼気迫る表情に気圧された俺は、藤ねえの言うとおりに寝ぼけた頭のままで西の空を眺めた。
 何の心の準備もしないままに、俺はその光景を目に焼き付けてしまったのだ。
 そこには、記憶の底に埋まっていたはずの、禁忌があった。
 真夜中の暗闇の中で、赤々と光を放つ山肌。それは炎だった。美しかったはずの山の稜線は炎によって彩られることで、悲鳴を上げて泣いていた。緑を焦がすことで生じた煙が、どこかしこからも立ち上っている。そして同時に、黒っぽい粘着質の溶岩のようなモノが際限なく寺の在ったはずの場所から噴出して、ドロドロと山の斜面を溶かしながら滑り落ちてきている姿が見えた。それはまるで、俺が知る限りの過去の映像と相似していた。泣こうが喚こうが、無慈悲に命を奪う呪い。蛇のような赤黒い炎の舌はゆっくりと、だが確実に周囲を蝕み始めていた。そして既に、寺に近い場所に立っていたいくらかの住宅地はその炎の汚濁に囲まれていた。夜の大気を不必要なほどに赤く鮮やかに照らす炎は、じわじわと並び立った家屋を燃やし尽くしていった。俺が持つ最も古い記憶が、瞬間的に甦る。人を溶解させる炎の墓場の記憶がフラッシュバックして瞼の裏に焼きつく。
 藤ねえ、何だあれ。そう呆然と呟いた俺に藤ねえは知らないわよと叫びながら答えた。眉を逆立てながら俺を怒鳴りつけたその姿は泣いているようにも見えた。そして、そのまま俺の襟首を掴んで、家の門まで俺を引っ張っていった。そこには一台の黒塗りの車があった。車の中には、藤村組で何度か顔をあわせたことのある中年の男の人が、ハンドルを握っていた。後部座席のドアはもう開かれていた。
 士郎、早く乗りなさい。藤ねえは時間が惜しいとばかりに、俺の背中を強く押した。どんどん。どんどん、とその両手で俺の体を車の中に押し込もうとする。だが、俺はふつふつと湧き始めた感情に困惑して、棒立ちし続けたままだった。視線が黒い炎の塊を垂れ流す山肌から離れない。立ち尽くす。俺は呆然と山を眺めていた。どんどんと強く背中を押されようとも、藤ねえの軽い体重では俺を動かすことはできない。
 むしろその衝撃が小気味いいリズムとなって、俺は昔の事を思い出していた。どくどくと全身を巡る血流と、衝撃が重なる。記憶がリンクする。薄っすらと貼られていたはずのかさぶたが、べりべりと剥がされていく。ずきりっと胸が痛んで、死体の海に浮かんだ黒い雲が見えた。強烈な吐き気が襲い掛かってくる。ちらりと脳裏をよぎった過去が起爆剤となり、感情が割れる。意識が沸騰するように燃え上がって、俺は反射的に吐いた。地面に胃液と溶解物を撒き散らす。胃液に溶かされた今日の夕食は、過去の火災の時に見た融解した人の姿に似ていた。更に強く嘔吐する。
 うげ、と俺は小さく呻いた。それでも胃の蠕動は続いた。内臓の奥底から競りあがってくる気持ち悪さから目尻に涙が浮かぶ。胃の中身をありったけ吐き出す。過去経験したことがないほどの気持ち悪さを感じて、過去抱いた中で最高の怒りを覚える。燃える家、燃える命、燃える人。収拾のつかない吐き気の中で、俺は耐え難いだけの怒りを覚えていた。人がこんな簡単に死んでいいはずがない。こんな不条理を認めることはできないと、衛宮士郎という人格が雄叫びを上げる。そして、当然のように切嗣のこと思い出した。月明かりの下の約束が、ぎちぎちと体を軋ませる。何故か体中の血液が爆発するように巡り始めた。
 気がついたときには 「ごめん」と呟いていた。
 くるりと反転してから、必死になって俺の背中を押そうとする藤ねえの両手を掴み挙げる。今の今までやったことはなかったが、本気になって藤ねえの両手を握り締めてみれば、後は藤ねえがどれだけ暴れようともその拘束はびくともすることがなかった。姉は弱くなっていた。俺はそのまま強引に藤ねえを抱え上げて、車の後部座席へと放り込む。藤ねえは何かを喚いたが、聞けば戻れなくなりそうだったから無視をした。そして、運転席の男の人に頼みますと言ってからドアを思い切りよく閉じた。後悔なんて、なかった。ぺっと唾液と一緒にして、口の中に溜まった胃液を吐き捨てる。それが合図。
 細胞が急激に酸素を燃やす。全力で体を前へと進ませる。向かう先は山。炎が溢れ出す方角。
 許せない。許せない。心の奥底から怨嗟の合掌が聞こえてくる。炎に焼かれた人々の妄執が全て、俺に取り付いているかのような高揚を覚える。俺は気がつけば走り出していた。がむしゃらになって懸命に地面をけり続ける。近づけば近づくほどに大きくなる炎を目指して一心になって走った。一歩足を踏み出すたびに、一段と言わずに三段飛ばしでギアが上がっていく。心臓というタービンは許容量を超えた熱を帯び始めても、それでも尚回転を強めていく。辿り着く先は限界か自壊の二択。痛いほどに乾き始めた喉から大量の空気を吸い込みながらも、俺は全力で駆け抜けていく。
 冷たい夜風を切り裂きながら走る中で、体中が燃える様に熱い。だけど同時に、何故か左手の甲は穴が開いてしまったかのように冷たかった。ごっそりと骨と肉が抜け落ちてしまったかのように、左手だけが冷たい。他人のモノのように硬い。左手にある喪失の中を異様なほどに冷たい風がびゅうびゅうと容赦なく通り抜けていき、俺の熱を冷まそうとする。全身が熱を帯びていく中でも、その手だけは氷のように冷たかった。それが不気味で、どうしてか悔しかった。
 そして走りながら左手を意識すると、何故か見たこともないはずの金髪の少女の姿が脳裏に浮かんだ。誰であるのかは分からない。だけど、大切な人であったように漠然と思えた。おぼろげな記憶。しかし、そう判断した瞬間に頭の中を覆っていた霞が更に強くなった。それ以上の記憶の引き出しを拒むかのように、脳を鷲掴みにされるような痛みが急に生じた。
 もう一度、強く吐き気を覚える。出し尽くしたはずの胃液が再び、こぷっと口元から漏れて、呼吸を妨げる。走りながら俺はもう一度、唾を吐いた。そして今は、そんな会った事もない誰かのことを考えている場合ではないと思い直す。視線を、山から垂れ流れてきている赤黒い溶岩へと固定する。家屋を、道路を、木々を、わけ隔てなく高温の熱量で蒸発させていくその赤黒い溶岩はまるで酸化した血液のようだった。それは蛇のように立ち並ぶ存在に這いより、逃げる暇も与えずに着火していく。もしも捕まえられてしまったならば、逃げ道はないだろう。突然街中に湧き出た、不可避の死。脈絡のないそれがどうしても許せない。
 救わなければ、助けなければならないという声が、腹の下、地面に近い場所から響いてくる。衛宮士郎はその声に全速で応じなければならない。
 体調は最悪。思考は乱雑。だけど、それでも体は動く。それなら、俺は走らなければならない。そう考えると、いくらかだけ体が軽くなった。更にスピードが上がる。全身の筋肉が断裂寸前まで膨れ上がる。災禍へと立ち向かっていけるだけの力が、自分にはあるような気がした。たった少しだけの間だけど俺をマスターと認めてくれた■■■■が手助けをしてくれているとさえ思える。背中に羽が生えたように体が前へと進んだ。これならば、きっと俺は誰かを救えるはずだ。
 と、そんなことを考えた瞬間に、ぎちりっと今までで最大の頭痛が突拍子もなく俺の頭を締め上げてきた。時に精神的な痛みは、物理的なそれを大きく上回る。魔術の失敗による、焼けた鉄芯を背中に埋め込まれるような痛みよりも数段厳しい痛みが、脳と左手に発生して、一斉に負荷をかけてくる。生きたまま脳味噌を抉り取られるような、それは絶望的なまでに激しい痛みだった。意識が、瞬間的に消し飛ぶ。身体機能が、断裂する。思考のブレーカーが落ちる。
 動き方を、忘れてしまう。そして全身から力が抜ける。すとんっと世界が暗転する。
 どしゃっという音がして、口の中に砂利の味が広がっていた。
 気がつけば俺は脚をもつれさせて転んでいた。全速で走っていた状態から、受身も取れずにコンクリートの地面に倒れこむ。顔面を強かに打ち、前歯が一本折れた。倒れこんだ時の衝撃で切れて血だらけになった口の中で、硬いものが転がっている感触がする。じわじわと鈍い痛みの信号が体中で湧き上がる。だが、それでも左手だけは目の前のコンクリートのように冷たかった。衛宮士郎の体が軋みあがる中で、変わらず左手だけは冷たかった。まるで俺の行く手を阻むように。
 そう考えた瞬間に、瞬間的に思考が沸騰した。違和感を見つける。衛宮士郎には不要な異物を発見する。
 俺は痛みを無視して、膝立ちになって立ち上がった。そして左の拳を振り上げて、コンクリートへと叩きつける。がつんっと鈍い音がした。拳に鈍い反動が帰ってくる。だが、それだけでは終わらない。俺はもう一度拳を上げた。そして、前回よりも強く拳を振り下ろした。俺の意思を妨げる左手など入らない。躊躇いなく拳を振り下ろした。何度も何度も、原型が崩れていくまで力を緩めずに。何度か地面を叩くと、ぐしゃりっという感触が返った。左手の骨が完全に砕けた事を、じんじんと染入る様に訴える痛みと、血の赤色と打撲傷の紫色で彩られた拳が教えてくれる。ぽたりぽたりと、赤い血が落ちていった。血が抜けていく代わりに忘れていた何かが頭の中に入っていき、頭の中にはっていた靄を切り払っていく。思考が少しだけ明確になる。
 この瞬間に、きっと俺は何か大切な事を思い出していた。それが何であるかは分からないけれど、大切だったものがあったことだけは確実に思い出した。暖かいような記憶の残滓を、胸で感じる。
 そうして俺は立ち上がった。口の中に転がっている歯と、固まりかけた血を唾と混ぜて吐き出す。もう一度、膝を曲げてから走り出す。複数の関節や肌から血を流していても、体が帯びた熱は冷めなかった。それまでどうしても熱くなることができなかった左手も、流れ出る血と際限なく生まれる痛みによって熱せられている。体の中に詰まっていた毒が抜け落ちていったような安堵感を覚える。俺はもう一度走り出した。
 走る。本気になって走る。
 歩道を駆けていく中で、こちらには見向きもせずに何台か乗用車やスクーターが新都の方へと走り抜けて行ったが、それはいい。彼らはきっと大丈夫だろうから。安心して、俺は倒れているかもしれない誰かを探しにいくことができる。
 走る。地面を強く蹴りつけて、最短距離を突っ切っていく。
 飛び火した災厄によって燃やされている家屋へと近づいていき、誰か助けられる人の姿はないのかと探す。過去の俺のような、あるいは過去の俺のように助けられることさえもなかった存在を探す。注意深く見渡す。だが、そんな人影は見当たらない。付近に立っている家の電気はほとんどがついていたが、そのどれもに人気は感じなかった。ほっとするのと同時にもう一度足を動かす。奥へ奥へ、更に炎へと近寄っていく。助けを求めている、俺が助けることができる存在を探す。周囲を忙しなく観察しながら進んでいく。いつしか燃える炎を見上げることができる場所まで、俺は到着していた。
 そこは地球上の何処よりも死に近い場所だった。数百メートル先には、既に生と死の境界を隔てる黒い溶岩が押し寄せてきていた。最前線にいるという緊張からか、背筋に一瞬冷たいものが駆け巡る。だが、そんなものは掃いて捨てた。睨みつけるように、押し寄せる黒い呪いを見据え返した。お前なんかただの十年前の二番煎じじゃないか。そう考えてへその下に力を籠めなる。そして、近くに誰か逃げ遅れている人がいないかを探した。しかし、誰の姿も見えない。
 喉から声を張り上げる。誰か、誰か、助けが必要な奴はいないか。腹の底まで空気を吸い込んでから、もう一度叫ぶ。この混乱の中でも届くように、大きな声で周囲に呼びかけた。しかし反応はない。俺はもう一度、更に前進しながら声を張り上げた。冷たかったはずの空気がいつの間にか熱気を帯びたそれへと推移し始めていた。脂汗が額に浮かぶ。
 だが、声はとめない。足は動かす。
 と、そんな中で視界の端で人影が見えた。俺と炎とちょうど中間に位置するような家の中から、二人ほどの男女が慌てたように飛び出してきていた。大丈夫かと思いながら近づく。だけど、それは必要なかったみたいだった。家の中から飛び出てきた人影は、すぐさまに家の外へと飛び出ると、そのまま車の中へと乗り込んだ。そして迅速に車を出して、道路を全速で走り始める。道路の上に立っていた俺の真横を車が通り過ぎていくと、生暖かい風が吹いた。きっとあの二人はもう安心だ。
 だから俺は声を上げる。そしてまだ逃げ出していない誰かがいないかを探す。黒い呪い、間近ではまるで人の臓器のようにも見える気味が悪い物体は、じわりじわりと距離を詰めてきていた。既にもう、俺とアレの距離は百五十メートルほどしか残っていない。撤退するべきか、まだここで誰か助けられる人がいないかを探すべきか、判断に迷う。俺はぎちりっと歯を噛み締めた。そして強く迫り来る業火を睨みつけた。判断はまだつかない。
 そして、そんな時。視界の中で不思議なものを見つけた。
 黒い呪い。触れるだけでコンクリートも、木々も、土さえも発火させてしまう超高温の溶岩の上に、人の姿が見えた。最初に見たときは、ただの見間違えかと思えたが、そうではなかった。何度瞬きを繰り返しても、その人間は確かにいた。大気すら焼け焦がす炎の中をどういう原理かは知らないが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながらこちらへと向かって走ってきている。鮮やかな赤い服を着た人間が、汚れた黒い呪いの上を走っている。
 その姿を見つけた瞬間に、体は自発的に動いていた。ぐんっと太腿に力を込めれば、すぐに視界が後ろへとスライドしていく。けれど、それだけでは足りないと反射的に俺は言葉を発していた。トレース・オン。がちりっと脳裏に浮かんだ撃鉄が落ちる。意識の中で火花が上がった。両足の中に流れる魔力回路を縫うように、新しく強化のための魔力を流し込むことで両足を補強する。慎重に、そして迅速に。移動しながらの魔術は、素人の俺には負荷が大きすぎたが、そんなことは気にしてはいられない。泣き言は言っていられない。助けられるかもしれない誰かの姿を見つけた以上、あの日に切嗣に助けられた衛宮士郎は止まってはいけないのだから。
 だんっと右足で大地を蹴りつける。まるで靴の裏側が爆発したように、俺の体は前へと吹き飛んだ。強すぎる衝撃に崩れた体勢を必死になって空中で整える。そして、どうにか安定した姿勢を取れた瞬間に、今度は左足で着地していた。そのまま強化された脚力を使って俺はもう一度、地面を蹴った。二度目の跳躍でも再び爆発したかのような推進力を得る。しかし今度は空中で体勢を崩さないままに進むことができた。そうして、二歩でこつを覚えた俺は今までよりも段違いに速く、炎とコンクリートとの境界へと向かって駆け抜けた。
 炎の上を走っていた人間も、俺と同じだけの、いやそれ以上の速度で移動していた。押し寄せるマグマよりも早く、炎を駆け抜けていた人影は、もうすぐコンクリートの上に着地できるところにまで来ていた。そして、その予想通りすぐに赤い服をした人間は最後に力強く跳躍すると、燃え盛る炎を飛びぬけてコンクリートの地面の上へと着地した。次にそのままこちらへと向かって走り始める。俺の心の中で安堵感が生まれた。
 が、その途中。人影は着地の際に足を痛めてでもいたのか不意に走るのをやめた。足を押さえてうずくまる。そしてそのまま力尽きたのか倒れこんだ。その光景を見た瞬間に、俺の脳内で警報が最大限で鳴り響いた。人を助けろ、人を助けろと胸の奥底から不愉快な記憶と同時にいつかの約束が甦る。俺は言葉にならない声を上げて即座に跳んだ。同時に視力を強化する。速攻で自身の体の中に魔力のラインを通す。倒れ伏した人間までの距離と、その背後から忍び寄る黒い溶岩までの距離を正確に目視する。人影までの距離は五十メートル、そして背後から迫る呪いまでは恐らく九十メートルとない。足に全力、並びに全魔力を集中させる。五十メートルを三秒で駆け抜けるイメージを浮かべて、自身の体を弾丸へと変える。途端に空気抵抗がまるで壁のようにかかったが、その全てを意思だけで押しのけて走る。視界を線へと変えて、ただ走る。そしてジャスト三秒。俺は倒れた人間の前まで辿り着いていた。それは女だった。体中が傷だらけで、ところどころに酷い火傷がある女。顔は女自身の長い髪がヴェールのようにかかっていて良く見えない。だが、そんなことはどうでもいい。決断は一つ。行動も一つしかあり得ない。粉々に砕けた左手と、無事な右手ですぐさま倒れた人間を背中へと抱きかかえて、そして一目散に撤退する。背中にかかる重みからか少しだけ速度が落ちたが、それでもあの黒い呪いよりは断然に早い。俺は、誰だか分からない、ろくに顔すら観察せずに引っ張り上げた人間を抱えて走り出した。今度は山寺とは反対方向に、この命を抱えて走る。
 背中の人間は少ししてから意識を取り戻したのか、俺が走っている間に一度身じろぎをした。そして呟いた。何だ、誰かと思ったらあんたなんだ。死んでからも私を守るなんて律儀なのね貴方。夢心地のような声で背中の女はそう言った。混乱しているのだろうと見当をつけて、俺はそのまま足に強く力を送り込んだ。地面を駆け抜ける。走り続ける。
 その間も、背に乗せた女は口を閉ざすことなく喋り続けていた。あーあ、どうしてかな。最後の最後でドジ踏んじゃった。アルトリアにも手伝ってもらったのに、あいつの最後の悪足掻きを止められなかったみたい。ごめんね、間抜けなマスターで。貴方は命を懸けてまであの金ぴか倒してくれたのに、その期待を裏切っちゃったみたい。女は言葉を喋る。だが、俺の首に回した腕にはまるで力が感じられない。それが酷く危険に思えた。
 だんっ、だんっと一歩足を進めるごとに、俺はコンクリートを踏み抜くほど強く蹴りつける。両手で背中の軽い体をしっかりと支えながら、両足で加速する。心臓はばくばくと拍出を早め、酸素が不足した血液が飢えを訴えるがそれらを無視する。ただ走り抜ける。全身が危険なほどに熱を帯びていく事を感じた。背中に乗せている人間の体温がやけに冷たかった。
 そんなことを考えながら、俺は決して回転する両足を緩めることはしない。むしろ強く、更に強く疾走する。疲労からか、かちかちと歯が震えた。視界の中に黒い点が混ざり始めた。心臓が膨れ上がりすぎて爆発してしまうような圧迫感を感じた。
 だけど俺は走った。
 背中に担いだ人間はまるで懺悔でもするかのように、その間も喋り続けていた。そういえば、どうして貴方は生きてるの? バーサーカーじゃあるまいし。けどいいや、その方が良いから深くは聞かないわ。だって私、もう本当に一人になってしまったんだもの。誰か一人くらい、私を知っている人がいてくれた方が嬉しいから。あなたはそれを軟弱だって笑うかしら?
 後悔するような声が俺の耳にかかる。それは悲しげな声だった。何故かその声を聞くと頭がギチギチと痛んだ。だけど、その痛みを堪えて走り続ける。走らなければいけない、止まってしまえば俺もこの人も死んでしまうのだから。足を動かし続けなければいけない。呼吸することさえ辛くなっていく中で、俺はそれだけを考えながら走っていた。ガス欠になった体に鞭打って、全力で進み続ける。
 そしてどれだけかの距離を走り続けた後、不意に、突発的に前方から黒い呪いが噴出してきた。コンクリートの道路の真ん中から、噴水のように粘着性の黒いマグマが湧き出てくる。それは汚水のシャワーのように周囲に飛び散り、触れる全てを汚していた。湧き出し口の傍らには融解した円盤状の何かがあった。マンホール。直ぐに答えに至る。下水道を通って、先回りをしてきた劫火が俺の道を塞いでいる。そのことに気がつく。
 瞬間、行動を開始した。一直線に走り続けていた下半身に負荷をかけて、進行方向を斜めにずらす。湧き出る呪いが周囲を溶かし燃やしていく範囲のギリギリで外側を、全力で駆け抜けていく。溶岩の真横を通過した瞬間に、ぶわっとむせ返るように熱い空気を感じた。それを合図としてさらにスピードを上げていく。
 更に下流の下水道を通って先回りしている炎がないとも限らない。そう考えて、それまで意識的に設定していた力のリミットを解除する。ずらりと並んだ撃鉄が、一斉に落ちて壮絶な火花を上げる。意識が一瞬、閃光に占領される。その瞬間に、俺の体は限界を超えた。命を対価にして、奇跡を酷使する。
 走る。風になる。街中で散発的に湧き出ている小さな黒い呪いを避けながら。
 駆ける。背中の命を守る。背後から迫るアレには決して渡さないと、強く決意しながら地面を蹴った。
 既に視界に映る景色は線となっている。明確な映像を視野に刻む前に、目に入ったモノ全ては後ろへと流れていく。視認するのは道筋と、避けなければいけない呪いだけでいい。そう考えて、更に視覚から不要なものを排除していく。感覚が最適化される。ただ命を救うことだけにアダプトしていく。
 更に速く、俺は走り続けた。
 一度息を吐く間に三度地面を蹴る。一度息を吸う間に、五度足を前に出す。呼吸をするたびに、十度距離を詰める。そうやって俺は走り続けた。意識が飛ぶ。感覚が麻痺する。だけど、それでも体を軋ませて俺は走り続けた。背中に抱えた命の重さだけを感じていた。
 だが、そこからどれだけかの距離を進み続けた後、終わりは来た。
 不意にがくんっと膝から力が抜ける。途端に背中に担いだ人間の体重が肩に食い込む。人一人のリアルな重さに、一度たじろぐ。走っていた足が止まった。倒れる事を防ぐだけで俺は精一杯だった。それは明らかな魔力の枯渇。それまでの疾走を支えていた脚部の強化が瞬時にほどけて霧散する。酷使していた体を支えていた魔力の消失。そうなると、俺は走るどころか歩くことさえも難しくなってしまった。痛んだ体で、人一人を抱えて歩く。それは想像以上の重労働だ。周囲の大気が重く俺に圧し掛かってきている。
 熱を帯びすぎて朦朧とする意識の中で俺は試しに一歩進んでみた。がくりっとそれだけで関節から力が抜けていった。抱えた人がやけに重い。それでも自分を騙してもう一歩だけ進んでみた。すると、今度は耐え切れずに膝を突いた。それだけで立てなくなる。歯を食いしばって、両足に力を送ってみても、体はうんともすんとも動かなかった。それどころか、足に気を取られすぎて上半身の注意が疎かになる。ぐらりと体勢を崩して、俺は地面にまた倒れこんだ。背中に担いでいた女も、ずるりと投げ出されて地面に転がる。女は言葉を口にしていても、熱にうなされているのか動く様子はない。俺と同じで。この人は立てないだろう。
 ならば、衛宮士郎は立たなければいけない。
 そう自分に言い聞かせてから、膝に力を入れる。がらんどうになってしまったガス欠の体から、エネルギーの絞りかすを集めてきて、それを燃料に使う。このぼろぼろな体を突き動かすために。ふと、■■■■の姿を思い出す。黒い台風のようだった■■■■■■■に吹き飛ばされた彼女は、今の俺のように地面に転がったままだっただろうか。そう反芻する。
 答えは一瞬で出た。否、彼女は諦めなかった。そう諦めなかったことだけは強く覚えている。名前さえも虫食いにあったような記憶のせいで彼女を思い出すことは出来ないけれど、あの姿だけは覚えている。■■■■は諦めなかった。彼女は剣を杖として立ち上がろうとしていた。その記憶を思い出す。大切にしまわれていたはずの、彼女の姿を。
 ぐっと膝に手を当てながら、力を込める。まだ残っていた記憶を力にして、倒れた体をもう一度立ち上がらせる。それだけの作業に恐ろしいまでの労力が必要で、背中には気持ちの悪い汗が浮かんだ。だが、それでも力を入れ続ける。そうすると、無理やりではあっても最終的に立ち上がる事はできた。何だ、俺もまだやればできるじゃないかと自嘲的に感じる。そして錆び付いたように動かない首にありったけの力を込めて、後ろを眺めた。ゆっくりと、まるでこちら側が恐怖に怯えるのを待つかのように不必要にゆっくりと、あの黒い呪いはこちらへと迫ってきていた。少しばかり距離を稼いだが、まだ八百メートルほどしかない。今の体力のままでは、いずれ食いつぶされる。十年前、黒い炎の下で融解した人型に埋もれていた頃の記憶がフラッシュバックして甦る。それではいけない。痛みを自覚するために、頬の内側の肉を強く噛む。でろりと血が流れ始めるのを感じた。それが決断。
 早く、ここから離れなければいけない。倒れ伏した女を見ながら考える。その女はどこかで見たことがある顔をしていた。だが、思い出せない。ビギッと強いノイズが頭の中に生じて、眩暈を覚える。ぐらりと崩れかけた体をどうにか踏ん張らせる。そこで無駄な思考をすることはやめた。痛む左手と、かろうじて無事な右手で女をもう一度背中にかついだ。途端に重量が背中にかかるが、どうにか、それでも立ち上がったままでいられた。まずは頷く。息を吐く。そして歩き始める。
 一歩、進む。それだけで冷や汗が浮かぶ。体がどうしようもなく熱いのに、冷たい汗が流れる。まるで命かそれに類するものが零れ落ちていくかのように、この道程は寒い。だが、それでも更に一歩を踏み出す。ネジの外れた機械のように、がたがたと全身が震え始めるのが分かった。もうすぐ、この体は壊れてしまう。そんな信頼性の高すぎる直感が頭をよぎる。だが、それでも足を止めない。
 コンクリートで舗装された道路の真ん中を、進んでいく過程は孤独だった。人の姿も車の姿もない。誰も見えない。あらかたの人間は避難を終えているのだろう。それは喜ぶべきことだったけれど、誰の助けも得られないということだった。この背中の人を助けるために切れるチップは俺の命一つしかない。そう考える。足を進める。歩きながら前方を見渡してみても、誰の姿も見えなかった。消防や警察も、恐らくは避難の誘導で手一杯なのだろう。そう一つ一つ確認していきながら、足を交互に動かしていく。
 一歩歩くたびに、背中の人の重さが膝にかかった。俺を地面に倒れ伏させるには充分な、危険な重さ。どうにかそれを歯を食いしばることだけで我慢する。薄氷のうえを歩く綱渡り。俺はきっともう一度倒れてしまえば、もう二度と起き上がる事は出来ない。そう認識を重ねていきながら、決してこの足だけは止めない。強く、強くそう思った。
 そんな中で、背後を見てみると黒い呪いは、近づいてきていた。目算で五百メートル強。俺が歩くことしかできないでいる間に、あちら側は悠々と距離を詰めてきている。その理不尽な姿に、頭の中が真っ黒になるほどの憎悪を覚えた。人を殺すあれを憎む。眩暈がするほどに強く。その怒りを原動力として進む。背中の人間を、お前になど絶対渡さないと決意する。足を踏み出す。足を踏み出し続ける。棒の様になった足を前へと踏み出し続ける。動く事を止めない。踏み出す。強く踏みしめる。強く強く、ただ前へと進んでいく。
 ぷつんっとその瞬間に感覚が切断した。冷たさも、熱さも、その一切が消える。霧散する。視界から色も消えた。音は少し前からもう聞こえない。背中に人をかついでいるという感触もあやふやだ。ただ、この手の中に命があることだけしか分からない。だけど、それだけで充分。俺は脚を進め続けた。感覚もおぼろげなので、自分が確かに地面を踏みしめていると感じることも出来ない。けれど、それでも地面と自分の足を見据えながら、懸命に歩くという動作を続けた。手だけは強く握り締める。
 もういつの間にか痛みさえも消えていた。血が流れる体の各部も、粉々に砕いた左手も、もう何も痛みを伝えようとはしない。痛みなど、既に通り越していた。そのことに気がつく。
 そして、それが限界の訪れだった。
 ぐらりと唐突に視界が斜めにスライドしていく。続く衝撃。ぐらんぐらんと景色が激しく揺れる。いつの間にか俺は地面に寝転がっていた。痛みはない。ただ、倒れているという結果だけを認識できる。立ち上がろう、そう思っても足は動かなかった。いや、足どころか体中の全てが動かなかった。手も、足も、顔も、その全てが動かない。誰も助けることが出来ない。ふと、十年前の火災で死にかけていた時のことを思い出した。現状と過去が重なる。だが、もう切嗣はいない。代わりにいるのは、助けを必要としている誰かが一人。助けられる位置にいるはずの俺は、今度も何も出来ないでいる。
 悔しさに、歯を噛もうとした。けれど、それすらも力が足りなくてできない。俺は泣くことさえもできなかった。だから、せめてもの抵抗で諦めない。穴の開いたコップのように劣化してしまった体は、どれだけ力を送り込んでも、開いた穴からその全てを漏らしていく。体が、体として働かない。悔しい。叫ぶことさえも許されない。その事実にぐらりと絶望しかけて、とっさにその思考を迫り来る理不尽な炎を憎むことで保った。あれを決して俺は許してはならないと、思考する。俺は人を殺す全てを決して黙認しない。
 手を動かす。できない。ならば小指を動かす。それもできない。ならば第一関節だけでも動かす。それさえもできない。呼吸することさえも難しい。絶望的な結果だけが、俺の体にはあった。泣きたくなる。だが、止める。また体を動かそうとする。どこか動く場所がないかと探す。諦めるのはあの炎に飲まれてからで良いと、その終わりが訪れるまでは芋虫のようにでも地面を這いまわってやると決意する。まばたきをする。できた。息を大きく吸った。できた。少しだけ疲労が回復する。もう一度、更に大きく息を吸った。満杯になった肺は自動的に溜まった空気を吐き出した。また少しだけ体が楽になる。
 そうして、もう一度、指の第一関節を曲げようとした。しかし曲がらない。だが、諦めない。力を込め続ける。それでも曲がらない。しかし意地になって曲げ続ける。なおも曲がらない。だけど、諦めるという選択肢だけは排除する。力を込める。動けと祈る。過去を思い出す。約束を脳裏に浮かべる。誓いを胸にする。そして、■■■■の姿を思い浮かべる。
 その瞬間に、指先は動いた。
 がちりっと撃鉄が落ちる感覚。ばらばらになっていたパズルのピースが少しだけ嵌まっていく。■■■■、その言葉を呟く。理由も分からないのに、どうしようもなく熱い涙がこみ上げてきた。何と言ったのかさえも、自分では理解出来ない。それなのに、俺は確かにその言葉に勇気付けられた。
 指先を動かす。体はゆっくりと応じた。拳を握り締める。体は確かに応えた。地面に手をついて立ち上がる。鉛のようだった体が、どうしてか再び動き出してくれた。衛宮士郎は、立ち上がる。砕けた左手を、ぎゅっと握り締める。左手の甲は焼けたように熱かった。それがどうしてか頼もしい。
 俺は立ち上がった。そして背後から迫り来る呪いを睨んだ。大気は激しく熱せられたために膨張したのだろう、ぬらりとした風が撫でるように頬を通り抜けていった。来るなら来い、と覚悟を決める。そうすれば幾らかは楽になった。
 だから、行動を再開する。
 乾き始めた血に塗れた左手を見る。その手を見るだけで、どうしてか力が湧きあがった気がした。体の芯から癒されていくような錯覚を覚える。例え錯覚だとしても、現状では間違いなくそれは俺の力になっている。それだけで充分。湧き上がってきたその力の錯覚を信じて、倒れた女を持ち上げる。重い。とてももう一度、背中に担げるだけの軽さではなかった。だから、諦める。今度は女の腕を俺の肩に回す。そして、そのまま引きずるようにして歩く。ぐったりとした女は動かない。それを確認しながら、俺は歩く事を再開した。
 ずるずる、ずるずると女の足を地面に引きずらせながら俺は歩く。後ろからは黒い呪いが迫ってきていた。確実に俺よりも速く。だが、諦めない。例えどれだけ遅くても。もうこの足は止めない。だって俺は思い出したのだから。
 一歩歩く。その瞬間に太腿からぶちっという音がした。だが無視する。
 更にもう一歩進む。その瞬間に視界が朦朧となり始めた。もう道路と壁の区別さえもつかなくなる。だが足は止めない。
 そうして、延々と歩き続ける。決して屈さない。決して諦めない。それだけを胸にして、歩き続ける。はっきり言って、この状況を打開できるだけの方法は何も思いついてもいない。だけど、それでも絶望だけはしない。体の動く限り、衛宮士郎は人を助け続けるのだから。そう心の中で反芻を続けて、俺は脚を前にと出し続けた。
 そうしてどれだけの距離を歩いただろうか。
 時間の感覚も薄れていく歩みの中で、ふと前方に光を感じた。それが何であるのかは見えない。もう俺は、脇に抱えた命の存在しか確かに感じることができなくなっていたから。だが、そんな俺に対しても何かを主張するかのように、光はどんどんと輝きを強めていく。色を失っていた視界の中で、その輝きだけが爛々と輝き始める。まるで夜の土蔵の中、白銀の光をまとって現れた彼女、■■■■のように光は周囲を照らす。余りにも眩しい光に、俺は彼女の姿をまた思い出すことができた。もう一度、力が腹の底から湧いてくる。
 歩く。胸を張って歩く。彼女に情けなく思われないように、この命を抱えて歩く。光は俺の思考に呼応するかのように強くなっていった。その輝きに、俺は更に力を取り戻す。歩く。背中から迫り来る死から、この命を守るために歩き続ける。ふと、いつかの彼女の姿を思い出した。■■■■、実直で正しいと信じた事を貫き通した騎士のことを。
 その瞬間に、頭の中でばらばらに散らばっていた点が一本の線になって繋がれた。
 彼女の事を、完全に知覚する。
 光は更に大きさを増す。記憶が色を取り戻す。俺は目の前の光を見つめるたびに、色々なことを思い出していった。こぼれ落ちてしまっていた記憶が、もう一度頭の中に戻ってくる。ざくざくと地面を踏みしめていくたびに、何か忘れていたものが脳裏に浮かんでいく。それはきっと奇跡だった。短い間に終わった戦いも、突然の契約も、彼女のことも全てが、光に照らし出されて俺の手元へと還って来る。それは、間違いなく奇跡だった。大切だった交わした会話の一字一句が、再び俺の頭の中へと返ってきた。封じられていた彼女の記憶まで、ようやく手が届いた。
 そして、その瞬間に俺の記憶は全てが符合した。左手の中で停滞していた彼女との思い出が、堰を切ってあふれ出す。
 気がつけば、俺はその名を口にしていた。
「セイバー」