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   ―――形無き焦燥に駆られ下された決断は誤り
        小過は大過に推移し『           』―――






「ああ、もう何が悲しくて三十分も道端で話なんてしなくちゃいけないのよ」

 三人娘に見つかってからは散々だった。三枝さんは一生懸命に誘ってくるし、蒔寺、氷室さんの両名はその様子を後ろから観察して楽しんでいるらしくて、辞退して場を去ろうとすると茶々を入れてきたために公園に向かうのがかなり遅れてしまった。
 乗る予定だったバスはとっくの昔に通り過ぎてしまったし、幾らなんでも三十分も待たされたなら士郎もまた不機嫌になっているかもしれない。折角、色々とやって次第に自身も皆と一緒に幸せにならなければいけないという事を教えていこうとしていたのに。これで最初から躓いたらどうしてくれようか、あの三人。というよりも、話を長引かせた蒔寺と、物静かそうに見えて話をややこしくさせた氷室さんの二名だろうか。いつか本当に目に物見せてやる。三枝さんはどちらかといえば私と同じで反応を楽しまれていたみたいなのでノーカウント。

「――怒ってないといいけど」

 などと考えながらも歩き続けていたら、ようやく公園の入り口へとたどり着いた。中に入ってまず士郎の姿を探す。少し視線を右から左へと動かしただけで、直ぐにその姿を見つけることが出来た。二月までの士郎なら見つけるのは難しかっただろうけど、今では漸を追って背が伸びているために特徴的な赤みがかった黒髪が目立つ。ベンチに荷物を置いて、その前で佇む背の高い若い男は一人しかいなかったので尚更だ。
 ぱっと見たところ士郎には苛立った様子も無く、ただ日の沈む様を見つめているだけようだ。これだけ待たされても怒った素振りも見せないが故に士郎は危険なのだけれど、ともあれ今は安心しておく事にする。
 人の心を一日二日で変える事なんて出来るはずも無いので、ゆっくりとやっていけば良いと思うから。こうやって何日も引っ掻き回していれば、きっと英霊であるアーチャーは生まれないはずだ。

「ごめん、三人が放してくれなくて遅くなったわ」

 声の届く距離まで近づいたので声をかける。しかし、私の呼び声に士郎は気付いていないらしく、一心に空を眺め続けている。横顔が何故か見覚えがあるような気がする。見たはずも無いのに覚える既視感が印象的。

「士郎、どうしたの?」

 ぼけーとしている様なので、もう一度声をかける。暫くの間、彼方を見つめ続けていた士郎だったが、はっと気が付いたのか顔をこちらへと向けて、

「……悪い、遠坂。惚けていたみたいだ」

 ばつが悪そうな顔で頬をかきつつ、すまなさそうに言ってくる。
 まるで自分に全面的に非がある様な表情に苛立つが、表情には出さないでおく。まだ色々と言いたい事を全てぶつけるには早すぎる。士郎の精神的な状態から考えても、私の現在の状況から考えても。

「待たせたのは私だから別にいいけど、何見てたの? あっちの空を眺めていたみたいだけど」
「――――いや、別に空を眺めていたわけじゃない。ただ、色々と思い出していただけだ」
「思い出していた? 何を?」

 士郎が何を思い出していたのかという事は、聞くまでもなく解る。恐らくはセイバーの事なのだろう。だけれども敢えてそれを聞く。現在の士郎の精神状態を知るために。

「ああ、恥ずかしながらセイバーの事とか親父の事とかな」

 頬をかきながらも士郎が言葉を返してくる。苦笑している様な表情だが、落ち込んでいるようにも見えないし、沈んでいるわけでもなさそうだ。
 と、そこで士郎が予想外の言葉を発していたのに気が付いた。

「士郎のお父さん?」
「ああ、親父と言っても義理の父なんだけどな。俺が十年前の火災で生き延びたのも全部親父、切嗣のおかげだったんだ」

 さばさばした表情で言葉を続ける士郎。それにしても士郎が自分の過去を進んで誰かに話そうとするのは珍しいので少し驚く。これは事態が良い方向に向かっているという事なのだろうか。過去に囚われている可能性もあるために、判断が難しい。
 どうするべきか……やっぱり、何も気付いていない振りをして話を繋げるのが上策だろうか。

「そうなんだ。それにしても珍しいわね、士郎が昔の事を話すなんて」
「む――――そうか? ……いや、確かに余り話した事は無いな」

 訝しげに首を捻った士郎だったが、暫くしてから納得したように頷いた。自分でも特に意識して口に出していたわけではなかったようだ。

「何か変わった事でもあったの?」
「さあ、な。その辺りは俺も解らない。強いて言えばこの場所だろうな」
「場所?」
「ああ、ここは俺が衛宮士郎になった場所。衛宮切嗣に救われた場所だからな」

 微かに笑いながらこちらを向いて士郎。その顔に浮かぶ感情は懐旧だが、それだけではない。具体的には言い表せない他の何かが含まれているようで少しばかり不安になる。
 だけれど、私が知るアーチャーの記憶から推測すれば、士郎にとってこの公園は死の飽和した業火の世界を連想させるものであるはずだから、それを見ても平静を保てているという事は良い兆候だと思う。

「そう――――少し、しんみりしたわね。時間も遅いし、帰ろうか」

 なるべく話を蒸し返さないようにただ頷き言った。三人娘に出会うなんて考えていなかったので、咄嗟に待ち合わせ場所として公園を選んでしまったのは我ながら失敗だったと反省する。ただ結局その事実が覆る事は決して無いので悩んだりもしないけれど。
 だから私は士郎に背を向けて歩き始める。この場所から士郎を早めに引き離した方が良いような気がするから。士郎はまだ返事をしていないが、きっと一人で先に進んでしまえば後ろからついて来るだろう。断るという事をしないから。
 いや、人に何かを頼まれてそれが自分が可能な事である限り、断るという選択肢が最初から頭の中に存在していないのだ。とても難儀な性格だから。

「――――悪い、遠坂。荷物は後で届けるから先に帰っていてくれないか?」

 聞こえてきたのは意外な言葉。頼まれれば嫌とは言わない士郎が首を縦に振らず、先に帰れと言ったなんて信じられない。何か大変な出来事でもあったのかと心配してしまう。或いは、やはりこの場所に士郎を連れてきたのは致命的な失策で、彼の心に何らかの波風を立ててしまったのだろうか。

「どうしたの? 何かあったの?」

 嫌な予想が沸き起こってくる中で、それでも感情は隠して普段どおりの口調で尋ねてみる。恐らくはきちんといつもと同じ態度で接する事が出来ているはず。
 これから聞く士郎の返答次第では、思いっきり蹴り飛ばす準備をする事も忘れない。人の心は簡単ではなく、ある日には何でもなかった事が、違う日には酷く耐えられなくなる事だって多々ある。だから、士郎の心に時間差でセイバーへの後悔が生まれる事だって考えられるから。

「別に意味なんか無いんだが――――」
「無いけど?」
「――――ただ、橋を見たくなった」

 む、と僅かに唸りながらの士郎の返答は本当に大した事が無かった。色々と難しいことを考えて悩んでいたのが馬鹿らしくなるほどに。というよりも、ため息が出た。

「はあ、深刻そうな顔して何を言うかと思ったら……良いわ、どうせだから歩いて帰りましょう」
「良いのか?」
「別に問題ないわよ。それよりも、荷物持たせたまま士郎を一人で歩いて帰らせて、私はバスに乗って悠々と帰ったとなったら、それこそ後味が悪いじゃない」
 
 何とも我の欠けた言葉に少し苛立つ。荷物持ちを頼んだのは私で、公園で待たせていたのも私。私が一日振り回しているというのに、たった一つの自分の我侭も私につき合わせさせようとしない態度は実に危うい。そして士郎はその危険性に気が付いていない。
 解ってはいたけれど、矯正にはかなりの時間が必要だと再確認する。無論、諦めるつもりはないけど。

「――――だけどな、遠坂」
「はいはい、いいから帰るわよ。早めに出発しないと藤村先生が騒ぎ始めるんじゃないの?」
「……確かに。それじゃあ、行くか」

 尚も食い下がろうとする士郎に言い聞かせ、何とか説得完了。暫くの逡巡の後、士郎は私の横に並び歩き始める。背が高くなってしまったために見上げなければその表情を窺う事は出来ず、随分と首が疲れるようになってしまったと思う。二ヶ月前には殆ど同じ視線の高さで会話が出来ていたというのに。
 その姿がアーチャーの面影を強めていくほどに嬉しくもあるが、それよりも辛い。

「まずは大橋に行くの?」
「ああ、少しばかり時間を潰すけど、大丈夫か?」
「何度も尋ねなくてもいいわよ、それくらい。朝は私の用事に付き合わせたんだから、最後ぐらいは士郎に付き合っても大した事無いわ。それよりも、ここで私が先に帰ったらただの冷血女じゃない」
「そうか――――遠坂は付き合いが良いな。ありがとう」

 私の言葉に余り動かさない唇を緩めて士郎が嬉しそうに笑った。その笑顔はまるで幼い子供のように素直。こんなにも優しい笑顔を浮かべれる士郎を、全てに裏切られ続ける絶望の道へと進ませてはいけないと強く思う。

「感謝の言葉はいらないから、また荷物持ちを頼むわね」
「む……それは――――」
「冗談よ、冗談。本気にとらなくていいのよ。つくづく真面目なんだから」
「すまない」
「謝るのも無しね。私を悪人にでも仕立て上げたいの?」
「いや、それはない。遠坂には色々と感謝している」
「今度は面と向かって礼を言うの? とことん昔気質な考え方よね、士郎は。もう少しウイットに富んだ会話をした方が人生楽になるわよ、きっと。このままじゃ地味よ地味」
「む……これが俺の地だから仕方が無い」
「ふふ、もしかして拗ねた?」

 橋へと向かって道を歩きながらも他愛ない話をする。こうして話していれば士郎は何処にでもいるような普通の男の子で、英霊と成ってしまうような人間には見えない。
 
「別に拗ねているわけじゃない」
「そう? ならどうして顔をしかめたままなの?」
「これが俺のいつもの顔だ。文句があるなら見るな」
「あ、ホントに拗ねちゃった? ごめんね、士郎」
「だから気にしてない。自分が仏頂面だって事は最初から解っているからな」
「そうね、士郎の動かない眉に可愛げが無いのよね。もう少し、藤村先生みたいに泣いたり嬉しがったりして感情を表に出せば良いのに」

 士郎が小さい頃から一緒にいるという藤村先生は、本当に感情表現の起伏が激しい人なのに、その藤村先生を見て育ったはずの士郎は仏頂面。プラスとマイナスで天秤が吊り合っているのだろうか。

「…………む」
「何? どうしたの? 可愛げが無いって言われたのがショック?」
「いや、それは逆に言われない方がいい。だけど、俺が藤ねえみたいになったら遠坂は耐えられるか?」
「? あ――――ごめん、この話は無かった事にして」
「だろう。流石に自分でもそれは嫌だ。藤ねえみたいなのは見ているだけが丁度良いんだ」

 少しまた笑う士郎。けれど、見ているだけが丁度良いという言葉はどちらの意味を持っているのだろうか。見ているだけで幸せになれるという事なのか、或いは、幸せそうな姿を見ているだけで十分という意味なのか。

「ねえ、士郎」
「何だ、遠坂? ――――って、橋にやっと着いたな」

 並んで歩く士郎の顔を見上げて問いかけようとしたが、士郎が不意に発した言葉に遮られる。視線を前へと戻すと、夕暮れの赤によって彩られた大橋の姿があった。河の水面と、架けられた橋と、雲を漂わせる空の全てが濃淡の違う赤によって統一された世界は、夜が直に到来する事を告げている。

「そうね。それで、士郎は何をしたいの?」

 橋の上を歩きながら尋ねる。橋の上という地形上、強い風が凪いでいるために髪が乱れないように左手で髪を抑えながらも横目に士郎を観察してみると、ただ橋の中の一点を見つめているようだった。

「ここは――――セイバーと色々あった場所なんだ」

 セイバー。金髪碧眼の騎士にして士郎の想い人。その言葉を聞いて少しだけ自分の心が揺れ動いたのを自覚する。

「……セイバーの事を後悔でもしているの?」

 今更になって落ち込んでいるのだろうか。だけれども、士郎は一度も泣き言を言わなかったから、少し経ってからでも弱音を吐いてみたほうがいいのかもしれない。勿論、弱音を吐くだけ吐いたら立ち直らせるけれど。

「まさか。言っただろう、後悔なんてきっとないって。あの気持ちは変わらないさ」
「じゃあ、どうして?」

 だけれども士郎は弱音を吐かなかった。返答するのに数瞬の時間しか費やしていない。
 私の声に応えてこちらを向いた士郎の表情に暗い影を見つける事は出来なかった。だから、確かに後悔はしていないように感じられる。

「思い出したかっただけだ。あいつの姿と、あいつの声を」

 何かが吹っ切れた様な陰鬱さを感じさせない表情で、そして声でこちらを見つめる士郎。何処か清々しい雰囲気を纏わせている。

「そう。それで士郎は思い出すだけで満足できたの?」
「ああ、ここに来ただけで十分だ。それじゃあ、帰ろうか」

 もう一度、橋の一点を見つめて頷いた後に、そのまま士郎は歩き始めた。
 少しばかりはこの場所に留まると考えていたので予想外の行動。慌ててその背中を追いかけた。

「時間ならあるから、もう少しここにいても大丈夫よ?」

 余りにも士郎があっさりとしていたので、やせ我慢でもしているのではないだろうかと思い尋ねる。

「いや、問題ない。セイバーを思い出すことは出来たし、感傷に浸るのは意味が無い」

 だけれども、士郎は本当に無理はしていないようだった。意外ではあるけれど、決着というものを本当につけているのかもしれない。アーチャーの影を引き摺り続ける私とは違って。もしもそうだとしたら、士郎の心配をするには私はまだ早いのだろう。

「……そう、それじゃあ帰ろうか」

 だから私は頷き返して、同じ歩調で同じ道を並んで進み始めた。




  *   *   *   *




 風が冷たく頬を撫でる日。
 普段浮かべる優しい笑顔にも疲労の色が混じるようになり、弥が上にも死というモノを連想させる。

「……お願いがあるんだけど、いいかな?」

 だけど、それでも温かい笑みを浮かべて切嗣さんは口を開く。

「私にですか?」

 なら、私はその言葉を誠心誠意聞き届ける必要があるだろう。

「うん。タイガちゃんにしか頼めそうに無いんだ」
「……どうしてですか?」

 苦笑に似た儚げな言葉。それを聞くだけで逃げ出したくなるけれど、それはダメ。
 絶対にダメだ。

「僕はね、多分、もう長くないんだ」

 ああ、やっぱり。私はただ納得した。
 だけど、それでもどうしようもない感情が湧き上がってくる。

「――――あ」
「その様子だと、タイガちゃんは気付いていたみたいだね」

 泣くのを堪えるために口を閉ざしていた私を見て切嗣さん。
 全て、解っているようだ。

「そんな、私は……」

 だから、それでも私は切嗣さんを元気付けようとして言葉を捜してみたけれど、何も思い浮かばない。

「ううん、自分の事は解っているから否定してくれなくても大丈夫」

 逆に私をあやすような声で返されてしまう。とても情けない。

「私……」
「君が気に止む事じゃあ無いよ。それよりも、お願い、聞いてくれるかな?」

 お願いなんて、何を私に頼むというのだろうか。

「……何を、私に?」
「僕がいなくなったら士郎は一人だ。だから、士郎の支えになって欲しい」

 優しい笑み、優しい顔のままで切嗣さん。
 最後まで誰かを気にしているんだなあ、と思ったけれど、同時に少しだけ腹が立った。

「あたりまえです……士郎は、私の弟ですから」

 誰に言われなくても、士郎は私が支えていくんだから。

「ふふ、そうか、そうだったね。ありがとうタイガちゃん」
「それだけですか?」

 頭をぽりぽりとかきながら嬉しそうに笑みを深めての切嗣さんの言葉に聞き返す。
 もっと、個人的な相談というか頼みは無いのだろうかと思ったから。

「いいや、あと一つ、お願いするよ」

 トーンを変える事無く、切嗣さんは言葉を続けてきた。
 声だけ聞いていると、まだまだ大丈夫だと信じたくなる。だけど、視覚がそれを許さない。

「あと一つ?」

 だから、やっぱり私に出来るのは話をする事だけだと再認識する。
 願わくば、切嗣さんがせめて安らかにあれるように。

「――――二人がいつまでも、ずっと仲良くしていてくれるかな」

 そう思っていたのだけれど、もう一つの頼みは似たようなモノだった。
 少し肩透かしだけれど、それは切嗣さんがやれる事をやってきたからだろうか。

「……切嗣さん、それこそあたりまえです」

 私は頷く。安心させる事ができるように。

「ははっ、僕の杞憂だったか。うん、タイガちゃんなら安心だ」
「はい、任せてください」

 朗らかに笑う切嗣さんの言葉に、もう一度強く頷く。
 だけど、本当は、こけてしまった切嗣さんの頬を見て悲しかった。

「うん、任せた。それじゃあ約束しようか。指、出してくれるかな?」

 そんな私の思いに気付いていたのか、気付いていなかったのかは知らないけれど、いきなり切嗣さんは私の手を取る。

「え、あ、はい――――って」

 そしてそのまま小指を絡め始める。
 柄にも無く頬が熱くなった。

「よし、それじゃあ、ゆーびきりげーんまん、嘘ついたら針せーんぼんのーます」

 子供のように笑っている切嗣さんは、そのまま指切りを始める。

「う、う、あ……」

 咄嗟の事に私は戸惑うだけだ。

「はい、指切った――――約束だよ、タイガちゃん」

 そして、切嗣さんは満足そうに笑った。
 これだけ調子が良さそうなのだから、もう少しは一緒にいられると思っていた。
 だけど、指切りをして、二人だけの約束をしたこの日の夜に、士郎から切嗣さんが亡くなったという電話がかかってきた。

 士郎は泣いていなかったのに――――私は泣いた。


 それから、


 それから――――



「…………切嗣さんの夢、か」

 まぶたをこすってから目を開けてみる。目に映ったのは見事なまでに衛宮家の中庭だった。どうやら、イリヤちゃんや士郎の事で色々と悩んでいたら眠りについてしまっていたようだ。
 それにしても眠っている間に見た夢が切嗣さんとの最後の会話だったなんて、悪い事が起きるような気がする。ただの直感だけど。

「イリヤちゃんまだ怒ってるのかなあ」

 まずは縁側でゴロゴロしながらも、昼間に傷つけてしまった少女の事を考えてみる。憂鬱だ、限りなく。罪悪感というやつが私の心の中で湯水の如く湧き上がってくる。はあ、私は国賊レベルの悪人のようだ。子供を泣かすのはダメだと切嗣さんも言っていたし。

「それにしてもお腹も減った……」

 昔の偉い人が、お菓子が無いならミカンを食べれば良いじゃない、とかそんな風な言葉を残していたので、それに倣って昼は置いてあるミカンを食べてみたのだけれど、流石に飽きた。ミカンは食べ過ぎると体が黄色くなるというし、余りこれ以上は食べたくない。肌が黄色くなったら学校の教え子達に更にタイガーと呼ばせる口実を与えてしまう事になるから、それは拙いのだ。

「うう……寒いなあ」

 春も過ぎようとしているこの時期だけれども、夕方になり日も暮れ始めると少しばかり肌寒くなってくる。というわけで縁側から居間へと移動して士郎の帰りを待つことにする。
 何もせずに再び居間で寝転がり、ぼけーと天井を見つめる。この家は木造だから天井には様々な木目が並んでいるが、それでも目立った染みや汚れは見えない。士郎の事だから頻繁に綺麗にしているのだろう。眼を瞑っても木目の全てを頭の中に思い浮かべる事が出来るくらいにこの家で生活してきた。これからもそうだと良いと思う。
 本当はセイバーちゃんが士郎と一緒になったら、私は実家にしりぞいて二人を生暖かく見守るつもりだったけれど予想は外れた。今、彼女は何をしているのだろうか。国に帰ったと聞いたけれど何の便りも無いので正直、予想がつかない。

「はあ…………」

 イリヤちゃんが家を飛び出ていってから、実家にイリヤちゃんが帰ったことを確認した後、それから私はずっとこの家にいる。本当は昼からは弓道部に顔を出すつもりだったのに。
 それよりも難しい問題が生じてしまったから仕方が無いけれど。本当に難問だ、士郎の事はどうすればいいのか。イリヤちゃんには何と言って謝ればいいのか。そして、私は切嗣さんとの約束を守れているのだろうか。
 寝転がったまま、左手を上げて小指を見つめてみる。生きている切嗣さんに最後に触れたのは、この左手の小指だった。だから、切嗣さんを思い出すときには自然とそこを見つめる。
 あれから何年も経って、切嗣さんの笑顔を鮮明に思い浮かべる事が難しくなってきたけれど、それでもこの癖は無くならない。恐らくは、私が死ぬまで消えないのだろうとも思う。勿論、それで良いのだけれど。

「何やってるんだ、藤ねえ?」
「――――あ、士郎、お帰りー」

 畳の上で左手を天井に向けて、指を閉じたり開いたりしていたら、いつの間にか士郎が帰ってきていた。両手には抱えきれないような荷物をぶら下げている。

「どうしたのー、その荷物?」

 確かに最近になってから、この家では五人もの人間が一緒に食卓を共にするようになったので、一回の食事に必要な買い物の量も当然、増えてきた。だけれど、それにしても士郎の抱えている荷物は多すぎる。

「いや、今日は豪勢にしようかと思ったんだ」
「どうして?」
「いや、藤ねえに昼飯作ってやれなかったからな。それにしても、今日はやけに大人しいな」

 私に問いかけに笑顔を浮かべながらも、士郎は台所へと歩いていく。顔に浮かんでいるのは優しさ。こうやって眺めていると、士郎も良い男になってきたのではなかろうかと思う。多分に色眼鏡がかかっている事も理解しているけど、それでも確実に標準以上だ。

「んー、私にだって色々とあるわけよ。今日は騒ぐのはパスねー」
「? 変な藤ねえだな。ところでイリヤは一緒じゃないのか?」

 冷蔵庫の中に買ってきた食材をいれながらも士郎が聞いてくる。なかなかに痛いところを。

「ちょっとね、怒らせちゃったみたいなのよ。だから、今日は夕飯はあっちで食べると思う。イリヤちゃん、拗ねると一日は機嫌を直してくれないし」
「また何か喧嘩でもしたのか? 藤ねえの方が大人なんだからそこを考えた方が良いぞ」

 バタンと音を立てて冷蔵庫を閉めた士郎は、今度はエプロンを身に着けながら言ってくる。最近では背も高くなってきたので、昔の膝小僧に絆創膏を貼り付けて、肌を真っ黒に焼いたまま周囲を駆け回っていた士郎の面影を見つけ出すのが難しい。月日が経つのは早い、なんて私らしく無い事を考えてみたりする。

「そうなんだけどねー、年頃の子は難しいのよ。士郎と同じで、お姉ちゃん困っちゃうな」

 小言を言われ始めたので、逆にからかってやろうとして士郎に言い返す。士郎は欠片も手のかからない子だったから、逆に反論してくるだろうと考えて。
 だけど、その言葉に士郎は動きを止めて、

「――――そうだな、昔から藤ねえにはずっと世話になってきた。ありがとう」

 優しい笑顔を浮かべて私を見つめた。それは私の記憶に有る切嗣さんの笑顔とは随分と違う笑い方なのに、根本的には似通った笑みだと漠然と思えた。少しだけ頬が熱くなる。ほんの少しだけ。

「いきなりどうしたの? お姉ちゃんが一番だって気が付いた?」
「ああ――――そうかもしれないな」

 照れ隠しでからかおうとしたのに、逆に士郎は頷き返してくる。表情は笑顔のまま。
 今までに無い士郎の反応に戸惑う。切嗣さんは女タラシの様だったから、それが影ながら士郎にも受け継がれていたのだろうか。そう言えば、無口な士郎がセイバーちゃんを落とせたのも今考えれば怪しい。普通に暮らしていながらも仲が進展しそうな要素なんてこの家には無いし、士郎にもそんな度胸は無いだろうし。

「……本当に士郎、大丈夫?」

 何事も行き過ぎれば不安になってくるもので、尋ねてみる。熱があったりしたら心配だ。

「何も問題ないさ。確かに柄じゃない言葉を言ったみたいだ、悪い」

 苦笑しながらも士郎が僅かに頭を下げる。そしてその後は背を向けて夕飯の下準備を始める。

「――――それで、藤ねえ」
「なに?」

 少しばかりびくつきながらも士郎の呼びかけに答える。士郎のほうは既に普段通りらしく、トントンと包丁で野菜を切っている音が台所から聞こえてくる。

「今日はイリヤは夕飯食べに来ないんだな?」

 手際よく、切った野菜をボールの中に入れながらも士郎。

「多分、来ないんじゃないかな。結構、傷つけちゃったし」
「ちゃんと謝っておけよ――――それじゃあ、今日は俺と藤ねえと桜の三人だけか?」
「あれ、遠坂さんは?」
「今日は疲れたから家で寝るらしい。だから来ない」

 意外だ。遠坂さんは朝には寝坊して来ない事もあったけど、夕飯には必ず顔を出していたのに。一度、一緒に食卓を囲むようになったメンバーが来ないというのは少しだけ寂しいものがある。

「へー、それじゃあ今日は二人だけねー」
「うん? 桜がいるから三人だろう?」
「ふっふっふ、弓道部は総体があるから朝から晩まで猛特訓しているのだー。だから、桜ちゃんは遅くなるから土日は来れないんだって」

 そう。六月には総体が始めるために運動系の部に在籍している人間は気合が入っている。特に野球部なんて朝練を毎日やって、更には夜遅くまで練習していたりする。弓道部は女の子も多いので危ない真似はさせられず早めに帰宅させているけど、それでも休みの日にもなれば一日練習をやったりもするのだ。

「……おい、弓道部の顧問がどうしてここにいる」
「うーん、私も顔出そうと思ってたんだけどねー。昼にイリヤちゃんと一戦やらかしちゃったから、色々あって休む事にしたの」
「適当だな、藤ねえ」
「そうねー、けど大丈夫よ。弓道部は私よりも美綴さんでもってるから」
「ああ、確かに美綴は統率力はありそうだな」  

 追求されないのは良かったけれど、納得されたのは悔しい。一応は私も顧問として役に立っていると反論するべきだろうか。いや、結局は事実だから仕方が無いか。私は弓道には詳しくないので、誰かに教える事なんてできないから、あの場所にいてもいなくても変わりは無い。
 などと考えていたら、換気扇が回り始めるのと同時に、ジュウッという野菜か何かを炒める音が台所から聞こえてきた。しばらくして香ばしい匂いが居間まで伝わってくる。相変わらず士郎の料理の腕は上達していくばかりだと、寝そべったままに思った。

「しろう、今日の晩御飯はなにー?」
「今日は――――よっと――――色々だ」

 士郎は菜箸で野菜を炒め続けながらも答える。途中で野菜をある程度炒めたからだろう、肉か何かを中華鍋の中に続けて入れる。

「色々って何さー?」
「だから色々だ。言っただろう、今日は豪勢にするって。だから待ってろ」

 その言葉が終わると同時に、再びジュワッという音が聞こえてくる。調味料を追加して料理の味を調えているのだろう。うん、香ばしい匂いが強まったので私のお腹もぐ〜と鳴り始めた。昼を食べていないから、それはもう盛大に鳴っている。
 もう言葉を発するのも疲れそうだし、士郎の料理の邪魔になるといけないので口を閉じる。寝そべっていた体を起こして、テーブルの上に突っ伏させておく。ここからなら士郎の姿をよく観察できる。
 背が低い事にかなりのコンプレックスを感じていたなんて信じられないくらいに背が高くなった。けれど、話をしてみるとやっぱり士郎で安心する。エプロンが男の子なのに妙に似合っているところとか、無口で無愛想なくせに面倒見は良いところとかが。
 てきぱきとした台所での行動は、士郎には悪いけれど、まさに主夫。嫁に欲しい逸材だ。というよりもお姉ちゃんの嫁に来い、士郎。組は継がせてあげるから。
 なんて馬鹿みたいな事を考えている間に、士郎はお玉で汁物をすくって味見し始める。手を伸ばして塩を取ろうとしている事から考えて、味が薄かったのだろう。きっと、こちらから見えない士郎の表情は渋面になっているはずだ。私とは正反対で、こと調理に関して妥協はしない性格だから。
 そんな姿の士郎を見ているうちに、今ここにいる士郎が普段通りの士郎なんだと思った。最近の士郎の調子がおかしいように思えたのは私の考えすぎらしい。

「藤ねえ、出来たのから運んでいってくれ」
「解ったー」

 お呼びがかかったので、立ち上がり台所へと侵入する。そこには言葉どおりに本当に豪勢な料理が並んでいた。少しばかり予算が心配になりそうな充実の内容だ。

「……大丈夫なの、こんなにさ?」
「ああ、良いって。ほら、それよりも早く並べろ。料理が作れないんだから、これくらいは手伝え」
「うう、ぞんざいな扱いがお姉ちゃん悲しいよう」
「解ったから早く運べ」

 中華鍋をお玉でガンガンと叩きながらも士郎が言ってくる。まあ、私としては食事が美味しければそれでいいので、これ以上は追求はしないけれど。

「並べたー。それにしても、二人だけの食事なんて久しぶりねー」
「そうだな――――よっ、これで最後だ」

 お盆にご飯と箸とお茶を載せた士郎がやって来て、食卓の上に本日の夕飯全てが揃う。何ともまあ、一般家庭の食事とは信じられない様なボリュームと彩り。よくも、ここまで調理スキルを磨き上げたものだ。

「よし、それじゃあ食べるか」
「そうね。それじゃあ、いただきまーす」

 昼を抜いているせいもあってか、手を合わせた瞬間に早速眼に映った料理を食べてみる。パクリと口の中に入れた瞬間に肉汁がじゅわーと広がる味はまさに絶品。もう、噛んでは飲み込み、飲み込んでは箸で取り、箸で取っては口に入れと、素晴らしい無限ループに陥ってしまう。一個、二個、三個、四個、五個…………凄い一杯という風な感じでもぐもぐと。やっぱり美味しいな。
 だけど、そこで気が付いた。私が食べている以外に料理が減っていない事に。

「士郎、食べないの?」

 とても美味しいのに箸を進めようとしない士郎に向かって尋ねてみる。

「いや、俺も食べてはいるよ」

 しかし、士郎はゆっくりと箸を動かして眼前の料理をちまちまと食べるだけ。ううん、私が食べるスピードが速すぎたのだろうか。
 まあ、悩むのは柄ではないし、料理も美味しいので食事を再開すると決める。
 目の前にある料理を右から左へと全部口の中に入れていたのだけれど、そこでふと違和感を覚える。というよりも、誰かに見られているような感覚がするので、顔を上げてみる。
 そこには、

「何してるの、士郎? 私の顔なんて見て」
「いや、本当に美味しそうだなと思ってさ。料理を作った側から見れば嬉しい限りだ」

 柔らかく笑う我が弟分の姿があった。しかも更には、私好みというか切嗣さんに似た笑顔を浮かべているので不覚にもお肉を喉に詰まらせかける。いや、訂正する。喉に詰まった。

「――――っ!」

 呼吸不可能になってしまいコップを探すけれど見当たらない。次第に目にじんわりと涙が浮かび上がってくる、酸素は必要だと痛感する。

「何やってんだ、ホラ」
「――んくはぁ、生き返ったぁ」

 手をばたつかせていたら、士郎がお茶の入った茶碗を渡してくれたので九死に一生を得る。私立校英語教師肉を喉に詰まらせて死亡、なんて明日の朝刊一面を飾ったら冗談にもならないから本当に助かった。
 お姉ちゃん嬉しい、なんて思っていたが、よく考えてみると士郎が変なことを言うのが悪いんだから、差し引き零にしておく。むしろ士郎が急にあんな風に笑わなければ良かったのだ。

「藤ねえは変わらないな」

 そんな私の思考に気付く事無く楽しそうに笑って士郎。人が死にかけていたのに笑うなんて何事かと、普通なら問い詰めてやるところだけれど、それは出来なかった。何故なら今までに見たことが無いほど温かさの溢れている士郎の笑みに目を奪われたから。だけど、どこでだろうか、私はこの笑い方を知っている、見たことがある気がする。
 綺麗なのに引っかかる。

「士郎、どうかしてるんじゃないの? 変だよ、今日はどこかが。口ではよく言えないけど」
「大丈夫だって。何も悪いところは無い」
「本当?」
「ああ、本当だ。自分の事は自分が一番解っている」

 尋ねてみても不審な様子は見受けられない。だけれど、何かが噛み合っていないような気がする。夕飯を食べながらも、何がおかしいのかを探してみたけれど結局、見つける事は出来なかった。
 八割程度の料理は私が片付ける事で二人は豪華な食事の完食に成功してしまったのだ。いつの間にか。

「よし、それじゃあ俺は皿洗ってくる」
「そっかー、私はどうしようかな」

 皿を洗うのを手伝うという選択肢は無い。何故なら私が手伝うと悲しい事に士郎の邪魔になってしまうからだ。三人寄れば文殊の知恵なんて言葉は嘘。戦力外通告を受けた人間は邪魔でしかないのだ。
 だから、私は暇で何もすることが無い。このまま帰ってしまってイリヤちゃんに謝ろうか。

「あ、藤ねえ――――」

 私が帰ろうと思って立ち上がろうとした寸前に、首だけ振り向かせて士郎が声をかけてきた。

「なにー?」
「――――話したい事があるから、道場で待っててくれないか?」

 尋ね返した私に肩の力の抜けた声で士郎が続けた。簡単な話ならこの場所で十分な筈なのに何故道場なのだろうか。そもそも士郎は切嗣さんが亡くなってから、私を道場には近づけようとしなかったのに。

「待つのはいいけど、どうして道場なの?」
「真面目な話があるんだ」

 首だけ振り返っていた士郎が、皿を洗うのを止めて体ごと振り返って答える。これでも長年のあいだ士郎と一緒に過ごしてきた私だから、どんな時でも士郎が何を考えているのか漠然となら理解できる自信があった。
 けれど、今、目の前にいる士郎が何を考えているのかが解らない。話というのが良い事なのか、悪い事なのか、何でもない事なのか、それさえも解らない。こんな事は初めてだ。無愛想なのに何を考えているのかが読みやすいのが士郎の特徴だったはずなのに。
 
「――――うん、解った」

 だけど、話が何であっても相談に乗ってあげるのがお姉ちゃんだから、頷いて道場へと向かう。

「直ぐに終わらせてそっちに行くから」

 普段通りの声で、士郎がそう告げたのが印象的だった。