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 四日間の繰り返し。死に瀕した誰かが発端となって生まれたその循環は、起こり得るはずのない日常から構成されていた。
 笑い合うはずのない者達が笑い、戦い合うはずの者達が武器を収める。
 それは、箱庭の中に造られた仮初の楽園だった。遠い昔に全てを剥奪された誰かが望んだ、繰り返される日常。その場所には、やり直しが望まれた時間軸から分岐しえる全ての日常の可能性が詰められていた。全てを憎む在り方で世界を受け入れた誰かでさえも感じることができる、喜怒哀楽という全ての色が存在している虚ろな平静。たった一人だけ偽者が紛れ込んでいて、残りの全ては現実に相似した虚構。それが回り続ける四日間の真相だった。だからこそ、循環は何度繰り返されようとも色あせる事はない。
 しかし、その場所にも例外はあった。
 ただ一人。誰も失われていないはずの人々の中で、唯一存在しない者がいる。ありとあらゆる分岐の中で、どうあっても死する以外の運命が残されていなかった男。生まれ出でたその時より人として壊れ、結局、人並みの幸福という概念を死ぬまで理解することができなかった神父。彼が、この繰り返しの四日間には抜け落ちていた。聖杯戦争の監督役としての地位はあった。だが、その空白だったはずの椅子にも既に違う要因が座している。彼は確実に虚ろな平静から排除されていた。欠けたピースを補う存在が、用意されてしまうことで、ますますその存在は薄れた。
 閉じた庭の中、言峰綺礼という存在は消失していた。もしくは欠落していた、とでも言うべきなのかもしれない。
 純然たる悪にしか喜びを見出せない男は、どう足掻いても日常とはそぐわなかった。火と雪、水と油。存在としてのあり方からして、真逆を向いているモノ同士が混じりあえる道理はない。一度彼を日常という舞台に上げてしまえば、あっという間にそれは汚濁となって箱庭を汚すだろう。その瞬間に、誰かが求めた日常は跡形も無く崩れ去る。
 もしかしたら、その結果を忌避したいがために、舞台の演奏者は彼を配役することさえもしなかったのかもしれない。言峰綺礼という制御出来ない不確定すぎる因子が、整えられた箱庭を破戒してしまうことを恐れて。
 故に、仮定ではあるが、舞台に上がった彼が、決して日常を侵さない状況であるのならば、抹消されたその存在が再び浮かび上がることもまた、有り得るのかも知れない。――確証など何一つない、ただの仮定ではあるが。



   「交差線上の告白」



 地上より遠く、天にはなお遠い告解の惑い場。聖堂。
 その場所は今日も、硝子細工を想起させる指先が鍵盤を叩くことで生まれる、荘厳な曲の調べによって満たされていた。オルガンの前に座る修道女は目を瞑ったままに指先を動かすことで、賛美歌を紡ぐ。弾かれた慈愛はオルガンより伸びた、階段状に長さの違うパイプよりそれぞれ出でて、聞く者の鼓膜を揺らす音楽となる。
 特筆するべき才能も感じられない、優れた技巧も存在しない。ただ祈るためだけ、それだけのために弾かれている音律が、聖堂の中にはあった。オルガンは、演奏者の指示に従って、ただ淡々とした音の旋律だけを生み出していく。
 カレン・オルテンシア。雨の日に咲く、ある花の名を姓に持つ修道女。
 彼女の演奏は人の虚飾を剥ぎ落とす。人の手によって作られた神の家で、人の手によって作られた神の歌を奏でる彼女の、芸術性の省かれた祈るような演奏は、例外なくそこに神性を感じさせた。抗う手段は少ない。八年と言う歳月をかけて完成された無心の祈りは、休息を求めるために神の家を訪れた者達の緊張を紐解くことで、信仰を呼び起こす。
 彼女は実に良くできた神の使いだった。
 幼少時より戒律を重んじる厳格な神父の下で、祈ることだけしか許されずに育てられたことで培われた、感情の揺れ幅の少ない鉄の信仰。生誕時から、本人の意思に関わり無く持たされた霊媒体質。魔が近づけば、その魔に勝手に体が反応して喘ぎ出す、娼婦のような特性。それらは日常においてだけではなく、地獄の釜の底を洗うような代行の使命の遂行においても役立った。そして、被虐霊媒体質、その特性があるからこそ彼女は、隔離された修道院の中で終えるはずだった人としての一生を、その垣根を越えた場所にて繋いでいる。教会の兵装の一つとしての存在価値を抱いて。
 カレン・オルテンシア。めしいた金色の目と、くすんだ灰色の髪を持つ修道女。――それは、愛を証明するために自らの命を絶った女と、その生涯を終えるまで他者の不幸にしか喜びを見出せなかった男との間に生まれた命の名前だった。人と共にあるだけで人心に棲む魔に反応して勝手に傷つけられる体と、聖母の聖骸布に認められるほどの痛みに耐える愛を背負ったその命は、ただ祈るためだけに存在する。
 少なくとも彼女がこの街に来るまでは。そのはずだった。
 そして、彼女自身もそう考えていた。
 カレンが冬木の聖堂にいる理由は、ただ一つしかない。
 第五次聖杯戦争後に再び観測された聖杯の調査。そのために彼女は冬木の地を訪れた。人並みの感傷など抱くこともなく、ただ彼女は日々の労働の延長として、この地へと足を踏み入れた。そこに前任者であった神父への想いなどはない。
 Ora et Labora――皮肉にも“祈れ、そして働け”という言葉は、彼女の存在そのものを象徴していた。彼女には内も外も無く、ただ主への祈りと、生きるための労働だけがある。厳格な修道院が擬人化されたようなその生き様は、多くの人間の目には哀れに映ることだろう。だが、そんなことを彼女自身は大して問題だとも考えていなかった。
 何故ならば彼女は許容していた。祈りと労働だけで構成された毎日を、そしてハンデを持って産まれてきた自身を。
 元より楽しいという感情を上手く理解できない女であったため、労働を厭うこともなかった。負う傷は他人の物、流れる血は他人の物、哀れむべきは、自身に傷を刻むほどの魔に魅入られた誰かであると認識していたために、我が身の不幸を憎むことも無かった。自らは生まれ持った形のまま、定めに従って生きればいい。我が身を嘆く余地があるだけで充分なのだと、彼女は許容していた。――彼女は異端の我が身を魔の撒き餌として、代行の道具となることすら拒絶しない。
 全てをあるがままに受け入れる。それがカレン・オルテンシアの中に存在する人生観と呼ぶべきものなのだろう。
 それはどこか、人として壊れていた神父の生き方を連想させた。生れ落ちた時より欠陥者であったことを告げられ、自身もその事実を深く理解し、苦行と苦悩を重ねてその欠陥を克服しようとした男。言峰綺礼。常識を知り、道徳を識れなかった彼はあらゆる手段を用いて、世の不幸にしか喜びを見出せない自己を改善しようと努力を重ねた。人を愛することで幸福を得ようと努めた。だがしかし、結局それは報われなかった。善性を身に修める為の最後の試み、ただ一人の女を愛そうとした彼の苦行も、結果としては無価値に限りなく近いものに終わった。その瞬間にまた、綺礼もまた受け入れたのだ。産まれた時より壊れていたありのままの自分を。
 この一点だけ比較するのならば、血は受け継がれている。そう言えるのかもしれない。
 片や真性悪魔を前にしても揺らがぬ鉄の信仰を抱く、神に仕える修道女。片や戒律を破ってまで愛を証明しようとした女すら愛せなかった、神と決別した神父。――それでも、この二人の間には確固とした血が繋がっているのかもしれない。
 対極でありながらも、哀れに思えるほどに酷似した特性。
 それは互いに顔すら知らぬ親子に、神が与えた祝福であったのか、罰であったのか。或いは、ただの偶然にすぎなかったのか。


   /


「――告解をさせてもらいたい」
 来訪者の胸に神性を呼び起こす聖堂の中。不意に響いたその声は、パイプオルガンから紡がれていた旋律に弱められることなく、室内の隅々にまで届いた。無心の祈りと鉄の信仰を持つ修道女が奏でていた調べが、その瞬間に停止する。賛美歌を演奏していた硝子細工のように細い指先が、固まったように動きを止めた。
「この聖堂の前任者は不慮の事故で倒れ、今ではかろうじて私が遣わされているのみです。告解をなされたいとしても、ただの修道女に過ぎない私では、主に代わって罪を許すことも、免償を命じることもできません。ただ、あなたの告白を聞くだけしかできないかもかもしれませんが、それでもよろしいのでしょうか?」
 演奏を止めた修道女は立ち上がり、先ほどまで賛美歌を奏でていたオルガンから離れた。そして聖堂の中へといつの間にか入り込んできていた男と向き合う。
 小柄な修道女と比べて、聖堂の入り口に立つ男は酷く大きく、背丈には頭二つ分以上の開きがある。
 男は見下ろすような視線で、修道女を見据えていた。男の目は濁った硝子球のようで、表層の意思すらも探ることはできそうにない。ただ視線がどちらへ向いているのか、その程度しか判断ができない。
「シスター、私はそれで構わない」
 そして男の声もまた、感情の酷く読みにくい類のものだった。得体の知れない薄皮か何かに包まれているかのように、その言葉は現実味を感じさせない。嘘偽りであるというわけではなく、遠いのだ。ゴム手袋をはめたままの相手と握手をしているような違和感が、その抑揚の少ない声の中には含まれていた。
「そうですか。ならば、告解室へと移動しましょう」
 しかし、その肩にかかる空気を重くするような違和感を前にしても、修道女は何も感じ入ってはいないようだった。抑揚の少ない男の声に、感情の起伏の少ない声で応じ、言葉を発する。機械的に。修道女はただ無心の献身をもって返した。
「いや、それはいい。どうせこの場所に来る者など、最早いないのだろう。ならば、場所を移動する必要などあるまい」
「あなたがそれで構わないと言うのでしたら、私としても無理に薦める必要はありませんが。――それでよろしいのですか?」
「ああ。むしろそちらの方がいい。どちらにしても、これは正統な告解とはなりえないのだからな」
 修道女の問いかけに、男はゆっくりと頷いた。そして、何か喜ばしいことがあったかのように、静かに口元に笑みを浮かべた。
「解りました。ならば、この場にて始めましょう。聖書にはこうあります『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』と。赦しを望むのならば自ら語りなさい。――そして罪を痛恨し、再び犯さないことを決心して告白を」
 修道女は聖堂の中、直立したままそう言葉を発した。その金色の瞳は揺ぎ無く、立ち尽くす男を見据えている。
 視線を受けた男は、静かに笑っていた表情を、再び能面に似たそれへと戻した。
「ならば告解を。そのためには、少し昔話をしなければならない。シスター、それでも構わないだろうか」
「ええ。この身は既に神に仕える身。赦しを求める者の手を振り解くことは決してありません。あなたが告解を終えるまで、必要ならば何時まででも付き合いましょう」
「そうか。立派なことだな」
 男はそこで、そう言葉を発した。砂漠の砂塵のように乾燥したその男の声は、別段感心しているようには聞こえない。それは会話を繋ぐための相槌と何ら変わりないものに過ぎないのだろう。
 その証拠に、男は言葉を言い終えてから、そのまま自らについて語り始めた。
「遥か昔のことだ。何十年も記憶を遡らなければならないほどの過去。私という個人が誕生した時。その際に私は、一つの欠陥を持ってこの世に生を受けた」
 過去を語り始めた男の声は相変わらず渇いている。弱く萎れているというわけではない。むしろ、その声は一字一句聞き漏らされること無く、強く耳に残留する。しかし、不思議と枯れた様な印象を聞く者に与えた。
「私は愛情というものを理解できなかった。いや、正確には人並みの愛情というものが理解できなかった。自我を持ち始めた頃より、私にとって善が不快であり、悪が快へと連結した。多くの人々が自然に認識する愛情という感情を、私は真逆のプロセスを経なければ得ることができなかったのだ。何ということもなく、私は正常な認識の出来ない異常者だった」
 男は淡々と語る。人らしさの感じられない、まるで聖者のような達観した声で。
「Amor omnibus idem.――シスター、この言葉の意味が判るか?」
「知っています。“愛は全ての生き物にとって同じである”。ウェルギリウスが書き記した言葉ですね」
「その通りだ。“愛は全ての生き物にとって同じである”、多くの者達が共感を覚えるだろうこの言葉は、私にだけは適応されることがなかった。人並みの愛を知るために、私は様々な戒律を己に課し、途轍もない苦行を重ねた。だが、それら全ては徒労に終わったのだ。肉体を縛り、精神を縛り、その果てに得られたのはたった一つの前もって解っていた事実が一つだけだった。私は正常に誰かを愛することができない、その結果だけしか私には無かったのだと」
 男はそこで一度口を閉ざした。何ごとかを回想するかのように、動きを止める。
「正常に誰も愛することができなかった。それがあなたが自認する罪なのですか?」
 修道女は沈黙を良しとしなかったのか、口を開いた。目の前に立つ男と哀れになるほど酷似した、感情の起伏のない声で問いかける。一抹の救いは、修道女の声は鈴の音のようで、男のように渇いていなかったということだろうか。
「それは違う。人並みの愛を抱けなかったこと。それを罪だと私は思わない。何故ならば、私はその形で誕生したのだから。これは罪ではなく、欠陥なのだ」
「では、あなたは何を告解しようというのですか?」
 返ってきた男の否定の言葉に、更に修道女は問いを重ねた。変わらず機械のように起伏のない声で、男に尋ねる。
「私が犯した罪。――それは恐らく、答えを得ることができなかったということだ」
 そんな問いかけに、男はやはり渇いた声で淡々と言葉を口にした。地面に立つ男の体は鉱物のように、身じろぎもしない。口だけが何か別の生き物のように、静かに動いて空気を震わせ、意思を伝播する。
「生まれながらに持ち得ぬもの。初めからこの世に望まれなかったもの。それが誕生する意味、価値のないモノが存在する価値を、私は探し出すことができなかった。外界との隔たりをもったモノが、孤独に生き続けることに罪科があるのかどうか、その是非を問うことができなかった。――それが罪なのだ。我が身の欠陥を悟り、我が身の不可逆性を理解した後より、ただその答えだけを求めてきたというのに、私は答えを得ることができなかった」
 男は言葉を続けた。既にその濁った眼球は、目の前に立つ修道女を見てはいない。広く荘厳な聖堂の中、神性を来訪者に感じさせるように人為的に作られた場所で、両手を軽く広げて祭壇の上方にある空間を眺めている。
 それはまるで、聖堂を通して神に向かって語りかけているようにも映る、神聖な光景だった。
「追い求めた答えを得ることができなかったことが、あなたの自認する罪なのですか?」
「ああ、そうだ。私は答えを得ることでしか、贖われることがなかったはずだった。それにも関わらず、答えを得ることができなかった。それを罪と言わずして何と呼べる」
 修道女の問いかけに、男は一呼吸するだけの間をおかずに答えた。告解を聞く神の徒を、逆に諭すような口調で、言い返す。
 男は真実、異常だった。言葉と、振る舞いと、一般道徳とが噛みあっていない。人とは違う鋳型から生み出されたのかと疑問に思うほどに、その在り方が間違っている。そして更に異常なことに、男はその事実を知っていた。自らが異常であることを、完全に理解している。
 理解していて尚、修復することのできない、先天性の欠陥。そんなものを持ってしまった男は、どれほどの憎悪を今まで胸でたぎらせて生きてきたのだろうか。
「答えを得る。あなたはそれだけでしか、贖われることがなかったというのですか?」
「ああ。考えられる全てを試した。そして、最早残っていたのはそれだけしかなかった」
「本当に、何か別の方法は存在しなかったのでしょうか?」
「無い。最も人並みの平穏。ただ一人の女と家庭をなし、子を育てるということすらも、私には苦痛でしかなかった。愛そうとした女は、私に言わせてみれば聖女だった。誰よりも私の憎悪と苦しみを、理解していた。常識を知り、道徳を識れなかった私の歯痒さを、この世の誰よりも理解しようと努め、そして私を掛け値無く愛していた。にも関わらず、私は女が死んだ最後の瞬間まで、女を愛していると実感することができなかった。その女の不幸にしか、私は暗い愉悦を覚えなかった」
 修道女の問いかけに、男は思案する素振りすら見せずに否定を返す。既に、何百回も、何千回も、回数すら定かでなくなるほどに考えたのだろう。今さら思考する必要はないとばかりに、修道女の問いかけを一蹴する。
「Petite et accipietis, pulsate et aperietur vobis.――聖書にはこんな言葉がある。だが、それもやはり、私の前でだけは真実の輝きを失うということだ」
「“求めなさい、そうすればあなたがたは望むものを受け取るでしょう。叩きなさい、そうすれば扉があなたがたのために開かれるでしょう”ですか。その言葉を引用できるほどに、あなたが叩くべき扉はもう残されていなかったのですか?」
「その通りだ、シスター。私にはもう試すに値するものなど何一つ残っていなかった」
「それは、本当に? 何一つさえも?」
「そうだ。――私には答えを得る以外には、何一つ道は無かった」
 問い返す修道女の言葉全てに男は頷く。それは真実、男がそう感じているということだった。得体の知れない、人らしさを感じられない男の声には、やはり嘘偽りの響きだけは微塵も存在していない。
 だが、それでも修道女は問いかけを止めなかった。
「愛そうとした女性を愛せなかったのならば、為した子を愛そうとは思わなかったのですか? 己の血が半身に流れる赤子を」
 無心の祈り。普段より修道女が行うそれと、何ら雰囲気を変えずに修道女は問いを発した。胸の前に祈るように組んだ両手は傷だらけで、何重にも包帯が巻かれており、赤い血の滲みが見える箇所も一つや二つではない。
 機械じみた対応しかしない硝子細工を想起させる修道女は、その意味では正しい生物だった。血が通う娘。
 男はそんな目の前の修道女の問いかけに、やはり淡々と答えた。
「そんなことは考えなかった。子に、女以上の価値を私は見出さなかった。先ほども言ったはずだ。私を愛した女、彼女は聖女だった。雨の日に咲く可憐な紫陽花の名を持つ彼女は、誰よりも真摯に私と向かい合った。私を愛し、私の苦悩を理解していた。それほどの聖女と同じだけの価値が、子供にあるとどうして思える」
 切開するように男は事実を語る。子には母親を勝る価値がない、そう心底から断言する。
「シスター、女が死んだ瞬間に私の試みの悉くは水泡に帰したのだ。あの瞬間に人が私を癒せる可能性は潰えた。残ったのは、どうして女をこの手で殺せなかったのかという歪んだ後悔を抱いた私だけでしかない。それ以外は何一つ本当に残らなかった。――善性を獲得しようと言う意思も、神への信仰すらも」
「それは生まれた子供も同様なのですか?」
 修道女は祈るように両手を握った体勢のままに、男に問うた。醜い男の魂に祝福を祈っているのか、それとも無心の祈りを捧げているだけなのか、その仕草が何を意図しているのかは解らない。
「違いない。――いや、子は元より私の中にはなかった。だから失われたと言うわけではないが、同じようなものであるのだろう。私の中に残らなかったと言う点では同義だ」
「全ては無価値であったと?」
「ああ。何一つ、結果を出すことなどできなかった」
「それは、あなたを愛して死んだ女性も同様だったのですか?」
 修道女は、そこで一歩踏み込むような問いを発した。直立した体勢のまま、祈るように絡ませていた両手の指をほどく。そして一歩下がって、男を見据えた。男の全身の微細な動きの一欠けらさえも見逃さないとばかりに、その金色の目で男を直視する。
 男はそんな修道女の変化に、一度怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐに口を開いた。
「それは、恐らく、――いや、語るまい。その問いは永遠に脳裏に浮かべてはならない種類のものだ」
 そして、ゆっくりと首を振りながらそう言った。その言葉にだけは、今までの渇いているような奇妙な違和感は無かった。
「それはどうしてですか?」
「答えは現実としてある。だが、それを口にすることを私が嫌っているからだ。その答えを私が口にした瞬間に、無価値になるものが何処かにある」
 男はそこから再び、自己と外との間にフィルターを設置したかのように、感情の揺れ幅を消した。そして目を閉じて、動きを少しの間だけ止める。何ごとかを回想しているのか、或いは脳裏を掠めた思考をカットしているのか。
「そうですか。ならば深くは聞きません。――話を戻しましょう。あなたが自認している罪、それは答えを得られなかったことなのですね?」
「その通りだ。最早この身では後悔すらできない。ならばこそ、せめてもと思い教会の門を叩き、告白を行おうとしたわけだ」
 男はその時には目を開いていた。無数の澱が溜まっているかのように、透明度の低い眼球を修道女へと向けている。
 修道女は、男の視線を同じく透明度の低い金色の瞳で受け止めていた。その表情は、オルガンを弾いていた最中から今に至るまで、変化が訪れていない。人らしさの垣間見えない修道女の顔は、神性を想起させる偶像に似ていた。
「では、あなたの目的は果たされたのでしょうか?」
「ああ。目的はただ、それだけしかなかった。だからこそ、これで充分だ。世話になったな、シスター。私はこれで立ち去らせてもらおう」
 その言葉。位相のずれた相手と会話をするような居心地の悪さを感じさせるその言葉を合図として、男はそれまで地面に刺さった杭のように身動き一つしなかった体を動かした。修道女と向かい合っていた体を反転させて、聖堂の入り口へと向ける。その動作に躊躇いは無かった。目的がないのだから、留まる理由もない。そんな簡潔さだけが男の背中にはある。そして直ぐに靴が床を打つ、硬質的な音が聞こえ始める。
 男は真実、後ろ髪を引かれることもなく、振り返ることもせずに立ち去ろうとしていた。
「お待ちください」
 だが、その動きを引き止める鈴の音のような声が、修道女の口から漏れた。終わりから始まりまで人として歪んでいた男に呼びかけた彼女は、祈るように腕を組み、目を閉じた体勢で言葉を続けた。
「この場を去られる前に、少しばかり時間を頂けないでしょうか」
「時間を? これ以上、私には何もするべきことなどないだろう」
 修道女の言葉に、男は振り返って眉根を寄せた。未練など何も存在していないのだろう。自身が呼び止められることに、疑問を覚えているような顔をしている。
 そんな男の言葉に、修道女は腕を組んだまま、ゆっくりと首を縦に振った。
「ええ、確かにあなたには。ですが、私にはあります」
 感情の省かれた声。託宣を告げる預言者のような、奇妙な引力を備えた言葉を修道女は発した。
「シスター、君に? それは一体何だというのだ」
「赦しを、あなたに与えなければいけません」
 そして、修道女は瑣末事を語るように、何の力みもないままに、そんな言葉を口にした。それは神に仕える一介の修道女が軽々しく口にして良い言葉ではなかった。
「司祭の身ではない君が、主の御名を語ると?」
「はい。主の御名の下に赦しましょう。この場にて、去り行くあなたを」
 男の疑問に、修道女は厳かに頷いた。
「個人に過ぎないシスターが私を赦すと? 理解できないな。それは一体何のためだ。そもそも私は告白を求めていたのであって、赦しなど求めてすらいないと言うのに」
 男はそこで初めて渋面を浮かべ、問うた。理解できない、触れることができないモノが目の前にあるかのように、困惑したような感情を声に乗せる。
 そんな男の問いかけにも、修道女は無心の祈りを天へと捧げながら答えた。
 端的な言葉で、男の心理を切開するように。
「だって、あなたは泣いています」
「……何だと?」
 瞬間、男の目が限界まで見開かれる。警戒する獣のような視線を、男は修道女へと突き刺した。だが、修道女は祈りを捧げているために、その刃物のような鋭い視線に気づかない。
 ただ問われた言葉にのみ、従順に反応する。
「これは私の主観にしか過ぎません。ですが、あなたは泣いているように見えます。ならばこそ、このまま捨て置くわけにはいかないのです。――例えこの場にて、神への信仰を取り上げられようとも、私は赦しの秘蹟を与えましょう」
 そこで修道女は祈りのために閉じていた目を開いた。くすんだ金色の瞳が、男の両目を捉える。その瞬間に、男は全身を荒縄で縛られたかのように、身動きを止めた。
「聖書にはこうあります。“聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される”。ならばこそ、私はその権限を行使します」
 人の手で作られた神を幻視する箱庭。聖堂。その中央で修道女は、ひざまずいて祈りを始めた。無心の献身。それに動きを止められてしまったのか、男は何も口にしない。
 修道女は、誰からも阻まれること無く、聖句を口にした。
「――全能の神、憐れみ深い父は御子の死と復活によって世をご自分に立ち帰らせ、罪の赦しのために聖霊を注がれました。罪を痛恨し自認するもの、父と子と聖霊の御名によって、私はあなたの罪を赦します」
 室内には光が差している。広い聖堂の壁に設置されている窓から、周囲を照らすような光が入り込んできていた。
 しかし修道女は、その光を目にすることなく、祈りに瞼を閉じて十字を切った。
「――Amen」
 厳粛に言葉が紡がれる。赦しが終わる。安定を原意とする言葉が刻まれることによって、切開は終了した。止まったように、圧縮されたように感じられていた時間が、再び正常に流れ始めた。静寂が消えて、一気に聖堂内の時計の針が回り始める。
 主に代わって赦しを与えた修道女は目を開けて、立ち上がった。
「終わりました。――主の御名によって、あなたの罪は赦されるでしょう」
「例えそれが修道女の行った秘蹟にすぎなかったとしてもか?」
 そこで、全身を束縛されたかのように固まっていた男は、息を吹き返したかのように、ようやく言葉を発した。その表情には、一抹の陰りが見える。
「恐らくは。ただ、神の御名によって真に赦しが得られたのか心配であるのならば、今度はもう一度、正純な司祭様のおられる教会へと赴かれることをお薦めします」
「は、それは何とも締まりの悪い秘蹟となったな」
「否定はしません。私とて未熟の身でありますから。――ただ、一つ確かなこともあります」
 弾劾するような男の口調を受けても、修道女は顔色一つ変えなかった。そして、静かな聖堂の中、注意しておかなければ聞き逃してしまいそうになる、掠れた声で言葉を発した。
「少なくとも、私はあなたを赦しました」
 巻かれた白い包帯すら血に滲んでいる腕を胸の前で組み、修道女は男から視線を外した。何らかの衝撃で傷が開いたのか、腕に巻かれた包帯の赤黒色をした滲みが大きくなっていく中、父と母より受け継がれた血が確かに流れている己の姿を男に見せながら、再び無心の祈りを空へと捧げる。
 男は目の前にいる、無心になって祈る傷だらけの修道女の言葉に、しばし思考を止められたようだった。
「シスター、その言葉にはどういう意図がある?」
 だが、すぐさま男は平静を取り戻すと、そう質問を口にした。先ほどよりも幾分離れてしまった男と修道女の距離であっても、変わらず男の炭化した木片のように渇いた声は、良く届く。
「特に深い意図はありません。ただ、事実としてそうであると伝えたにすぎません」
「解らないな。ならば、何故それを私に伝えた」
 要領を得ない、概観を掴めない修道女の言葉に、男は僅かに顔をしかめた。
 しかし、始めから終わりまで偶像じみた表情しか見せなかった修道女は、変わらぬ表情のままに回答した。
「何故、ですか。――どうしてか私には、それが義務であるように思えたからです。深い意味など自分ですらも解りません。ただ、そうしなければならないような気がしたのです」
「それだけの理由でしかないのか?」
「ええ、誓って。それだけでしかありません」
 問いに、修道女は嘘偽りのない声で頷いた。頭を動かした瞬間に、その銀髪が生き物のように波打つ。
 男はその様子を暫くの間、眺めていた。が、やがて何かしらの結論を得たのか、口を開いた。
「そうか。解った。それだけでしかないのならば、何も言うべきことなどない。――このまま私は立ち去らせてもらおう。仮初とはいえ赦しも与えられたのだから、最早私にはやり残したこともないだろう」
 簡素すぎるほどに味気ない言葉を、淡々とした口調で男は口にする。そして同時に修道女に背を向ける。既にその瞬間には、床を歩く足音が響き始めた。男は先ほどと同じく素早く、聖堂から立ち去ろうと歩みを進めていた。
 そして前回と違って、今回は修道女も、その動きを制止しようとはしない。
 男は直ぐに扉の前まで辿り着き、聖堂の歴史に比例するほどに重厚な扉を開いた。聖堂内に光が差し込んでくる。
「それでは、失礼させてもらう。世話になった」
「いいえ。御用があれば、また何時でもお越しください。この聖堂の扉は、救いを求める方には等しく開放されていますので」
「そうか。この家は、神の家だったな」
「はい――」
 男が教会より消える寸前、二人はそんな会話を交し合った。
 そして、そのまま男の姿は外界の光へと溶け込んで消えた。神の庭には一人、修道女だけが残された。


   /


 聖堂の扉が閉められる。木製の重厚な扉は、自重によって古びた蝶番に充分な負荷をかけることで、存分に軋んだような音を室内に発生させた。耳の奥底、脳に連結する部分をやすりで擦られるような不快な音が一瞬生じる。
 しかし、カレンはその音にさえも感情を揺らがせることは無かった。そのまま背を翻らせ、聖堂内に設置されている荘厳なパイプオルガンの前へと向かう。そして備えられた長椅子へと座すと、来訪者が訪れる前に行っていたのと同じように、その細く無機質な指先で鍵盤を弾き始めた。
 最初は試すように単調な、段階的な音律が紡がれ、やがてその音の連続は複雑さを増していき旋律となった。
 硝子細工を想起させる指先が、精緻な動きで祈りを紡いでいく。鍵盤は演奏者の意思をオルガンの本体部分から伸びたパイプへと伝えて、望まれる旋律を作り出す。
 そして、その旋律はやがて明確な一つの曲になった。
「――Kyrie eleison」
 キリエ・エレイソン。主への許しを請う聖歌が、百合のつぼみのような唇から漏れ始める。
 カレンは歌っていた。柔らかく目蓋の奥を震わせるようなソプラノを、胸に訴えかけるようなオルガンの旋律に合わせて、聖堂の中に満たしていく。信徒の意識に原罪と神を認識させるその歌は、荘厳な聖堂の中でこそ真価を発揮した。聖堂、そしてカレンと言う修道女を装飾としたミサ曲は、誰もいない室内で確かに神性を露にした。
「Christe eleison.Kyrie eleison――」
 目を閉じ、一心不乱にカレンは聖歌を演奏する。脳裏に浮かんだ楽譜を忠実に再現するかのような丁寧な演奏ではなく、その指先が精緻に精密に意思を持って動き回り曲を作り上げていく。
 硝子のように透明で、直ぐに手折られてしまいそうな壊れ易さを感じる儚い演奏がそこには在った。
 
―――Kyrie eleison主よ、憐れみ給え

 祈るような演奏。それが聖堂内で繰り返される。孤独な聖堂の中で、弾かれる慈愛の旋律は止まらなかった。
 カレン・オルテンシア――雨に日には、蛞蝓に葉を這い回られる紫陽花の名を持つ女。生まれ出でた時より痛みと共にあらねばならない宿命を負った彼女は、来訪者の去った後にも献身の祈りを捧げ続ける。