炎に包まれた業火の世界で死にかけている時、俺は切嗣に助けられた。あの時はただ生き残れた事が嬉しかった。そして同時に俺を見つけ出した時に切嗣が浮かべた心底安堵したような笑顔が、何故かとても羨ましかった。だから自然と、俺はそうなれたらいいと憧れた。
 同時に、あの惨事の中で生き残った事に後ろめたさを感じたのも事実。自分だけがあの死の世界で救われ、他の人達は息絶えた。ただ一人助かって、他の全員を犠牲にした衛宮士郎は責任を取られなければならない。そんな罪悪感に似た感情もまた胸に抱いていた。
 そんな渇望と忸怩たる思いに揺れ、病室のベッドの上で悩んでいた俺の前で切嗣は言った。

    ―――『初めに言っておくとね、僕は魔法使いなのだ』―――

 今思えばこの時に『衛宮士郎』は誕生したのだろう。
 通常ならば一笑に付すような切嗣の言葉に、九死に一生を得たために『何か』を求めていた俺は心惹かれた。故にそこからはとんとん拍子に物事は進み、切嗣は俺を養子として育てる事を提案し、俺もまた承諾した。魔法使いを自称する正義の味方と、それに憧れる少年。それが十年前に繋がった俺たち親子。
 そうして親子となった俺達だったが、当初、切嗣は『魔法』――正確には魔術だが、当時の俺には区別などついていなかった――を俺に教えるのを渋った。危険だからと思ったのか、自らと同じ道に進ませたくなかったのか、或いは両方なのか。兎に角、首を縦には振ってくれなかった。最終的には同意を得る事に成功したのだが、それまでは長い時間を必要としたのを今でも覚えている。
 また、魔術を教わり始めてからも楽ではなかった。俺には殆ど才能が無い事が解って落胆したり、魔術師には死する覚悟も必要であるからと死ぬほど鍛えられたりした。正直、あの頃が最もきつかった。同時に、楽しかったが。
 だが、そんな時にも必然として終わりは訪れた。つまりは切嗣の死。力を失っていく切嗣に俺は強引ながらも一つの約束をした。俺が正義の味方を継ぐ、と。その言葉を聞いた切嗣は本当に安心したようにこの世を去っていった。あの時は辛かったが涙は流さずに済んだはずだ。
 そして、切嗣が死んでからも変わる事無く俺は自らを練り上げてきた。己が体を鍛え、魔術の修練を重ねる事で、いつか切嗣との約束を守れるようになれると思ったから。ただ、切嗣との約束を守る事だけを胸に俺は日々を過ごしてきた。
 そんな生活を何年も続けてきた中で、俺が出会ったのがセイバーであり、経験したのが聖杯戦争。凛然とした態度の底に無力感を隠していた美しい騎士と共に、魔術師同士の殺し合いというふざけた争いを戦い抜いた。
 俺は彼女に心奪われ、彼女もまた俺を愛してくれた。だから、セイバーとの別れの瞬間に二つ目の誓いが俺の胸に生まれた。即ち、彼女に恥じない生き方をするという事。口約束も何もしていないが、それでも俺はあの朝焼けの中で誓ったのだ。
 その新たに生まれたセイバーとの誓いと、元々、胸の中にあった切嗣との誓いの二つを抱えて俺は生きていけると考えていた。やがては正義の味方である矜持を堂々と、この手に掴める日が来るはずだと。


 だが――――現実の俺は耐え難いほどに虚弱だった。


 正義の味方という誰かを守るはずの目標を掲げながらも、俺は今まで何をしてこれたと言うのか。日々をただ暮らしてきた俺は、明確な将来のビジョンなど持ちえていなかった。この時点で浅慮の至りとしか形容できない。俺が誓った二人は信念の下に戦い抜いて命を散らしているというのに、俺自身は淡々と日々を過ごしていくだけ。
 そうして流れる時間に屈服し、記憶を磨耗させ、誓約を自ら遠ざけていく。俺の惰弱な精神ゆえに、平穏な生活に大切な誓いを食い破られていくのだ。安穏たる生活によって二人との記憶を湾曲させるとは情けないの一言。
 せめて誓いを破らないために、自らの精神を押し殺そうとしたが無駄だった。鋼となったはずの心は即座に溶解し、気が付けば笑いあう皆を見つめて安心している自分がいる。心の中に僅かな綻びでもあれば、年月は残酷に精神を元通りにする。完全に甘さを捨て切れていない俺は、絡め取られて癒されるのみ。
 故に俺は決断した。この決断は恐らくは皆の賛同などは得られないだろう。だが、それでも構わない。この胸の誓いだけは薄れさせてはならないのだから。




  *   *   *   *




 何があるのか考えながらも道場へと向かって歩いていく。縁側に出て空を眺めてみたら既に辺り一体は薄暗くなっていて、春といっても日が沈むのはまだ早いな、なんて思った。

「よいしょっ、到着」

 年月を重ねるにつれて立て付けの悪くなってきた扉を開けて道場の中へと入る。道場に入って、まず目に付いたのは昔から変わらず掛けられている掛け軸だった。
 掛け軸に記された文字は無想の二文字。切嗣さんの趣味だったのか、この家を買い取る前から掛け軸も置いてあったのかは知らないけれど、道場の雰囲気によく似合っている。お気に入りというやつだろうか。

「……昔はここも、私と切嗣さん二人だけの場所だったなんて実感わかないなぁ」

 道場の中央まで歩いていき、そこで目を閉じる。思い浮かんでくるのは切嗣さんの顔と、小生意気な笑顔を浮かべた士郎。切嗣さんに会うために通ったこの場所だけれど、今では士郎がいない事は考えられない。
 ただこの場所にいるだけで色々な記憶が勝手に顔を出してくる。

 切嗣さんと始めて会った日のこと。
 二人だけでいっつもお話していたこと。
 いきなり切嗣さんが士郎を連れてきた日のこと。
 ある程度時間が経ってから仲良くなった士郎と喧嘩したり遊んだりした日のこと。
 胸が張り裂けるかと思えた切嗣さんが死んだ日のこと。
 無邪気だった士郎がそれから体を鍛え始めて、滅多に口元を緩めて笑わなくなったこと。
 そして教員免許を取った私が士郎のいる学園の教師となったこと。

 全部、私、藤村大河にとっては大切な記憶だ。

「……それにしても遅いなぁ、士郎」

 結構な時間が経過したと思うのだけれど、士郎は姿を現さない。家事が得意な士郎は、普通、皿洗いくらいなら直ぐに終わらせてやってくるのに。もう既に三十分くらいは経った気がする。
 まあ、この場所には何時間いたとしても構わないけど。

「悪い、藤ねえ。遅れた」

 目を瞑り、何するわけでもなく立っていた私に向かって声が聞こえてくる。変声期を終えたばかりの無愛想そうな声が。今では慣れてしまったので感情の変化も楽に読み取れる士郎の声。

「んー、別にいいよ。って、私服なんか着て、士郎どこかに出かけるの?」

 待っていた士郎の姿を求めて振り返ってみると、そこには家の中の軽い服装ではなく、きっちりとした服装に身を包んだ士郎の姿があった。

「ああ、少しな――――」

 こちらへと歩み寄りながらも士郎は、横目で道場の掛け軸を眺めている。その顔に浮かぶのは懐旧だろう。この場所へと来れば私も切嗣さんの事を自然と思い出すから、士郎の気持ちは良く解る。
 切嗣さんと士郎と私と、三人一緒にいられたあの頃は本当に楽しかった。もちろん、今の生活に不満があるという訳でもないけれど。

「――――ところで、結構、あれから時間が経ったよな」

 いつの間にか、過去を追憶していた私に向かって士郎。視線を掛け軸から私へと移して、何気なく話題を振ってくる。

「あれからって、いつ?」

 だから、私もいつもの様に受け答えをする。これが平穏というものだろう。繰り返しであり、同時に不変であるからこそ大切なモノ。変わらないというだけで酷く安心している自分がいる事を感じる。

「切嗣が――――死んだ頃からさ」

 淡々とした士郎の口調に悲しみが含まれているような気がしたのは、聞き間違いではないだろう。
 そんな事を思いながらも、ああ、やっぱり話というのは切嗣さんに関係している事だったのかと私の頭の中の冷静な部分が声を上げた。そもそも、この場所を使用している時点でその程度の事は理解できていたから、いきなりな切嗣さんの話題も驚きとはならない。

「そうねー」

 少しばかり場がしんみりしたのを感じたので、なるべく柔らかく頷きながら同意しておく。

「小さかった俺が竹刀を握って切嗣にがむしゃらに突っ込んでいって、だけど相手になるはずも無くて直ぐに吹き飛ばされて床にのびて、それで藤ねえがそんな俺たちを眺めていて――――何というか、言葉に出来ないけどあの頃は楽しかった」
「うん、楽しかったね」

 優男といった風貌の切嗣さんは、外見から与えられる印象に反して腕が立った。この家がまだ空き家だった頃、誰もいないはずの庭に佇んでいた切嗣さんの姿を目にした私は、切嗣さんのだらしない格好から泥棒だと思って庭から叩き出そうと考えた。見覚えの無い人間だったし、ひょろひょろした体つきだったから私だけでどうにか出来ると思ったのだ。
 だけど――――結果として、私は切嗣さんの体に触れる事も出来ずに庭に転がされた。それも明らかに手加減をされて。
 そして、一瞬の早業で何をされたのか理解する事が出来なかった私が混乱する中、反転した視界の片隅で切嗣さんは困ったように笑いながら手を差し伸べて、

   『ごめんね。女の子に手荒な事をするようじゃ、僕はフェミニスト失格だ』

 どこかとぼけた人のいい笑みを浮かべて私の腕を取り、立ち上がらせてくれた。世間一般からかけ離れた思考回路を持っていると、会った瞬間に解る程に切嗣さんは変な人で不審者だった。
 だけど、何よりも特徴的だったのはその手。私を立ち上がらせる時に触れる事となった切嗣さんの手は、体温が高いのかとても温かかった。不思議と触れているだけで温かい手と、傍から見ていて一人にして大丈夫なのだろうかと、私にさえ思わせるほどに頼りない態度。だけど、ふらふらした外見とは違って中には芯が一本きっちりと通っていて、そのギャップがまた何とも――――って、私は何を思い出しているのだろうか。

「……あ、士郎、ごめん」
「いや、いいさ。切嗣の事でも思い出していたんだろう?」

 う、恥ずかしさに頬が少しだけ赤くなる。士郎は一人で百面相していた私をずっと眺めていたようだ。軽く微笑まれているのが、逆に恥ずかしさを助長させる。
 どうも、切嗣さんの記憶は私をぼーっとさせる事が多いようで問題だ。いや、この場合は切嗣さんの記憶にぼーっとなる私が問題なのだろう。記憶自体に良いも悪いもあるわけなんて無いから。

「まあ、そうなんだけどね」
「藤ねえは顔に出て解り易いからな」
「士郎がそれを言う? 慣れたら逆に士郎のほうが読みやすいよ、絶対に」
「む――――そうか?」
「うん。最近は少し読めなくなってきたけど、それでも圧倒的に解り易い」

 首をかしげた士郎の言葉を聞いて、直ぐにでも頷いておく。正直である事は美点だし、士郎にはいつまでも素直であって欲しいとも思うけれど、やっぱり真直ぐすぎるのは心配でもある。
 やくざの娘が考える事では無いけれど、知り合いが泣きついてきたら士郎はよく考えもせずに連帯保証人にでもなってしまって闇金融に引っかかってしまいそうな気がする。もし仮に、士郎をカモにする組織みたいなのが出てきたら、私というかお爺様がどんな手段を使ってでも先に潰し返すだろうけど、そんな事は無い方が良い。

「これでも、最近は気をつけているんだけどな」

 微かに苦笑しながらも士郎。その言葉には僅かながらの自らへの呆れが含まれているようだけど、それにしても切嗣さんに良く似た笑い方だ。絶滅危惧種に指定してもいいくらいに風来坊だった切嗣さんは、たびたびこの家を開けて何処かへと旅立つ事があった。旅先を教えてもくれないし、いつ帰って来るのかも教えてくれない、そんな切嗣さんを拗ねながら私が見つめたら、決まって切嗣さんは今の士郎のような苦笑を浮かべた。
 そして温かい手を私の頭にのせてから、自称フェミニストの切嗣さんは『ごめんねタイガちゃん、だけどこれに関してだけは、僕は何も言えないんだ。絶対にね』と言うのだ。
 苦笑を浮かべて、明らかに困っていると解る態度でその言葉を言われたら追求する事なんて出来るはずも無い。切嗣さんが何かを隠していることなんて一目で理解できたけれど、私は何も尋ねなかった。だから、結局、切嗣さんが何をしていたのかを、私は知らない。それで良かったのかも今では判断出来ない。

「きっと士郎は嘘がつけないように出来てるのよ。切嗣さんもそうだったし」

 だから、どちらか区別がつかないのなら良かったのだと考えた方が良い筈だ。レッツポジティブシンキング。暗い思考は暗い結果を生むとかテレビで誰かが言っていた。

「そうだな――――切嗣は嘘をつかなかったな」

 私は何かを意図して言葉を放ったわけではなかった。だけど、士郎は私の言葉に表情を強張らせ、次いで、道場の掛け軸へと視線を向けた。思い出していたら士郎も悲しくなってきたのだろうか。何だかんだで士郎は切嗣さんにべったりだったから、考えられない話ではない。まあ、私からは士郎の背中しか見る事が出来なくなったので、表情から推測する事は出来ないのだけれど。
 と、そう言えば、そもそも士郎の私への話とは何だったのかを聞いていない事に気付いた。

「……俺がどうして、この道場で切嗣から鍛えられてたか藤ねえは覚えているか?」
「そんなの当たり前じゃない。正義の味方になるんでしょう、士郎は」

 少しばかりの疑問を感じた私に構う事無く、顔を見せずに士郎が再び言葉を紡ぎ始めた。士郎が胸の中で抱いている正義の味方という目標が、伊達や酔狂でない事は理解しているつもりだ。

「ああ、やっぱり覚えてたのか」
「そんなの当たり前。何年、一緒に暮らしてきたと思ってるの?」

 表情は読めないので、声色から何かを読み取ろうとする。だけど、出来ない。おかしい。凄く嫌な予感がする。ただの第六感だけど、背筋を何かが這い回るような嫌悪感。今日の士郎は不審な箇所が多すぎる。

「そっか、そうだよな」

 私の心に突如として沸き起こった焦燥とは対照的に、落ち着いた雰囲気となっていく士郎。ああ、なんだろうかこの感覚は。昔、どこかで噛み締めた憂苦が心の中で顔をのぞかせ始めた。

「……それで?」
「ああ、藤ねえ、色々と考えたんだが――――」

 そこで言葉を区切って士郎がゆっくりと振り返る。その視線は一度も揺れる事無く私の瞳から離れない。

「――――俺はこの家から出て行こうと思う」

 そして、振り返った時と同じく滑らかな語り口で士郎は言葉を続けた。
 そうか、家を出て行くのか……って、今、士郎の口から信じられない言葉を聞いたような気がする。

「ごめん、士郎。聞き間違えたみたいだから、もう一回言って?」
「だから、俺はこの家から出て行くよ」

 聞き返してみたが、士郎は即座に同じ返答を返してくる。
 私は、世間話でもしているかの様な士郎の言葉に、心臓が止まりそうな負荷を感じた。重ねて尋ねたのだから聞き間違いではないのだろう。だけど、幾らなんでも脈絡が無さ過ぎる。

「え、士郎、一人暮らしでも始めたいの?」
「違う、解っているだろう、藤ねえ。俺はこの街を離れる」

 どうかただの冗談であって欲しいと思っての言葉だったけれど、即座に否定される。急な別離の宣言は信じられるはずも無いが、厄介な事に士郎と一緒に暮らしてきた私の経験が、士郎はこんなブラックジョークを言うような人間ではないと主張していた。
 だから、頭の中を整理するために一度、深呼吸してみる。
 ――――ダメだ、時間が経過するにつれてバクバクと鼓動が跳ね上がっていく。

「……士郎、いきなりどうしたの? 何か心配事でもあったならお姉ちゃんに言って」

 落ち着け、私。まずは落ち着いて冷静になってから話を進めよう。士郎は頑固だけれど、きちんと真正面から話をすれば解ってくれるはずだ。

「心配事なんて何も無い。ただ、もう、この家を出ないといけないと思ったんだ」

 だけど、士郎は微塵も動揺しないで言葉を返してくる。最悪だ、嫌な予感が現実になった。確かに変な雰囲気を二ヶ月前から感じていたけれど、それでも早すぎる。何が一体原因なのだろうか。

「……どうして? 別にこの場所にいたら悪い事があるわけでもないわよね?」
「いや、駄目なんだ。俺はここにいたら約束を守れない」

 首を振りながら士郎は決して私の言葉に同意を示そうとしない。こうなってしまったら本当に厄介だ。
 意味も解らずに家を出る事を宣言されて混乱しているために、上手く考えを纏める事が出来ない。私は士郎に何かしただろうか…………いや、何もしなかったからこうなったのだろうか。そんな事さえも判断が出来ない。

「家を出て、学校はどうするの?」
「退学する。どの道、学校での授業は俺にとって意味が無い」

 目の前にいる士郎は、本当に士郎なのだろうかという馬鹿げた疑問が、一瞬わき上がってくる。私に言葉を発している少年が『衛宮士郎』の形をした他の何かではないのかと。しかし、そんな事はあり得ない。表情、体つき、口調の全てが間違いなく士郎。
 普段にも増して饒舌な様子が更に違和感を私に与えるけれど、恐らくは、何度も士郎が自分で熟考して結論を出したのだろう。それこそ、私が何を聞いてくるかなんて幾度と無く考えたからこそ、すらすらと返答できるに違いない。
 英語教師なんて職に就いている人間の考えるべき事ではないけれど、別に士郎が学校を辞めることは問題ないと思う。だけど、学校をやめてから何をするのかが重要だ。そして、家を出る程に価値のある何かを今の士郎が出来るとは思えない。

「学校の事は後回しにしよう。それで、家を出て士郎が何か出来ると思っているの?」

 家事全般に優れていようと、ちょっとした電子製品の修理に精通していようとも、それでも士郎は子供だ。大人じゃない。そんな子が家を出て何かを出来るはずが無い。きっと独りで潰れるだけ。

「何が出来るかどうかが問題じゃないんだ。切嗣が死んだ時から、いつかはこの家を出ると決めていた。それが今になっただけの話だ」
「ホントに本気?」
「ああ」

 何が出来るかは問題ではない、か。考えが甘すぎるし、余りにも楽観的。世の中舐めてるとしか思えない。少しばかりお灸を据えておこうと決める。こんな状態の士郎を何処かへ放り出したら、切嗣さんに合わせる顔が無い。
 だが、どうやって士郎にお灸を据えようか…………士郎は今、少しばかり興奮しているようにも見えるから、そこを突いて一つ二つ軽い挑発でもして話を誘導するのが最善か。

「私にだって勝てない士郎が、誰も知り合いのいない場所でやっていけると思っているの?」

 可能な限り、突き放したような声で告げる。簡単な挑発に引っかかるか否か。もし駄目だったなら仕方が無い。強引に力技でけりをつける。

「それは違う。もう、藤ねえは俺を止めれない」

 私の問いかけに即座に言葉を返す士郎。
 取りあえず、即座に乱闘が始まるのは避けられたようだ。それにしても、軽い挑発に引っかかってくれたものだと安心する。前しか見れない愚直さのおかげで、一つ駆け引きの材料ができた。

「そう、解った。それなら一回だけ手合わせしよう。それで私にも負けるようだったら、家を出るのは諦めてね、士郎?」
「――――解った」

 軽い黙考の後に、士郎は厳かな顔のまま頷いた。これでどうにかはなりそうだ。今までに私は士郎に負けたことなどは無い。だから、今回も叩き伏せれば、私は約束を守れる。つまりは、切嗣さんが残したこの家を守れる。

「確か、竹刀と胴着が蔵の中にあったはずだから取ってくる。少し待ってて」
「ああ」

 士郎は何を考えているのだろうかが解らない。士郎は今までの士郎と何かが異なっているのだけれど、それも正確には解らない。漠然と付き纏う違和感を感じるだけ。
 だけど、解らなくてもまずは士郎を止めれば良い。それから士郎が何に悩んでいるのか話を聞こう。 

「そう――――」

 だから、振り返らずに私は土蔵へと向かった。




  *   *   *   *




 一人、閑散とした道場の中央に立ち、目を瞑りながら今までの事を振り返る――――

 影から俺を支え、常にそれとなく俺の助けとなってきてくれた桜が傍にいると心が落ち着いた。
 無邪気に俺に笑いかけてくれるイリヤの姿は俺の心を温かくした。
 辛辣な言葉を浴びせてくるが、それでも優しい遠坂は時間が有れば俺に話しかけてきた。セイバーとの別離を経験した俺を心配してくれていたのだろうと、今ならば解る。
 そして切嗣を失ってから今に至るまでずっと一緒にいてくれた藤ねえ。藤ねえが見守り続けてきてくれたからこそ衛宮士郎はここにいる。

 そう、俺の周りは優しさに溢れている。だからこそ俺は、自らの目標が手の触れられない場所に行ってしまっても変わらずに進むことが出来たのだろう。
 彼女達がいたからこそ、俺は形が見えない理想を抱き続けることが出来たといっても過言ではない。幾ら感謝しても足りるものではない。それは間違いない事実だ。


 だが――――現在のオレにはそれが鎖となる。


 彼女達は衛宮士郎を守るが故に、衛宮士郎を足踏みさせる。彼らはオレが変わる事を許さないのだ――――否、これは正確ではない。彼女達は俺が変わるたびにオレを衛宮士郎へと戻すからというのが正解か。
 切嗣ならば平穏な生活を送りながらも、正義の味方であり続けることも出来たのだろうが、如何せん俺は不器用すぎる。笑いながらも心に鋼を抱き続ける事ができるほどに達観してなどはいない。
 ならば、当然ながらもこの胸に生まれるのは二択の選択肢。日々の暮らしを取るか、二人への誓いを取るかの二つに一つ。無論、どちらを選ぶかは決まっている。オレは胸の中の誓いを果たす。
 故にオレは今から、衛宮士郎の甘さを消去する。衛宮士郎の綻びを消し去る。衛宮士郎を守るモノ全てを打ち捨てる。それを以ってオレはようやく進めるのだ。




 だから、みんな――――さよなら