グ〜と泣き喚く私のお腹は、至急栄養の摂取が必要な状態なのだけどそれは出来ない。何か食べなければとても危険な事になりそうだけど不可能。何故ならば――――この家には料理を作れる人間がいないからダアッ!

「――うぅ、お腹すいたよう」

 心の中でビシィと人差し指立てて決めポーズを取ってみても現状に変更は無い。逆に寂しくなるだけなので逆効果でしかない。あんまりにも辛いので畳の上を転がりまわる事にする。あ、少し落ち着くかもしれない、ひんやりしてるから。
 昼時になったので、いつもの様にイリヤちゃんと一緒に士郎の愛弟料理を食べに来た私達なのだが、何故かいつもは『仕方が無いな』なんて言いながらもご飯を作ってくれる士郎が家にいなかった。ゆゆしきじたいだ、これは。お姉ちゃんを餓死させるつもりなのだろうか? はっ――反抗期!? ……なんて、そんな事があるわけがないか。士郎は難しいけれど本当に良い子だから。その難しさが最近は顕著に現れてきているようで嫌なのだけれど。セイバーちゃんがイギリスに帰った日から、今日に至るまでずっと。
 って、転がりながら考えるのは割に合わないので、考えるのやめた。

「タイガは何か料理は作れないの?」

 横から居間でゴロゴロと転がりまわる私を見下しながらイリヤちゃんが言ってくる。最初の頃は可愛い子だな、と思う余裕もあったのだけど、最近では悪魔っ子であるという事実に気付いてきた。イリヤちゃんはお爺様が猫かわいがりしているせいで、組のみんなも続々と虜になってきているのだけれど、誰もまだその本性に気付いている様子は無い。いつしか組が乗っ取られないか心配だ。すごく。嫉妬とかじゃなくて。

「無理だよぅ。私、料理だけは極端に相性が悪いんだからー」
「まあ、タイガに聞いたのが間違いだったわね」

 答える私に、ハッと鼻で笑いながらも悪魔ちびっ子が笑う。邪悪だ、とても邪悪だ。時々、遠坂さんが士郎で遊んでいる時に黒い尻尾が背中で揺れている幻覚を見る事があるけれど、これはそれ以上だ。真っ黒な蝙蝠の羽とか口の端から尖った犬歯が伸びている様な気がする。その姿はまさに悪戯プチデビル。あ、だけどプチはpetitでフランス語だから、英語教師である私はリトルデビルと言わなければならないのだった。不覚。

「それじゃあイリヤちゃんはどうなのさ? 人を非難しておいて自分は出来ないなんて横暴だぞー」
「私はいいのよ。問題なのは二十五にもなって士郎に食事を作ってもらっているタイガなんだから」
「む、そんな事言って。悲しいなー、前は凄くいい子だったのに」
「あれは様子を見ていたからよ。今は相手の大まかな性格が把握できたから、相手によって応対しているだけ。ライガだって、タイガにはきつめに言っても大丈夫だって言ってくれたんだから」

 更に残念な事にお爺様は既に陥落済みのようだ。うう、私の居場所がどんどん奪われていく。今では安心していられる数少ない存在である士郎も何処かに行っているし寂しい。お姉ちゃんは切ないぞー、士郎。

「うぅ、いろいろ痛い……」
「タイガは最近緩みすぎよ。本当にしっかりしてよね」

 大げさにリアクションをしてみたのだが、怒りを鎮めるどころか逆にイリヤちゃんは更に口調を強めて言ってくる。場を和ませるのに失敗したようだ。二度目の不覚。年かなぁ? 
 ――――いや、それは無いな。いつもならばイリヤちゃんはこれくらいでは怒らない。何らかの原因で不機嫌になっているという事だろう。それなら久しぶりに真面目にならないといけないようだ。
 転がるのを止めて起き上がり、畳の上に足を崩して座りなおす。

「よいしょっ――――最近どうしたの? 何か嫌な事でもあったの?」

 なるべく穏やかな声で尋ねてみる。イリヤちゃんは天真爛漫で悪戯好きだが、同じくらいにプライドが高く、人に弱みを見せるのを良しとしない。だから、彼女に不快感を与えないように注意しなければならない。仮に自分が侮られているとでも感じれば即座に会話を打ち切ってしまうから。
 例外として士郎にだけは本当の意味で心を開いているので、士郎がいたなら、それとなくイリヤちゃんが悩んでいる事を士郎に伝えれば大抵の事は解決してきた。だけど、直感だが今回はそうは簡単にいかない気がする。私がどうにかしないといけないだろう。時々、私の頭を駆け巡る第六感というか、場の匂いがそう主張しているのだ。
 そして、それは恐らく間違いない。何故かは知らないが、この家は二ヶ月前からどんどん根っこの部分がおかしくなってきているのだ。理由は知らない。だけど、切嗣さんがいたこの家は誰よりも私が見続けてきた自信がある。

「何も無いわよ。タイガがいつまでもダラダラしているのが嫌なだけ」

 少し突き放すような声でイリヤちゃん。細心の注意を払ったつもりだったが失敗してしまったらしい。だけど諦めるわけにはいかない。私は切嗣さんに士郎を任されたのだから、士郎を見守るのと同時に、士郎の家族全員のお姉ちゃんにならなければいけないのだ。
 桜ちゃん、遠坂さん、イリヤちゃんは食卓を共にする士郎の家族で、私の妹分である事は間違いない。家族が悩んでいるのなら助けになるのが家族の人情。

「うーん、イリヤちゃんは今の生活は嫌い?」

 どうも守りは鉄壁であるようなので、搦め手で攻めてみる。つまりは会話の流れを一気に別方向に変えての、ただの当てずっぽう。相手が言葉に反応して、表情の変化が読めればそれでいいだけ。

「何を言ってるの? 別に今の生活は嫌いじゃないわ」

 返答によると、士郎の家から引き離した事から私に怒りを感じているのでは無いらしい。彼女が主に執着するものは一つしかなく、士郎だけ。なら、何を不安に思っているのだろうか。

「……もしかして、士郎の事?」

 更なる当てずっぽうを使用してみる。

「気付いていたのにその調子なの、タイガ? 見損なった。最近の士郎は絶対におかしいじゃない」

 おお、本当は何か解らなかったのだが、この返答でイリヤちゃんが何にヤキモキしているのかが判明した。最近の士郎について何か考えるところがあったようだ。それさえ解れば話を続けれる。

「そうねー、顔で笑って心で焦って、って感じかな?」
「解ってるのに、どうして何もしないの? 一歩離れたところから私達を見守っているって言いたげな士郎の最近の視線、本当に大っ嫌い」

 一旦、話し始めれば心の中で溜め込んでいたのだろう、続々と上がってくる愚痴。だけど、その内容を聞くにつれてイリヤちゃんは本当に士郎の機微に聡いんだなと思う。私も最近になって気付いた事を同じく察していたから。気付いているのは私だけだと思っていたからこそ黙っていたのに。
 言葉は悪いがイリヤちゃんと同時期にしか弟分の変化を確認できなかったあたりから考えて、長年の士郎のお姉ちゃん経験も耄碌したのだろうか? 或いはイリヤちゃんの想いがそれだけすごいのか。

「うーん、士郎には昔から自分の事を疎かにする傾向があったんだけど、特に最近は行き過ぎてるのも確かなのよ。だけどね、原因が解らないのよー。多分、二ヶ月くらい前からだと思うんだけどイリヤちゃんは知らない?」

 会話をつなげるために、思いつく限りの士郎が変わった原因に対する推測材料を言ってみる。別に何らかの収穫があるなんて思ってはいなかったのだけど、

「……さあ? 私は知らないわよ、タイガ」

 不味い事にビンゴだった様だ。会話のトーンを一気に落としての返答はあからさまに怪しい。十中八九、イリヤちゃんは士郎の内部が変わった理由を知っている。悔しいが私の知らない何かを。
 そもそもイリヤちゃんは子供にしては頭が回りすぎる特性を持っているために、会話の流れから彼女の思考を判断するなんて芸当は、二ヶ月程度しか一緒に暮らしていない私ではまず無理。だけど、そんな私でも彼女の考えがおぼろげにだけど解る時がある。それは彼女が士郎の事を考えている時だ。士郎に関係した事柄の場合においてのみ、彼女の冷静な思考の壁と言うかそんなものが失われるために、直感で推測できる。
 だから再び心の中で、イリヤちゃんは私の知らない何かの情報を所持していると断定する。

「士郎が変わった原因を知っているのなら、教えてくれない?」
「――――私は何も知らないわよ」

 優しい声で尋ねてみたが失敗。たぶん、士郎のプライベートな何かに関係でもしているのだろう。或いは、二人だけで約束をしているとかが可能性として高いだろうか。
 だけど、口を割らないのなら勝手にこちらで読み取るまでだ。伊達に教師なんてやってないし、売れ残りと父に言われるような年齢にはなっていない。士郎が関係しているイリヤちゃんの場合は表情の変化からある程度の感情は拾い上げれるし、そこからなら有益か無益かは関係なく、情報を二つ三つは組み立てれるはずだから。
 ひどい事をやろうとしているようで心が少し痛むが、それでも士郎の不調を取り除かないと事態は好転しないから仕方がない。士郎、イリヤちゃん、ひいては桜ちゃんや、微妙なところだが遠坂さん が安心して、私も含めたみんなで笑いあうためには避けては通れない道であるはずだ。うん、きっと。
 年長者は嫌われるのも仕事だと、昔、誰かが言っていたのを聞いた気がする。……誰だったろうか? ああ、その言葉を私に言ったのは切嗣さんだ。
 士郎と出会って直ぐの頃に、お互いが切嗣さんを取り合っていた私と士郎はものすごく仲が悪かった。まあ、私は初恋だったし、士郎は命の恩人だったしと切嗣さんは誰かに譲れるような相手では無かったからだ。だけど、私達がいがみ合う時には決まって切嗣さんが私と士郎の両方に嫌われるような事をし始めた。曰く、二人は笑っていて欲しい。
 自分が嫌われてまで私と士郎の仲を取り持とうとする切嗣さんの姿に半分呆れて、半分申し訳ない気持ちになった二人はその日から一切の喧嘩を止めて仲良くなったのだった。今の士郎がその事を覚えているかは解らないけれど。小さかったから。
 って、違う。情報の入手が先決だ。

「セイバーちゃんが帰ったことかな?」

 イリヤちゃんはむすっと黙り込んで口を開かない。
 表情に変化は見られなかった。つまりは士郎がおかしい事の直接的な原因はセイバーちゃんがイギリスに帰った事ではないらしい。傍から見て、二人はいわゆる恋人の関係だと思っていたからそれが可能性としては一番高いと思っていたのだけれど違うという事か。
 ああ、それにしても頭を使うのはしんどいなあ。

「――――じゃあ、遠坂さん?」
「何言ってるのよ、リンは関係ないわ」

 そうか、遠坂さんは関係ないのか。と、なると私かイリヤちゃんか桜ちゃんが士郎に対する影響力が大きいはずだから、その三人の中の――――うん? 今、イリヤちゃんは何と言っただろうか。
 リンは関係ない・・・・・・・、記憶が確かならそう言ったはずだ。だけど、セイバーちゃんについて尋ねた時には何も言い返してはこなかった。この反応が普通なら、セイバーちゃんの時にも同じように答えるはずだ。だけど、イリヤちゃんは何も答えなかった。
 感情を顔に出さないように口を塞いでいたのだとすれば、何故セイバーちゃんについて尋ねたときだけそうしなければいけなかったのか。口に出すと動揺が悟られるからではないだろうか。
 単なる言葉のあやであった可能性も高い。だけど、今のところはこの程度の糸口しか私では見つけられないのだから、どちらにしても尋ねてみるしかない。

「そっか、遠坂さんは関係ないんだ。じゃあ、やっぱりセイバーちゃんなんだね」
「――――っ!」

 息を呑み、目を見開いて私を見つめたイリヤちゃんの可愛らしい顔は驚愕に染まっている。
 やっぱり最初の質問は黙り込む事で隠していたということらしい。この場合は高すぎる彼女の語学能力に感謝しないといけない。仮に片言の日本語だったなら絶対に気付けなかったはずだから。

「――教えてくれない? 私も士郎の事は心配なの」

 あと少しで、私も力になれそうだ。
 そう思ったのだけど、目の前のイリヤちゃんの瞳には大粒の涙が溢れ始め、

「知らないっ! 人の心を勝手に調べようとするタイガなんて嫌い!」

 泣き出し、背を向けて一目散に駆けて行った。勝気でもある彼女が涙するなんて余程の事を私はしてしまったという事だろう。

「……うわぁ、やりすぎちゃったか――」

 たぶん、組にある自分の部屋へと向かったのだろうけど、今回は色々と拙い事をしてしまった。まずは結局、士郎が何を求めているのかが全く解らなかった。セイバーちゃんが関係していると絞れはしたけれど、本当にただそれだけ。手に入ったのは砂粒程度の価値しかない情報だ。
 それにイリヤちゃんを傷つけてしまった。それはそうだと思う。誰だって隠そうとしている事を強引に読み取られようとすれば良い気持ちにはならない。教職者としても家族としても、さっきの私の行動は最低だ。士郎の事が心配だと言う気持ちは決して免罪符になどならないのだから。
 家に帰ったら真っ先に謝ろうと決める。

「……いろいろホントに痛いなぁ」

 切嗣さんごめんなさい。あなたの大切な士郎の家族を私は傷つけてしまいました。きっと切嗣さんならこの状況をどうにか出来るのでしょうけど、私は未だに力不足のようです。




  *   *   *   *




「ちょっと、その異常な集中力は何なの?」
「む――――こういった事には慣れているだけだ」
「嘘。ブレイクしてから最後まで落とし続けるなんて本当に高校生? ハスラーにでもなる気?」
「まぐれだ、まぐれ。俺はビリヤードなんて余りしないからな」

 遠坂の疑うような言葉にやや呆れながらも答える。昼食をとってからやる事は買い物だけのはずだったのだが、何故かその買い物が全て終わってから、こうして新都の片隅に有るビリヤード場にいる。
 始まりは荷物を両腕に俺のみが抱えて、町へと帰る途中で他愛ない話をしていた時。取留めの無い会話をしていたら、いつの間にか遠坂がこちらで時々ビリヤードをしているという話になった。昔の遠坂がお嬢様であると信じていた頃ならばともかく、今となっては活動的な遠坂なんて別段驚くようなものでもないので、話半分で俺が遠坂の適当にその言葉を聞いていた。しかしその俺の態度が癇に障ったらしく挑戦と受け止められてしまった。
 曰く、「あら衛宮君、私の戦績を聞いても眉一つ動かさないなんて余裕の表れかしら?」 
 どうも、美綴との十番勝負で圧勝したとかそういった話のクライマックスで何の返答もしなかったのが不味かったらしい。そのまま訳も解らず連れて来られて勝負するはめになってしまった。
 しかし、遠坂としては俺を叩き伏せようとしたのだろうが、それは甘かった。衛宮士郎は、目標を狙うという事に関しては誰にも遅れを取らない自信がある。基本的な動作は違えども、極限の集中が勝敗を分けるという一点で弓道とビリヤードは等しい。それならば俺が負ける道理などは無い。
 というわけで現在は俺の四戦全勝。四戦目などはブレイクから一度も狙い玉を外す事無くマスワリまで決めてしまったものだから遠坂は理不尽だと怒っているわけだ。

「実は隠れてやってるんじゃないの? コンビネーションなんて素人が普通に出来るわけないじゃない」
「それは誤解だ。角度を考えればあとは突けばいいだけだから難しいことじゃない」

 それにしても遠坂が攻撃的だとは知っていたが少し甘く見ていた。予想以上に突っ掛かってくる。
 バイトの先輩に連れられて何度かはプールバーに行った事があった俺は、ビリヤードの基本的な動作とルールなら覚えている。そして、それらの基本的な動作が解る以上は単純に玉をポケットへと落としていけばいいだけ。動かない的であるならば、弓だろうがビリヤードだろうが一緒だ。切嗣が死んでから続けてきた魔術の修練とは比較にならないほど簡単。命の危険性が無いこれらの動作は外す理由が見当たらない。

「……納得がいかないわ。もう一回勝負よ」
「いいけど、エイトボールとナインボールのどっちで勝負するんだ? それが嫌なら隠し玉でもいいぞ」
「う――ナインボールで勝負よ」

 考えたな遠坂、と少し感心する。エイトボールはお互いに狙い玉が異なるので実力に差があった場合には不利。だからナインボールで俺が凡ミスするのを待つ作戦なのだろう。
 玉の形を揃えながらも相手の作戦を見抜いたりしている俺は結構乗り気なのだろうか。

「ほら、五戦目だ」
「吠え面かかせてやるから、そこで座って待ってなさい」

 台の近くに設置されているテーブルに座り直した俺を睨み付けるように見据えながらも遠坂。そしてそのまま意識を集中させてブレイクを始める。大抵、一通りの事柄は一般レベルよりは遥かに上手に行える遠坂のフォームはビリヤードにおいてもやはり無駄が無い。
 外見とは違って力があるらしく彼女のブレイクショットは派手な音を立てながらもセットされた玉を散らした。二番、四番、七番の三つがポケットに入っていく。かなり良いショットだ。九つしかない玉の中で三つのブレイクイン。

「ふふん、見た?」
「ああ。だけどそれでも勝たなければ意味は無いぞ」

 勝ち誇ったようにこちらを見てくる遠坂に言い返す。なるべくなら機嫌を損ねたくないので、ここらで遠坂に勝って欲しいとも思っている。ただ、わざと負ければ逆に遠坂が激怒する事は確実なので手は抜けないのが難しいところだ。
 などと、考えていたら遠坂は続けざまに玉を落としていく。一番、三番と調子良くポケットしていく様子からは中々に肩の力も適度に抜けているらしい。
 これなら遠坂が勝ちそう――――あ、外した。

「……何よ」
「いや、惜しかったと思うぞ」

 ジト目で睨んでくる遠坂を見ていると少し苦笑してしまう。だが、勝負は勝負なのでキューを持って立ち上がり交代する。残る玉は、五番、六番、八番、九番の合計四つ。ばらけて広がっているために落とすのは難しくない。初心者でも十回やれば一、二回は攻略できそうな配置だ。

「……セーフティよ、これは」

 悔しそうに言ってくる遠坂。相手が的玉をポケットできないように、手玉を的球が狙い難い位置に敢えて止まらせるのがセーフティと呼ばれるショットだが、残念ながら遠坂のショットはセーフティとは程遠い。何といっても手玉である白玉の近くには何も無いのだから。

「遠坂――――」
「どうしたの?」

 呼びかけると、未だこちらを睨んだまま声を返してくる遠坂。普段の復讐という事で少しからかってみようと思う。

「――残念だったな」

 言葉を発すると同時に手玉を突く。綺麗に中心を捉えたショットは僅かにも曲がる事無く玉を一直線に進ませ、そして狙い通りに五番ボールの側面に衝突して、そのままポケット。ガゴンッという玉のポケットから落ちた音を聞いた後に振り返って遠坂を見てみる。
 近くの自販機で買ったミルクティーをストローで飲みながらも、凄い目つきで遠坂はこちらを見つめていた。少し、自分が早まった行動を取ったような危機感を覚えたが忘れる事にする。
 再び次の玉に狙いをつけて集中する。ふっと短く息を吐いてから玉を突く。狙いは外れる事無く再び玉をポケットへと落とした。これで残ったのは二つだけ。

「――――衛宮君は上手ね」

 調子に乗ってしまったのか、蜂の巣を突っついてしまったのか、透き通るような綺麗な笑顔を浮かべて遠坂が話しかけてくる。過去に観測した事の無い美しさから考えて、普段からかっている俺に皮肉を言われたのが余程、頭にきたのだろう。
 今の遠坂の状態を言葉で表すとすれば、怒髪天を衝くといったところだろうか。うん? 彼女の黒髪が蠢いているような気がする。遠坂、魔力が漏れてないか?

「……遠坂、もしかして怒ってるのか?」
「まさか。ハスラー顔負けの衛宮君の姿が見られて嬉しい限りよ」

 どうも引き返せない一線まで到達させてしまったようだ。帰り道辺りで危険かもしれない。ここは取り敢えず謝るのが吉か。

「む、遠坂、俺が悪かっ――――」
「言い訳はいいのよ衛宮君。それよりも後がつかえているから早くしてくれない?」

 作戦失敗。言葉による謝罪は不可能。更に不機嫌にさせてしまうのは明らかに拙い。どうするべきか…………ああ、もうどうでもいいか。さっさと終わらせてしまおう。残り一回くらいはできるはずだから、その時に遠坂が勝ってくれればきっと機嫌は直るはずだ。
 そうと決まれば早速、八番ボールに意識を集中させる。位置的にクッションの近くにあるので勢いのあるショットだとポケットさせる事は出来ない。それならば力は最小限でコントロールだけを重視して打てば確実に入れる事が――――

「――あら、蚊がいるわね」

 いきなりズダアンッ! という地面の揺れる様な音がビリヤード場に響く。音の発生源へと視線を向けてみれば、そこには椅子から立ち上がり凡百の男ならばそれだけで虜にしてしまうような笑みを浮かべて微笑む学園のアイドルこと遠坂嬢の姿があった。片脚だけを前に出している事から考えて、遠坂が強く足を床に叩きつけることで先ほどの音を発生させたらしい。
 他の客もこちらを見ているので、少し肩身が狭い。何を考えているのだろうか。

「おい、遠坂。騒ぐな、恥ずかしいから」
「ごめんなさい、蚊がいたのよ。それよりも衛宮君、ミスショットね」
「? あ……」

 嗜めようとしたら、気にした様子も無く遠坂は台を指差して言った。音がした拍子に手玉をついてしまったらしい。確かにファールはファールだが故意に音を出して驚かすなんて、こいつは子供だろうか。

「……正気か? というよりも見損なったぞ、遠坂」
「何とでも言ってちょうだい。負け続けるのは我慢できないのよ」

 ぷいと顔を横に向けて遠坂。後腐れの無い素晴らしい開き直り方にいっそ惚れ惚れする。負けず嫌いなんて生易しいものじゃない。これは人生における情熱の何割かを勝利へと捧げているな。
 色々と言ってやりたいが、ここまでくれば矯正は一日では不可能だろうから、諦めておく。何を言っても逆ギレされそうな予感がするし。半年間での遠坂真人間化計画を心の中で作成する。

「社会に出てから苦労するぞ、遠坂」
「うるさい。さっさと変わってくれない?」

 ずいと台と俺の間に割って入って遠坂。そのまま俺を追い出した遠坂はフリーボールから楽々と八番をポケット。次いで、九番に狙いをつけて、こちらを見つめる。

「これで私の全敗は無くなったわ」

 フフフと清楚さの欠片も無い顔で俺の方を見つめながら遠坂。唇の歪み方とかがイイ感じに邪悪だ。心の中に遠坂は死ぬほど負けず嫌いであるという事実を刻み付ける。まあ、解ってはいたんだが。

「見てなさい。これがウイニ――――あ……」

 自信満々だった遠坂だったが、余所見をして俺に勝ち誇っているいる間に手元が狂い、キューの先端が手玉に当たってしまう。コロコロと白玉は見当違いの方向へと転がっていった。それは遠坂の手から離れていった勝利を暗に表しているようにも見える。

「悪い。これがウイニングショットだ」

 固まる遠坂を無視してフリーボールを始め、無事に九番をポケットする。俺はこの時、遠坂はここぞという大事な場面で簡単なミスをするという事実を再確認しながら思った。
 ――――合掌。



  *   *   *   *




「いい加減、機嫌を直せ。見苦しいぞ」
「はいはい、勝ったからって色々と言わないでね」

 結局、一時間に及ぶビリヤード対決は俺の六戦全勝で幕を閉じてしまった。学校での成績や頭の回転、更には魔術の才能と思い浮かぶ殆どの面で俺は負けているのだから、一個ぐらいは勝てるものがあっても良いじゃないかと思うのだが、遠坂はそうではなかった様だ。
 完敗が決定してから拗ね続けている。というよりも、信じられないレベルの負けず嫌いだ。

「……頑固だな」
「何よ、いつも頑固なのは士郎じゃない」
「む、そこまで頭は固くない。それこそ、いつまでも負けを引きずっている人間よりはな」

 遠坂は悪い意味ではなく、良く喋る。そのため次第にこちらも返答する事が多くなり、ひいては口を開く事が多くなる。いつの間にか基本的に無口な俺が軽口の応酬を出来るようになっていたのだから、その親しみ易さというのが解る。

「士郎もなかなか言うようになったわね」

 と、俺と同じ事を考えていたのだろう遠坂が感慨深げに言ってきた。いつの間にかジト目が普通のネコ目に戻っているので、何故か少しばかり機嫌が直っているようだ。

「当たり前だ。いつもからかわれていれば俺でも慣れる」

 良くは解らないが、こういった場面では話を合わせるに限る。適当に頷いておく。戻った機嫌を蒸し返して悪くする事も無い。

「そう――――話は変わるけど士郎、今日は結構楽しかったと思わない?」

 ずんずんと俺の前を歩いていた遠坂は体ごと振り返って聞いてくる。普段の彼女とは異なる柔らかい笑顔を浮かべて。それにしても楽しかったか? か。思い出してみれば、今までに無いほどに笑ったような気がする。恐らくはセイバーがいなくなってからは一番。
 だから問いかけに正直に答える。

「まあ、確かに楽しかったかもな」
「かもなって、回りくどい事言うわね。楽しかったんでしょう?」

 だが、俺の答えが気に入らなかったのか僅かに眉根を寄せて遠坂が繰り返して聞いてくる。特に遠坂を苛立たせる言葉ではなかったと思うのだけれど。仕方が無いのでもう一度口を開く。

「楽しかったと思う」
「何よ、その思うって言葉。楽しかったのか楽しくなかったのかはっきりしなさいよ」

 言い直した俺に、うがーと吼えるように遠坂が詰め寄ってきた。それと同時に彼女の両の瞳から放たれる圧力が次第に増していく。不味い、また何かを言って怒らせてしまったらしい。拗ねられると困るので彼女の要望通りに答えておこう。

「ああ、楽しかったよ」

『――――――――――――――――』

「何か投げやりな感じもするけど――――まあ、今回はこれでいいか。私も楽しかったわよ、士郎」

 僅かばかりの逡巡の後に、にっこりと遠坂が笑って告げる。学校での態度と比べて、どうにもまあ無防備な笑顔だと思う。

「それじゃあ帰ろっか。この時間にバスはあるか解る?」
「ああ、確か十五分もすれば次のが来るぞ」
「十五分か。 まあ妥当な時間ね――――って、士郎逃げなさい」

 俺よりも僅かばかり先頭を歩きながら路地の角を曲がろうとした遠坂が、表情を青ざめさせながら呟いた。遠坂が青ざめるなんて、余程悪い事でも起きたのだろうか。

「逃げろ? どういう事だ?」

 心配になったので尋ねてみたのだが、

「見つかったのよ、三人娘に。士郎は知らないだろうけど、私の学園での知り合い」

 曲がり角で立ち止まったまま、余所行きの笑顔を浮かべて一方を見つめながらも俺に向けて説明を続ける遠坂。建物が障害となって見ることは出来ないが、彼女の視線の先には誰かがいるようだ。それも遠坂の知り合いが。

「……それって同級って事か?」
「そうよ。一人は無害でいい子だけど残り二人が問題なのよ。私と士郎が一緒にいたのがばれたら面白半分でゴシップ全学年に流されるわよ。だから荷物持って公園で待機してなさい」
「む、解った」

 彼方へと浮かべた笑顔を欠片も曇らせる事無く俺に指示する遠坂に感心しつつも頷き、急いでその場を離れる。学園のアイドルである遠坂と俺が一緒にいたのがばれたらどうなるのかは想像に難くない。というよりも、遠坂にあらぬ噂が立つのは避けたいので全力で退避する。
 取り敢えず荷物を抱えたまま一番近くの曲がり角を右折して姿を隠し、そこから更に迂回しながらも約束の公園へと向かう。
 そのまま、新都の中央に存在する公園までは結局、誰にも見つかる事無く無事に到着する事が出来た。

『―――――――――――』

「ふう、ここで大丈夫か」

 近くに設置してあったベンチに腰掛けて、両手に持っていた荷物を同じくベンチの上に置く。そこまで重労働だったという訳ではないが、重石が無くなれば幾分楽になった。
 結局、最初から最後まで遠坂の荷物を持ちっぱなしだった。いくら俺を荷物持ちとして徴収したからといっても普通は買い物した本人だって手伝う。せめて、かさ張る軽い物ぐらいは持って欲しかったと思ったりもするが、それをしないのが何ともまあ、遠坂らしいような気がした。
 何より、俺自身が不快感を覚えていないのだから、結局のところそれで良かったのだろう。

『―――――――――――愛し――る』

「……くっ――――何だ、頭痛か?」

 何の前触れも無く、不意に周囲の音が聞こえなくなるのと同時に目の前が暗くなっていく。何か胸に引っかかるモノが浮かび上がってきているような感覚。喉に魚の骨が詰まった様な不快感が湧き上がってくる。

『――――あ――――した』

「う、あ――――」

 どろどろとした、俺の心を掻き乱すモノが一定の間隔で俺の頭の中を浮き沈みする。その全体像を見せる事無く、ただ先端だけを俺の意識下に潜り込ませ、そしてそのまま知覚できない場所へと還っていく。純粋に気持ちが悪い。

『シロ―――――貴方―――している』

 更に不快感の押し寄せる感覚が短くなっていく。そして、その不快感の原因は俺に何かを訴えかけようとしてくる。だが、何を俺に求めているのかが解らない。俺に何を思い出させようとしているのかが不明。
 力が抜けていく体を支えるために歯を食いしばり脚に力を入れて、立ち上がり顔を上げる。そして俺は驚愕した。何故ならばこの場所は、俺の視線の先にあったものは――――

『――――ああ、安心した』

「何で――――」

 ただの閑散とした公園。だが、その公園の持つ意味は俺にとっては重い。
 先ほどまでの俺からすれば遠坂と落ち合うための待合場所に過ぎないが、今の俺にとってはこの場所は切嗣に救われた場所。俺が正義の味方を目指した切っ掛けとなる最初の地。
 頭の中を激情が駆け巡る。ここは俺を縛る聖域であり、それ故に他の全てを超えても忘れてはならない場所の一つであるはず。それにも関わらず、いつの間に俺はこの場所に平然と来るようになってしまったのだろうか。



――――衛宮士郎は何故この場所で何の感慨を抱くことが無くなってしまったのか!



 鈍器で頭を強かに打ち据えられた様な後悔の念が湧き上がってくる。この世を去った切嗣と最後に交わした約束を、安穏と暮らしてきた俺は徐々に記憶から忘れさせてきたという事実に気付き、奥歯がぎちぎちと鳴る程に強く歯噛みする。
 頭の中で思い浮かぶのは安心したような切嗣の顔――――悔やんでも悔やみきれない。最悪だ、俺は切嗣の事を確実に忘れ始めている。何とも脆弱であり、何とも軽薄。
 一から自らの性根を叩き直さなければならない事を確認しながら視線を彼方へと向ける。この森を直視し続けるには俺は堕落しすぎために、罪悪感からの逃避。せめて目を森から、過去に俺が経験した死の世界を連想させる場所から外せば、落ち着きもするだろうという甘い考え。
 だがしかし、逃避するために目を向けた場所は更に俺の精神を打ち据えた。昼の黄金と、夜の黒とが入り乱れ生まれた、境界たる夕暮れの紫が心に侵入してくる。

『シロウ――――貴方を、愛している』

「――――っ」

 意思の篭った後悔の無い別離の言葉が、色あせるはずも無かった俺の誓約が何故か遠くに聞こえた。
 既に時は夕暮れとなり、日は公園の木々に隠れて沈んでいく。昼と夜とが交錯する紫の時間帯は、いやが上にも記憶を掘り起こす。朝焼けの中、虚空へと溶けて自らを貫くために、ひいては自らの生き様を受け入れるために帰っていったセイバーの姿を。

「――――くそっ!」

 手近に会った木の幹を思いっきり殴りつける。硬い幹は俺の拳などではどうにも出来るわけが無く、ただ俺に痛みだけを与えた。じくじくと疼き始める痛覚によって俺はやっと目が醒めた。
 経過する時間により俺の記憶が薄れていったのではなく、俺自身が記憶を薄れさせていたのだと。
 記憶の磨耗ではなく、純粋な忘却。心を揺り動かす二人の記憶に怯えた俺は、虚弱な精神を消し去るのならばまだしも、あろう事か二人の記憶を忘却していたのだ。自らを騙し続けて俺はただ安息を求めていただけなのだと確信する。
 笑いながら日々を送り、平然と始まりの場所であるこの公園で佇み、家に帰り談笑する皆を見つめ、そして明日もまたその生活が続くのだと漠然と考える生活を俺は続ける事で、全ての俺の身を震わせる記憶を上書きしてきただけ。何と無様な男だろうか。
 受けた祝福を捻じ曲げ、刻んだ誓約を忘却し、ただ平穏に浸り続け、決断を為す事も無く日々を過ごす事に俺は固執していた。
 今の俺が二人に顔向けできるだろうか――――答えは否。
 怠惰かつ虚弱な精神に縛られたままでは、俺は二人を思うことすら許されない。一刻も早く、今度は確実に甘えを捨て去る必要がある。
 では、何をすればいいのか。何をもって衛宮士郎の精神を打ち直す事が出来るのだろうか。
 握った拳から流れ出る血が固まった頃、俺はようやく答えを出せた。






「――――そうか、『        』ればいいのか」