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 この季節の道場は湿度の高さが難点だが、至って適度な温かさを保っている。冬に裸足であったなら冷えた床の氷の様な冷たさが肌を刺すが、今は何ら感じない。体を動かすには適した時期なのだろう。二度、三度、道場の中心で軽く跳躍してみたが体は良く動いた。調子が良いと言えそうだ。
 ただ待つ時間というのも無為なので、手首を伸ばしたり、アキレス腱を伸ばしたりして軽く柔軟をする事で体を温めておく。一定の時間が経過すると、物音が道場の入り口から聞こえてきた。続いて人影が現れる。現れたのが誰かは見なくても解る。

「ちょっと着替えるのに手間取っちゃった」

 胴着に着替えて竹刀を両手に持った藤ねえが、道場の入り口から現れながらも口を開いた。声の中に突き放すような剣呑さは全く含まれていない。外見上は少なくとも平静に見えるその態度が、逆に、これから始まるであろう事に対してのリアリティを与えてくれる。
 即ち、衛宮士郎は藤村大河とこの道場で仕合うのだ、という事実を。

「勝敗のつけ方はどうする?」

 左手に持っていた竹刀を藤ねえが差し出してきたので、腕を伸ばして受け取る。ずっと昔からこの家にある手入れの行き届いた古い竹刀はオレの手に馴染んだ。
 片目で竹刀を眺めていると、ふと切嗣の姿が瞼に浮かんだ。あの時にも切嗣は頬の緩んだ顔で俺を見て笑っていたような気がする。

「昔と同じでどうだ?」
「……昔と? 切嗣さんと士郎がやっていたみたいに?」

 目の前に立つ藤ねえは一見して自然体の様ではあるが、その実、欠片も隙が無い。全身から一定の力が抜けている佇まいで直立してはいるが、それは慢心の表れではなく、次の行動を起こすのに適した状態を保っているだけにすぎない。筋肉を弛緩させすぎているわけでもなく、逆に硬直させすぎているわけでもなく、ごく自然な中庸。
 その状態を何かに例えるならば――使い古された陳腐な表現ではあるが――付かず離れずに纏わり付く空気といったところだろうか。物質的にも、精神的にも距離感が朧気で漠然としているために底を見ることができない。暗闇を手探りで進まなければならないような静けさが暗に感じられるので得体が知れない。無論、俺が今までに見てきたサーヴァント達と比べれば、感じられる圧力は格段に劣る事は言うまでも無いが。彼らは同じ場所に立ち、そして目が会った瞬間に、半ば強制的に冷たい死を連想させるほどの使い手達だったから。
 そして、それと同じ事で、どう控えめに評価したとしても藤ねえの技量は俺よりも秀でている事は間違いないだろう。

「そうだ。負けを認めるか、或いは気絶するかで構わないだろう」

 いかに俺が数回、サーヴァント達と刃を交わす機会があったとはいえ、今までの衛宮士郎が藤村大河に届かない事実は変わりようも無い。だが、この仕合はオレにとって必要なものとなる。いや、むしろ衛宮士郎が劣っているからこそ仕合う事に価値がある。

「そう、わかった」

 俺の提案に落ち着いた様子で藤ねえは頷く。
 そして、数瞬遅れて道場内の空気が一変した。ドロリと体に圧し掛かる、抵抗の強い水の中にいるような威圧感が室内を満たそうとしていく。語るまでも無く、その重圧の発生源は目の前で竹刀を構えた藤ねえに他ならない。常の構え。つまりは剣道において最も基本的な構えである中段に竹刀を構えた藤ねえは、俺の目を見てただ佇む。

「……士郎、始めてもいいね?」

 数瞬、静寂の支配していた道場の中に響く抑揚の無い声。普段の感情に溢れた声ではなく、淡々とした口調は無色。据わった目は俺を確実に捉え、圧倒しようとする。一見すると冷静に見えるが、内心でキレているか、或いはその一歩寸前である事は窺える。この状態の藤ねえを見たことは俺でさえ数回しかないからこそ、どれだけ真剣なのかが解る。
 久しく、本当に久しく忘れていた戦いにおける緊張感というものを思い出した。セイバー、彼女と共にあった日々では常に抱いていた感覚を。知らず、鼓動が速まった――――何とも惰弱な事ながら。

「ああ」

 声に自身の感情が漏れる事は無い。だから僅かな感情の揺らぎを押し殺して答えるのと同時に、同じく俺も中段に構え藤ねえの出方を待つ。

「――――来い」




  *   *   *   *




 軽めの夕食をとった後、一人で各種の後片付けをする。最近ではずっと士郎の家で食事をしていたので、一人で皿を洗うのは久しぶりだ。あの家にいると小食の私でもたくさん食べてしまい、尚且つ他の面子もこれでもかと食べるので台所の当番になったら皿洗いは根気が要る作業なのだけど、私一人だけの後片付けならさして時間は必要ない。数枚の食器は直ぐに綺麗になった。
 水気を拭いた食器をサイドボードに入れながらも、不意に、肌が荒れないようにゴム手袋をつけて皿を洗っていた私の姿を見たら、学園での私しか知らない人間はどう思うだろうかと疑問に思った。目を見開いて驚くかもしれないし、或いは何ら反応を示さないかもしれない。綾子あたりは不敵に笑って、やっぱりな、なんて言いそうな気もする。まあ実際は、私の私生活を覗き見れる人間なんていないのだろうから意味は無い考えではある。

「ああ、疲れた」

 今日の収穫は三つくらい。
 一つは、予定通りの場所を回ったとはいっても、一日中、街中を歩き回ったのでひどく疲れた事。荷物は士郎に持たせたままだったけど、それでも疲れるものは疲れる。
 もう一つは、士郎の内心を探ろうとして一人で奮闘したので精神的にも疲れた事。人の顔色を伺うなんて真似は今までにやった事は無かったので、思った以上に骨が折れた。私も無駄に健気になったものだ。
 そして最後の一つは、色々と思い出してしまい少しばかり憂鬱になってしまった事。士郎を心配していたくせに、最終的に自分が落ち込んでしまったなんて笑い話が良いところだ。アーチャーが今の私を見たら、斜に構えた皮肉気な態度で嫌味っぽく笑うのだろう。

「だけど、まあ、今日の様子を見た限りなら大丈夫そうよね」

 髪をまとめていた紐をほどきながらも口に出して呟く。
 そう、今日の士郎の態度に不審な点などは見当たらなかった。ごく自然に笑っていたようだったし、会話の中にもぎこちなさは存在していなかった。少なくとも、先週までの何処か呆けたような態度よりは足が地に着いているはず。
 それに、これが何よりも大きいのだけれど、帰り道でセイバーの事を尋ねた時にも士郎に動揺した様子は見えなかった。至極、淡々と結果を受け止めている様でもあり――私らしくない洒落た表現を使うとするなら――その様子は広い湖の水面。波風が立っても、すぐさま落ち着き平静に戻れるような強さがあったような気がした。
 未だに聖杯戦争を引きずってしまう、心に漣を立て続けたままの私とは違って。

「……もしかしたら、私の出番は何処にも無いかもね」

 自嘲的な言葉が、知らず漏れた。表では何でもない顔をしているくせに、誰よりも立ち直れていないのが私だとしたら、とても滑稽だ。まあ、今回に限ってだけは無様な道化に成り下がっても構わないから、それならそれで良いのだけれど。何事も起きなければ、それが一番だろう。
 どうも、士郎は一人で無理をしてしまいそうなので、見ていると自然と心配してしまう。まったく実に私らしく無い態度だけれど、こうなってしまったからには仕方が無いので、やれる事をやるだけだ。性に合わないからといって何もしないのは、それこそ私の性分ではないから。思い立ったからには実行する。実行するからには成し遂げてみせる。

「ふふっ――――去年の私は欠片も想像してなかったわよね、こんな状況になるなんて」

 ふと、そこでおかしくなって笑ってしまった。まさか私が同年代の男の子の事を、家に帰ってからも考えるようになるなんて予想すら出来なかったから。殆どの同学年の生徒は私にとって『毎日、同じ建物へと通う誰か』といった程度の認識でしかなかったというのに。聖杯戦争を通して、否が応でもその記憶を共有している士郎の事を考える時間が多くなった。ただ、そこにある感情が悔恨であるのか、友情であるのか、それとも別の何かなのかは、まだ判断がつかないけれど。アーチャーとの別れを悔いているのか、同じ秘密を共有する相手に対する親近感なのか、それとも純粋に士郎の事を眺め、考えているだけなのか、それは――――

「……今は、深く考えても意味は無いわね」

 少しばかり恥ずかしくもなったので、見飽きてしまうほどに昔から使っていたソファーに身を委ねて横になる。仰向け気味に横になったので視線は天井へと向き、装飾の施された、だけど古ぼけた電灯が見えた。一人だけしかいない部屋であっても、人口的な光が暖かな印象を与え、寂しげな暗い印象を振り払ってくれている事に今更ながら気付いた。

「電気なんてつけても、ただ、物が良く見えるだけなのに」

 そうだった、光はあるだけで人を安心させる。私がこの部屋の中に独りきりだという事実は決して変わらないのに、それでも暗い部屋の中にいるよりかは幾分、楽にしてくれるように。
 きっとそれは、他の事象でも同じ事が言えるのだろう。光があれば、周囲の存在を明確に浮かび上がらせる存在があれば、近しい他者との繋がりを感じさせる存在があったのなら、誰だって一歩ずつ歩みを進めることが出来るような気がする。
 そして、それはセイバーという存在との永遠の別離を経験した士郎の場合にも同様なはず。士郎の傍に、周囲を照らし出せるだけの、逡巡を促せるだけの者がいれば、きっと最後まで裏切られ、全身を剣に貫かれてしまった非業の最期は訪れないのではないだろうか。

「……そう、よね。うん、絶対にそう。だから、いっそのこと――」

 そもそもこの街には士郎を引きずるモノが多い。炎に焼かれた死の世界に、白銀のサーヴァントの記憶。どちらも士郎にとっては重要な記憶であるはずだから、忘れられない事自体は責められるものではない。だけど、この場所にいる限りは、士郎にその記憶は影となり付き纏う。
 それならば、

「士郎を私が倫敦に一緒に連れて行けば良いのよね」

 私は現時点で、学園を卒業すれば時計塔へと入学する事がほぼ内定しているから、その時に士郎を同伴として連れて行けば、今よりもずっと事態が好転するような気がする。私は逐一、士郎が危なっかしい事をしないか監視する事が出来るし、士郎は魔術使いとしての技能を高める事も出来る。魔術使いとして士郎が成長する間に、隣で私が士郎の進む方向を微調整してやる事が出来たなら、きっとお互いにとって良い結果を生む。
 時計塔に未だ未熟な士郎が入学する事は難しいだろう。けれど、私の弟子という事にしてあの場所に連れて行くだけでも、士郎が得られるモノはたくさんある。そう、それならきっと大丈夫だ。
 決心すると、僅かばかりの満足感が胸に満ちるのと共に、自身の唇が少しだけ緩んだのを感じた。




  *   *   *   *




 勢いよく上段に振りかぶってからの打ち下ろし――――だけど、遅すぎる。
 もう、私よりも士郎の方が筋力面では優れているのだろうけど、太刀筋が見えてしまっているのなら対処する方法はいくらでもある。例えば、今回の場合には、

「――――いりゃぁっ!」

 喉元を狙って遠慮の無い突きを打ち込めば、士郎は攻めるのを止めて守らざるをえなくなる。士郎の腕が振り下ろされ加速する前に、先に打って出る事で動きを制限してしまえば良いのだ。
 いかに筋力面で士郎が優れていたとしても、私が先手を取り続けていけば士郎は攻勢に転じられないのだから、自らの体格的なアドバンテージを発揮する事が出来ない。逆に、大きな体が仇となって守りに苦しむ事にすらなる。

「ぐぁっ」

 だから私は流れを引き寄せたままに、後は竹刀を奔らせればいい。これで士郎に対応策は無くなった。
 仮に、士郎の技術が私と並ぶまでとはいかなくても、それに近いものであったのなら反撃に移れるのだろうけど、未だに士郎は未熟。ただ相対するだけで、打ち込める場所は何箇所でも浮かび上がってくる。
 利き手である右腕に力が入りすぎていて、僅かに体の重心が地面から傾き、垂直とはなっていないために体勢を崩すのは簡単。視線が正直すぎるから、次に攻撃しようとする場所が動きだすよりも先に解ってしまう。何よりも、攻めも守りも直線的であるので『if』を考えなくて良いのが拙い。

 ――なす術も無く士郎は体中を私の竹刀によって打ち据えられていく。

「ぐ、がっ」

 通常の相手なら何かを隠し持っている可能性があるので、一つの動作にあたって、数種類の対応方法を想定しておく必要がある。相手が腕を振り上げたのならば、腕を振り下ろしてくる、腕を振り上げたのは囮であり逆手からの攻撃が来る、またはその状態からの体当たりがくる、或いはそれすらフェイントで足技がくる、といった何種類かの考えられる相手の攻撃方法を読まなければならない。
 そして、この思考が判断の遅れを生み出し、焦燥となり、隙となる。だけど、決定的なまでに士郎の動作にはそれが無い。

 ――体を打たれるたびに士郎はくぐもったうめき声を上げるが、退く意思は見えない。

 素直すぎる太刀筋に脅威など感じられない。やはり弓と違って、剣の才は士郎には無い。駆け引きというものが、どうしようもなく苦手なのだろう。日常では美点ではあるけれど、試合においては致命的な欠陥だ。
 だから、こんなものは早く終わらせてしまおう。

「せやぁっ――――!」

 上段から袈裟懸けに、士郎の左半身を狙って竹刀を振り下ろす。遠慮などは欠片も無い一撃が士郎の首筋へと吸い込まれていき、

「――ちっ」

 バチッという竹刀のぶつかる音が響く。
 予定通りに・・・・・、士郎が私の攻撃を竹刀で受け止めたのだ。私の竹刀に対して垂直に自らの竹刀を交差させた格好で。
 そのため、お互いに竹刀をぶつけ合った格好での凌ぎあいとなる。ここ最近にすっかり成長した肉体から強力な膂力を生み出す士郎と私が真正面からつばぜり合いをすれば、相手にもならずに私は負ける。大人と子供と言ってもいいほどに筋力的な素養で私と士郎には差がありすぎるから。そして士郎もそれを悟っているのだろう、先ほどまでの勝負を覆して純粋な力勝負に持ち込むために、両腕に力を込めて私の竹刀を押しのけようとしてきた。猛進する勢いだけならば特筆すべきモノがある。
 士郎は気付いていないだろうけど、これで――――詰み。
 力勝負となる鍔迫り合いに持ち込まれる前に、体から一気に力を抜いて、

「ふっ――――ぃりゃぁっ!」

 竹刀の押し合いを想定していたのだろうけど、急に私が力を抜いてしまったために体勢が前に崩れてしまった士郎の右手を、骨折しても構わないくらいの勢いで打ち据えた。

「っ――――!」

 搦め手であった今回の攻めに愚直な士郎が対応できるわけもなく、竹刀を握り締めた両手に返ってきた鈍い手ごたえを感じた瞬間に、前進し続けていた士郎が後方へと僅かに退いた。だけど、未だに両手に竹刀から手を離してはいない。
 本当はあの一撃で士郎の竹刀を叩き落しておくつもりだったのに、あれだけ打ち据えられても竹刀を握り締めているなんて殊勝ではある。まあ、無意味でもあるけれど。

「――――いゃぁっ!」

 退いた士郎に近づき、速攻で士郎の竹刀を私の竹刀に絡めてから跳ね上げる。打ち据えられ、右手の握力が減少しているだろう士郎が抵抗する間もなく、竹刀は士郎の手を離れて道場の床に落ちた。
 そこから更に、顔を苦痛に歪めた士郎に向かって胴薙ぎの剣戟を放つのと同時に、足元に転がる竹刀をあらぬ方向へと蹴飛ばしておく。
 士郎にはぎりぎりのタイミングで後方へと跳躍されたが、重さの無い竹刀は滑るように道場の端へと転がっていった。士郎とは私を挟んで道場の逆方向へと。つまり竹刀を手に取るためには私をどうにかしないといけないのだから、実質、士郎は無手になってしまったわけだ。打ち合いにも負けた士郎が、この状況を徒手空拳だけでどうにか出来るはずも無いので、私の勝ちは殆ど決定だろう。
 気を抜く事は決してしないけれど、一度、肺に溜めた空気を吐き出しておく。

「ふう――――もう、これで良いね、士郎。まだ、士郎の実力なんてこの程度なんだから」

 私の言葉に、士郎は打ち据えられたはずの――痛むはずの――右手を押さえることもせずに、ただ黙り込んでいた。




  *   *   *   *




「もう勝てないってわかってるよね? 士郎」

 正中線が地面に対して垂直に立った隙のない構えを維持したままで、微かにも疲労した様子は見えない藤ねえがゆっくりと口を開いた。普段はそれこそ感情の起伏が激しい言葉を投げかけてくるだけに、現在のように内心の読めない、一見、平静な言葉や態度はそれだけで威嚇となりうる。
 だが、この程度で身動きが出来なくなるようならば、オレはこの場所にはいない。この背に死を感じた事は一度ではないし、この瞳で死を視た事も一度ではない。ならばオレは耐えられるのが道理。

「まさか……まだ終わってはいないだろ?」

 距離を取ったとはいえ、それでもオレが立つ場所は藤ねえの間合い。更には竹刀は弾かれ、俺の手の届く場所には無い。つまりオレはこの状況を無手で乗り切らなければならないという事を認識する。
 やはり衛宮士郎の実力などはこの程度だったのかと再確認した。じくじくと痛む右手が、嘘偽り無く現実を克明に教えてくれている。

「無手で私の相手をするつもりなの?」

 そして聞こえてくる、抑揚の無い声。自身の勝利を確信しているからこその言葉。
 だが、

「ああ、まだ負けたわけじゃないからな」

 オレはまだ負けてはいない・・・・・・・・・・・・。これは今までの衛宮士郎の敗北だ。守られ続けていた俺が、どれだけ弱かったのかを確認するためだけの通過儀礼に過ぎない。俺の心の底にこびり付いた、他者への情に縋ろうとする精神を砕くための敗北。明白に自らの弱さが浮かび上がった以上は、俺もこのままあり続ける事は出来なくなる。
 既に真実は右手に刻まれたのだから、これ以上、未練がましくあり続ける必要は無いだろう。

「そう、手荒な事はしたくなかったんだけど、しょうがないね。どうして士郎はこんなに頑固になっちゃったのかなぁ」

 今まで押し殺されていた感情が、僅かながら感じられる藤ねえの声。それは、事実上の最後通告なのだろう。

「どうしてだろうな」

 答えながらも、強化の魔術を自身に使用する。オレだけにしか聞こえないガチリッという撃鉄の落ちる音がして、視界が瞬時に切り替わった。既に幾度となく繰り返された手順に乱れは無い。間違いなく、強化の魔術は為った。眼を強化する事で、筋肉の収縮に伴う僅かな肌の隆起といった、常識では考えられないレベルの微細な動作が確認出来るようになり、肉体を強化する事で、聖剣の鞘を失ったオレの体は再び鋼となる。

「どうしてだろうなって、まったく可愛げが無いわね」

 ため息をついた後に疲れたような声で藤ねえが口を開く。藤ねえらしくない負のベクトル側の表情を浮かべるという事は、それだけ俺の今後を心配しているということだろう。今までの俺が弱かったから、藤ねえはどのような形であっても俺を心配せずにはいられないのだ。
 それならば、オレはどうすればいいのか。内心でそう反芻すると、自然と疑問に対する答えは浮かび上がってきた。答えは酷く単純で、最早オレが藤ねえを頼らなければならない程に弱くは無い事を証明すればいい。藤ねえが弱い俺を心配するのなら、オレが誰も頼らずに進めるだけの意思を持っていることを示せば、それで全ては事足りる。頼りなかったはずの弟分が既に自らの庇護を必要としないと解れば、藤ねえも俺に煩わされる事も無くなるだろう。そうすればオレはやっと独りになり、初めてスタートラインに立つ事が出来る。

「仕方が無いだろう。オレが無愛想なのは昔からだ」
「まあねー。だけど、ここまでだとは思わなかった」

 随分と遅れてしまったが、今、この時、この場所から始めよう。

「――ところで藤ねえ、聞いてもいいか?」

 まずは最初に問うべき事が一つある。それは自身の立ち位置。俺は正義の味方を志してから、どれだけ前進する事が出来たのか。

「? 何を聞きたいの?」
「藤ねえにとって切嗣は何だったんだ?」

 それは現在に至るまでに、俺は少しは切嗣という存在に近づけていたのだろうかという疑問。切嗣と俺を客観的に比較する事が出来る人間は、後にも先にも藤ねえしかいないのだろうから、全てを始めるに当たって聞いておきたい。

「何だったって……随分と直球なようで小難しい質問ね。どういう意味で?」

 唐突だったために、藤ねえの意表をつく言葉だったのか目を微かに見開いて藤ねえは問い返してくる。

「そのままの意味だ。だけど、方向性が無いと答え難いか――――そうだな、切嗣を一言で表すとしたら何だと思う?」
「切嗣さんを一言で?」

 両手は竹刀を握ったままの格好で姿勢を崩さずに、雰囲気だけを緩めて藤ねえ問い返してきた。

「ああ」
「うーん……あの人は――――鉄かな? 堅いのに柔らかかったと思う」

 少しばかりの逡巡と懐旧の後、藤ねえの口から返ってきた答えは鉄。最もポピュラーな鉱物。それが藤ねえにとっての切嗣らしい。人を表すのに鉱物を例えに挙げるとは、改めて我が姉貴分ながら変わっている思った。
 だが同時に、その答えを聞いて不思議と納得した。それは漠然としているようで的確な答えだったから。直感を優先する藤ねえらしい言葉だ。

「随分と変な表現だな」
「……だって仕方が無いじゃない。切嗣さん、変だったもん」

 俺たちの前では常に笑っていた切嗣が、心の底では確固とした信念を抱えていた事を――どのような形で気付いたのかは解らないが――藤ねえは知っていたのだろう。だからこその鉄という返答。
 やはり、藤ねえは俺たちを、ひいてはこの家を見つめてきた人間なのだと思った。

「ああ、確かに。切嗣は変わっていたな」
「だよね。最期までわからない人だったから、どう言えばいいのか難しいのよ」

 快活に笑いながら藤ねえ。一体、藤ねえは切嗣を思い出すときにどんな感情を抱いているのかが気にはなったが、それはオレの今後に影響を与えないので今さら聞こうとは思わないし、何より興味本位で聞いていい話だとも思わない。

「――鉄は意外に切嗣らしい言葉だとは思うぞ」
「そう? まあ、士郎もそう思うんならきっとそうなのよね」

 首を僅かに傾げながら頷く藤ねえ。自分でも自信が無いという事は、どうやら本能で鉄という一言を引き出したようだ。女の勘――――いや、野生の勘というやつだろうが、規格外極まりない。

「ああ、そうだろう――――それで本題なんだが、もう一つ聞いていいか?」

 切嗣に関する会話が進むたびに、この道場での過去の記憶が次々と浮かび上がっていく。まるで走馬灯の様に現れては消えていく記憶に、自分が死ぬに瀕しているのではないかという馬鹿げた疑問を覚えた。無論、詰まらない疑問なので即座に切って捨てたが。

「まだ何か聞きたいの? まあ、別にいいけど」
「切嗣が鉄なら、オレは何だと思う?」
「……士郎を一言で表すなら何かってこと?」
「ああ」
 
 オレの問いかけを確認した藤ねえは、先ほどの切嗣の時のように躊躇う素振りすら見せずにオレの目を見た後、

「硝子、ね。頑固で堅いくせに、直ぐに壊れそうで見てられない」

 表情を引き締めなおして断言した。
 厳かな表情が、冗談や偽りで語っているわけでは無いという事を如実に主張している。藤ねえにとっては真実、オレは硝子なのだろう。客観的に考えて、未だこの身は切嗣まで届いていないらしい。まあ、オレ自身の主観でもそうなのだから当然だが。
 目指していた目標に自らが触れてすらいない事を痛感しても、何故か心が沈むことは無かった。むしろ事実を突きつけられて、逆に清々しさすら覚える。

「――そうか」
「うん、そう。士郎は生真面目すぎるの。私くらいだと困るけど、少しは息抜き覚えないと潰れちゃうよ?」
「大丈夫だ。好きでやっているからには潰れるはず無い」
「はあ……だからそれが危ないって言ってるのに」
「さっきから、ため息ばかりだな。そろそろ年か?」
「年か? って、さらりと毒吐いたね。もしかして士郎、少し遅い反抗期?」
「まさか。これはただの諫言だ。藤ねえには回りくどい言葉は通用しないからな」

 オレの頬は今、笑みの形に緩んでいるだろう。恐らくは最後になるだろう、何気ない家族との会話の一言一言を胸に刻んでおく。もう振り返らないでいいように。これからは目標へと到達するために進み続けることが出来るように。

「なかなか言うね、士郎。それで話を戻すけど、この辺りで『やっぱり参りましたー』って言ってくれたら、お姉ちゃん嬉しいんだけどなぁ」

 と、そこで軽い口調のままで藤ねえが言葉を続けた。竹刀を再び強く握り締めながらも。
 穏やかな表情で、だが姿勢を再び常の構えへと戻すという事は、付き合いが長いからこそ解っているのだろう、

「まさか――尚更、止める気は無くなった」

 オレが最早、言葉だけでは絶対に止まらないだろう事を。

「……うわぁ、昔の事を話すのは失敗だったみたいね」
「多分、な」

 あーあ、と何度目かになるため息らしきものをついた藤ねえの言葉に頷いておく。
 藤ねえは、そんなオレの態度を視認した後、気負った様子のない口調で、

「まあ、いいや――――それじゃあ、白黒つけてみよう。士郎、ちょっと凄く痛いからね」

 こちらへと向けて接近してきた。つまりこれは会話が終了し、仕合が再び始まったという事を意味している。
 先ほどと変わらない速度で――いや、前よりも僅かに遅く、慎重に藤ねえはオレとの距離を詰めてくる。無手であるオレは、それを強化された身体を用いて応戦すれば良い。
 藤ねえは間合いの外側からこちらを窺っているようなので、こちらも同じくあちらの動きを観察し、攻撃を回避するタイミングを探る。一歩、二歩と歩み寄ってくる藤ねえの姿を、スローモーションに細切れで捉えるオレの強化された視力ならば、例え無手であっても全ての攻撃を避けて反撃する事は難しくないはず。
 と、そこまで考えたところで藤ねえが動きを止めた。距離にして、藤ねえが両腕を最大限伸ばしたとしてもオレの体まで届かない程度。つまりは、自らの間合いから半歩ほど外側で藤ねえは静止しているわけだ。この距離にいる限りは、お互いに攻める手段はない。
 故に、この止まった時間に頭の中でオレが取るべき行動を組み立てていく。リーチの長さではあちらが格段に有利。だから、オレにとって最良の手段は攻撃を回避してからのカウンターしかない。何よりも今、求められるのは正確なタイミングだ。気を抜かずに、藤ねえの姿を視界の中に捉えておく必要がある。
 そう決断してから、藤ねえの動きに集中してみたが未だに目立った動きは無い。状況は膠着したまま――――

「っ――――!」

 そう考えていたが、気が付けば既に間合いの内側に藤ねえの姿があった。
 風きり音をあげながらも、間合いの外側にいたはずの藤ねえの竹刀がオレの首筋から皮一枚離れた空間を通過していく。反射的に首をひねる事は出来たが、完全には避けられず首の皮膚が竹刀の切っ先で擦れたようで、少しばかりチリチリと焼けるような痛みが生まれた。一体何が起こったのかと軽く混乱しかけていたが、そんな小さな事を気にしている暇などオレには無かった。
 突く動作により両腕を伸ばした格好の藤ねえは、強引に初太刀の軌道を変え、竹刀を上段に構えて、

「よけない方が良かったのに!」

 そのまま一気に袈裟懸けに大斬撃。咄嗟に後方へと跳躍したオレの目の前を、唸りすら感じる程に素早い一撃が通過していった。先ほどよりも格段にキレのある藤ねえの動きに、オレと同じく藤ねえも手を抜いていたことを悟った。
 そのため、今一度状況を理解するために後方へと更に跳躍して距離を多めに取っておく。どうやら藤ねえには追撃してくる意思は無かったらしく、一時的にだが先ほどの間合いの二倍ほどの距離を稼ぐことが出来た。

「……おかしいわね。これで終わるはずだったのに」

 少しばかり驚いた表情で藤ねえ。オレがあの攻撃を避けることが出来るとは思ってもいなかったのだろう。追撃してこなかったのもそのためか。確かに、今までの衛宮士郎ならば認識する間もなく終わっているはず。
 だが、これはオレにとっても驚きだ。強化の魔術を使用しても知覚出来ないほどに常人が速く動けるはずが無い。ならばどうしてオレはあの攻撃を避けられなかったのか。自問するが、答えは直ぐに得られそうには無い。

「あれで終わると思っていたなら甘すぎる」

 内心の僅かな動揺を押し隠して言葉を放つ。状況を悪化させないため、或いは考える時間を稼ぐためのただのペテン。

「そう? けど士郎、避けるだけだったじゃない」

 しかし、藤ねえにあっけらかんと返される。何か言い返したいとは思うが、事実であるために反論が出来ない。

「……まあ、いいや」

 オレが口を閉ざしたままであることを確認すると藤ねえは再び接近してきた。ゆっくりと間合いを縮めてくる動作におかしさは感じられない。だが、何か違和感も感じる。この動きの中に先ほどの接近の秘密があるはず。
 藤ねえの動きを凝視していると、再び間合いの僅か外側で藤ねえが静止した。竹刀の切っ先をこちらに向けて静止する。いや、正しくは静止したように見える。
 そして、

「――ちっ」

 再び気が付けば、目の前に藤ねえが近づいていて、竹刀の切っ先がオレの体に迫っていた。
 だが即座に後方に跳躍して距離を取る。今回も何が起こったのかは解らなかったが、二度目の奇襲は予想できていただけに、先ほどよりも余裕を持って回避することが出来た。
 着地するのと同時に、胸の中に溜まった空気を一気に吐き出し、新鮮な空気を再び肺の中に取り入れる。

「……士郎、今の何? 幾らなんでも動きが速すぎるわよ」

 その時点で初めて藤ねえは目を見開いてこちらを凝視してきた。流石に何度もギリギリで回避し続ければ気付かれるという事か。まあ、気付かれようとも対処する方法があちらにあるわけではないが。

「速すぎる?」
「最初のも、さっきのも、完璧に決まったと思ったのに避けられたなんておかしいじゃない。今の士郎の動きは異常よ」
「そうか? オレからしてみれば今の藤ねえの動きの方が異常だけどな」

 無論、魔術で肉体を強化しているからだ、なんて魔術師でない藤ねえには言えるはずが無い。だから敢えて方向をずらして答えを返しておく。

「話を逸らさないで、士郎。何か私に隠していない?」

 だが、神妙な表情で藤ねえは距離を詰めてくる。藤ねえが動くたびに袴の裾が揺れた。

「何かって、何だ?」
「とぼけないで。セイバーちゃんが来た頃から士郎が変になった事は気付いているんだから」
「……さあな。ただの勘違いじゃないのか?」

 意外にも鋭い言葉に内心で舌を巻きながらも、顔には出さずに答える。遠坂に顔に思考が出易いと言われてから、何度か練習した甲斐があって傍目には解らないはずだ。

「そう、答えてくれないんだ――――なら、強引にでも聞き出すわよ」

 だが、藤ねえは語調を強めて言葉を続ける。疑いが確信にでも変わったらしい。どうもオレには腹の探りあいの才能は無いようだ。

「好きにしろ」

 仕方が無いので、オレもそっけなく答えておく。この仕合、どちらにしても負けなければ良いだけの事に変わりは無いから。
 一定の速まった鼓動を刻む心臓を感じながらも、先ほどの二回の違和感について考えてみた。反撃さえしないのならば、あの攻撃はどうとでも出来る自信がある。いかに原因の良く解らない微妙なタイミングのズレが存在していたとしても、その攻撃を受けるのが三度目ならば、慢心などではなく実際に余裕も生まれる。だから、後はあの攻撃を完全に避ける事さえ出来ればオレに敗因は無くなる。逆説的には、完全に避けることが出来なければ手詰まりとなり仕合に決着はつかなくなるという事だが。
 故に藤ねえの全身を観察し、迫り来る攻撃に対して備える。竹刀は相変わらず中段に構えられ、不自然な点は見当たらない。伸ばされた背筋は見本の様に正しい姿勢を維持しているし、足元は見えないが袴の裾から、肩幅に広げて右足を半歩ほど前に出した格好である事が理解できる。全てが教科書どおりであり、違和感の原因などは見つけられそうにも無い。
 と、そこで、

「いりゃぁっ――――!」

 再び、ゆらりと間合いの内側に入ってきた藤ねえが竹刀を奔らせた。オレの頭部を狙ったその攻撃が届く前に軽く左側に跳び、避ける。続いて連撃が来るかと身構えたが、藤ねえは距離を維持したままだ。
 一度接近して追い詰めた後に、追撃する事無く一定の距離を取る。それの繰り返し。明らかにおかしい。

「また、避けた……」

 呟いてこちらを凝視する藤ねえが、追撃してこないのは何故なのか。そう考えたが、焦りの色の見え始めた藤ねえの表情を見てその理由が解った。追撃しないのではなく、出来ないのだと。踏み込んでからの初太刀にしか違和感を覚えない。つまりは、接近してからの二撃目ならばオレは回避できるという事だ。その時点で、次に藤ねえの初撃を避けた後に反撃に出れば勝利できる事を悟った。

「流石に何度も見れば目も慣れるからな」

 思い違いをしていた事に気付いた。手品を破るためにタネと仕掛けを理解しなければならない決まりなどは無い。手品自体をどうにかしてしまえば、勝つ事は出来る。途端に、難しく考えすぎていたモノが明晰になっていくような感覚を覚えた。ただ藤ねえの動きの一つ一つに反応していけばいいだけの事。強化された視力ならば、それからでも充分に対応できる。最初から、先手を打たれることを想定してから行動に移ればよかったのだ。
 ただ、足先だけは袴に隠れて見えないので、少しばかり先読みがし難いが、そんな事は――――足先が見えない? どういうことだ?
 考えていて、その不自然な事実に思い当たった。何故、藤ねえは足先を見せないようにしているのか。それは、そこに手品のタネが隠されているからではないだろうか。確認する必要がある。
 目の前に立つ藤ねえは、先ほどと同じく常の構えを維持している。だから今度は足元に意識を割いて、いつでも体を動かせるように中腰の体勢を取っておく。と、そこで違和感の原因を期せずしてしる事となった。
 藤ねえの上体は全く動いていないのに、足元だけが動いている。いや、この表現は正確ではない。足元もまた動いてはいないが、それでも僅かに少しずつ前進している。床がコンクリートならば解らなかっただろうが、道場の床には木目があるためにはっきりと解る。木目の上を徐々に藤ねえが進んでいるのだ。
 つまりこれは、藤ねえはオレからは見えない足の指を這わせる事により移動していたということだろう。通常、前進するという動作には足だけでなく、他の場所にも影響が及ぶ。歩けば自然と腕も動くし、一歩足を前に出すたびに空間的な頭の位置が僅かに上下する。だから、一般的には視覚で得られる、足が動いている、腕が揺れている、頭の位置が上下しているといった情報を総合で判断して、人は相手が『歩いている』という事実を知る。藤ねえの取っている行動は、その無意識の判断の隙をついた手品のようなものだ。相手の意識を竹刀の切っ先に集中させた状態で、袴の下に隠れた足の指を少しずつ、自身の体に影響を与えない程度に這わせていけば、全身には全くのぶれが無いままに距離を詰めることが可能となる。
 相手であるオレからしてみれば、藤ねえは外見には移動していないのだから、知らぬ間に間合いに入られていたと思い動揺するという寸法。意外にも、藤ねえは戦いに置いて狡猾であったことを知った。無論、それには余程の技術を必要とするのだろうが藤ねえならば可能なのだろう。ふとした拍子には忘れてしまうが、これでも剣道五段。持ち得る身体技術はオレを遥かに凌ぐ。
 だが、解ってしまえば対処は幾らでも出来る。例えば、床の木目と袴の裾を注意深く観察すれば、どれだけ前進しているかは一目瞭然。

「せやぁっ!」

 今までと同じ様に、間合いに入ってきた瞬間に藤ねえが竹刀を振るう。今度は胴薙ぎの一撃がオレの脇腹を折らんと唸りを上げた。だが、最早それも無意味。来ると解っていて、尚且つ強化された視力を用いればソレをどうにかする事などは造作も無い。
 肺の中に溜めていた空気を一気に吐き出しながら、地面と水平に、オレの腹部を狙って放たれた一撃を瞬きすらせずに完璧に補足し、
 
「ふっ――――」

 その一撃がオレの体に触れる寸前、振り上げた肘と膝を使って挟み込むように竹刀を受け止めた。強化された視力は、そんな大道芸じみた行動すら可能とする。

「え?」

 更に、呆けたような藤ねえの声を合図として、肘と膝に力を込める。強化された力に竹刀は拮抗すること叶わず、ミシミシと音を立てて軋み、最後にパァンッという竹刀の材料である竹の割れる音を響かせて真っ二つに折れた。稚拙なパフォーマンスのようで気乗りはしないが、出来れば藤ねえに攻撃はしたくはなかったから、攻撃手段である竹刀を折った。実行してみれば意外にも簡単で、少なくとも聖杯戦争での戦闘よりは格段に容易い。

「……これでオレの勝ちだな」

 割れた竹刀を呆然と眺める藤ねえに向けて言葉を投げかける。今の状態の藤ねえではどうすることも出来ないはずだから、この勝負はオレの勝ちで決定したも同然。

「約束通り、オレはこの家を出て行く」
「……な、そんなこと許可できるわけが無いじゃない!」

 だが、表情を焦らせて藤ねえはこちらに詰め寄ってきた。自身が初めてオレに敗れた事よりも、オレが家を出るという事を認めきれないようだ。勿論、ダメだと言われて決意を翻す気などは無い。そもそも、この仕合自体けじめをつけるためのモノであったのだから。故に、ただ問い返す。

「約束を破るのか?」
「約束なんてものよりも大切なモノがあるのっ!」

 返ってきたのは、オレに言い聞かせるかのような上ずった声。だが、言葉の内容に反して、藤ねえには動揺した様子がありありと浮かんでいる。本人も何を言いたいのか明確には解っていないのではないだろうか、そんな疑問がふと浮かんだ。

「――――それに、士郎だってここにいたら問題があるわけじゃないよね?」

 考えるオレを余所に、僅かに声を落ち着かせて藤ねえが言ってきた。確認するようというよりは縋るような声。だけど、オレはその言葉に頷くことは出来ない。それこそが、オレのこの家を離れようと思った原因だから。

「いや……この家は危ない。この場所にいたらオレは駄目になる」

 刺激しないように、言葉を選んで藤ねえにオレがこの家を去らなければならない理由を告げる。

「……何を言ってるの? 解んないよ」

 なるべくならばオブラートに包んで言いたかった。だが、遠まわしでは伝わらなかったらしい。内心で一度、深く嘆息する。そして、全てを話すことを決めた。

「この場所が、皆がいる限りはオレは切嗣との約束を守れないんだよ、藤ねえ」

 衛宮士郎を守る盾であり、衛宮士郎を護る家族は、皮肉にもオレを縛る鎖でもある。だからこの場所にはいられない。

「……どういうこと?」
「今のオレには、皆が重荷でしかないんだ。だから一緒にはいられない」
「なっ――――!」

 言い終わった後、口を閉ざす前に右の頬が衝撃が走った。そこにあったのは藤ねえの平手。だが、驚きもしないし、痛みもしない。随分と軽い手だと言う印象だけを受けた。
 そんなオレとは対照的に目の前の藤ねえは、後味が悪そうに顔をしかめている。オレの言葉に突発的に手が出てしまった事を悔いているのだろう。それは仕方が無いことだから、気にはしない。だから、未だ離れることの無い藤ねえの左手を上から右手で握りしめた。どうにも藤ねえと対峙していると、昔の、オレが小学生で藤ねえが学生をやっていた頃の記憶が先行してしまうので、藤ねえはオレよりも大きいような印象を持ってしまうのだが、そんな事は無かった。剣道をやっているためか皮膚が堅くなっているが、握り締めてみればやはり、オレの手で包めるほどにその手は小さい。お互い、昔とは違うことを知る事が出来た。

「大丈夫だ」

 藤ねえの手を握る力を僅かに強めて言う。オレは言わないといけないのだ。いつまでも同じようにはいられないと。それが、これまで一緒にいてくれた藤ねえに対するせめてもの礼だろう。

「…………何が?」

 握り締められた手を振り払おうとはせずに、藤ねえが問い返す。泣きそうな顔をしているのが見ていて辛い。だが、既に止まれない。それにオレという存在がいなくなれば、このような事で藤ねえが心を痛めることもなくなるだろう。
 だから、最後の言葉を発する。

「オレは一人で大丈夫だよ、藤ねえ――――もう、オレを支える必要は無い。今までありがとうな」

 




  *   *   *   *




 悪いのはタイガ、それは間違いない。
 私とタイガは同じ家に住んでいる友達で、家族のようなものであるはずなのに、あんな事をしたんだから。まるで誘導尋問を受けたみたいで凄く気分が悪い。大嫌いなアインツベルンの奴らの事を不意に思い出してしまうくらいに腹が立った。そして、それが余計に感情を逆撫でる。これは一度や二度、謝られたからといって許せる話じゃない。
 だけど、タイガもそれだけ焦ってたって事なのだとは解った。タイガはお世辞にも繊細とは言えず大雑把だけど、好んで人の心に土足で踏み入る人間では決してないから。
 前に私の事を、私の家族は心配していないのかとタイガが聞いてきた時、当時の私にとっては酷く煩わしい質問であったので「その事は金輪際、聞かないで」とぶっきら棒に、何一つ私の理由を話さずに突き放して答えた事があった。住む場所を借りているだけでありながら、タイガに何も還元できるモノを持たない私の不躾な言葉に、タイガは気を悪くした様子も無く「うん、わかった」と一言だけ頷いた。
 感覚的になのか、或いは理性的になのかは解らないけれど、私の内心の一部を言動から察したのだろう。そういうある種の包容力に似たモノを持っている人間なのだ。普段は大人なのに全然落ち着きが無い事も紛れも無くタイガの特徴ではあるけれど、タイガの特性はそれだけでは無いという事だ、最初は信じられなかったけど。
 そして、そんなタイガには一つの特徴がある。セイバーが消えてしまったからには、シロウにとって最も身近な家族はタイガであるはずなのに、あの家に出入りする人間の中では唯一、シロウの魔術師としての側面を識らないのもタイガであるということ。私やリンはもちろん、本人に確認したわけではないけれどサクラもまたシロウの隠されている側面に気付いている。知らないのは、きっとタイガ一人。
 それは普通に生活している人間にこちら側の世界を教えたくないというシロウの配慮からなのか、あるいは何か他の理由からかは解らない。いや、むしろ気付いている私達の方が異端であるのだろう。ともかく、確実にタイガは誰よりもここ最近の出来事について持っている情報が少ない。セイバーという存在が何であって、シロウが何を経験したのかという情報を。
 そう考えると、昼の私にあんな事を言ったのは失敗だったかもしれないと思えた。表面で何でもない素振りを見せながらも、その実、私と同じでタイガがシロウの漠然としたおかしさに気付いていたのだとしたら、あの行動は私の言葉が引き金になった可能性も考えられる。仮にそうだとしたら、三回ぐらい謝られたら許してあげてもいいかな、と思えた。
 或いは、私もタイガもお互いに淑女らしくない行いをしてしまったという事が結論なのかもしれないと思った。不思議とそう思うと、ささくれていた心が元通りになっていくのを感じた。更には、まだシロウの家に入り浸っていて、帰ってきていないタイガの事が心配にもなった。無いとは思ったけれど、私の言葉が原因でタイガが深刻に思い悩んでいたとしたら、後味が悪いから。
 だから私はシロウの家に電話をかけてみた。いつまでもシロウの家に居ないでちゃんと帰ってきなさいと、タイガに言おうとして。
 だけど、

「タイガったら、いつまでシロウの家にいるつもりなのよ」

 いくらコールしてみても誰も電話に出なかった。あの家には少なくともシロウとタイガの二人がいるはずで、その二人に加えてリンとサクラがいる事だって考えられるのに。だとしたら何をしているのだろう。あれだけ電話を鳴らしても誰も気が付かないなんて。普通の家ならみんなで外食に行っていることも考えられるけど、シロウは基本的に無駄遣いを好まないから、あの家に限ってそんな事は無い。だとしたらみんなで眠ってでもいるのかもしれない――――なんて不意にそんな考えが頭をよぎったけれど、それこそ有り得ない。
 思案した私は結局、気分転換も兼ねてタイガを呼び戻すためにシロウの家へと向かう事を決め、現在、ぼんやりと辺りを照らす古びた街灯の下、一人で薄暗い路地を歩いている。寒いのは嫌いだけど、この時間帯のひんやりとした外気は気持ち良い。首筋を通り過ぎていく風は清涼感に満ちていて、肌を撫でて、髪を静かに凪いで揺らすたびに、既に壊れる寸前の私にさえもくすぐったい様な清爽さを与えてくれる。
 バーサーカーと別れる事になっても、こんな素敵な時間を過ごせるなんて前は考えられなかった。私がいつまでもずっと、この生活に浸り続けることは出来ないのだろうけど、それでも最期までこんな毎日の連続――――平穏を感じられたら良いなと、最近は頻繁に思う。

「そのために今回は、私がタイガに淑女の度量っていうものを見せてあげないといけないのよね」
 
 見慣れた道を歩きながらも口に出して呟く。
 この街に住み始めた最初の頃に、シロウの家とフジムラの家の周りは何度もシロウと一緒に散歩をしたので、どの道を進めば何処につながっているのかなんて今では全て解る。大してフジムラの家から離れているわけではないシロウの家までは直ぐにつくだろう。
 一人歩きは危険だと言ってフジムラの家の人間が何人か私についてこようとしたけれど全員の申し出を断っておいた。こんな命の危険のまったく無い街で一人歩きをする事が怖いわけが無いし、そもそもタイガと仲直りをしに行くのだから付き添いなんているわけがない。私は子供じゃないんだから。
 ただ、最後までかしこまって私についてこようとしていた人達が、仮にその事で叱責でもされそうになったのならどうにかしないといけない。後でライガに話をつけておこう。それなら誰にも迷惑はかからないはずだ。フジムラの家には強面の人間が多いけど、みんな嫌いじゃないから色々と難しい。
 そんな事を考えながらも路地を右に曲がる。曲がり終えると、すぐに見慣れた光景が目に入った。

「あ、もう着いちゃった」

 変わる事無くそこにあり続けているのは、この国独特の造りである和風の門構え。他の一般的な家と比較してかなり立派な部類に属するそれを見ると、ここがシロウの家なんだと実感する。広くて簡素だけれど、閑散としているわけじゃないこの家はさり気なく温かいので好きだ。
 だから、ここも私の家。そう、内心で笑いながらも門を潜って玄関へとたどり着く。今さら家に入るのに遠慮するような関係ではないので、そのままに扉を開けて中へと入った。

「あれ? 靴が一足しかないじゃない」

 と、そこでおかしな事に気がついた。玄関に揃っているのは、およそ機能性だけしか追及していないような外見の小さな薄茶色の靴が一足だけ。そんな事は普通はありえない。シロウの靴がないなんていう事は。シロウは買い物にでも行っているのだろうか。だとしたら色々と今までの状況に納得もいく。シロウは何かの理由で家を開けていて、そのせいでタイガが留守番をすることになった。だけど落ち着きの無いタイガの事だから、だらしなくテーブルのある部屋で眠ってでもいるのだろう。そうだとしたら、こんな時間までタイガが帰ってこなかった事も理解できるし、電話をしても誰も出なかったことにも頷ける。
 ただ、だとしたらタイガは予想以上に自堕落であるようにも思えるけれど。

「まあ、いいや。タイガー、いるー?」

 取り敢えず居間へと向かいながら大きめの声を出す。だけど反応は何も無かった。声が帰ってくるどころか、テレビの雑音も物音さえも聞こえない。居間の明かりは点いているのに、不思議と静か。やっぱりタイガが一人で寝ているのだろう。

「タイガ、いい加減に――――」

 だから、居間へと顔を出してタイガを起こそうとして、

「あれ?」

 居間の中には誰もいなかった。いつもの様に綺麗に片付けられたテーブルも、シロウが騙し騙し修理しながら使っている古いテレビも何ら変わりは無い。だけど、それを使うべき人間の姿が何処にも見えない。大抵の場合、タイガはここにいるはずなのに。おかしい、そう思って縁側に出てみる。右側を見て、次に左側を――――見つけた。道場の明かりがこんな時間にも点いている事を。
 タイガはああ見えて剣道だけは一人前なんだって、ライガが嬉しそうに話してくれたから、タイガが剣道というものに秀でている事は知っている。だから道場にいたとしてもおかしくはない。ただ、今までタイガが道場に近づいた事なんて記憶には無いけれど。ということは、いつものタイガの気まぐれなのだろう。
 だから、恐らくはそこにいるだろうタイガに会うために、縁側の廊下を進んで道場へと向かう。道場には意外と私にも思い出がある。セイバー、彼女とシロウが鍛錬というものをしているのを少しだけの期間だけど、道場に座って眺めていたから。
 この家に住み始めた頃の記憶を思い出しながらも、道場へと入る。
 予想通り、道場の中央には人影があった。間違いなくタイガだ。

「タイガ、こんな場所で何してるのよ」

 タイガは何故か、道場の中央に座り込み、あらぬ方向を見つめていた。呼びかけても何も応えないその様子から、私の事になんて気付いていないらしい事が解る。
 せっかく私がここまで呼びに来たのに、だらしのない態度のタイガが少し癇に障った。強めに言ってやる必要があるかもしれない。

「タイガ――――って、それ何?」

 そう考えていた私の言葉は、床に落ちていたあるモノによって遮られた。それは、真ん中から二つに折れた竹刀。シロウとセイバーの鍛錬で用いられていた竹刀が、無残にも破壊されていた。座り込んでいるタイガの周囲に竹刀の欠片が少し散らばってもいる。

「あ……イリヤちゃんかあ」

 飛び散った破片で足を怪我しないように注意しながらタイガに近づくと、ようやくタイガは顔を上げてこちらを見た。だけど、ぞっとする程に覇気の無い声は気味が悪い。タイガはうるさいくらいが丁度いいのに、まるで捨てられた子犬だ。所在無さそうな視線を空中に漂わせている。

「ええ、そうよ。それで、これはどうしたの?」

 色々と問い詰めたいことはあったけれど、一番気になる事を聞いておく。多分、それがこの異常な事態の原因なのだろうから。

「……士郎がね、バーンッて折っちゃった」
「シロウが、その竹刀を?」

 予想もしていなかった言葉を聞く。シロウなら竹刀を折ってそのままにしておくはずが無い。率先して後片付けをやるような性格なのだから。だけど、タイガの言葉にも嘘があるとは思えない。真正直な人間だから。それにしても何か、歯車が噛み合っていないような違和感を覚える。

「うん。ちょっと、いなすだけのつもりだったのに、士郎、いつの間にか強くなってたのよね。あはは、負けちゃった」
「負けたって――――それでシロウは何処にいるの?」

 どうやら今のタイガはまともに受け答えが出来る状態じゃないようだ。取り敢えず話に出てきたシロウから詳細を聞いた方がいいだろう。

「士郎はね……いなくなっちゃった。私は――――もう要らないんだって」
「……え?」

 タイガは今、何と言ったのだろうか。シロウが『        』なんて。
 何故かその言葉を上手く聞き取ることが出来ない。いや聞き取れたはずなのに、頭の中で上手くその言葉を情報に変換することが出来ない。おかしい。本当に、今、タイガは、何と、何を言ったのだろうか。