「ぐっ――――がぁっ!」
衝動的に背筋に走った悪寒に従い、右方へと跳躍したが遅かった。
全身を貫くような鋭い痺れを覚えた後に、内臓の中身全てが喉を駆け上がり口から逆流していくような激しい嘔吐感が湧き上がってくる。喉まで到達した胃の内容物の灼熱を感じながらも誰かに襲撃されているのだと理解した。
後方にいるだろう襲撃者の姿を求めて首を振り返らせようと、
「くっ――」
それよりも早く更なる悪寒が体に奔った。
咄嗟に生じた危機感を信じて、右膝をついてうずくまった状態から更に地面を転がる。オレが地面を転がる中、一瞬でも判断が遅れていれば直撃していただろう距離を薄らと輝く『何か』が通り過ぎていった。
いやアレは『何か』などではない。聖杯戦争が終わってから何度か見せてもらった事がある。あれはガンド――――遠坂の左腕に刻まれた魔術刻印より生み出される呪い。
「……遠坂、どういう事だ?」
起き上がりながらもガンドの飛来した方向を見据えると、そこには予想通り遠坂が立っていた。体をごっそりと抉られてしまったかのような虚脱感に支配されながらも、その襲撃の意味を問う。
不意打ちで撃たれたガンドが全身から確実に力を奪っていく。ただ指差すという一動作だけで相手を呪う遠坂の魔術は強力であり厄介だ。まるで高熱にかかってしまったかの様な耐え難いダルさを全身に覚え、このまま何も考えずに眠ってしまいたくなる衝動に駆られる。
無論、そんな事は出来るはずも無いが。
「士郎、焦るのは止めなさい。このままのあなたじゃ何も得られずに死ぬだけよ」
胸を抑え、膝を震わせるオレに向かって遠坂が一歩ずつ近づいてくる。姿勢を正したままに暗闇を歩きながら接近してくる遠坂の動作は優雅の一言。魅了されそうな程に達観した表情を添えてもいる。だが、何故彼女がオレを止めようとするのか。
「……もう一度聞くぞ、何のつもりだ、遠坂」
「解らないの? 暴走してる馬鹿を止めに来たのよ」
「何……だ、と?」
「正義の味方なんて言葉を盲目的に信じているから自分の足元も見れていない、私が人生で知る限り最悪の馬鹿を止めに来たの」
と、そこで遠坂は長い黒髪を一度かき上げた。薄暗い中でもその黒髪は何故か綺麗に映えている。
「盲目的、だと?」
「当たり前じゃない。少しはマシになってきたかと思ったらいきなりイリヤが半泣きで電話してきたから驚いたわ。藤村先生は半分放心状態になってるわよ。ずっと一緒にいた弟分が馬鹿な真似をしたから」
嫌悪感を丸出しにして遠坂が言葉を続けてくる。端整な顔が怒りに歪むと言い表せない色香が生まれる。危険な状態であるにも関わらず、そう思った。
「他に方法は無かった。オレの進む道に誰かを巻き込むわけにはいかない」
藤ねえを傷つけてしまった事は理解している。だが、それ以外にオレが約束を果たす方法などは無い事もまた事実。衛宮士郎を守り続けてきた藤ねえが傍にい続ける限り、俺は常に衛宮士郎のままだ。
「悪いけど、その考え方は嫌いなのよね。反吐が出るわ」
「誰に嫌われようとも、構わない」
そう、これは俺が下した決断。故にその責任も結果もオレが全て背負わなければいけない。
「自分が嫌われたら全てが丸く収まるとでも考えているの?」
「――必要ならばそうする」
「藤村先生、イリヤ、そして桜も心に傷を負うでしょうね。それほどの価値がある行動なの? あなたの選択した行動は」
無論、遠坂の言葉は間違ってはいない。
だがそれよりも、オレにとって彼女達は重すぎたのだ。守られ続けておいて、どうして正義の味方を語れるだろうか。
「ああ。あいつ等に支えられ続けていればオレは抜け出せなくなる。そうなればセイバーとの約束も、切嗣との約束も守る事は出来ない。だからオレはこの場所から消える」
「……心底呆れた。半人前にも満たない魔術師見習いが何かを出来るほど甘くは無いわよ」
ギチリッと遠坂が歯噛みしながらオレに言い聞かせようとする。視線の中に含まれる感情は憎悪にも似ているが違う。これは恐らく殺意に近い。去年までのオレならば立ち竦むほどの重圧だが、何故か今は恐怖を感じない。
「それも知っている。だが、決して前に進めないこの場所にいるよりもオレはこの道を選ぶ。退け、遠坂。オレはこれだけは何を言われても譲らない」
「知っているですって? ただの半人前が世界にすら裏切られる絶望を知っているとでも言うつもり?」
そして次の言葉で遠坂の纏う感情は殺意と呼んで遜色の無いレベルまで到達した。彼女は心の底からオレに対して怒っているのだろう。
だが、それにしてもこの返答はおかしい。
「世界にすら裏切られる絶望、だと――――どういう事だ、遠坂?」
オレの行動に怒っているはずの彼女が、何故いきなりにも世界という言葉を口にするのかが理解出来ない。余りにも突飛でもあり、前後に関連が無さ過ぎる。
「……今の言葉の意味が知りたいなら少しは落ち着きなさい」
少しだけ後悔した様な表情が遠坂の顔に浮かび上がるが、すぐさま元に戻る。つまりは今は話したくない内容であるのか。
だが、そうであるならばそれでもいい。何があろうとも答えを聞きたいというわけではないのだから。今のオレにはそれよりも先にやらなければならない事がある。
「忠告はいらない。聞けない話ならそれでいい。だから、ここでさよならだ遠坂。道を開けろ」
それは決別。既に大切なモノは胸に刻み込んだ。だから決してこの先、何があろうともソレを忘れる事は無いだろう。ならばここで遠坂と押し問答をする意義は無い。
後は、この場所を発ち進むだけ。そう思い、遠坂の脇を通り抜けようと歩く。その行動はオレの、決して後戻りは出来ないという意思の証明もまた兼ねている。
だが、遠坂は表情に感情の起伏を表さないままに唇の端だけを歪めて笑い、
「そう、馬鹿は何処まで行っても馬鹿なのね――――」
左腕を一見して無造作に、オレに狙いを定めて振るった。
振るわれた左腕から奔る輝きはガンド。その輝きを視界に入れた瞬間に、全身を強化させて後方へと跳躍して回避する。先程の奇襲とは違い、余裕をもってガンドを避けることが出来た。
「まだ邪魔をするつもりか、遠坂?」
遠坂ならば止めはしないだろうと思っていたのに、実際に遠坂がオレを止めようとした現実が訪れても動揺は無かった。頭の中の何処かで、簡単には終わらないと考えている事が出来たという事だろうか。
今は先程の跳躍によりある程度の距離が離れた場所に佇む遠坂の姿を冷静に見ることが出来る。
「ええ、見逃すつもりは無いわ。これは私にとっての罪滅ぼしも兼ねているんだから」
「罪滅ぼし? ……まあ、いい。邪魔をするなら強引にでも押し通るだけだ」
またオレには理解出来ない言葉が聞こえてきたが、オレには意味も無い言葉だろうから思考より外す。ただ、目の前の遠坂を退ける方法のみを考える。もはや取れる手段は力技のみ。強引に遠坂を捻じ伏せてでも、この場所を発つことを決意する。
遠坂の攻撃方法は遠距離からのガンドによる攻撃に絞られる。ならば接近してしまいさえすれば、逆にこちらに分がある。つまりは遠坂の懐にさえ潜り込めればどうとでもなるはずだ。全身を強化しながらもそう判断を下す。
「やる気は充分って表情ね。それも正義の味方とかいう子供みたいな憧れのためなの、士郎?」
「そうだ」
遠坂をどうやって攻略するべきか具体的な手段を模索しながらも問いかけに答える。相手が話しかけてきているのだから、答えるだけでこちらには思考するための時間が生まれる。
「そもそも正義の味方なんてモノがあると貴方は本当に信じているの、士郎?」
「オレはこの目で見た」
身近な場所にあるモノと言えば、先ほど奇襲された時に手離した必要最低限の道具を入れたボストンバッグだけ。武器になりそうな物は地面に転がる石くらいだろうか。到底、決定打としては期待できるはずも無い。
だが、他に何か手段があるかといえば、何も無いのが現状。今のオレが剣の投影をスムーズに行えるかは疑問が残る。やはり、頼れるものは自身の体と強化の魔術だけしかないという事だろうか。
「そう、だから貴方はここから消えようとしてるのね、アーチャー」
「……今、何と言った? アーチャーだと?」
突然に遠坂の口から紡がれたアーチャーという言葉。しかし、遠坂が見ているのはオレに違いない。遠坂への対応手段を考えていた思考が、その言葉によって会話へと向かされた。こちらを動揺させるためのペテンか、或いは何か他に意味があるのか。
遠坂に限ってあいつの事を軽々しく口にするとは考え難い。恐らくは後者。
「あら、間違えたわ。ごめんなさいね、これからアーチャーになる衛宮士郎」
「オレが、アーチャーになる? 何を言っている、遠坂」
「言葉の通りよ。貴方は近い将来に間違いなく英霊になるわ。私が呼び出したサーヴァント、アーチャーは未来の貴方が辿る末路よ」
「気でも触れたのか、遠坂?」
すらすらと遠坂の口からは言葉が流れ出てくる。だが、その内容は到底信じられない。オレの行き着く先があの男であるはずがない。理屈では説明出来ないが、あいつは根本からオレと真逆の存在なのだから。
「マスターは夢の中でサーヴァントの夢を見る。その事は知っているわよね、士郎? 私が見たのは、業火に包まれた死の世界と――――そして、全身を剣で貫かれて死んでいったアーチャーの夢だったわ。これから起こる未来は知らなくても、過去にあった業火に包まれた死の世界は知っているでしょう? 貴方が正義の味方を目指そうとした根源であるあの世界を」
「――――ッ!」
違う、これはただのハッタリなどでは無い。遠坂はオレの過去を本当に知っている。あの始まりの光景の細部を知る者は、今はどこにもいない切嗣とセイバーの二人だけ。それにも関わらず、あの死の世界を口にするという事は、遠坂は本当にオレの過去を知っているという事だ。
それはつまりは、オレがこの先アーチャーになるという遠坂の言葉が正しいと言う事も示している。
「……言峰が聖杯の泥を使って起こした、アレを知っているのか?」
「言ったでしょう。夢の中で見たのよ、全て」
「そうか」
ただ曖昧に返答する事しか出来ない。自身が混乱している事を理解しても、絡まる動揺は押さえつけることなど出来そうにも無い。何という事はない、オレがアーチャーに抱いた、そしてアーチャーがオレに抱いた嫌悪感は同族嫌悪――――相反する自身に対する怒りだったのか。
「――そして知っているの、貴方を突き動かしているのは、ただの強迫観念だって事もね」
そんなオレの状態を観察しながらも、遠坂がゆっくりと口を開いた。言葉を選んでいるようだが、その内容は苛烈。遠慮のない言葉の内容は実に遠坂らしい。
「……強迫観念か」
強迫観念、そう言われると頷ける点がある。だが、それが全てではない。
「そう、貴方が抱いているのはただの強迫観念。こうでなければならない、自分にはこうしなければならない理由があると思い込んで坂道を転がり落ちていく愚か者なのよ、貴方は」
「オレが愚か者である事――――それも否定はしない」
「アーチャーは上手く感情を隠していたようだったけど、間違いなく自身に絶望していたわ。誰かを助けようと思ってひたむきに走り続けていたのに、誰かの笑った顔が見たいと歯を食いしばり続けたのに、最終的にアーチャーを待っていたのは誰かを殺し続けるだけという連綿と続く地獄だったのよ。だからね、士郎、貴方がこのまま進めば先に幸せなんてきっと無いわ。踏み止まれる今の内に止まりなさい」
一息に訴えかけるような声で遠坂が告げる。表情に変化は無いが、真に迫った声。しかし、
「それは断る。アーチャーが、あいつが何を思って絶望したのかどうかは知らない。どうしようも無い事だったのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。どちらにしてもオレはアーチャーの記憶を持たない以上は判断する事は出来ないからな。それに、オレは既にあいつと出会った。それならばこの先の未来も変わるものだろう、遠坂」
頷けるわけが無い。あの男になろうとも、待っているのが地獄であろうともオレは二人との誓いを護る。その道を選ぶ。
オレの返答に遠坂は、目に見えるほどに顔をしかめた。
「今の貴方は危ういのよ。それを自覚しなさい」
「自覚はしている。ただそれよりも大事なものがある」
「士郎は自覚なんてしてないから、こんな事をしてるのよ。そもそも――――」
遠坂はそれでも会話を続行させようとする。何かが変わると思っているのだろうか。
だが、これ以上は無意味。だから遠坂が言葉を言い終えるよりも早くに、
「もう終わりにしよう。オレからの質問は一つ。遠坂、お前が退くのか、退かないのかだけだ」
会話の終了を告げた。オレの言葉に一瞬、遠坂は全身を硬直させる。しかしそれも僅か一瞬。眼光鋭くこちらを睨み据え始めた。
「そう――ここでは少し込み入った話は出来そうにも無いわね。悪いけど力尽くで連れ帰るわよ」
「それならそれでいい。最初に言ったとおり、オレは押し通るだけだ」
そしてこの返答で、忍耐の限界に着たのか遠坂は今まで抑えてきた敵意を再びオレにぶつけて、
「ああ言えば、こう言って……無駄に捻くれた会話ばかり達者になってんじゃないわよ!」
その左腕からガンドを連射してきた。
正確な狙いと、それよりも脅威となるガンドの連射を強化された視力で目測し、並びに強化された体で回避する。一発一発の軌道は直線なので回避することは難しくも無いが、手数で攻められればこちらも応対できなくなる。
接近すれば接近するほどに回避が難しくなるために、遠坂の懐に潜り込むことなどは出来そうにも無い。だがそれでは手詰まりとなるので、回避動作を取りながらもこの状況を脱するための手段を模索する。可能なものは強化のみ。それだけを使って、どうにかするしかない。
「くっ――」
脇腹の直ぐ横を遠坂のガンドが通過していく。必死になって体をよじる事で避けられたが、このまま体力が尽きれば確実に直撃を喰らうだろう。
対する遠坂はその事を理解しているのか、一定の距離を保ち遠距離からの攻撃に徹している。
左腕を振るう遠坂の姿を見て、本当にやりにくい相手だと再確認した。と、そこで気がついた。遠坂のガンドには死角がある。それさえ利用すれば遠坂を退ける事も可能であるはずだと。どれ程の確立かは解らないが、成功する可能性は間違いなくあるはずだと。
成功する可能性がある以上は行動を開始すればいい。連続して襲い来るガンドを避けながらも、ボストンバックが落ちている場所へと行き、それを手に取る。
「それで何かをするつもりっ!?」
攻撃の手を緩めず遠坂が声をかけてくるが気には留めない。構造を解析し、魔力をバッグの中へと通してバックを強化する。昔は殆ど夢物語だった強化の魔術も今は違和感無く行える。魔術の成功した感触が即座に手に帰ってきた。
「――――シッ!」
空気を肺に思い切り吸い込んだ後、迫り来たガンドを避けた瞬間にバックを遠坂に投げつけた。ただのバックならば例え直撃を受けたとしてもかすり傷一つ受けないだろうが、強化されている以上はバックが直撃すればそれで遠坂は終わる。
そんなオレの攻撃に対して遠坂は迎撃を選択したようで、数発のガンドを用いて強化されたバックを彼方へと吹き飛ばした。僅かな間だがガンドの連射の手が緩む。
オレはその隙に生じたタイムラグを使って遠坂のとの距離を詰める。無論、この程度の時間では遠坂に触れることなどは適わない。せいぜい、遠坂との距離の開きが半分に縮まったくらい。
だから、体をかがめて地面にあった石を広い遠坂の体の中心から僅かに右側を狙って手加減せずに遠坂に向けて石を数個投げつける。
「こんなモノでどうにか出来ると思ってるの!?」
僅かに体を捻るだけで回避することが出来る攻撃を、状況判断に優れた遠坂は左側に軽く跳躍することだけで避けた。それがこちらの狙いであるにも関わらず。
「終わりだ」
バックを囮に使って接近してからの石の投擲の狙いは、遠坂をこちらから見て左方へと跳躍させる事にあった。敢えて左方へと跳躍すれば回避し易い攻撃を放って遠坂をそちらへと誘導し、オレはその場所を目指して加速する。
喰らってもダメージの少ない石の投擲を避けたことで遠坂は、右方へは移動することが出来なくなる。対してこちらは遠坂の移動する場所が予め判断できる。この差は大きい。ある程度は近づいた今の状況で、遠坂の移動する場所さえ解っているならば遠坂に肉薄することは充分可能だからだ。
そして予定通り全力の加速により跳躍からの着地をした遠坂の元にたどり着く。この時点でオレに有利な点が生まれた。遠坂のガンドは左腕の魔術刻印より放たれるために、遠坂の右半身側に接近すれば遠坂はガントを撃つのに更なるタイムラグが生まれるためだ。それが遠坂の持つガンドの死角。
だから、そのまま遠坂に手を伸ばし終わらせようとして、
「なっ――――!?」
前方の遠坂の姿が不意に掻き消えた。
いや違う、遠坂に接近するオレよりも早く遠坂はこちらへと踏み込んできたのか。遠距離でしか遠坂は何も出来ないと考えていたが、それは短慮であった事に今さらながら気付く。
想定していなかった事態に、体が上手く防御の体勢を取れない。目の前で、腰を落とし右腕を脇に添えた状態から拳を打ち出そうとする遠坂の姿を見ていたとしても。そして、
「ぐっ、がぁっ!」
何も対応出来ないままに腹部を衝撃が貫通した。腹筋は衝撃を吸収する事すら適わずに内臓へとダメージが存分に伝わる。これはただの素人が繰り出した拳ではない。防御も許さずに内臓に直接ダメージを与えるこの技は寸勁、強拳強打で知られる八極拳の流れを汲む技。
拙い、どうしようもなく拙い。接近すればどうにかできると思い込み、その逆で相手に攻撃の機会を与えてしまった事を悔やむが、全て遅い。何故オレは遠坂が遠距離からの攻撃しか出来ないと思い込んだというのか。
「だから貴方は馬鹿だって言ったのよ」
腰を落とし、寸勁を放ち終わった遠坂が口を開く。そしてそのまま、今までは腰に添えていた左腕を突き出す。薄らと輝きを放つ魔術刻印がガンドを撃つ準備が既に整っていることを主張している。この近距離では、全てを避けることは出来ない。
「今時の魔術師には護身術は必修科目なの――――半人前の貴方とは違ってね!」
だが、それでも可能な限り距離を取らなければならない。両足にありったけの力を篭めて、左側へと跳躍する。
しかし、
「ぐぅ――――ぇ、おぇ」
数発のガンドが肌をかすり、そして腹部に直撃を受ける。再び体を抉られたような寒気と、そして胃の中身をぶちまけたくなる灼熱の嘔吐感を覚える。先程は喉元で堪えることが出来た吐き気は、今回は止められそうにもない。喉元でも止まることが無く胃の内容物は吐瀉となり、地面にまき散った。
「確かに私は聖杯戦争で遠距離からのサポートしか出来なかったけど、あれは相手がサーヴァントなんていう規格外の連中だったからよ。ただの半人前の魔術師が相手なら、近くからだろうと遠くからだろうと問題は無いわ」
「ぁ――えぇ」
胃が逆に蠕動し、中に溜まったモノ全てが喉をひしめかせながら駆け上がる。反射である嘔吐を抑え切れなかった以上、今はただ内容物が吐き終えられる事を待つことしか出来ない。
「士郎、この位で理解できた? あなたはこの程度なのよ」
身を屈めてうずくまるオレを見て遠坂が口を開いた。オレとは対照的に、その外見には汗すらかいている様子は無い。
『――――衛宮士郎は格闘には向かない』
そこで、脳裏に自然とアーチャーの言葉が浮かんだ。なるほど、オレには本当に格闘の才能などは無いらしい。
「……嫌というくらいに理解は出来た」
「そう。それなら――」
オレの返答を聞いた遠坂は何かを言おうとするが、そこから先を言わせるつもりは無い。
「それは断ると言っただろう。……くどいぞ、遠坂」
明白な拒絶の言葉に遠坂は再び顔を怒りに震わせた。それもまた当然か。
「――気絶させてから運ぶのは面倒だけど、仕方が無いわね」
怒りが浮かんでいた顔は一瞬で無表情なモノに変わる。そして振り上げられたのは左腕。
これ以上の直撃を受ければ、精神がどれだけ拒もうとも意識を保つことは出来ない。だから、一発たりともガンドを喰らうわけにはいかない。
「くっ」
がむしゃらに地面を転がりガンドを避ける。胃液で汚れた口の中に泥が入り込み、唾液と混じってジャリジャリと鳴る。不快感ゆえに泥を吐き出したいと思うが、そんな暇は与えられない。考えるよりも先に転がりまわらなければオレは終わるのだから。
「無様ね、士郎。だけど、このまま進めば貴方はこんなものは天国に思えるほどに苦しむのよ」
敢えて手を緩めているのか、それともオレに進むことを諦めさせるために攻撃を外しているのか解らないが、遠坂が口を開く。その言葉を聞いて遠坂はこんな状態でもオレの心配をしてくれているのだと悟った。
やはり魔術師としては遠坂は甘すぎる面があるようだ。徐々に四肢が熱を失っていく中で、そんな事を考えた。
だからこそ、遠坂にはオレの決断を認めさせたいと思う。だが、それを為せるだけの力がオレには足りない。地面を転がりまわり、這い回ることしか出来ないオレでは、真正面からは遠坂に勝つことなどは――――
『―――現実では敵わない相手ならば、創造の中で勝て
自身が勝てないのならば、勝てるモノを幻想しろ
所詮、お前に出来る事など、それぐらいしかないのだから―――』
目まぐるしく変わる視界、そして朦朧とする意識の中で、あの赤い騎士の言葉を何故か思い出した。
天敵と称しても良い程に、どうしようもなく反りが合わない相手ではあったが、あの言葉は今も衛宮士郎の心の中に深く刻み込まれている。そう、目の前にいる遠坂は類稀な天才であり、未熟な凡人である今のオレが敵うはずも無かった。
家を出る時に今までは勝つ事すら出来なかった藤ねえを退けて、オレは何かを勘違いしていたのだろう。衛宮士郎は格闘に向いているはずだ、と。
だが、そんな事は無い。オレは目の前の遠坂に勝てないほどに弱い。だからオレがこのまま戦い続けても勝利する可能性は万に一つも無い。脆弱な猫は獅子に勝利する事など不可能なのだから。
何故オレは気付かなかったのか。俺であったはずのあいつが投影を可能であるのならば、オレに投影が不可能である道理などは無いのだ。エミヤシロウは投影を為せる。否――――エミヤシロウは投影しか為せない。
それ以外は全てが半端。だから仮に、投影を行えないのならば衛宮士郎に価値は無い。故に、オレは例えこの心臓が壊れようとも投影を修める必要がある。
ならば――いや、だからこそ幻想しよう、目の前の遠坂すら凌駕する存在を。装飾の少ない無骨な双剣を用い、凡庸でしかなかった剣技を一心に磨き上げ昇華させる事により、天賦の才を持つ蒼い槍兵とも互角に渡り合った赤い騎士の姿を。アーチャー、嫌悪感と同時に衛宮士郎の脳裏に深く焼きついたあの背中を。
「ぐ、ぁああっ」
震える膝から力が抜けていくが、立ち上がる。熱を失っている腕は鉛のように重いが、動かす。衛宮士郎の中に残った力の全てを用いて立ち上がる。
そしてオレに必要不可欠な言葉を紡ぐ。
「――――投影、開始」
創造の理念を鑑定し、
基本となる骨子を想定し、
ガチリッという頭の中に浮かんだ撃鉄が一斉に落ちる音が響き始め、衛宮士郎の唯一にして最大のアイデンティティたる魔術が開始される。オレの目差す存在までの道のりを切り開くであろう投影魔術が。
この魔術を為せずに、ここで遠坂に力及ばず倒れるようならば、オレは前へと進む資格すら無い。だから、これは試練でもあるのだと考える。目の前の遠坂凛の命を奪う事無く進む事こそが、現在のオレに第一に求められている行動であると。
構成された材質を複製し、
製作に及ぶ技術を模倣し、
それならば衛宮士郎が取れる手段などは一つしかない。暴雨の如く降りかかってくる遠坂のガンド全てを真正面から斬り伏せ、対応する時間を与えずに肉薄しそのまま隙を突いて気絶させる事だけ。仮に接近できたとしても、先ほどの様に逆にやり返されてしまうかもしれないという不安が僅かに浮かぶが、その考えを即座に打ち消す。オレの投影が完璧に為されたのならば、つまりはオレがアーチャーを幻想できたのならば、それは有り得ない。
成長に至る経験に共感し、
蓄積された年月を再現し、
俺の命を狙ってきたランサーの攻撃は一瞬の閃光であり、俺を守ってくれたセイバーの剣技は制御された強大にして緻密な台風であり、俺が皆と倒したバーサーカーの攻撃は全てを薙ぎ払う爆発であった。だが同じサーヴァントでありながらもアーチャーだけは違った。夜の校舎で初めて見た双剣による受け流しは極限まで洗練されていながらも他の三者とは一線を画していた。見る者の動きを止めるほどに華麗でありながらも、アレは紛れも無く人の技の領域だったから。
あらゆる工程を凌駕しつくし――――
だからこそ衛宮士郎はここに投影する。人であるオレの肉体を使い再現できる技の極致を。
それ故に衛宮士郎はここに実行する。今この状況を打開できるであろう最良の手段を。
そして衛宮士郎はここに幻想する。癪ではあるが、オレが認める強さの具現者を。
「遠坂、悪い。オレは絶対に退けない」
――――ここに、幻想を結び剣と成す
この時、この場所で衛宮士郎は消え、オレは自らの望んだ存在となる。
* * * *
「遠坂、悪い。オレは絶対に退けない」
何かを悟ったような顔で言い切るその姿がむかつく。士郎が胸に抱える約束が間違っているなどとは私は考えていない。間違っているのはセイバーでも無く、話に聞いた士郎の父親でもない。間違っているのは、焦りに駆られてふざけた決断に至った衛宮士郎自身なのだから。
だから、今から無力化して捕まえたら泣き喚くまで背中に蹴り入れてやると誓う。そして、そのためにはここで、腕の一本や二本は奪って半殺しにしてでも士郎を止める。
胸にナイフが刺し込まれていく感覚が生じるのと同時に、疲労しているであろう士郎に向けてガンドを撃ちまくる。一発や二発なんて生易しく力を温存せずに、視界をガンドが覆い尽くすほどに全力でもって士郎を止める。止めると言うよりも仕留めるつもりでなければ、あの馬鹿は動きを止めないはずだから。
「退けないなら、眠らせるわ。説教と併せて看病は付き切りでやってあげるから感謝しなさいっ!」
言葉を言い終えると同時に全力攻撃。腕を士郎に向けてガンドを放ち、一気に意識を奪う。弱らせ続けた士郎ならばこの一撃を避けられない。
そう考えていたけれど、
「くっ――――まだ投影なんてする余力が残ってたの!」
真正面からガント全てを叩き伏せて、わたしの目の前に士郎の姿が浮かび上がってくる。ご丁寧にその両手に携えているのはアーチャーの双剣。アーチャーへと士郎が到達する事が無いようにしている私に対する嫌味にしか思えない!
「ふざっけるな!」
接近戦に持ち込んできた士郎の意表をつくために、逆に私も加速してその懐へと潜り込む。魔術によって強化された脚力ならば消費する時間は僅か一瞬。手を伸ばせば相手の頬に触れる事が出来るほどに近い距離でやる事は一つ。私がこちらから打って出るとは考えていなかったのだろう、一瞬のタイムラグが生じた士郎が反応する前に零距離からガンドを喰らわせる事だけ。
一発、二発、三発。打ち込んだガンド全てが士郎の体の真芯を捉えたはず。ギャリッという音がすると同時に士郎の体が後方へと吹き飛んだ。だけれど、
「――甘かった、か」
見通しが甘かったらしい。吹き飛ばされながらも士郎は、空中で体勢を崩さずに危なげなく着地する。恐らくは咄嗟にガンドでの攻撃を双剣で凌いだのだろうが、それまでの未熟さの見受けられる動作とは違って、洗練された着地動作を見て背筋に寒気が走る。
間違いなく士郎は私との戦いにより成長している。アーチャーが到達した危うい強さへと向かって。
「……絶対に諦めはしないの?」
「当たり前だ。オレは平穏な場所でぬくぬくと暮らしていく事なんて耐えられないんだよ、遠坂」
一抹の望みをかけて最後の質問をするが、帰ってきたのは相変わらず勘違いした馬鹿な回答。どこまでも本当に愚直なその生き様に腹が立つ。それと同時に、最早、腕の一本や二本なんて優しい事を考えるのを止める。生きているなら、もうそれで良い。
二度と士郎がベッドから起き上がれなくなるかもしれないけれど切り札を使用すると決める。例え二度と歩けなくなっても私が傍にいたのなら、夢で見たアーチャーの地獄と言う言葉を何度用いたとしても表現し足りない絶望の世界よりはましな筈だから。
「そう、残念ね。一生モノの障害が残るかもしれないけれど、死にはしないから安心してね。大丈夫、私が最期まで士郎の世話はしてあげるわ」
「――何だと?」
まるで解っていないのだろう、双剣を携えたまま訝しげに尋ねてくる士郎の言葉に内心で笑ってしまう。だが、それを表情に出すなんて馬鹿な真似はしない。
今の私がやるべき事は、魔術刻印が薄仄かに光る左手を士郎に見せ付けるように突き出し、
「ここで倒れなさい――――」
士郎の注意をガンドを撃つ左手にひきつける事。
そして士郎がガンドに対応しようと意識を左手に集中させている間に、最後の隠し玉である聖杯戦争が終わってから二ヶ月の間、私の魔力を貯め続けて来た宝石をシザーポケットの中から右手で取り出して、
「schlag den Dammkopf!」
未だ反応できずに佇んでいる士郎へと投げつける。
閃光となって加速する緑の魔術は、僅か二か月分の魔力しか貯蔵していないけど、それでもガントよりは段違いに凶悪であり、士郎の投影により生み出された双剣程度で防ぎきれる程に弱くは断じて無い。運が悪ければ殺してしまうほどに強すぎるために使わなかったものだが、この戦いで急激に強くなっている士郎ならば死ぬ事だけは無いだろう。
私の狙い通りに、左手に意識が集中していた士郎は、放たれた魔術を回避する事さえ出来ずに、
「ぉおおッ!」
その携えた双剣で持って攻撃を相殺しようとする。
だが、そんな事が出来るわけが無い。二か月分の私の魔力を、私よりも魔力の少ない士郎が打ち消すなど夢のまた夢。双剣はひび割れ始め即座にボロボロになっていく。通常、劣化した投影魔術は世界からの修正に耐えられずに虚空へと消える。
そして、士郎の持つ双剣の片方がパリィィンッという甲高い音を立てて消滅した。瞬きするほどの僅かな時間で、私は勝利を確信する。出来れば士郎が深刻な怪我を負わなければ良いと思いながらも。
だけれど――――
「――――ぉォォオアアッ!!」
閃光が士郎を打ち据える直前に彼は吼えた。バチバチと紫電を体に纏いながらも獣の様に吼えたのだ。体から溢れた紫電は彼を焼き、薄暗い辺り一帯を眩しく照らす。それは間違いなく限界を超えた投影魔術の行使による反動。だが、それでも彼の瞳は死ななかった。
咆哮が空間を揺るがすのと同時に、彼の両手には再び双剣が握られており、威力の落ちた魔術を真正面から逆袈裟に叩き切った。それこそ、それまでの動きが嘘だったかの様に滑らかに魔術を切り裂き、そのまま私へと向かって突進してくる。
例え何があっても退けるだけの頭を持っていないらしい。どうしてここまで傷ついても、自身を顧みずに戦おうとするのだろうかこの馬鹿は!
「それなら、これで終わらせてやるわ」
隠し玉を破られたのには驚いたけれど、それでも士郎が衰弱している事は疑うべくも無い。接近してくる彼に、更に一発でもガントを打ち込めれば確実に動きは止められる。
士郎は不必要なくらいに頑丈だから、心にも体にも傷を負いながらも決して諦めずに、あの悲しい最期へと辿り着いてしまうのだろう。ならば私は直ぐに膝を屈する様な体へと、士郎を壊してやればいい。それが、全身を剣に貫かれて死んでいった彼の記憶を持つ私の責務。
だから、大地を蹴り猛然と近づいてくる士郎を視界に補足し、左手を前へと突き出して、
「……うそ」
全身から一気に力が抜けた。
限界に近い投影魔術の行使による反動か、迫り来る士郎の髪の何割かは色素が抜け落ちていた。赤毛という表現が似合っていた髪の中にはくすんだ様な白髪が多く混ざっている。
短く切り揃えられた白の混じった髪と、両腕に携える二本の無骨ながらも美しい双剣。私の下に駆ける彼の背後に、強くアーチャーの姿を見る。何故未来の衛宮士郎であるアーチャーの外見が一般的な日本人とは異なっていたのかが、今、理解できた。あれは投影魔術の失敗による後遺症だったのだ。
――――衛宮士郎をエミヤシロウへと変えたのは私だったのか!
「そんな――」
そして更に拙い事に、その姿に目を奪われて一瞬、体全体が硬直してしまった。瞬きする程の短い時間が勝敗を分けることを理解していたにも関わらず、最後の最後で冒してしまった大きな間違い。
「遠坂、少し眠ってくれ」
肉薄してきた士郎が、アーチャーを意識させる姿で告げる。ダメだ、萎縮した体は未だに動かない。このままなら間に合わない。
だけど、避けられないと解っていても振り上げられた右腕を避けなければ、私は、士郎を――――
* * * *
「あーあ、主将ってのも楽じゃない」
一人、暗い夜道を歩きながら、主将と言う役職は実に理不尽だと再認識する。女子であっても夜中まで残されたりして不公平極まりない。総体が近いから色々と雑用が多いとは思っていたけど、こんな時間までかかるだなんて。
「桜に全部これからは押し付けようか……いや、流石にあたしまで――――うん?」
そんな愚痴を呟きながらも歩いていると、薄暗い前方の空間に黒い影が浮かび上がった事に気づいた。
何だろうか? 自慢じゃないがあたしは結構な怖がりだぞ、と錯乱しつつもその影へと近づいていくと、どうやらその影は誰かを横抱きに抱いた男であると言う事が解った。
俗に言うお姫様抱っこというやつだが、抱えられている人間を見て血の気が引くのを感じた。ぐったりと力を失っている、誰かに抱えられている人間はあたしの友人というか宿敵である遠坂凛だった。類稀な容姿を誇る彼女だけあって、暴漢に襲われたのかもしれない。だとすれば、勿論、暴漢は遠坂を抱えている人間で決定だろう。
「遠坂!? あんたそいつに何やった――――って」
「美綴、いい所で会えた。頼みがある、遠坂が目が覚めるまで傍にいてやってくれ」
だが不思議な事に暴漢こと男もまた、あたしの知り合いだった。いや恐らくは知り合いだと思う、と訂正する。何故ならばあたしの知っている衛宮は白髪では無いからだ。目の前の衛宮もどきはメッシュをかけてる様には見えないけれど、その髪の大半が白色になっていた。だけど、白髪とは言っても年寄りの白髪のように張りが失われているわけではない。
色さえ気にしなければ衛宮なのだけど、衛宮は赤っぽい黒髪だから違うかもしれない。なんて、予想外の事態の連続に頭がショートしそうになる。
「……あんたさ、衛宮?」
まずは目の前の人間が誰かを確認しておく必要がある。衛宮なら話を聞く。別人だったら力の限り絶叫して悲鳴を上げ、周囲の人を目覚めさせるのが得策だろう。
「む――何を言ってる、美綴。オレを知らないのか?」
「……ああ、確かにその無愛想な受け答えは衛宮だね。けど、どうしたのさ、その頭?」
「頭、だと?」
「いくら老けてるからって白髪は似合わないよ。いや……結構、似合ってるかもしれないか」
いつもながらの表情の変化の少ない返答で衛宮本人である事を理解した。
だけど、それにしても解らない事だらけだ。どうして遠坂は気を失っているのか。どうして衛宮は髪を染めているのか。どうして衛宮は自分の髪が染められている事に気が付いていないのか。
「ほら、鏡貸してやるから見てみなよ、自分の髪」
取り敢えずは、一番事態の収拾が楽そうなものから処理していこう。
手提げ鞄の中に入れておいた手鏡を白髪の衛宮に渡す。遠坂をアスファルトにそっと寝かせた後に衛宮は鏡を受け取り、自らの姿を見て、むっ、と一言だけ呟いた。本当にただそれだけで、他には別段目立った感情は確認出来ない。
「白髪になった原因は解った?」
「――ああ、思い出した」
「それだけ脱色させたって事はホワイトブリーチでもしたの?」
「さあ、な。オレがなろうとしている者になりかけているという事らしい」
鏡の先の己の姿を凝視しながらも衛宮は、漠然と意味が明白でない言葉を返す。まるで禅問答だ。その声があたしから更に遠く感じたのは気のせいだろうか。
「まあ、いいか。次の質問だけど遠坂はどうしたの? もしかして襲った?」
他の同学年の男子ならばまだしも、衛宮に限って女子を襲うなどと言う選択肢は存在しない事は知っていたけど、敢えてからかってみる。古風で愚直な男だからこそ、その辺りの分別は昭和に舞い戻ったのだろうかと思うほどに古い考え方をしているから。曰く、女子供に優しくといった感じだろうか。
だとすれば、尚更、遠坂を衛宮が抱きかかえているのが気になる。可能性として高いのは、暴漢に襲われて遠坂が気を失った所に衛宮が駆けつけて窮地を救ったとかだろうか。想像してみて、まるで昔ながらの正義の味方だけど、不思議と衛宮なら似合っているような気がする。
「いや、そういう事じゃないんだ。とにかく遠坂が起きるまで一緒にいてやってくれないか?」
あたしがあれこれと考えていると、横から、終始無愛想な衛宮にしては珍しい優しさを含んだ声で頼んできた。いや、優しいと同時にどこか急いでいるような印象も受ける声だ。
「衛宮が見てくれてたら良いじゃないか。こんな暗い夜道に気を失った遠坂とあたしの二人を置いていくつもり? この前は頼まれてもいないのに護衛までしたくせに」
「悪い……オレには行く場所があるんだ。そもそも美綴がいてくれなかったら、人通りの多い場所に遠坂は置いておくつもりだった」
訳も解らず遠坂を任された事に対する愚痴のつもりだったが、意外にも衛宮はとても辛そうな表情で言ってきた。心の中で凄い罪悪感が湧き上がってくる。何か大切なコトがあるらしい。
絵に描いたような善人の衛宮が、気絶した遠坂を置いておく程に優先すべき事柄があるなんて信じられないけれど、嘘は言っていないのだろう。目を見れば人の考えが解るという程に自惚れてるわけじゃないけれど、衛宮に限っては何故か理解できた。
「――はあ、しょうがないね。解ったよ。遠坂なら見ておくから、衛宮の行く所に行ってきなよ」
「感謝する、美綴」
遠坂のお守りを承諾したあたしに深々と衛宮は頭を下げる。まるで人の命が懸かっている様な重い態度に知らず喉が鳴る。
「――――それと一つだけ頼み事があるけど聞いてくれるか?」
頭を上げた衛宮は真直ぐにあたしを見つめてくる。思考の奥底まで読み取られそうな視線だと、何故か思った。まるで磨き上げられた鏡。自身を眺めているような気味の悪さが少しだけ纏わり付く。
「……頼み? 言ってみなよ」
あたしの声を聞いた衛宮は一度視線を遠坂へと向けて軽く笑い、
「遠坂に一言伝えてくれ。心配してくれてありがとう、と」
あたしの瞳を見つめ返した。この時だけ普段の衛宮と話していると実感が持てた。
「解った」
「ありがとう、美綴。それじゃあ、さよならだ」
私が遠坂の体を抱えるのを見届けると、衛宮は満足そうに笑って言った。そしてそのまま背を翻して、夜の影へと消えていく。
それにしても、ただの別れの挨拶にしては凝り過ぎていると思う。さよならだ、なんてまるで今生の別れの言葉みたいだし、不自然に思える。
「……まあ、遠坂の目でも覚ますかね。遠坂、起きろ――――おーい」
考えていても仕方が無い事なので、思考を打ち切る。それよりも傍にいる遠坂を起こす方が重要だから。
ほっぺたを突付いたり、呼びかけてみても遠坂はピクリとも動かない。その様子から死んでしまってるんじゃないだろうかと、洒落ではすまない推測が浮かび上がってきたが、胸が上下しているのに気付きホッとする。
「はあ、何があったっていうのかね……」
ただ眠り続ける遠坂と、消えていった衛宮のせいであたしの一日は意味不明だ。明日、衛宮に会ったら貸し一つだと言いつけてやろうと誓う。
「ん……」
「あ、起きた? 遠坂」
あたしでも遠坂を抱えて移動する事なんてできないから、その場所で暫くの間、ぼーっとしていた訳だが、遂に遠坂が身動きしたようなので声をかける。
なるべくならば、早く帰ってしまいたい。
「うん……う――――ここは?」
もぞもぞと動き始めた遠坂が、焦点の定まっていない瞳で周囲を見回す。あ、目が合った。
「遠坂、お目覚め?」
「あ、やこ?――――って、士郎!」
ぼんやりと何が悲しくてか夜の路上で見詰め合っていたあたし達だったが、いきなり遠坂があたしの手を払いのけて飛び起きて、付近を睨みつけるように見据え始めた。衛宮の事を探しているらしいが、乱暴に手を払われたのが癪なので教えてはやらない。
「士郎は!? 何で綾子がここにいるの!?」
そう思っていたのだけれど、物凄い剣幕で遠坂が詰め寄ってきたので答えずにはいられない。猫かぶりを完璧に取り去った、本物の遠坂凛が現れた以上は逆らうのは非常に危険だ。
「あたしは髪染めた衛宮に、気絶してるあんたを頼まれただけだよ」
「士郎が私をここに置いていったのね!? それから士郎は何処に行ったのっ!?」
「さあ? あんたを任せた後はどこかに行ったよ。何でも行かないといけない場所に行くとか」
あたしにとってもこの状況は混乱に値する事態なのだけど、遠坂が信じられないほどに取り乱しているおかげに逆に冷静になれる。そう、衛宮は何処かへ行った。何か約束でもあったようだと思うけど。
と、そこで頼まれ事を思い出した。
「そういえば衛宮があんたに伝言だって――」
「何!?」
興奮冷めやらぬ様子で遠坂が声を荒げながら聞き返してくる。ああ、遠坂も取り乱したりするんだな、なんて当たり前の事を思う。
「確か――――心配してくれてありがとう、だって」
息がかかる位に間近であたしの言葉を聞いていた遠坂は、言葉を耳に入れるに連れてどんどん表情から力を失い始めた。最後まで伝言を伝えきった時には、あの遠坂が膝を付いてアスファルトの地面にぺたんと座り込んでしまう。
そして、
「最悪……」
その同年齢の異性を魅了して止まない大き目の瞳からぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「ちょっ、と、遠坂?」
流石のあたしも余りの事態に心臓が止まりそうな程の衝撃を受ける。知る限り、何をされても涙など流さないような遠坂が、子供の様に涙を流し始めたのだから。
消えた白髪交じりの衛宮、泣く遠坂。完璧に私の理解の範疇を超えている。
「……初めて男に泣かされた――――」
何をすればいいのか解らず、あたしが戸惑っている間にも遠坂は涙を流し続ける。遠坂本人も唇を噛むような動作を見せている辺り、堪えようとしているのだろうが、それでも堪えられないのだろう。
何をもってすれば遠坂の心をそれほどまでに揺り動かせると言うのだろうか。
あたしは答えを出せるはずも無く、ただその場所に佇み続けた。
―――溶けた鋼鉄は心を覆い、愚者は転じて騎士と成り
世界が奪わず報いぬままに、剣は連なり丘は生まれる―――