―――想いから紡がれた誓いは色褪せずに歪み
       純粋さ故、ただ残酷に自我の欠落を招く―――




「――同調、開始」
 ガチリッと撃鉄の落ちる感覚がする。瞬間、全身に存在する魔術回路が切り替わる。既に何度と無く行われた一連の手順は、聖杯戦争以前の俺とは比べ物にならない程に滑らか。土蔵の中に置いてあった竹刀は一瞬で『強化』され、鋼すら超える硬度を誇る武器となる。
「ふう、問題ないな」
 普段と変わらない魔術の出来を確認した後に、『強化』の魔術を終了させる。日々、繰り返される修練によって確実に俺の魔術の腕は上達している。
 だが、これだけでは足りはしない。今、自分が使える手札は全て完璧な状態で揃えておく必要がある。俺が切れるカードとは即ち、
「――投影、開始」
 基本骨子を想定し、構成材質を想定し、あらゆる工程を用いて衛宮士郎の内側の世界から剣を創り出す。この身は剣製にのみ特化した魔術回路。強化のように誰もが可能な一般的な魔術とは異なり、『投影』は衛宮士郎のアイデンティティであり、たった一つの切り札。これから俺が向かうであろう方向へと進む場合には必要となってくる魔術でもある。
 だからこそ決して修練を怠るわけにはいかない。この積み重ねが俺の目標に繋がり、俺の誓いにも繋がっていくのだから。切嗣、そしてセイバーとの『正義の味方になる』という約束へと。
「――くっ」
 痺れにも似た鋭い痛みが右手を襲う。
 流石に剣の投影は負荷が大きい。元来、覚えて間もない魔術であるせいかコントロールが難しく、下手をすれば暴走しそうにもなる。
 何も無い空間から剣を幻想する。その刃は俺の魔力によって形作られ、その柄もまた俺の魔力によって形成される。そんな零から始まり完成に至るまでの全工程を、ただ人の身である俺が成し遂げるのだから危険がある事など当然であり、百も承知。だが、これを使いこなせなければ話にならないのだ。
「がああっ!」
 鋭さを増す痛みに耐えるためにうめき声を上げる。だが集中は決して逸らしはしない。いや、逸らす事などは出来ない。集中の糸が途切れた時、俺は立ち上がれなくなるのだから。
 だから俺は痛覚を否定し、痛覚に怯える自らを否定する。そうすれば、この身はただの魔術回路。ただの魔術回路は魔術を失敗しない。そう言い聞かせる。
 現実には一瞬でありながら長い体感時間を経て、俺の手の中に無骨な形ながらも剣が生まれた。形はやや不完全ながらも成功に至った様ではあり、安堵する。
 剣は俺の気の緩みに呼応したのか溶ける様に虚空へと消えていった。
「はっ、――ふっ、ふう」
 荒ぶる心臓を押さえつけて、ゆっくりと息を吐く。
 魔術の使用に伴い熱を帯びていった体の鼓動は自然と速まり、それを落ち着かせるために深呼吸を数回。直ぐに体は平静を取り戻し、魔術回路もまた並行して閉じられていく。
 聖剣の鞘を失った俺の体は、以前のように力任せで自身の限界を弁えていない投影を続ければ間違いなく壊れてしまう。今、俺がこの場所で生きているのは切嗣が与えてくれた鞘と、セイバー自身の剣とが反応して生まれた常軌を逸した回復力があったからに他ならない。今は無い加護を思い出し、二人に改めて感謝する。
 ありがとう、そんな言葉を心の中で呟き終えると、剣の投影により疲労した体は睡眠を求め始めた。日々の日課となった一通りの修練を終えた俺は、ゆっくりと目を閉じる。
 俺は今日も普段と同じく土蔵の中で眠りについた。


  *   *   *   *


 ――私は夢を見ていた。
 燃え盛る炎の世界。右を見ても左を見ても次々と人が死んでいく。周囲を染め上げた流血は錆びた鉄に似た鼻につく匂いを充満させ、視界に映る倒れ付した人々のうめき声が聴覚を麻痺させていく。
 死と流血と怨恨の声が飽和した世界の夢。これが何なのか、そんな事は解っている。
 聖杯戦争で出会った私のサーヴァント、――アーチャーの記憶だ。嫌味な皮肉を好み、常に斜に構えていたが、根の部分はどうしようもなく良い奴だった赤い弓兵。彼の記憶。
 契約している英霊と霊的に繋がっているために、マスターはサーヴァントの生前の記憶を夢に見る。この死の世界の夢は私が聖杯戦争の間に垣間見たアーチャーの人であった頃の記憶の一つに過ぎない。目に映る全ての人を助けようとして孤独にも奮戦し、だけどその純粋さ故に誰からも理解されずに駆け続けるしかなかった哀れな英霊の記憶の一欠片。
 一度裏切られても人を救い、二度裏切られても人を救い、結局はその最期まで裏切られても人を救い続ける事をやめずに、誰も恨む事無く満足して死んでいった赤い騎士の、心の奥底に眠る始まりの光景こそが、今、私が見ている業火に包まれた死の世界。
 私はアーチャーの過去を見るのが嫌いだった。ただ一人で人々を救おうとして、結局は味方の裏切りによって体中を剣で貫かれて絶命したというのに、それでも人を恨まずにこの世を去った彼の生き方に激しい怒りを覚えていた。だからいつか、その大きくて広い背中を蹴飛ばしてでも、曲がった性根を叩き直してあげようと思っていた。
 だけど、アーチャーは消滅した。私を逃がすために。
 いつかアーチャーに自分の事を大事にしろと令呪を使ってでも言いつけてやろうと思っていたのに、それはもう永遠に出来なくなった。マスターとしてアーチャーと繋がっている独特の感覚があっさりと消失し、何一つ私は伝える事が出来ないうちに別離の時間はやって来てしまったのだ。あの時は目の前が急激に暗くなったのを今でも覚えている。
 だけどそれは間違いだった。アーチャーは私の傍にいたのだ。救いようの無いぐらいの御人好しで、目に映る虐げられる人間を全て救おうとする剣製にのみ特化した魔術使いの青年。どうしようもなく自らへの配慮の欠けた、自我の破綻した馬鹿が。
 四月になり、新しい生活が始まってあいつの姿を改めて見て気が付いた。僅か二ヶ月の間に背が伸びたなんて言っていたが、その姿は確かにアーチャーの面影を感じさせた。髪の色も肌の色も違うが、九分九厘間違いが無いだろう。アーチャーは未来の衛宮士郎だ。
 それならば不自然なアーチャーの召喚にも、アーチャーの正体が世界中のあらゆる文献を調べても解らない事にも納得がいく。アーチャーは私の失敗により全くの偶然で呼び出されたのではなく、私だからこそ召喚できた英霊なのだ。特定の英霊の召喚には何らかの、その英霊との繋がりがある触媒が必要となる。目標とする英霊が生前に身に着けていた物品でもあれば、その英霊を呼び出せる可能性は高まる。だけど、何も触媒を持っていなければ、ほぼ絶対的な確立で特定の英霊を呼び出すことは出来ない。その理論でいけば現在から考えて未来に誕生した英霊は、いかに英霊となる事で時間軸を超越した存在となっていても触媒となる物が存在しないために、現在では召還する事は不可能。けれども、私はアーチャーを召喚した。
 何故か、――答えは簡単。私、遠坂凛こそが彼を呼び出せる触媒であったからだ。
 その事実を理解した瞬間に私の中で新しい目標が生まれた。聖杯戦争という一つの区切りが終わった私の中に新たな目的が形作られた。
 意識の全てが外側に向き、狂的なまでに他者を救おうとする行動理念は呪いでしか無く、それは強迫観念に揺り動かされた囚人と大差無い事にあいつは気が付いていない。
 ならば、と、私は思うのだ。
 私は誰よりも優しくて、そして誰よりも歪なあの青年を――

「う……朝からハードな夢を見るのも考え物ね」
 と、そこで唐突に目が覚めた。夢の内容が内容だっただけに頭が重い。鏡を見なくても解る、今の私は酷く凶悪な顔をしている事だろう。生まれながらの低血圧である私は朝に弱い。それはもう、上っ面だけの知り合いが朝、起き抜けの私を見ても恐らくは認識できないだろうというぐらいに弱いのだ。自分で言っていて少し情けないけど。
 そんな私だから時間ギリギリまでは家で惰眠を貪って、学校で優雅に振舞えるように英気を養うのが常となっている。だけど、それも今日で終わらせる事を決めた。遠坂凛はあんな夢を見て黙っていられる性格ではないのだ。
 孤独の中で残酷な死を迎え、最後の最期まで裏切られ続けた哀れな英霊の誕生を決して私は認めない。ならば、やるべき事など決まっている。重たい体に気合を入れて、手早く支度をすませてしまう。
「――どんな方法を使っても、あんた自身も救われるべきだって事を絶対に教えてやるから」
 私は家を出て、あいつの家へと向かった。考えられる全ての手段を使って、士郎の人生を面白おかしくしてやるという決意を胸に。結局、お父様を心の底から笑わせる事は出来なかったが、次は必ず間に合わせる。


  *   *   *   *


「……さい! ………う!」
 未だ、ぼんやりとする頭が徐々に覚醒していく。誰かが耳元で怒鳴り散らしているようだ。
「――きなさい! 士郎!」
 藤ねえが俺よりも早くに起きれる可能性などは一片も無い。断じて無い。ならこれは桜だろうか? いや、それも有り得ないか。桜は、こう、大和撫子を思わせる優しい笑みを浮かべて『起きてください、先輩』といった感じで俺を起こすはずだ。
「起きなさい! 士郎!」
 あー、そういえばイリヤも俺を起こしに来るようになったな。だが、イリヤなら一緒に横で眠り始めるはずだから、それも違う。
 なら、この声の持ち主は誰だろうか? む、いま士郎って言ったか?
「起きろ! 衛宮士郎!」
 士郎と呼ぶという事は、まさか、――いや有り得ないな。何と言っても、あかいあくまは朝日に弱いので日が昇っている時間帯は体が重くて行動出来ないはず。本当に太陽の力は偉大だ。
「ふう――おはよう衛宮君。起きないと靴の踵で蹴り飛ばすわよ」
「む、おはよう遠坂」
 驚きながらも目を開けてみるが、予想通りの人物が土蔵の扉付近に立っていた。しかも極上の笑顔と冷たい怒気を添えて。
「ええ、おはよう。衛宮君は意外とねぼすけなのね」
 にっこりと笑う外見の綺麗さに比例して、遠坂から放たれるプレッシャーは増大していく。何で朝一にこんな危険な会話をしなければならないのだろうか。最近は遠坂を怒らせる様な事はしていないはずなのに。
「ああ、少し疲れてるみたいだ。それで、どうして遠坂がここにいるんだ?」
「それは簡単。私、今日から毎日ここで朝食を頂いていくから」
「……はあ?」
 自分でも間抜けだと理解できる声を漏らしてしまった。呼応して更に遠坂からのプレッシャーが鋭くなる。
「何、その気の抜けた声? そんなに私と一緒に朝ごはん食べたくないの?」
 咄嗟に俺はぶんぶんと首を左右に振る。それも出来るだけ速く。遠坂の扱いを間違えてしまった場合にどうなるかは十分に経験済みだから。無駄な引っかき傷なんてもうごめんだ。
「そんな事無い。それに、桜もイリヤも来てるし今更どうって事はないさ」
 最近は頻繁に夕食を一緒にする遠坂が、朝食も一緒にするようになっても然して変わりはない。昔の藤ねえと二人でとっていた頃の食事とはどちらにしろ違うわけだし。
「うん、良い返事ね。それじゃあ、行きましょ。もう作ってあるから」
 俺の返答に満足したのか遠坂は頷きながら、さらりと理解出来ない発言を投下してきた。問題が一つ解決したら、休む間もなく連続攻撃。
「――作ったって、遠坂がか?」
「当たり前じゃない。他に誰がいるのよ?」
 む、鬼の霍乱なんて言葉が自然と頭に浮かび上がってくるが、それくらいに今の状況は異常だ。遠坂が朝から家に来て、俺が起きる前に朝食の準備をしているなんて、朝に弱い遠坂には考えられない事態。
 逆に遠坂の体調を気遣ってしまうが、遠坂の表情を見ても別段に変化は見られない。普段通りに隙の無い、いかにも優等生した綺麗な笑顔を浮かべている。
 ――うん? どうして遠坂は学校にいるわけでもないのに、こんな風に笑っているんだ?
「遠坂」
 ふと違和感を覚えて、呼びかける。
「どうしたの、士郎?」
 すると、俺の呼びかけに遠坂は透明感のある綺麗な笑顔で振り返った。その表情を見て確信する。遠坂は何かを隠している。それも彼女にとって嫌な何かを。
 遠坂は仮面を被る。それが家名を守るためなのか、他者と距離を置くためかは知らないが、そつの無い対応で人との距離を置こうとする。その時には決まって、今、俺が見ている本当に綺麗な笑顔を浮かべる。実際の彼女は人をからかうのが好きな年相応の優しい少女であり、本心から笑う時には意地の悪そうな、だけど決して憎めない表情で笑う。
 だからこれは何かが違う。
「何があったのかは知らないが、無理はするなよ」
「――えっ?」
 固まる遠坂。確信は正しかったらしい。急に朝食を一緒にすると言い始めた事も、遠坂が隠している何かに関係しているに違いない。遠坂は天才肌であるためか人に悩みを打ち明けない。ただ一人で全てを解決してしまおうとする危うい側面を持っている。
 だから、悪い事が起きる前に忠告しておいて損はないだろう。
「俺はまだ頼りないけど、困っているなら相談に乗るからな」
 本心からの気持ちを告げる。遠坂は聖杯戦争を共に戦った仲間であり、彼女がいなければ俺は間違いなく死んでいた。そんな彼女の手助けは可能な限りやりたいと思っている。
 だが、俺の言葉を聞いた遠坂はあからさまに、はあっとため息をついてこちらを見つめた。
「……どうして、士郎はこんな事にだけは敏感なのよ」
 そして心底呆れた様な口調で言い放つ。表情から考えて、それは彼女の嘘偽り無い気持ちなんだろうが呆れられた理由がさっぱり解らない。なんでさ?
「あー、もういいわよ。ただ敵は強大だって解っただけでも良しとするから。私、今から用意しに行くからあんたも早く来なさいよ」
 こちらが困惑している事を読み取ったのか、投げやりな口調で遠坂は続ける。そのまま勝手知ったる他人の家とばかりに、ずんずんと一人で居間へと進んでいく。天上天下唯我独尊。余りに堂々としたその態度は俺が客人になってしまった様な錯覚まで覚える。
「――いや、本当に遠坂は猫被ってたんだな」
 改めてそんな当たり前な事を思いつつも、頬をつねってみる。痛い。夢じゃない。
 と、まあ、一通り混乱した俺は服を着替えたり色々と用意を済ませて、居間へと向かった。俺が到着して数分後にいつものメンバーも続々と到着する。余りにも自然に腰掛けていた遠坂に皆は大して違和感を抱く事無く食事が開始されていたのだが、数分後、
「あ、私、今日からここで毎日、朝ご飯を頂いていくわね」
 遠坂、にっこり笑って爆弾投下。朝の俺と同じく藤ねえ、桜、イリヤの三人は固まった。傍で見るには結構面白いかもしれない。なんて、思っていたら三人が三人とも堰を切ったように遠坂に詰め寄り始めた。騒ぐ藤ねえ。恨めしそうに見つめる桜。むーっと睨むイリヤ。
 ああ、これは長く激しい口論が始まるなと思っていたら、意外にも直ぐに決着はついた。
 まずは、小難しい理論で藤ねえが脱落。次いで、桜とイリヤに対しても遠坂は手を緩める事無く『あら、あなた達も血の繋がった家族というわけじゃないでしょう?』という、遥か高みから見下ろすような言葉を投げかけて沈黙させた。俺ならば一人であっても対処出来ない相手を三人、表情を変える事無く一瞬で切って捨てるとは――恐るべし、あかいあくま。 
 そんな訳で、衛宮家の朝食はこれから毎日、五人でという事になった。付け加えるならば当番制で今日の遠坂の料理は美味しかった。
 藤ねえが笑っている。桜が笑っている。遠坂が笑っている。イリヤが笑ってる。
 そして、そんな光景を見つめる事が出来る俺がいる。
 とても楽しい日常――だけど、俺は訳も無く得難いはずの幸せに対して違和感を感じていた。全身がちりちりと火で炙られるような、そんな違和感を。


  *   *   *   *


 普段通りに学校へと行き、授業を受け終わる。目立った変化の無い日常。日々に起伏などは存在せずに、ただ平坦でしかない。なんて、柄にも無い事を考えてしまうのは精神的に少し参っているからだろう。
 そう、あたしは自分でも解るほどに少し疲れている。理由は明白。昨日見た衛宮の射。いつか横に並び、そして追い越せるかもしれないと抱いていた淡い希望は、問答無用で打ち砕かれてしまったからだ。それも多分、再起不能と称して良いくらいに完膚無きまでに。
 不思議なもので目に見える目標というモノが存在していた間は弓道にも打ち込めたのだけど、その目標が決して自分では手の届かない場所にあると解った瞬間に、色々とそれまでは無かった煩わしさを感じるようになる。
 そして、その状態で更に思考の渦に沈み込む事でどんどん深みに嵌っていく。典型的なまでの悪循環だ。
「はあ……」
 本日何度目かのため息。ますます似合わない行動だ。こうして窓際の席で儚げに佇む姿は絵になるだろうか、なんて自意識過剰な考えが浮かぶあたり、あたしは本当にダメっぽい。
 部活へと向かわなければいけないのに足が動かない。主将としての責任はあるのだけど、弓道場に今は近寄りたくない。嫌な事、いや、どちらかと言えば悲しいに近い感情があの場所に行くと渦巻くから。
 面倒だから、今日は次期主将になる、というよりもあたしが次期主将にした桜に全部任せて部活は休ませて貰おうか。どうして、その案は中々魅力的だ。よし、そうしよう。桜も夏が終われば、一人で皆の面倒を見なければいけないのだから良い練習になる。
 そんな事を考えていたら、教室の中に一人の女生徒が入ってきた。涼しげでいて優雅な動作。我が校が他校に誇る高嶺の花であり、だけど実際は猫被っているだけで朝にだらしないその女生徒は、きょろきょろと辺りを見回し始める。あ、ドンピシャで目が合った。
「綾子、士郎知らない?」
「はあ?」
 素の口調で有り得ない事を聞いてきたような気がする。咄嗟に口から間抜けな声が漏れたけど、突拍子も無い事を言う遠坂が悪いね、これは。
 あたしが知る限りでは士郎と言ったら、現在、あたしの不調の原因である衛宮士郎しかいないはずなのだけれど、今までに遠坂と衛宮に何か接点があったという話を聞いたことが無い。そもそも、学園のアイドルとして程よく皆を騙しきっている遠坂も、用務員すら超える校内最高の備品管理者である衛宮も知名度に比例する事無く、本当に親しい友人は少ない。よく観察してみないと解らないが二人共、皆との間に何故か境界線を引いているからだ。理由は不明だけど、二人は他者と一線を画しているという点で似たもの同士と言っても良いかもしれない。
「士郎って、衛宮士郎?」
「そう、その士郎」
 遠坂の返答は手馴れている。つまりは最近ではなく、前から衛宮の事を士郎と呼んでいるという事だろう。そんな様子は全く見受けられなかったけど。意外や意外、想定外の事態に少し驚く。
 まあ、――二人が実際に仲が良かろうと、あたしには関係無い事だ。
「もう帰ったんじゃないの? 席に鞄は置いてないし、衛宮はこの時間ならバイトに行ってるだろうし」
 ちらりと、廊下側の衛宮の席を見てみたが鞄が無いから下校した事は推測できる。というよりも、この教室に残っている人間はあたしの様に部活がある人間だけ。帰宅部となった衛宮が教室でたむろする理由などは無い。
「へえ、そっか。バイトか。確かにあいつ、そんな事を言ってたわね」
 ポンッと手を打って納得した様子の遠坂。もし遠坂がこんな動作をする事を知ったら、学校の男連中はどう反応するだろうか。多分、気さくな遠坂という存在を目の当たりにした瞬間に、硬直するのが四割、記憶を忘却するのが四割、気にする事無く更に入れ込むのが二割くらいだろうか。
 まあ、それは置いておいて、衛宮のバイトの事まで知ってるとは二人の関係は結構親密な様だ。
「多分、十中八九バイトだろうね。――それにしても、やけに衛宮に詳しくなってるじゃないか、遠坂」
 好奇心が半分、からかいが半分の言葉をあたしは遠坂に投げかける。
 男女の関係がどうとかの話題はあたしは別に好きなわけではないのだけど、それでも遠坂と衛宮なんて話題性十分な二人の関係に対して、何も反応しないではいられなかった。
「あ、別にこの前に言っていた勝負とは別問題よ、これは」
「勝負? ……ああ、負けた方が勝った方の命令に服従ってのね」
 すっかり忘れていた話を持ち出してきた遠坂。先に良い男を手に入れた方が敗者に何でも命令できる約束が有った事など、もう頭の隅に追いやっていた。約束をして何日かの間は覚えていたけど、結局、同学年にはめぼしい男はいないという結論を出してから諦めたんだった。
 あれ? それじゃあどうして遠坂は衛宮に近づくんだろうか。普通に仲良くなっただけなんて事態は考えにくい。何といっても接点がまるで無い二人だから。
「ねえ、遠坂」
「どうしたの?」
「それじゃあ、どうして遠坂は衛宮に近づいてるのさ?」
 どうという訳でもなく、ただ何となく聞いてみたかったからの問いかけ。その質問を聞いた遠坂は唇に人差し指を添えて、うーん、と少しためらった表情を見せた。そして言葉に迷うようにしながらも、口を開いた。
「私ね――馬鹿が嫌いなの」
 悪戯っぽい、だけどとても寂しげな笑顔で遠坂は言った。同性の笑顔であるにも関わらず、知らぬ間にドクンッとあたしの鼓動が速まる。ただ、遠坂の笑顔は綺麗なだけではなくて、達観した様な一種の透徹した雰囲気も併せ持っているために寂しげ。同年齢であるはずのあたしよりも、ずっと高い位置にいるような、そんな表情。
 どこかでこんなモノを見た事があるような気がする。

――――ああ、衛宮の射と同じなんだ

 不意に思い浮かんできたのは、昨日の衛宮の最後の射。決して的を外す事が無いと傍観者にさえ思わせる射と、目の前の遠坂の寂しげな笑みが重なった。射と笑顔、全くの別物であるが、あたしの精神を震わせるという点では同義。衛宮と遠坂は、あたしにとっては一点に置いて同じ存在だという事を理解する。つまりは、衛宮と遠坂はあたしが持ち得ない何かを持っているという事。或いは持ってしまっているのか。
「ねえ、遠坂――」
「あ、私もう行くわね。帰ってやらないといけない事があったのを思い出したから」
 声をかけようとしたけれど、普段のあたしとは違う小さな声が遠坂に届かない。遠坂はじゃあね、と言って教室を出て行った。
 ただでさえ憂鬱だったというのに、遠坂は更なる混乱を引き起こすだけ引き起こして帰ってしまった。あいつ、やっぱり良い性格してるな、なんて思ったりもする。どちらにせよ、あたしの心が晴れ渡るわけではない。
 うじうじと教室で閉じこもっていてもしょうがないから、今日は新都を散策して気でも休めてみようかな。


  *   *   *   *


「じゃあね、エミやん」
「ネコさん、また明日」
 バイトも終わり、ネコさんに見送られながらも店を出る。最近は暖かくなってきたが、薄暗いこの時間帯では少し肌寒く感じる事もある。もう一枚ほど着込んでくれば寒くは無いのだろうが、それだと働いている最中に暑くなる。帰りの寒さを我慢するか、仕事の間の暑さを我慢するか、判断が難しいところでもある。
 などと考えながら歩いていると、バス停をいつの間にか通り過ぎてしまっていた。今日は別段変わったことがあったわけではないが、どうせだから、家まで歩いて帰ってみようかと思う。金の節約にもなるし、少しばかり考え事もあるし丁度良い。
 考え事というのは、最近はもやもやした気持ちが常に俺の心の中に付きまとっている事だ。前のように、いつの間にか考え事を始めてしまい行動が疎かになってしまうといった種類のものではなく、ただ何をするにしてもすっきりとしない。笑っている時にも、料理をしている時にも、学校で授業を受けている時にも、喉に何かが詰まっているような感覚を振り払う事ができないのだ。
「はあ、俺も次から次に問題が浮かび上がってくるな……」
 次第に陰鬱とした気持ちになる。こんな事で俺は切嗣との約束を守れるのだろうか。こんな事で俺はセイバーの想いに応えられるのだろうか。こんな事で俺は――
「あれ?」
 と、そこで覚えのある声が聞こえてきた。気風の良いその声の持ち主は、こんな場所に歩いているような人間ではないと思うのだが。しかし、声の発せられた場所へと視線を向けると確かにいたのは彼女だった。
「美綴、どうした? こんな場所で」
「それを言うなら衛宮もじゃないか。あんたこそどうしてこんな場所にいるの?」
「俺はバイトの帰りだ」
 余り見たことがない私服姿の美綴を観察しながらも答える。
「へえ、こんな時間までご苦労な事だね」
「美綴はこんな時間に何をしてるんだ?」
「さあ? 色々とあってぶらぶらしてたら、もう夜だったみたい」
「ばか。危ないから家に帰れ。送っていくから」
 いくら武芸百般に通じているらしい美綴でも、こんな時間に一人歩きは危ない。美綴だって女の子なんだから、暴漢に襲われてしまう可能性が無いわけでもない。送っていくと勝手に決めた。
「え? ちょっと、子供じゃないんだから大丈夫だって」
「うるさい。子供じゃないなら夜遊びするな」
「そんな、か弱いお姫様じゃないんだからさ、あたしは。遠坂みたいなのと違って」
 と、凄い事を言い放つ美綴。思わず反論してしまいそうになるのを堪える。よりにもよって遠坂がお姫様だとは。やはり、遠坂の擬態能力は一度、自分の目で確認してみないと解らないらしい。
 純粋な戦闘力では、美綴は遠坂の足元にも及ばないだろうに。
「何言ってるんだ。美綴の方が女の子だろう」
「はあ? 女の子?」
「む――何か変な事を言ったか? どちらにしても心配だから送っていくからな」
 何故か驚いた様な声を上げる美綴。俺は何も変な事は言っていないはずなのに、不思議だ。
「どうしても送っていくつもり?」
「当たり前だ」
「……衛宮は頑固だって、桜が言ってた意味がやっと解ったわよ」
 良く解らないが、説得は成功した様で安心する。聖杯戦争は終了したとはいえ、それでも町はまだ安全だという訳ではないからな。正義の味方志望の名が廃るところだった。
「衛宮が送り狼にならない事を、か弱いあたしは祈るしかないわけだね」
 いつの間にか背を向けて、家へと向かってだろう、歩き始めていた美綴が顔だけ振り返って言う。擬音をつけるならば、きししっ、と言った雰囲気を浮かべながら。
 と、そこで気付いた。暗い夜道で女の子の家までついていくと言い張っていた俺が、美綴にとって一番怪しい人間だったのかもしれない。知り合ってから結構な時間が経っているが、それでも無愛想な俺みたいな奴に頑なに送っていくと言われ続けたら怖いだろう。
 少し反省する必要があるな。だから俺は昔から、藤ねえに女心が解らないと言われるのだ。話しやすくても美綴もまた女の子。同年齢の異性に警戒心を持たない訳が無い。何故か、いきなり頭の中に浮かんできた一成が『喝ッ!』と言って消えていく。精進が足りないらしい。
「衛宮、何してるの? 護衛のあんたが動かないと、あたしは家に帰れないじゃないさ」
「む――悪かった」
 いつの間にか美綴は、少し前に止まってこちらに振り返っていた。送ると言った俺が迷惑をかけていたら洒落にならない。
 早歩きで美綴の横へと並ぶ。これで大丈夫だ。
「そういえば、何か悩み事でもあるのか?」
 普段はよく話す美綴は黙って前を見つめて道を歩いている。会話が続かない事に違和感を覚えた俺は、どうにかして沈黙を打破しようとして、ふと、疑問に思った事を聞いてみた。
「どうして、そんな事聞くの?」
「いや、美綴がこんな場所にいるのは珍しいからな。ただ聞いてみたかっただけだ。答えたくなかったら答えなくて、別に構わない」
「そうかそうか、衛宮はあたしの悩みが気になるってわけね」
「ばか。心配してみただけだ」
 意地の悪そうにニヤリと笑いながらこちらの表情を見つめてくる美綴。遠坂に何度もからかわれた甲斐もあってか、どうにか動揺を顔に出さずに反論する事に成功する。
 それにしても今日の美綴はやけに普段と違う。何か深刻な悩みでも持っているのではないかと思う。そんな事を考えていたら
「……衛宮はさ、自分の目標が絶対に届かないって解ったらどうする?」
 表情を一変させて美綴が聞いてきた。真剣なその瞳は俺の目を真直ぐに見ている。
「目標がどうしても自分では達成できないと解ったら、か?」
「そう、それ」
 先ほどまでの美綴らしくない何処か頼りない態度とは違う颯爽とした表情。問いかけが彼女にとって重要な話なのだろう事は会話の流れからも、雰囲気からも明白。ならば、美綴に対して俺もまた嘘偽りの無い返答をしなければいけない。
 俺の持つ目標は口に出すまでも無く『正義の味方』となる事に決まっている。あの炎に包まれた死の世界で俺を助け出してくれた切嗣。個人として生きる道を捨ててまで王となり、民を救ったセイバー。幼い俺が生きている事を確認して切嗣は心の底から嬉しそうに笑った。聖杯戦争を共に戦い抜いた俺の事を信じてセイバーは自らの時代へと帰っていった。二人を見つめ、二人に誓った俺が『正義の味方』という目標に届かなかったらどうするのか。
 そんな事は考える必要すらない。
「――目標が遠くて自分の手が届かなくても、それでも目指すしかないだろう。目標が何かは知らないけど、俺なら実現が不可能な目標だと解っていても絶対に諦めはしない」
 そう、諦めれるわけが無い。目標が自らにとって大切であれば、断念するという選択肢などは最初から無いのだ。そこに存在するのは、前進するか後退するかの二択のみ。シンプルであるからこそ重い選択肢。
「……衛宮らしい答えだね」
 美綴は笑いながら答えた。いや笑っているというよりも苦笑いに近い唇の緩め方だ。俺の考えが参考になったかは解らないが、答えを出す手助けになっていたら良いと思う。
 美綴はまた何か考え始めたのか、歩きながらも口を開かずに家へと向かって進む。困っているのならば、手助けが出来れば良いと思うが、彼女が何か助けを欲しない限り俺は何も出来ない。自らを決定できるのは自身のみ。今の俺に出来る事は沈黙を貫く事ぐらいか。
「じゃ、あたしの家はそこだから」
 それからは結局、美綴は一言も喋らないままに彼女の家へと到着し、軽く手を振りながら美綴は家の中へと入っていった。
「……深刻な悩みじゃないと良いんだけどな」
 人の悩みを知る事は出来ても、他者が完全に理解する事など不可能。人の悲しみを減らす事は出来ても、他者が完全に癒す事もまた不可能。それでも俺は止まるわけにはいかない。俺の心の奥底に焼きついた二人がいる以上、俺は決して振り返らない。
 約束は違える訳にはいかないのだから。


  *   *   *   *


「ただいま」
 割合、美綴の家は近所だったようで十数分も歩いてみれば家に到着した。歩いている最中に、昼間からずっと胸の中を漂っていたもやもやとした感情は消えており、現在は幾分楽になっている。
 玄関を開けて、居間へと向かう。今日はバイトが遅くなると皆には予め伝えていたから、既に夕食はとっているだろう。更にはバイト先から歩いて帰ってきたために普段よりもずっと遅い時間帯であり、皆は家に帰っているだろう。 そう思っていたのだが、居間の電気はついていて、暗に誰かが家にいる事を主張している。こんな時間に家に残っているなんて誰だろうか。時計の針は十時四十分を指し示しているというのに。
 可能性として一番高いのは藤ねえだろうか。俺にとっては最早、藤ねえは血が繋がっていないだけのれっきとした家族であるために、自然と藤ねえが家に泊まる事も少なくは無いし、俺自身も気にしてはいない。次に可能性が高いのはイリヤか。イリヤは枕持参で藤ねえ共々、衛宮家を頻繁に襲撃するので有り得ない話ではない。
「誰だ――って、誰もいないのか?」
 居間に入り、中を見てみても誰もいなかった。恐らくは、最後のやつが部屋の電気を消し忘れたままに家を出たのだろう。そういえば、玄関には靴も見えなかったので俺の早合点のようだ。
 そう思っていたのだけど、
「遅いわよ、士郎。家に返ってくるのに何時間かけてるの?」
 いきなり台所から声が聞こえてきた。続いて、声の持ち主である遠坂が左右二つに束ねた長い髪を揺らしながらひょっこりと顔を出し、そしてこちらへと近づいてくる。その姿を目にした瞬間、思考が停止したのを自覚する。
 どうしてというよりも、四人の中では一番、この家に残っている可能性が低いと思っていたんだが。
「……遠坂、こんな時間にどうした? 寝過ごしたのか?」
「何よ、その言葉。帰りがけに喧嘩売ってるの?」
 と、いつもながら驚きのためか口が滑って結構失礼な事を言ってしまった。遠坂の表情が不機嫌な時のソレに変わる。フォローをしなければならない。
「いや、悪かった。だけど、遠坂は帰ったんじゃないのか? 玄関に靴も無かったし」
「なら、どうして私が寝過ごしたという結論が出るのかしら、衛宮君?」
 とても綺麗な笑顔で遠坂。これならば学園のアイドルと呼ばれるのは当然だな、と怒られているのに関係の無い事を考えてしまう程のレベル。高嶺の花を地で行く微笑みは彼女がただの優等生ではないと解っていても強力だ。まあ、凶悪でもあるのだけど。
 すると、俺が他の事を考えている事を理解したのだろう。遠坂は再び表情を元に戻して軽く睨むようにこちらを見つめ、
「ちょっと、聞いてるの?」
「――む、悪かった。ちゃんと聞いてる」
 どうも遠坂と会話をしていて主導権を握れた例が無い。まあ、一成ですら圧倒される遠坂に対して、口下手の俺が渡り合う事などは夢のまた夢だと解っているのだけど。それでも夢を見る事は諦められない、て、そうじゃないだろう、俺。
「それなら尚更、どうして遠坂が家にいるんだ? もう遅いぞ?」
 そう、今は人の家に居座るにしては遅すぎる時間帯。こんな時間に何故、遠坂が家にいるのかを問い質す事が必要だ。 そして理由を聞いた後は、理由がどうであれ美綴に続いて遠坂もまた送っていこうと決める。本気になったならば遠坂の方が俺よりも強い可能性も高いというか確実だが、それでも絶対に送っていこう。
「あ、それよ、それ。士郎に頼みたい事があるのよ」
「……頼みたい事?」
「ええ。あ、それと話は変わるけど夕飯はラップかけて台所に置いてるから」
「む、今日は遠坂の当番だったな。で、頼みって何だ?」
 少し別の方向にずれかけた話の軌道を修正しながらも台所へと向かう。綺麗にラップされた夕飯は見た感じ中華風の炒め物。彩りも鮮やかなその料理は俺では完全に再現する事は不可能だろう。悔しいが衛宮家の食卓において、中華系統の料理は遠坂の独壇場となっている。後、一年もすれば桜が並ぶ可能性もあるが、俺はその域まで到達できそうにもない。
「で、本題だけど、士郎。明日デートしましょう」
「ああ、デートか。明日は土曜だから問題ない」
 ラップをかけられた小皿を取り、加熱により空気が膨張してラップが破裂する事が無いように小さな穴を開けておき、暖めるために電子レンジの中に入れる。一分ほど暖めれば大丈夫だろうと思いながら、ふと首をひねる。何か不思議な言葉を聞いたような気がするのだが。
「そう、それじゃあ朝の九時に明日、ここに来るから士郎も――」
「待て、遠坂。さっき何て言った?」
 でーと。デート。date。うん、かなりの聞き間違いだとは思う。
「何って、デートするから明日空けててねって話だけど?」
「ば、ばか! どうして俺達がデートなんてするんだっ!」
 ああ、もう駄目だ。絶対に顔が実った林檎の如く赤くなっていると賭けてもいい。最近は慣れてきたが、それでも遠坂は掛け値なしの美人だ。そんな遠坂からデートなんて言葉を聞いて焦らないわけが無い。確かに遠坂の普段の態度は猫被ってただけだと知った時には残念だったが、それでも素の遠坂も実際には良い奴で、学校で見た以上に憎めない奴だから始末が悪い。幻滅するどころか、逆に親しみが湧いているし、けど、俺の心の中にはセイバーが既にいるわけで――
「あははっ、やっぱり士郎で遊ぶのは面白いわね」
 と、混乱してフリーズ寸前だった俺に向かって左手で腹を押さえて無駄にニコニコと笑いかけながら遠坂。余った右手はパタパタと前後に振っており、井戸端会議する主婦を思わせる。
 それにしても何と言ったのだろうか、この女狐は。危うく一成に九割ほど天秤が傾きそうになる。
「おい、遠坂」
 軽く睨みつけながら、恥ずかしさ半分、怒り半分を篭めた視線で遠坂の両の瞳を見据える。
 俺の視線を受けた遠坂はやり過ぎたと悟ったのだろうか、微妙に慌てながらも手を横に振った。
「本当は騙すつもりとか無かったのよ? ただ士郎の反応の仕方が面白かったから、つい、ね?」
「つい、じゃない。男の純情を弄ぶ奴は地獄に落ちろ」
「――えっ?」
 不意に遠坂の動きが止まった。ころころと楽しそうに笑っていた表情が一瞬で凍りつく。ちょっとした仕返しのつもりだったのだが酷すぎる言葉だったのだろうか。俺としては辛辣な言葉を投げかけたつもりでは無かったのだが。
「……おい、遠坂、大丈夫か? 俺が何か気に障ることでも言ったのか?」
 一言、二言、言葉を投げかけてみるが、遠坂からの反応は無い。
「もしかして、気分でも悪くなったのか?」
「……あ、うん。じゃなくて違うわ。ちょっと惚けていたみたい」
 少しの時間が経過して、薄い笑顔を浮かべながら遠坂が口を開く。何故だろうか、笑っているのに酷く辛そうだ。特に遠坂を傷つける言葉を投げつけてはいないはずなのだが、それでも俺のことだから、きっと何かの拍子に彼女の心を抉ってしまったのだろう。つくづく衛宮士郎は人を細部まで思いやれないらしい。
「……えっと、私の言い方が悪かったみたいね。デートじゃなくて実際には荷物持ちを頼みたいの。ほら、私って一人暮らしだから買う時に一気に買っておきたいのよ。だから――」
「解った。明日、遠坂に付き合えばいいんだな?」
「え? ええ、そういう事」
 強く見せようとしているが、それでも普通の女の子と変わらない遠坂の心を傷つけてしまったお詫びに、言下に頷き肯定の意を示す。それにしても、最初から荷物持ちだと言ってくれれば俺だって直ぐに承諾したのにと思ってしまうのは、俺の配慮が足りないからだろうか。
「そうか。明日の九時で良いんだな?」
「ええ、私がここに来るから。けど、明日は本当に大丈夫?」
「バイトで鍛えているから、体力なら結構自信がある。遠坂には今まで借りを作っているし、丁度いい機会だろう。好きなだけ使ってくれ」
「――言ったわね。確かに聞いたわよ」
 そこで本来の調子を取り戻した遠坂が、玩具を見つけた子供の様に笑いながら言ってくる。どうにか表面上でも元に戻ったようで安心する。
「ああ、二言は無い」
「そう、ならこれで話は終わりね。それじゃあ私、帰るから」
 と言いながら遠坂は、そのまま縁側へと歩いていき、そこに綺麗にそろえてあった靴を履き始めた。道理で玄関に靴が無かったわけだ。遠坂は玄関から家に入らずに、縁側からそのまま進入してきたらしい。
「なんでこんな場所から入ってきたんだ?」
 ふと、聞いてみる。今さら知らない仲でもあるまいし、堂々と正面から家に入ってくればいいのに。何より、その方が遠坂らしい。
「ちょっとね。私にも理由が色々とあるのよ」
「? まあ、いいけど」
「そう、それで納得しておきなさい。じゃあ私は帰るからね」
 そのまま手を振った遠坂は家を出て行った。その姿は直ぐに小さくなり、夜闇の中に溶けて消えた。彼女は、俺を荷物持ちとするためだけに家で待っていたのだろうかという疑問が尽きないが、明日になればそれも解るだろう。会って聞けば良いわけだから。
 と、そこまで考えて気付いた。
「あ、遠坂を送っていくのを忘れてた」
 だが、既に手遅れ。今から走って追いかけていくべきかどうか、少しの間迷ったが、その案は却下する。何となくだが、今の彼女は一人にしておいたほうがいいと思ったからだ。
 だから縁側から居間へと戻り、遅い夕飯を食べ始める。既に一度レンジで温めたはずの夕飯は冷えかけており、漠然とながらも今日は朝から夜まで遠坂に振り回された一日だと思った。おかげで色々と考えずに済んだ事は僥倖なのだろうか。
 ただ確かなのは、遠坂の料理は普段にも増して美味しかったという事だ。