―――胸に穿たれた聖刻からも血は流れ続け
         転じ生まれた呪いは知らぬ間に毒となる―――




 聖杯戦争が終わって二ヶ月。季節は既に春となり、暖かな陽気が衛宮家の庭を包んでいる。
 セイバーと俺、根底に在るものは同じであっても目指す方向が異なったから二人は違う道を進んだ。彼女と一緒にいたかった気持ちが無いと言えば嘘になり、彼女と離れても何の支障も無いと言っても嘘になる。それでもお互いの選んだ選択肢に間違いは無いだろうし、やはり未練なんて無い。矛盾しているようではあるが、二人の中ではきっちりとスジが通っている。
 そんな別れから、今に至るまで色々とあった。
 慎二という俺の古い知り合いはこの世から失われ、一時期、桜は不安定になっていたが、親身になって相談に乗っていた遠坂の助けや、僅かながら俺の手助けもあってか持ち直し、出会った頃と同じ柔らかい笑顔で笑うようになった。いや、もしかしたらあの頃よりも良い笑顔かもしれないなんて思ったりもするのだが、それは傲慢だろうか。
 また、戦いが終わったはずのイリヤは帰郷する事を拒み、頑として衛宮家に住む事を主張した。イリヤの提案に押しの弱い俺は呑まれかけ同居決定寸前までいったのだが、嵐の如く現れて、がおー! と猛々しく吼えながら暴れまわる藤ねえの前に意外にもイリヤが屈し、妥協案として出された藤村組での生活に現在は馴染んでいる。
 なんでもその時の恨みで藤ねえは色々と突っつかれたり、言い負かされたりでいじめられているとか、いないとか。その他では毎日、飯時には衛宮家を襲撃したりするあたり仲は凄く良いっぽいが。 
「――ふう」
 ドクドクと速まる胸の鼓動を感じながら道場の床に仰向けになり、ぼーっと昔の事を思い出していたのだが、知らぬ間にため息が漏れた。切嗣が死に、それから何年間も――藤ねえに関わらせる事さえ無く――たった一人で続けてきた単調な基礎体力をつけるための訓練が今は酷く味気ない。身体的に苦痛である訳ではない。ただ、足りないだけ。
 理由なんか考える必要も無い。昔の俺はこの広い道場に一人でいる事が当たり前だったのに、いつの間にか、この道場には二人でいる事が自然になっていたからだ。
 聖杯戦争を共に戦い抜いた彼女、セイバーと二人で。
「ふっ、よっと」
 いつまでも天井を眺めているわけにもいかず、腹筋に力を入れ、体のバネを使って起き上がる。
 聖杯戦争は一ヶ月にも満たない短い期間だったが、命の危険を伴った戦いは俺を叩き上げ、昔と比べれば格段に素早く、思い通りに体を動かせるようにしていた。流石にサーヴァントと渡り合うなんて無茶はできないだろうが、ちょっとした軽業程度なら何の問題も無い。意識はどうしようもないほどに鈍っているのに、体は嘘みたいに切れがあった。
「……藤ねえ達が来る前に用意をすませとかないとな」
 そして台所のほうを眺めながら呟く。今日もまたいつもと同じ朝が始まるのだから。
 四月になり高校生として最後の生活が始まったのだが、今までの生活との目立った違いは存在しない。敢えて挙げるとすれば藤ねえが免許を手に入れた事により、朝になったら衛宮家の平穏が勝手に壊されてしまう事だろうか。凶悪極まりない馬力の車を使い、ぶろろぎゃいーん! と凄まじい騒音を撒き散らす野生の虎、通称ロケットタイガーは本当に教職者であるのか疑問が尽きない。まあ、どちらにせよ、衛宮家の近所付き合いが更に悪化したのは確実だろうが。
「考えてたら頭が痛くなりそうだ。せめて家の中で騒がれないようにメシの準備だけは手を抜けないな」
 現在、衛宮家で朝食を共にする人間は桜、藤ねえ、イリヤ、俺の四人。これに時々、思いついたかのようにふらふらっと遠坂が加わる事も在る。朝に弱い遠坂が朝食に顔を出す事は殆ど無いが。
 セイバーがいた頃と比べれば一人、二人多い計算になるが、食いしん坊の騎士王と桜、イリヤの二人が食べる量は変わらないために炊き込む米の量は変わらない。ふと、寝ぼけた頭で昔と同じ調子で朝食の仕込みをしてしまっても、ばれないあたりは感謝しておく必要があるかもしれないな。こくこくと美味しそうに食事していたセイバーに。
 そう、彼女は本当に美味しそうに料理を
「――って、何を思い出してるんだ俺は。……一成風に言えば喝! か」
 思考を打ち切り、ぶんぶんと左右に首を振りながら呟く。納得しているし、未練も無いが、それでも彼女との思い出は破壊力がありすぎる。下手をすれば引き込まれかねない。我が心ながら実に移ろいやすい。
「先輩、今日はここにいたんですか?」
 それとも俺は未練は無いと虚勢を張っているだけにすぎないのだろうか。セイバーの決意を後押しするために、自分の心をオブラートに包み込み、そのまま見えないようにしてきただけなのだろうか。
 彼女の邪魔をするな、何処からそんな声が聞こえてきたような気がする。
「先輩?」
 だが、そうだとしても問題は無いはずだ。今の俺が虚勢であろうと、あの時の俺とセイバーの決断は真実だったはずだ。――少なくとも二人にとっては。
「先輩っ!」
「――む、桜か。どうした?」
 手を伸ばせば届く距離に桜が立っていた。いつもの柔らかい表情ではなく拗ねているような表情で俺を見据えている。いくら敵意が無く心を許している後輩とはいえ、その接近に気付かない程に呆けていたとは情けない。精進が足りんな、これも一成風に言えば。
「どうしたじゃないですよ、先輩。いつも通り土蔵にいると思ったらいなかったんで、私これでも探したんですよ」
「そうか、悪かったな。少し考え事があってここに来てたんだ」
 眉根を寄せての桜の言葉を聞いて申し訳ない気持ちになる。また迷惑をかけてしまったようだ。そもそも最近の俺は明らかにおかしい。皿を割ったり、作った弁当を持っていかなかったりと簡単なミスを繰り返している。根本で歯車が噛み合っていないのだ。欠けた歯車の名前なんてとっくに解ってはいるのだが――
 と、また脳裏に彼女の影がちらつく。正義の味方を目指している男が軟弱な事だ。
「まったく、俺はいつまでもダメだな……」
「先輩、気分が悪いんですか?」
 不安そうな様子で顔を覗き込んでくる桜。またやってしまったようだが、心配をかけないためにも気持ちを切り替えなければいけない。
 魔術の訓練と同じ要領で心を鎮めていく。深く呼吸をすることで空気が自身に染み入るイメージ。何度か繰り返すことで鼓動も収まり平静を保てるようになる。
 ――よし、大丈夫だ。
「いや、何でもない。それよりも用意をするから手伝ってくれるか?  今日から学校だから遅れるわけにはいかない」
「え? あ、はい」
 どうにか今日も始められそうだ。


  *   *   *   *


「おはよう、遠坂」
 学校までの道のり。少し前を歩く遠坂の姿を見つける。二月までは朝から彼女と出くわす事など無かったのだが、最近はやけに良く出会う。昔も登校する時間帯は実は同じだったのに俺が気付いていなかっただけなのかもと悩んだりもする。
 いや、それは有り得ないか。昔の俺はあの猫かぶりに騙されて不覚にもドギマギさせられていたからな。視界にあいつの姿を捉えていて見逃したはずが無い。ただでさえ、遠坂は行動の一つ一つが目立つのだから。
「あら、おはよう士郎。――え?」
 にっこりと、本性はかなり意地が悪いと解っていても綺麗だと思ってしまう笑顔で挨拶を返してきた遠坂だったが、何かに驚いたかのように動きを止めた。人通りの多い場所で、こんな状態になってしまう遠坂は珍しい。
「どうしたんだ?」
「今まで気が付かなかったけど、士郎、背が伸びたわね」
 僅かな時間、呆然とした表情をしていた遠坂だったが見当違いな事を聞いてきた。確かに成長期がまた始まったのか、四、五センチは背が高くなったような気がするが。
「背? ああ、確かに休みの間に少し伸びたみたいだ」
 そんなことを考えながら答えると、遠坂は黙り込むようにして顔を俯かせた。そして、吐き出すように言葉を呟いた。
「そうなんだ……」
 そして、そのまま考え事でもあるのか何も言葉を発しない。普段ならば機関銃のように早口で色々と取りとめの無い話を振ってくるのに。無論、校門が見える場所に着く頃には優等生の仮面を被って『衛宮君、それじゃあ御機嫌よう』なんて化けるのも忘れないが。
 とにかく、俺からは敢えて話を振るような事柄があったわけではなく、元より話をするだけの弁舌も無く、目立った会話が無いままに学校へと到着した。
「じゃあな」
 結論としてだが、三年になり遠坂と俺が同じクラスになる事はなかった。新しいクラスにいる知り合いは美綴くらいで、後はそれほど親しい友人はいない。滅多に遊びに出たりする事の無い、いわゆる『堅い』性格の俺は普通の同級生とは馴染まないのだ。気が合うとしたら大抵変わった相手ばかりで、寺の跡取りの一成とか、男子を相手にしていないような慎司とかばかりだった。
 更には部活を辞めてバイトを始めてしまった俺には余り同級生との接点が無い。別にその事に不満があるわけではない。『正義の味方』という目標は定まっていたし、俺を理解してくれる人を既に持っていたから。不本意ながら我が姉貴分である藤ねえとか。
 それと面白い事に、作為的なものなのか、学校側が確執を知らなかったのか、遠坂と一成の二人が同じクラスになってしまったのが事件と言えば事件か。哀れにもそのクラスだけは毎日、他の教室よりも二、三度室温が低い中で授業を受けているとか言う噂はあながちデマではないだろう。今のところは愚直なまでに誠実な一成を、その狡猾さで遠坂が圧倒しているらしいが。
「士郎、少し待って」
 む、まさか思考が漏れたのだろうか――そんな考えが浮かんだが、即座に切り捨てる。
 『士郎』と遠坂が俺を呼ぶのは、外で優等生の仮面を脱ぎ捨てている時か、或いは本当に真面目な話をしたい場合だけ。遠坂の、彼女の名前の通りに凛とした瞳から後者である事はうかがい知れた。
「どうした?」
「あなた、自分の足元は見えている?」
 すると遠坂は、そんなことを呟いた。脈絡もない言葉に、一瞬思考が止まる。
 何を言っているんだ? 足元なんていつだって見えているに決まっている。そんな事を考えていると、遠坂は小さく首を横に振った。
「言い方が悪かったわね。――あなたは自分を守れるの?」
 そしてもう一度尋ねてくる。だけど、今度の言葉も要領をつかめない。
 何を言いたいのかさっぱり解らない。遠坂は決して回りくどい事を言う性格ではない。だから額面通りの意味なのだろうが見当がつかない。
 自分の身を守る。そんな事は当然だし、そうしなければ俺は俺のなりたい存在に近づけない。王として生まれ、王として生きたセイバーを美しいと思った。そして愛した。だからこそ、俺は彼女と同じ方向へと歩み、ならなければいけないものがある。
 すると、逡巡している俺が口を開くよりも早くに、遠坂が口を開いた。
「……ごめん。やっぱり今の言葉は忘れて」
 口調には後悔したような響きが見え隠れしている。どうしたものか? 体調でも悪いのだろうか?
「おい、気分が悪いんなら休んだほうがいいんじゃないのか?」
「ありがと、だけど大丈夫よ。ちょっと思い出しただけだから。それじゃあね。――あ、それと、今日は夕飯を一緒にさせてもらってもいい?」
「? うちは別に構わないぞ」
「そう。それじゃあ、今晩は寄らせてもらうわ」
 そこで今度こそ背を向けて、遠坂は自分の教室へと歩き始めた。どこか悲しそうな表情をしていたのが引っかかる。だが、今は何も聞かない方がいいだろうとも思った。『思い出していた』という事は、きっとあの赤い騎士に関係した事なのだろうから。


  *   *   *   *


「あー、今日のホームルームはこれで終了だ」
 全ての授業が終了し、お決まりの言葉で新しい初老の担任がショートホームルームの終わりを告げた。新しいという事は、つまりは俺の担任は藤ねえでは無いという事だ。どうにも藤ねえは八方手を尽くして俺の担任になろうとしたらしいが、職員会議という力の前に敗北したらしい。
 まあ、あれだけ学校でも俺の姉貴分である事を公称してきたのだから、他の生徒との公平性を考えればその判断は間違ってはいないだろう。藤村組というバックの存在を恐れないあたりから考えて、この学校のお偉いさんは結構な人格者なのかもしれない。藤ねえ自体が理不尽な力で押し通す人間ではないというのも大きいだろうが。
「今日はバイトも無いし、久しぶりに手の込んだ夕飯でも作るか……」
 二年間、使い込んできたためにぼろぼろな手提げ式の学生鞄を手に取り教室を出て、家へと向かう。
 偶には手間隙かけた料理でも作ってみるのも良いかもしれない。そうと決まれば、まずは献立を何にするかが問題だ。藤ねえは肉ばっかり食べているから最近は栄養が偏っているような気がするし、イリヤもイリヤで好き嫌いが激しい。子供達にも好まれる春先の旬の食べ物――む、やはり鯛だな。この時期の鯛は産卵期を控えているから栄養があって美味しい。肉食の藤ねえにはもちろん、イリヤも食べた事は無いだろうし丁度良い。あとは春キャベツを使って副食でも添えればバランスは完璧だな。
「よし、まずは商店街に寄って帰るか」
「あ、衛宮じゃないか。そろそろ、弓道部に戻ってくる気になったかい?」
 と、横から快活な声が聞こえてきた。この何処か気風の良さそうな声の持ち主は間違いなく、学校で逆らってはならない人間ベストスリーに位置している人物に間違いない。
「――美綴か、どうした?」
「どうしたって、弓道場の近くを部の元エースが歩いてたから復帰でもするのかと思ってね」
 気が付けば正門から弓道場へと向かう道を歩いていたようだ。どうにも最近は物思いに沈む事が多いようで問題だと思う。
 それにしてもまだ言っているのか、こいつは。藤ねえから聞いた限りでも美綴の射の上手さは飛びぬけているらしいのに、未だに俺のことをライバル視しているなんて変わっている。多分、過去の記憶が美化されすぎているのだろうが、負けず嫌いな事だ。
「まさか、俺は部に戻る気は無いさ」
「はあ……いつもながら無愛想な返事だね。それなら部に再入部しろとは言わないから、一度射っていかない?」
 どうよ? と首を傾げながら弓を引くジャスチャーを美綴はしてみせる。が、その誘いには乗れない。
「これから部活が始まるだろう。そんな時間に部外者が弓を扱うわけにはいかないさ」
「まだ、練習が始まるまでに時間が余ってるよ。それに、飾りながらも部長の誘いだから大丈夫」
「……あのな、期待したって見ても得られるモノなんてないぞ」
「なら、それを見せてよ。勝てそうだと思ったら、もう誘わないから」
「む――」
 首を横に振っても誘いを止めない美綴の言葉に、少し返答を失う。
 どう控えめに考えても、美綴の頭の中では過去が改竄されているだろう。なら、現実の俺を見せておいたほうが良いかもしれない。特に固執してまで相手にする程の技術で無ければ、美綴にも区切りがつくだろうから。
 最終的に、そんなことを考えて俺は首を縦に振った。
「夕飯の下拵えがあるから、直ぐに帰るからな」 


  *   *   *   *


「弓はどうする?」
「あたしの貸すからさ、ホラ」
 近寄ってきて、最近主流になりつつあるカーボン製の弓ではない、反りの綺麗な木製の弓を手渡す美綴。持ってみれば直ぐに解る、細部まで手入れの行き届いた良い弓だ。
「うん、相変わらず道具の扱いも丁寧だな」
 射の上手い人間の全てがそうであるとは言わないが、それでも弓を大切に扱う人間は他よりも自然と上達するスピードが早くなる。その点から考えれば、美綴は俺が部の籍を外してからも実力は伸びているのだろう。
「何? 褒めたって終わるまでは帰さないよ」
「ただ、そう思っただけだ。さて、――それじゃあ、やるぞ」
 悪戯っぽい、だが嫌味さの欠片も無い笑い方での美綴の言葉に言い返す。人を好んでからかうのに、なぜか後腐れが無くさっぱりとしているのが美綴の長所なのだろうとも思う。からかわれる側はたまらない所とか、遠坂と似たタイプの人間だ。
 と、そこで無駄な考えを止めて手の中にある弓に意識を集中させる。
 弓道には八節という考えが存在する。昔からある射法の形式である『七道』に、近世になってから加えられた『残心』を合わせて八節と呼ぶ。
 具体的には、足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心の八動作からなる。足踏みによって姿勢を正し、胴造りによって体の重心を腰に定める。弓構えによって弓を構え、打起しによって弓矢を持った左右の両拳を上方にあげる。引分けによって打起した弓を左右に等間隔に分けて、会によって引分けを完成させる。離れによって射が行われ、残心をもって完成に至る。
 細かい動作が続いているようだが、慣れてしまえば呼吸をするのと変わらない。そもそも、切嗣が死んでから続けてきた魔術の修練と比較してみれば、命の危険が無い己との戦いでしかなく、さして難しいものではなく
「……あれ?」
「珍しい、衛宮が的の中心を少しでも外すなんてね」
 普段通りに、離れた矢は的に命中はした。だが、僅かながら的の中心から下に突き刺さっている。弓を覚えてから今までに無かった経験だ。
 後ろにいた美綴も姿は見えないが、驚いた口調になっている。
「これは本格的に腕が錆びてたんじゃないの?」
「そうかもしれないな」
 弓を取らないでいても、技術はそこまで下降しないだろうと考えていたのだが甘かったようだ。ここまで鈍っているなんて予想外だ。
 少し悔しい。再挑戦する必要があるな。
「悪い、もう一回頼む」
「? 別にいいよ。ホラ」
 もう一度、美綴から矢を受け取る。今度は真面目に雑念を払って集中する。
 衛宮士郎の戦いは己との戦いでしかない。克てば勝利し、克てなければ敗退する。ただそれだけ。他者は関係せず、全ては自らの内面が決定する。
 心の中に浮き沈みする様々な雑念を払い去って、ただ己の作業にのみ神経を集中させれば良い。
 そう、頭の片隅に浮かび続ける彼女の記憶を一時的に流し去ることさえできれば
「――くっ」
 また僅かに外れた。頭にノイズが走る。更に的の中心とのズレが大きくなっている。これは俺の心の動揺が生んだ結果に過ぎない。射を終えて解った。弓を持つまで気が付かなかったが、この心の動揺こそが最近の俺の不調の原因でもある事は間違いないだろう。
「お、また外れたね。やっぱり部に復帰して鍛えなおした方が良いんじゃないの?」
 そして、不調の名前はセイバー。彼女だ。
 やはり、振り切れていなかったのは決定的。だが、それが解ったのならば今から対処すれば良い。正義の味方になると誓った俺が立ち止まる事は出来ない。
「どうした、衛宮? 気分でも悪い?」
「――最後に、もう一度頼む」
「え……」
 途端、それまで話しかけてきていた美綴が何故か息を呑んだ。何があったのか知らないが俺の声は聞こえなかった様でもある。だからもう一度言い直さなければいけない、
「もう一度やらせてくれ」
「あ……うん。ホラ」
 二度目と同じく雑念を払う。内面との戦いを開始する。ただ己に打ち克つ事だけを考える。
 だが、これでは駄目だ。どう試行錯誤してみてもセイバーの姿が消える事は無い。どうやら本格的に、病的なまでに俺は彼女に参っているようだ。彼女は自らの責務を、その人生をかけて果たしたというのに、それを理解しながらも前へと進まない自らの弱さに嫌気が差す。
 だが、それでも嫌悪すべき俺の精神は彼女の思い出を一時的にでも離そうとはしない。
 ならばどうすれば良いか。考える。衛宮士郎は全力を用いて答えを得なければならない。軟弱な俺が正義の味方に相応しい精神を得るためには何をしなければならないのか。雑念を振り払うだけでは足りない。なら、その雑念すら捨て去ってしまえば良いのだろうか。
 いやそれでもまだ足りない。それならば、

――――虚弱な精神自体を殺してしまえばいい


  *   *   *   *


 ただ、昔に見た神業の様な射をもう一度見たいと思って、弓道場へと衛宮を連れ込んだ。あたしはどれだけ腕が上がったのか確認したかったという気持ちもあった。
 一度目は、拍子抜けするくらいに普通の結果に終わった。的を僅かに逃した衛宮の射には、過去の相手を静かに圧倒するような迫力は存在せずに、自分の記憶間違いなのかと首をひねった。そして、もう一度という衛宮の言葉に従って矢を渡してみたが更に結果は酷くなった。正直、どちらも今のあたしならば五分五分の勝負が出来るレベルでしかなくて、期待はずれ。そう考えていたのに。
「――最後に、もう一度頼む」
 この一言が、全てを変えた。
 背筋に刃物を押し当てられているような冷たい感覚が道場全体に広がり、知らぬ間に息を呑んでしまう。怖い。どうしようもなく目の前にいる男が怖くなった。あたしの心は一瞬で恐怖に囚われたのだ。目の前にいる、学校一番の便利屋として人の良さだけで有名な青年に。
 無我の境地、そんな言葉が頭の中に浮かんできたが即座に打ち消す。無我なんて生易しいモノではなくて、あれはもっと別のモノだ。そう、敢えて名づけるなら殺我の境地。思考を殺し、雑念を殺し、そして最後に自らを殺している。あんなモノが無我であるはずがない。自己を壊すなど正常な人では有り得ない。
 結果なんて見る必要も無かった。傍から見ていたあたしでも矢が放たれる前に理解したから。『ああ、この矢は絶対に的を外さない』と。
 心臓を握りつぶされる様な恐怖の時間は衛宮の残心が終了すると同時に終わった。時間にしては僅か一瞬。だけど心を圧した重圧は極大。傍観者であるあたしがそうだったのなら、衛宮の精神にはどれだけの負荷がかかっていたのか想像出来ない。いや、想像したくも無い。
 そして何より、今は衛宮の事を考えたくも無い。
「どうにか終わったな。それじゃあ、俺は帰るぞ美綴」
「……あ、うん。また」
 普段通りの、無愛想な表情のままで衛宮が弓道場を後にしていく。あたしは子供のように頷く事しかできなかった。
 声を聞いた瞬間に、もう衛宮の射の影を追う事は不可能だと本能でも、理性でも両方であたしは理解した。悔しかったが、――それ以上に怖かったから。
 何をすればあんな風になってしまうのかが解らない。解らないし、ひどく遠い。
 怖くて、遠くて、悲しい。こんな滅茶苦茶な感情は何と言えばいいのだろうか。


  *   *   *   *


「――む」
 今日はとても有意義だったと思う。弓を手に取る事で自分が抱える問題点を改善する事ができたから。雑念を抱える精神自体を捨て去ってしまえば、残るのは自然と目標だけになる。とても簡単な事だが、俺が正義の味方となるためには必要な事だったと思う。
 きっかけを与えてくれた美綴には貸し一つを勝手にカウントしておく。うん、これならセイバーにもいつか胸を張れそうだ。
「よし、良い味付けだ」
 八百屋で買った新鮮な春キャベツを使った、ロールキャベツの出汁を味見してみて頷く。少し薄い気もするが十分テーブルに出せる味だ。後は、金目鯛の煮付けを添えれば今日の夕飯が完成する。遠坂が来るとか言っていたが、これならあいつの味にも対抗できているはずだ。下手に見られる事もないだろう。
「さあ、テーブルでも拭くか」
 目に映る皆が今日も笑い合いながら食事を取れれば、俺は幸せだ。そうだよな、切嗣、セイバー。